磨墨塚(南馬込)

○磨墨塚 大田区南馬込3-18-21

 梶原景季の愛馬「磨墨」は、この地の産であったとも、またこの地で死んだとも伝承されています。明治33(1900)年に馬込村の人々により伝説にもとづいて磨墨碑が建てられました。

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(説明板)
「磨墨塚(するすみづか)の由来
 磨墨は、源頼朝の家臣だった梶原影季(鎌倉時代の武将)の愛馬であり、平家物語で有名な宇治川の合戦で、佐々木高綱の乗った「池月」と先陣を争った名馬です。その影季の愛馬「磨墨」をこの場所に埋めたとの言い伝えがあり、明治三十三年(一九○○)八月に、馬込村の有志により、石碑が建立されました。馬込は、鎌倉時代に梶原景時(景季の父)の領地であったとの説があり、近くの古刹萬福寺には、景時の墓とされる墓石や「磨墨」の銅像があります。また、周辺には、「磨墨」が落命したという「駒落の谷」や「磨墨」が鐙を落としたという「鐙谷」に由来する「鐙坂」などの地名が残っています。
  萬福寺」

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<磨墨塚>

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<庚申塔>

 享保5(1720)年銘の庚申塔です。

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<道標>

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<馬頭観世音>

 大正元(1912)年10月銘の馬頭観世音供養塔です。

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(参考)
 「磨墨像」(こちら
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 「池月像(こちら
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萬福寺(南馬込)

「江戸名所図会 萬福寺 馬込八幡宮 梶原屋敷」

 挿絵には「萬福寺」「長久寺」「八幡宮」「神明」と注記があります。タイトルにある「梶原屋敷」は本文に記載はありますが挿絵に注記はありません。

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 萬福寺の拡大です。右に神明社が描かれています。

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○庚申燈籠 大田区南馬込1-40-11 神明社

 江戸名所図会から、神明社部分の拡大です。

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 神明社に、大田区文化財「庚申燈籠」があります。神明社は幼稚園を併設しており、幼稚園を囲む柵の外から庚申燈籠と説明板を見ました。享保3(1718)年に、馬込村久保谷の庚申講の人々が造立した燈籠型の庚申塔です。

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(説明板)
「大田区文化財 庚申燈籠
 享保三年(一七ー八)に、馬込村久保谷の庚申講の人々によって庚申供養のため建てられた燈龍である。
 燈龍型の庚申塔は、他地域にも類例があるが、それは銘文や三猿を彫ったものが多い。しかし、この塔のように竿石の正面に、庚申信仰の本尊である青面金剛像を彫ったものは珍しく、貴重である。
 庚申講とは、「庚申の夜、寝てしまうと体内にいる『三尸』という虫が抜け出て、天帝に日頃の罪状を報告され命が縮められてしまう」という言い伝えがあり、そのため眠らずに過ごし、『延命招福』を祈ったものである。
 村の仲間が徹夜で酒食をともにすることから、レクリエーションや村の連帯をはかる寄合にもなった。
  昭和五十年三月十九日指定  大田区教育委員会」

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○萬福寺 大田区南馬込1-49-1 HP

【表参道】
<山門>

 茅葺屋根の山門です。

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 扁額「慈眼山 勅賜永平卍海書」。博容卍海は、永平寺(福井県永平寺町)54世、文政4(1821)年寂。
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<境内案内図>

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<曹洞宗慈眼山萬福寺(禅宗)>

「縁起
 江戸名所図絵に「慈眼山萬福寺馬込村にあり曹洞派の禅林にして本尊は金銅阿弥陀観音勢至一光三尊なり。相伝う当寺は梶原平三景時創立の梵宇なり」と。
 当寺は鎌倉時代の初期、建久年間(一一九○年頃)に梶原景時が将軍源頼朝の命により大檀那となり梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として大井丸山と云う処に建立された。
 元応二年(一三二○年)に火災にあい、景時の墓所のある馬込へ移され再建された。
 室町時代末期になり寺域荒廃し、天正三年(一五七五年)に相模鎌倉の禅僧明堂文龍大和尚によって従来の密教寺院から曹洞宗に改め再興された。
 当山創建以来実に八百年その間栄枯盛衰を極むるも法灯連綿として仏法脈々り正法を相伝し総柤中の発菩提心により今日の隆昌をみる。爾今永代に亘り平安護持すべきものなり
  昭和六十一年張る彼岸 萬福寺護持会」

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<石標「三國傳来 三光阿弥陀如来」>

 明治15 (1882) 年6月の造立です。

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<名馬磨墨の像>

 「名馬磨墨」の像は、昭和61(1986)年10月1日の造立です。
 洗足池には「池月」像があります(こちらで記載)。

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(説明板)
「名馬「するすみ」の像
 当山開基梶原景時は源氏の武将その子原源太景季は父共々源平の合戦に出陣して数々の武勲を上げた 頼朝は恩賞として頼朝の名馬「するすみ」を景季に「池月」を佐々木高綱に与えた 宇治川合戦での先陣争いは名勝負としてあまりにも有名である
 その「するすみ塚」は当山南二丁の処(南馬込三丁目臼田坂上)に祀られている
 その昔馬込一帯は丘陵台地で馬の放牧が盛んであった「するすみ」は馬込の産とも云われて生地に葬り祀ったと云われている
 「するすみ」の紋所は鎌倉殿の「源氏笹りんどう」である
 この「するすみ」の像は当山創建八百年を記念して供養のため梶原家ゆかりの当山に建立したものである
  昭和六十一年 秋彼岸会  萬福寺護持会」

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「宇治川先陣」(歌川国芳 東京富士美術館蔵)
 寿永3(1184)年1月、木曽義仲と、源頼朝が派遣した源範頼・源義経との間で行われた「宇治川の戦い」の様子が描かれています。
 中央に頼朝より賜った名馬「池月」を駆る「佐々木四郎高綱」が波しぶきを上げながら岸に駆け上がり先陣を切っています。
 右側後方には、高綱から馬の腹帯が緩んでいると声をかけられ出し抜かれた磨墨(するすみ)を駆る梶原源太景季の姿が見えます。右側後方奥には、宇治川に先陣するも、渡河の途中で馬を射られた「畠山庄司重忠」が歩いている姿が見えます。

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<閻魔堂>

 山門を入った右に「閻魔堂」はあります。閻魔大王と脇侍の司令、司録の像が鎮座しています。脱衣婆はいません。

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 江戸名所図会に、現在と同じ場所に「ゑんま」が描かれています。 男坂と女坂が見えます。

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<男坂/女坂>

 正面は男坂を登って中門へ。
 斜め右は女坂を登って鐘楼門へ。
 東の梶原殿参道を行くと梶原殿へ。
 西は霊園へ。
 説明板が3基並んでいます。

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(説明板)
「大田区文化財 馬具(非公開)
 当寺には馬具の各部、鞍一口・鐙一掛・轡二掛が伝わっている。
 鞍は総体が金の梨子地で、前後の輪に高蒔絵の手法で布袋が描かれる。梶原景時が戦陣で用いたものと伝えられるが、鞍の形式及び蒔絵の作風から十六世紀前半頃の作とみられ、『新編武蔵風土記稿』に記される北条氏直の家臣梶原三河守所用のそれにあたる可能性がある。
 鎧は鉄製黒漆塗りで、鞍と一具をなしたものとみられる。轡は鉄製鍛造の十文字轡で、二掛のうちどちらかは鞍・鎧に付随するものだろう。轡が二掛現存することから、もう一組、別の馬具の存在が推測できる。
  昭和五十年三月十九日指定  大田区教育委員会」
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(説明板)
「大田区文化財 板碑群(非公開)
 当寺の境内からは約五十基の板碑が発掘されており、そのうち年代の読めるものは元徳二年(一三三○)から明応二年(一四九三)までの約三十基である。
 極めて素朴なものが多く、その主尊は主に阿弥陀一尊種子である。十四世紀から十五世紀に多摩川下流域で造立された武蔵型板碑のなかでも、伝統的な板碑から変化し、地域色を持ったものと言える。
 当寺は鎌倉時代に大井村丸山(品川区)に真言宗寺院として創建されたが、元応二年(一三二○)に現在地に移転し、天文三年(一五三四)に曹洞宗へ改宗している。板碑はすべて現地移転以後、真言宗時代のものである。
  昭和四十九年二月二日指定  大田区教育委員会」
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(説明板)
「大田区文化財 阿弥陀如来及び両脇侍立像(非公開)
 中尊 阿弥陀如来、像高 八七・三センチメートル
 左脇侍 観音菩薩 像高 五八・七センチメートル
 右脇侍 勢至菩薩 像高 五七・七センチメートル
 当寺の本尊で、銅製鋳造の三尊像である。その作風、鋳造技法から鎌倉時代の製作とみられる。
 いま光背は失われているものの、中尊は左手の第二・三指を伸ばし、ほかの指を曲げ、両脇侍は胸の前で両手を重ねる、いわゆる善光寺式阿弥陀三尊像である。鎌倉時代に長野・善光寺秘仏本尊の模造が流行し、この種の阿弥陀三尊像は関東地方を中心に多く作られた。本像は現存する鋳銅製の作例中では甲府・善光寺像に次ぐ大きさを誇る。
  昭和四十九年二月二日指定  大田区教育委員会」
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<中門(無量門)>

 男坂の石段を登ると中門の「無量門」があります。平成10 (1998)年10月20日の建立です。

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<鐘楼門>

 女坂を上ると「鐘楼門」があります。鐘楼堂は明治33(1900)年の落成です。

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【境内西側】

<日蓮上人参籠祈願之霊跡>

 弘安5年(1282)9月18日、日蓮上人は千束池で休み、夕暮の中を池上へ向かいましたが、病状重く進退極まり、馬籠の萬福寺阿弥陀堂(当時:大井村丸山)へ宿泊されました。翌日に念持仏の鬼子母神を萬福寺に奉納して村人たちに送られて池上邸に到着したといいます。(萬福寺HPを参照しました)

(説明板)
「万福寺の鬼子母神
 総檀中の心願により霊跡塔を建立した処その念願成就して鬼子母神現わる。誠に不思議なる因縁なり。昭和初期の荒廃時に当山を離れてより風雪五十年。その間所処を転じ、いみじくも聖人の足跡を辿って身延近き富士吉原に在りしが諸行無常なり。故に自ら法輪を転じ聖人の意志である本来の鎮守たる馬込の萬福寺に無事帰山した。
 是正に神通力による奇蹟なるべし。時恰も聖人の七百回忌なり。鬼子母神の霊験かくの如くあらたかなり。
 本鬼子母神は日蓮聖人が参籠された九月十八日の翌朝謝誼として持佛を奉納されたものと伝えられている。
 当山では堂宇の守護神として歴代の住持が護持相伝したもので馬込の貴重なる文化遺産である。
  昭和六十二年十月吉祥日  曹洞宗 萬福禅寺」

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<天勝観音>

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<三界萬霊/地蔵尊>

 萬福寺HPによると、
 「寛永二年(1705) 三界万霊塔が建立される。」
 「宝暦四年(1754) 十一世萬柱風峯大和尚が本堂前へ石造地蔵尊を建立す。」

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<半杓水>

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(説明板)
「半杓水
 越前永平寺はきれいな水の豊富な処です。永平寺開創の道元禅師さまは、一杯の柄杓の水でも、全部お使いにならず、半分は元の川の中に、静かにおかえしになられたと伝えられています。
 それはもののいのちを大切にする禅師さまのお心くばりから出たものでしょう。
 また、のちの世の人々が不自由しないようにとのやさしい思いやりと祈りの現れでもあるのです。
 永平祖山の正門にある左右の大石柱は永平七三世泰禅禅師の揮豪による詩文です。
  杓底一残水 しゃくていのいちざんすい
  汲流千億人 ながれをくむせんおくにん
これは半杓水の所作そのものが禅の心であり多くの人々が山門に入れば、生きた仏教の真髄を汲みとっていくであろうと云う意味もあらわしているのです。
  平成元年五月吉祥日  萬福寺山主」

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<子安観音>

 昭和58(1983)年5月の開眼です。

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【境内東側】

<御札所/六地蔵>

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<日待供養塔> 大田区文化財

 寛永15(1638)年に建立の宝篋印塔で、日待供養塔です。梶原塚からの移設です。

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(説明板)
「大田区文化財 日待供養塔 
 この供養塔は、寛永十五年(一六三八)に馬込村の人びとが造立した。
 高さ三メートルにおよぶ大型の石塔で、現在はさらに新しい台石の上にのせられている。相輪が大きく、笠石・基礎が比較的小さい、近世初期によく見られる形式の宝篋印塔である。
 もとは中馬込三丁目二十五番付近の「梶原塚」と呼ばれるところに建てられていたが、昭和三十年頃に当寺境内に移されている。
 馬込では大正期まで日待の習俗が行われており、江戸初期から現代まで伝承された民間信仰の資料として貴重である。
  昭和四十九年二月二日指定  大田区教育委員会」

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<六地蔵念仏供養塔>

 6体の地蔵が陽刻されています。

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<慈眼回顧録>

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<摩尼輪堂/磨墨観音>

 平成10(1998)年1月12日の建立です。1階は「摩尼輪堂」、2階は「磨墨観音」です。

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 広目天(西)
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 多聞天(北)
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 持国天(東)
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 増長天(南)
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 厄除地蔵菩薩
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<庚申燈籠>

 左 寛文10(1670)年の造立。尊像は阿弥陀尊像。
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正面右側に「庚申」の文字があります。
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 右 寛文元(1661)年の造立。尊像は観音立像。
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<板碑>

 境内から約50基の板碑が発掘されています。

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<道元禅師歌碑>

 昭和61(1986)年の建立です。
 「春は花 夏ほとときす 秋は月 冬雪ふりて すすしかりけり」

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<書院・洗心閣>

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<本堂>

 本堂は、平成17(2005)年に新築、落成しています。

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<梶原景時由緒大絵馬「洞窟の頼朝」>

 平成10 (1998)年10月20日の奉納です。杉山洞窟に坐す頼朝が刻まれています(下山昇氏作)。

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<萬福妙録>

 昭和61(1986)年の建碑です。戦後の寺跡が刻まれています。

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<石標>

 「當山開基(源頼朝随将)
  梶原平三景時公菩提寺
  梶原公八百遠忌(二○○○年)
  當山佛殿 梶原殿
  記念事業として建立(一九九六年)」

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【墓地】

<納骨堂>

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○梶原景時墓所

 石標が複数あるので迷うことはありません。

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(説明板)
「当山開祖 梶原平三景時の墓
 梶原景時は源頼朝の重臣で鎌倉幕府の代表的武将である。治承四年(一一八○年)頼朝は伊豆において源氏再興の挙兵をなし小田原石橋山の戦いで平家の軍勢大庭景親に敗れた。
 この時景時はいち早く頼朝を助け洞穴にかくまい機を見て真鶴海岸より舟で安房(千葉)に逃れさせた。
 その後、頼朝と共に東国武士を臣属せしめて鎌倉幕府を擁立した。
 建久年間(一一九○年)には頼朝の命により当山を建立し大檀那となり三国伝来の三尊仏を本尊として祀り鎌倉殿の昌運と必勝祈願をなした。その霊験あらかたなり。
 源平の戦いでは義経・範頼等と共に兵を引きいて富士川の戦・一ノ谷の合戦などで勝ち赫々たる武勲を上げその名を天下に轟かす。
 景時は鎌倉殿の絶大なる信任により頼朝の随身として常に幕府の要職にあり終生変らず頼朝に忠節を尽し全うした。
 最も頼朝は命の恩人である景時がいなかったら頼朝もなく鎌倉幕府も出現しなかったと言われている。景時の功績は大きく実に天下をゆるがすものであり誠に美事と言わざるを得ない日本の歴史的重要な人物の一人である。
 頼朝薨去(一一九九年)後の正治二年正月廿(一二○○年)三河、今の静岡で壮烈な戦死を遂げ当山に祀る。
 歌舞伎十八番の石切梶原の鎌倉八幡宮社頭の名場面は余りにも有名である。
  昭和六十一年秋彼岸  萬福禅寺」
(※「三河、今の静岡」とあるのは「駿河、今の静岡」)

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「當山開基梶原景時公菩提塔
 万福寺殿香山不陰大居士位」(昭和59年)

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 開基梶原景時公の「五輪塔」は、慶長年中後半(1607〜1615)の再建のようです(寺HPに記載あり)。
 「正治二庚申正月二十日 万福寺殿」

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<歴代和尚の墓>

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○魔術の女王 松旭斉初代天勝の墓

 松旭斉初代天勝は、夫で東京外語大スペイン語教授の金澤一郎と共に眠っています。

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(説明板)
「魔術の女王 松旭斉初代天勝の墓
 初代天勝(本名・中井カツ)は日本一の魔術師松旭斉天一の弟子として入門。十一オの春初舞台、十六才で欧米巡業の旅に出て二○才で魔術の女王と謳われ、明治・大正・昭和の三代に亘り一世を風びした。
 天勝劇団は百名に及ぶ座員これを率いて国内はじめ欧米諸国を長期公演すること数十回、その名声は日本の天勝から世界の天勝へ飛躍す。
 震災後、後藤新平東京市長の要請により海外からの見舞御礼としてハワイ・シスコ・ロスを興行中、人気沸勝して全米を圧し、逐に念願のニューヨークの桧舞台に上る。この間一年有半となる。
 大正十四年四月帰国。帝刺で帰朝披露をなし美事ダイヤの女王時代を築く。この時初めて我が邦にジャズダンスとレビューを入れて天勝の全盛期を迎える。戦中は国のため滅死奉公として国内・朝鮮・満州・支那の奥地まで悉く巡業慰問したことは特筆すべきものである。
 又、日本の伝統文化を広く海外にPRLた民間外交の先駆者でその功績は偉大なもので枚拳にいとまがない。
 天勝の舞台生活四十年、昭和十九年十一月十一日、目黒権之助坂水明荘にて六十年の波潤万丈の生涯を極めた。しかし天勝の芸魂は不死烏の如く日本芸能界に異彩を放っている。
 中井家の菩提寺西徳院に埋葬されたが三橋支配人の「天勝を残す会」がもたれ当山及高野山に分骨され魔術の女王としての面目曜如たるものがある。
●三橋支配人は、泉州の生れ堺段通の貿易商でロスに店をもった成功者である。成駒屋(先代雁次郎)の幼な友達で川上音次郎や上山草人と別懇の仲であった。当時渡米した芸能人はこの人の世話にならない者はなかったと云われている。特に天勝の人柄と至芸には心底から惚れこんで親身の世話を生涯した人である。
  昭和六十一年秋彼岸  萬福禅寺」

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(右)
 天勝の夫である金澤一郎と分骨により一緒に眠っています。
 「従三位勲三等 金澤一郎先生
   金剛院鷲嶺一道居士 昭和二十年
   清操院釋妙勝大姉
    松旭斎初代天勝 分骨 昭和十九年」
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(中央)
 「初代 天勝を殘す會
   施主 三橋浅次郎建之」
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(左)
 「天勝一座」の三橋支配人の墓です。
 「故三橋浅次郎翁 昭和三十二年」
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「松旭斎天勝 日本歌劇俳優写真名鑑」(歌舞雑誌社 大正9年 国立国会図書館蔵)

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○木原義久一族之墓所

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(説明板)
「徳川幕府棟梁 木原義久之墓
 徳川家の木工頭で木原家は元来尾張にあったが徳川家康の上洛を共に江戸に入り大森山王高台を木原山と称して所領し邸を構えて永く江戸幕府の棟梁をつとめた。その主な建物は次のとおりです。
 一、日光東照宮の奥ノ院及び御廟
 二、上野寛永寺の徳川家御廟
 三、浅草寺の旧本堂
 四、上野東照宮の社殿
   (拝殿内に掲げてある棟札には義久の名前がある)
 五、赤坂の山王日枝神社旧本殿
等が代表的なもので現存のものはすべて国宝・重要文化財となっている。
 一族のうち義久、義永の二代が最も有名であるがその後幕末まで地頭、代官をつとめていめていた。
  昭和六十一年秋彼岸会  萬福禅寺」

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室生犀星句碑 室生犀星終焉の地

○室生犀星句碑 大田区南馬込1-49-1 萬福寺

<春の寺>

 室生犀星は昭和7(1932)年に、萬福寺に隣接する土地に家を建て、以降、終生まで過ごしました。平成7(1995)年12月2日に室生犀星の2つの句碑が萬福寺に建てられ、除幕式が行われました。室生犀星の長女で作家の室生朝子さんが馬込にちなむ句を選び、句碑は、室生家の庭にあった石を譲り受けて作られました。(「萬福寺だより33号」を参照しました。)

 室生犀星句碑は、萬福寺の墓地と境内の鐘楼門脇にあります。

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句碑「笹鳴 笹鳴や馬込は垣もまだらにて 室生犀星」

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 「春の寺
  うつくしきみ寺なり
  み寺にさくられうらんたれば
  うぐひすしたたり
  さくら樹にすずめら交り
  かんかんと鐘鳴りてすずろなり。
  かんかんと鐘鳴りてさかんなれば
  をとめらひそやかに
  ちちははのなすことをして遊ぶなり。
  門もくれなゐ炎炎と
  うつくしき春のみ寺なり。」

(説明板)
「室生犀星(1889〜1962) むろう さいせい
 詩人・小説家
 俳号魚眠洞。金沢生。俳句や詩を学びなから放浪生活の後、詩誌【感情】を創刊。その後小説にも目覚め、詩人・小説家として活躍する。
 主な作品には、【愛の詩集】【叙情小曲集】【幼年時代】【あにいもうと】【杏っこ】などがある。
 1928年大森区馬込町谷中に在住。1932年馬込東3丁目萬福寺西隣りに新居を構える。
 1962年3月26日、やすらかに永眠天寿74才。
 没後「われはうたへどもやぶれかぶれ」 が刊行された。この度縁在りて犀星がこよなく愛した庭石をもって坪庭を復元しゆかりの句碑を建て住時を偲ぶものなり。 1995年6月吉祥日
  室生朝子 高野量有
  萬福寺山王・安本利正
  萬福寺護持界 総檀中」

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句碑「陽炎 葱の皮 はがれしままに かぎろひぬ 室生犀星」

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○室生犀星旧居跡(室生犀星終焉の地) 大田区南馬込1-49-10

 室生犀星旧居跡に建つ室生マンションが取り壊され、更地となりました。この地が室生犀星終焉の地です。
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<室生犀星肖像>(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 明治22(1889)年8月1日〜昭和37(1962)年3月26日

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<馬込文士村の住人>

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<朔太郎・犀星の周辺>

 室生犀星と萩原朔太郎は、ともに北原白秋門下で年齢も近く、親友でありよく一緒に酒を飲み、ダンスパーティーにも通いました。また近代詩を牽引する良きライバルでもありました。

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「室生犀星文学碑」 塩原温泉湯っ歩の里 那須塩原市塩原602-1

 室生犀星は、大正10(1921)年10月と11月に塩原を訪れています。10月4日に、当時は福渡にあった満寿家に泊まっています。その時の「伺い帳」によると、「正宗」を好んで飲み、舞茸や酢だこ、エンドウ、たつたなどのつまみが好物だったとのこと(塩原文学研究会調べ)。11月の塩原訪問では「楓川楼」に泊ったようです。
 文学碑には「亡春詩集」(大正11(1922)年12月)のなかの、塩原道が刻されています。碑文は、犀星の娘、朝子氏の「直筆にしたい」という言葉から「集字」法で「塩原道」全文が作り上げられ碑に刻まれています。
 
 「塩原道
  秋ふかき塩原道を
  わたしの自働車はひた走りつつ
  いつしか暗(くら)みゆき
  はや日暮となりけり。
  落葉ふみしき
  山の上に漏るるともし火を見過して
  水のひびきに縫(ぬ)ひ込まれゆく
  わが自働車の肌も夜つゆに湿りたり。
  みやこにて夜昼となき
  わがわびしき作のつかれを
  こころゆくまで
  温泉(ゆ)につかり心しづめん」

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馬込文士村散策のみち

○馬込文士村散策のみち 大田区山王2-4

 天祖神社の女坂の石段の壁に「馬込文士村散策のみち」のレリーフがあります。

「馬込文士村 散策のみち
 今では閑静な住宅地となっている山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか「馬込文士村」と呼ばれるようになりました。文士や芸術家たちが住み始めた頃、大森駅前の高台は都市近郊の別荘地として知られていました。一方の馬込は雑木林や大根畑が広がる一帯でした。
馬込の大根畑の真ん中に若い尾崎士郎・宇野千代が移ってきたのは大正十二年(一九二三)のこと。士郎は文学仲間を次々に誘い、社交的な二人は文士たちの中心的な存在となりました。大正十二年といえば関東大震災の年。東京近郊へ移り住む人々が急増し、馬込一帯も次々に宅地化され、景観が大きく変わってきた時代でした。」

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「馬込文士村の住人」

 文士村の住人だった43人の顔と名前が刻まれています。

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「大正八年の大森駅の風景」

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「望翠楼ホテル
 大森丘の会」は芸術家を中心とした集まり。山王周辺の芸術家や文士の社交場であった。」

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「尾崎士郎と宇野千代
 二人が夫婦であった頃、彼らの人柄を慕う仲間で家の中はいつも賑わい、文士の話題が飛び交うので「馬込放送局」と呼ばれていた。」

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「麻雀をする文士
 関東大震災の騒ぎが一段落してくると、世間では新しい風俗が見られるようになりました。ダンスホールができ、洋装のモダンボーイや断髪姿のモダンガールが現われ、大正十四年には麻雀が大流行、麻雀カフェーができました。作家の広津和郎も麻雀カフェーに通った一人で、馬込の自宅にも麻雀を持ち込み文土たちに伝授しました。」

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「モダンガール

 文士村の女性たちが相次いで断髪。モダンガールは馬込村の人々を驚かせた。」
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「ダンスパーティー
 昭和の初期、文学の世界は転換期を迎えていました。まだ若かった馬込の文士たちにとっても将来に不安の多い時代であったといえます。仲間同士集まって気を紛らわそうというのか、麻雀に続いて馬込の面々が凝り始めたのはダンスでした。衣巻家のアトリエで開かれるダンスパーティに通ってきたのは、萩原朔太郎夫妻や室生犀星、宇野千代、時には川端康成夫人の姿もありました。」

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「朔太郎・犀星の周辺」
 萩原朔太郎と室生犀星は、北原白秋門下で、三人の肖像があります。ほかに、平木二六、竹村俊郎、衣巻肖三、佐藤惣之助、三好達治とあります。

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「馬込文士村時代、それは、女性活躍の時代でもあった。」

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「大森相撲協会
 昭和六年、文士の間で相撲の話が持ち上がり「大森相撲協会」が発足しました。文士(力士)には四股名をつけ番付表を作り、土俵は池上本門寺の裏手にあった空屋敷の庭にこしらえ、相撲大会を開きます。ダンス流行の頃からやや退廃的なムードが漂っていた文士村は、住人の入れ替わりがあってようやく落ち着きを取り戻しつつありました。」

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「馬込文士村 散策のみち
 馬込文士村と山王・馬込の移り変わり
 明治9・大森駅開設。
   17・暗闇坂の崖上に「八景園」が開かれる。
   22・新井宿・不入斗村が合併、入新井村となる。(現在の山王・中央一〜四丁目付近)
    ・山王一帯が東京近郊の別荘地として知られるようになる。
 大正元・山王の「望翠楼ホテル」開業。
    ・山王の「望翠楼ホテル」で付近の芸術家を中心とした「大森丘の会」開かれる。
    ・入新井村の人口増え始める。
   4・東京?横浜の電車本格的に開通。
   8・入新井村が入新井町となる。
   11・山王の「大森ホテル」開業。
   12・関東大震災起こる。
    ・大森テニスコート開場。
    ・文士たちが移り住み交流が盛んになって、尾崎・宇野家には「馬込放送局」なる呼び名がつく。
    ・広津和郎を中心に麻雀が流行。
 昭和 ・断髪が流行。モダンガールが現れる。
    ・文士たちの伊豆・湯ヶ島往来が多くなる。
    ・衣巻家ダンスパーティーが開かれ、恒例となる。
   3・馬込村が馬込町となる。
    ・文士たちの間で浮気や離婚が相次ぎ、住人の引っ越しや入れ替わりが頻繁になる。
    ・「大森相撲協会」が発足。文士たちが力士となる。
    ・文士たちの作品が認められるようになる。
 「馬込文士村」に関する主な文献
  ◇尾崎士郎『空想部落』 ◇近藤冨枝『文壇資料 馬込文学・地図』
  ◇榊山潤『馬込文士村』 ◇染谷孝哉『大田文学地図』
  ◇野村裕『馬込文士村の作家たち』」

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tag : 北原白秋

八景園跡

○八景園跡 大田区山王2丁目

 明治17(1884)年、実業家の久我邦太郎は、「大森駅」西側の台地、約3万3,000㎡の土地を購入し「八景園」を開園しました。明治21(1888)年には、蟹料理を名物とする「三宜樓」を開業し、郊外随一の遊園地として有名になりました。明治35(1902)年には皇后も行啓されました。
 大正2(1913)年に「三宜樓」が廃業し、大正11(1922)年から大正13(1924)年にかけて区画分譲され、住宅地に変わりました。

「大森八景園」(旅の家つと第12 明治31-35)
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「大森八景園」(仁山智水帖 明治35年)
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「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)
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「八景園跡」 大田区山王2-10-12付近(大田区HP掲載)
 大田区HPに掲載されている「八景園跡」は、その痕跡は何もありません。
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○石地蔵 大田区山王2-12-5

 路傍の石地蔵です。

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○日本帝國小銃射的協會跡碑 大田区山王2-14 駐車場

 現在の大森テニスクラブ(大田区山王2-24-12)の場所は、明治22(1889)年から昭和12(1937)年頃まで、射的場として使われていました。駐車場に「日本帝国小銃射的協会跡」の碑があります。

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