Edo-Tokyo・Yaesu History

○Edo-Tokyo・Yaesu History 中央区八重洲1-9-1 外堀地下1番通り

 八重洲の歴史を浮世絵で紹介している江戸東京博物館が監修するギャラリーです。

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<案内図>

 「ヤン・ヨーステン記念像」から、外堀地下1番通りを北に進んだ東壁面にあります。

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<八重洲の由来>

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(説明板)
「「八重洲」の由来
 八重洲」の名は、慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員であったヤン・ヨーステンの名に由来するという。ヤン・ヨーステン(日本名、耶揚子)は、徳川家康の通訳として重用され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりを八代洲(やよす)河岸といった。「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、その「八重洲」という広域地名が、初めて町名となったは明治5年(1872)のこと(現・千代田区丸の内一丁目付近)。その後大正3年(1914)に東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。ちなみに、リーフデ号の水先案内人であった英国人ウイリアム・アダムズ(日本名:三浦按針)も家康の外交顧問となり、日本橋近くに屋敷を与えられたので、このあたりを按針町(現・室町一丁目、本町一丁目)といった。
 左上:ヤン・ヨーステン像 L.P.J.ブラート作(八重洲地下街センタースポット)
 右上:徳川家康像(「東照大権現霊夢像」)徳川記念財団所蔵
 左下:ウィリアム・アダムス(和名:三浦按針)像 重岡建治作(伊東市渚公園)
 右下:リーフデ号模型「サン・ブエナ・ヴィンツェーラ号」像 重岡建治作(伊東市渚公園)」

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<一石橋から見た「水の都」>

 「名所江戸百景 八つ見のはし」(広重)を掲示。

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<繁昌する江戸のメインストリート>

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(説明板)
「繁昌する江戸のメインストリート
 今に続く江戸のメインストリート、通町筋(現・中央通り)。道幅約18メートルに及ぶこの土の道に行き交う人々と軒を連ねる大店。画家のまなざしは、木彫りの龍を戴く建看板、あるいは屋根上に梯子が聳え立つ自身番屋に注がれており、これらが不自然なほどに大きく描かれている。通り右端の書店には、天井から釣り下がった絵を興味深そうに指さす子どもが描きこまれており、その姿が微笑ましい。「日本橋付近」というタイトルをもつこの絵は、幕末の江戸を訪れたプロシアの外交使節団がまとめた報告書の付図で、繁昌する江戸の様子を克明に伝える貴重な記録である。
「日本橋附近」(「公式資料によるプロイセンの東アジア遠征」の付図) 東京都江戸東京博物館所蔵」

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<京橋夜景>

 「名所江戸百景 京橋竹がし」(広重)を掲示。

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<ウォーターフロントでの歌舞伎>

 「江戸名所図屏風」を掲示。

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<日本橋>

 「江戸名所図屏風」を掲示。

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<城郭都市「江戸」>

 「江戸絵図屏風」を掲示。

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tag : ヤン・ヨーステン三浦按針

ヤン・ヨーステン記念像

○ヤン・ヨーステン記念像 中央区八重洲2-2-2 外堀地下1番通り

 東京駅八重洲地下街(外堀地下1番通り)に、「ヤン・ヨーステン記念像」が置かれています。
 「EDO-TOKYO・YAESU HISTORY」により、ヤン・ヨーステンの解説や、リーフデ号の航海経路などが紹介されています。

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<ヤン・ヨーステン記念像>

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(台座銘文)
「ヤン・ヨーステン記念像 オランダ人 LPJブラート作
ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦一六○○年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまゝ日本に住みつき徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言をする役目についた。その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代洲河岸と称せられ、更に八重洲になった。こゝに彼を偲んで記念像を置く。」

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<八重洲の由来となったオランダ人>

 「EDO-TOKYO・YAESU HISTORY」「八重洲の由来となったオランダ人 ヤン・ヨーステン」の説明パネルです。

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(説明板)
「八重洲の由来となったオランダ人
 ヤン・ヨーステン ?〜1623
 ヤン・ヨーステン(オランダ人・日本名、耶楊子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦按針)等とともに慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員だった。
 ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といった。
 「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・丸の内1丁目付近)。
 その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
 日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。
 また、慶長14年(1609)、長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。
 のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰帆途中、船が難破して亡くなった。」

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「リーフデ号の航海経路」
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「阿蘭陀船(長崎歴史文化博物館所蔵」
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「江戸時代の東京駅付近」
 「和田倉門の南に八代洲河岸の表記がある。」
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「現在の東京駅周辺」
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「リーフデ号模型」(日本郵船歴史博物館所蔵)
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<八重洲地下街案内図>

 案内図には「ヤン・ヨーステン記念像(Jan Joosten van Loodensteyn statue)」が記載されています。

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<ヤン・ヨーステンのイラスト>

 ヤン・ヨーステンが、外堀地下1番通りのマスコットキャラクターとなっています。

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tag : ヤン・ヨーステン三浦按針銅像

八ツ見橋 (一石橋)

○八ツ見橋(一石橋)

 一石橋は、八つの橋を見渡せ、江戸の名所のひとつでした。西に道三堀の銭瓶橋、道三橋、北に外堀の常盤橋、南に外堀の呉服橋、鍛冶橋、東に日本橋川の日本橋、江戸橋、それと一石橋を加えて八橋が見えました。


「名所江戸百景 八ツ見のはし」(広重)

 「八ツ見のはし」(一石橋)から、道三堀の銭瓶橋と奥に道三橋が見えます。

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「江戸名所図会 八見橋」

 日本橋と江戸橋は後に掲載するとして省略、六橋が描かれています。

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「狂歌江都名所図会 八ツ見橋」(広重)

 日本橋と江戸橋は後に掲載されており、六橋が描かれています。

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「絵本江戸土産 八ツ見橋の景 其二」(広重)

 「八ツ見橋の景」と「其二」を繋げました。全ての八橋が描かれています。

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「東都名所 八ツ見之橋真景」(広重 都立図書館蔵)

 鳥瞰図ですべての八橋が描かれています。

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「江戸城の昔と今」(東京国際フォーラム掲示)抜粋

 江戸橋以外の七橋です。

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「富士三十六景 東都一石ばし」(広重)

 一石橋(手前)と銭瓶橋(奥)さらに奥に道三橋が描かれています。

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「日本橋より一石橋を見る図」(国直)

 日本橋より見た一石橋です。

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「一石橋夕景」(小林清親)

 明治初期の一石橋を小林清親が描いています。

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「一石橋」(江戸の今昔 歌川広重 昭和7年)

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【現在の一石橋】 中央区日本橋本石町一丁目〜中央区八重洲一丁目

 日本橋川上流右岸からの一石橋
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<一石橋の歴史> 中央区日本橋本石町1-1

 日本橋川左岸下流側に、「一石橋の歴史」碑があります。

(碑文)
「一石橋の歴史
 一石橋は寛永年間(一六二四〜一六四七年)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
 一石橋の上流半分は、昭和四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流側半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている。」

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 左岸下流の親柱(旧袖柱)
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 左岸上流の親柱(旧袖柱)
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<一石橋の親柱> 中央区文化財 中央区八重洲1-11

 日本橋川右岸上流側に、「一石橋の親柱」と説明板があります。大正11(1922)年に建造された親柱です。

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(説明板)
「中央区民文化財 一石橋の親柱
   所在地 八重洲一町目十一番先
 皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
 木橋としては最後となった明治六年(一八七三)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(一九二二)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
 平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
  平成十五年三月  中央区教育委員会」

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<一石橋迷子しらせ石標> 東京都文化財 中央区八重洲1-11

 一石橋迷子しらせ石標があり、几号水準点が刻まれています。

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(説明板)
「東京都指定有形文化財(歴史資料)
 一石橋迷子しらせ石標
    所在地 中央区八重洲一ー一一
    指 定 大正一三年二月五日 府仮指定
 江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政四年(一八五七)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。
 碑文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を欠いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほ
か湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同様のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。
 総高一七五・七cm(棹石一六三cm、台石一二・七cm)、棹石正面幅三六cm、同奥行二六cm、台石正面幅七〇cm、同奥行六八・五cm。作者などは不詳である。
  平成二三年三月 建設  東京都教育委員会」

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tag : 江戸名所図会歌川広重小林清親几号水準点日本橋川

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