隅田川駅と旧運河
○瑞光橋 荒川区南千住8丁目・荒川区南千住3丁目
瑞光橋は、隅田川駅構内への旧運河に架かっていた橋です。
隅田川側から瑞光橋



瑞光橋公園から瑞光橋






<旧橋名板「瑞光橋」>
(プレート)
「当地区は、明治29年に日本鉄道株式会社が隅田川駅を開設以来、隅田川を利用した船運と相俟って、物資の集散地として大変栄えてきました。張り巡らされた運河には、かつて瑞光橋が架かっておりました。
このたび、再開発事業により新「瑞光橋」が架橋されたことを記念して、往時を偲び、ここに当時の橋名板を設置いたしました。」


<隅田川テラス> 荒川区南千住3丁目
瑞光橋から隅田川下流白鬚橋方向

隅田川下流から瑞光橋

○瑞光橋公園 荒川区南千住8-18-1
「荒川区立瑞光橋公園」は隅田川の入り江を生かした公園で平成18(2006)年6月にオープンしました。



<メインエントランス側>
「ちびっこ広場」「わくわく広場」「すべり台広場」があります。瑞光石を想起させるものは見当たりません。



<彫刻>
「Lateolabrax
岡村貴正
東京藝術大学卒業・修了制作作品
題10回荒川区長賞受賞
鱸の美しさは、私の人生の歯車を狂わせた。
その感動を求め、作り上げた作品は新しい出会いと感動を与えてくれた。
平成27年度」


「水のかたち-stretch
高濱 英俊」


「生成
生命が持つエネルギーや、力強さを発現しました。
銅板をたたいて形を作り、溶接してつなぎ合わせて制作しています。
築館儀憲」


<入江側>
隅田川貨物駅への運河だった入江を利用して造られた親水空間です。




<汐入水門跡>
汐入水門は、隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域を水害から守るため、明治28(1895)年に設けられました。汐入水門の一部がモニュメントとして残されています。




(説明板)
「この汐入水門跡は、墨田川貨物駅(現、JR貨物墨田川貨物駅)と河川流通の関係を知るーの遺構であり、水害と闘った南千住の歴史を伝えている。
汐入水門は、隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域害から守るため、昭和28年に誕生した。
隅田川貨物駅は明治30年に石炭の集散地として開設された駅である。鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのための運河が造られた。元来この地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。 水門は、この水害を防ぐために建造されたのである。
しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道・トラックによるコンテナ輸送にり替わると、運河は不用となり昭和45年頃には全て埋め立てられ、水門もその役割を終えた。」


○リバーハープコートの仲間たち 荒川区南千住3-41
瑞光橋公園からUR賃貸住宅「リバーハープコート南千住」にオブジェが見えたので、橋場橋まで歩きました。
<せせらぎ>



<音の妖精>
音の妖精のオブジェが10基あります。以下は一部です。
「魚と水のダンス」「波しぶき3兄弟」「指揮者のオブジェ」「ハ―ピィ―」「四分休符」「リバーハープ」





<案内板>
「リバーハープコート南千住
〜リバーハープコートの妖精たち〜」

瑞光橋は、隅田川駅構内への旧運河に架かっていた橋です。
隅田川側から瑞光橋



瑞光橋公園から瑞光橋






<旧橋名板「瑞光橋」>
(プレート)
「当地区は、明治29年に日本鉄道株式会社が隅田川駅を開設以来、隅田川を利用した船運と相俟って、物資の集散地として大変栄えてきました。張り巡らされた運河には、かつて瑞光橋が架かっておりました。
このたび、再開発事業により新「瑞光橋」が架橋されたことを記念して、往時を偲び、ここに当時の橋名板を設置いたしました。」


<隅田川テラス> 荒川区南千住3丁目
瑞光橋から隅田川下流白鬚橋方向

隅田川下流から瑞光橋

○瑞光橋公園 荒川区南千住8-18-1
「荒川区立瑞光橋公園」は隅田川の入り江を生かした公園で平成18(2006)年6月にオープンしました。



<メインエントランス側>
「ちびっこ広場」「わくわく広場」「すべり台広場」があります。瑞光石を想起させるものは見当たりません。



<彫刻>
「Lateolabrax
岡村貴正
東京藝術大学卒業・修了制作作品
題10回荒川区長賞受賞
鱸の美しさは、私の人生の歯車を狂わせた。
その感動を求め、作り上げた作品は新しい出会いと感動を与えてくれた。
平成27年度」


「水のかたち-stretch
高濱 英俊」


「生成
生命が持つエネルギーや、力強さを発現しました。
銅板をたたいて形を作り、溶接してつなぎ合わせて制作しています。
築館儀憲」


<入江側>
隅田川貨物駅への運河だった入江を利用して造られた親水空間です。




<汐入水門跡>
汐入水門は、隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域を水害から守るため、明治28(1895)年に設けられました。汐入水門の一部がモニュメントとして残されています。




(説明板)
「この汐入水門跡は、墨田川貨物駅(現、JR貨物墨田川貨物駅)と河川流通の関係を知るーの遺構であり、水害と闘った南千住の歴史を伝えている。
汐入水門は、隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域害から守るため、昭和28年に誕生した。
隅田川貨物駅は明治30年に石炭の集散地として開設された駅である。鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのための運河が造られた。元来この地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。 水門は、この水害を防ぐために建造されたのである。
しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道・トラックによるコンテナ輸送にり替わると、運河は不用となり昭和45年頃には全て埋め立てられ、水門もその役割を終えた。」


○リバーハープコートの仲間たち 荒川区南千住3-41
瑞光橋公園からUR賃貸住宅「リバーハープコート南千住」にオブジェが見えたので、橋場橋まで歩きました。
<せせらぎ>



<音の妖精>
音の妖精のオブジェが10基あります。以下は一部です。
「魚と水のダンス」「波しぶき3兄弟」「指揮者のオブジェ」「ハ―ピィ―」「四分休符」「リバーハープ」





<案内板>
「リバーハープコート南千住
〜リバーハープコートの妖精たち〜」


南千住ソナタ通り
○南千住ソナタ通り 荒川区南千住4-7-3
閉鎖した南千住天然温泉足湯(こちらで記載)と同じ公開空地に「南千住ソナタ通り」があります。
<線路>
ソナタ通りの中央に線路が敷かれています。ここは隅田川駅の一部だった場所で、再開発にあたり、その歴史を記念して造られました。



分岐もあります。


(説明板)
「〜ようこそ!「南千住ソナタ通り」へ〜
ロイヤルバークスタワー南千住は、ここに住まう方・訪れる方みんなが、明るく元気よく快適に過ごせることをテーマに「明るい南国リゾート感覚と鉄道」をモチーフにしたさまざまな非日常体験空間から造られています。明るく元気よく快適に=「南国リゾート感覚」は何となく解かりますよね。では、なぜ鉄道なのでしょうか?・・・
実はこの土地、明治後期より昭和62年頃まで、現:日本貨物鉄道:隅田川駅の一部として使われていた場所なんです。その後の再開発により現在の町並みを形成するに至ったわけですが、その歴史背景・時代の流れを記念して、本物の線路を敷き込みメタセコイヤ並木を配した「南千住ソナタ通り」を造ってみました。西側にある「足湯」共々、お子様からご年配の方まで幅広くみんなが一緒になって楽しめる場所として素敵な思いに浸れる空間として利用していただければ幸いです。」

<蒸気機関車彫刻>
蒸気機関車を偲ばせるものは、壁に刻まれた蒸気機関車の彫刻だけです。



<オブジェ撤去跡>
足湯が開設されていた時は、ソナタ通りの線路分岐先には、車輪や蒸気機関車のオブジェが置かれ、夜は電飾できらびやかだったようです。現在は撤去されてありません。


「遊具ではありません 絶対に触らないで下さい」の注意書きだけ残っています。

<公開空地>
「ロイヤルパークスタワー南千住」の公開空地です。


○Southa Walk 荒川区南千住4-5-1
JR南千住駅西口前に、スーパー三徳とマクドナルドがあり、駅と店前の通路に線路があります。
<北側の線路>



線路の中に、「足跡」と「Southa Walk」という銘板があります。


<南側の線路>





植え込みにある「サウザ」に記載されているJR東日本グループのデベロッパー「ジェイアール東日本都市開発」がレールを設置したかと思われます。

○隅田川駅 荒川区南千住4-1
日本貨物鉄道(JR貨物)の隅田川駅です。隅田川駅は常磐炭田からの石炭の受け入れ、隅田川の水運と連絡して市街地への輸送を行うために明治29(1896)年に設置された駅です。隅田川駅の縮小前の鉄道用地は再開発が行われ、超高層マンションなどが立ち並んでいます。






<橋場橋交差点(東ゲート)> 南千住4-1・南千住8-1〜南千住4-1・南千住3-41
隅田川駅の東側のコンテナトラックが出入りする「橋場橋交差点」は、かつて貨物駅の運河に架けられていた「橋場橋」のあった場所です。


くすのき通りが隅田川への運河跡です。

<案内板>
ドナウ広場(南千住駅東口交通広場)に掲示の案内板です。

閉鎖した南千住天然温泉足湯(こちらで記載)と同じ公開空地に「南千住ソナタ通り」があります。
<線路>
ソナタ通りの中央に線路が敷かれています。ここは隅田川駅の一部だった場所で、再開発にあたり、その歴史を記念して造られました。



分岐もあります。


(説明板)
「〜ようこそ!「南千住ソナタ通り」へ〜
ロイヤルバークスタワー南千住は、ここに住まう方・訪れる方みんなが、明るく元気よく快適に過ごせることをテーマに「明るい南国リゾート感覚と鉄道」をモチーフにしたさまざまな非日常体験空間から造られています。明るく元気よく快適に=「南国リゾート感覚」は何となく解かりますよね。では、なぜ鉄道なのでしょうか?・・・
実はこの土地、明治後期より昭和62年頃まで、現:日本貨物鉄道:隅田川駅の一部として使われていた場所なんです。その後の再開発により現在の町並みを形成するに至ったわけですが、その歴史背景・時代の流れを記念して、本物の線路を敷き込みメタセコイヤ並木を配した「南千住ソナタ通り」を造ってみました。西側にある「足湯」共々、お子様からご年配の方まで幅広くみんなが一緒になって楽しめる場所として素敵な思いに浸れる空間として利用していただければ幸いです。」

<蒸気機関車彫刻>
蒸気機関車を偲ばせるものは、壁に刻まれた蒸気機関車の彫刻だけです。



<オブジェ撤去跡>
足湯が開設されていた時は、ソナタ通りの線路分岐先には、車輪や蒸気機関車のオブジェが置かれ、夜は電飾できらびやかだったようです。現在は撤去されてありません。


「遊具ではありません 絶対に触らないで下さい」の注意書きだけ残っています。

<公開空地>
「ロイヤルパークスタワー南千住」の公開空地です。


○Southa Walk 荒川区南千住4-5-1
JR南千住駅西口前に、スーパー三徳とマクドナルドがあり、駅と店前の通路に線路があります。
<北側の線路>



線路の中に、「足跡」と「Southa Walk」という銘板があります。


<南側の線路>





植え込みにある「サウザ」に記載されているJR東日本グループのデベロッパー「ジェイアール東日本都市開発」がレールを設置したかと思われます。

○隅田川駅 荒川区南千住4-1
日本貨物鉄道(JR貨物)の隅田川駅です。隅田川駅は常磐炭田からの石炭の受け入れ、隅田川の水運と連絡して市街地への輸送を行うために明治29(1896)年に設置された駅です。隅田川駅の縮小前の鉄道用地は再開発が行われ、超高層マンションなどが立ち並んでいます。






<橋場橋交差点(東ゲート)> 南千住4-1・南千住8-1〜南千住4-1・南千住3-41
隅田川駅の東側のコンテナトラックが出入りする「橋場橋交差点」は、かつて貨物駅の運河に架けられていた「橋場橋」のあった場所です。


くすのき通りが隅田川への運河跡です。

<案内板>
ドナウ広場(南千住駅東口交通広場)に掲示の案内板です。

砂尾堤
○砂尾堤
<江戸絵図>
砂尾堤と川筋が日光街道の東から総泉寺まで続いています。

砂尾堤北端に、「三王権現」「福壽院」が見えます。

<明治20年代の砂尾堤>

<砂尾堤と砂尾長者>
砂尾堤北端、山王清兵衛祠の東に、説明板「砂尾堤と砂尾長者」があります。
(説明板)
「砂尾堤と砂尾長者
南千住七丁目二十番地付近から現在の隅田川に沿って台東区今戸に向かう道は、土手になっていて砂尾堤と呼ばれた。中世の石浜に砂尾長者とよばれる土豪が住み、この地を領していたことに因むという。石浜の地は古代から武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県東部)と下総国(千葉県北部・茨城県南部・東京都東部)をつなぐ交通の要地であり、砂尾長者は、十五世紀半ば千葉氏が内紛により下総国を逃れ石浜に入った後、家臣としてこの地に住んだといわれる。台東区橋場にある砂尾不動院の開基とも、中興ともいわれる人物である。
この一帯は昔から広範囲にわたりしばしば水害に見舞われた。汐入堤とも呼ばれたこの堤近くには昭和初期まで、砂尾・堤根という字が残っていた。
荒川区教育委員会」



<砂尾堤跡>


○山王清兵衛祠 荒川区南千住7-23-10
日枝神社の参道口(旧砂尾堤土手北端)に、歯神清兵衛を祀った小さな祠があります。虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹した藩士・清兵衛を祀っています。

<地蔵>

<手水鉢>

<板碑型庚申塔> 荒川区登録文化財
祠の横に板碑型庚申塔があります。祠の正面からは木の陰で見えず、祠の横から見えます、裏から見えます。
寛文9(1669)年の造立。荒川区登録文化財です。



正面右「庚申講中」
正面中「南無阿弥陀佛」
正面左「寛文九己酉天十月十二日」
下に三猿です。




<錨をくわえた女性の絵馬>
歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名だったとのこと。
錨は船を繋ぎとめることから,揺らぐ歯の動きが止まる、あるいは歯痛が止まるという、歯痛平癒を意味しているようです。
「江戸名所百人美女 千住」(豊国・国久)
楊枝をくわえた美人(飯盛女)は、錨をくわえた女性の絵馬を想起させます。

○日枝神社 荒川区南千住7-23-18
正和2(1313)年創建の日枝神社は、山王社とよばれ旧中村町(千住宿)の鎮守でした。
現在の日枝神社は施錠されており、外から拝観となります。素盞雄神社の境外社で、日枝神社例祭(8月5日)には開放されるようです。




<江戸名所図会>
山王が見えます。

<山王清兵衛(日枝神社)>
(説明板)
「山王清兵衛(日枝神社)
日枝神社は、江戸時代山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和五年(一三一六)に建てられたと伝える。
この社の入り口にあたる旧砂尾堤土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。
荒川区教育委員会」

<手水鉢>
文化八辛六月の手水鉢。「青龍山福壽院 中興開山法印真海」と刻まれています。
江戸絵図には、「三王権現」「福壽院」と併記されており、福寿院は山王権現の別当寺だったのでしょう。
「青龍山福壽院」は現在は存在しないので、配寺になったのでしょうが、手水鉢が残っています。

<江戸絵図>
砂尾堤と川筋が日光街道の東から総泉寺まで続いています。

砂尾堤北端に、「三王権現」「福壽院」が見えます。

<明治20年代の砂尾堤>

<砂尾堤と砂尾長者>
砂尾堤北端、山王清兵衛祠の東に、説明板「砂尾堤と砂尾長者」があります。
(説明板)
「砂尾堤と砂尾長者
南千住七丁目二十番地付近から現在の隅田川に沿って台東区今戸に向かう道は、土手になっていて砂尾堤と呼ばれた。中世の石浜に砂尾長者とよばれる土豪が住み、この地を領していたことに因むという。石浜の地は古代から武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県東部)と下総国(千葉県北部・茨城県南部・東京都東部)をつなぐ交通の要地であり、砂尾長者は、十五世紀半ば千葉氏が内紛により下総国を逃れ石浜に入った後、家臣としてこの地に住んだといわれる。台東区橋場にある砂尾不動院の開基とも、中興ともいわれる人物である。
この一帯は昔から広範囲にわたりしばしば水害に見舞われた。汐入堤とも呼ばれたこの堤近くには昭和初期まで、砂尾・堤根という字が残っていた。
荒川区教育委員会」



<砂尾堤跡>


○山王清兵衛祠 荒川区南千住7-23-10
日枝神社の参道口(旧砂尾堤土手北端)に、歯神清兵衛を祀った小さな祠があります。虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹した藩士・清兵衛を祀っています。

<地蔵>

<手水鉢>

<板碑型庚申塔> 荒川区登録文化財
祠の横に板碑型庚申塔があります。祠の正面からは木の陰で見えず、祠の横から見えます、裏から見えます。
寛文9(1669)年の造立。荒川区登録文化財です。



正面右「庚申講中」
正面中「南無阿弥陀佛」
正面左「寛文九己酉天十月十二日」
下に三猿です。




<錨をくわえた女性の絵馬>
歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名だったとのこと。
錨は船を繋ぎとめることから,揺らぐ歯の動きが止まる、あるいは歯痛が止まるという、歯痛平癒を意味しているようです。
「江戸名所百人美女 千住」(豊国・国久)
楊枝をくわえた美人(飯盛女)は、錨をくわえた女性の絵馬を想起させます。

○日枝神社 荒川区南千住7-23-18
正和2(1313)年創建の日枝神社は、山王社とよばれ旧中村町(千住宿)の鎮守でした。
現在の日枝神社は施錠されており、外から拝観となります。素盞雄神社の境外社で、日枝神社例祭(8月5日)には開放されるようです。




<江戸名所図会>
山王が見えます。

<山王清兵衛(日枝神社)>
(説明板)
「山王清兵衛(日枝神社)
日枝神社は、江戸時代山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和五年(一三一六)に建てられたと伝える。
この社の入り口にあたる旧砂尾堤土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。
荒川区教育委員会」

<手水鉢>
文化八辛六月の手水鉢。「青龍山福壽院 中興開山法印真海」と刻まれています。
江戸絵図には、「三王権現」「福壽院」と併記されており、福寿院は山王権現の別当寺だったのでしょう。
「青龍山福壽院」は現在は存在しないので、配寺になったのでしょうが、手水鉢が残っています。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
橋場村汐入(現在の南千住)
○橋場村汐入(現南千住)
汐入は戦国時代に上杉謙信の家臣だった高田氏等が入植し切り拓いた村で、橋場村字汐入(現南千住)といいました。砂尾堤の外側にあるこの一帯は、広範囲にわたりしばしば水害に見舞われました。農業と胡粉で生業を立てていました。
汐入の砂まじりの土地が大根の栽培に適し、江戸野菜の一つである汐入大根(二年子大根)の産地でした。二年子大根は、晩秋に種子をまき、翌年の春に収穫します。白首の細長い小さい大根ですが、品不足の時期に珍重されました(上流の荒木田では「荒木田大根j」と呼ばれました)。「汐入大根」は、「汐入の胡粉」と共に有名でした。
「道灌山下」(井上安治)
道灌山下の光景ですが、大根を運んでいます。細長い大根で、汐入より荒木田がごく近くなので、荒木田大根(二年子大根)でしょう。


「武蔵百景 道灌山」(小林清親)
同じく道灌山の光景ですが、大根を運んでいます。白首大根です。

「大根売り」
「世渡風俗圖會」(清水晴風)に掲載の大根売りです。

<江戸絵図>
砂尾堤と川筋が日光街道の東から総泉寺まで続いています。砂尾堤の外側が汐入です。

<明治20年代の砂尾堤>

○胡録神社(旧第六天社) 荒川区南千住8-5-6 HP
胡録神社は、永禄4(1561)年、上杉謙信の家臣高田嘉左衛門が川中島の合戦に敗れ、12名の同士と当地へ逃れて永住、永禄4年、面足尊、惶根尊の両神を一祠に奉齋崇敬されたと伝えられます。
古くは第六天と称しましたが、明治維新の神仏分離令の際、明治2(1869)年に、「武士が矢を支える武具を胡録と申したことと、また、当地汐入の生業として盛んであった胡粉作りの胡の字と大六天の六にあやかり、御社号を胡録神社と改称されました(神社HPより)。
<汐入(胡録神社)>
(説明板)
「汐入(胡録神社)
汐入の地は、戦国時代に上杉謙信の家臣高田氏らが、川中島合戦の際に落ちのびて、開発したと伝えるところである。明治以前、「第六天」と呼ばれた胡録神社は、汐入の境である当地を守護するために祀られたという。現在残る本殿は、幕末から明治初期の様式を今に伝えている。
明治の中頃まで胡粉の製造が盛んで、今も胡粉の製造に使用した石臼や、それを転用した石灯籠が、当社や第五瑞光小学校に残されている。昭和二十七年、胡録神社に奉納された襖絵には、山と積まれた牡蠣殻が描かれ、往時の面影をしのぶことができる。
また、江戸時代、汐入大根(二年子大根)の産地としても知られ、千住の青物市場などに出荷されていたという。
荒川区教育委員会」



<一之鳥居>
一之鳥居は、平成15(2003)年9月の建立です。





<道祖神/刀塚>
「道祖神・刀塚 鳥居建替え奉賛者御芳名 令和三年九月吉日」




「明和元年甲申年九月吉日」。明和元(1764)年の手水鉢。


「奉納」
奉納の草鞋、草履、下駄、二個のお椀に穴をあけて奉納されています。

「道祖神御由緒」
(説明板)
「道祖神御由緒
御祭神 猿田彦尊
御由緒
往古は旅行安全祈願の神様として、亦足の神様として、汐入の村落の出入口に祀られていたが、現在では、胡録神社の境内に移され祀られているのである。神代の昔 天孫降臨の砌、道案内を勤めた神様という故事により旅の安全、足の病気平癒の神様として崇められ、祈願の折は草鞋、草履を奉納して参拝する。亦耳の病気の折は二個のお椀に穴をあけて奉納するなどの風習は今でも受け継がれ守られており、最近では、道の神様でもあるという事で交通の安全を祈願する人々もおられる。」

「刀塚御由緒」
(神社HP)
「刀塚は、永禄四年八月、川中島の合戦で敗れた上杉謙信が家臣高田嘉左衛門らが落人となり、刀と鎧兜を地中深く埋め、葦が群生する汐入の地を開拓しました。後に汐入の開拓を後世に伝えるため、昭和三十四年九月、町の有志が集まり、埋地と伝承される南千住8丁目1の40番地付近に刀塚として祀りました。平成からの汐入地区再開発で、平成十二年四月、胡録神社が遷移され、同時に刀塚も境内に遷され、祀られています。」
<胡粉挽石臼>
汐入では胡粉づくりが盛んに行われていました。
(説明板)
「胡粉を挽いた臼
昔このあたりは地方橋場村小字汐入といわれ、今から一五○年〜三○○年くらい前当汐入では胡粉づくりが盛んに行われ「汐入大根」と共に有名でした。
汐入産の胡粉は品質極上で、人形、おしろい絵具の材料、能面仕上げ、元結などに使われ“かき殻”を焼いて、この石臼で粉にし、水でさらしてから丸め、乾燥して再び微粒子にして出来上がり
ます。
大変な重労働でしたが、機械で作られるようになってから衰微し、今では幾つかの挽臼が汐入に残っており、これは其の内の一つです。
<これからは胡録神社に保管します。>」





<手水舎> 荒川区登録文化財
明和元(1764)年9月銘の手水鉢は、荒川区登録文化財です。
ひしゃくを使わずに、人感センサーで1人分の水が出てきます。



<神輿庫>

<獅子山>
二之鳥居の手前に、獅子山があります。仔狛犬がいます。







<狛犬>
「天保十己亥歳九月」。拝殿前の狛犬は、天保10(1839)年の造立です。



<記念碑(胡録神社御由緒)>
(碑文)
「胡録神社御由緒
御鎮座地 東京都荒川區南千住八丁目十一番地
御社号 胡録神社
御祭神 面足尊 惶根尊
御創立 享保四年九月十九日
例祭日 六月一日 往古は九月十九日
當社は永禄四年八月四百余年前川中島の合戰の折上杉謙信の家臣高田嘉左エ門なるもの戰に敗れ計らずも集りたる十二名の同志と関東に厄難をのがれて落ちのび當地の汐入に竹内杉本杉山等數名と永住の地と定めて土着し村落生活の安寧を祈願するため守護神として享保四年九月十九日今より貮百五十余年前面足尊と惶根尊の両神を一祠に奉齊崇敬されたと傳えられる
當社は古くは大六天と稱したが明治二年太政官達により神佛分離がされた際往時武士が矢を支える武具を胡録と申した事とまた當地汐入の特業として盛んであった胡粉作の胡の字と大六天の六にあやかり御社号を胡録神社と改稱された
神殿は嘉永五年九月十九日改築造営されたるものであるが現在の拝殿の改築並に神楽殿社務所の新築造営工事は昭和貮年六月に竣工された
明治百年を奉祝いたし記念碑を建立する」


<天水桶>
「昭和弐年六月吉日 潮入 氏子中」
「武州川口町 「○に二」の社章 田中鋳工所製」
川口の鋳物です。



<拝殿>
拝殿は昭和2年(1927)6月の造営です。向拝部分などには龍の細かい彫刻。木鼻には獏と獅子。







<本殿> 荒川区登録文化財
本殿は嘉永5(1852)年に改築造営。荒川区登録文化財です。


<鈴の音センサー>
鈴を鳴らす鈴の緒を撤去し、手をかざすと鈴の音が鳴るセンサーがあります。
「手をかざすと鈴の音が鳴ります」 初めて見ました、感心しました。


<社務所>

<東参道>




<記念碑>
天皇陛下御在位五十年の時の屋根修復記念碑。昭和51(1976)年11月の建立です。


<遷宮記念碑>
平成15(2003)年10月の建立です。


<記念碑>
拝殿改築等の記念碑。昭和3年6月竣工。


<神楽堂>

<神饌畑>

<北参道>
鳥居は、平成15(2003)年5月の建立です。




○べるぽーと汐入東館 荒川区南千住8-12-5
「べるぽーと汐入」の壁に、かつての汐入をモチーフに子どもたちが描いた絵のパネルが取り付けられています。
パネル絵の南端は、都立汐入公園の入口です。スカイツリーが見えます。




「胡粉用の石臼」
胡録神社で実物を見ることができます。

「道祖神わらじ奉納」
今もわらじが奉納されています。

「道祖神」
新しく建て直されています。

「旧胡録神社」

「汐入の渡し」
隅田川最後の渡し「汐入の渡し」は、千住汐入大橋の近くに昭和42(1967)年まで残っていました。

「胡粉作り」
山と積まれた牡蛎殻が見えます。

「第五瑞光小学校」
再開発のため、廃校となっています。

「胡録神社拝殿」

「民家」

「共同水道」

「銭湯」
煙突には「潮乃湯」とあります。汐入には「浩気湯」(南千住8-16-14)と「潮乃湯」(南千住8-28-6)の2軒の銭湯がありましたが、
再開発のため平成6(1994)年に廃業しています。

「旧家の表門」

「造船所」
大正12(1923)年創業の造船所が再開発の前まで一軒残っていました。

○南千住天然温泉 荒川区南千住4-7-3
賃貸マンションの「ロイヤルパークスタワー南千住」に、居住者専用の「南千住天然温泉」があります。当初は、住人以外も利用できる足湯がありましたが、大分前に廃止となっています。
かつて荒川区には大正から昭和にかけて温泉リゾートの尾久温泉がありましたが枯渇。南千住天然温泉は荒川区唯一の温泉です。他には、分析したら温泉かもしれない銭湯「帝国湯」があります。
<足湯跡>




<分析書>
源泉名「南千住天然温泉」 ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉
泉温28.5度 成分総計4.7g 黒湯です。





<湧出地>
ガスセパレーターがあります。


汐入は戦国時代に上杉謙信の家臣だった高田氏等が入植し切り拓いた村で、橋場村字汐入(現南千住)といいました。砂尾堤の外側にあるこの一帯は、広範囲にわたりしばしば水害に見舞われました。農業と胡粉で生業を立てていました。
汐入の砂まじりの土地が大根の栽培に適し、江戸野菜の一つである汐入大根(二年子大根)の産地でした。二年子大根は、晩秋に種子をまき、翌年の春に収穫します。白首の細長い小さい大根ですが、品不足の時期に珍重されました(上流の荒木田では「荒木田大根j」と呼ばれました)。「汐入大根」は、「汐入の胡粉」と共に有名でした。
「道灌山下」(井上安治)
道灌山下の光景ですが、大根を運んでいます。細長い大根で、汐入より荒木田がごく近くなので、荒木田大根(二年子大根)でしょう。


「武蔵百景 道灌山」(小林清親)
同じく道灌山の光景ですが、大根を運んでいます。白首大根です。

「大根売り」
「世渡風俗圖會」(清水晴風)に掲載の大根売りです。

<江戸絵図>
砂尾堤と川筋が日光街道の東から総泉寺まで続いています。砂尾堤の外側が汐入です。

<明治20年代の砂尾堤>

○胡録神社(旧第六天社) 荒川区南千住8-5-6 HP
胡録神社は、永禄4(1561)年、上杉謙信の家臣高田嘉左衛門が川中島の合戦に敗れ、12名の同士と当地へ逃れて永住、永禄4年、面足尊、惶根尊の両神を一祠に奉齋崇敬されたと伝えられます。
古くは第六天と称しましたが、明治維新の神仏分離令の際、明治2(1869)年に、「武士が矢を支える武具を胡録と申したことと、また、当地汐入の生業として盛んであった胡粉作りの胡の字と大六天の六にあやかり、御社号を胡録神社と改称されました(神社HPより)。
<汐入(胡録神社)>
(説明板)
「汐入(胡録神社)
汐入の地は、戦国時代に上杉謙信の家臣高田氏らが、川中島合戦の際に落ちのびて、開発したと伝えるところである。明治以前、「第六天」と呼ばれた胡録神社は、汐入の境である当地を守護するために祀られたという。現在残る本殿は、幕末から明治初期の様式を今に伝えている。
明治の中頃まで胡粉の製造が盛んで、今も胡粉の製造に使用した石臼や、それを転用した石灯籠が、当社や第五瑞光小学校に残されている。昭和二十七年、胡録神社に奉納された襖絵には、山と積まれた牡蠣殻が描かれ、往時の面影をしのぶことができる。
また、江戸時代、汐入大根(二年子大根)の産地としても知られ、千住の青物市場などに出荷されていたという。
荒川区教育委員会」



<一之鳥居>
一之鳥居は、平成15(2003)年9月の建立です。





<道祖神/刀塚>
「道祖神・刀塚 鳥居建替え奉賛者御芳名 令和三年九月吉日」




「明和元年甲申年九月吉日」。明和元(1764)年の手水鉢。


「奉納」
奉納の草鞋、草履、下駄、二個のお椀に穴をあけて奉納されています。

「道祖神御由緒」
(説明板)
「道祖神御由緒
御祭神 猿田彦尊
御由緒
往古は旅行安全祈願の神様として、亦足の神様として、汐入の村落の出入口に祀られていたが、現在では、胡録神社の境内に移され祀られているのである。神代の昔 天孫降臨の砌、道案内を勤めた神様という故事により旅の安全、足の病気平癒の神様として崇められ、祈願の折は草鞋、草履を奉納して参拝する。亦耳の病気の折は二個のお椀に穴をあけて奉納するなどの風習は今でも受け継がれ守られており、最近では、道の神様でもあるという事で交通の安全を祈願する人々もおられる。」

「刀塚御由緒」
(神社HP)
「刀塚は、永禄四年八月、川中島の合戦で敗れた上杉謙信が家臣高田嘉左衛門らが落人となり、刀と鎧兜を地中深く埋め、葦が群生する汐入の地を開拓しました。後に汐入の開拓を後世に伝えるため、昭和三十四年九月、町の有志が集まり、埋地と伝承される南千住8丁目1の40番地付近に刀塚として祀りました。平成からの汐入地区再開発で、平成十二年四月、胡録神社が遷移され、同時に刀塚も境内に遷され、祀られています。」
<胡粉挽石臼>
汐入では胡粉づくりが盛んに行われていました。
(説明板)
「胡粉を挽いた臼
昔このあたりは地方橋場村小字汐入といわれ、今から一五○年〜三○○年くらい前当汐入では胡粉づくりが盛んに行われ「汐入大根」と共に有名でした。
汐入産の胡粉は品質極上で、人形、おしろい絵具の材料、能面仕上げ、元結などに使われ“かき殻”を焼いて、この石臼で粉にし、水でさらしてから丸め、乾燥して再び微粒子にして出来上がり
ます。
大変な重労働でしたが、機械で作られるようになってから衰微し、今では幾つかの挽臼が汐入に残っており、これは其の内の一つです。
<これからは胡録神社に保管します。>」





<手水舎> 荒川区登録文化財
明和元(1764)年9月銘の手水鉢は、荒川区登録文化財です。
ひしゃくを使わずに、人感センサーで1人分の水が出てきます。



<神輿庫>

<獅子山>
二之鳥居の手前に、獅子山があります。仔狛犬がいます。







<狛犬>
「天保十己亥歳九月」。拝殿前の狛犬は、天保10(1839)年の造立です。



<記念碑(胡録神社御由緒)>
(碑文)
「胡録神社御由緒
御鎮座地 東京都荒川區南千住八丁目十一番地
御社号 胡録神社
御祭神 面足尊 惶根尊
御創立 享保四年九月十九日
例祭日 六月一日 往古は九月十九日
當社は永禄四年八月四百余年前川中島の合戰の折上杉謙信の家臣高田嘉左エ門なるもの戰に敗れ計らずも集りたる十二名の同志と関東に厄難をのがれて落ちのび當地の汐入に竹内杉本杉山等數名と永住の地と定めて土着し村落生活の安寧を祈願するため守護神として享保四年九月十九日今より貮百五十余年前面足尊と惶根尊の両神を一祠に奉齊崇敬されたと傳えられる
當社は古くは大六天と稱したが明治二年太政官達により神佛分離がされた際往時武士が矢を支える武具を胡録と申した事とまた當地汐入の特業として盛んであった胡粉作の胡の字と大六天の六にあやかり御社号を胡録神社と改稱された
神殿は嘉永五年九月十九日改築造営されたるものであるが現在の拝殿の改築並に神楽殿社務所の新築造営工事は昭和貮年六月に竣工された
明治百年を奉祝いたし記念碑を建立する」


<天水桶>
「昭和弐年六月吉日 潮入 氏子中」
「武州川口町 「○に二」の社章 田中鋳工所製」
川口の鋳物です。



<拝殿>
拝殿は昭和2年(1927)6月の造営です。向拝部分などには龍の細かい彫刻。木鼻には獏と獅子。







<本殿> 荒川区登録文化財
本殿は嘉永5(1852)年に改築造営。荒川区登録文化財です。


<鈴の音センサー>
鈴を鳴らす鈴の緒を撤去し、手をかざすと鈴の音が鳴るセンサーがあります。
「手をかざすと鈴の音が鳴ります」 初めて見ました、感心しました。


<社務所>

<東参道>




<記念碑>
天皇陛下御在位五十年の時の屋根修復記念碑。昭和51(1976)年11月の建立です。


<遷宮記念碑>
平成15(2003)年10月の建立です。


<記念碑>
拝殿改築等の記念碑。昭和3年6月竣工。


<神楽堂>

<神饌畑>

<北参道>
鳥居は、平成15(2003)年5月の建立です。




○べるぽーと汐入東館 荒川区南千住8-12-5
「べるぽーと汐入」の壁に、かつての汐入をモチーフに子どもたちが描いた絵のパネルが取り付けられています。
パネル絵の南端は、都立汐入公園の入口です。スカイツリーが見えます。




「胡粉用の石臼」
胡録神社で実物を見ることができます。

「道祖神わらじ奉納」
今もわらじが奉納されています。

「道祖神」
新しく建て直されています。

「旧胡録神社」

「汐入の渡し」
隅田川最後の渡し「汐入の渡し」は、千住汐入大橋の近くに昭和42(1967)年まで残っていました。

「胡粉作り」
山と積まれた牡蛎殻が見えます。

「第五瑞光小学校」
再開発のため、廃校となっています。

「胡録神社拝殿」

「民家」

「共同水道」

「銭湯」
煙突には「潮乃湯」とあります。汐入には「浩気湯」(南千住8-16-14)と「潮乃湯」(南千住8-28-6)の2軒の銭湯がありましたが、
再開発のため平成6(1994)年に廃業しています。

「旧家の表門」

「造船所」
大正12(1923)年創業の造船所が再開発の前まで一軒残っていました。

○南千住天然温泉 荒川区南千住4-7-3
賃貸マンションの「ロイヤルパークスタワー南千住」に、居住者専用の「南千住天然温泉」があります。当初は、住人以外も利用できる足湯がありましたが、大分前に廃止となっています。
かつて荒川区には大正から昭和にかけて温泉リゾートの尾久温泉がありましたが枯渇。南千住天然温泉は荒川区唯一の温泉です。他には、分析したら温泉かもしれない銭湯「帝国湯」があります。
<足湯跡>




<分析書>
源泉名「南千住天然温泉」 ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉
泉温28.5度 成分総計4.7g 黒湯です。





<湧出地>
ガスセパレーターがあります。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
平賀源内 妙亀塚まつり おばけ地蔵ご縁日
〇平賀源内 妙亀塚まつり おばけ地蔵ご縁日
11月3日(日)は、「平賀源内 妙亀塚まつり おばけ地蔵ご縁日」に行ってきました。
会場は三つ。平賀源内エリア、おばけ地蔵エリア、妙亀塚エリアです。




<平賀源内墓>
法要が行われました。


<おばけ地蔵>
式典会場が設けられ、多くの来賓の方々が来られていました。


<妙亀塚>
手のこんだ亀の飾りが供えられていました。



ハゼの天ぷら、お餅のふるまいがありました。




11月3日(日)は、「平賀源内 妙亀塚まつり おばけ地蔵ご縁日」に行ってきました。
会場は三つ。平賀源内エリア、おばけ地蔵エリア、妙亀塚エリアです。




<平賀源内墓>
法要が行われました。


<おばけ地蔵>
式典会場が設けられ、多くの来賓の方々が来られていました。


<妙亀塚>
手のこんだ亀の飾りが供えられていました。



ハゼの天ぷら、お餅のふるまいがありました。





テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 平賀源内
- カウンター