さらざんまいポスト さらざんまいマンホール

○さらざんまいポスト 台東区西浅草3-3-8

 かっぱ橋本通りの公西会商店街に、緑色の「さらざんまいポスト」があります。令和3(2021)年3月10日に設置。

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○さらざんまいマンホール蓋 台東区松が谷2-25-8

 「かっぱ橋本通り」と「かっぱ橋道具街通り」が交差する合羽橋交差点に、「さらざんまいマンホール蓋」があります。令和3(2021)年4月13日に設置。

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新寺町 旧浅草北清水町 源空寺

○源空寺 台東区東上野6-19-2

 銅鐘(台東区有形文化財)は、3代将軍徳川家光の要請をうけ徳川家康・秀忠の菩提を弔うために鋳造されたもので、作者は椎名勝十郎義定という人物です。

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なにかの塚碑。関東大震災で破損、再建と記載あり。表面は割れています。

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○源空寺墓地/史蹟墓地 台東区東上野6-18-12

 左の門柱には「源空寺墓地」とあり、右の門柱には「史蹟墓地」と記されています。
 伊能忠敬と高橋至時の墓の前には、台東区教育委員会の説明板が建てられています。

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<伊能忠敬墓>(国史跡)

 「東河伊能先生之墓」と、東河という号が刻まれています。

(説明板)
「伊能忠敬墓(国指定史跡)
    台東区東上野六丁目十八番 源空寺墓地内
 墓石は角石で、正面に「東河伊能先生之墓」と隷書で刻む。伊能忠敬は延享二年(一七四五)神保貞恒の子として上総国に生まれる。名を三治郎という。のち下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。漢詩・狂句も良くし、子斉と字し、東河と号した。
 五十歳の時、家督を譲り江戸に出て高橋至時の門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。寛政十二年(一八○○)幕府に願い出て、蝦夷地(現、北海道)東南海岸の測量に着手。以来十八年間、全国各地を測量して歩いた。しかし地図未完の内に文政元年(一八一八)四月十八日没す。享年七十四歳。
 地図作製は、幕府天文方が引き継ぎ、没後三年の文政四年に完成。その地図は『大日本沿海輿地全図』という。また『日本輿地全図』『実測輿地全図』ともいい、俗に『伊能図』と呼ぶ。わが国最初の実測精密地図である。
  平成七年三月  台東区教育委員会」

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<高橋至時墓>(国史跡)

 高橋至時は、弟子の伊能忠敬より19歳若かった師匠ですが、忠敬より14年も先に41歳で亡くなっています。
 「東岡高橋君墓」と、東岡という号が刻まれています。

(説明板)
「高橋至時墓(国指定史跡)
    台東区東上野六丁目十八番 源空寺墓地内
 角石の墓碑正面に「東岡高橋君之墓」と隷書で刻み、三面には、尾藤二州の撰文を刻む。東岡は至時の号である。
 至時は江戸時代中期の暦学者。明和元年(一七六四)十一月、大坂御蔵番同心、高橋元亮の子として生まる。名を至時、字を子春、通称を作左衛門といい、東岡または梅軒と号した。十五歳で父の職を継ぐ。性来、数学・暦学を好み、公務のかたわら、それらの研究に励む。ついで、当時の天文学界の第一人者、麻田剛立の門に入って学ぶ。
 寛政七年(一七九五)改暦の議が幕府で起きると、師剛立の推挙で、同門の間重富とともに天文方に抜擢され、同九年「寛政暦」をつくる。一方、伊能忠敬が幕命により、実測地図を作成する際には、測量を指導し、完成させた。その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれている。文化元年(一八○四)一月五日四十一歳で肺患のため没した。著書に『赤道日食法』等がある。
  平成七年三月  台東区教育委員会」

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<谷文晁墓>(東京都旧跡)

 「本立院殿法眼生誉一如文晁居士」と刻まれています。
 松平定信のお抱え絵師でもあり、松平定信の墓は、霊厳寺にあります。

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<幡随院長兵衛墓>(東京都旧跡)

 幡随院長兵衛夫妻之墓(左ー長兵衛、右ー妻きん)

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<高橋景保墓/頌徳碑>

 玉岡高橋景保墓。玉岡という号が刻んであります。
 高橋至時の長男。シーボルト事件で獄死。
 「為天下先」と刻まれた高橋景保の頌徳碑。

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○下町まちしるべ 旧 浅草北清水町

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草北清島町
 本町は浅草清島町が新寺通り(現浅草通り)を境にして南北二つに分けられ誕生した。明治五年(一八七二)のことである。もとになった浅草清島町は同二年実施の市制改革に伴ってできた町で町名の由来はよくわからならい。
 この付近は明暦の大火後、幕府の政策により寺院が移り街を形成したことから新寺町と言われていた。震災・戦災にもかかわらず今なお寺院が多く、静かなたたずまいを見せている。
 ―本町の見どころ―
 坂東報恩寺の俎開きは一月一二日に行われる包丁始め。古式にのっとり鯉に手を触れることなく包丁で料理をする四条流家元の見事な手さばきは見ものである。源空寺には谷文晁、伊能忠敬、番随院長兵衛、高橋東岡など歴史上の人物が眠る。  台東区」

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tag : 伊能忠敬国史跡旧跡下町まちしるべシーボルト

旧松葉町 矢先稲荷 聖徳寺 本覚寺 海禅寺

新寺町(旧松葉町)の寺社

○矢先稲荷神社 台東区松が谷2-14-1

 浅草三十三間堂跡です。

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<説明掲示>
「当たり矢の矢先稲荷神社
御由緒
 当社は寛永十九年(1642年)十一月二十三日に三代将軍家光が、当地に浅草三十三間堂を建立した際、その堂の鎮守として稲荷神を祭ったのに始まると伝えられています。
 浅草三十三間堂射術稽古場の的先に奉納されたために、その社名も矢先稲荷神社と称されました。」
 (略)
「御神宝
 神殿の天井絵・馬術絵百体(神武天皇から昭和に至るまでの馬乗りの絵百体/海老名駿堂画伯作)」 
   
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<浅草三十三間堂跡>

(説明板)
「浅草三十三間堂跡  台東区松が谷二丁目十四番一号
 『文政町方書上』によると、寛永十九年(一六四二)十一月二十三日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。
 堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。
 元禄十一年(一六九八)九月六日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失、跡地は公収された。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。
 矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。
  平成七年三月  台東区教育委員会」

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※関連 三十三間堂跡(江東区富岡)について、こちらで記載


<旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧 松葉町>

「旧松葉町
 本町は、明治二年(一八六九)、それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前がひとつになってできた。町名は、新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
 寛永十九年(一六四二)、この地域に「通し矢」で有名な京都東山の三十三間堂にならって浅草三十三間堂が建てられた。元禄十一年(一六九八)に勅額火事といわれる大火に見舞われお堂は焼失したが、深川で再建されたことから跡地に下谷あたりの寺院が移転して寺院街を形成した。そしてこれらの寺院に門前町が開かれるに伴って、新寺町と呼ばれるようになった。浅留町と浅草坂本町ができたのもこの頃である。
 矢先稲荷神社は、三十三間堂の鎮守として稲荷神を祭るのに始まった。そして、社名は弓術練習のために造られた三十三間堂稽古場的先に奉祭されたことから、このように呼ばれた。 台東区」

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○玉川兄弟の墓(東京都旧跡) 台東区松が谷2-3-3聖徳寺

 玉川兄弟(庄右衛門・清右衛門)は、江戸市民の飲料水確保のため玉川上水を開発し、承応3年(1654)に開削工事は完成しました。聖徳寺に兄弟の墓があります。

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(説明板)
「東京都指定旧跡
 玉川庄右衛門および清右衛門墓
  所在 台東区松が谷二丁目三番三号 聖徳寺内
  指定 昭和十八年五月
 庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で、江戸の町人と言われているがその出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、四代将軍家綱の承応二年(一六五三)一月十三日に幕命が下り、二月十一日に着工された。工事費として幕府から七五〇〇両が下賜されたという。羽村から四谷大木戸に至る四十三キロの導水部は、承応三年(一六五四)六月二十日に完成した。その後給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水準を今日に伝える貴重な文化財である。近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は二〇〇石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄八年(一六九五)に、弟の清右衛門は翌年の元禄九年に死去した。明治四四年(一九一一)政府は、玉川兄弟の功績に対して従五位を追贈した。
  平成三年十月三十一日  東京都教育委員会」

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(説明板)
「玉川庄右衛門と清右衛門の墓(都指定旧跡)
 二基の墓のうち、向かって右側が庄右衛門の墓。笠付きの角石墓塔で、梵字の下に楷書で、「玉川本家先祖代々」とあり、さらに次の戒名が刻んである。
  隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士
 向かって左側が清右衛門の墓。先の尖った角石墓塔で、梵字の下に楷書で次の戒名が刻んである。
  接取院殿贈従五位光誉照山大居士
 従五位は、明治四十四年(一九一一)六月、政府により遺贈されたもの。両墓石は大正十二年(一九二三)の関東大震災で破損したが、昭和十二年(一九三七)有志によって修復された。
  平成十九年三月  台東区教育委員会」

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〇本覚寺 台東区松が谷2-8-15

 山門入ると、右手に日限祖師堂、正面に堂内ステンドグラスの本堂。左手に境内社があります。

<蟇大明神>

 奉納された蟇がすごい数です。

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<蟇塚由来記>

(石板碑文)
「蟇塚由来記
 天保の頃 當山の檀家に秋山某なる人があった 故あって稼業を助ける神として蛙蟇塚という碑を建てて崇めていたと云う 大正一二年関東大震災の折 東京は一瞬にして焦土となり當山も又烏有に帰したがその時の墓守関某という人が霊感する所あって土の中より件の碑を探し出し小さな堂を建てて祠った  丁度その頃下谷に千八という人がおり この蛙蟇塚に願をかけた所大きなご利益を得 遂に一念發起して現在の地に蟇堂を建て 人に逢うことに蟇の分身を與えて利益のあることを宣伝した
 千八師は自らも歌舞をよくしこの方面に宣伝した為に花柳界歌舞演劇界映画芸能界等金銭物質の出入や人気稼業方面に信者が多い 昭和二十年三月の大空襲で全焼したが戦後いち早く下谷の高田家保袋家氏等の尽力で復興し今日に至っている 動物信仰の一形態としても誠に珍しいものである 昭和五十一年に至り堂宇の傷み甚だしくここに恒久的堂宇の再建を發願した所詣者多数の賛同と協力を得て昭和五十三年七月二十日新蟇堂の完成を見た。」

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○海禅寺 台東区松が谷3-3-3

 大きな寺標があり、かっぱ橋本通りから奥へ向かって参道がのびています。寺標の脇に「梅田雲浜墓」説明板があります。

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(説明板)
「梅田雲浜墓
 雲浜は名を始め義質、のち改めて定明といった。通称は源次郎。雲浜は号である。若狭国小浜(現、福井県)藩士、矢部岩十郎の二男として、文化十二年(一八一五)六月七日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。
 朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永五年(一八五二)、幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し、尊皇攘夷論を唱え、梁川星巌とともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが、安政五年(一八五八)の「安政の大獄」で捕えられた。翌安政六年(一八五九)九月十四日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久二年(一八六二)現存の墓石が建てられた。墓石は関東大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と、戒名が刻まれている。
 平成七年三月  台東区教育委員会」

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「梅田雲浜肖像」「国立国会図書館(近代日本人の肖像)」
 文化12年6月7日〜安政6年9月14日
 (1815年7月13日〜1859年10月9日)
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<梅田雲浜墓>

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<天海影前燈籠>

  「石燈籠両基
   東叡山大僧正天海影前燈籠
   正保二年(1645年)十月二日
   備前少将源朝臣光政」

 天海の影前に宝建された備前岡山藩初代藩主池田光政が宝建した石灯籠がありました。びっくり。天海影前の石燈籠がなぜここにあるのか不詳です。


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tag : 天海奉献石燈籠安政の大獄旧跡玉川上水下町まちしるべ

かっぱ橋⑦ 公西会

〇かっぱ橋本通り公西会商店街振興組合 HP

 合羽橋交差点から、浅草駅(つくばEXP)までが「かっぱ橋本通り公西会商店街振興組合」となります。交差点の看板のカッパも、荻原楽一氏の作品ですね。

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<合羽橋跡> 台東区西浅草3-7-2

(説明板)
「合羽橋跡  台東区西浅草三丁目七番二号
 この地点西方の合羽橋交差点の所に、橋が架けられていた。合羽橋である。橋梁台帳によると、昭和八年廃橋になったが、長さ約四メートル、幅十一メートルの橋だった。橋下の水路は新堀川・新堀といい、南流して鳥越川に合していた。
 寛文十一年(一六七一)刊の絵図に描かれているものの、創架年代は不明。初め無名橋で、のち橋畔の寺院名をとって清水寺橋といい、ついで合羽橋と呼んだ。近くに合羽屋があったので、合羽橋といったそうだ。文化年間(一八〇四~一七)、合羽屋喜八、通称合羽川太郎が私財を投じ、隅田川に住む河童の助けを得て、新堀を開いたとの伝承がある。橋名由来はその伝承にちなむともいう。
 橋が繋いだ東西に伸びる道は合羽橘通りと呼ばれ、江戸初期から浅草・上野を結ぶ主要路として賑わい、今日に至る。昭和四十四年十月まで、合羽橋は都電停留場名になっていた。
  平成四年十一月  台東区教育委員会」

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<旭屋> 台東区西浅草3-6-1

 明治時代から続く、祝儀袋の専門店です。萩原楽一画のポチ袋、絵はがき、筆箋を扱っています。

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<あいかちゃん>

 合羽屋喜八に助けられた「かっぱ河太郎」の孫との設定です。かっぱ橋本通り公西会商店街振興組合の所属です。

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<への河童> 台東区西浅草3-5-2萬藤合羽橋店

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<浅草かっぱ村> 台東区西浅草3-3?3

 河童連邦共和国に加盟するかっぱ村は40拠点あり、浅草かっぱ村の村長が事務局長をしています。

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 歩道に見える赤いポストは、令和3(2021)年3月に、緑色のさらざいまいポストに置きかえられました。
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<栃木屋精肉店> 台東区西浅草3-7-1 03-3841-4608 10:00-19:30 日祝定休

 「栃木屋の肉でリッチな鍋の味 博柳」
 台東川柳人連盟、内田博柳理事長の句が飾られています。
 かっぱコロッケ120円とめんちかつ140円を購入(税別)。

 かっぱ橋本通りから伝法院通りに入ると、左手に浅草メンチがあります。あまりの行列に、こちらは購入を諦めました。

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<どぜう飯田屋> 台東区西浅草3-3-2 03-3843-0881

 平日午後3時まで、お得な定食があります。

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<肉汁餃子製作所 ダンダダン酒場 かっぱ橋店> 台東区西浅草2-27-9 03-5830-7341

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<カレーランド> 台東区西浅草2-24-7 03-5246-4950 11:00-19:00 定休火 ホームページ

 ご当地レトルトカレーの専門店として2013年に足立区で開店。2016年3月下旬、西浅草に移転。
 「ご当地レトルトカレー自販機」があり、各商品にコメントがあり親切丁寧です。

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<かっぱ焼きそば 喜八> 台東区西浅草2-23-4 2F 03-3843-3078 11:00-14:00 17:00-21:00 定休月1・3日

 2019年8月23日にオープン。かっぱ橋本通りの一本裏道に、かっぱをイメージした緑色の一軒屋です。浅草開花楼特製麺を使用と掲示あり。スープ焼きそばが店内限定1日15食、気になります。

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<カッパのオンパレード>

 この通りが一番カッパが多いです。カッパがキュウリを釣っていたり、カッパが皿回しをしている!のはうけました。シャッター絵で、スカイツリーを見上げるカッパも構図が良いです。

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〇萩原楽一画伯

 浅草生まれ。1926(昭和元)〜2007/9/30 。2代目萩原楽一は、父の後を継いだ清水佐知子さん。

・歩道のかっぱ絵
 歩道は男の子のかっぱです。

・かおう会商店街
 ペナントのかっぱ絵。仙台屋ローソク店には福かっぱ。

・かっぱのたいちゃん
 昭和38(1963)年に設置。

・かっぱ寺の天井河童
 昭和28(1953)年に萩原楽一氏の呼びかけで、画家や漫画家が河童の絵を寄進したもの。

・屋号看板
 昭和52(1977)年に萩原楽一氏のデザインで屋号の看板ができあがりました。街路灯にも使用されています。

・交差点看板
 合羽橋交差点と公園六区交差点の看板にかっぱ絵。

・旭屋 台東区西浅草3-6-1
 萩原楽一画のポチ袋、絵はがき、筆箋を扱っています。

・陶板レリーフ「カッパ」
 原画:萩原楽一 台東区立松葉小学校 1987年8月
 日本交通文化協会
 
・ギャラリー福河童 墨田区京島3-21-7 ブログ


○旧町名由来案内「旧浅草田島町」 台東区西浅草2-11

「下町まちしるべ 旧浅草田島町
 江戸時代の頃、この地は高い石垣の本願寺と路を隔てて北にあったことから、北寺町と称されていた。
 明暦三年(一六五七)の大火後、神田須田町にあった誓願寺は門前町とともにこの地へ移ってきた。この誓願寺は、淨土宗京都知恩院の末寺で、田島山快楽院誓願寺といったことから、明治二年に誓願寺の山号にちなみ浅草田島町と称した。
 明治五年、誓願寺の西辺部に接する下級武士の屋敷と北西部にある安行寺を合併し町域を広げた。 台東区」

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<八幡神社> 台東区西浅草2-14-5

 浅草神社の兼務社です。

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tag : 下町まちしるべ

かっぱ橋⑥ かおう会

かっぱ橋かおう会商店街

 「合羽橋本通り商和会」から、「かっぱ橋かおう会商店街」へと続きます。

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楽一とありますので、初代か2代目の萩原楽一の作品ですね。
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<正法寺門前跡(縛られ河童)> 台東区松が谷2-31-7

 グーグルマップにも掲載されているので少々驚きました。正法寺は、関東大震災後に中野区沼袋へ移転しています。

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<肉のさがみ屋> 台東区松が谷2-31-10 http://kappa-steak.tokyo/

 頭にカエルを乗せている「蛙かっぱ」と「きっちゃん」。詳細不明。

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<河童のお面をつけた少年と河童> 台東区松が谷2-27-10

 河童のお面を頭につけた少年?です、というか裏から見ると甲羅があります。ふくろうみたいな河童が少年に寄り添っています。

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<仙台屋> 松が屋3-3-2
 
 なかなかいかした福かっぱです。荻原楽一さんの作品ですね。2代目でしょう。

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<極楽カッパ> 台東区松が谷2-25-5極楽屋陶器店前

 KAPPAと描かれた甲羅をしょっています。

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○旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧松葉町 台東区松が谷3-8-1

「旧松葉町
 この付近は元禄十一年(1698)に勅額火事といわれる大火に見舞われ焼失した。跡地には多くの寺院が移転し、門前町が開かれに伴って新寺町と呼ばれるようになった。
 本町は、明治二年(1869)それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は新寺町の名主高松喜内の「松」と坂本町名主二葉伝次郎の「葉」をとって名付けられた。
 町内に「河童大明神」で知られる曹源寺がある。昔、このあたりは土地が低いため雨が降るとたちまち水が出て人々は苦しんでいた。雨合羽商の合羽川太郎は、これを見てだまっていられず排水のための堀割を作ろうとしたが工事は思うように進まない。そこにかつて川太郎に助けられたという河童が出てきて川太郎の工事を手伝い、困難な工事をまたたくまに完成させたという。このようなことから曹源寺には川太郎の墓とともに河童が大明神としてまつられたという。 台東区」

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○台東区のへそ 台東区松が谷3-8-1

 かっぱ橋本通りに台東区のへそ表示板と、「かっぱのたいちゃん」(女の子)の像。
 「ここが台東区のまん中 つまり「へそ」と言われている 台東区」
 ボールを頭上に持ち上げた河童像です(背中に甲羅があるので河童です)。こちらのかっぱも製作は、萩原楽一氏。

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<かっぱのたいちゃん>
 かっぱの名前は「たいちゃん」。台東区にちなんでいるのでしょうが、男の子のような名前です。

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 銅像下町まちしるべ

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