ニコライ堂 (几号水準点)
○ニコライ堂 千代田区神田駿河台4-3
ニコライ堂はコロナ対策で門が閉じられ、几号水準点を見る機会を逸していましたが、聖堂拝観が再開されているので訪問。「日本ハリストス正教会教團 東京復活大聖堂」の門の右側から入ります。



<東京復活大聖堂(通称ニコライ堂> 国重要文化財
コンドルが工事監督を担当しました。
(説明板)
「昭和三十七年六月二十一日文部省指定
重要文化財
東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)
この聖堂は明治十七年三月に起工し工期七年を以って同二十四年に完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は英国人コンドル博士です。
頂上までの高さ 三五米
建坪 三一八坪
壁厚 一メートル乃至一、六三メートル
日本最大のビザンチン式建築物として知られています。
日本ハリストス正教会教団」

レンガ造なのですが、モルタルを塗って彩色して仕上げているのでレンガ造りには見えない建築物です。


聖堂内の拝観は1週間前の事前予約が必要です。聖堂内に入ってすぐ出てくる方々がおられたので予約していなかったのでしょうね。同じく予約していないので聖堂内は拝観していません。

「ニコライ教会堂」(コンドル博士遺作集 コンドル博士記念表彰会 昭和7年)
解説には、露国より送り来れる各図案に基き、構造に意匠に博士の考案を以て設計とあります。

「ニコライ教会堂」(日本之名勝 明治33年)

<主教館>
門を入って右手に主教館があります。


<几号水準点>
主教館の右側の水色の階段の二段目付近の壁に几号水準点があります。



※「几号水準点」の一覧は、PCサイトで整理しています。
○紅梅坂 千代田区神田駿河台4-1先
ニコライ堂の北にある「紅梅坂」です。
(標柱)
「明治時代に、武家地であったこの地域に駿河台西紅梅町・東紅梅町という町名がつけられました。そのため、この坂道も、紅梅坂と名付けられました。関東大震災後に本郷通りが新設されて分断されるまでは、東側にある幽霊坂と一本の坂道でした。

ニコライ堂はコロナ対策で門が閉じられ、几号水準点を見る機会を逸していましたが、聖堂拝観が再開されているので訪問。「日本ハリストス正教会教團 東京復活大聖堂」の門の右側から入ります。



<東京復活大聖堂(通称ニコライ堂> 国重要文化財
コンドルが工事監督を担当しました。
(説明板)
「昭和三十七年六月二十一日文部省指定
重要文化財
東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)
この聖堂は明治十七年三月に起工し工期七年を以って同二十四年に完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は英国人コンドル博士です。
頂上までの高さ 三五米
建坪 三一八坪
壁厚 一メートル乃至一、六三メートル
日本最大のビザンチン式建築物として知られています。
日本ハリストス正教会教団」

レンガ造なのですが、モルタルを塗って彩色して仕上げているのでレンガ造りには見えない建築物です。


聖堂内の拝観は1週間前の事前予約が必要です。聖堂内に入ってすぐ出てくる方々がおられたので予約していなかったのでしょうね。同じく予約していないので聖堂内は拝観していません。

「ニコライ教会堂」(コンドル博士遺作集 コンドル博士記念表彰会 昭和7年)
解説には、露国より送り来れる各図案に基き、構造に意匠に博士の考案を以て設計とあります。

「ニコライ教会堂」(日本之名勝 明治33年)

<主教館>
門を入って右手に主教館があります。


<几号水準点>
主教館の右側の水色の階段の二段目付近の壁に几号水準点があります。



※「几号水準点」の一覧は、PCサイトで整理しています。
○紅梅坂 千代田区神田駿河台4-1先
ニコライ堂の北にある「紅梅坂」です。
(標柱)
「明治時代に、武家地であったこの地域に駿河台西紅梅町・東紅梅町という町名がつけられました。そのため、この坂道も、紅梅坂と名付けられました。関東大震災後に本郷通りが新設されて分断されるまでは、東側にある幽霊坂と一本の坂道でした。


神田和泉町(藤堂家上屋敷跡)
○町名由来板「神田和泉町」 千代田区神田和泉町1
(説明板)
「千代田区町名由来板 神田和泉町
江戸時代、この界隈には、伊勢国津藩(現在の三重県津市)藤堂家の上屋敷(藩主が住んだ屋敷)、出羽国鶴岡藩(現在の山形県鶴岡市)酒井家の中屋敷などがありました。藤堂家が代々、和泉守を名乗ったことから、この町は和泉町と呼ばれるようになりました。江戸時代のこの地は武家地であったことから町名をもっていませんでしたが、明治五年(1872)、神田和泉町の名前が正式に誕生しました。明治維新後、政府は津藩上屋敷跡地に東京医学所(現在の東京大学医学部附属病院の前身)を設立し、さらに明治七年(1874)になると、酒井家跡に文部省医務局薬場を設置しました。
大正十二年(1923)九月一日の関東大震災で町は、町民の必死の防火活動によって火災をまぬがれ、世の奇跡として市民の賞賛を受けました。そのためこの神田和泉町を含む一帯は、昭和十四年(1939)一月に、東京府より「関東大震災協力防火の地」として顕彰され記念碑が建てられました。
しかしながら、昭和二十年(1945)三月十日未明の東京大空襲で町の全域が焼失してしまいました。戦後の昭和二十三年(1948)には、現在の三井記念病院の敷地の一部に当時の農林省東京食糧事務所ができ、全国知事会議や食糧需給上の重要な会議が開催されました。現在の和泉公園は、食糧難時代のゆかりの旧跡といってよいでしょう。
公益法人地縁団体 神田和泉町町会」





○藤堂和泉守の上屋敷を彩った樹々 千代田区神田和泉町1
YKK本社があるビルの一画に「藤堂和泉守上屋敷を彩った樹々」と書かれた説明板があります。
(説明板)
「藤堂和泉守の上屋敷を彩った樹々
江戸時代、このあたりは伊勢国津藩主、藤堂和泉守の上屋敷でした。
大名屋敷の多くには大小様々な庭園があったことから、ここは藤堂家の植木職を代々務めた伊藤伊兵衛に縁のある樹木を植えています。
江戸では世界に先がけて園芸が隆盛し、将軍から大名武士、庶民に至るまで樹木や草花の鑑賞、栽培が流行しました。伊藤伊兵衛は江戸で最も有名な植木屋であり、伊兵衛の名を世襲しましたが、元禄から享保期(1600年代後半?1700年代前半)に活躍した三代伊藤伊兵衛三之丞、五代伊藤伊兵衛政武(四代目説もあり)が特に有名で、見識技量に優れ、ツツジやモミジなど山野に自生する植物を元に様々な新種を作出すると同寺に、数多くの園芸植物を図解入りで記載した多くの著作を残しています。三之丞が元禄5年(1692)に出版した「錦繍枕」は世界初といえるツツジの図鑑です。100年余り後、シーボルトやフォーチュンといったヨーロッパの植物学者やプラントハンターらが来日し、日本の植物とその多様性をヨーロッパに伝えました。
そのことからも彼らは世界的な園芸の発展に貢献したと言えます。
江戸時代から続く、世界に誇る園芸文化を後世に伝えるべく、ここには30種類の日本在来種および園芸種の樹木を植えています。」


「江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町」(歌川広景)
津藩藤堂和泉守上屋敷が描かれています。上屋敷表門前では、男が烏帽子を凧の糸に絡めとられています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 神田和泉町
江戸時代、この界隈には、伊勢国津藩(現在の三重県津市)藤堂家の上屋敷(藩主が住んだ屋敷)、出羽国鶴岡藩(現在の山形県鶴岡市)酒井家の中屋敷などがありました。藤堂家が代々、和泉守を名乗ったことから、この町は和泉町と呼ばれるようになりました。江戸時代のこの地は武家地であったことから町名をもっていませんでしたが、明治五年(1872)、神田和泉町の名前が正式に誕生しました。明治維新後、政府は津藩上屋敷跡地に東京医学所(現在の東京大学医学部附属病院の前身)を設立し、さらに明治七年(1874)になると、酒井家跡に文部省医務局薬場を設置しました。
大正十二年(1923)九月一日の関東大震災で町は、町民の必死の防火活動によって火災をまぬがれ、世の奇跡として市民の賞賛を受けました。そのためこの神田和泉町を含む一帯は、昭和十四年(1939)一月に、東京府より「関東大震災協力防火の地」として顕彰され記念碑が建てられました。
しかしながら、昭和二十年(1945)三月十日未明の東京大空襲で町の全域が焼失してしまいました。戦後の昭和二十三年(1948)には、現在の三井記念病院の敷地の一部に当時の農林省東京食糧事務所ができ、全国知事会議や食糧需給上の重要な会議が開催されました。現在の和泉公園は、食糧難時代のゆかりの旧跡といってよいでしょう。
公益法人地縁団体 神田和泉町町会」





○藤堂和泉守の上屋敷を彩った樹々 千代田区神田和泉町1
YKK本社があるビルの一画に「藤堂和泉守上屋敷を彩った樹々」と書かれた説明板があります。
(説明板)
「藤堂和泉守の上屋敷を彩った樹々
江戸時代、このあたりは伊勢国津藩主、藤堂和泉守の上屋敷でした。
大名屋敷の多くには大小様々な庭園があったことから、ここは藤堂家の植木職を代々務めた伊藤伊兵衛に縁のある樹木を植えています。
江戸では世界に先がけて園芸が隆盛し、将軍から大名武士、庶民に至るまで樹木や草花の鑑賞、栽培が流行しました。伊藤伊兵衛は江戸で最も有名な植木屋であり、伊兵衛の名を世襲しましたが、元禄から享保期(1600年代後半?1700年代前半)に活躍した三代伊藤伊兵衛三之丞、五代伊藤伊兵衛政武(四代目説もあり)が特に有名で、見識技量に優れ、ツツジやモミジなど山野に自生する植物を元に様々な新種を作出すると同寺に、数多くの園芸植物を図解入りで記載した多くの著作を残しています。三之丞が元禄5年(1692)に出版した「錦繍枕」は世界初といえるツツジの図鑑です。100年余り後、シーボルトやフォーチュンといったヨーロッパの植物学者やプラントハンターらが来日し、日本の植物とその多様性をヨーロッパに伝えました。
そのことからも彼らは世界的な園芸の発展に貢献したと言えます。
江戸時代から続く、世界に誇る園芸文化を後世に伝えるべく、ここには30種類の日本在来種および園芸種の樹木を植えています。」


「江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町」(歌川広景)
津藩藤堂和泉守上屋敷が描かれています。上屋敷表門前では、男が烏帽子を凧の糸に絡めとられています。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
伊東玄朴と種痘所
○町名由来板「神田松枝町」 千代田区岩本町2-5
「岩本町三丁目」交差点の水天宮通り歩道に、千代田区町名由来板「神田松枝町」があります。神田祭宮入りの神田松枝町会「羽衣人形山車」の写真がはめ込まれています。



(説明板)
「神田松枝町 コラムニスト 泉麻人
この界隈は、昭和四十年代のはじめまで神田松枝町と呼ばれていた。松枝……松が繁っていた土地、というわけではなく、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中の名に由来する、という説がある。よほど有能な人だったのか、彼女に屋敷地としてこの一帯の土地が与えられ、宝永二年(一七○五)ころから町の呼び名になったという。
旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉が池」という広大な池があったらしい。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていた。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前で、「江戸名所図会」によると、あるとき「人がらも品形もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じてしまった。亡骸は池の畔に葬られ、そんな伝説から名が付いたという。現在、そのゆかりの「お玉稲荷」がマンションの狭間にぽつんと残っている。
景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていた。その一人である伊東玄朴ら蘭方医たちが尽力して、安政五年(一八五八)、種痘館(のちに幕府直轄の種痘所となる)を設立する。このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点、なのだという。種痘所跡を記す碑が、町内の交差点と少し南方の加島ビル(一階は反物問屋)の所にある。
周辺をじっくりと散策してみたところ、ほかにも「お玉」の面影を残す“物件”を見つけた。「お玉湯」という銭湯。ビル一階の銭湯だが、湯につかると往時のお玉が池の風景が想い浮かんできそうである。それともう一つ、種痘所跡の石碑の真ん前にあるウナギ料理屋の看板に、「あ玉が池」なるメニューを発見した。入って味わってみたところ、これは「お玉」にひっかけて、ウナギの頭を唐揚げにした珍味。店内には先の「江戸名所図会」に描かれた「お玉が池」の絵が飾られ、その名を付けたミニチュアの池まで設けられている。ちなみにこの店は弘化二年(一八四五)創業の老舗だが、店を始めた当時、すでにお玉が池は埋めたてられていたそうだ。」
(筆者註:鰻屋「ふな亀」(岩本町2-5-8)は、2008年2月に閉店しました。)




○お玉ヶ池種痘所記念碑 千代田区岩本町2-5-8
「岩本町三丁目」交差点の水天宮通り歩道に、「お玉ヶ池種痘所記念碑」があります。




(碑表)
「お玉ヶ池種痘所記念」
「東京大學醫學部」

(碑陰)
「お玉が池種痘所の記念に
一八五八年・安政五年五月七日 江戸の蘭學醫たちが資金を出しあつてこの近くの川路聖謨の屋敷内に種痘所を開いた。これがお玉ヶ池種痘所で江戸の種痘事業の中心になった。ところがわずか半年で十一月十五日に類焼にあい下谷和泉橋通へ移つた。この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるのでその開設の日を本學部創立の日と定め一九五八年・昭和三十三年五月七日創立百周年記念式典をあげた。
いまこのゆかりの地に由来を書いた石をすえまた別に種痘所跡にしるしを立てて記念とする。
一九六一年十一月三日
昭和三十六年文化の日
東京大學醫學部」


○お玉ヶ池種痘所跡 千代田区岩本町2-7-11
3つの石碑が縦に並んで設置されています。


「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所
お玉ヶ池史蹟保存会」

「お玉ヶ池と種痘所
お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです
一時は池のほとりに
梁川星巌の玉池吟社
市川寛斎の江湖詩社
大窪詩仏の詩聖堂
東條一堂の瑶池塾
佐久間象山の象山書院
剣士千葉周作の道場玄武館
磯又右衛門の柔道道場
永坂石埭宅 清元太左衛門宅など
文武の華が咲きほこりました
この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで東京大学医学部発祥の地です 同学部は昭和三十三年に迎えた創立百年の記念に昭和三十六年文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にこゝに元標を立てられました
お玉ヶ池史蹟保存會」

(碑表)
(正面)「お玉ヶ池種痘所跡」

(左面)「神田お玉ヶ池松枝町續元誓眼寺前勘定奉行川路聖謨屋敷内」

(右面)「東京大學醫學部」

○伊東玄朴居宅跡・種痘所跡 台東区台東1-30-8
台東一丁目交差点に、説明板「伊東玄朴居宅跡・種痘所跡」があります。伊東玄朴は医学を志し、長崎の鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学びました。江戸で医者として開業、安政5(1858)年には幕府奥医師となり、蘭方医として種痘所(後の幕府の医学所、現東京大学医学部)の開設などに尽力し、明治4(1871)年に72歳で没しました。墓(東京都旧跡)は谷中の天龍院にあります。


(説明板)
「伊東玄朴居宅跡・種痘所跡
台東区台東一丁目三十番付近
この辺りに、蘭方医伊東玄朴の居宅兼家塾「象先堂」があった。伊東玄朴は、寛政十二年(一八○○)肥前国仁比山村(佐賀県神埼郡神埼町)で農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトらに蘭学を学び、その後江戸に出て、天保四年(一八三三)当地に居を構えた。安政五年(一八五八)には、将軍家定の侍医も務め、その名
声は高まり門人が列をなした。
玄朴はまた、江戸においてはじめて種痘法を開始した人物である。種痘とは、一九八○年に世界保健機関(WHO)より撲滅宣言された天然痘に対する予防法。一七九六年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、天然痘によって多くの人間が命を落としていたため、種痘法は西洋医学をわか国で受け入れる決定的な要因になった。嘉永二年(一八四九)長崎でドイツ人のオランダ商館医オットー・モーニケが、佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのがわか国における種痘成功の最初である。
江戸では、安政四年(一八五七)、神田お玉ヶ池(現、千代田区岩本町)に玄朴ら八十余名が金銭を供出して種痘所設立を図り、翌年竣工した。種痘所は、この翌年火災により焼失してしまったため、下谷和泉橋通の仮施設に移り、翌万延元年(一八六○)再建された。同年には幕府直轄の公認機関となり、この後「西洋医学所」「医学所」「医学校」「大学東校」という変遷をたどり、現在の東京大学医学部の前身となった。
幕府の機関となった種痘所の位置は、伊東玄朴宅のすぐ南側、現在の台東一丁目三十番地の南側半分、同二十八番地の全域に相当する。
なお、台東区谷中四丁目四番地の天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡)についての説明板が建っています。
平成十四年三月 台東区教育委員会」


<江戸切絵図>
「伊藤玄卜」とあります。

ライバル関係である漢方の「医学館」(現在の台東区浅草橋4-16)が、近くにありました。

○三井記念病院 千代田区神田和泉町1
明治元(1868)年、横浜の軍陣病院が下谷藤堂邸に移され、医学所(種痘所から発展)を含めて大病院と称しました。その後、変遷を経て三井記念病院が開院しています。

(パネル)
「三井記念病院の由来
社会福祉法人三井記念病院は、1858年(安政5年)江戸お玉ケ池近く(現千代田区岩本町2丁目)に開設された種痘所から発展した東京帝国大学(現東京大学)医科大学附属第二医院跡地(現在地)に、財団法人三井慈善病院として1909年(明治42年)に開院したのが始まりである。
1906年(明治39年)10月、健康保険制度や生活保護法がなかった時代に、三井家は「汎ク貧困ナル病者の為メ施療ヲ為スヲ目的」として施療病院を開設するため100万円を寄付し、これを基金として財団法人組織の慈善病院設立の許可を得た。
病院の建設地には、当時貧困層が医療を受けるために至便な東京帝国大学第二医院跡地(1901年に全焼)を選びただちに着工した。建物は1908年(明治41年)12 月10日竣工し、1909年(明治42年)3月21日に開院式を行った。無料診療を行う民間唯一の病院として、患者の診療を東京帝国大学医科大学に委託して診療を開始した。
以来、数度の名称変更を経ながら終戦まで同大学医学部の協力のもとで高度な医療を提供しつつ無料診療を行い、戦後も創設以来の精神を受け継ぎ、社会福祉法人として診療事業を行っている。
ここに百周年記念建替事業の完了を記念して由来を記す。
社会福祉法人 三井記念病院
2011年9月15日」



(参考)
「伊東玄朴の墓」(こちらで記載)
「岩本町三丁目」交差点の水天宮通り歩道に、千代田区町名由来板「神田松枝町」があります。神田祭宮入りの神田松枝町会「羽衣人形山車」の写真がはめ込まれています。



(説明板)
「神田松枝町 コラムニスト 泉麻人
この界隈は、昭和四十年代のはじめまで神田松枝町と呼ばれていた。松枝……松が繁っていた土地、というわけではなく、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中の名に由来する、という説がある。よほど有能な人だったのか、彼女に屋敷地としてこの一帯の土地が与えられ、宝永二年(一七○五)ころから町の呼び名になったという。
旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉が池」という広大な池があったらしい。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていた。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前で、「江戸名所図会」によると、あるとき「人がらも品形もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じてしまった。亡骸は池の畔に葬られ、そんな伝説から名が付いたという。現在、そのゆかりの「お玉稲荷」がマンションの狭間にぽつんと残っている。
景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていた。その一人である伊東玄朴ら蘭方医たちが尽力して、安政五年(一八五八)、種痘館(のちに幕府直轄の種痘所となる)を設立する。このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点、なのだという。種痘所跡を記す碑が、町内の交差点と少し南方の加島ビル(一階は反物問屋)の所にある。
周辺をじっくりと散策してみたところ、ほかにも「お玉」の面影を残す“物件”を見つけた。「お玉湯」という銭湯。ビル一階の銭湯だが、湯につかると往時のお玉が池の風景が想い浮かんできそうである。それともう一つ、種痘所跡の石碑の真ん前にあるウナギ料理屋の看板に、「あ玉が池」なるメニューを発見した。入って味わってみたところ、これは「お玉」にひっかけて、ウナギの頭を唐揚げにした珍味。店内には先の「江戸名所図会」に描かれた「お玉が池」の絵が飾られ、その名を付けたミニチュアの池まで設けられている。ちなみにこの店は弘化二年(一八四五)創業の老舗だが、店を始めた当時、すでにお玉が池は埋めたてられていたそうだ。」
(筆者註:鰻屋「ふな亀」(岩本町2-5-8)は、2008年2月に閉店しました。)




○お玉ヶ池種痘所記念碑 千代田区岩本町2-5-8
「岩本町三丁目」交差点の水天宮通り歩道に、「お玉ヶ池種痘所記念碑」があります。




(碑表)
「お玉ヶ池種痘所記念」
「東京大學醫學部」

(碑陰)
「お玉が池種痘所の記念に
一八五八年・安政五年五月七日 江戸の蘭學醫たちが資金を出しあつてこの近くの川路聖謨の屋敷内に種痘所を開いた。これがお玉ヶ池種痘所で江戸の種痘事業の中心になった。ところがわずか半年で十一月十五日に類焼にあい下谷和泉橋通へ移つた。この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるのでその開設の日を本學部創立の日と定め一九五八年・昭和三十三年五月七日創立百周年記念式典をあげた。
いまこのゆかりの地に由来を書いた石をすえまた別に種痘所跡にしるしを立てて記念とする。
一九六一年十一月三日
昭和三十六年文化の日
東京大學醫學部」


○お玉ヶ池種痘所跡 千代田区岩本町2-7-11
3つの石碑が縦に並んで設置されています。


「江戸最初のお玉ヶ池種痘所のあった所
お玉ヶ池史蹟保存会」

「お玉ヶ池と種痘所
お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです
一時は池のほとりに
梁川星巌の玉池吟社
市川寛斎の江湖詩社
大窪詩仏の詩聖堂
東條一堂の瑶池塾
佐久間象山の象山書院
剣士千葉周作の道場玄武館
磯又右衛門の柔道道場
永坂石埭宅 清元太左衛門宅など
文武の華が咲きほこりました
この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで東京大学医学部発祥の地です 同学部は昭和三十三年に迎えた創立百年の記念に昭和三十六年文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にこゝに元標を立てられました
お玉ヶ池史蹟保存會」

(碑表)
(正面)「お玉ヶ池種痘所跡」

(左面)「神田お玉ヶ池松枝町續元誓眼寺前勘定奉行川路聖謨屋敷内」

(右面)「東京大學醫學部」

○伊東玄朴居宅跡・種痘所跡 台東区台東1-30-8
台東一丁目交差点に、説明板「伊東玄朴居宅跡・種痘所跡」があります。伊東玄朴は医学を志し、長崎の鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学びました。江戸で医者として開業、安政5(1858)年には幕府奥医師となり、蘭方医として種痘所(後の幕府の医学所、現東京大学医学部)の開設などに尽力し、明治4(1871)年に72歳で没しました。墓(東京都旧跡)は谷中の天龍院にあります。


(説明板)
「伊東玄朴居宅跡・種痘所跡
台東区台東一丁目三十番付近
この辺りに、蘭方医伊東玄朴の居宅兼家塾「象先堂」があった。伊東玄朴は、寛政十二年(一八○○)肥前国仁比山村(佐賀県神埼郡神埼町)で農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトらに蘭学を学び、その後江戸に出て、天保四年(一八三三)当地に居を構えた。安政五年(一八五八)には、将軍家定の侍医も務め、その名
声は高まり門人が列をなした。
玄朴はまた、江戸においてはじめて種痘法を開始した人物である。種痘とは、一九八○年に世界保健機関(WHO)より撲滅宣言された天然痘に対する予防法。一七九六年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、天然痘によって多くの人間が命を落としていたため、種痘法は西洋医学をわか国で受け入れる決定的な要因になった。嘉永二年(一八四九)長崎でドイツ人のオランダ商館医オットー・モーニケが、佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのがわか国における種痘成功の最初である。
江戸では、安政四年(一八五七)、神田お玉ヶ池(現、千代田区岩本町)に玄朴ら八十余名が金銭を供出して種痘所設立を図り、翌年竣工した。種痘所は、この翌年火災により焼失してしまったため、下谷和泉橋通の仮施設に移り、翌万延元年(一八六○)再建された。同年には幕府直轄の公認機関となり、この後「西洋医学所」「医学所」「医学校」「大学東校」という変遷をたどり、現在の東京大学医学部の前身となった。
幕府の機関となった種痘所の位置は、伊東玄朴宅のすぐ南側、現在の台東一丁目三十番地の南側半分、同二十八番地の全域に相当する。
なお、台東区谷中四丁目四番地の天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡)についての説明板が建っています。
平成十四年三月 台東区教育委員会」


<江戸切絵図>
「伊藤玄卜」とあります。

ライバル関係である漢方の「医学館」(現在の台東区浅草橋4-16)が、近くにありました。

○三井記念病院 千代田区神田和泉町1
明治元(1868)年、横浜の軍陣病院が下谷藤堂邸に移され、医学所(種痘所から発展)を含めて大病院と称しました。その後、変遷を経て三井記念病院が開院しています。

(パネル)
「三井記念病院の由来
社会福祉法人三井記念病院は、1858年(安政5年)江戸お玉ケ池近く(現千代田区岩本町2丁目)に開設された種痘所から発展した東京帝国大学(現東京大学)医科大学附属第二医院跡地(現在地)に、財団法人三井慈善病院として1909年(明治42年)に開院したのが始まりである。
1906年(明治39年)10月、健康保険制度や生活保護法がなかった時代に、三井家は「汎ク貧困ナル病者の為メ施療ヲ為スヲ目的」として施療病院を開設するため100万円を寄付し、これを基金として財団法人組織の慈善病院設立の許可を得た。
病院の建設地には、当時貧困層が医療を受けるために至便な東京帝国大学第二医院跡地(1901年に全焼)を選びただちに着工した。建物は1908年(明治41年)12 月10日竣工し、1909年(明治42年)3月21日に開院式を行った。無料診療を行う民間唯一の病院として、患者の診療を東京帝国大学医科大学に委託して診療を開始した。
以来、数度の名称変更を経ながら終戦まで同大学医学部の協力のもとで高度な医療を提供しつつ無料診療を行い、戦後も創設以来の精神を受け継ぎ、社会福祉法人として診療事業を行っている。
ここに百周年記念建替事業の完了を記念して由来を記す。
社会福祉法人 三井記念病院
2011年9月15日」



(参考)
「伊東玄朴の墓」(こちらで記載)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
お玉ヶ池跡とその界隈
○繁栄於玉稲荷神社 千代田区岩本町2-5-13
<安政三年地図>
町名由来板に掲示されていた安政3(1856)年の地図の抜粋です。「お玉ヶ池跡」「玉池稲荷」が見えます。

<新井商店> 千代田区岩本町2-6-8
水天宮通りに面した新井商店から西への小路に入ると、すぐ右手に「繁栄於玉稲荷神社」はあります。

<幟>
「繁榮お玉稲荷大明神 お玉ヶ池史蹟保存会」

<鳥居扁額>
「繁榮お玉稲荷」


<提灯>
「繁栄於玉稲荷」

<標柱「お玉が池跡」> 東京都旧跡
(標柱)
「お玉が池跡
江戸時代以前、この地域にお玉が池という池があったと言われています。不忍池よりも大きかったという言い伝えもありますが、詳しいことは分かっていません。当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたという伝説から、お玉が池と呼ばれるようになりました。 千代田区」


<社殿内>


<弁財天社>
社殿右手に、小さな池と「弁財天社」が祀られています。




○お玉が池児童遊園 千代田区岩本町2-5-1
繁栄於玉稲荷神社から少し西へ行くと「お玉が池児童遊園」があります。


昭和31(1956)年に千代田区が建てた、東京都史蹟「お玉ヶ池跡」の標柱があります。花壇の縁取りは、池をイメージしているようです。カエルがいます。
「お玉ヶ池跡」
「東京都史蹟指定 昭和三十一年一月千代田区建之」





(説明板)
「神田お玉が池
江戸時代以前、この地域にはお玉が池と呼ばれる池がありました。当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げた故事から、お玉が池と呼ばれるようになったといわれています。
池は江戸時代の早い時期に埋め立てられ、正確な場所は不明ですが、岩本町二丁目・神田岩本町・神田東松下町周辺であったと考えられます。
江戸時代以降、この地域は文化人が多数住む場所として知られていました。江戸時代後期に発行された人名録からは、儒学者・漢学者・蘭学者が塾を開き、剣術家・柔術家などが道場を開いていたことが分かります。 千代田区」



「東都旧跡尽 神田お玉が池の故事」(広重)
説明板に掲示されている広重の錦絵です。茶屋というか野点です。

「江戸名所図会 於玉ヶ池の古事」
広重はこちらを参照していますね。

○お玉ヶ池跡碑 千代田区岩本町2-6-3 全宅連会館
会館北の植栽に「お玉ヶ池跡」碑があります。
「東京都指定史蹟
お玉ヶ池跡」



○お玉が池通り 千代田区岩本町2丁目
西→東



東→西


○お玉ケ池駐車場 明治鋼業 千代田区岩本町2-2
駐車場に「お玉ケ池」の名称がつけられています。

○玄武館道場跡 神田お玉ヶ池畔 千代田区岩本町2-3-11 明治鋼業ビル
明治鋼業ビル1階右手入口脇に碑があります。玄武館道場はここにあったわけではなく、神田お玉ヶ池畔にあったことを示す碑です。
「史蹟
北辰一刀流 千葉周作先生
玄武館道場跡
神田お玉ヶ池畔」


<明治鋼業ロゴマーク>
「明治鋼業株式会社セキレイロゴマークの由来
明治鋼業本社(千代田区神田岩本町)は江戸時代、神田お玉ヶ池があった場所で、池畔には、江戸時代の剣豪・千葉周作が開いた北辰一刀流「玄武館道場」が建てられていました。北辰一刀流は刀の切っ先をセキレイの尾のように上下に動かせることで有名で、明治鋼業のロゴに描かれたセキレイは、どんな困難な入刀にもただちに対処できる研ぎ澄まされた感覚を持っていたいとの願いが込められています。」(HPより引用)

○於玉湯 千代田区岩本町2-2-14
「於玉」の名前が残るビル内銭湯です。


○玄武館・瑶池塾跡 千代田区神田東松下町23



(碑文)
「右文尚武
東條一堂先生瑶池塾の址
東條一堂先生は江戸時代の漢学の大家で安政七年十一月七日千葉縣茂原市八幡原に生まれた名は弘といひ一堂はその號であるはじめ皆川淇園亀田鵬斎等に従って業を受けたが學成つて後神田お玉が池に瑶池塾を開いたこの塾は市橋主殿頭の邸と千葉周作の玄武館の間に在り今の千櫻小学校の地に當ってゐるこの両先生は親交があり自然門人同士も互に相往來して文武の道に勵んだ先生は老中阿部正弘を始め盛岡庄内等の各藩公に召されたが往還常に輿を以て送迎されたので世に輿儒者の稱があつた天性勤王の志篤く氣節に富んでゐたので弟子三千餘人の中には清川八郎桃井儀八鳥山新三郎等幾多の志士が輩出した安政四年七月十三日歿享年八十墓は葛飾区堀切町妙源寺に在る先生の學は漢宋新古の註を排した先秦の古學であり自らは常に焚書以上の人と稱した詩文を善くし又書にも巧みであった著書百二十部その中でも四書知言五辯等が最も有名である
千葉周作先生玄武館の址
千葉周作先生は幕末に於ける剣術の達人寛政六年正月元旦宮城縣栗原郡花山村に生まれた幼時父幸右衛門に北辰夢想流の剣法を學んだが後松戸の住人淺利又七郎義信の門に入つて小野派一刀流を修め更にその師中西忠兵衛に従って秘術を授かり心気力三者一致の妙諦を悟るに至つたここに夢想流と一刀流とを取捨折衷して最も實用に適する組型を創定しこれを北辰一刀流と稱した玄武館を神田お玉が池に開き桃井春蔵斎藤彌九郎の塾と名を齊しくし江戸の三大道場といはれた後に水戸藩主徳川齊昭慶篤の二公に仕えたが期する所は人材の養成にあつた弟子數千人には海保帆平櫻田良佐庄司辯吉等知名の剣客がありまた坂本龍馬清川八郎等の勤王家も輩出した安政二年十二月十日病没享年六十二墓は豊島区巣鴨本妙寺に在る先生人となり剛毅風貌魁梧身長六尺に近く眼光炯炯として人を射犯すべからざる威厳があった
明治神宮宮司 鷹司信輔 題額
文學博士 鹽谷温 撰文
文學博士 諸橋轍次 書」
「昭和三十二年七月建
瑶池塾 玄武館 遺蹟保存會」


(説明板)
「玄武館・瑶池塾跡
玄武館は、北辰一刀流開祖の千葉周作が開いた北辰一刀流の道場です。1822年(文政5年)、日本橋品川町に創立された玄武館は、その後神田お玉が池(現在地)に移転します。練兵館・士学館と並び、幕末の江戸三大道場の一つに数えられました。
玄武館の東隣には、1821年(文政4年)、儒学者の東条一堂が儒学と詩文を教授するため開いた瑤池塾がありました。一堂は、京都の皆川淇園の下で儒学を学んだ後、江戸でも亀田鵬斎に師事して儒学を修めました。 千代田区」



(参考)
千葉周作の墓は、本妙寺(巣鴨)にあります。こちらで記載。
「江戸切絵図」
江戸切絵図(嘉永2(1849)〜文久2(1862))でも確認すると、「東條文蔵」その隣は「イシ」とありました。

<宇宙船千桜号>
千桜小学校廃校 → アルファグランデ千桜タワー

<千桜百年の碑>
赤い石の「千桜百年」碑(千桜小学校創立百年記念事業協賛会)が、説明板の下に埋もれています。

<防災井戸>


○岩本町馬の水飲み広場 千代田区岩本町3-10
芝生があるだけで、ベンチもなく中に入って休む人もいません。





(碑文)
「岩本町馬の水飲み広場
この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を牽く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場所として、重要な役割を果たしてきました。
千代田区役所」


(参考その1)
日比谷公園に馬の水飲みがあります。


(参考その2)
新宿駅東口ひろばに、倫敦から東京市に寄贈された「馬水槽」があります。

<安政三年地図>
町名由来板に掲示されていた安政3(1856)年の地図の抜粋です。「お玉ヶ池跡」「玉池稲荷」が見えます。

<新井商店> 千代田区岩本町2-6-8
水天宮通りに面した新井商店から西への小路に入ると、すぐ右手に「繁栄於玉稲荷神社」はあります。

<幟>
「繁榮お玉稲荷大明神 お玉ヶ池史蹟保存会」

<鳥居扁額>
「繁榮お玉稲荷」


<提灯>
「繁栄於玉稲荷」

<標柱「お玉が池跡」> 東京都旧跡
(標柱)
「お玉が池跡
江戸時代以前、この地域にお玉が池という池があったと言われています。不忍池よりも大きかったという言い伝えもありますが、詳しいことは分かっていません。当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたという伝説から、お玉が池と呼ばれるようになりました。 千代田区」


<社殿内>


<弁財天社>
社殿右手に、小さな池と「弁財天社」が祀られています。




○お玉が池児童遊園 千代田区岩本町2-5-1
繁栄於玉稲荷神社から少し西へ行くと「お玉が池児童遊園」があります。


昭和31(1956)年に千代田区が建てた、東京都史蹟「お玉ヶ池跡」の標柱があります。花壇の縁取りは、池をイメージしているようです。カエルがいます。
「お玉ヶ池跡」
「東京都史蹟指定 昭和三十一年一月千代田区建之」





(説明板)
「神田お玉が池
江戸時代以前、この地域にはお玉が池と呼ばれる池がありました。当初は桜が池と呼ばれていましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げた故事から、お玉が池と呼ばれるようになったといわれています。
池は江戸時代の早い時期に埋め立てられ、正確な場所は不明ですが、岩本町二丁目・神田岩本町・神田東松下町周辺であったと考えられます。
江戸時代以降、この地域は文化人が多数住む場所として知られていました。江戸時代後期に発行された人名録からは、儒学者・漢学者・蘭学者が塾を開き、剣術家・柔術家などが道場を開いていたことが分かります。 千代田区」



「東都旧跡尽 神田お玉が池の故事」(広重)
説明板に掲示されている広重の錦絵です。茶屋というか野点です。

「江戸名所図会 於玉ヶ池の古事」
広重はこちらを参照していますね。

○お玉ヶ池跡碑 千代田区岩本町2-6-3 全宅連会館
会館北の植栽に「お玉ヶ池跡」碑があります。
「東京都指定史蹟
お玉ヶ池跡」



○お玉が池通り 千代田区岩本町2丁目
西→東



東→西


○お玉ケ池駐車場 明治鋼業 千代田区岩本町2-2
駐車場に「お玉ケ池」の名称がつけられています。

○玄武館道場跡 神田お玉ヶ池畔 千代田区岩本町2-3-11 明治鋼業ビル
明治鋼業ビル1階右手入口脇に碑があります。玄武館道場はここにあったわけではなく、神田お玉ヶ池畔にあったことを示す碑です。
「史蹟
北辰一刀流 千葉周作先生
玄武館道場跡
神田お玉ヶ池畔」


<明治鋼業ロゴマーク>
「明治鋼業株式会社セキレイロゴマークの由来
明治鋼業本社(千代田区神田岩本町)は江戸時代、神田お玉ヶ池があった場所で、池畔には、江戸時代の剣豪・千葉周作が開いた北辰一刀流「玄武館道場」が建てられていました。北辰一刀流は刀の切っ先をセキレイの尾のように上下に動かせることで有名で、明治鋼業のロゴに描かれたセキレイは、どんな困難な入刀にもただちに対処できる研ぎ澄まされた感覚を持っていたいとの願いが込められています。」(HPより引用)

○於玉湯 千代田区岩本町2-2-14
「於玉」の名前が残るビル内銭湯です。


○玄武館・瑶池塾跡 千代田区神田東松下町23



(碑文)
「右文尚武
東條一堂先生瑶池塾の址
東條一堂先生は江戸時代の漢学の大家で安政七年十一月七日千葉縣茂原市八幡原に生まれた名は弘といひ一堂はその號であるはじめ皆川淇園亀田鵬斎等に従って業を受けたが學成つて後神田お玉が池に瑶池塾を開いたこの塾は市橋主殿頭の邸と千葉周作の玄武館の間に在り今の千櫻小学校の地に當ってゐるこの両先生は親交があり自然門人同士も互に相往來して文武の道に勵んだ先生は老中阿部正弘を始め盛岡庄内等の各藩公に召されたが往還常に輿を以て送迎されたので世に輿儒者の稱があつた天性勤王の志篤く氣節に富んでゐたので弟子三千餘人の中には清川八郎桃井儀八鳥山新三郎等幾多の志士が輩出した安政四年七月十三日歿享年八十墓は葛飾区堀切町妙源寺に在る先生の學は漢宋新古の註を排した先秦の古學であり自らは常に焚書以上の人と稱した詩文を善くし又書にも巧みであった著書百二十部その中でも四書知言五辯等が最も有名である
千葉周作先生玄武館の址
千葉周作先生は幕末に於ける剣術の達人寛政六年正月元旦宮城縣栗原郡花山村に生まれた幼時父幸右衛門に北辰夢想流の剣法を學んだが後松戸の住人淺利又七郎義信の門に入つて小野派一刀流を修め更にその師中西忠兵衛に従って秘術を授かり心気力三者一致の妙諦を悟るに至つたここに夢想流と一刀流とを取捨折衷して最も實用に適する組型を創定しこれを北辰一刀流と稱した玄武館を神田お玉が池に開き桃井春蔵斎藤彌九郎の塾と名を齊しくし江戸の三大道場といはれた後に水戸藩主徳川齊昭慶篤の二公に仕えたが期する所は人材の養成にあつた弟子數千人には海保帆平櫻田良佐庄司辯吉等知名の剣客がありまた坂本龍馬清川八郎等の勤王家も輩出した安政二年十二月十日病没享年六十二墓は豊島区巣鴨本妙寺に在る先生人となり剛毅風貌魁梧身長六尺に近く眼光炯炯として人を射犯すべからざる威厳があった
明治神宮宮司 鷹司信輔 題額
文學博士 鹽谷温 撰文
文學博士 諸橋轍次 書」
「昭和三十二年七月建
瑶池塾 玄武館 遺蹟保存會」


(説明板)
「玄武館・瑶池塾跡
玄武館は、北辰一刀流開祖の千葉周作が開いた北辰一刀流の道場です。1822年(文政5年)、日本橋品川町に創立された玄武館は、その後神田お玉が池(現在地)に移転します。練兵館・士学館と並び、幕末の江戸三大道場の一つに数えられました。
玄武館の東隣には、1821年(文政4年)、儒学者の東条一堂が儒学と詩文を教授するため開いた瑤池塾がありました。一堂は、京都の皆川淇園の下で儒学を学んだ後、江戸でも亀田鵬斎に師事して儒学を修めました。 千代田区」



(参考)
千葉周作の墓は、本妙寺(巣鴨)にあります。こちらで記載。
「江戸切絵図」
江戸切絵図(嘉永2(1849)〜文久2(1862))でも確認すると、「東條文蔵」その隣は「イシ」とありました。

<宇宙船千桜号>
千桜小学校廃校 → アルファグランデ千桜タワー

<千桜百年の碑>
赤い石の「千桜百年」碑(千桜小学校創立百年記念事業協賛会)が、説明板の下に埋もれています。

<防災井戸>


○岩本町馬の水飲み広場 千代田区岩本町3-10
芝生があるだけで、ベンチもなく中に入って休む人もいません。





(碑文)
「岩本町馬の水飲み広場
この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を牽く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場所として、重要な役割を果たしてきました。
千代田区役所」


(参考その1)
日比谷公園に馬の水飲みがあります。


(参考その2)
新宿駅東口ひろばに、倫敦から東京市に寄贈された「馬水槽」があります。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
紺屋町/北乗物町/東紺屋町
○紺屋町
慶長年間(1596-1615)徳川家康から関八州と伊豆の藍買付けを許された紺屋頭・土屋五郎右衛門が支配した町で、藍染職人が集住しました。付近を流れる川は藍染川と呼ばれました。「場違い」は、紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来します。
町の北に於玉稲荷という祠と於玉が池の跡があり、故事が伝わっています。中世の頃この地は奥州への街道沿いでしたが、池のほとりで玉という美しい女が旅人に茶をふるまっていました。2人の男に求婚されましたが、どちらを選ぶか決めかねてついには池に身を投げます。村人たちはお玉の霊を祠に祀ったと言います。
「江戸切絵図」

「現在の地図」

「画本東都遊 紺屋の図」(北斎)
葛飾北斎が描いた紺屋の風景です。

「富獄百景二篇 紺屋町の不二」(北斎)
葛飾北斎が紺屋町の染め物と富士を描いています。

「名所江戸百景 神田紺屋町」(広重)
藍染川でさらされた染め物が干されている風景です。富士が見えます。

○町名由来板「神田紺屋町(南部)」 千代田区神田紺屋町6
「神田金物通り」の紺屋町交差点から西に少し行くと、半纏をかたどった、千代田区町名由来板「神田紺屋町(南部)」があります。






(説明板)
「千代田区町名由来板 神田紺屋町(南部)
この界隈は、慶長年間(1596〜1615)に徳川家康から軍功として関東一円の藍の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門が支配していた町でした。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町」と呼ばれるようになったのです。
江戸を代表する藍染めの浴衣と手拭の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。つまり、ここが流行の発信地だったわけです。ちなみに、「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。
町内には古くから藍染川という小川が流れていました。幅一間(約1.82メートル)ほどの川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになったそうです。「狂歌江都名所図会」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」などの歌が詠まれており、江戸では有名な川であったことがわかります。
万治年間(1658〜1661)、あるいは天和年間(1681〜1684)には、紺屋町の南方(現在の神田美倉町、神田東紺屋町、神田西福田町)に火除地が設けられました。明暦三年(1657)の「明暦の大火(振袖火事)」をはじめ、火災が相次いだことを受けて、幕府が神田堀一帯の民家を取り払い、土手を築き、松の木を植えました。のちに土手の南側には堀割ができましたが、その堀の長さが八町(丁)あったため、「八丁堀」と呼ばれるようになったそうです。 紺屋町(南)町会」 (誤字は訂正しました)




○町名由来板「神田紺屋町(北部)」 千代田区神田紺屋町41


(説明板)
「千代田区町名由来板 神田紺屋町(北部)
慶長年間(1596〜1615)に誕生したこの町には、藍染めを手がける染物屋が軒を連ねていました。「紺屋町」という町名は、そのために生まれたとされています。
明治維新以降も、紺屋町には多くの染物屋が集まっていたようです。明治時代後半の東京を描いた『風俗画報』は、この界隈の景観について、次のように記述しています。
「……其の晒らせる布は、概ね手拭染にして……晴天には、いづれ晒らさぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻へりて、旗の如く又幟の如く、頗ぶる美観なり」
藍や紺の手染めの布が、あたかも万国旗のように町を彩っていたというわけです。また、『狂歌江都名所図会』には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」と、川の水まで浅黄色(藍色を薄めた色)をしていると詠まれています。いずれも江戸時代から明治期にかけて、手拭いや浴衣の一大生産地だった町のさまをほうふつとさせる描写です。
「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」といわれ、江戸の流行の発信地でもありました。紺屋町で染められた手拭いや浴衣は、江戸っ子たちにもてはやされ、なかには紺屋町以外で染めたものを「場違い」といって敬遠する人まで現れたほどです。
ところで現在、紺屋町には、紺屋町北部町会と、紺屋町(南)町会の二つの住民組織があります。その理由は、両町会の間に神田北乗物町が存在し、町そのものを南北に分けているからです。こんな不可思議な町の形が生まれたのは、江戸時代の享保四年(1719)のことでした。当時、神田北乗物町の南側だけに集まっていた紺屋町の一部が、幕府の命令によって北乗物町の北部に移されたのです。その跡地は、防災用の空き地となりました。災害から町を守るための幕府の施策が、このような町の配置を生み出したものと思われます。 紺屋町北部町会」




○町名由来板「北乗物町」 千代田区神田東紺屋町31

(説明板)
「千代田区町名由来板 北乗物町
神田駅の東側には、古い町人町の面影を残す町名が目につく。鍛冶町、紺屋町、北乗物町。そしていまは消えたが、塗師町、鍋町なんていうのも戦前の頃まで、現在の鍛冶町の領域のなかにあったという。地図を眺めたり、町を歩いたりしているときに、こういった町名表示に出くわすと、往時のにぎやかな職人町の風景が想像されてきて楽しい。
子どもの頃から地図好きだった僕は、千代田区の地図に初めて「北乗物町」の名を発見したとき、電車やバスの工場や車庫がずらりと建ち並んだ“乗物の国”のような世界を思い浮かべた。神田というと、須田町に交通博物館があるから、そういう連想が働いたのかもしれない。しかし「乗物町」の名は、調べてみると江戸時代に発生したもので、いろいろな説があるようだが、駕籠職人がこのあたりに住んでいたらしい。
なるほど、中央区の領域にはなるけれど、近いところに小伝馬町、大伝馬町、馬喰町といった、馬を使った運送業者に由来する町がある。この一帯が古くからの交通の要所だったことが偲ばれてくる。
ちなみに、北乗物があって「南」はないのか?と思われる方もいるだろうが、南乗物町というのも戦前までは存在していたようだ。
小さな北乗物町の界隈を歩いてみると、さすがにいまは駕籠屋の面影を残すような家はない。車関係のオフィスや工場が目につくこともない。ただし、ビルの狭間に小さな町工場がぽつぽつとあって、「北乘物町」と旧字体で綴った昔の町名表示板がいまもそのまま張り出されている。
ホーロー引きの古めかしい看板に記された「乘物」の文字に、僕は幼い頃に親しんでいた“ブリキの自動車”の光景を重ね合わせた。 コラムニスト 泉麻人」




「北乗物町の町名由来について
北乗物町は、明治二年(1869)、元乗物町代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立したときに、この町名が付けられました。この町は鍛冶町一丁目の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。
「乗物」という名の由来は、諸説いろいろあります。駕籠をつくる職人が多く住んでいたという説のほかに、祭りが盛んで、江戸の二大祭りの山王祭と並び称される神田祭の際にかつぐ神輿をつくる職人が住んでいた、駕籠をかつぐ人が多く住んでいたという説や、馬具をつくる職人が住んでいたなどで、いずれの説も江戸の庶民の生活に密着した江戸の時代を感じます。
ほかに乗物と付く町は、元乗物町元地(現・鍛冶町一丁目)、新乗物町(現・中央区日本橋堀留町)などがありました。 北乗物町町会」

○町名由来板「東紺屋町」 千代田区岩本町2-2-4
お玉が池通りが昭和通りにぶつかる昭和通りの歩道に、纏ととも町名由来板が建っています。


(説明板)
「千代田区町名由来板 東紺屋町
江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷、神田佐柄木町代地、永富町二丁目代地といった町々でした。
明治二年(一八六九)、これらの町が合併して「東紺屋町」となりました。
明治五年(一八七二)には、町の北側にあった、江戸時代前期から続く武家地の一角も編入されています。通称「お玉が池」と呼ばれていたあたりです。
「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。
昭和二十二年(一九四七)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。その後、昭和四十年(一九六五)の住居表示の実施にともなって、神田東紺屋町の一部は神田松枝町、神田大和町、神田東松下町の一部、神田元岩井町の一部と合併して、岩本町二丁目となり、現在に至っています。 岩本町二丁目東紺町会」



慶長年間(1596-1615)徳川家康から関八州と伊豆の藍買付けを許された紺屋頭・土屋五郎右衛門が支配した町で、藍染職人が集住しました。付近を流れる川は藍染川と呼ばれました。「場違い」は、紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来します。
町の北に於玉稲荷という祠と於玉が池の跡があり、故事が伝わっています。中世の頃この地は奥州への街道沿いでしたが、池のほとりで玉という美しい女が旅人に茶をふるまっていました。2人の男に求婚されましたが、どちらを選ぶか決めかねてついには池に身を投げます。村人たちはお玉の霊を祠に祀ったと言います。
「江戸切絵図」

「現在の地図」

「画本東都遊 紺屋の図」(北斎)
葛飾北斎が描いた紺屋の風景です。

「富獄百景二篇 紺屋町の不二」(北斎)
葛飾北斎が紺屋町の染め物と富士を描いています。

「名所江戸百景 神田紺屋町」(広重)
藍染川でさらされた染め物が干されている風景です。富士が見えます。

○町名由来板「神田紺屋町(南部)」 千代田区神田紺屋町6
「神田金物通り」の紺屋町交差点から西に少し行くと、半纏をかたどった、千代田区町名由来板「神田紺屋町(南部)」があります。






(説明板)
「千代田区町名由来板 神田紺屋町(南部)
この界隈は、慶長年間(1596〜1615)に徳川家康から軍功として関東一円の藍の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門が支配していた町でした。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町」と呼ばれるようになったのです。
江戸を代表する藍染めの浴衣と手拭の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。つまり、ここが流行の発信地だったわけです。ちなみに、「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。
町内には古くから藍染川という小川が流れていました。幅一間(約1.82メートル)ほどの川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになったそうです。「狂歌江都名所図会」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」などの歌が詠まれており、江戸では有名な川であったことがわかります。
万治年間(1658〜1661)、あるいは天和年間(1681〜1684)には、紺屋町の南方(現在の神田美倉町、神田東紺屋町、神田西福田町)に火除地が設けられました。明暦三年(1657)の「明暦の大火(振袖火事)」をはじめ、火災が相次いだことを受けて、幕府が神田堀一帯の民家を取り払い、土手を築き、松の木を植えました。のちに土手の南側には堀割ができましたが、その堀の長さが八町(丁)あったため、「八丁堀」と呼ばれるようになったそうです。 紺屋町(南)町会」 (誤字は訂正しました)




○町名由来板「神田紺屋町(北部)」 千代田区神田紺屋町41


(説明板)
「千代田区町名由来板 神田紺屋町(北部)
慶長年間(1596〜1615)に誕生したこの町には、藍染めを手がける染物屋が軒を連ねていました。「紺屋町」という町名は、そのために生まれたとされています。
明治維新以降も、紺屋町には多くの染物屋が集まっていたようです。明治時代後半の東京を描いた『風俗画報』は、この界隈の景観について、次のように記述しています。
「……其の晒らせる布は、概ね手拭染にして……晴天には、いづれ晒らさぬ家もなく、遠く之を望むに、高く風に翻へりて、旗の如く又幟の如く、頗ぶる美観なり」
藍や紺の手染めの布が、あたかも万国旗のように町を彩っていたというわけです。また、『狂歌江都名所図会』には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」と、川の水まで浅黄色(藍色を薄めた色)をしていると詠まれています。いずれも江戸時代から明治期にかけて、手拭いや浴衣の一大生産地だった町のさまをほうふつとさせる描写です。
「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」といわれ、江戸の流行の発信地でもありました。紺屋町で染められた手拭いや浴衣は、江戸っ子たちにもてはやされ、なかには紺屋町以外で染めたものを「場違い」といって敬遠する人まで現れたほどです。
ところで現在、紺屋町には、紺屋町北部町会と、紺屋町(南)町会の二つの住民組織があります。その理由は、両町会の間に神田北乗物町が存在し、町そのものを南北に分けているからです。こんな不可思議な町の形が生まれたのは、江戸時代の享保四年(1719)のことでした。当時、神田北乗物町の南側だけに集まっていた紺屋町の一部が、幕府の命令によって北乗物町の北部に移されたのです。その跡地は、防災用の空き地となりました。災害から町を守るための幕府の施策が、このような町の配置を生み出したものと思われます。 紺屋町北部町会」




○町名由来板「北乗物町」 千代田区神田東紺屋町31

(説明板)
「千代田区町名由来板 北乗物町
神田駅の東側には、古い町人町の面影を残す町名が目につく。鍛冶町、紺屋町、北乗物町。そしていまは消えたが、塗師町、鍋町なんていうのも戦前の頃まで、現在の鍛冶町の領域のなかにあったという。地図を眺めたり、町を歩いたりしているときに、こういった町名表示に出くわすと、往時のにぎやかな職人町の風景が想像されてきて楽しい。
子どもの頃から地図好きだった僕は、千代田区の地図に初めて「北乗物町」の名を発見したとき、電車やバスの工場や車庫がずらりと建ち並んだ“乗物の国”のような世界を思い浮かべた。神田というと、須田町に交通博物館があるから、そういう連想が働いたのかもしれない。しかし「乗物町」の名は、調べてみると江戸時代に発生したもので、いろいろな説があるようだが、駕籠職人がこのあたりに住んでいたらしい。
なるほど、中央区の領域にはなるけれど、近いところに小伝馬町、大伝馬町、馬喰町といった、馬を使った運送業者に由来する町がある。この一帯が古くからの交通の要所だったことが偲ばれてくる。
ちなみに、北乗物があって「南」はないのか?と思われる方もいるだろうが、南乗物町というのも戦前までは存在していたようだ。
小さな北乗物町の界隈を歩いてみると、さすがにいまは駕籠屋の面影を残すような家はない。車関係のオフィスや工場が目につくこともない。ただし、ビルの狭間に小さな町工場がぽつぽつとあって、「北乘物町」と旧字体で綴った昔の町名表示板がいまもそのまま張り出されている。
ホーロー引きの古めかしい看板に記された「乘物」の文字に、僕は幼い頃に親しんでいた“ブリキの自動車”の光景を重ね合わせた。 コラムニスト 泉麻人」




「北乗物町の町名由来について
北乗物町は、明治二年(1869)、元乗物町代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立したときに、この町名が付けられました。この町は鍛冶町一丁目の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。
「乗物」という名の由来は、諸説いろいろあります。駕籠をつくる職人が多く住んでいたという説のほかに、祭りが盛んで、江戸の二大祭りの山王祭と並び称される神田祭の際にかつぐ神輿をつくる職人が住んでいた、駕籠をかつぐ人が多く住んでいたという説や、馬具をつくる職人が住んでいたなどで、いずれの説も江戸の庶民の生活に密着した江戸の時代を感じます。
ほかに乗物と付く町は、元乗物町元地(現・鍛冶町一丁目)、新乗物町(現・中央区日本橋堀留町)などがありました。 北乗物町町会」

○町名由来板「東紺屋町」 千代田区岩本町2-2-4
お玉が池通りが昭和通りにぶつかる昭和通りの歩道に、纏ととも町名由来板が建っています。


(説明板)
「千代田区町名由来板 東紺屋町
江戸時代、この界隈は、町人と武士の屋敷が混在している地域でした。このあたりにあったのは、神田紺屋町三丁目、神田紺屋町一丁目代地、本銀町会所屋敷、神田佐柄木町代地、永富町二丁目代地といった町々でした。
明治二年(一八六九)、これらの町が合併して「東紺屋町」となりました。
明治五年(一八七二)には、町の北側にあった、江戸時代前期から続く武家地の一角も編入されています。通称「お玉が池」と呼ばれていたあたりです。
「紺屋」という町名は、江戸時代から明治時代にかけて、紺屋頭の拝領地であり、藍染職人が住んでいて、染物業が盛んであったことに由来しています。
昭和二十二年(一九四七)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名の頭に「神田」が付き、神田東紺屋町となりました。その後、昭和四十年(一九六五)の住居表示の実施にともなって、神田東紺屋町の一部は神田松枝町、神田大和町、神田東松下町の一部、神田元岩井町の一部と合併して、岩本町二丁目となり、現在に至っています。 岩本町二丁目東紺町会」




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