三菱一号館美術館 日本工業倶楽部会館

○三菱一号館美術館 千代田区丸の内2-6-1

 「三菱一号館美術館」の赤煉瓦の建物は、三菱社が明治27(1894)年に建設した「三菱一号館」(ジョサイア・コンドル設計)を復元したものです。
 「一号館広場」から見た「三菱一号館美術館」です。
 美術館は2023年4月10から2024年秋までメンテナンスのため休館中です。受付におられたというコンドル像には会えませんでした。

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(説明板)
「三菱一号館
 三菱一号館は1894年(明治27年)に竣工した丸の内で最初のオフィスビルです。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる設計で、ヴィクトリア時代におけるクイーンアンスタイルの煉瓦造3階地下1階建ての建物でした。丸の内では、三菱一号館にはじまり、次々に煉瓦造のオフィスビルが建設され、その街並みは「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれ親しまれました。しかし、戦後の高度経済成長のなか、丸の内の赤煉瓦建築は次々と近代的なオフィスビルに建て替えられ、三菱一号館も竣工から74年後の1968年(昭和43年)に解体されました。2009年、41年の時を経て三菱一号館が当初と同じ場所に、可能な限り忠実に復元されました。
三菱一号館復元の経緯、丸の内の歴史について「歴史史料室」(当館1階)にてご紹介しております。是非お立ち寄りください。
【歴史史料室】10時〜18時(月曜休館、臨時休業有)」

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「三菱第一号館」(コンドル博士遺作集 コンドル博士記念表彰会 昭和7年)

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○日本工業倶楽部会館 国登録有形文化財 千代田区丸の内1-4-6

 日本工業倶楽部会館は大正9(1920)年11月に竣工しました。老朽化による建て替えで、会館の南側部分が保存され平成15(2003)年3月に竣工しました。

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 正面屋上には小倉右一郎作の二つの人像が置かれ、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にし、当時の二大工業石炭と紡績を示しています。

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「日本工業倶楽部会館」(明治大正建築写真聚覧 建築学会 昭和11年)

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tag : 丸の内コンドル煉瓦国登録有形文化財

大名小路 (丸の内)

○大名小路 千代田区丸の内・有楽町

 江戸時代、武家地には町名はついておらず、現在の丸の内は一般に大名小路と呼ばれました。明治時代となり、明治5(1872)年に「永楽町」「八重洲町」「有楽町」の町名がつけられました。
 昭和4(1929)年、丸ノ内一丁目~三丁目という町名が誕生し、「永楽町」「八重洲町」は消えました。昭和45(1970)年、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。

「大名小路神田橋内内桜田之図」(江戸切絵図)

 江戸切絵図の大名小路を含む絵図と大名小路の抜粋です。 江戸切絵図では、大名家の家紋で屋敷の表門の位置を示しています。

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「現在の地図」

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「古図より見たる丸ノ内」(三菱合資会社地所部 1929年)

 昭和4年の丸ノ内町名地番改称記念に、三菱地所部が発行した「古図より見たる丸ノ内」からの抜粋です。

 「寛政八年」 大名屋敷が密集しています。
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 「明治十一年」 軍用地が密集しています。
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 「大正十二年」震災ニヨル焼失区域 震災による被害をほぼ切り抜けています。
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 「昭和二年」  オフィス街となりました。

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 「丸ノ内新町名圖」昭和四年四月十五日改稍 丸ノ内の新町名の誕生です。
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 「丸ノ内舊町名圖」  旧町名「有楽町」「八重洲町」「永楽町」
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 出典
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<現在の大名小路>

 「丸の内ビルディング」「新丸の内ビルディング」の東側を南北に通る都道は、「大名小路」が愛称として使用されています。

 新丸の内ビルディング前の標識
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 案内図に表示されている大名小路(赤線が大名小路)

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<日比谷入江と大名小路>

 日比谷入江の南北は、現在のJR浜松町駅あたりから日比谷公園、皇居外苑、そして大手町まで続いていました。徳川幕府は日比谷入江の埋め立てと、そこに屋敷を建てて住むことを全国の大名に命じました。埋め立てられた入江のうち、愛宕下(現在の新橋赤レンガ通り)から丸の内までの範囲は、多くの大名屋敷が集中していたため、明治維新までの260年間にわたって「大名小路」と呼ばれていました。

 「愛宕ノ下大名小路」(江戸切絵図)
 こちらは愛宕下の大名小路です。
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○行幸通り

 東京駅の開業にあわせ、大正3(1914)年に「行幸通り」は開通しました。アメリカ式のビルが建ち並び、明治期の「一丁倫敦(ロンドン)」の街並みに対し「一丁紐育(ニューヨーク)」と呼ばれました。

 行幸通り(西から東京駅方向)  
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 丸ビル
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「大東京寫眞帖」(昭和5(1930)年 国立国会図書館蔵)
 (左上)行幸道路の右は郵船ビル、左は海上ビル。
 (右上)丸の内ビルディング。通勤者約4千人、事務所數361。
 (左下)郵船ビル。
 (右下)海上ビル。
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○行幸地下ギャラリー 千代田区丸の内1丁目 HP

 行幸地下ギャラリーは、東京駅と内堀通りとをつなぐ地下通路にあるギャラリーです。行幸通りの全長約200mの歩行者専用道路の整備に伴い、地下通路が2007年春に開通しました。
 地下通路の両脇には、全長220mにわたって「行幸地下ギャラリー」が設置されています。イベント展示が行われていない期間には、常設展示として、丸の内界隈を紹介する写真パネルが展示されています。

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○丸の内『一丁倫敦』

 江戸時代は大名屋敷が建ち並んでいた八代洲河岸ですが、明治維新以降は、陸軍の軍用地として使われます。明治政府は軍備の拡張を図るため、軍部を移転することを決定。移転費用は、丸の内一体を払い下げることで捻出することにしました。入札は不落に終わり、岩崎彌之助が率いる「三菱社」が引き受けることになりました。
 明治23(1890)年、「三菱社」は丸の内一帯を買い受けました。軍の施設が移転していく中で丸の内は原野となり「三菱ヶ原」と呼ばれました。
 「三菱社」は、「三菱ヶ原」に明治44(1911)年までに13棟のビルを建設しました。赤レンガ造りの建物が並ぶエリアは、街区が100メートル(1丁)だったことから、「一丁倫敦」とも呼ばれました。

「岩崎弥之助肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 嘉永4年1月8日〜明治41年3月25日
 (1851年2月8日〜1908年3月25日)
 三菱財閥2代目。初代の岩崎弥太郎の弟。
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「丸の内全景」(東京風景 小川一真出版部 明治44年)
 中央にジョサイア・コンドル設計の「第一号館」が見えます。まだ空地の「三菱ヶ原」が見えます。三菱財閥はコンドルを支援しました。

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「日本風景風俗写真帖」(小川一真 明治43年)
 日本語タイトルは「八重洲町通」で、英語タイトルは「A new street looking toward the Imperial Palace, in Tokyo.」。馬場先門から東へ「三菱ヶ原」の中を抜けて、右手の東京府庁に至る道が開通「八重洲町通」と名付けられたようです。
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 写真右手に馬水槽が見えます(こちらで記載)。
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「ジョサイア・コンドル」(丸ノ内今と昔 富山房 昭和16年)
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「コンドル博士遺作集」(コンドル博士記念表彰会 昭和7年)

 三菱第一号館、三菱第二号館(掲示が逆になっています)
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 コンドル肖像と墓(護国寺)
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 博士銅像除幕式(東京大学)
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(参考)
 「工部大学校阯
 「コンドル像
 「鹿鳴館跡
 「東京倶楽部
 「ニコライ堂
 「一丁倫敦
 「三菱1号館
 「訓盲院跡
 「コンドル墓

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tag : 丸の内コンドル

丸の内の由来

○丸の内の由来

 丸の内の地名の由来は、江戸城の内濠と外濠で囲まれた城内であったことにあります。丸の内はもともとは江戸湾の日比谷入江で、日比谷(海苔養殖用のひびに由来)は海苔養殖の中心でした。天正18(1590)年徳川家康江戸入府の後、埋め立てられ、大名の屋敷地となりました。
 江戸時代、武家地には町名はついておらず、一般に大名小路と呼ばれました。明治の時代となり、明治5(1872)年に「永楽町」「八重洲町」「有楽町」の町名がつけられました。
 昭和4(1929)年、丸ノ内一丁目~三丁目という町名が誕生し、昭和45(1970)年、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。

「丸ノ内図」(古図より見たる丸ノ内 三菱合資会社地所部 1929年)

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○千代田区町名由来板「丸の内」 千代田区丸の内1-2

 行幸通りに千代田区町名由来板「丸の内」が設置されています。

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(説明板)
「千代田区町名由来板 丸の内
 江戸時代この界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。
 明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周辺は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。明治の文学者田山花袋は、明治二十年(1887年)ごろの丸の内を次のように描写しています。「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた」(『東京の三十年』)
 この丸の内一帯が大きく変貌をとげたのは明治二十三年(1890)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以後、三菱は大規模な再開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦」ともてはやされるようになりました。
 さらに大正三年(1914)には東京駅も完成。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。
 そのような歴史をもったこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和四年(1929)、丸ノ内一丁目~三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和四十五年(1970)、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。
  大手・丸の内町会」

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○丸の内今昔散歩(歴史と文化の散歩道) 千代田区丸の内1-2

 「千代田区町名由来板丸の内」の隣に、「丸の内今昔散歩(歴史と文化の散歩道)」があります。

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(説明板)
「丸の内の変遷
現在の丸の内は、かつての日比谷入江の東側にあたっており、江戸時代に埋立てられたところである。当時は松平家などの大名屋敷が立ち並び、大名小路と呼ばれていた。明治維新後、屋敷を利用した官庁、兵営地帯となり、さらに明治23年、これらの用地が民間に払い下げられ、日本の著名なビジネス街として生まれ変わった。馬場先通り沿い一帯は、かつてレンガ造りの建物が軒を並べ、一丁ロンドンと呼ばれたこともあった。なお現在の丸ビル街は、東京駅と同様に大正時代に建てられたものである。」

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 ルートには標柱が建てられています。

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tag : 千代田区町名由来丸の内田山花袋

東京駅 (国重文)

○東京駅 国重要文化財 千代田区丸の内1丁目

<新永間市街線高架橋>

 新銭座と永楽町間を結ぶ「新永間市街線高架橋」は、
 明治43(1910)年9月、浜松町、烏森(現・新橋)、有楽町を経て呉服橋仮停車場まで開通しました。
 大正3(1914)年12月には中央停車場が完成し、呉服橋仮停車場は廃止、停車場を駅と改称し東京駅が開業しました。

「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)

 数寄屋橋から新橋方向
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 呉服橋右手が呉服橋停車場本屋
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 開業時の東京駅地図
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 大正元年の麹町区の地図からの抜粋です。東京駅はまだ開業していないので「中央停車場敷地」と記載されています。永楽町二丁目に「呉服橋停車場」が記載されています。
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<辰野堅固>

 中央停車場の駅舎建設工事は1908年3月に起工されました。「日比谷入江」跡の軟弱な地盤を強化するため、杭丸太が1万800本打ち込まれました。鉄骨組立には3157tの鉄材が使用され、「石川島造船所」(現「IHI」)が請け負いました。1911年9月に組立工事が完了しました。構造用煉瓦には、渋沢栄一の「日本煉瓦製造」の煉瓦が使用されました。
 東京駅を設計した辰野金吾は、設計の頑丈さから「辰野堅固」とも呼ばれており、日比谷入江の軟弱な埋め立て地に建つ東京駅が関東大震災を乗り切ったのは、さすが「辰野堅固」といったところです。

 鉄骨完成全景「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)
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 鉄骨組み立て工事の光景ですが、高架線にはすでに呉服橋駅発着で営業運転していた電車が見えます。
 「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)

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「辰野金吾肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 嘉永7年8月22日〜大正8年3月25日
(1854年10月13日〜1919年3月25日)
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「辰野金五工科大学長」(東京帝国大学 小川一真 明治33年)
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(参考)「辰野金吾墓」(こちらで記載


<東京駅の設置>

 東京駅は、永楽町1丁目及び八重洲町2丁目に設置され、皇居側に「八重洲町口」が開かれました。

 東京駅全景「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)
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 東京駅構内「東京市街高架鉄道建築概要」(鉄道院東京改良事務所 1914年)
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「井上勝銅像」(東京市街高架鉄道建築概要 鉄道院東京改良事務所 1914年)

 大正3(1914)年の東京駅開業に合わせて、本山白雲による「井上勝」の銅像が設置されました。(現在の銅像はこちらで記載

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<乗降口>

 東京駅は、中央が皇室専用口で、北側が降車口、南側が乗車口と分かれていました。
 東京市電丸ノ内線の停留所も「東京駅降車口」と「東京駅乗車口」とがありました。停留所は、後にそれぞれ「東京駅丸ノ内北口」、「東京駅丸ノ内南口」に、改称されています。

 「古図より見たる丸ノ内」(三菱合資会社地所部 1929年)より抜粋引用
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<関東大震災からの復興 東京駅>

 関東大震災から7年目の昭和5(1930)年に発行された「大東京寫眞帖」(1930年 国立国会図書館蔵)からの抜粋です。

「飛行機から俯瞰した丸の内東京驛附近」
 東京駅の東側には「八重洲通り」と「八重洲橋」が完成しています。旧「丸ビル」は中空の構造となっているのがわかります。
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「東京駅前の光景」
 大名小路と行幸道路の角に、旧「丸ビル」が見えます。中央郵便局は大正11(1922)年1月4日に漏電により焼失、新たに建設している状況が見えます。写真中央下には、「井上勝像」が見えます。
 解説には、円タク(市内を1円均一で乗せたタクシー)が群がっているとあります。また、三越が赤自動車、白木屋が白自動車で無料で各店に丁寧に乗せていってくれるとあります。
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「デパートメントの食堂」
 無料送迎でデパートに着くと、デパートの食堂が人気でした。震災後、商品サンプルと価格を提示する食堂が増えていきます。食事スタイルも、それまでの履物を脱いで畳に上がる形から、土足のまま腰掛けて食事ができるようになりました。 特に女性が外食をしやすくなったと言われています。(国立国会図書館の解説を参照しました)
 写真には着物の女性が多く写っています。食品サンプルの棚の上段にはスイカが見えます。店内の柱には「プリン」の文字が見えます。
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「東京駅 噴泉浴場」
 東京駅乗車口地階(現在の丸の内南口)に「荘司調髪所」が設けた噴水浴場がありました。他に本業の調髪所があり、喫茶室もありました。噴泉浴場は、「荘司調髪所」が百万円をかけてこしらえ、昭和2(1927)年10月に開所しています。入浴料金は30銭です。当時の東京の銭湯の料金が5銭なので、今の価値だと三千円ちょっとと高いです。

(参考)
 「荘司調髪所」 HP 
 明治3(1870)年、東京常磐橋際に「庄司」創業。理容店として日本で初めて赤青白のサインポールを置く。
 二代目の時に東京駅地階に店舗を構える高級大型理髪店となり、「庄司」から「荘司」へ変更。
 昭和7(1932)年、「荘司調髪所」の支店として、大阪難波に進出し、現在に至っています。

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 右の写真は入浴券の販売機かと思ったら、説明を読むと違っていました。鉄道の自動切符販売台で、十銭を穴に投げ込むと入場券が飛び出します。均一区間の乗車券発売用で全国の駅に設けられるのに先駆けて東京駅に設置されました。英語文には「the ticket slot-machine」とあり、スロットマシン感覚なのですね。

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<八重洲橋と八重洲通り>

 明治17(1884)年に外濠に「八重洲橋」が架けられました。橋名は、日本橋区・京橋区(現在の中央区)から麹町区八重洲町に通じることから付けられました。八重洲橋は東京駅開業に伴い廃止されました。
 昭和4(1929)年、関東大震災の復興事業の一環として日本橋区・京橋区の区境の道路が、拡幅・整備され「八重洲通り」が完成、「八重洲橋」が再び架橋されました。外濠が埋め立てられ、昭和23(1948)年に八重洲橋は撤去されました。

 日本橋三丁目交差点→東京駅八重洲口の「八重洲通り」
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<八重洲橋停留所>

 大正元(1912)年の地図を見ると、東京駅は中央停車場敷地とあり建築中です。八重洲橋はすでに撤去されています。
 東京市電外濠線(明治37(1904)年東京電気鉄道開通、東京鉄道を経て明治44(1911)年東京市電)の停留所「八重洲橋」にその名前を残しています。

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<八重洲橋口→八重洲口>

 昭和4(1929)年、新たに東口に「八重洲橋口」が設けられました。昭和4(1929)年に「八重洲町」は麹町区丸ノ内二丁目に改称され八重洲町は消滅します。「八重洲町口」は「丸の内口」に、「八重洲橋口」は「八重洲口」に改まります。
 昭和29(1954)年には、かつて八重洲町と八重洲橋で結ばれていた東京駅東側一帯の「日本橋呉服橋」及び「槇町」が、それぞれ「中央区八重洲一丁目」及び「中央区八重洲二丁目」となりました。
 現在の丸の内は、旧八重洲町及び旧永楽町の町域を踏襲しているので、東京駅の東側の外堀通りの手前まで、千代田区丸の内です。外堀通りとその東側が中央区八重洲です。このため、大丸東京店や東京駅一番街は八重洲口にありますが、所在地の住所は千代田区丸の内です。東京駅八重洲南口バスターミナルも所在地の住所は千代田区丸の内です。外堀の地下にある八重洲地下街は、中央区八重洲です。

 千代田区(丸ノ内1丁目)と中央区(八重洲1丁目・八重洲2丁目)の区境
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<八重洲町通り>
 「日本風景風俗写真帖」(小川一真 明治43年)
 日本語タイトルは「八重洲町通」で、英語タイトルは「A new street looking toward the Imperial Palace, in Tokyo.」
 馬場先門から東へ「三菱ヶ原」の中を抜けて、右手の東京府庁に至る道が開通「八重洲町通」とあります。八重洲町が存在していた時の名称でしょう。
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 写真右手に馬水槽が見えます(こちらで記載)。
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<東京駅丸の内駅舎(国重要文化財)と丸の内駅前広場>

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<東京駅復元ポスト> 丸の内中央口1階改札内
 東京駅のドーム駅舎復元完成に伴い設置。

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<丸ノ内駅前広場の銅像>

「井上勝像」(こちらで記載
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「アガペーの像」 (こちらで記載
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テーマ : 駅めぐり - ジャンル : 旅行

tag : 国重要文化財煉瓦鉄道遺構辰野金吾井上勝丸の内銅像

八代洲河岸 (ヤン・ヨーステン屋敷地)

○八代洲河岸 千代田区丸の内二丁目

<ヤン・ヨーステン屋敷地>

 現在の八重洲は東京駅の東口ですが、本来の八重洲は、ヤン・ヨーステン屋敷地があった内濠沿いの地名(現在の千代田区丸の内二丁目)でした。明治5(1872)年に初めて町名「八重洲町」ができました。
 大正3(1914)年に永楽町及び八重洲町に東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となり、昭和4(1929)年に「八重洲町」は麹町区丸ノ内二丁目に改称され八重洲町は消滅します。
 昭和29(1954)年には東京駅東側一帯の「日本橋呉服橋」(旧日本橋区)及び「槇町」(旧京橋区)が「中央区八重洲」となりました。

 「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年 国立国会図書館蔵)
  「八重洲町一丁目」及び「八重洲町二丁目」部分の抜粋です。
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「江戸切絵図」

 「八代洲河岸」は、馬場先御門と日比谷御門の間の内濠沿(現在の丸の内3丁目と有楽町1丁目)に記載されていますが、和田倉門〜馬場先門の間の内濠沿(現在の丸の内2丁目)を「八代洲河岸」と記載する版もあります。「八代洲河岸」は、和田倉御門〜馬場先御門〜日比谷御門の内堀沿と認識されていたようです。
 「八代洲河岸」のどこかにヤン・ヨーステン屋敷がありましたが、諸説あり特定できません。
 「馬場先御門」右下に「定火消御役屋敷 松平采女」と記載されています。 歌川広重生誕の地です。

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<歌川広重生誕の地>

 江戸時代の八代洲河岸は、歌川広重の生誕の地でもあります。広重は、寛政9(1797)年、八代洲河岸の定火消屋敷安藤家(現在の明治生命館)で生まれ育ちました。文化6(1809)年、13歳の時に両親を失い火消同心の職を継ぎます。文政6(1823)年、27歳の時には祖父十右衛門の実子の仲次郎に火消同心の職を譲り、浮世絵に専念します。

 安藤広重誕生地跡
 東京都「丸の内今昔散歩」から「安藤広重誕生地跡」部分の抜粋です。
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 明治生命館 千代田区丸の内2-1-1
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tag : 丸の内ヤン・ヨーステン歌川広重

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