東京大学総合研究博物館

○東京大学総合研究博物館 文京区本郷7-3-1 HP

 平日(月〜金)の開館で、入館料無料です。

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【館内】
 コレクションが多く展示されています。

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【館外】

「伝アインシュタイン・エレベーターの昇降装置(1926年3月竣工)

 アインシュタインは、大正11(1922)年11月17日から12月29日まで日本に滞在し数多くの講演を行いました。東京帝国大学では計6回の特別講義が開催され、講義の場と控室となった理科大学本館は、大正12(1923)年9月の関東大震災により崩壊しました。
 震災後に建てられた理学部旧1号館のエレベーターにアインシュタインは乗ることはなかったはずですが、理由は定かではないそうですが「アインシュタイン・エレベーター」と伝えられてきました。

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(説明板)
「伝アインシュタイン・エレベーターの昇降装置(1926年3月竣工)
アルベルト・アインシュタインが乗ったとされる理学部旧一号館のエレベーターの昇降装置。理学部旧一号館の着工はアインシュタイン来日(1922年)よりも後のことであり、この昇降機が「アインシュタイン・エレベーター」と伝えられてきた理由はさだかではない。一般相対性理論の基本となる等価原理はエレベーターの思考実験から着想されており、これがアインシュタイン来日の記憶と結びついて象徴化されたものかもしれない。エレベーター・カンパニー日本支社(現・日本オーチス・エレベータ)によるギヤ駆動のエレベーターである。電動モーターがギヤの減速装置を駆動し、この滑車にワイヤーを巻き取ってカゴを昇降させていた。カゴ本体は、JPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」に常設展示されている。」

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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 本郷

懐徳館 (国名勝)

○懐徳館庭園 国名勝 文京区本郷7-3 東京大学

 明治以降、前田家は上屋敷の南西に邸宅を構えていました。前田家は大正15(1926)年に駒場の農学部の一部と土地交換をして昭和3(1928)年に駒場に移りました。前田家邸宅は「懐徳館」と名前を変え東大の迎賓館として使用されます。和館と洋館は戦災で焼失、和館が昭和26(1951)年に再建されました。
 庭園は、国の名勝に指定されています(2015年3月指定)。非公開ですが、年に一度公開されます。

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<懐徳門>

 平成19(2007)年に新設された門です。

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(掲示)
「懐徳門
 この門は2007年に新設された。名称は明治40年に建てられた懐徳館旧館(旧前田侯爵邸)に由来する。門扉脇の煉瓦造遺構は旧館の基礎を保存、展示したものである。」

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<懐徳館の基礎煉瓦>

 明治40(1907)年に建てられた、旧前田侯爵邸洋館の煉瓦基礎が展示されています。

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(説明板)
「旧前田侯爵邸(懐徳館)西洋館の基礎」
 この煉瓦の塊は、平成6年に総合研究資料館の増築に伴う発掘調査で発見された、旧前田侯爵邸(懐徳館)西洋館の基礎の一部である。玄関脇の地下1階の小室部分にあたる。最下の捨コンクリートの上に煉瓦がしっかりと積み上げられ、中ほどにアスファルトの防水層、床支持材の溝、切石の幅木が回る。
 この地区は、旧加賀藩主侯爵家の敷地であった。当主前田利嗣は明治天皇行幸のために屋敷・庭園の整備を企画し、明治40年に西洋館が竣工した。ルネッサンス風のデザインで地下2階、地上1階の大規模な建築であった。大正12年の関東大震災の後、建物と庭園は東京大学の迎賓施設「懐徳館」になったが、昭和20年3月10日の東京大空襲で炎上し、取り壊された。
 重厚で頑丈な基礎は、かつての優れた西洋館の姿を偲ばせるわずかな遺物である。」

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○春日門 文京区本郷7-2-2

 春日通りに面した春日門で、門の両側の煉瓦壁は旧前田公爵邸の塀遺構であると思われるとのこと。

(掲示)
「春日門
 この門はz2007年に既設の門を改修して整備された。門の両側の煉瓦壁は、明治時代の旧前田公爵邸の塀遺構であると思われる。名称は門が面する春日通りに由来する。」

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 煉瓦本郷

大聖寺藩・富山藩上屋敷遺構 (東京大学)

○加洲大聖寺藩上屋敷跡

 加賀藩三代藩主前田利常が隠居する際に、三男利治に与えた大聖寺藩の上屋敷が、東京大学医学部附属病院にありました。大聖寺藩上屋敷の発掘が契機となって平成10(1998)年1月に加賀市等によって記念碑建てられました。碑には「一里塚」と刻まれた大聖寺藩ゆかりの九谷焼の皿がはめ込まれています。

「加洲大聖寺藩上屋敷址」
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「一里塚
 (藩)大聖寺まちなみ景観整備委員会
           会長 久藤豊治
       加賀市長 矢田松太郎書」

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(碑文)
「大聖寺藩由来記
 嘉永十六年(一六三九)六月二十日加賀藩三代藩主前田利常公は四十七才の若さで小松に隠居し、嫡子光高に加賀藩八十万石を、二男利次に富山藩十万石を、三男利治に大聖寺藩七万石を与え分封した。
 大聖寺藩領は江沼郡全域(百三十三ヶ村)と那谷村及び能美郡六ヶ村を加えたものであった。九代藩主利之の文政四年(一八二一)新田一万石、加賀藩から現米二万俵を受け加賀藩からの願出により幕府から十万石の待遇を公認された。以降十四代利鬯まで十万石として明治四年(一八七一)廃藩置県により、大聖寺県となるまで続いた。
 九谷焼は初代藩主利治が後藤才次郎に命じ、領内九谷村に窯を築き産出したと伝えられており、その窯跡は国指定史跡「九谷磁器窯跡」として残されている。 
 この地大聖寺藩江戸藩邸(五千九百九十七歩)跡を史実の証として石碑を設立し、後世に伝えるものである。
  平成十年一月」

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(碑裏)
 「協力された方
  東京大学医学部
  加賀市
  小林組(小松市)
  かみでグリーンサービス(加賀市)
  東出左官工業所(加賀市)
  二代西川愛石(加賀市)陶芸家
  (藩)大聖寺まちなみ景観整備委員会
  題字 加賀市長 矢田松太郎書」

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○大聖寺藩邸と富山藩邸の石積地境溝

 大聖寺藩邸と富山藩邸の石積地境溝の築石が、診療棟2前の道路の縁石に再利用されています。

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(説明板)
「加賀藩本郷邸内石積地境溝の築石
 この縁石は、入院棟地点の発掘調査により出土した江戸時代の石積地境溝の築石である。
 本郷キャンパスの大部分は、江戸時代加賀金沢藩前田家の江戸屋敷(本郷邸)が置かれた場所として知られているが、特に病院地区は寛永十六年(一六三九)に分家した越中富山藩、加賀大聖寺藩の上屋敷が置かれた場所に該当する。
 検出された石積溝は、天和二年(一六八二)までは加賀藩邸と富山藩邸、天和三年以降は大聖寺藩邸と富山藩邸の地境にあたり、生活排水などを池之端方面へ流す排水路としての機能も持っていた。発掘調査の結果、入院棟地点では、高さ約三メートル、七〜八段積みの石積溝として検出されたが、下部二段(寛文年間以前構築)は、加工が粗く、築石間に隙間が認められるのに対し、上部(天和三年増築)は、丁寧に加工され、ほとんど隙間無く積まれていたことが判明した。
 縁石に再利用された築石のうち、石面がほぼ平坦に加工されている築石は天和三年に、石面が丸味を帯びている築石は寛文年間以前に積まれたものである。
  埋蔵文化財調査室」

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○富山藩上屋敷庭石(ベルツの庭石)

 移設されていますが、富山藩上屋敷の庭園庭石が「ベルツの庭石」として保存されています。

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(説明板)
「ベルツの庭石
 この庭石は不忍池を見下ろす高台にあった旧富山藩御殿の庭園に据えられていたものである。庭園は明治九年に来日したドイツ人教師ベルツ博士の住む教師館に接しており、博士も庭仕事を好んだといわれる。
 庭園のあった御殿は日本語で教育を行う医学別課の教場として使用された。医学別課の廃止に伴い、明治二十六年に御殿は現在の山上会館の地に移築され、残された庭石は博士に因み「ベルツの庭石」と呼ばれるようになった。庭石はその後長く院内の崖地に放置されていたが、平成十八年九月、中央診療棟2の竣工に際しこの地に移設された。
  平成十九年三月  東京大学医学部・医学部附属病院」

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○富山藩上屋敷御殿

 富山藩上屋敷の御殿は、東京医学校の教場(教室)として使用されました。明治26(1893)年に運動場の上に移築された富山藩上屋敷御殿は、「山上御殿」と呼ばれ、総長室などが入る本部や会議所として使われました。山上御殿は、大正12(1923)年の関東大震災で焼失しました。現在は山上会館が建っています。

「運動場」(東京帝国大学 小川一真 明治33年)
 運動場は加賀藩上屋敷の馬場だったところです。運動場の奥に、移築された富山藩上屋敷の御殿が見えます。

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○富山藩上屋敷から移設の石碑(御傘亭)

 育徳園の築山「御傘亭」に、天保6(1833)年銘の富山藩の石碑があります。富山藩邸に伝わる由来不詳の石仏に堂宇を設け祀ったと記されています。なぜここに移設されているのかは不詳です。
 御傘亭は木々が生い茂り、日照不足から藤棚の藤は生育が止まっているとのこと。

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 心字池(三四郎池)がかろうじて見えます。
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(碑文)
 「江戸城之北富山太守藩邸之内従昔相伝有彫石之像…天保六年六月…」

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tag : ベルツ本郷

加賀藩上屋敷遺構 (東京大学)

【上屋敷遺構】
 東京大学は、加賀藩とその支藩である富山藩・大聖寺藩の上屋敷跡や水戸藩中屋敷跡等に設けられました。大半を加賀藩上屋敷が占め、赤門や三四郎池はその遺構です。

「江戸切絵図」
 加賀藩、大聖寺藩、富山藩の上屋敷の記載部分の抜粋です。

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<加賀藩上屋敷と養育院>
 明治5(1872)年10月、ロシア帝国アレクセイ大公の来日に際し、東京府庁は長谷部善七(非人頭車善七は、解放令が発せられ「長谷部善七」と名乗っていました)に窮民を駆集させ、10月15日、旧加賀藩上屋敷の空長屋に仮収容し、取り扱いは長谷部善七にまかされ、「営繕会議所付属養育院」と命名されました。これをもって養育院の創設とされています。(養育院の歴史の続きは、こちらで記載
 長屋は、現在の懐徳門辺りから龍岡門辺りにかけて外周に沿って建てられており、外側に窓がない「盲長屋」だったとのこと。懐徳門付近の石積は長屋と関係しているのでしょうか。龍岡門近くには長屋の井戸跡、石垣と排水口跡が残っています(後述)。

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○旧加賀屋敷御守殿門(赤門) こちらで記載

○三四郎池(心字池)

 正式名称は「育徳園心字池」ですが、夏目漱石「三四郎」以来、三四郎池と呼ばれています。江戸時代には、氷を将軍へ献上するための氷室がありましたが、大学には不要のため廃止されています。
 2代秀忠(引退後)、3代家光、5代綱吉、11代家斉、12代家慶と、5人の将軍が訪れています。明治元(1868)年には明治天皇が行幸の途中で休憩に訪れています。

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 築山「御傘亭」
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 心字池(三四郎池)がかろうじて見えます。
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<水の供給経路>

 水の供給経路が、「育徳園の履歴とあり方」に記載されています。それによると、育徳園心字池への水の供給経路は、三つあります。
①雨水の浸透
 雨水が育徳園および周囲の土壌に浸透し供給されています。
②雨水排水路
 雨水排水路が育徳園に接続されており、排水路を通して雨水が供給されています。
③井水の汲み上げ
 本郷通りに接する藤棚の井戸より、30立方メートル/日を汲み上げ、雨水配管を通して供給されています。

 藤棚横、梅博士植樹碑前の水源の井戸
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 これらとは別に、水の循環を促進するために心字池内にポンプが設置してあり、滝から落とされています。井水も滝から落とされています。
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<徳園心字池碑>

 前田家18代当主・前田利祐氏の書による「舊加賀藩上屋敷育徳園心字池」碑です。平成14(2002)年4月に建てられています。

 (表)
  「舊加賀藩家屋敷育徳園心字池」
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 (裏)
  「平成十四年四月
    財団法人 前田育徳會建立
    題字 前田利祐書」
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<三四郎池(育徳園)>

(説明板)
「三四郎池(育徳園)
 加賀藩主前田氏が、現在の赤門から池にかけての一帯の地を将軍家から賜ったのは、大阪の役後のこと。園池を大築造したのは寛永15年(1638)、その性、豪宕で風雅を好んだという当主前田利常のときである。かれの死後、綱紀がさらに補修して、当時江戸諸侯邸の庭園中第一と称せられた。育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇をきわめたものだといわれている。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の正式名称は「育徳園心字池」なのだが、夏目漱石の小説「三四郎」以来、三四郎池の名で親しまれている。」

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<山口吉郎句碑/有馬朗人句碑>

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(左)
 青邨の号を持つ俳人である鉱山学科教授山口吉郎。
 「銀杏散るまつたゞ中に法科あり」
 昭和61(1986)年建立。

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(右)
 俳人でもある元総長の有馬朗人。
 「銀杏散る万巻の書の頁より」
 平成17(2005)年建立。

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<散水用ポンプ>

 昭和3(1928)年に設置された、池の水を吸い上げる撒水用ポンプ施設です。配管の真下のコンクリートに穴があるので、ここから構内に水を巡らしていたのでしょうか。当時は池への湧水がまだ豊富だったことをうかがわせます。

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<帝大下水>

 撒水用ポンプ施設から下っていく道に、下水蓋「帝大下水」があります。

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○山上会館石垣

 江戸時代初期の遺構で、山上会館建設にともない発掘された石垣を移築したものです。

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(説明板)
「この石垣は、東京大学山上会館の建設に伴う発掘調査で発見され、その一部を移築復原したものである。東西方向に北面して約15mにわたって検出された。三段目まで残存していたが、本来はもっと高く、上に瓦葺き建物が存在した可能性がある。石材は溶結凝灰岩および安山岩で、採石時の鏨跡と刻印が認められる。刻印には金沢城と共通するものがある。江戸時代初期の構築と考えられるが、前田家の史料、絵図には記載が見られない。
  昭和61年7月」

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「矢穴の巨石」
 矢穴のある巨石が無造作に置かれています。

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○加賀藩上屋敷東御長屋上壇の井戸跡

 加賀藩の江戸詰めの藩士が暮らした長屋の井戸跡です。ローソン龍岡門店前の歩道脇に現存しています。

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○東御長屋下水排水口

 ローソン龍岡門店裏に広がる塀の基礎部分に長屋の下水排水口が残っています。

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○蛇塚(お化け灯籠)

 工学部は、前田家の女中屋敷があった場所です。「蛇塚」(お化け灯籠)という1基の燈篭と燈籠の台座が前庭にひっそりとあります。蛇で折檻されて死んだ女中を弔う塚といわれています(真偽不明)。さわらぬ神にたたりなし、ひっそりとあります。

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tag : 夏目漱石マンホール本郷

ミュルレル像ほか 東京大学薬学部・法学部

○ミュルレル像

 薬学部の東側の木立の中に「ミュルレル像」が置かれています。明治4(1871)年、明治政府の招聘により、テオドール・ホフマンとともに来日。

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(説明板)
「Dr. Leopold Muller
 ドクトル レオポルド・ミュルレル 1824〜1893
 1869(明治2年)、明治新政府はドイツ医学の採用を決定し、ドイツ北部連邦公使に2名の医学教師の派遣を要請した。1871(明治4)年8月、ミュルレル(陸軍上等軍医正・外科)とホフマン(海軍軍医正・内科)が来日し、下谷和泉橋の東校(東京大学医学部の前身)に着任した。ミュルレルは1824年ドイツのマインツ生まれ。ボン大学とベルリン大学で医学を学び、プロシア陸軍軍医学校教官、普仏戦争では野戦病院長を務めた。文部卿(大臣)直属のミュルレルとホフマンはわが国の医学教育に全権をもち、過酷なまでに峻厳な改革を行った。約300名の東校の在学生は59名を残して退学とし、新たに予科3年(翌年2年に変更)、本科5年の過程を定めた。また「薬学」は医学と密接に連携する自然科学の独立分科であるとし、製薬学校設立を提案した。これにより1873(明治6)年第一大学区医学校に製薬学科(東京大学薬学部の前身)が設置された。ミュルレルは3年間の契約終了後、1875(明治8)年に帰国、1893年にベルリンで没した。三回忌にあたる1895(明治28)年10月、日本の医学・薬学の恩人として、胸像(制作 藤田文蔵)をこの高台に設置した。胸像は戦後盗難にあったが、1975(昭和50)年に復元された。」

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<ホフマン>

 ホフマンは、西郷隆盛の主治医を務め、脂質異常症の西郷隆盛に対して、食事制限、下剤、犬を連れて毎日8kmの散歩をすることの3つの治療法を行っていました。
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 上野公園の西郷隆盛像が犬を連れているのは、犬を連れて毎日8kmの散歩をする治療の一環です。
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○下山順一郎像

 ミュルレル像の奥に置かれています。
     
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(説明板)
「下山順一郎 1853〜1912
 1853(嘉永6)年尾張犬山で生まれた博士は、1870(明治3)年犬山藩の貢進生に選ばれ大学南校(東京大学の前身)に入学した。1873(明治6)年9月学則の改正により、第一大学区医学校製薬学科(東京大学薬学部の前身)に転学し、1878(明治11)年3月同学科の一期生として卒業、医学部第一回学位授与式では卒業生を代表して答辞を朗読した。博士は1886(明治19)年、かつて3年間留学したドイツのストラスブルク大学よりDoktorder Philosophie、1899(明治32)年にはわが国の薬学博士第1号を授与された。博士は1881(明治14)年医学部助教授、1887(明治20)年医科大学薬学科教授、1893(明治26)年薬学第一講座(生薬学)教授として、教育・研究に尽力されると同時に、東京薬学会(現日本薬学会)の創立や、私財を投じた薬草園(是好薬園)の開設等を通し、後輩の育成にあたった。博士は、在職中の1912(明治45)年2月急逝。先生を偲ぶために1913(大正2)年薬学科教室玄関脇に銅像(制作 武石弘三郎)を設置した。その後建物の整備に伴い、この場所に位置を変更した。」

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 下山順一郎 薬学教授(東京帝国大学 小川一真 明治33年・明治37年)
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○医学部薬局の基礎

 博物館増築時に基礎が出土し懐徳門脇に保存されています。

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(説明板)
「医学部薬局の基礎
 このレンガ積は明治45(1912)年までに建設された旧帝大医学部薬局の基礎で、2002年の薬学系総合研究棟の発掘調査で出土したものである。
 レンガ建造物は、一般的に外壁、外壁腰部の上部構造と地中基礎の下部構造から構成されるが、調査では、外壁腰部と地中基礎部分が確認された。
 このレンガ積みは「イギリス積」と呼ばれる工法で構築され、深さ約1.8m、幅0.7mの溝掘削した後、溝の中にセメントを流した上にレンガが積まれていた。医局基礎の北側は砂利と泥を混ぜた上にコンクリートを流し込んでいるのに対し、南側は砕石の上に流し込まれており、構造上の違いが認められた。
 使用されたレンガは、型枠にレンガ粘土を入れて叩きこんで整形したいわゆる「手抜きレンガ」で、桜の刻印がある小菅収監製が使用されていた。ちなみに前田侯爵邸懷徳館のレンガ基礎には日本煉瓦製造会社製の機械整形レンガが使用されている。」

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○梅謙次郎博士追慕植樹碑

 本郷通り沿いのパーゴラ脇に「梅謙次郎博士追慕植樹碑」があります。梅謙次郎博士は、東京帝国大学法科大学教授を務め、我が国民法典の起草にあたって中心的役割を果たしました。

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「梅謙次郎博士追慕植樹碑」

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(説明板)
「法學博士梅謙次郎先生
 舊松江藩の人
 萬延元年六月誕生明治四十三年
 八月薨去 享年五十一
 民法の大家尓して明治二十三年八月
 以降薨去に至る迄本學教授た里
 又明治二十六年四月以降法典調査
 會尓在りて新法典乃編篇に参與
 し多大能功績あり
  石碑 右側文章

 明治四十四年 故法學博士梅謙次郎先生追慕記念樹
 大正十二年九月震大災の際
 消失したるに由り再植了
 大正十五年十一月
 明治四十年法科大學卒業生及同期生有志
  石碑 左側文章」

「〜平成二十二年に迎える梅博士の生誕百五十年・没後百年を前に、梅の木と石碑をこの場所に移すとともに、三たび木斛を植えることとした。〜
 平成二十一年二月  東京大学法学部」

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 梅謙次郎 民法教授授(東京帝国大学 小川一真 明治37年)
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