福寿院/長勝寺(伊興)
伊興の実相院と応現寺で出羽三山碑を確認後、周辺の2寺を廻りました。
○福寿院 足立区伊興2-18-18
荒綾八十八ヶ所霊場45番札所です。
境内が幼稚園と一体となっています。





<地蔵尊道標>
無縁塔の中に、地蔵尊の道標がありました。
寛政5(1793)年2月銘です。
「左 弘法大師 右 (読めず)」




○長勝寺 足立区伊興3-11-19
「長勝寺の開山は智性院日座上人、開基は宮城清左衛門吉重で、元和8年(1622)開創といいます。宮城氏は千葉氏の家臣であったといい、千葉次郎勝胤の菩提を弔うために開基したとも伝わり、千葉氏は妙見菩薩を篤く信仰していたことで有名です。
妙見菩薩は、北極星を神格化したもので、本像は光背に七星を負い、亀に乗っています。七星は北斗七星、亀は北方を守護する亀の霊獣玄武にちなんでいるとされます。江戸時代に制作された小ぶりの像ですが、全身に彩色が施されており、鮮やかな像となっています。
なお、長勝寺は、「千葉次郎勝胤の墓」も足立区登録有形文化財となっています。」
(足立区の文化財「木造妙見菩薩坐像」より引用)






<千葉次郎勝胤の墓> 足立区文化財
境内左手に「千葉次郎勝胤の墓」があり、実名で「千葉次郎勝胤墓」と刻まれています。





(説明板)
「千葉次郎勝胤公墓
この墓は古くは伊興村中央の小名横沼の内、長勝寺の免田の傍(現在の伊興三ー二三ー二四)にあったが、周辺環境の変化を考慮し元の場所を旧史跡として遺し、平成十九年末に移霊とともに墓石を境内地に移築したものである。
当寺は関東檀方・宮城清左衛門吉重が元和八年(一六二二年)に、先祖の主君・勝胤公の菩提を弔うため、領主の千葉氏に願い出てその宅地の一部の割譲を受けて建立し、その後、中山法華経寺より智性院日座上人を迎えて万治二年(一六五九年)に開山した寺である。そのため千葉公の墓は、当寺によって特別の意味を持っているわけであるが、古い時代の事でもあり、勝胤公の没年、死去の事由など歴史的には不明なことも多い。宮城家の古過去帳によれば、勝胤公は永禄七年正月八日に没したとされ、家伝では里見義弘と北条氏康の鴻之台合戦のとき討ち死にしたとされているが、別説もある。勝胤公在世の当時の千葉氏は、従来の勢力から衰退しているとは言え、下総の國(現在の千葉県北部、埼玉県の東辺、東京都の東辺・隅田川の東岸、茨城県南西部にまたがる地)を領した豪族であり、足立区の千住の地名も「千葉氏が住する」から来ているとの説もある。
また足立区南東部・東淵江地域の北東に位置する佐野は古くは佐野新田と呼ばれ、この地を開拓した佐野新蔵胤信は勝胤の子で、佐野家の養子となり姓を佐野にしたもので、開拓した荒地に自らの姓を取って佐野新田と名付けたと伝えられている。
更に、この墓は古くから土地の者の信仰を集めており、土地の古老によれば、「お参りすれば虫歯や諸々の病通に効験がある」とされていたと伝えられている。なお、この墓碑は中世の足立区の歴史を物語る上で、数少ない歴史を銘すものとして、足立区文化財に指定されている。」
○福寿院 足立区伊興2-18-18
荒綾八十八ヶ所霊場45番札所です。
境内が幼稚園と一体となっています。





<地蔵尊道標>
無縁塔の中に、地蔵尊の道標がありました。
寛政5(1793)年2月銘です。
「左 弘法大師 右 (読めず)」




○長勝寺 足立区伊興3-11-19
「長勝寺の開山は智性院日座上人、開基は宮城清左衛門吉重で、元和8年(1622)開創といいます。宮城氏は千葉氏の家臣であったといい、千葉次郎勝胤の菩提を弔うために開基したとも伝わり、千葉氏は妙見菩薩を篤く信仰していたことで有名です。
妙見菩薩は、北極星を神格化したもので、本像は光背に七星を負い、亀に乗っています。七星は北斗七星、亀は北方を守護する亀の霊獣玄武にちなんでいるとされます。江戸時代に制作された小ぶりの像ですが、全身に彩色が施されており、鮮やかな像となっています。
なお、長勝寺は、「千葉次郎勝胤の墓」も足立区登録有形文化財となっています。」
(足立区の文化財「木造妙見菩薩坐像」より引用)






<千葉次郎勝胤の墓> 足立区文化財
境内左手に「千葉次郎勝胤の墓」があり、実名で「千葉次郎勝胤墓」と刻まれています。





(説明板)
「千葉次郎勝胤公墓
この墓は古くは伊興村中央の小名横沼の内、長勝寺の免田の傍(現在の伊興三ー二三ー二四)にあったが、周辺環境の変化を考慮し元の場所を旧史跡として遺し、平成十九年末に移霊とともに墓石を境内地に移築したものである。
当寺は関東檀方・宮城清左衛門吉重が元和八年(一六二二年)に、先祖の主君・勝胤公の菩提を弔うため、領主の千葉氏に願い出てその宅地の一部の割譲を受けて建立し、その後、中山法華経寺より智性院日座上人を迎えて万治二年(一六五九年)に開山した寺である。そのため千葉公の墓は、当寺によって特別の意味を持っているわけであるが、古い時代の事でもあり、勝胤公の没年、死去の事由など歴史的には不明なことも多い。宮城家の古過去帳によれば、勝胤公は永禄七年正月八日に没したとされ、家伝では里見義弘と北条氏康の鴻之台合戦のとき討ち死にしたとされているが、別説もある。勝胤公在世の当時の千葉氏は、従来の勢力から衰退しているとは言え、下総の國(現在の千葉県北部、埼玉県の東辺、東京都の東辺・隅田川の東岸、茨城県南西部にまたがる地)を領した豪族であり、足立区の千住の地名も「千葉氏が住する」から来ているとの説もある。
また足立区南東部・東淵江地域の北東に位置する佐野は古くは佐野新田と呼ばれ、この地を開拓した佐野新蔵胤信は勝胤の子で、佐野家の養子となり姓を佐野にしたもので、開拓した荒地に自らの姓を取って佐野新田と名付けたと伝えられている。
更に、この墓は古くから土地の者の信仰を集めており、土地の古老によれば、「お参りすれば虫歯や諸々の病通に効験がある」とされていたと伝えられている。なお、この墓碑は中世の足立区の歴史を物語る上で、数少ない歴史を銘すものとして、足立区文化財に指定されている。」
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
東陽寺
〇東陽寺 足立区東伊興4-4-1
<塩原太助古蹟>
門柱の右にある「塩原太助古蹟」、 案内標柱にしては古そうです。
門柱の左には「戸田茂睡の歌碑 河村瑞賢追憶碑」の新しそうな標柱があります。





(説明板)
「東陽寺
本寺は、もと浅草にあったが関東大震災により消失し、昭和三年(一九二八)五月に現在地に移転した。
寺内には足立区登録文化財の塩原太助の墓、戸田茂睡歌碑、阿弥陀三尊来迎図板碑がある。
塩原太助は上州沼田に生まれ、江戸に上り、炭のはかり売りから業を興して莫大な財産を築いた。その一生は「塩原太助一代記」として講談や歌舞伎で知られている。
戸田茂睡は江戸時代前期の歌人で、碑は、天和二年(一六八二)に死亡した長男伊右衛門の死を悼んで建立したものと伝えられる。碑は関東大震災によって半分を欠損したが、当寺の移転の際、いっしょに現在地へ移動し保存した。なお、平成三年、新碑を再建した。
阿弥陀三尊来迎図板碑は、材石が秩父産緑泥片岩、いわゆる武蔵型板碑で、造立年代等不詳だが、線刻はきわめて精緻で、天蓋、瓔珞を備えた見事なものである。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会 」

<萬年山東陽寺ノ歴史>

<手向野碑/戸田茂睡歌碑> 足立区文化財
本堂の前に戸田茂睡の歌碑があります。戸田茂睡が天和2(1682)年11月に没した長男伊右衛門(享年18歳)の死を悼んで建立した碑です。
「風の音 苔の雫も 天地の 絶えぬ御法の 手向けにはして」


<十六羅漢>
本堂の脇に十六羅漢が座っています。





<顕彰碑>
漢文で文字がよく読み取れませんが、碑文中、渡辺喜平次という名が見えます。

<河村瑞賢追悼碑>
屏風の追憶碑に碑文、碑文の下に由来が刻まれています。




<関東大震災檀家遺骨合葬塔>
関東大震災で納骨堂焼失、集骨合葬。昭和60(1985)年建。

<塩原太助の墓> 足立区文化財
墓石には戒名「鹽原壽算居士」と刻まれ、墓石の裏には「鹽原太助墓」と刻まれています。



横に「鹽原太助手代」と刻まれた墓石があります。

<河村家墓>
河村家の墓を探しました。墓域の奥のほうにありました。



<阿弥陀三尊来迎図板碑> 足立区文化財
境内にはなく収蔵されており確認できず。
<塩原太助古蹟>
門柱の右にある「塩原太助古蹟」、 案内標柱にしては古そうです。
門柱の左には「戸田茂睡の歌碑 河村瑞賢追憶碑」の新しそうな標柱があります。





(説明板)
「東陽寺
本寺は、もと浅草にあったが関東大震災により消失し、昭和三年(一九二八)五月に現在地に移転した。
寺内には足立区登録文化財の塩原太助の墓、戸田茂睡歌碑、阿弥陀三尊来迎図板碑がある。
塩原太助は上州沼田に生まれ、江戸に上り、炭のはかり売りから業を興して莫大な財産を築いた。その一生は「塩原太助一代記」として講談や歌舞伎で知られている。
戸田茂睡は江戸時代前期の歌人で、碑は、天和二年(一六八二)に死亡した長男伊右衛門の死を悼んで建立したものと伝えられる。碑は関東大震災によって半分を欠損したが、当寺の移転の際、いっしょに現在地へ移動し保存した。なお、平成三年、新碑を再建した。
阿弥陀三尊来迎図板碑は、材石が秩父産緑泥片岩、いわゆる武蔵型板碑で、造立年代等不詳だが、線刻はきわめて精緻で、天蓋、瓔珞を備えた見事なものである。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会 」

<萬年山東陽寺ノ歴史>

<手向野碑/戸田茂睡歌碑> 足立区文化財
本堂の前に戸田茂睡の歌碑があります。戸田茂睡が天和2(1682)年11月に没した長男伊右衛門(享年18歳)の死を悼んで建立した碑です。
「風の音 苔の雫も 天地の 絶えぬ御法の 手向けにはして」


<十六羅漢>
本堂の脇に十六羅漢が座っています。





<顕彰碑>
漢文で文字がよく読み取れませんが、碑文中、渡辺喜平次という名が見えます。

<河村瑞賢追悼碑>
屏風の追憶碑に碑文、碑文の下に由来が刻まれています。




<関東大震災檀家遺骨合葬塔>
関東大震災で納骨堂焼失、集骨合葬。昭和60(1985)年建。

<塩原太助の墓> 足立区文化財
墓石には戒名「鹽原壽算居士」と刻まれ、墓石の裏には「鹽原太助墓」と刻まれています。



横に「鹽原太助手代」と刻まれた墓石があります。

<河村家墓>
河村家の墓を探しました。墓域の奥のほうにありました。



<阿弥陀三尊来迎図板碑> 足立区文化財
境内にはなく収蔵されており確認できず。
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易行院(円楽墓) 常福寺(林家三平墓) 正安寺
〇易行院 足立区東伊興4-5-5
浅草から移転してきたお寺です。


<助六の塚>(足立区文化財)
助六地蔵と、花川戸助六と揚巻の墓があります。墓石を削り取る者が絶えず、助六の墓だけ欠けています。



(説明板)
「助六の塚
易行院は、浄土宗で、もともと浅草の清川町にあったが、関東大震災後、昭和三年(一九二八)に現在地に移転した。
寺の入り口正面に、「助六の塚」がある。
当院の文化年間(一八○四~一八一八)の過去帳に、「西入浄心信士 俗称戸沢助六 承応二歳己二月十一日死ス 志厚之有施主 七代市川団十郎 無縁ヲ弔 墓所造立シ永追福経営施主」とある。
現在は、歌舞伎で名高い花川戸助六と揚巻の墓が、助六地蔵といっしょに祀られている。助六と揚巻の仲が良かったことから、お参りすると夫婦円満、結婚成就にとてもご利益があるといわれている。
市川家が主演する「助六縁江戸桜」は、歌舞伎十八番の一つである。七代目、市川団十郎が、文化九年(一八一二)に、助六百六十年忌法要を営み、九代目が明治になって、大法要を営んだという。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会」

<円楽師匠の墓>
故5代目三遊亭圓楽師匠のご実家で、お墓があります。




円楽師匠の墓の隣には、妹信子さんを偲んだ観音像が安置されています。客室乗務員だった妹さんは、日航ニューデリー墜落事故で亡くなっています。


〇常福寺 足立区東伊興4-6-1
寺紋が「五本骨扇に月丸」なので、佐竹氏との関係の有無が気になりますが、関係はないようです。




<海老名家の墓>
海老名家の墓があり、林家三平師匠もここに眠ります。墓誌に「初代目 林家三平」と刻まれています。墓苑に入って右手、2列目です。




〇正安寺 足立区東伊興4-3-3
山門右手、与楽堂の屋根に「与楽(おきあがり)観音」が座しています。

<ポックリ閻魔/木彫の七福神>


浅草から移転してきたお寺です。


<助六の塚>(足立区文化財)
助六地蔵と、花川戸助六と揚巻の墓があります。墓石を削り取る者が絶えず、助六の墓だけ欠けています。



(説明板)
「助六の塚
易行院は、浄土宗で、もともと浅草の清川町にあったが、関東大震災後、昭和三年(一九二八)に現在地に移転した。
寺の入り口正面に、「助六の塚」がある。
当院の文化年間(一八○四~一八一八)の過去帳に、「西入浄心信士 俗称戸沢助六 承応二歳己二月十一日死ス 志厚之有施主 七代市川団十郎 無縁ヲ弔 墓所造立シ永追福経営施主」とある。
現在は、歌舞伎で名高い花川戸助六と揚巻の墓が、助六地蔵といっしょに祀られている。助六と揚巻の仲が良かったことから、お参りすると夫婦円満、結婚成就にとてもご利益があるといわれている。
市川家が主演する「助六縁江戸桜」は、歌舞伎十八番の一つである。七代目、市川団十郎が、文化九年(一八一二)に、助六百六十年忌法要を営み、九代目が明治になって、大法要を営んだという。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会」

<円楽師匠の墓>
故5代目三遊亭圓楽師匠のご実家で、お墓があります。




円楽師匠の墓の隣には、妹信子さんを偲んだ観音像が安置されています。客室乗務員だった妹さんは、日航ニューデリー墜落事故で亡くなっています。


〇常福寺 足立区東伊興4-6-1
寺紋が「五本骨扇に月丸」なので、佐竹氏との関係の有無が気になりますが、関係はないようです。




<海老名家の墓>
海老名家の墓があり、林家三平師匠もここに眠ります。墓誌に「初代目 林家三平」と刻まれています。墓苑に入って右手、2列目です。




〇正安寺 足立区東伊興4-3-3
山門右手、与楽堂の屋根に「与楽(おきあがり)観音」が座しています。

<ポックリ閻魔/木彫の七福神>


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tag : 市川団十郎
法受寺 桂昌院墓
〇法受寺 東伊興4-14-8
谷中の法住寺、浅草の安養寺が、昭和10年に当地に移転し合併し新たに法受寺となりました。
浅草にあった照光山安養寺は、本荘家累代の菩提寺です。










<江戸名所図会>
江戸名所図会に三崎法住寺が描かれています。
「三崎 法住寺 俗に新幡随意院と云ふ 妙林寺 蛍沢」

<布袋尊>
山門入ってすぐのところに布袋様。

<「生類憐れみの碑」ペット霊園>
入って右手にあります。

<「牡丹燈籠」記念碑>
怪談「牡丹燈籠」ゆかりの寺です。
法住寺は関東大震災で被害を被りこちらに移転。1995(平成7)年に記念碑が建てられています。
落語家三遊亭円朝の「牡丹燈籠」は谷中の法住寺が舞台。法住寺は、江戸名所図会に描かれているほどでしたが、維新で幕府の援助が絶え、荒れていたのを三遊亭円朝が『牡丹灯篭』に仕立てたようです。
幽霊のお露と牡丹灯篭の絵とともに、三遊亭円朝演述、橘右近書による縁起が彫られています。






<書家墨庵の墓>
墨庵先生之墓と刻まれています。
沢村墨庵は、丹後宮津藩に仕えて江戸詰御用人・御番頭格、祐筆(右筆)(武家の秘書役を行う文官)を務めた書家。寛政12年~文久2(1862)年。


<関口弥太郎(氏暁)の墓>
柔術家関口弥太郎(氏暁)の墓です。

<歴代住職の墓>
歴代住職の墓も立派です。
墓は2基あり、そのうちの1基は「三界萬霊塔」を兼ねています。


<本荘家(桂昌院)の墓>
5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は、増上寺に埋葬され、昭和33年に、合祀塔へ改葬されています。
桂昌院の養家であった本荘家の菩提寺が安養寺であった関係から、桂昌院の墓碑が本荘家墓域に建立されています。
桂昌院:寛永4(1627)年~宝永2年6月22日(1705年8月11日)。




「感応院殿」(義父)と「照高院殿」(実母)の墓が桂昌院の両脇にあります。


異父弟笠間城主本庄宗資の墓があります。



一番左に、宗資夫人の墓もありました。


「貴族院議員従三位勲四等子爵本荘宗義墓」もあります。

桂昌院等の墓域の右手の墓域には「高富本荘家累代之墓」があります。

谷中の法住寺、浅草の安養寺が、昭和10年に当地に移転し合併し新たに法受寺となりました。
浅草にあった照光山安養寺は、本荘家累代の菩提寺です。










<江戸名所図会>
江戸名所図会に三崎法住寺が描かれています。
「三崎 法住寺 俗に新幡随意院と云ふ 妙林寺 蛍沢」

<布袋尊>
山門入ってすぐのところに布袋様。

<「生類憐れみの碑」ペット霊園>
入って右手にあります。

<「牡丹燈籠」記念碑>
怪談「牡丹燈籠」ゆかりの寺です。
法住寺は関東大震災で被害を被りこちらに移転。1995(平成7)年に記念碑が建てられています。
落語家三遊亭円朝の「牡丹燈籠」は谷中の法住寺が舞台。法住寺は、江戸名所図会に描かれているほどでしたが、維新で幕府の援助が絶え、荒れていたのを三遊亭円朝が『牡丹灯篭』に仕立てたようです。
幽霊のお露と牡丹灯篭の絵とともに、三遊亭円朝演述、橘右近書による縁起が彫られています。






<書家墨庵の墓>
墨庵先生之墓と刻まれています。
沢村墨庵は、丹後宮津藩に仕えて江戸詰御用人・御番頭格、祐筆(右筆)(武家の秘書役を行う文官)を務めた書家。寛政12年~文久2(1862)年。


<関口弥太郎(氏暁)の墓>
柔術家関口弥太郎(氏暁)の墓です。

<歴代住職の墓>
歴代住職の墓も立派です。
墓は2基あり、そのうちの1基は「三界萬霊塔」を兼ねています。


<本荘家(桂昌院)の墓>
5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は、増上寺に埋葬され、昭和33年に、合祀塔へ改葬されています。
桂昌院の養家であった本荘家の菩提寺が安養寺であった関係から、桂昌院の墓碑が本荘家墓域に建立されています。
桂昌院:寛永4(1627)年~宝永2年6月22日(1705年8月11日)。




「感応院殿」(義父)と「照高院殿」(実母)の墓が桂昌院の両脇にあります。


異父弟笠間城主本庄宗資の墓があります。



一番左に、宗資夫人の墓もありました。


「貴族院議員従三位勲四等子爵本荘宗義墓」もあります。

桂昌院等の墓域の右手の墓域には「高富本荘家累代之墓」があります。

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伊興寺町 目次
伊興寺町
伊興寺町は、関東大震災後、都内(浅草、下谷、本所)から移転してきた寺院によって形成された寺町です。
〇挟間道プチテラス 足立区東伊興4-2-3
<狭間道周辺案内図/伊興昔話あれこれ>
「・伊興の「い」は、い・ろ・はの「い」、一番初めにできたところ、興ったところ、という意味。(以下略)」



【目次 個別レポ】
○東陽寺
○法受寺
○易行院、常福寺、正安寺
○東岳寺
○伊興遺跡/渕の宮氷川神社
上記以外のお寺については、パソコンサイトでまとめています。
伊興寺町は、関東大震災後、都内(浅草、下谷、本所)から移転してきた寺院によって形成された寺町です。
〇挟間道プチテラス 足立区東伊興4-2-3
<狭間道周辺案内図/伊興昔話あれこれ>
「・伊興の「い」は、い・ろ・はの「い」、一番初めにできたところ、興ったところ、という意味。(以下略)」



【目次 個別レポ】
○東陽寺
○法受寺
○易行院、常福寺、正安寺
○東岳寺
○伊興遺跡/渕の宮氷川神社
上記以外のお寺については、パソコンサイトでまとめています。
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