楠木正成像 馬場先門跡 明治生命館(国重文)
○楠木正成像 千代田区皇居外苑1-1
楠木正成像は、別子銅山を開いた住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に作成依頼し、宮内庁へ献納したもので、高村光雲など東京美術学校(岡倉天心校長)の職員らにより作成され、明治33(1900)年7月に完成し献納されたものです。(「楠木正成像」(住友グループ広報委員会)を参照しました。)






(説明文)
「楠木正成(くすのきまさしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて後醍醐天皇(ごだいごてんのう:1288年〜1339年)に仕えた武将です。鎌倉幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。
この銅像は、隠岐(おき)から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた楠木正成の勇姿を象ったものです。」

<台座銘文>
台座の銘文には、住友15代友純の名で「亡兄友忠、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造し、天皇陛下の御前に献納したい」と記されています。
「自臣祖先友信開伊豫別子山銅坑子孫継業二百季亡兄友忠深感国恩欲用其銅鋳造楠公正成像献之闕下家允未果臣継其志菫工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識」


○特別史跡江戸城跡 千代田区皇居外苑1
<案内板「特別史跡江戸城跡」>
楠木正成像への入口に案内板「特別史跡江戸城跡」があります。
(案内板)
「特別史跡 江戸城跡
江戸城は長禄元年(一四五七)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二四年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四四年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。
この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和三八年五月三十日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。
環境省皇居外苑管理事務所」



○馬場先門跡 千代田区皇居外苑1
馬場先門交差点に、説明板「馬場先門跡」があります。
(説明板)
「馬場先門跡
門の名は、寛永期(1624?1644年)に門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。 門は1629年(寛永6年)に築造されました。 枡形石垣は1906年(明治39年)に撤去されました。
明治維新後、二重橋からこの門を経た丸の内一帯は東京の中心街となり、現在も丸の内には復元された三菱一号館や、明治生命館、東京府庁舎跡などがあります。
千代田区」

○明治生命館 千代田区丸の内2-1-1
馬場先門交差点角に、国の重要文化財の明治生命館があります。




楠木正成像は、別子銅山を開いた住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に作成依頼し、宮内庁へ献納したもので、高村光雲など東京美術学校(岡倉天心校長)の職員らにより作成され、明治33(1900)年7月に完成し献納されたものです。(「楠木正成像」(住友グループ広報委員会)を参照しました。)






(説明文)
「楠木正成(くすのきまさしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて後醍醐天皇(ごだいごてんのう:1288年〜1339年)に仕えた武将です。鎌倉幕府を倒し、約150年の武家政権から、朝廷による支配の復活を図りました。
この銅像は、隠岐(おき)から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた楠木正成の勇姿を象ったものです。」

<台座銘文>
台座の銘文には、住友15代友純の名で「亡兄友忠、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造し、天皇陛下の御前に献納したい」と記されています。
「自臣祖先友信開伊豫別子山銅坑子孫継業二百季亡兄友忠深感国恩欲用其銅鋳造楠公正成像献之闕下家允未果臣継其志菫工事及功竣謹献
明治三十年一月
従五位臣住友吉左衛門謹識」


○特別史跡江戸城跡 千代田区皇居外苑1
<案内板「特別史跡江戸城跡」>
楠木正成像への入口に案内板「特別史跡江戸城跡」があります。
(案内板)
「特別史跡 江戸城跡
江戸城は長禄元年(一四五七)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二四年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四四年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。
この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和三八年五月三十日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。
環境省皇居外苑管理事務所」



○馬場先門跡 千代田区皇居外苑1
馬場先門交差点に、説明板「馬場先門跡」があります。
(説明板)
「馬場先門跡
門の名は、寛永期(1624?1644年)に門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧し朝鮮馬場と呼ばれていたことに由来します。 門は1629年(寛永6年)に築造されました。 枡形石垣は1906年(明治39年)に撤去されました。
明治維新後、二重橋からこの門を経た丸の内一帯は東京の中心街となり、現在も丸の内には復元された三菱一号館や、明治生命館、東京府庁舎跡などがあります。
千代田区」

○明治生命館 千代田区丸の内2-1-1
馬場先門交差点角に、国の重要文化財の明治生命館があります。




浅草見附跡(浅草御門)
〇江戸城 浅草見附跡 台東区浅草橋1-1-15
浅草見附は、当時36ヵ所あった江戸城の門の一つで、現在は碑が建っているだけです。見付門と呼ばれる警備施設があった場所で、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」とも呼ばれました。
吉原に水路で向かう場合、浅草御門近くの柳橋から猪牙舟に乗り、大川(隅田川)をたどって山谷堀の最下流の今戸橋で下船して、そこから日本堤を徒歩か駕籠で向かいました。
浅草見附跡碑の裏面に、浅草見附跡の説明が刻まれています。昭和31年10月建立。
(TAITOおでかけナビより引用)
「神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側の橋のたもとに「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附が置かれたのは寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々を取り締まりました。」




<旧町名由来案内 下町まちしるべ>
(説明板)
「旧 浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(一九三四)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、柵町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。 台東区」

「浅草橋見附」(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)
木橋の時の浅草橋です。

「東京開化三十六景 柳橋ヨリ浅草橋」(三代広重)
明治7(1874)年架橋の石造アーチ橋が描かれています。

「浅草橋夕景」(井上探景(井上安治)明治13年)
井上安治が浅草橋を描いています。浅草橋は石造アーチ橋です。
余白には「画工 小林清親」と記されていますが、署名は「井上安次」となっています。

「浅草橋夕景」(井上安治)
神田川上流へ、柳が連なって植わっています(柳原堤)。

「浅草橋雨中之景」(井上探景(井上安治) 明治14年)
光線画の浅草橋です。

浅草見附は、当時36ヵ所あった江戸城の門の一つで、現在は碑が建っているだけです。見付門と呼ばれる警備施設があった場所で、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」とも呼ばれました。
吉原に水路で向かう場合、浅草御門近くの柳橋から猪牙舟に乗り、大川(隅田川)をたどって山谷堀の最下流の今戸橋で下船して、そこから日本堤を徒歩か駕籠で向かいました。
浅草見附跡碑の裏面に、浅草見附跡の説明が刻まれています。昭和31年10月建立。
(TAITOおでかけナビより引用)
「神田川に架かる浅草橋は、江戸時代には浅草見附があったところで、台東区側の橋のたもとに「浅草見附跡」の碑が建っています。浅草見附が置かれたのは寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附の一つで、枡形の門は「浅草御門」と呼ばれ、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々を取り締まりました。」




<旧町名由来案内 下町まちしるべ>
(説明板)
「旧 浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(一九三四)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、柵町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。 台東区」

「浅草橋見附」(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)
木橋の時の浅草橋です。

「東京開化三十六景 柳橋ヨリ浅草橋」(三代広重)
明治7(1874)年架橋の石造アーチ橋が描かれています。

「浅草橋夕景」(井上探景(井上安治)明治13年)
井上安治が浅草橋を描いています。浅草橋は石造アーチ橋です。
余白には「画工 小林清親」と記されていますが、署名は「井上安次」となっています。

「浅草橋夕景」(井上安治)
神田川上流へ、柳が連なって植わっています(柳原堤)。

「浅草橋雨中之景」(井上探景(井上安治) 明治14年)
光線画の浅草橋です。

プリンス・トクガワ―新時代への布石(国重文)
○徳川昭武
【経歴】
嘉永6(1853)年~明治43(1910)年。
水戸藩主徳川斉昭の18男。慶応2(1866)年、清水家を継ぎ、翌年徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に赴く。「プリンス・トクガワ」と呼ばれ、次期将軍候補と目されました。渋沢栄一は会計担当として赴きました。昭武は引き続きフランスで留学生活を送りますが、明治維新のため急遽帰国し、最後の水戸藩主となりました。
明治9(1876)年にはアメリカ大博覧会御用掛として渡米し、再びフランスに留学します。明治14(1881)年に帰国、以後明治天皇に奉仕します。
明治16(1883)年5月に隠居願を出し、甥の篤敬に家督を譲った翌年には、生母秋庭を伴い、戸定邸(千葉県松戸市)に移りました。この邸宅には徳川慶喜や東宮時代の大正天皇などが訪れました。
明治25(1892)年、次男の武定が子爵に叙されて松戸徳川家を創設します。
造園にも注力し、現在は千葉大学園芸学部の用地に西洋式庭園を築いています。与謝野晶子が和歌に詠んだ「松戸の丘」です。
明治43(1910)年7月3日、小梅邸にて死去、享年58。
徳川昭武が晩年を過ごした「戸定邸」は、明治期の徳川家の住まいが、ほぼ完全に残る唯一の建物で、国指定重要文化財となっています。また、戸定邸が建つ前庭は国指定名勝の「旧徳川昭武庭園」となっています。
【近世名士写真 其2 近世名士写真頒布会 昭10】

【珍らしい写真 永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年】(マルセーユ)

【手札版写真(徳川昭武、土屋挙直、清水篤守)(ニューヨーク)

○戸定が丘歴史公園 松戸市松戸714-1
<日本の歴史公園100選 戸定が丘歴史公園>









コアラのマンホール蓋

<戸定館由来>
徳川昭武の子息武定公は、昭和26年に敷地と建物を松戸市に寄贈され、松戸市は戸定館と命名しました。
徳川慶喜家は敷地と建物を物納し跡には大木と碑が残るのみ、徳川宗家は将軍墓地を西武に売却、松戸徳川家は、昭和20年代に庭園の一部を売却しましたが(松戸市が平成25年に買い戻します)、その他は物納でも売却でもなく、地元の松戸市に寄贈したので現在に残っているのでしょう。


<戸定邸>



<房総の魅力500選 戸定館>


<国指定名勝 旧徳川昭武庭園>




<松雲亭>


<東屋庭園>
売却された後、松戸市が買い戻しています。






富士山が見える庭園です。




<連絡通路>
千葉大学園芸学部への連絡通路がありますが、施錠されています。


○戸定歴史館 松戸市松戸714-1
戸定が丘歴史公園への入園は無料ですが、戸定邸(徳川昭武邸)、戸定歴史館への入館には別途費用がかかります。
「戸定歴史館」では、徳川昭武の遺品や慶喜家伝来品、パリ万博資料などが展示されています。ちょうど、特別展「プリンス・トクガワ―新時代への布石」が開かれていました。渋沢栄一関連資料もありました。館内撮影禁止なので、以下館内画像はありません。



<パンフレット/特別展資料>




後列左に渋沢栄一が写っています。


「珍らしい写真」(永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年)
国立国会図書館所蔵の書籍に、写真がありました。
「徳川民部大輔一行
慶應三年三月朔日(一八六七年四月五日)沸國マルセーユにて
中央徳川民部大輔」


<天皇皇后両陛下行幸啓記念碑>
藤岡保子(1883~1966年)が、上皇后さま(皇太子妃殿下時代)に書をご進講されていた縁で、平成15(2003)年3月31日、皇后陛下は戸定歴史館で開催中の「現代かな書の最高峰 藤岡保子展」を鑑賞されるため行啓されました。
藤岡保子は、明治16(1883)年、昭武の実兄である土屋挙直の4女として生まれました。祖父は水戸藩主・徳川斉昭、祖母は昭武の生母でもある万里小路睦子です。
息子の博武は初代松戸徳川家の徳川武定の婿養子として、第2代松戸徳川家を継承しました。3代文武氏が皇后陛下と一緒に写真に写っています。

○ひなげしの小径 与謝野晶子・寛歌碑 戸定が丘歴史公園内
与謝野晶子が千葉大園芸学部を訪れて詠んだ60首の中から18首と、寛の歌1首を加えて、赤御影石に刻まれ、「ひなげしの小径」として配置されています。平成23(2011)年1月27日に除幕式が行われました。
「ひなげしの小道」
「このみちをひなげしの小経と命名する」



「しもふさの松戸におほく楽みて少く愁ふ花のかたはら」
「天に去る薔薇のたましひ地の上に崩れて生くるひなげしの花」
「ひなげしと遠く異る身となりぬ松戸の丘に寄りて思へば」
「南国の草木が仮の宿とせる硝子の部屋にわれもあらまし」
「松戸なる人の贈りしひなげしを置けばいみじきうすものの膝」
「時は午路の上には日かげちり畑の土にはひなげしのちる」
「花下総の松戸に見れば散る雲も柳絮の如くなつかしきかな」
「隙も無く円くしげりてアカシヤの華やかに立つ丘の路かな」
「六月や長十郎と云ふ梨の並木に立ちて明きみちかな」
「花園は女の遊ぶところとてわれをまねばぬ一草もなし」
「紫のあやめがわれを描くなり若き友をばひなげしの描く」
「浅間の森の木暗しここはまた夏の花草火投げて遊ぶ」
「ひなげしは芝居の席につく如く楽みて散り土に身を置く」
「いろいろの波斯のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑」鉄幹
「ひなげしは夢の中にて身を散らすわれは夢をば失ひて散る」
「二三人紅き野薔薇の傘形のあづまやに入りよく笑ふかな」
「夏の花漫りに咲くとなげくなりいつより心変りはてけん」
「白薔薇は真紅の薔薇に気上りしわれの涙に従ひておつ」
「くれなゐの形の外の目に見えぬ愛欲の火の昇るひなげし」
【経歴】
嘉永6(1853)年~明治43(1910)年。
水戸藩主徳川斉昭の18男。慶応2(1866)年、清水家を継ぎ、翌年徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に赴く。「プリンス・トクガワ」と呼ばれ、次期将軍候補と目されました。渋沢栄一は会計担当として赴きました。昭武は引き続きフランスで留学生活を送りますが、明治維新のため急遽帰国し、最後の水戸藩主となりました。
明治9(1876)年にはアメリカ大博覧会御用掛として渡米し、再びフランスに留学します。明治14(1881)年に帰国、以後明治天皇に奉仕します。
明治16(1883)年5月に隠居願を出し、甥の篤敬に家督を譲った翌年には、生母秋庭を伴い、戸定邸(千葉県松戸市)に移りました。この邸宅には徳川慶喜や東宮時代の大正天皇などが訪れました。
明治25(1892)年、次男の武定が子爵に叙されて松戸徳川家を創設します。
造園にも注力し、現在は千葉大学園芸学部の用地に西洋式庭園を築いています。与謝野晶子が和歌に詠んだ「松戸の丘」です。
明治43(1910)年7月3日、小梅邸にて死去、享年58。
徳川昭武が晩年を過ごした「戸定邸」は、明治期の徳川家の住まいが、ほぼ完全に残る唯一の建物で、国指定重要文化財となっています。また、戸定邸が建つ前庭は国指定名勝の「旧徳川昭武庭園」となっています。
【近世名士写真 其2 近世名士写真頒布会 昭10】

【珍らしい写真 永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年】(マルセーユ)

【手札版写真(徳川昭武、土屋挙直、清水篤守)(ニューヨーク)

○戸定が丘歴史公園 松戸市松戸714-1
<日本の歴史公園100選 戸定が丘歴史公園>









コアラのマンホール蓋

<戸定館由来>
徳川昭武の子息武定公は、昭和26年に敷地と建物を松戸市に寄贈され、松戸市は戸定館と命名しました。
徳川慶喜家は敷地と建物を物納し跡には大木と碑が残るのみ、徳川宗家は将軍墓地を西武に売却、松戸徳川家は、昭和20年代に庭園の一部を売却しましたが(松戸市が平成25年に買い戻します)、その他は物納でも売却でもなく、地元の松戸市に寄贈したので現在に残っているのでしょう。


<戸定邸>



<房総の魅力500選 戸定館>


<国指定名勝 旧徳川昭武庭園>




<松雲亭>


<東屋庭園>
売却された後、松戸市が買い戻しています。






富士山が見える庭園です。




<連絡通路>
千葉大学園芸学部への連絡通路がありますが、施錠されています。


○戸定歴史館 松戸市松戸714-1
戸定が丘歴史公園への入園は無料ですが、戸定邸(徳川昭武邸)、戸定歴史館への入館には別途費用がかかります。
「戸定歴史館」では、徳川昭武の遺品や慶喜家伝来品、パリ万博資料などが展示されています。ちょうど、特別展「プリンス・トクガワ―新時代への布石」が開かれていました。渋沢栄一関連資料もありました。館内撮影禁止なので、以下館内画像はありません。



<パンフレット/特別展資料>




後列左に渋沢栄一が写っています。


「珍らしい写真」(永見徳太郎編 粋古堂 昭和7年)
国立国会図書館所蔵の書籍に、写真がありました。
「徳川民部大輔一行
慶應三年三月朔日(一八六七年四月五日)沸國マルセーユにて
中央徳川民部大輔」


<天皇皇后両陛下行幸啓記念碑>
藤岡保子(1883~1966年)が、上皇后さま(皇太子妃殿下時代)に書をご進講されていた縁で、平成15(2003)年3月31日、皇后陛下は戸定歴史館で開催中の「現代かな書の最高峰 藤岡保子展」を鑑賞されるため行啓されました。
藤岡保子は、明治16(1883)年、昭武の実兄である土屋挙直の4女として生まれました。祖父は水戸藩主・徳川斉昭、祖母は昭武の生母でもある万里小路睦子です。
息子の博武は初代松戸徳川家の徳川武定の婿養子として、第2代松戸徳川家を継承しました。3代文武氏が皇后陛下と一緒に写真に写っています。

○ひなげしの小径 与謝野晶子・寛歌碑 戸定が丘歴史公園内
与謝野晶子が千葉大園芸学部を訪れて詠んだ60首の中から18首と、寛の歌1首を加えて、赤御影石に刻まれ、「ひなげしの小径」として配置されています。平成23(2011)年1月27日に除幕式が行われました。
「ひなげしの小道」
「このみちをひなげしの小経と命名する」



「しもふさの松戸におほく楽みて少く愁ふ花のかたはら」
「天に去る薔薇のたましひ地の上に崩れて生くるひなげしの花」
「ひなげしと遠く異る身となりぬ松戸の丘に寄りて思へば」
「南国の草木が仮の宿とせる硝子の部屋にわれもあらまし」
「松戸なる人の贈りしひなげしを置けばいみじきうすものの膝」
「時は午路の上には日かげちり畑の土にはひなげしのちる」
「花下総の松戸に見れば散る雲も柳絮の如くなつかしきかな」
「隙も無く円くしげりてアカシヤの華やかに立つ丘の路かな」
「六月や長十郎と云ふ梨の並木に立ちて明きみちかな」
「花園は女の遊ぶところとてわれをまねばぬ一草もなし」
「紫のあやめがわれを描くなり若き友をばひなげしの描く」
「浅間の森の木暗しここはまた夏の花草火投げて遊ぶ」
「ひなげしは芝居の席につく如く楽みて散り土に身を置く」
「いろいろの波斯のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑」鉄幹
「ひなげしは夢の中にて身を散らすわれは夢をば失ひて散る」
「二三人紅き野薔薇の傘形のあづまやに入りよく笑ふかな」
「夏の花漫りに咲くとなげくなりいつより心変りはてけん」
「白薔薇は真紅の薔薇に気上りしわれの涙に従ひておつ」
「くれなゐの形の外の目に見えぬ愛欲の火の昇るひなげし」
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
徳川慶喜終焉の地など
○一橋徳川家屋敷跡 千代田区大手町1-4
徳川15代将軍となる徳川七郎麻呂が養子に入った一橋徳川家の屋敷があった場所です。
標柱「一橋徳川家屋敷跡」「千代田区観光協会 平成九年六月」


(説明板)
「一橋徳川家 屋敷跡
一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子の宗尹が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は、二世治済の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。」

<七郎麻呂時代肖像(七歳)>
「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の、七郎麻呂時代肖像です。4年後に一橋徳川家を相続します。

○一ツ橋 千代田区一ツ橋二丁目・神田錦町三丁目?一ツ橋一丁目・大手町一丁目
一ツ橋は日本橋川に架かり、現在の橋は、大正14(1925)年11月5日の架橋です。




<一橋門跡> 千代田区神田錦町3-19(説明板)
一ツ橋の北東詰に、説明板「一橋門跡」があります。
(説明板)
「一橋門跡
一橋門は、徳川家が江戸城に入ったころにはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われています。17世紀中頃には、付近に松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆殿橋と呼ばれたこともありました。なお清水家、田安家と並んで徳川御三卿と称された一橋徳川家の屋敷は1740年(元文5年)から、門内にありました。
この門の石垣は、1629年(寛永6年)に築造、1873年(明治6年)に撤去されており、現在では川岸にわずかな高石垣だけが残っています。現在の橋は、1925年(大正14年)に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つで、都内に造られた12のラーメン橋台橋の内、唯一当時の姿を今に残すものです。」



<一橋門石垣跡> 千代田区大手町1-4
一橋門の石垣は明治6(1873)年に撤去され、川岸にわずかな高石垣だけが残っています。


○徳川慶喜公謹慎之間 台東区上野桜木1-14-11
江戸幕府が慶応3(1867)年に大政奉還し、徳川慶喜は、翌慶応4(1868)年2月12日から4月11日までの2カ月間、水戸に出発するまで、東叡山寛永寺の子院の一つ「大慈院」の一室に蟄居しました。
現在は、寛永寺書院「葵の間」と呼ばれ、寛永寺根本中堂の裏手の通路の先に葵の間があります。
特別参拝(根本中堂、葵の間、徳川将軍御霊廟)は、コロナ対策で現在は自粛しているようです。


水戸へ去る徳川慶喜は、三の輪橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けました。
(三の輪橋については、こちらで言及しています)
○徳川慶喜巣鴨屋敷跡 豊島区巣鴨1-18
白山通り沿いの歩道に、標柱「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」と、説明板「巣鴨に住んでいた徳川慶喜」が建てられています。
(説明板)
「巣鴨に住んでいた徳川慶喜
徳川幕府十五代将軍徳川慶喜〔天保八年(一八三七)~大正二年(一九一三)〕がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治三十年(一八九七)十一月、慶喜六十一歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年三月には皇居に参内、明治三十五年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。
巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治三十四年十二月までの四年間で、その後小日向大六天町(現文京区小日向一・四丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白~田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。
平成十年五月
巣一商店街
豊島区教育委員会」








<東京巣鴨邸座敷>
「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の、「東京巣鴨邸座敷」です。
庭に鶴が降り立っているのどかな光景です。

○徳川慶喜終焉の地 文京区春日2-8-9
国際仏教学大学院大学と丸の内線の線路際に説明板「徳川慶喜終焉の地」が建っています。
(説明板)
「徳川慶喜終焉の地 文京区指定史跡 (平成26年3月1日指定) 文京区春日2-8-9
徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、明治維新後、駿府(静岡県静岡市)に隠棲した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没す。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。
文京区教育委員会 平成26年12月」




<徳川慶喜公屋敷跡> 文京区春日2-8-10
国際仏教学大学院大学の正門脇に標柱「徳川慶喜公屋敷跡」が建っています。






<慶喜邸屋敷大銀杏>
大学構内に、慶喜邸屋敷大銀杏があります。



<東京小日向邸玄関/同邸居間>
「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の「東京小日向邸玄関」と「同邸居間」です。玄関にイチョウが見えます。


<閑居時代(東京)肖像>

<旧第六天町>
(説明板)
「旧第六天町(昭和41年までの町名)
もと、小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に、第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。
明治2年、称名寺門前を併せ、同5年には旧大久保長門守下屋敷、寺地、先手組屋敷などを合併した。町名は、第六天前町の前の字を省いて、第六天町と町名を変更した。
今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年に、徳川最後の将軍慶喜が移って来た。そして、大正2年、ここで波乱の一生を終わった。」



(参考)
第六天町は、松平容保終焉の地でもあります。こちらで記載→「松平容保終焉の地」
「第六天町(昭和41(1966)年までの町名)に見る「松平容保終焉の地」と「徳川慶喜終焉の地」

徳川15代将軍となる徳川七郎麻呂が養子に入った一橋徳川家の屋敷があった場所です。
標柱「一橋徳川家屋敷跡」「千代田区観光協会 平成九年六月」


(説明板)
「一橋徳川家 屋敷跡
一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子の宗尹が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は、二世治済の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。」

<七郎麻呂時代肖像(七歳)>
「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の、七郎麻呂時代肖像です。4年後に一橋徳川家を相続します。

○一ツ橋 千代田区一ツ橋二丁目・神田錦町三丁目?一ツ橋一丁目・大手町一丁目
一ツ橋は日本橋川に架かり、現在の橋は、大正14(1925)年11月5日の架橋です。




<一橋門跡> 千代田区神田錦町3-19(説明板)
一ツ橋の北東詰に、説明板「一橋門跡」があります。
(説明板)
「一橋門跡
一橋門は、徳川家が江戸城に入ったころにはすでに架けられており、大きな丸木が一本架けられただけの橋であったことから、この名がつけられたと言われています。17世紀中頃には、付近に松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆殿橋と呼ばれたこともありました。なお清水家、田安家と並んで徳川御三卿と称された一橋徳川家の屋敷は1740年(元文5年)から、門内にありました。
この門の石垣は、1629年(寛永6年)に築造、1873年(明治6年)に撤去されており、現在では川岸にわずかな高石垣だけが残っています。現在の橋は、1925年(大正14年)に架けられた関東大震災の復興橋梁の一つで、都内に造られた12のラーメン橋台橋の内、唯一当時の姿を今に残すものです。」



<一橋門石垣跡> 千代田区大手町1-4
一橋門の石垣は明治6(1873)年に撤去され、川岸にわずかな高石垣だけが残っています。


○徳川慶喜公謹慎之間 台東区上野桜木1-14-11
江戸幕府が慶応3(1867)年に大政奉還し、徳川慶喜は、翌慶応4(1868)年2月12日から4月11日までの2カ月間、水戸に出発するまで、東叡山寛永寺の子院の一つ「大慈院」の一室に蟄居しました。
現在は、寛永寺書院「葵の間」と呼ばれ、寛永寺根本中堂の裏手の通路の先に葵の間があります。
特別参拝(根本中堂、葵の間、徳川将軍御霊廟)は、コロナ対策で現在は自粛しているようです。


水戸へ去る徳川慶喜は、三の輪橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けました。
(三の輪橋については、こちらで言及しています)
○徳川慶喜巣鴨屋敷跡 豊島区巣鴨1-18
白山通り沿いの歩道に、標柱「徳川慶喜巣鴨屋敷跡」と、説明板「巣鴨に住んでいた徳川慶喜」が建てられています。
(説明板)
「巣鴨に住んでいた徳川慶喜
徳川幕府十五代将軍徳川慶喜〔天保八年(一八三七)~大正二年(一九一三)〕がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治三十年(一八九七)十一月、慶喜六十一歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年三月には皇居に参内、明治三十五年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。
巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人からは、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治三十四年十二月までの四年間で、その後小日向大六天町(現文京区小日向一・四丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白~田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。
平成十年五月
巣一商店街
豊島区教育委員会」








<東京巣鴨邸座敷>
「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の、「東京巣鴨邸座敷」です。
庭に鶴が降り立っているのどかな光景です。

○徳川慶喜終焉の地 文京区春日2-8-9
国際仏教学大学院大学と丸の内線の線路際に説明板「徳川慶喜終焉の地」が建っています。
(説明板)
「徳川慶喜終焉の地 文京区指定史跡 (平成26年3月1日指定) 文京区春日2-8-9
徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、明治維新後、駿府(静岡県静岡市)に隠棲した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没す。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。
文京区教育委員会 平成26年12月」




<徳川慶喜公屋敷跡> 文京区春日2-8-10
国際仏教学大学院大学の正門脇に標柱「徳川慶喜公屋敷跡」が建っています。






<慶喜邸屋敷大銀杏>
大学構内に、慶喜邸屋敷大銀杏があります。



<東京小日向邸玄関/同邸居間>
「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一 竜門社 1918年)に掲載の「東京小日向邸玄関」と「同邸居間」です。玄関にイチョウが見えます。


<閑居時代(東京)肖像>

<旧第六天町>
(説明板)
「旧第六天町(昭和41年までの町名)
もと、小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に、第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。
明治2年、称名寺門前を併せ、同5年には旧大久保長門守下屋敷、寺地、先手組屋敷などを合併した。町名は、第六天前町の前の字を省いて、第六天町と町名を変更した。
今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年に、徳川最後の将軍慶喜が移って来た。そして、大正2年、ここで波乱の一生を終わった。」



(参考)
第六天町は、松平容保終焉の地でもあります。こちらで記載→「松平容保終焉の地」
「第六天町(昭和41(1966)年までの町名)に見る「松平容保終焉の地」と「徳川慶喜終焉の地」

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
長命寺 清瀬市
○長命寺 清瀬市下清戸2-470
徳川将軍正室2名、側室2名、夭逝子女の墓石があり、奉献石燈籠が15基と多数あります。







<薬師堂>



・「惇信院殿 尊前」寶暦十一(1761)年六月十二日の奉献。
九代将軍徳川家重公の霊前奉献石燈籠です。


・「文昭院殿 尊前」正?二(1712)年十月十四日の奉献。
六代将軍徳川家宣公の霊前奉献石燈籠です。


<薬師堂裏>
「有章院殿 尊前」正徳六(1716)年四月晦日の奉献。
七代将軍徳川家継公の霊前奉献石燈籠です。
石燈籠は笠の一部が欠けています。


<本堂前石燈籠2基>
(左)「有徳院殿 尊前」「奉獻石燈籠 兩基 東叡山」寛延四(1751)年六月二十日の奉献。
八代将軍徳川吉宗公の霊前奉献石燈籠です。




(右)「常憲院殿 尊前」「奉獻石燈籠一基 東叡山」寛永六(1629)年正月十日の奉献。
五代将軍徳川綱吉公の霊前奉献石燈籠です。



両基とも「贈 清瀬長命寺 上野寛永寺 昭和四拾年九月弐拾日・・・」と刻まれています。
<八角宝塔2基>
八角宝塔が2基あります。6代将軍徳川家宣公の正室天英院(近衛熙子)と、11代将軍徳川家斉公の正室廣大院(近衛寔子)の2基です。宝塔には文字が刻まれていないのでどちらがどうなのかはわかりません。




<石燈籠10基>
(左)「惇信院殿 尊前」寶暦十一(1761)年六月十二日の奉献。
5基全てが九代将軍徳川家重公の霊前奉献石燈籠です。






(右)「有徳院殿 尊前」寛延四(1751)年六月廿日の奉献。2基あります。




「有章院殿 尊前」正徳六(1716)年四月晦日の奉献。2基あります。


「惇信院殿 尊前」寶暦十一(1761)年六月十二日の奉献です。1基あります。

境内で確認できた石燈籠は、合計16基。
増上寺の石燈籠ー惇信院7基、文昭院1基、有章院3基。
寛永寺の石燈籠ー常憲院1基、有徳院3基。
<板碑>
墓地の歴代住職墓所に板碑があります。

○徳川将軍側室と子女墓石
墓地に徳川将軍側室と夭折子女の墓石があります。


<瑞春院殿>
瑞春院殿(5代綱吉側室)墓石です。
「瑞春院殿到誉清月凉池大禅定尼尊儀」
元文3年(1738年)6月9日死去。
墓標は宝篋印塔で、本来存在しないはずの笠石が組み合わされています。
移築時に間違ったものと思われます。
長男の徳松君の墓石が練馬区の長命寺にあります。






<契真院殿>
契真院殿(11代家斉側室)墓石です。
「契真院殿登譽宝岸了智大姉」
天保6(1835)年1月11日死去。




<照耀院殿>
左:12代将軍徳川家慶の十一男:照耀院(1843年)


<蓮玉院殿>
左から2基目:12代将軍徳川家慶の十一女:蓮玉院殿(1843年)

<不明>
左から3基目。戒名が剥がれていて不明。

○旧清瀬薬師
志木街道の向かい側に、かつて清瀬薬師がありました(境内に移転)。
現在は駐車場ですが、徳川家霊廟に奉献された石燈籠等の部品が積まれています。
台徳院殿尊前石燈籠の竿部分が確認できました。







徳川将軍正室2名、側室2名、夭逝子女の墓石があり、奉献石燈籠が15基と多数あります。







<薬師堂>



・「惇信院殿 尊前」寶暦十一(1761)年六月十二日の奉献。
九代将軍徳川家重公の霊前奉献石燈籠です。


・「文昭院殿 尊前」正?二(1712)年十月十四日の奉献。
六代将軍徳川家宣公の霊前奉献石燈籠です。


<薬師堂裏>
「有章院殿 尊前」正徳六(1716)年四月晦日の奉献。
七代将軍徳川家継公の霊前奉献石燈籠です。
石燈籠は笠の一部が欠けています。


<本堂前石燈籠2基>
(左)「有徳院殿 尊前」「奉獻石燈籠 兩基 東叡山」寛延四(1751)年六月二十日の奉献。
八代将軍徳川吉宗公の霊前奉献石燈籠です。




(右)「常憲院殿 尊前」「奉獻石燈籠一基 東叡山」寛永六(1629)年正月十日の奉献。
五代将軍徳川綱吉公の霊前奉献石燈籠です。



両基とも「贈 清瀬長命寺 上野寛永寺 昭和四拾年九月弐拾日・・・」と刻まれています。
<八角宝塔2基>
八角宝塔が2基あります。6代将軍徳川家宣公の正室天英院(近衛熙子)と、11代将軍徳川家斉公の正室廣大院(近衛寔子)の2基です。宝塔には文字が刻まれていないのでどちらがどうなのかはわかりません。




<石燈籠10基>
(左)「惇信院殿 尊前」寶暦十一(1761)年六月十二日の奉献。
5基全てが九代将軍徳川家重公の霊前奉献石燈籠です。






(右)「有徳院殿 尊前」寛延四(1751)年六月廿日の奉献。2基あります。




「有章院殿 尊前」正徳六(1716)年四月晦日の奉献。2基あります。


「惇信院殿 尊前」寶暦十一(1761)年六月十二日の奉献です。1基あります。

境内で確認できた石燈籠は、合計16基。
増上寺の石燈籠ー惇信院7基、文昭院1基、有章院3基。
寛永寺の石燈籠ー常憲院1基、有徳院3基。
<板碑>
墓地の歴代住職墓所に板碑があります。

○徳川将軍側室と子女墓石
墓地に徳川将軍側室と夭折子女の墓石があります。


<瑞春院殿>
瑞春院殿(5代綱吉側室)墓石です。
「瑞春院殿到誉清月凉池大禅定尼尊儀」
元文3年(1738年)6月9日死去。
墓標は宝篋印塔で、本来存在しないはずの笠石が組み合わされています。
移築時に間違ったものと思われます。
長男の徳松君の墓石が練馬区の長命寺にあります。






<契真院殿>
契真院殿(11代家斉側室)墓石です。
「契真院殿登譽宝岸了智大姉」
天保6(1835)年1月11日死去。




<照耀院殿>
左:12代将軍徳川家慶の十一男:照耀院(1843年)


<蓮玉院殿>
左から2基目:12代将軍徳川家慶の十一女:蓮玉院殿(1843年)

<不明>
左から3基目。戒名が剥がれていて不明。

○旧清瀬薬師
志木街道の向かい側に、かつて清瀬薬師がありました(境内に移転)。
現在は駐車場ですが、徳川家霊廟に奉献された石燈籠等の部品が積まれています。
台徳院殿尊前石燈籠の竿部分が確認できました。







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