久左衛門新田/赤稲荷神社/花畑村役場跡
○久左衛門新田
福島正則の家臣星野又太郎(彦六)が、この地を開発して「土合村」とし、子の久左衛門の時に「久左衛門新田」と呼ばれるようになりました。
明治22(1889)年に久左衛門新田は周辺の村と合併し、花畑村となります。


○赤稲荷神社 足立区神明1-1-11
赤稲荷神社は、内匠橋の東側にあります。久左衛門新田の地です。星野家の屋敷神が大洪水で現在地に流れ着いたのが縁で、村で祀られるようになったと伝えられています。かつて屋根を赤い砥の粉で塗っていましたが、現在は屋根以外が赤くなっています。大鷲神社の兼務社です。







<石塔四基>
石塔が四基並んでいます。


「馬頭観世音菩薩」
大正15(1926)年3月。

「青面金剛庚申塔」
上部が欠損して消失しています。左側面「流山道」


「青面金剛庚申塔」
元禄11(1698)年2月。


「板碑型庚申塔」
元禄4(1691)年9月。下部に三猿。


○花畑村役場跡 足立区神明1-2-10
明治22(1889)年に花又村、久左衛門新田、長左衛門新田、六ツ木村、嘉兵衛新田、久右衛門新田、辰沼新田、内匠新田の8か村が合併し花畑村が発足します。
花畑村の村役場は当初内匠橋の西の内匠新田に置かれましたが、明治33(1900)年に赤稲荷神社の境内に移転しました。明治38(1905)年に手狭となりすぐ近くの花畑村役場跡碑の場所に移転しました。
昭和7(1921)年に足立区が成立し花畑村は廃止となりました。
表「花畑村役場跡」


裏「昭和五十二年十一月 足立区」
福島正則の家臣星野又太郎(彦六)が、この地を開発して「土合村」とし、子の久左衛門の時に「久左衛門新田」と呼ばれるようになりました。
明治22(1889)年に久左衛門新田は周辺の村と合併し、花畑村となります。


○赤稲荷神社 足立区神明1-1-11
赤稲荷神社は、内匠橋の東側にあります。久左衛門新田の地です。星野家の屋敷神が大洪水で現在地に流れ着いたのが縁で、村で祀られるようになったと伝えられています。かつて屋根を赤い砥の粉で塗っていましたが、現在は屋根以外が赤くなっています。大鷲神社の兼務社です。







<石塔四基>
石塔が四基並んでいます。


「馬頭観世音菩薩」
大正15(1926)年3月。

「青面金剛庚申塔」
上部が欠損して消失しています。左側面「流山道」


「青面金剛庚申塔」
元禄11(1698)年2月。


「板碑型庚申塔」
元禄4(1691)年9月。下部に三猿。


○花畑村役場跡 足立区神明1-2-10
明治22(1889)年に花又村、久左衛門新田、長左衛門新田、六ツ木村、嘉兵衛新田、久右衛門新田、辰沼新田、内匠新田の8か村が合併し花畑村が発足します。
花畑村の村役場は当初内匠橋の西の内匠新田に置かれましたが、明治33(1900)年に赤稲荷神社の境内に移転しました。明治38(1905)年に手狭となりすぐ近くの花畑村役場跡碑の場所に移転しました。
昭和7(1921)年に足立区が成立し花畑村は廃止となりました。
表「花畑村役場跡」


裏「昭和五十二年十一月 足立区」

じんがんなわ祭り(2022年)
じんがんなわ祭り 大乗院 2022年1月10日 足立区西保木間2-14-5
※2022(令和4)年3月に、東京都の無形民俗文化財に指定されました。
じんがんなわ祭りが行われ、見学してきました。前回は粛々と行わましたが、今回は人が多かったです。足立区の取材も来ていました。









(参考)
2021年 じんがんなわ
2020年 じんがんなわ
※2022(令和4)年3月に、東京都の無形民俗文化財に指定されました。
じんがんなわ祭りが行われ、見学してきました。前回は粛々と行わましたが、今回は人が多かったです。足立区の取材も来ていました。









(参考)
2021年 じんがんなわ
2020年 じんがんなわ
じんがんなわ祭り(2021年)
<2021年1月11日 じんがんなわ祭り> 大乗院 足立区西保木間2-14-5
規模縮小で、じんがんなわ祭りが行われ、見学してきました。





昨年の様子はこちらで紹介しています。
規模縮小で、じんがんなわ祭りが行われ、見学してきました。





昨年の様子はこちらで紹介しています。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
浅間神社(富士塚)
〇浅間神社(富士塚) 流山市流山1-153
駒木諏訪神社へ行く途中に寄る。
石段を3段下りて境内へ。









<庚申塔>
庚申塔(享保7(1722)年)
青面金剛像(享保1(1716)年)





<成田山月参供養塔>
不動明王像の台座に「成田山月参供養塔」とあります。




<御朱印>
御朱印についての案内掲示があり、提灯屋でいただけます。




<境内社>
伏見稲荷社/天満宮/水神社/金刀比羅大神




<富士塚>(流山市指定文化財)
社殿の裏手に、富士塚(高さ約8m)があります。
明治24(1891)年の築山です。








中腹に小御岳神社があります。

頂上に「富士浅間大神」(明治19(1886)年)の大きな石碑があります。




<北口 一合目~>
6合目は磨滅しています。








駒木諏訪神社へ行く途中に寄る。
石段を3段下りて境内へ。









<庚申塔>
庚申塔(享保7(1722)年)
青面金剛像(享保1(1716)年)





<成田山月参供養塔>
不動明王像の台座に「成田山月参供養塔」とあります。




<御朱印>
御朱印についての案内掲示があり、提灯屋でいただけます。




<境内社>
伏見稲荷社/天満宮/水神社/金刀比羅大神




<富士塚>(流山市指定文化財)
社殿の裏手に、富士塚(高さ約8m)があります。
明治24(1891)年の築山です。








中腹に小御岳神社があります。

頂上に「富士浅間大神」(明治19(1886)年)の大きな石碑があります。




<北口 一合目~>
6合目は磨滅しています。








テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 富士塚
駒木諏訪神社
〇駒木諏訪神社 流山市駒木655
うっそうとした森の中にある神社です。
・長崎の平和記念像を作成した北村西望氏の作品が、社務所及び境内に数多く置かれており、野外美術館の様相を呈しています。
・源八幡太郎義家が馬と馬具を献じています。
・新吉原の人々が文政12(1829)年に奉納した手水鉢があります。
・狛犬が多いです。
これまで2度いきましたが、3度目訪問も予定中。
<参道入口>
入口に、社号碑、一之鳥居、狛犬、神馬像。
参道は「く」の字の鏡面の形に曲がっており、参道入口から社殿は見えません。







<神馬像>
神馬像は、源義家による献馬の伝承に基いています。




<参道>
参道を進み、鞍掛之松、二之鳥居、蕪村句碑、神橋、随神門(右大臣と左大臣)。
<源義家鞍掛松>(石碑)
(説明板)
「鞍掛之枩の碑に添えて
九百年前 源 義家が後三年の役を終えて 神恩感謝の為に当神社に乗馬及び馬具を奉献した際に鞍を掛けた松は第一鳥居前を五十米程前方の豊四季字鞍掛 現集合住宅の県道沿いにあった
古老によると 臥龍の形をした見事な巨松であった 明治初年の台風で古損した 字名はこの鞍掛の松に由来する
因にこの地の前の県道を境に北側は字名を姫宮という もと当社の摂社姫宮神社の境内地であった 明治の中頃 神社は当境内にお遷しされた 社務所」


<二之鳥居>
<道問へば大根曳いて教けり 蕪村>
(説明板)
「この句は蕪村がこの里近くで作ったと伝えられています
そしてこの句が神社に献額されています そうすると蕪村が初冬の頃畑で 大根ぬきをしているお百姓さんに「おすわさまはどちらですか」と問いかけたら その人はふり向き乍ら「あちらですよ」と教えられた時の句とも思われる」


<すわのもりは見てござる すわのもりは知ってござる すわのもりは守っていてござる>
碑の説明板の他に、色々な説明板があります。

「舟形手水」には枝が渡しています。
社務所の手水鉢も枝だを渡していたので、何か意味があるのでしょう。

<神橋/山上憶良歌碑(百壱齢 西望書)>
第二鳥居の先に「神橋」。

かたわらに山上憶良の歌碑があります。
「山上憶良
銀も 金も 玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
百壱齢 西望書 」
(説明板)
「歌碑に寄せて
銀も金も玉も何せんにまされる宝子にしかめやも
万葉集の歌人山上憶良は「銀も金も宝玉も何としょうすぐれた宝は子に及ばない」 子を思う親の心を表した名歌です 長崎平和像作者北村西望先生が当社のために百壱才の時に書いて下さったものです 「子育ての神様でございます」お諏訪様に相応しい歌なので碑を建てました」


<隋神門>
神橋を渡ると「狛犬」「隋神門」(右大臣・左大臣 雨宮敬子氏作)。
門の右手に「御鎮座壱千二百年の碑」があります。






<参道 神門まで>
右手に獅子と亀の像を見て、三之鳥居、神門。神門までも色々とあります。
<獅子と亀の像/三之鳥居>


<今日は/不欺己是誠言也>
北村西望氏の書「今日は」を石碑に刻んでいます。
社務所前にもありました。

北村西望氏の白寿の時の「不欺己是誠言也」碑があります。


<明治天皇御製歌碑/その他>


<神門>
「神門」の両側に江戸狛犬がいます。




<針つか/筆つか>
神門右手にある「針つか」「筆つか」。詳細不明です。

<社殿>
社殿前には北村西望氏作の狛犬がいます。
北村西望氏が99歳の白寿記念で作った狛犬です。









社殿内には黄金の狛犬がいます。

<道標>
道標を3つ確認しました。
・天保13(1842)年 正面 諏訪大明神 右 右なりた ミち 左 ふせ ミち
二の鳥居の先、右手にあります。


・天保7(1836)年 右 すハミち 左 のだミち
・安政6(1859)年 東 成田 諏訪 みち 南 ながれ山 西 はくち渡し ミち



<手水鉢>
狛研の山田敏春さんが大工虎五郎の駒木諏訪神社の手水鉢奉納に言及していて、今回の参詣の目的が手水鉢です。
新吉原の人々が文政12(1829)年に奉納した手水鉢で、大きく「新吉原」と刻まれています。
屋号と名前が手水鉢の両側面にびっしりと刻まれ、一番最後に大工虎五郎の名前があります。
大工虎五郎は、諏訪神社への奉納の7年後の天保7(1836)年、浅草神社に狛犬を奉納している1人です。













諏訪神社隣接地は幕府の牧場で、馬が水を飲みに来て、水盤の端に蹄をかけたため、石が歪んでしまったと説明板。

<源義家献馬>
北村西望氏の日展最後の出品作です。
松に鞍が掛けられています。芸が細かいですね。





<御神水>
「新樹光あつめ澄みきる神の水/御神水讃歌/水をすくう少女の像/奥の井戸」
御神水の周りには、碑など色々とあり、御神水の雰囲気を醸し出しています。










「神垣の 杉のうつろの 真清水は つきぬ恵みの ためしなるらむ」
(説明板)
「江戸の文人 友田次寛は天保12年(1840)五月当神社に参拝
その時の小金紀行に この御神水について詠んでいます
神垣の 杉のうつろの 真清水は つきぬ恵みの ためしなるらむ
この御神水の清らかな響は限りない恵みを今日に伝えています」
(説明板では天保二年とありますが天保十二年の誤りと思います)


<水質検査結果書>
ひょうたん型の容器も300円で売っています。
水質検査結果書を掲示しています。
平成24年6月1日採水。pH7.5。
神水が鉱泉だったりするところもありますが、水質検査結果を見ると無味無臭の純粋においしい水です。




<七五三像/なごみ>
雨宮敬子氏作。
北村西望氏に師事した雨宮敬子氏(2019年7月逝去)の作品も多くあります。


<境内社>
ここにも狛犬。3対います。






<姫宮神社 雷神社 招魂社 大鳥神社 恵比寿神社 国魂神社 天神社 稲荷神社>










おすまし 田中昭

金子篤司 土用干



<神輿庫>

<「寿」石>
北村西望氏は、百点に及ぶ書や絵も献納されたとのこと。
(説明石板)
「由来
我ガ國芸術界ノ第一人者デアリマス長崎ノ平和像作者 文化勲章ニ輝ク
北村西望先生ハ 当境内ノ源義家像ヤ狛犬ヲ制作セラレ 又百点ニ及ブ
書ヤ絵ヲ 献納ナサイマシタ
其ノ中カラ「仁者寿」ノ「壽」ヲ巨石ニ刻ミ 崇敬者皆さまノ幸福ト
長寿ヲ誠祷シマシタ
施工 真壁山尾 藤田石材
藤田 完・修司父子謹刻
平成十三年四月二十三日
宮司 九十叟古谷金祐謹誌
禰宜 古谷和史謹書 」


<萬葉集歌碑>
萬葉集歌碑がいろいろとありますが、一例です。
「萬葉集 巻十三
旅あきうどの妻
つぎねふ 山城路を~以下略
平成八年 秋 鈴木弘深謹誌」

<社務所と手水>


<顕彰碑>
宮司 古谷金祐氏の顕彰碑。



<曩の大戦(大東亜戦争)復員の碑>
宮司 古谷金祐氏の復員に当たっての種々が綴られています。

<和同開珎など>





うっそうとした森の中にある神社です。
・長崎の平和記念像を作成した北村西望氏の作品が、社務所及び境内に数多く置かれており、野外美術館の様相を呈しています。
・源八幡太郎義家が馬と馬具を献じています。
・新吉原の人々が文政12(1829)年に奉納した手水鉢があります。
・狛犬が多いです。
これまで2度いきましたが、3度目訪問も予定中。
<参道入口>
入口に、社号碑、一之鳥居、狛犬、神馬像。
参道は「く」の字の鏡面の形に曲がっており、参道入口から社殿は見えません。







<神馬像>
神馬像は、源義家による献馬の伝承に基いています。




<参道>
参道を進み、鞍掛之松、二之鳥居、蕪村句碑、神橋、随神門(右大臣と左大臣)。
<源義家鞍掛松>(石碑)
(説明板)
「鞍掛之枩の碑に添えて
九百年前 源 義家が後三年の役を終えて 神恩感謝の為に当神社に乗馬及び馬具を奉献した際に鞍を掛けた松は第一鳥居前を五十米程前方の豊四季字鞍掛 現集合住宅の県道沿いにあった
古老によると 臥龍の形をした見事な巨松であった 明治初年の台風で古損した 字名はこの鞍掛の松に由来する
因にこの地の前の県道を境に北側は字名を姫宮という もと当社の摂社姫宮神社の境内地であった 明治の中頃 神社は当境内にお遷しされた 社務所」


<二之鳥居>

<道問へば大根曳いて教けり 蕪村>
(説明板)
「この句は蕪村がこの里近くで作ったと伝えられています
そしてこの句が神社に献額されています そうすると蕪村が初冬の頃畑で 大根ぬきをしているお百姓さんに「おすわさまはどちらですか」と問いかけたら その人はふり向き乍ら「あちらですよ」と教えられた時の句とも思われる」


<すわのもりは見てござる すわのもりは知ってござる すわのもりは守っていてござる>
碑の説明板の他に、色々な説明板があります。

「舟形手水」には枝が渡しています。
社務所の手水鉢も枝だを渡していたので、何か意味があるのでしょう。

<神橋/山上憶良歌碑(百壱齢 西望書)>
第二鳥居の先に「神橋」。

かたわらに山上憶良の歌碑があります。
「山上憶良
銀も 金も 玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも
百壱齢 西望書 」
(説明板)
「歌碑に寄せて
銀も金も玉も何せんにまされる宝子にしかめやも
万葉集の歌人山上憶良は「銀も金も宝玉も何としょうすぐれた宝は子に及ばない」 子を思う親の心を表した名歌です 長崎平和像作者北村西望先生が当社のために百壱才の時に書いて下さったものです 「子育ての神様でございます」お諏訪様に相応しい歌なので碑を建てました」


<隋神門>
神橋を渡ると「狛犬」「隋神門」(右大臣・左大臣 雨宮敬子氏作)。
門の右手に「御鎮座壱千二百年の碑」があります。






<参道 神門まで>
右手に獅子と亀の像を見て、三之鳥居、神門。神門までも色々とあります。
<獅子と亀の像/三之鳥居>


<今日は/不欺己是誠言也>
北村西望氏の書「今日は」を石碑に刻んでいます。
社務所前にもありました。

北村西望氏の白寿の時の「不欺己是誠言也」碑があります。


<明治天皇御製歌碑/その他>


<神門>
「神門」の両側に江戸狛犬がいます。




<針つか/筆つか>
神門右手にある「針つか」「筆つか」。詳細不明です。

<社殿>
社殿前には北村西望氏作の狛犬がいます。
北村西望氏が99歳の白寿記念で作った狛犬です。









社殿内には黄金の狛犬がいます。

<道標>
道標を3つ確認しました。
・天保13(1842)年 正面 諏訪大明神 右 右なりた ミち 左 ふせ ミち
二の鳥居の先、右手にあります。


・天保7(1836)年 右 すハミち 左 のだミち

・安政6(1859)年 東 成田 諏訪 みち 南 ながれ山 西 はくち渡し ミち



<手水鉢>
狛研の山田敏春さんが大工虎五郎の駒木諏訪神社の手水鉢奉納に言及していて、今回の参詣の目的が手水鉢です。
新吉原の人々が文政12(1829)年に奉納した手水鉢で、大きく「新吉原」と刻まれています。
屋号と名前が手水鉢の両側面にびっしりと刻まれ、一番最後に大工虎五郎の名前があります。
大工虎五郎は、諏訪神社への奉納の7年後の天保7(1836)年、浅草神社に狛犬を奉納している1人です。













諏訪神社隣接地は幕府の牧場で、馬が水を飲みに来て、水盤の端に蹄をかけたため、石が歪んでしまったと説明板。

<源義家献馬>
北村西望氏の日展最後の出品作です。
松に鞍が掛けられています。芸が細かいですね。





<御神水>
「新樹光あつめ澄みきる神の水/御神水讃歌/水をすくう少女の像/奥の井戸」
御神水の周りには、碑など色々とあり、御神水の雰囲気を醸し出しています。










「神垣の 杉のうつろの 真清水は つきぬ恵みの ためしなるらむ」
(説明板)
「江戸の文人 友田次寛は天保12年(1840)五月当神社に参拝
その時の小金紀行に この御神水について詠んでいます
神垣の 杉のうつろの 真清水は つきぬ恵みの ためしなるらむ
この御神水の清らかな響は限りない恵みを今日に伝えています」
(説明板では天保二年とありますが天保十二年の誤りと思います)


<水質検査結果書>
ひょうたん型の容器も300円で売っています。
水質検査結果書を掲示しています。
平成24年6月1日採水。pH7.5。
神水が鉱泉だったりするところもありますが、水質検査結果を見ると無味無臭の純粋においしい水です。




<七五三像/なごみ>
雨宮敬子氏作。
北村西望氏に師事した雨宮敬子氏(2019年7月逝去)の作品も多くあります。


<境内社>
ここにも狛犬。3対います。






<姫宮神社 雷神社 招魂社 大鳥神社 恵比寿神社 国魂神社 天神社 稲荷神社>










おすまし 田中昭

金子篤司 土用干



<神輿庫>

<「寿」石>
北村西望氏は、百点に及ぶ書や絵も献納されたとのこと。
(説明石板)
「由来
我ガ國芸術界ノ第一人者デアリマス長崎ノ平和像作者 文化勲章ニ輝ク
北村西望先生ハ 当境内ノ源義家像ヤ狛犬ヲ制作セラレ 又百点ニ及ブ
書ヤ絵ヲ 献納ナサイマシタ
其ノ中カラ「仁者寿」ノ「壽」ヲ巨石ニ刻ミ 崇敬者皆さまノ幸福ト
長寿ヲ誠祷シマシタ
施工 真壁山尾 藤田石材
藤田 完・修司父子謹刻
平成十三年四月二十三日
宮司 九十叟古谷金祐謹誌
禰宜 古谷和史謹書 」


<萬葉集歌碑>
萬葉集歌碑がいろいろとありますが、一例です。
「萬葉集 巻十三
旅あきうどの妻
つぎねふ 山城路を~以下略
平成八年 秋 鈴木弘深謹誌」

<社務所と手水>


<顕彰碑>
宮司 古谷金祐氏の顕彰碑。



<曩の大戦(大東亜戦争)復員の碑>
宮司 古谷金祐氏の復員に当たっての種々が綴られています。

<和同開珎など>





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