大森貝塚遺跡庭園 (国史跡)

○大森貝塚遺跡庭園 品川区大井6-21-6 HP

 大森貝塚は明治10(1877)年に動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylverster Morse 1838〜1925)によって発見された貝塚で、日本で最初に学術調査が行われたことから「日本考古学発祥の地」と言われています。
 大森貝塚の発掘場所は「品川区大井」ですが、モースは大森駅に降りて発掘に向かったため、駅名から「大森貝塚」としました。

「国指定史跡 大森貝塚遺跡庭園」

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 正面玄関の壁には縄文模様が施され、壁の上にモースが発掘した深鉢型土器の模型が置かれています。

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「品川区内の遺跡」品川区内の遺跡が地図で案内されています。

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<しながわ百景 大森貝塚>

 「区政40周年・区民憲章制定5周年記念
  しながわ百景
  大森貝塚
  昭和62年 品川区 66」

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<手づくり郷土賞>

 平成9(1997)年7月、手づくり郷土賞を受けています。

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<案内図>

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<①波のオブジェ>

 縄文時代には、この附近が海岸線でした。その打ち寄せる波をイメージしたオブジェです。

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<②貝塚跡>

 発掘調査をした時に、実際に貝塚が発見された地点を示した場所です。

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<③大森貝塚の碑>

 明治10(1877)年にモース博士が大森貝塚を発見したことを記念し、昭和4(1929)年に建てられた碑です。碑の上には、モースが発掘した深鉢型土器の模型が据えられています。

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 すぐ横は線路です。電車内からも碑が見えます。
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<④貝塚展示ブース>

 実物の貝層を利用して、発見当時の貝塚を復元したブースです。

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 「貝塚は縄文時代のタイムカプセルだ。」
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<⑤地層の回廊>

 縄文土器と地層をイメージした回廊で、庭園を一望できる場所です。

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<⑥縄文の広場>

 約30分毎に霧が出ます。

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<⑦モースの広場>

 モース博士の胸像と、ポートランドとの姉妹都市記念碑があります。

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「モース博士の胸像」

 モース博士の胸像です。
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 盛岡公夫(立体写真像株式会社会長)の作品です。
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「姉妹都市提携記念碑」

(碑文)
「品川区・ポートランド市
 姉妹都市提携記念
 日本考古学発祥の地
 国指定史跡大森貝塚
 大森貝塚は 明治10年(1877)アメリカ人エドワード・S・モース博士によって発見され 日本で初めて学術調査が行われた縄文時代後期から晩期の貝塚遺跡で 日本考古学発祥の地である
 品川区は モース博士生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市提携を記念してこの碑を建立する
  昭和60年5月  品川区 品川区教育委員会」

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<⑨貝塚学習広場>

 縄文人の暮らしぶりや、生活環境がパネルで展示されています。

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 「縄文時代の植物と食事」
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 「共同作業と交易」
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 「土器から見た縄文時代のくらし」
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 「住まいと、くらしの道具」
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「大森貝塚発掘状況及び発見者モールス氏」(東京府史 昭和10年 国立国会図書館蔵)

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鈴ヶ森刑場跡

○鈴ヶ森刑場跡(東京都旧跡) 品川区南大井2-5-6

 鈴ヶ森刑場は、慶安4(1651)年に開設されました。元禄8(1695)年の検地によると、間口40間(約73メートル)、奥行き9間(約16メートル)であったとされますが、第一京浜の拡幅等により旧態を留めていません。鈴ヶ森刑場跡は、現在は、大経寺の境内となっています。
 刑場跡には、処刑に用いられたとされる台石、首洗いの井戸などが残されているほか、天災や戦火で被害を受けた地元民や家畜の供養塔が自然に集められるようになり、「馬頭観音」「水難供養塔」「鯉塚」「六十六部供養塔」などが建ち並び、あらゆる死者を供養する場となっています。


「江戸名所図会 鈴の森」

 江戸を目指す大名行列が鈴ヶ森の脇を通過しています。江戸湾には海苔のヒビが見えます。海岸の右に「磯馴松」、左に鈴ヶ森刑場が見えます。

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 鈴ヶ森刑場には2本の柱が見え、最初、磔と火炙の木柱かと思いましたが、左の柱上には像が見えます。昔の写真を見ると、左は像がのる供養塔、右は題目供養塔であることがわかります。

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「鈴ヶ森 行列之図」(豊原国周 足立区立郷土博物館蔵)

 右手に鈴ヶ森刑場の大きな題目供養塔が見えます。

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「東海道名所風景 東海道鈴ケ森」(二代広重)

 タイトルは東海道鈴ヶ森ですが、刑場は見えません。

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「旧江戸品川鈴ヶ森刑場之図」(司法制度沿革図譜 朝鮮総督府法務局 1937年)

 刑場前には、海岸が目の前に迫っています。

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「鈴ヶ森」(旅の家つと第12 明治32(1889)年)

 東海道を人力車が行きます。大きな松の右手が鈴ヶ森刑場でしょうか。

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<現在の鈴ヶ森刑場跡全景>

 鈴ヶ森刑場跡は旧東海道と第一京浜が合流する地点にあります。

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<しながわ百景>

 「鈴ヶ森刑場跡と大経寺」は、しながわ百景に選定されています。

 「区政40周年・区民憲章制定5周年記念
  しながわ百景
  鈴ヶ森刑場跡と大経寺
   昭和62年 品川区」

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<道標>

 「二十五番 大経寺 東海道鈴ヶ森口
  左 大森海岸駅 大森駅
  右 立会川」

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<標柱>

 標柱「東京都史蹟鈴ヶ森刑場遺跡」
「当地は、東海道に面し、慶安四年(一六五一)江戸幕府により設けられた。「鈴ヶ森刑場」遺跡で 歌舞伎や講談に登場する、丸橋忠弥・平井権八・八百屋お七等の処刑地として有名である。境内には、処刑に使用された台石や井戸、供養塔が点在し、東京都史跡として、品川百景にも指定される江戸刑制史上重要な文化財遺跡となっている。
  平成四年二月二十三日  鈴ヶ森史跡保存会」

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<標柱「都旧跡 鈴ヶ森遺跡」>

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(説明板)
「東京都指定旧跡 鈴ヶ森遺跡
   所在地 品川区南大井二の五の六附近
   史蹟指定 昭和二九年一一月三日
   旧跡指定 昭和三○年三月二八年
 鈴ヶ森遺跡は品川宿の南、東海道沿いに慶安四年(一六五一)に開設された御仕置場の跡です。大井村鈴ヶ森の刑場は、東海道に面し、規模は元禄八年(一六九五)実施の検地では間口四〇間、奥行き九間であったとされます。東海道(現在は第一京浜)の拡幅等により旧態を留めていません。大経寺は御仕置場に隣接し処刑者の供養のために建てられた寺で、髭題目を刻んだ石碑は池上本門寺二五世貫首日顗の筆によると伝えられるもので、元禄一一年(一六九八)若しくは元文六年(一七四一)の建立とされます。
 この鈴ヶ森刑場では、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒など、演劇などで知られた者が処刑されたとされます。江戸の刑制史上重要な遺跡です。」
  平成二四年三月 建設  東京都教育委員会」

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「鈴ヶ森 大経寺 史跡案内」

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【受刑者供養】

<南無妙法蓮華経(題目供養塔)>

 裏面に願主として「法春比丘尼」「谷口氏」の名が刻まれています。京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により元禄11(1698)年に造立された題目塔です。十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に造立した題目塔のひとつであり、小塚原、鈴ヶ森の仕置場等100基以上が確認されています。五代将軍綱吉の時代に、犬を傷つけた咎で処刑された一人息子を悼んで母の法春比丘尼がこの塔を建てたという言い伝えも残っています。

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<鈴森之碑>

 鬼子母神堂世話人による明治44(1911)年2月の建立です。

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<鈴ヶ森刑場受刑者之墓>

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<一切業障海皆従妄想生>

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【刑場遺物】

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「磔台
 丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された 真中の穴に丈余の角柱が立てられ、その上部に縛りつけて処刑したのである 鈴ヶ森史跡保存会」

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「火炙台
 八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された 真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである 鈴ヶ森史跡保存会」

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「首洗の井」

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【その他供養】

<水難供養塔>

 台座に「御林漁業」と刻まれている「水難供養塔」です。南品川と浜川の間に御林浦があり、かつて御林漁師町がありました。

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<鯉塚/石祠>

 森ヶ崎には、かつて大規模な鯉の養殖を行っていて、鯉塚の句碑が残っています。品川の海では鯉は獲れないので、森ヶ崎からの寄進でしょうか?(森ヶ崎の鯉塚はこちらで記載)。

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 左は不詳の石祠で、裏に慶応3(1867)年建之とあります。

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<お首さま>

 「勇猛院日健」と刻まれた、幕臣で彰義隊士の渡辺健蔵の墓です。明治元(1868)年、戊辰戦争で官軍が民衆に対する振る舞いを、官軍本陣・池上本門寺の有栖川宮へ直訴するも捕えられ、寺前の霊山橋で斬首され、鈴ヶ森刑場でさらし首にされます。これが鈴ヶ森刑場での最後の処刑といわれています。

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<標柱「奉供勇猛院日健尊儀」>

 墓の右脇に建つ標柱です。

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<勇猛院日健尊儀>

 この碑は、渡辺健蔵の50回忌にあたる大正6(1917)年の建立で、この時に石柱柵が寄付され寄付者名が刻まれています。

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<馬頭観世音菩薩>

 左の「馬頭観世音菩薩」は、安政2(1855)年の大火で死んだ馬の霊を供養するために建てられた供養塔です。正面下部に2頭の馬が陽刻されています。右の小さい「馬頭観世音」は明治3(1870)年の建立です。

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<六十六部供養塔>

 正面「六十六部供養塔」、両脇に「天下泰平」「國土安全」と刻まれています。

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 裏に「明和四丁亥年」とあり、1767年の造立です。

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<題目供養塔>

 「南無妙法蓮華経」と刻む供養塔です。

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<大震火災殃死者供養塔>

 関東大震災の十三回忌に建てられており、昭和10(1935)年の建立です。

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<永代鈴森御花講新橋>

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<地蔵>

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<その他>

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<鏡天>

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<合葬墓「みんなのお墓」>

 大経寺が設けた身寄りのない人も利用できる合葬墓です。

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○大経寺 品川区南大井2-5-6 HP

 文久3(1863)年に、名主大野貫蔵が中心となり、刑場脇の村持空地に接待所番小屋を再建するとともに、鬼子母神を安置しました。名主大野貫蔵は村々の名主を招待してこれを披露しました。接待所は、明治4(1871)年に刑場と共に廃止となり、建物は鬼子母神堂として残ります。昭和17(1942)年、寺号公称により「鈴森山大経寺」が開山しました。(「鬼子母神堂」(大井町史)を参照しました。国立国会図書館デジタルコレクション)
 小塚原には回向院があったので、接待所は設けられていません。

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仲町稲荷 火防稲荷 天祖諏訪神社

○仲町稲荷神社 品川区東大井2-25-15

 北浜川児童遊園の奥の高台に、仲町稲荷神社が祀られています。諏訪神社が天祖神社に合祀され、諏訪神社の跡に諏訪神社の末社であった仲町稲荷神社が残り祀られています。

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<手水鉢>

 「維時安政四年 (1857) 丁巳春三月吉日」の奉納です。

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○火防稲荷神社 品川区東大井2-18-14

 土佐高知藩山内家下屋敷跡から東進して、浜川砲台へ向かう通りがかりに寄った神社です。

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 扁額は「火防稲荷大明神」です。
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○天祖諏訪神社 品川区南大井1-4-1 HP

<参道>

 天祖神社と諏訪神社の両社が合祀前の昭和10(1935)年に建てられた社号標は「天祖神社」です。

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<由緒>

(掲示)
「由緒
 祭神 天照大御神 豊受大神 建御名方神
天祖諏訪の両社は江戸時代から此の地の鎮守とし神威昭々郷土の発展と共に今日に至りました。昭和三十六年一月氏子各位の要望により天祖神社諏訪神社御改築奉賛會が設立せられ新社殿を建立し昭和四十年十一月一日両社を合祀いたしました。」

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<狛犬>

 慶応3(1867)年に奉納の狛犬です。

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<旧狛犬>

 天明7(1787)年銘の旧狛犬です。

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<社殿>

 二社が合祀された社殿は昭和40(1965)年の造営です。

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<弁天池と厳島神社>

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<日露戦役紀念碑>

 「日露戦役紀念碑 碧海書」
 明治40年4月の建立です。

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tag : 東海道戦役紀念碑

立会川の坂本龍馬像

○北浜川児童遊園 品川区東大井2-25-22

<商店街>

 国道から旧東海道へ、「立会川商店街」「立会川龍馬通り繁栄会」と2つの商店街が続いており、立会川の「弁天橋」の横に坂本龍馬像が建っている北浜川児童遊園があります。
 龍馬像が置かれている前の商店街が「立会川龍馬通り繁栄会」です。商店街を抜けた丁字路を左右に走っている道路が旧東海道です。丁字路を右折して50mほど進んだところが「浜川橋(涙橋)」です。

 立会川商店街
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 立会川龍馬通り繁栄会
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 弁天橋
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 立会川龍馬通り繁栄会
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 現地地図
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 児童遊園入口
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 児童遊園奥から入口方面
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<龍馬が世界と出会ったまち品川>

(説明板)
「龍馬が世界と出会ったまち品川
 ペリーが初めて来航した嘉永六年(一八五三)、一九歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中でした。
 土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警備のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。
 同年九月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り・・」と、父親に手紙を書いています。
 品川での黒船警固から、龍馬の幕末は出発したのです。」

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(指示標識)
 「←第一京浜(国道15号 土佐藩品川下屋敷跡)
  →旧東海道 浜川砲台跡」

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<立会川 二十歳の龍馬像>

(説明板)
「立会川 二十歳の龍馬像
 嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835-1867)は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたります。
 当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。
 地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事績に思いを致す人々の、ブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議って、二十歳の龍馬像としてこれをここに建立したものです。
 なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。
平成22年11月15日」

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<しながわ百景>

 立会川の坂本龍馬像は、「しながわ百景」に選定されています。

 「しながわ百景
  区制70周年 平成29年選定
  108 立会川の坂本龍馬像
  平成29年 品川区」

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<顔はめパネル 十九歳の龍馬>

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<坂本龍馬像>

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 足もとは草履です。
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 寄贈 東京京浜ロータリークラブ
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「しながわ花海道」周辺お散歩MAP

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○土佐高知藩山内家下屋敷跡(品川区立浜川中学校) 品川区東大井3-18-34

 中学校の工事中で、説明板「土佐高知藩山内家下屋敷跡」は撤去されています。高知藩山内家の下屋敷と抱屋敷は、東海道を挟んで東西に位置していました。立会川河口の抱屋敷の地には、嘉永6(1853)年に砲台が造られ、浜川砲台と呼ばれました。
 北浜川児童遊園に設置されていた平成16(2004)年に高知市から寄贈されたプラスチック製の龍馬像が、平成20(2008)年にブロンズ像に造り変えられたことにより、旧像は土佐藩の下屋敷跡である品川区立浜川中学校に移されています。

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tag : 東海道しながわ百景坂本龍馬銅像

浜川砲台跡

○浜川砲台跡 品川区東大井2-26-18

 かつて土佐高知藩山内家抱屋敷内の立会川河口左岸に砲台が築造されました。
 新浜川公園入口に「浜川砲台」の冠木門があり、公園内に実物大レプリカの大砲と説明板が設置されています。平成27(2015)年11月、品川龍馬会による設置です。

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<浜川砲台>

 坂本龍馬像のある北浜川児童遊園に、説明板「浜川砲台」が設置されています。

(説明板)
「浜川砲台(品川区立新浜川公園)
 土佐藩は、万治元年(1658)頃いまの東大井に1万7千坪余りの下屋敷を入手しました。その中には立会川河口北側の荷揚場も含まれており、この下屋敷は、国元からの物資保管にも使われたようです。
 幕末、ペリーが来航し海防が切迫した課題となると、幕府は台場築造を急ぐとともに、諸大名に江戸湾の警護を分担させました。土佐藩は荷揚場の沖を埋め立て、土台に石垣を用い、大砲を引き回し、任意の位置で撃てるよう専用通路がついた浜川砲台を築造しました。坂本龍馬もこの砲台に詰めたとも伝えられています。
 浜川砲台があった北側の品川区立新浜川公園には、砲台に据えられたホーイッスル砲のレプリカが置かれています。」

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<浜川砲台の大砲>

 大砲前に設置されている説明板です。

(説明板)
「浜川砲台の大砲
   幕末史研究家
   小美濃清明
 嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる四艘の艦隊を日本に派遣して、開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。
 日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。
 土佐藤はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。
 嘉永七年(一八五四)一月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藤が違ったのが、浜川砲台である。
  六賞目ホーイッスル砲 一門(復元)
  一貫目ホーイッスル砲 二門
  鉄製五貫目砲     五門
 計八門を配備した砲台だった。ここに復元したのは六貫目ホーイッスル砲である。
 実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藤の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような狂歌も作られている。
  品川の固めの出しのよくきくは
    下地もうまくなれし土佐武士
(品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ)
 これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節)だからだという意味である。
 この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ二十歳の坂本龍馬がいたのである。」

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<浜川砲台(大砲レプリカ)>

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<遊具>

 クジラは親子なので、「寛政の鯨」をイメージはされていないですね。
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 咸臨丸か、黒船ですかね?の遊具もあります。
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○立会川河口堤防船溜り 品川区東大井2-26-18

 新浜川公園から堤防にのぼって、立会川河口堤防船溜りに出ます。堤防は花海道として整備され、勝島運河は船溜まりとして利用されています。

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<しながわ百景>

 花海道と船だまりは、「しながわ百景」に選定されています。

 「しながわ百景
  区制40周年・区民憲章制定5周年記念 昭和62年選定
  53 しながわ花海道と船だまり
  平成29年 品川区」

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「江戸名所百景 南品川鮫洲海岸」(広重)

 江戸時代の広重が描く鮫洲海岸です。延々と連なる海苔養殖場が描かれています。海苔の養殖の「ひび」、海苔採用の「ベカ船」が見えます。

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○坂本龍馬と咸臨丸の壁画 品川区東大井2-27-24

 新浜川公園から、東京都で水道局浜川ポンプ所の脇を通って立会川河口へ向かいます。東京都下水道局浜川ポンプ所の壁画「坂本龍馬と咸臨丸」があります。

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 浜川ポンプ所は解体工事中でした(令和5(2023)年12月まで)。

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○浜川橋(涙橋) 品川区東大井2-27、2-28 南大井1-4、南大井1-5

 立会川に架かる東海道の「浜川橋」です。またの名は「涙橋」です。鈴ヶ森刑場跡まで南へ650mほどです。
 小塚原刑場の近くには「泪橋」跡があります(こちらで記載)。

 北→南
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 南→北
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 濱川橋
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 昭和九年十二月竣功
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 上流(弁天橋方面)
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 下流(浜川ポンプ所方面)
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(説明板)
「浜川橋
 立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。
 この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の一六〇〇年頃と思われす。現在の橋は、昭和九年(一九三四)に架け替えられたものです。
 涙橋の由来
 慶安四年(一六五一)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。
  平成十三年三月三十日  品川区教育委員会」

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