市谷亀岡八幡宮

○市谷亀岡八幡宮 新宿区市谷八幡町15

 太田道灌は文明11(1479)年に、市谷御門内に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を江戸城の守護神として勧請し、これを鶴に対して、亀岡八幡宮と称しました。
 第3代将軍徳川家光の時代に江戸城の拡張工事が行われ、江戸城の外濠が完成、それに伴い寛永13年(1636)頃、市谷御門の中にあった八幡宮は、市谷の稲荷社地内に遷座しました。
 この稲荷社は、現在の茶ノ木稲荷で、市谷には古くからあったものです。
 江戸時代には「時の鐘」があり、門前町も賑わい江戸名所の一つでした。別当寺「東圓寺」は、神仏分離で廃寺、「時の鐘」も撤去されました。

<表参道>

 江戸名所図会を見ると、現在はない、表参道入口に惣門が描かれています。

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<銅鳥居>(新宿区指定有形文化財)

、「江戸名所図会」にも描かれ、広重も描いている鳥居です。
 額は銅製で「八幡宮」の3文字は姫路藩主酒井道の筆によるものです。
 「八」の字は神の使いである一対の鳩が向かい合う姿で表されています。
 文化元(1804)年12月造立。

(説明板)
「新宿区指定有形文化財 建造物
 市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居
   所 在 地 新宿区市谷八幡町十五番地
   指定年月日 昭和六十二年一月三十日
 文化元年(一八○四)十二月建立の銅製明神型鳥居で、高さ四・六メートル、台石五五センチである。市谷八幡宮の別当寺であった東園寺の第七世住職智光の発願により建立された。柱には、造立者、鋳物師らの建造銘と、寄進者四四二名の名前や職業が陰刻されている。「八幡宮」の額は、姫路藩主である酒井忠道の筆によるもので、八の字は八幡宮神の使いとされる一対の鳩が向かい合う姿で描かれている。
 区内で唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。
  平成二十九年三月三十日  新宿区教育委員会」

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<軍配団扇>(新宿区登録有形文化財)

 太田道灌が奉納したと伝えられています。非公開。

(説明板)
「新宿区登録有形文化財 工芸品
  市谷亀ヶ岡八幡宮の軍配団扇
    登録年月日 昭和六十二年一月三十日
 柄は木製で、団扇の部分は和紙を芯に幅一センチ程の短冊状の竹板を並べて、黒漆を塗って仕上げている。
 「御府内備考」(文政十二年刊・一八二九)によれば、この軍配団扇は、太田道灌が所持した品である。
 制作・奉納年代などは不明であるが、新宿区周辺に多くの伝説を残した道灌をしのぶことができる貴重な文化財である。
  平成二十九年三月三十日  新宿区教育委員会」

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<狛犬>
 
 銅鳥居のところの狛犬。個性的な表情です。

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<狛犬>

 文化元年(1804)8月に市谷田町一1丁目の氏子中により奉納。

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<几号水準点>(新宿区登録有形文化財)

 手水舎にある水鉢は昭和26(1951)年の奉納ですが、台座は宝暦7(1757)年に水鉢が奉納された時のものです。

(説明板)
「新宿区登録有形文化財(歴史資料)
 市谷亀岡八幡宮の几号水準点(水鉢台座)
 明治初期に、イギリスの技術を導入した内務省地理寮は、近代的な測量を開始し、東京を中心に、「不」の字に似た記号を用いた几号水準点を設置した。
 市谷亀岡八幡宮の几号水準点は、神社境内の水屋の水鉢台座の側面に刻んだもので、内務省地理寮による関八州三角測量が開始された明治八年(一八七五)頃に、刻印された。
 現在、台座の上には、昭和二十六年(一九五一)に、八幡講により奉納された水鉢が置かれているが、もともとは社務所前に置かれている、宝暦七年(一七五七)に、越前屋吉兵衛によって奉納された水鉢とセットであったと推定される。
 「江戸名所図会」(天保五・七年刊行、一八三四・一八三六)には、現在と同じ位置に水屋が描かれており、また「東京実測図」(明治二○年、一八八七)に記された標高(水準点九四.八尺、約二十八.七メートル)が現在とほぼ変わらないことから、水準点の位置が、設置当初から移動していないことが分かる。
 市谷亀岡八幡宮の几号水準点は、設置当初の場所に位置する希少な几号水準点で、保存状態も良好である。近代土木史上、貴重な文化財である。
  平成二十九年三月三十日  新宿区教育委員会」

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<御大典記念碑>

 大正4(1915)年11月に片町の有志により奉納。

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<百度石>

 市谷田町の氏子が奉納。明治43(1910)年。

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<名刀碑>

 神竜の巻きついた長光の刀剣と、宗近・正宗・義弘の3人の刀工の肖像が刻まれています。明治3(1870)年の奉納。

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<花物語>

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<力石>(新宿区指定有形民俗文化財)

 社殿前の左脇に下半分を地中に埋め込む形で7個の力石が2列に並べられています。
 すべてに銘文が刻まれています。

(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財
  市谷亀ヶ岡八幡宮の力石
    所 在 地 新宿区市谷八幡町十五番地
    指定年月日 平成五年三月五日
 力石は、祭礼の時などに村人が力くらべをし、その石を奉納したものである。
 市谷亀ヶ岡八幡宮の力石は、合計七個が保存されている。
 卵形の自然石に、石の重さと、奉納した者あるいは持上げた者の名が刻まれており、うち三個には奉納された年も刻まれている。
 年代のわかるものでは、寛政六年(一七九四)を最古とし、その他も江戸時代後半のものと考えられる。
 数量的にもまとまっており、当時の祭や娯楽を知る上で貴重な民俗資料である。
  平成二十九年三月三十日  新宿区教育委員会」

 「温故知しん!じゅく散歩」(新宿区文化観光産業部文化観光課)の市谷亀岡八幡宮の力石の説明によると
  ・銘文「七拾貫市谷ハ三吉良赤羽住 寛政六年」
  ・銘文「六拾五貫目 市谷田丁 岸田店久蔵 右口店久蔵 文政八年」
  ・銘文「百メ目市田―尾張屋伊兵衛 元治元年」
  ・銘文「六拾貫余 喜八 新助」
  ・銘文「市谷」
  ・銘文「五拾貫目余 新助 喜八」
  ・銘文「五拾二貫目 喜八 新助」

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<三世有竹居正義句碑>

 三世有竹居正義の句「動き無き 御代画にとらば ふじの山」が刻まれています。
 明治36(1903)年8月に門徒たちが建立。井亀泉の鐫。

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<茶煎塚>

 有樂居千秋(斗原栄次郎)の句「茶煎 見きわめのつきし 野末や放し鷹」が刻まれています。
 御用済みとなった茶筅を埋めて供養したもの。明治31(1898)年8月の建立。

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<八紘一宇碑>

 太平洋戦争中、日本の海外進出を正当化するために用いられた標語で、GHQは公文書での使用を禁じた言葉です。
 紀元二千六百年は、1940(昭和15)年。他所でも度々見かけます。
 「八紘一宇 紀元二千六百年記念 東京市長 大久保留次郎書」

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<裏参道(左内坂)>

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<出世稲荷神社>

 「成田山新勝寺に鎮座している出世稲荷神社は、当社の御分霊を祀ったものであると言われています」 (八幡宮HPに記載)

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<水鉢>

 几号水準点が刻まれた台座に、新しい水盤の前に載っていた水盤です。
 宝暦7年(1757)3月に越前屋吉兵衛が奉納したもの。

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<金刀比羅宮>

 市谷は四谷まで続く水路の揚げ場として多くの船が行き来したところです。

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<茶ノ木稲荷神社>

 石段の中ほどに茶ノ木稲荷神社。
 古来この地を「稲嶺山」と呼んだのもこの社によります。

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「江戸切絵図 市ヶ谷牛込絵図」

 市谷亀岡八幡宮部分の拡大です。
 「市谷御門」の外に「市ヶ谷八幡宮」「茶木稲荷社」が記されています。

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「江戸名所図会 市谷八幡宮」

 境内に芝居小屋や茶屋が描かれています。

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「名所江戸百景 市ケ谷八幡」(広重)

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「絵本江戸土産 市谷八幡表門前」(広重)

 「市谷の総鎮守にして殊に大社なり 傍に茶の木稲荷あり。石階の左右みな茶の木を植 その表門前市谷御門外にて四谷赤坂への往還なれハ常に往来の人間断なし」

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西向天神社 東大久保富士

○西向天神社  新宿区新宿6-21-1

 紅皿の墓に隣接する西向天神社にも参詣。     

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「江戸名所図会 大窪天満宮」

 「西向」あるいは「棗の天神」と称されると記されています。
  
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「絵本江戸土産 大久保西向天神」

 「神体右を向かせ給う故にその名あり 傍不二の形せし山にありて風景面白し」
 富士塚が描かれています。

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<百度石>
 大正8年

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<不動明王>

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<藤圭子「新宿の女」歌碑>

 石坂まさをの作詞家生活30周年を記念し、平成11(1999)年9月の建立です。「新宿の女」のキャンペーンが、西向天神社を起点に行われました(昭和44年9月25日)。

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<武蔵國大久保菅公廟碑>

 神社由来を刻んだ大きな碑です。

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○天神山児童遊園 新宿区新宿6-21-1

<東鳥居/西向天神祀碑>

 東鳥居から入ると、西向天神祀碑に突き当たります。
 大きな碑で、由緒が刻まれています。 「明治三十五年三月三十一日」

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<大東亜戦争 戦没者慰霊碑>

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<東大久保富士>

 境内に天保13(1842)年に造られた富士塚があります。
 明治期に一時的に撤去されるも大正14(1925)年に再築されています。
 「胎内洞穴」も造られています。

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<富士塚下>

 富士塚下に「浅間神社」碑と「富士山一合目」碑、胎内窟があります。

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<日之尊>

 頂上の「日之尊」碑。

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<再築紀念碑>

 富士山廿六夜講社 
 大正十四年六月 前田利定書

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<富士山再築全寄附芳名>

 「廿六夜講 大正十四年六月」

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<小御岳石尊大權現碑>

      大天狗
 小御岳石尊大権現
      小天狗

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tag : 江戸名所図会富士塚歌川広重新宿

紅皿の墓 山吹坂

○紅皿の墓  新宿区新宿6-21-11大聖院駐車場内

 太田道灌が暗殺された後、紅皿は大久保に庵を建て尼となり、死後この地に葬られたといいます。

<紅皿塚由縁書>

 大日本名所図会では、「山吹里」の解説で、紅皿塚由縁書を紹介しており、長文のため、最後の部分のみ引用します。
「彼紅皿を呼で後に妾となし歌の友となし給ふ。夫より親兄弟豊かに暮らしける。文明十八年七月太田道灌諫言に因て相州糟谷と申所にて亡給ひ。後紅皿尼となり。此大窪邊にいほりを造り住居せし由。死後其の地に葬せし塚碑なり。」


<山吹坂>

 「紅皿」にちなみ「山吹坂」と呼ばれる階段坂を上ると、右手に山吹坂の標柱があります。

(標柱)
「山吹坂
 この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。」

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 「江戸名所図会 大窪天満宮」をよく見ると、大窪天満宮の階段の参道の左に、山吹坂が描かれています。

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<大聖院>

 大聖院は、お隣の西向天神社の別当寺でした。境内には伝説の紅皿の墓があります。

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<北参道と成田山碑>

 台石に「成田山」と刻まれた3碑があります。「江戸名所図会」を見ると、北参道入口に鳥居が描かれていますが、現在はありません。

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<紅皿の墓>

 「紅皿塚は、駐車場の中にあります。住職」との表示に従い、引き戸を開けて駐車場に出ると紅皿の墓があります。

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 ・板碑 紅皿の墓と伝承される板碑
 ・水鉢 「さの」を中央に芝居役者名が連なります
 ・花立 2基 芝居役者名が並びます
 ・燈籠 2基 「宇田かん弥」

(説明板)
「新宿区指定史跡
  紅皿の墓
    所 在 地 新宿区新宿六丁目二十一番十一号
    指定年月日 平成十八年八月四日
 太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(一基)、燈籠(二基)、水鉢(一基)、花立(二基)から構成される。
 板碑は区内では唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には十二代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
 伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し「御拾遺集」の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
 紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。
  平成十八年十月  新宿区教育委員会]

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 かつての宝塔でしょうか?

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<役行者追悼碑>

 目立つ大きな碑なのでとりあげます。 山岡鉄舟の書です。
 「神変大菩薩」
 「役行者一千百八十五年忌之碑」
 「明治十六年五月 正四位山岡鐵太郎書」

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久遠の像 太田道灌と紅皿

○久遠の像  新宿区西新宿2-11 新宿中央公園

 新宿中央公園にある「久遠の像」です。
 少女(紅皿)が扇子の上で山吹の枝を差し出しています。意味が通じていない太田道灌は引き気味です。
 後に意味を聞いて道灌大いに驚き、歌に志をよせます。 その後、道灌は紅皿を江戸城に呼んで、歌友となりました。
  扇子の上に載せて差し出しているのが粋です。
 (蓑が買えないほど貧しいのに、扇子は持っていたんですね!伝説だから風流に造形して良いと思いますけど)

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<銘板「久遠の像」>

 「 久遠の像
  この像は江戸城を築いた太田道灌が
  武蔵野の原で狩をした時の伝説の一情景であります。
  一九七八年四月」

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