斎藤茂吉歌碑 童馬山房跡・青山脳病院跡 他

○童馬山房跡 港区南青山4-17-40 王子グリーンヒル

 広大な敷地にローマ築風の青山脳病院と斎藤家の住居がありました。空襲で病院と家が全焼した昭和20(1945)年まで、茂吉はここに住み、病院経営のかたわら、童馬山房と称し短歌の創作に打ち込みました。
 大きな木は「楡」ではなく「くす」でした。

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 斎藤茂吉の歌碑が建っています。昭和52(1977)年11月の建立です。
 「あかあかと一本の道通りたり霊剋るわが命なりけり 茂吉」
 「童馬山房跡 昭和丁巳霜月」

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(説明板)
「斉藤茂吉翁(一八八二〜一九五三)は、日本の近代短歌史上に偉大な足跡を残しました。
 この地は、茂吉翁が明治四十年から昭和二十年四月まで約四十年間居住し、病院経営にあたるかたわら、童馬山房と称し短歌の創作に専念されたところです。
 「あかあかと一本の道通りたり 
     霊剋るわが命なりけり」
 この短歌は、大正二年、茂吉翁三十一歳の自筆の歌で、当時の青山の景観と自身の境涯とを重ね合わせて詠んだものです。
  王子不動産株式会社」

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○青山脳病院跡/斎藤茂吉歌碑 世田谷区松原6-37-1 東京リハビリテーションセンター世田谷

 青山脳病院は、大正13(1924)年12月29日に全焼し、松原の地を再建地として大正15(1926)年4月7日に開業しました(斎藤紀一院長→斎藤茂吉院長→斎藤茂太院長)。
 青山の地には小規模な脳外科の診療所が再建されました。
 斎藤茂吉家は青山脳病院を昭和20(1945)年3月、東京都に譲渡し山形に疎開しました。譲渡された病院は「東京都立松沢病院分院」として診療を開始、昭和27(1952)年に児童思春期精神科の専門病院「東京都立梅ヶ丘病院」となり、昭和55(1980)年には児童福祉法による第一種自閉症児施設となりました。平成22(2010)年、東京都立清瀬小児病院・東京都立八王子小児病院と統合され、東京都立小児総合医療センターとなったことに伴い閉鎖されました。

<斎藤茂吉歌碑>

 かつての青山脳病院の敷地に建つ、東京リハビリテーションセンター世田谷に茂吉の歌碑が建っています。

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 「茂吉われ院長となりいそしむを
  世のもろびとよ知りてくだされよ 茂吉」

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(碑文)
「大正十五年に港区南青山から当地に移設された青山脳病院は、昭和二年から同二十年まで、斎藤茂吉氏が院長として運営にあたられたが、同二十年東京都に移管され、新たに都立松沢病院分院として発足した。
 その後、昭和二十七年に松沢病院より独立して都立梅ヶ丘病院となり、心病む小児の専門病院として今日に至っている。
 ここに院内施設の全面的増改築が完成したことを記念して、この碑を建立する。
  昭和六十二年三月 東京都」

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「東京都立梅ヶ丘病院」は解体され更地となり、跡地に現在の施設が建っています。「斎藤茂吉歌碑」は生き残りました。

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○東京都立光明学園 世田谷区松原6-38-27

 東京リハビリテーションセンター世田谷の隣にあるのが「東京都立光明学園」です。令和6年2月末まで、建て替え工事が続いています。昭和7年に国内初の公立肢体不自由教育校「東京市立光明学校」が港区麻布に開校しました。画像は、建て替え前の都立光明特別支援学校です。
 建て替えで、隣接していた東京都立梅ヶ丘病院だった敷地にも、光明学園の建物が建てられています。

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(参考)
 ○ 寄寓の地/歌碑  (台東区三筋)
 ○ 童馬山房跡/歌碑 (港区南青山) 本頁
 ○ 青山脳病院跡/歌碑(世田谷区松原) 本頁
 ○ 斎藤茂吉と塩原温泉(塩原温泉)
 ○ 斎藤茂吉終焉の地 (新宿区大京町)
 ○ 斎藤茂吉の墓   (港区南青山)


○サザエさん銅像 世田谷区桜新町2-9

 平成24(2012)年3月25日の建立。

 「磯野波平・磯野カツオ・磯野ワカメ・磯野フネ」
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 「フグ田サザエ・フグ田タラオ・フグ田マスオ」
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斎藤茂吉歌碑(三筋)

○斎藤茂吉歌碑 台東区三筋2-16-4

 斎藤茂吉は、明治29(1896)年8月に上京し(14歳)、浅草区東三筋町斎藤紀一方に寄寓しました。長崎医専の教授をしていた時に、三筋町を懐かしんで詠んだ歌の碑が、三筋老人福祉館と三筋保育園の中庭にあります。歌碑は昭和50(1975)年12月の建立です。

 「浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や 茂吉」

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(説明板)
「斎藤茂吉の歌碑  台東区三筋二丁目十六番四号
  浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの
          如や過ぎゆく光の如や 茂吉
 斉藤茂吉は、明治・大正・昭和にわたり、日本近代文学史上に偉大なる足跡を残したアララギ派の歌人で、医学者でもあった。
 山形県に生れ、明治二十九年、十五歳のときに上京、浅草区東三筋町五十四番地、養父斉藤紀一方に寄寓し、開成中学・一高・東京大学医学部を経て、長崎医学専門学校教授となり、更に文部省在外研究員として欧州に研鑚し、その後、青山脳病院長となり、作歌の傍ら、研究・評論・随筆など独自の業績をあげ、その著「柿本人麿」にて学士院賞を、次いで昭和二十六年文化勲章を授与され、昭和二十八年二月二十五日、七十年九か月の生涯を終えた。
 因みにこの三筋町は、茂吉が、第二の故郷として、夢多き少年時代を過し、生涯懐しんだところで、短歌は、長崎在住のときに当時を回想し、詠んだものである。
  平成三十年三月  台東区教育委員会」

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○旧町名由来案内 台東区三筋2-16-8 台東区立三筋二丁目児童遊園

 台東区立三筋保育園の裏に、台東区立三筋二丁目児童遊園があり、旧町名由来案内が設置されています。

<旧町名由来案内 浅草三筋町一・二丁目>

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(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草三筋町一丁目・二丁目
 この地は、江戸期より書院番組屋敷地、大番組屋敷地および武家屋敷地であった。明治維新後、江戸期の武家地は整理されて市街地に組み入れられていった。その過程の中で、町名三筋の誕生は、明治五年(一八七二)八月であった。
 昭和十六年(一九四一)、浅草三筋町一・二丁目は誕生した。一丁目は浅草栄久町南側半分、西三筋町、同東三筋町、同南富坂町西一部、同南元町西一部を合した。二丁目は浅草栄久町の南側一部と同北三筋町の大部分を中心に、同森下町西一部を合わせた。
 三筋町の名は、幕府下級官吏の屋敷町で、そこに三筋の道があったことにちなむとも、三筋の組屋敷があったからともいう。
 本町には、アララギ派の歌人で歌学者、医者として有名な文化勲章受章者の斎藤茂吉が住んでいた。その茂吉が長崎医専の教授をしていた時に、三筋町をなつかしんで詠んだ歌で「浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や」の文学記念碑が三筋二丁目にある。 台東区」

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