弥生二丁目遺跡 国史跡

○弥生二丁目遺跡 国史跡 文京区弥生2-11

 弥生土器の由来となった弥生二丁目遺跡が東京大学浅野キャンパス内にあります。

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(説明板)
「弥生二丁目遺跡
 国指定史跡 昭和51年6月7日指定
 昭和50年(1975)校舎の増築に先立ち考古学研究室が発掘調査を行ったところ、台地の縁に沿って弥生時代の集落を囲む環濠(空堀)の一部が発見され、濠の中からは食料にされたカキなど貝殻の層と弥生土器が出土しました。現在は大学の建物によって大きく損なわれていますが、この台地上に広く弥生時代の遺跡が存在したことになります。
 ところで明治17年(1884)考古学に興味を持つ東大の学生たちが、この付近で大昔の土器を採集しましたが、後にその種の土器は「縄文土器」と区別されることが分かり、最初の発見地の町名をとって「弥生土器」と呼ばれるようになりました。「弥生時代」の名称の由来です。土器が発見された正確な地点(当時、向ヶ丘貝塚と呼ばれた)について意見は分かれますが、この場所を含む環濠集落に関連するに違いありません。その学史的学術的重要性のため、増築計画は変更され、国の史跡として保存されることになりました。
 明治17年頃、このあたりは人家もない寂しい場所であったそうです。この地点にかろうじて残された段丘地形と雑木林が、わずかに当時の風景を偲ばせます。」

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○方形周溝墓

 浅野正門の駐車ゲートに、黒いタイルで方形周溝墓の検出位置が実物大で示されています。

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(説明板)
「武田先端知ビルで見つかった方形周溝墓
 浅野地区は、「弥生時代」の名称の発祥となった土器が、明治17年(1884)に発見された 「弥生町遺跡」の一角にあたります。武田先端知ビル建設に伴う発掘調査(埋蔵文化財調査室、2001)で、弥生時代の方形周溝墓2基を検出しました。
 方形周溝墓は、弥生時代から古墳時代前期の墓の一種で、方形に溝をめぐらし、内側に低丘を 盛上げ、その中央部に遺骸を埋葬する土壙を掘った墓です。方形周溝墓は、現地表面から3m地下の旧谷跡につくられました。前面に黒いタイルで、検出した方形周溝墓を実物大で示しました。方形周溝墓の上部は明治時代の開発に伴い削平されたため、遺物の一部は破壊されてしまいましたが、周溝とその周辺から弥生式土器(弥生時代後期後半)5点、土壙から副葬品のガラス小玉(紺色22点、青色2点)、石製管玉(赤色4点)が出土しました。この方形周溝墓は、移築し埋蔵文化財調査室で保管しています。
 浅野地区では、「弥生二丁目遺跡」の調査(考古学研究室、人類学教室、1975)環濠集落、全径間風洞実験室新営支障ケーブル移設その他に伴う調査(埋蔵文化財調査室、1996)で方形周溝墓が確認されています。
 これらの調査から、浅野地区北東側に広がっていたと推定される、環濠集落の西側に営まれていた墓域の広がりを確認することができました。」

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「浅野地区の弥生時代の遺跡」
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「弥生式土器 (高さ40.2cm)」
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(説明板)
「ガラス小玉と管玉の材質分析
 ガラス小玉と管玉の材質を、タンデム加速器研究施設(MALT)でPIXE分析(荷電粒子励起X線分析 Particle Induced X-ray Emission)しました。
 その結果、紺色ガラス小玉18点、青色ガラス小玉2点の材質は、主成分がSiO2 77?84wt%(重量%)、K2O6?11wt%、Na、Ca濃度が極めて低い典型的なカリ石灰ガラスでした。着色成分は、紺色にはマンガン鉱物、青色には銅が使用されていました。管玉の分析では、SiO2 93?97.5wt%、Fe2O3 1?5wt%、Al2O3 0.7?1.5wt%を示し、極めてSiO2濃度の高い鉱物がそのまま用いられていたと考えられます。」

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「方形周溝墓」
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「遺跡公開」
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「ガラス小玉、管玉」
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○「向岡記」碑

 水戸九代藩主・徳川斉昭が藩主となる前に、向岡の桜の美しさを記した「向岡記」碑を建立しました(文政11(1828)年)。碑文中の「夜余秘」が「向ヶ岡弥生町」の町名由来となりました。この場所から出土した土器は「弥生式土器」となり、その時代は「弥生時代」と名付けられました。

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(説明板)
「「向岡記」碑
 「向岡記」碑は、平成二十年(2008)、東京大学百三十周年記念「知のプロムナード」の学内整備に伴い、碑の破損部分の修復、保存処理を施し、情報基盤センターに設置、展示したものである。
 碑は、後の水戸藩九代藩主 徳川斉昭の自撰自書で、寛永寺の寺領「忍岡」の向かいの「向岡」に位置した水戸藩中屋敷(駒込邸)に建立された。駒込邸は、現在の本郷地区の北端、浅野地区、弥生地区と住宅地に該当し、藩主の隠居所、藩士の長屋、上屋敷の被災時は避難所などに土地利用された。
 碑の石材は、茨城県産の寒水石の転石が用いられている。題額「向岡記」は極めて珍しい「飛白体(かすれたい)」で、碑文は草書体、六三七字からなり、凹凸部分や割れ部分を避けて丁寧に勢いよく彫られている。斉昭は「文政十萬梨一登勢止移布年能夜余秘能十日」(文政十一年(1828)弥生(三月)十日)、「向岡」の由来を碑に記し、文末に「名尓進於不 春爾向賀 岡難連婆 余
尓多具肥奈岐 華乃迦計哉」〔名にし負ふ 春は向ひがなれば 世に類無き 華の影哉〕と詠んでいる。
 碑が建立された殿舎と庭園のあった場所は、現在の浅野地区と考えられる。碑文の「咲満他留佐九良賀本迩志亭」(咲満たる桜が本にして)より、水戸徳川氏の華やかな大名庭園が想像できる。
 明治五年(1872)に名付けられた「本郷向ケ岡弥生町」の町名は、碑文の「夜余秘」(弥生)からとられたものである。明治十七年(1884)、東京大学の学生であった有坂?三らによって弥生町で発見された土器は、後に町名から「弥生式土器」と命名されるが、「弥生式土器」の名称の本家本元は、町名の由来となった「向岡記」碑なのである。
 「向岡記」碑は、明治二十年(1887)、この地に移転した浅野家の所有となる。昭和十六年(1941)、浅野家の移転に伴い、昭和十七年(1942)五月、浅野家当主浅野長武氏より、碑と拓本が本学へ寄贈された。工学部九号館北の共済寮庭園に置かれていた碑は、工学部十号館建設に伴い同館西側に移され、今回当所に設置された。本郷地区には赤門、三四郎池など、加賀藩邸の遺構が残されているが、駒込邸の痕跡は、明治時代以降の官有地化と宅地化、大学建設により跡形もなく破壊されてしまった。この地に水戸藩駒込邸があったことを知ることがでる唯一の文化財が「向岡記」碑なのである。」

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 「碑文の復元」
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 「文政九年(1826)『向陵彌生町舊水戸邸繪図面』」
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 「向岡記」碑は、東京大学浅野キャンパスの浅野南門にあります。

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○弥生式土器発掘ゆかりの地 文京区弥生2-11

 東京大学浅野キャンパスの言問通り沿、弥生坂上に「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑が建っています。

 「弥生式土器発掘ゆかりの地
  昭和六十一年夏 七月吉日 建之」

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(碑裏)
「建碑のことば
 弥生式土器は、ここ向ヶ岡弥生町(現在弥生二丁目)内の数ヶ所から初めて出土発見され町名を冠して「弥生式」と名づけられました。
 遠いむかし、人々はこのあたりに住みつき、日本文化の曙を告げたのです。弥生式土器、向ヶ岡遺跡の発見によって、弥生時代という重要な文化期の存在が知られました、私たちは、こうした歴史の壮大で匂やかなロマンを憶いふるさとわが町の誇りを語りつぎ、出土と命名の史実を末永く顕彰するため、この記念碑を建てました。
 昭和三十九年、行政措置によりこの町は弥生二丁目と変わりましたが、町会名は歴史的な名を継承しております。
  昭和六十一年夏 七月吉日
  向ヶ岡弥生町会有志  高橋石材 刻」

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<東京大学浅野地区遺跡案内>

(説明板)
「東京大学浅野地区遺跡案内 弥生二丁目11
 東京大学浅野地区の名称は、明治20年(1887)「本郷区向ヶ岡弥生町」に移転した浅野侯爵邸敷地の大部分がその後、大学敷地となったことに由来しています。
 浅野南門を入ったところには、「向ヶ岡弥生町」の町名由来となったとされる「向ヶ岡碑」が置かれ、水戸藩中屋敷が建てられたもので、かつては工学部10号館の西側にありました。
 浅野地区は、「弥生時代」の名称の由来となった土器が発見された「弥生町遺跡群」の一角にあたり、弥生時代の遺跡が確認されました。
 国指定史跡の「弥生二丁目遺跡」及び武田先端知ビルに設置された遺跡の解説は、自由に見学ができます。
 また、浅野地区では明治時代の遺跡も確認されています。このうち、武田先端知ビルでは、明治10年(1877)から演習を開始した警視局(現警視庁)射的場が確認され、弾丸が出土しました。
  文京区教育委員会 令和4年3月」

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<旧向ケ岡弥生町>

(プレート文)
「旧 向ヶ岡弥生町(むこうがおかやよいちょう)
  (昭和40年までの町名)
 江戸時代は、御三家水戸藩の中屋敷 であった。明治5年、町屋ができて向ヶ岡弥生町と名づけられた。
 町名は、水戸家9代斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
 「文政十余り一とせいふ年のやよいの十日
  ・・・・名にしおふ春に向かふが岡なれば
    世にたぐひなきはなの影かな」
 明治17年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器と命名された。
  文京区」

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○旧町名案内 旧向ヶ岡弥生町 文京区弥生2-11

(説明板)
「旧町名案内 旧向ヶ岡弥生町
 (昭和40年までの町名)
 江戸時代は、御三家水戸藩の中屋敷であった。明治2年新政府に収用され、同5年町屋ができて、向ヶ岡弥生町と名づけた。
 町名のいわれは、文政11年(1828)3月10日・水戸家9代徳川斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
 「ことし文政十余り一とせといふ年の
  やよいの十日さきみだるさくらがもとに
  かくはかきつくこそ」
と述べ、次の歌が刻まれていた。
  なにしおふ春に向ふが岡なれば
  世にたぐひなきはなの影かな
 明治17年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器と命名された。
  文京区」

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○東京大学弥生門 文京区本郷7-3

 東京大学本郷キャンパスの門ですが、「弥生」の名前が付いています。

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 遺跡国史跡水戸徳川家

東京大学農学資料館 朱舜水記念碑

○東京大学農学資料館 文京区弥生1-1-1 HP

 農学資料館は、東京大学弥生キャンパスの農正門から入って右隣にあります。開館時間は、9:00〜17:00。

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<ハチ公の日> HP

 毎月8日(ハチ公の日)はグッズ販売日となっています。

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<上野英三郎先生の像>

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(説明板)
「上野英三郎先生の像
 上野英三郎先生は、東京大学において1900年(明治33年)に農学第2講座分担を開始され、1911年(明治44年)に農業工学講座の担任?授に就任、1925(大正14年)年まで教鞭をとられた。上野英三郎先生のご功績は、整然とした耕地の区画整理の考え方と技術を教育・指導されたことにあり、その結果は日本の原風景とも呼ぶべき美しい水田風景となって、現代人の目に映っている。なお、上野英三郎先生は、有名な渋谷の忠犬ハチ公の飼い主である。1987年、新藤兼人原作・脚本の映画「ハチ公物語」で仲代達矢が演じた東大教授が上野?授であったことを付記する。」

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「ハチ公と上野英三郎博士像」

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「上野英三郎博士とハチ関連年表」

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「ハチ公の死因」

 フィラリアは中程度で死因とはならず、心臓癌と肺に転移した癌が死因のようです。

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○朱舜水先生終焉之地碑(東京都旧跡) 文京区弥生1-1-1

 「朱舜水先生終焉之地碑」は、朱舜水来日250年を記念し明治45(1912)年に朱舜水記念会によって建立されました。碑の周囲には朱舜水が愛した桜が植えられました。碑文は第一高等学校校長新渡戸稲造の揮毫です。建碑式には、第一高等学校の生徒として芥川龍之介も参加しています。碑は移動の末、現在の歩道橋脇に建っています。
 「朱舜水」(1600〜1682年)は、明の儒学者で、明の滅亡に際し援助を求め7回長崎に来日し、清の成立に伴い亡命しました。長崎に留まっていた朱舜水を、徳川光圀が寛文5(1665)年に水戸藩へ招聘、寛文8(1668)年から水戸藩中屋敷に居住します。朱舜水は水戸藩へ儒学や史料編纂など伝え、水戸学へ影響を与えました。また、他藩の学者とも交流しました。

(表)
  「朱舜水先生終焉之地」

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(裏)
  「明治四十三年六月二日建之
   朱舜水記念會」

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(説明板)
「東京都指定旧跡 朱舜水記念碑
  所在地 文京区弥生一の一 東京大学農学部
  標 識 昭和一二年九月二二日
  指 定 昭和三○年三月二八日
 朱舜水(一六○○〜八二)は日本に帰化した明の遺臣です。名は之瑜、舜水は号です。祖国明の復興を図るが果たせず、万治二年(一六五九)長崎に来た際、柳川藩の儒学者安藤省庵の援助を受けて亡命しました。寛文五年(一六六五)、小宅生順の推挙で水戸藩の賓客となり、水戸藩徳川家の中屋敷(現在の東京大学農学部の南東側)に入り、生涯この地で過ごします。学風は朱子学・陽明学の中間といえる実学(実行の学)で、空論を避け、道理を重んじ、水戸光圀や安積澹泊、林鳳岡、木下順庵らに大きな影響を 与えます。天和二年(一六八二)に八三歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られました。
 この記念碑は、日本渡来二五○年祭にあたり水戸藩邸内に朱舜水記念会が建てたものですが、農学部内で移転をしています。そのため、現在記念碑が設置されている農学部正門付近は水戸藩邸の区域ではありません。
  平成二四年三月 建設  東京都教育委員会」

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「江戸切絵図」

 水戸藩中屋敷部分の抜粋です。

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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 銅像水戸徳川家旧跡

上野英三郎博士とハチ公

○上野英三郎博士とハチ公 文京区弥生1-1 東京大学農学部

 平成27(2015)年3月8日、ハチ公没後80年目の命日に「上野英三郎博士とハチ公」像が建てられました。植田努の作です。
 ハチは、駒場にあった農学部に、毎日上野博士の送り迎えをしました。出張の時には渋谷駅に送り迎えをしました。
 上野博士が大学内で急逝し、ハチは上野博士に会えなくなりました。ハチは、しばらく会えない時は、毎日送り迎えをした駒場ではなく、渋谷駅に行けば会えると思い、毎日渋谷駅に通うようになりました。

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(説明板)
「上田英三郎博士(1872〜1925)とハチ公(1923〜1935)
 秋田犬のハチは大館市に生まれ、生後50日ほどで東京帝国大学農学部の上野英三郎博士(農業工学・農業土木学)に贈られた。犬好きだった博士は、ハチを大切に育て、大いに可愛がり、当時は駒場にあった農学部への通勤や渋谷駅からの出張にはいつも送り迎えをさせた。学生たちは教授の飼い犬を呼び捨てにすることをはばかり、「ハチ公」と呼んで敬意を表した。およそ1年半が過ぎた1925年5月21日、博士は大学構内で急死した。それからハチは死ぬまでのおよそ10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の姿を探し求めた。生前、博士が長期出張から渋谷駅に戻った時、改札口で一人待つハチに驚き、この像のように、互いにじゃれ合って喜んだという。 製作:植田努 2015年」

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

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