伝法院通り②
○伝法院通り
鳩の形の組み合わせで「伝」の文字になっています。



<地口行灯>
13本の街路灯(25面)に地口行灯が飾られています。
(説明文)
「地口行灯(じぐちあんどん)
地口とは江戸時代に流行した言葉あそびで、駄洒落(だじゃれ)の一種です。これを絵画化したのが「地口絵」で、行灯に仕立てたのが「地口行灯」です。伝法院通りの鎮護堂(おたぬきさん)では古くからご縁日の時には数多く奉納され、賑やかに飾られていたことに由来し、現在はこの通りに飾るようになりました。
とんでゆに入る夏のぶし(飛んで火に入る夏の虫)」

東から西に見て行きます。
「大かめ もちだ」(大金持ちだ)

「はんぺん もらって たばこにしょ」(三遍回って煙草にしょ)

「ねた もの ふうふ」(にたもの夫婦)

「おやおや うず ばっかり」(おやおやうそばかり)

「わらう顔には ふぐ きたる」(笑う門には福来る)

「あとの 号外 先に たたず」(後の後悔先にたたず)

「とんで ゆに入る 夏の ぶし」(飛んで火に入る夏の虫)

「唐人に つりがね」(提灯につり鐘)

「板きり むすめ」(舌切り雀)

「ひまの 大工に 五十両」(縞の財布に五十両)

「井戸の 渕には 戸は 立られぬ」(人の口には戸は立てられぬ)

「たらいに 見かわす かおと かお」(互いに見交わす顔と顔)

「玉から 小僧が ないて 出た」(山から小僧が泣いて来た)

「ほうずきの こうべに かにやどる」(正直の頭に神宿る)

「はだかで 田つぽれ」(裸でかっぽれ)

「大かぶ 小かぶ 山から 小僧が ぬいてきた」(大寒小寒山から小僧が泣いて来た)

「恵びす だいこ くう(恵比寿大黒)

「はねが はたきの 世の中じゃ」(金がかたきの世の中)

「目刺は 物を おこらざりけり」(昔はものをおもわざりけり)

「おかめ はちまき」(傍目八目)

「狸へ かえす 観音経」(魂返す、反魂香)

「はけに つづみ」(竹に雀)

「大竹 のみ」(大酒飲み)

「本より 上うご」(論より証拠)

「えんま したの 力持」(縁の下の力持)

(参考)伝法院通り①
鳩の形の組み合わせで「伝」の文字になっています。



<地口行灯>
13本の街路灯(25面)に地口行灯が飾られています。
(説明文)
「地口行灯(じぐちあんどん)
地口とは江戸時代に流行した言葉あそびで、駄洒落(だじゃれ)の一種です。これを絵画化したのが「地口絵」で、行灯に仕立てたのが「地口行灯」です。伝法院通りの鎮護堂(おたぬきさん)では古くからご縁日の時には数多く奉納され、賑やかに飾られていたことに由来し、現在はこの通りに飾るようになりました。
とんでゆに入る夏のぶし(飛んで火に入る夏の虫)」

東から西に見て行きます。
「大かめ もちだ」(大金持ちだ)

「はんぺん もらって たばこにしょ」(三遍回って煙草にしょ)

「ねた もの ふうふ」(にたもの夫婦)

「おやおや うず ばっかり」(おやおやうそばかり)

「わらう顔には ふぐ きたる」(笑う門には福来る)

「あとの 号外 先に たたず」(後の後悔先にたたず)

「とんで ゆに入る 夏の ぶし」(飛んで火に入る夏の虫)

「唐人に つりがね」(提灯につり鐘)

「板きり むすめ」(舌切り雀)

「ひまの 大工に 五十両」(縞の財布に五十両)

「井戸の 渕には 戸は 立られぬ」(人の口には戸は立てられぬ)

「たらいに 見かわす かおと かお」(互いに見交わす顔と顔)

「玉から 小僧が ないて 出た」(山から小僧が泣いて来た)

「ほうずきの こうべに かにやどる」(正直の頭に神宿る)

「はだかで 田つぽれ」(裸でかっぽれ)

「大かぶ 小かぶ 山から 小僧が ぬいてきた」(大寒小寒山から小僧が泣いて来た)

「恵びす だいこ くう(恵比寿大黒)

「はねが はたきの 世の中じゃ」(金がかたきの世の中)

「目刺は 物を おこらざりけり」(昔はものをおもわざりけり)

「おかめ はちまき」(傍目八目)

「狸へ かえす 観音経」(魂返す、反魂香)

「はけに つづみ」(竹に雀)

「大竹 のみ」(大酒飲み)

「本より 上うご」(論より証拠)

「えんま したの 力持」(縁の下の力持)

(参考)伝法院通り①
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浅草オレンジ通り
○オレンジ通り(職人街通り) 台東区浅草1丁目
オレンジ通りは雷門通りと伝法院を結ぶ伝法院への参道です。
台東区役所(第二庁舎)の取り壊し後に浅草公会堂が建てられ、通りの名称は「区役所通り」から「浅草公会堂オレンジ通り」(後に「オレンジ通り」)となっています。 道路がオレンジ色に舗装されています。










<オレンテくん>
オレンジ通りのキャラクター「オレンテくん」があちこちにいます。
「オレンテくん」は「手」の形をしており、オレンジ通りは職人が多く「職人の手」と、浅草公会堂前にある「スターの手」を象徴しています。







<オレンテくんのおうち> 台東区浅草1-5-9
「オレンテくんのおうち」は、オレンテくんの着ぐるみ保管所です。英語名は「Orante house」 です。






<オレンテくんポスト> 台東区浅草1-38-6 浅草公会堂
手紙を持ったオレンテくんがポストの上にいます。裏から見ると、指先に爪が見えます。平成26(2014)年11月の設置です。








日本語と英語のオレンテくん紹介板があります。


○スターの広場 台東区浅草1-38-6 浅草公会堂
浅草公会堂正面入口前には、浅草ゆかりの俳優、落語家、歌手など多くのスターの原寸大の手型とサインが並べられています。
台東区が昭和54(1979)年から始めたスターの手形設置事業で、浅草公会堂前はいっぱいとなり、現在は、オレンジ通り花壇上に収められ現在も続いています。



(説明板)
「「スターの手形」
Ster Plaza(Handprints)
━あなたもスターの手とくらべてみませんか!━
Find your favorite performers handprints!
「スターの手型」は、芸能界の振興に貢献した方々の功績をたたえるとともに、大衆芸能ゆかりの地“浅草”のシンボルとして末永く後世に伝えるために、設置しているものです。
今回は新たに5名の方の手型がオレンジ通り花壇に設置され、337名となりました。
これからも、新たなスターの方を顕彰してまいりますので、また浅草にお越しくださいますようお願いいたします。
"Ster Plaza" displays the handprints and signature of well-known Japanese performers who contribute to the development in the field of entertainment.
The plaza is popular among fans as the "Mecca" of popular entertainment as well as a symbol of Asakusa.
令和2年12月吉日 台東区」

<モニュメント「スターの広場」>
(プレート文)
「10周年記念モニュメント
「スターの広場」
製作 後藤良二
平成元年3月18日」


<最近のスターの手形>
「スターの手形 令和2年12月 台東区」
「片岡秀太郎 加藤茶 倍賞千恵子 林家正蔵 細川たかし」


オレンジ通りは雷門通りと伝法院を結ぶ伝法院への参道です。
台東区役所(第二庁舎)の取り壊し後に浅草公会堂が建てられ、通りの名称は「区役所通り」から「浅草公会堂オレンジ通り」(後に「オレンジ通り」)となっています。 道路がオレンジ色に舗装されています。










<オレンテくん>
オレンジ通りのキャラクター「オレンテくん」があちこちにいます。
「オレンテくん」は「手」の形をしており、オレンジ通りは職人が多く「職人の手」と、浅草公会堂前にある「スターの手」を象徴しています。







<オレンテくんのおうち> 台東区浅草1-5-9
「オレンテくんのおうち」は、オレンテくんの着ぐるみ保管所です。英語名は「Orante house」 です。






<オレンテくんポスト> 台東区浅草1-38-6 浅草公会堂
手紙を持ったオレンテくんがポストの上にいます。裏から見ると、指先に爪が見えます。平成26(2014)年11月の設置です。








日本語と英語のオレンテくん紹介板があります。


○スターの広場 台東区浅草1-38-6 浅草公会堂
浅草公会堂正面入口前には、浅草ゆかりの俳優、落語家、歌手など多くのスターの原寸大の手型とサインが並べられています。
台東区が昭和54(1979)年から始めたスターの手形設置事業で、浅草公会堂前はいっぱいとなり、現在は、オレンジ通り花壇上に収められ現在も続いています。



(説明板)
「「スターの手形」
Ster Plaza(Handprints)
━あなたもスターの手とくらべてみませんか!━
Find your favorite performers handprints!
「スターの手型」は、芸能界の振興に貢献した方々の功績をたたえるとともに、大衆芸能ゆかりの地“浅草”のシンボルとして末永く後世に伝えるために、設置しているものです。
今回は新たに5名の方の手型がオレンジ通り花壇に設置され、337名となりました。
これからも、新たなスターの方を顕彰してまいりますので、また浅草にお越しくださいますようお願いいたします。
"Ster Plaza" displays the handprints and signature of well-known Japanese performers who contribute to the development in the field of entertainment.
The plaza is popular among fans as the "Mecca" of popular entertainment as well as a symbol of Asakusa.
令和2年12月吉日 台東区」

<モニュメント「スターの広場」>
(プレート文)
「10周年記念モニュメント
「スターの広場」
製作 後藤良二
平成元年3月18日」


<最近のスターの手形>
「スターの手形 令和2年12月 台東区」
「片岡秀太郎 加藤茶 倍賞千恵子 林家正蔵 細川たかし」



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伝法院通り①と河竹黙阿弥翁住居跡
○伝法院通り東(仲見世通り〜馬道通り)



○白浪五人男
河竹黙阿弥の代表作「青砥稿花紅彩画」(通称「白浪五人男」)に登場する五人男が伝法院通りにいます。
(説明板)
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)
河竹黙阿弥の代表作で通称『白浪五人男』は鼠小僧と並ぶほど有名な盗賊達を描いた歌舞伎の演目として親しまれてきました。主役は五人の大盗賊。
用心棒となってこの通りを守っています。
注意深く探して下さい。
日本駄衛門(にっぽんだえもん)
弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)
南郷力丸(なんごうりきまる)
赤星十三郎(あかぼしじゅうざぶろう)
忠信利平(ただのぶりへい)
河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)
江戸時代から明治にかけて大活躍した歌舞伎作家。
黙阿弥は当時、この通りの一角に住んで参加活動を行っていました。生涯に約三百六十編もの作品を残し、現在でも多くの作品が演じられております。
主な代表作は「三人吉三廓初買」「極付番隨長兵衛」一心太助でお馴染の「芽出柳翆緑松前」など。」

【日本駄右衛門】
背中に車止めの「立札」、右手に白浪五人男の案内板を持っています。



「日本駄右衛門
大泥棒で白浪五人男の頭領。百日髷と言われる伸びすぎた髪が特徴的。
お馴染みの名台詞
問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き盗みはすれども非道はせず、人に情けを掛川から金谷をかけて宿々で義賊と噂、高札に廻る配符の盥越し危ねぇその身の境界ももはや四十に人間の定めは僅か五十年六十余州に隠れのねぇ 賊徒の首領 日本駄右衛門」

【弁天小僧菊之助】 台東区浅草2-2-4
大正ロマン館の1階のひさしの上に座っています。


「弁天小僧菊之助
弁天小僧は女装して呉服屋を騙そうとする若き美男子。
お馴染みの名台詞
さてその次は江ノ島の岩本院の児あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由比ヶ浜 打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口 土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書きも島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助」

【赤星十三郎】 台東区浅草1-36-7
ラーメン与ろゐ屋の屋根の上に座っています。


「赤星十三郎
元々は武家のお小姓。その佇まいは両性的で年若く美しい顔立ち。
お馴染みの名台詞
またその次に列なるは 以前は武家の中小姓、故主のために切取りも、鈍き刀の腰越や砥上ヶ原に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼る、盗み心の深翠り、柳の都谷七郷、花水橋の切取から、今年若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎」

【忠信利平】 台東区浅草1-35-6
もつ焼き千代乃家の壁に這いつくばっています。



「忠信利平
日本駄衛門も認める、元浪人で剣の達人。腕節も強く、いぶし銀の魅力を持った男。
お馴染みの名台詞
続いて次に控えしは月の武蔵の江戸育ち、幼児の折から手癖が悪く、抜参りからぐれだして旅を稼ぎに西国をまわって首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に足をとめたる奈良の京、碁打と言って寺々や豪家へ入込み盗んだる金が御嶽の罪科は蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし、後を隠せし、判官の、御名前騙りの忠信利平」

【南郷力丸】 台東区浅草2-1-1
中村屋本店のバルコニーにいます。


「南郷力丸
漁師町育ちの元漁師。野性的で弁天小僧と共に呉服屋を騙そうとする。
お馴染みの名台詞
さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯 馴の松の曲りなり、人となったる浜育ち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し 背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ヶ石、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟はかねて鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸」

【青砥左衛門藤綱】 台東区浅草1-35
(説明板)
「青砥左衛門藤綱(あおとざえもんふじつな)
白浪五人男を捕らえようとする人物が藤綱であり、大岡越前と並び名奉行として広く世間に知られていました。その藤綱の逸話が物語に登場します。
滑川に十文銭を落としてしまい、家来に命じて五十文で松明を買い探させました。それを知るとある者は『十文を探す為に五十文も使っては、大損ではないか』と笑いました。しかし藤綱は『十文はわずかだが、そのままにすれば天下の貨幣を永久に失ってしまう。五十文は私にとって損になるが、その五十文は他の誰かを益するだろう。
合わせて六十文は一文も残さず天下の財になっている』と説きました。この物語では金銭に関わる多くの悪事が行われますが、自分の利益の為だけにお金を使うのではなく、世の中の為にお金を使うという教えは今の時代も大切な事ではないでしょうか。
その藤綱がついに日本駄衛門を追いつめます。
日本駄衛門は潔く縄に掛かろうとしますが、藤綱は温情から再会を約束して逃します。白浪五人男とはそんな人情溢れる物語です。」

【河竹黙阿弥】
「河竹黙阿弥」
江戸時代幕末から明治にかけて大活躍した歌舞伎作家。
黙阿弥は当時、この通りの一角に住んで作家活動を行っていました。
主に白波物(盗賊が主役の歌舞伎)を中心に生世話物(江戸の町人社会を描いた歌舞伎)を徳院とした人気作家です。
生涯に約三百六十編もの作品を残し、現在でも多くの作品が演じられており、青砥稿花紅彩画は代表作の一つで、青砥稿花紅彩画は代表作の一つで、白浪五人男の愛称で有名な作品です。」

<狛犬>
狛犬がいるので、小祠があるかと思いきや、「日本酒文化専門店あなぐら」(台東区浅草2-2-1)です。



○河竹黙阿弥翁住居跡之碑 台東区浅草1-36-3
仲見世会館の前右手に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」と、河竹黙阿弥の曾孫にあたる河竹登志夫による説明板があります。浅草神社の境内には「河竹黙阿弥翁顕彰碑」が建てられています。


「河竹黙阿弥翁住居跡之碑
前正智院住職 守山良順書」


(説明板)
「黙阿弥と浅草
早稲田大学名誉教授
文学博士 河竹登志夫
歌舞伎作者河竹黙阿弥(一八一六〜一八九三)は文化十三年江戸日本橋の商家に生まれ、かぞえてニ十歳のときに五世鶴屋南北に入門、七十八歳で没するまでに三百六十篇にのぼる作品を残した。
天保の改革による江戸三座の猿若町移転に伴ってこの地に移り住んだのは、弘化年間三十歳ごろから明治二十年、本所南二葉町いまの墨田区亀沢に隠棲するまでの約四十年間である。宇都谷峠・十六夜清心・三人吉三・弁天小僧・村井長庵・御所の五郎蔵・髪結新三・河内山と直侍・島ちどり・魚屋宗五郎・土蜘・船弁慶・紅葉狩などの代表作をはじめ、ほとんど全作品がここで書かれたのであった。
坪内逍遥は黙阿弥を「真に江戸演劇の大問屋なり・・・一身にして数世紀なり」と評し「日本の沙翁」とも讃えたが、馬道町二丁目十二番地といったこの地が浅草寺子院正智院の境内だったので、江戸、東京の市民からは「地内の師匠」と親しまれたという。
平成二年七月吉日 浅草観光連盟」

<河竹黙阿弥肖像>(国立国会図書館「近代日本人の肖像)
文化13年2月3日〜明治26年1月22日(1816年3月1日〜1893年1月22日)

○伝法院通り西(仲見世通り〜六区通り)
<鼠小僧の像>
平成27(2015)年4月に隅田公園の「平成中村座発祥の地記念碑」(こちらで記載)と、伝法院通りの「鼠小僧の像」が除幕されています。



<ストリートファニチャー>
火の見梯子、半鐘桶などストリートファニチャーが設置されています。





<地口行灯>
12本の街路灯(25面)に地口行灯が飾られています。こちらで記載。
○伝法院 国名勝・国重要文化財
一般公開はしていません。


○鎮護堂 台東区浅草2-3-12



<鎮護堂>
(説明板)
「鎮護堂 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
鎮護堂は「おたぬきさま」の名で親しまれ、防火、盗難除、商売繁昌の守護神として知られている。
明治五年(一八七二)、浅草寺境内に住みついた狸の乱行を鎮めるため、浅草寺の用人であった大橋亘が浅草寺貫首唯我韶舜と相談の上、自身の邸内に祀ったことがはじまりと伝える。数度の移転を経て、同十六年伝法院内の当地に再建した。
現在の入母屋造の本殿は、大正二年に再建されたものである。
祭礼は、毎年三月十七・十八日に行われている。
また境内には昭和三十八年に建てられた幇間塚がある。幇間のことを「たぬき」と呼んだことから、この地に建てられたもので、碑には幇間の由来と久保田万太郎の「またの名のたぬきづか春ふかきかな」の句が刻まれ、裏面には幇間一同の名が刻まれている。
平成十八年三月 台東区教育委員会」

<幇間塚碑>

(説明板)
「「幇」は、たすける意。幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。たいこもち、男芸者のこと。
幇間有志によって、幇間物故供養のため、昭和三十八年に建立された。
碑には、浅草生れで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎氏の俳句がある。
「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
金龍山 浅草寺」




○白浪五人男
河竹黙阿弥の代表作「青砥稿花紅彩画」(通称「白浪五人男」)に登場する五人男が伝法院通りにいます。
(説明板)
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)
河竹黙阿弥の代表作で通称『白浪五人男』は鼠小僧と並ぶほど有名な盗賊達を描いた歌舞伎の演目として親しまれてきました。主役は五人の大盗賊。
用心棒となってこの通りを守っています。
注意深く探して下さい。
日本駄衛門(にっぽんだえもん)
弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)
南郷力丸(なんごうりきまる)
赤星十三郎(あかぼしじゅうざぶろう)
忠信利平(ただのぶりへい)
河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)
江戸時代から明治にかけて大活躍した歌舞伎作家。
黙阿弥は当時、この通りの一角に住んで参加活動を行っていました。生涯に約三百六十編もの作品を残し、現在でも多くの作品が演じられております。
主な代表作は「三人吉三廓初買」「極付番隨長兵衛」一心太助でお馴染の「芽出柳翆緑松前」など。」

【日本駄右衛門】
背中に車止めの「立札」、右手に白浪五人男の案内板を持っています。



「日本駄右衛門
大泥棒で白浪五人男の頭領。百日髷と言われる伸びすぎた髪が特徴的。
お馴染みの名台詞
問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き盗みはすれども非道はせず、人に情けを掛川から金谷をかけて宿々で義賊と噂、高札に廻る配符の盥越し危ねぇその身の境界ももはや四十に人間の定めは僅か五十年六十余州に隠れのねぇ 賊徒の首領 日本駄右衛門」

【弁天小僧菊之助】 台東区浅草2-2-4
大正ロマン館の1階のひさしの上に座っています。


「弁天小僧菊之助
弁天小僧は女装して呉服屋を騙そうとする若き美男子。
お馴染みの名台詞
さてその次は江ノ島の岩本院の児あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由比ヶ浜 打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口 土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書きも島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助」

【赤星十三郎】 台東区浅草1-36-7
ラーメン与ろゐ屋の屋根の上に座っています。


「赤星十三郎
元々は武家のお小姓。その佇まいは両性的で年若く美しい顔立ち。
お馴染みの名台詞
またその次に列なるは 以前は武家の中小姓、故主のために切取りも、鈍き刀の腰越や砥上ヶ原に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼る、盗み心の深翠り、柳の都谷七郷、花水橋の切取から、今年若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎」

【忠信利平】 台東区浅草1-35-6
もつ焼き千代乃家の壁に這いつくばっています。



「忠信利平
日本駄衛門も認める、元浪人で剣の達人。腕節も強く、いぶし銀の魅力を持った男。
お馴染みの名台詞
続いて次に控えしは月の武蔵の江戸育ち、幼児の折から手癖が悪く、抜参りからぐれだして旅を稼ぎに西国をまわって首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に足をとめたる奈良の京、碁打と言って寺々や豪家へ入込み盗んだる金が御嶽の罪科は蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし、後を隠せし、判官の、御名前騙りの忠信利平」

【南郷力丸】 台東区浅草2-1-1
中村屋本店のバルコニーにいます。


「南郷力丸
漁師町育ちの元漁師。野性的で弁天小僧と共に呉服屋を騙そうとする。
お馴染みの名台詞
さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯 馴の松の曲りなり、人となったる浜育ち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し 背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ヶ石、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟はかねて鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸」

【青砥左衛門藤綱】 台東区浅草1-35
(説明板)
「青砥左衛門藤綱(あおとざえもんふじつな)
白浪五人男を捕らえようとする人物が藤綱であり、大岡越前と並び名奉行として広く世間に知られていました。その藤綱の逸話が物語に登場します。
滑川に十文銭を落としてしまい、家来に命じて五十文で松明を買い探させました。それを知るとある者は『十文を探す為に五十文も使っては、大損ではないか』と笑いました。しかし藤綱は『十文はわずかだが、そのままにすれば天下の貨幣を永久に失ってしまう。五十文は私にとって損になるが、その五十文は他の誰かを益するだろう。
合わせて六十文は一文も残さず天下の財になっている』と説きました。この物語では金銭に関わる多くの悪事が行われますが、自分の利益の為だけにお金を使うのではなく、世の中の為にお金を使うという教えは今の時代も大切な事ではないでしょうか。
その藤綱がついに日本駄衛門を追いつめます。
日本駄衛門は潔く縄に掛かろうとしますが、藤綱は温情から再会を約束して逃します。白浪五人男とはそんな人情溢れる物語です。」

【河竹黙阿弥】
「河竹黙阿弥」
江戸時代幕末から明治にかけて大活躍した歌舞伎作家。
黙阿弥は当時、この通りの一角に住んで作家活動を行っていました。
主に白波物(盗賊が主役の歌舞伎)を中心に生世話物(江戸の町人社会を描いた歌舞伎)を徳院とした人気作家です。
生涯に約三百六十編もの作品を残し、現在でも多くの作品が演じられており、青砥稿花紅彩画は代表作の一つで、青砥稿花紅彩画は代表作の一つで、白浪五人男の愛称で有名な作品です。」

<狛犬>
狛犬がいるので、小祠があるかと思いきや、「日本酒文化専門店あなぐら」(台東区浅草2-2-1)です。



○河竹黙阿弥翁住居跡之碑 台東区浅草1-36-3
仲見世会館の前右手に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」と、河竹黙阿弥の曾孫にあたる河竹登志夫による説明板があります。浅草神社の境内には「河竹黙阿弥翁顕彰碑」が建てられています。


「河竹黙阿弥翁住居跡之碑
前正智院住職 守山良順書」


(説明板)
「黙阿弥と浅草
早稲田大学名誉教授
文学博士 河竹登志夫
歌舞伎作者河竹黙阿弥(一八一六〜一八九三)は文化十三年江戸日本橋の商家に生まれ、かぞえてニ十歳のときに五世鶴屋南北に入門、七十八歳で没するまでに三百六十篇にのぼる作品を残した。
天保の改革による江戸三座の猿若町移転に伴ってこの地に移り住んだのは、弘化年間三十歳ごろから明治二十年、本所南二葉町いまの墨田区亀沢に隠棲するまでの約四十年間である。宇都谷峠・十六夜清心・三人吉三・弁天小僧・村井長庵・御所の五郎蔵・髪結新三・河内山と直侍・島ちどり・魚屋宗五郎・土蜘・船弁慶・紅葉狩などの代表作をはじめ、ほとんど全作品がここで書かれたのであった。
坪内逍遥は黙阿弥を「真に江戸演劇の大問屋なり・・・一身にして数世紀なり」と評し「日本の沙翁」とも讃えたが、馬道町二丁目十二番地といったこの地が浅草寺子院正智院の境内だったので、江戸、東京の市民からは「地内の師匠」と親しまれたという。
平成二年七月吉日 浅草観光連盟」

<河竹黙阿弥肖像>(国立国会図書館「近代日本人の肖像)
文化13年2月3日〜明治26年1月22日(1816年3月1日〜1893年1月22日)

○伝法院通り西(仲見世通り〜六区通り)
<鼠小僧の像>
平成27(2015)年4月に隅田公園の「平成中村座発祥の地記念碑」(こちらで記載)と、伝法院通りの「鼠小僧の像」が除幕されています。



<ストリートファニチャー>
火の見梯子、半鐘桶などストリートファニチャーが設置されています。





<地口行灯>
12本の街路灯(25面)に地口行灯が飾られています。こちらで記載。
○伝法院 国名勝・国重要文化財
一般公開はしていません。


○鎮護堂 台東区浅草2-3-12



<鎮護堂>
(説明板)
「鎮護堂 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
鎮護堂は「おたぬきさま」の名で親しまれ、防火、盗難除、商売繁昌の守護神として知られている。
明治五年(一八七二)、浅草寺境内に住みついた狸の乱行を鎮めるため、浅草寺の用人であった大橋亘が浅草寺貫首唯我韶舜と相談の上、自身の邸内に祀ったことがはじまりと伝える。数度の移転を経て、同十六年伝法院内の当地に再建した。
現在の入母屋造の本殿は、大正二年に再建されたものである。
祭礼は、毎年三月十七・十八日に行われている。
また境内には昭和三十八年に建てられた幇間塚がある。幇間のことを「たぬき」と呼んだことから、この地に建てられたもので、碑には幇間の由来と久保田万太郎の「またの名のたぬきづか春ふかきかな」の句が刻まれ、裏面には幇間一同の名が刻まれている。
平成十八年三月 台東区教育委員会」

<幇間塚碑>

(説明板)
「「幇」は、たすける意。幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける者。たいこもち、男芸者のこと。
幇間有志によって、幇間物故供養のため、昭和三十八年に建立された。
碑には、浅草生れで、大正・昭和期の小説家・劇作家・俳人、久保田万太郎氏の俳句がある。
「またの名の たぬきづか 春ふかきかな」
金龍山 浅草寺」

最後の浮世絵師~小林清親墓(龍福院)
○龍福院 小林清親墓 台東区元浅草3-17-2
龍福院は、御府内八十八ヶ所霊場82番です。
(これまで行ったのは、17番長命寺 23番薬研堀不動院 24番最勝寺 29番南蔵院 46番弥勒寺 47番城官寺 59番無量寺 86番護国寺)
「最後の浮世絵師」と呼ばれた小林清親の墓(非公開)と、「清親画伯之碑」(公開)が境内にあります。
<門前>



<台東区説明板>
門前にある台東区教育委員会の説明板です。
(説明板)
「小林清親墓
所在地 台東区元浅草三丁目十七番十二号 龍福院
小林清親は木版浮世絵師最後の人といえる。
江戸の末、弘化四(一八四七)八月一日、浅草御蔵屋敷に武士の子として生まれ、上野戦争には幕府方として参加、明治維新後は、新聞、雑誌にさし絵を描き、生計を立てた。その前後、イギリス人ワーグマンに洋画を、河鍋暁斎、柴田是真からは日本画を修得、浮世絵師としての大成をはかった。
やがて小林清親の版画には、上野、浅草を中心に新しい東京の風俗・建物が光と影によって描きだされ、それらは、明けゆく明治の時代を先取りしたものとして、ひろく一般に迎えられた。それは、広重や国芳ともちがう、写実のなかに木版の刷りの美しさを生かしたものだが、浮世絵興亡の歴史からみれば、最後の光でもあった。巷説、わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。
大正四年(一九一五)十一月二十八日死去。六十九歳。寺内には小林氏墓「真生院泰岳清親居士」と清親画伯碑がある。
平成四年十一月 台東区教育委員会」


<台東区と墨田区のどちらが正しい?>
台東区の説明では、浅草御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。墨田区の説明では、本所御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。どちらが正しいのでしょうか。
墨田区立図書館のサイトによると、小林清親の父は本所御蔵屋敷小揚頭頭取の茂兵衛で、母は浅草御蔵屋敷方小揚頭・松井安之助の娘である知加子とあります。
父親は浅草御蔵屋敷と本所御蔵屋敷の両方を担当していたとすれば、または、母が実家の浅草御蔵屋敷で清親を出産し、清親は本所御蔵屋敷で育ったとすればつじつまはあいます。
<幕臣から絵師へ>
慶応元(1865)年の徳川家茂上洛の際には勘定所下役として随行し、そのまま大坂にとどまり、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いに加わります。上野戦争に幕府軍として参加しています。江戸幕府崩壊後は他の幕臣たちと共に静岡に下りました。
明治7(1874)年に東京に戻り、絵師を志します。明治9(1876)年に「東京名所図」シリーズを版行し人気絵師となりました。
「小林清親肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

<龍福院本堂>
門の正面に本堂、左手に社務所があります。



<清親画伯之碑>
本堂向かって右に、「清親画伯之碑」があります。「小林家(清親)墓地は公開しておりません 当院」の掲示があります。

公開されているのは「清親画伯之碑」です。昭和6年(1931)年の建立です。


碑裏には清親の法名「真生院泰岳清親居士」などが刻まれています。

<線刻碑など>
地蔵尊が線刻されている碑が向かって左脇にあります。碑の右側には力石かもしれない石があります。


<両国大火>
説明板に「わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。」とあります。以下は、両国大火の絵です(国立国会図書館蔵)。その他の作品は、それぞれの項目の中で掲載しています。
「浜町より写両国大火」

「両国大火浅草橋」

「両国焼跡」

「帝国議事堂炎上之図」
藝刻議事堂の炎上も描いています。

<光線画>
小林清親の作品は、明暗を強調し輪郭線を用いない空間表現で、「光線画」と呼ばれました。後年は、「近接拡大法」による「武蔵百景之内」を版行しています。
「川口鍋釜製造図」(光線画)

「隅田川夜」(光線画)

「武藏百景之内 道灌山」(近接拡大図)

「武藏百景之内 木母寺梅若神社」(近接拡大図)

<井上安治>
弟子の井上安治(探景とも号す)は光線画を継承しましたが、26歳で夭逝しています。
「東京名所 鹿鳴館」(光線画)

「駿河町夜景」(光線画)

<その他>
「風俗三十二相 高貴徳川継絡之写像 十五代将軍慶喜公」(小林清親 明治20年)
歴代の徳川将軍を描いています。小林清親が仕えた「十五代将軍慶喜公」の拡大です。

龍福院は、御府内八十八ヶ所霊場82番です。
(これまで行ったのは、17番長命寺 23番薬研堀不動院 24番最勝寺 29番南蔵院 46番弥勒寺 47番城官寺 59番無量寺 86番護国寺)
「最後の浮世絵師」と呼ばれた小林清親の墓(非公開)と、「清親画伯之碑」(公開)が境内にあります。
<門前>



<台東区説明板>
門前にある台東区教育委員会の説明板です。
(説明板)
「小林清親墓
所在地 台東区元浅草三丁目十七番十二号 龍福院
小林清親は木版浮世絵師最後の人といえる。
江戸の末、弘化四(一八四七)八月一日、浅草御蔵屋敷に武士の子として生まれ、上野戦争には幕府方として参加、明治維新後は、新聞、雑誌にさし絵を描き、生計を立てた。その前後、イギリス人ワーグマンに洋画を、河鍋暁斎、柴田是真からは日本画を修得、浮世絵師としての大成をはかった。
やがて小林清親の版画には、上野、浅草を中心に新しい東京の風俗・建物が光と影によって描きだされ、それらは、明けゆく明治の時代を先取りしたものとして、ひろく一般に迎えられた。それは、広重や国芳ともちがう、写実のなかに木版の刷りの美しさを生かしたものだが、浮世絵興亡の歴史からみれば、最後の光でもあった。巷説、わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。
大正四年(一九一五)十一月二十八日死去。六十九歳。寺内には小林氏墓「真生院泰岳清親居士」と清親画伯碑がある。
平成四年十一月 台東区教育委員会」


<台東区と墨田区のどちらが正しい?>
台東区の説明では、浅草御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。墨田区の説明では、本所御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。どちらが正しいのでしょうか。
墨田区立図書館のサイトによると、小林清親の父は本所御蔵屋敷小揚頭頭取の茂兵衛で、母は浅草御蔵屋敷方小揚頭・松井安之助の娘である知加子とあります。
父親は浅草御蔵屋敷と本所御蔵屋敷の両方を担当していたとすれば、または、母が実家の浅草御蔵屋敷で清親を出産し、清親は本所御蔵屋敷で育ったとすればつじつまはあいます。
<幕臣から絵師へ>
慶応元(1865)年の徳川家茂上洛の際には勘定所下役として随行し、そのまま大坂にとどまり、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いに加わります。上野戦争に幕府軍として参加しています。江戸幕府崩壊後は他の幕臣たちと共に静岡に下りました。
明治7(1874)年に東京に戻り、絵師を志します。明治9(1876)年に「東京名所図」シリーズを版行し人気絵師となりました。
「小林清親肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

<龍福院本堂>
門の正面に本堂、左手に社務所があります。



<清親画伯之碑>
本堂向かって右に、「清親画伯之碑」があります。「小林家(清親)墓地は公開しておりません 当院」の掲示があります。

公開されているのは「清親画伯之碑」です。昭和6年(1931)年の建立です。


碑裏には清親の法名「真生院泰岳清親居士」などが刻まれています。

<線刻碑など>
地蔵尊が線刻されている碑が向かって左脇にあります。碑の右側には力石かもしれない石があります。


<両国大火>
説明板に「わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。」とあります。以下は、両国大火の絵です(国立国会図書館蔵)。その他の作品は、それぞれの項目の中で掲載しています。
「浜町より写両国大火」

「両国大火浅草橋」

「両国焼跡」

「帝国議事堂炎上之図」
藝刻議事堂の炎上も描いています。

<光線画>
小林清親の作品は、明暗を強調し輪郭線を用いない空間表現で、「光線画」と呼ばれました。後年は、「近接拡大法」による「武蔵百景之内」を版行しています。
「川口鍋釜製造図」(光線画)

「隅田川夜」(光線画)

「武藏百景之内 道灌山」(近接拡大図)

「武藏百景之内 木母寺梅若神社」(近接拡大図)

<井上安治>
弟子の井上安治(探景とも号す)は光線画を継承しましたが、26歳で夭逝しています。
「東京名所 鹿鳴館」(光線画)

「駿河町夜景」(光線画)

<その他>
「風俗三十二相 高貴徳川継絡之写像 十五代将軍慶喜公」(小林清親 明治20年)
歴代の徳川将軍を描いています。小林清親が仕えた「十五代将軍慶喜公」の拡大です。


隅田川ウォールアートギャラリー(今戸)
○隅田川ウォールアートギャラリー(今戸地区) 台東区今戸1丁目
「~『粋』のある浅草今昔ギャラリー~」として、浅草・今戸地域の文化や街並みの錦絵が「江戸~明治~大正~昭和」と展示されています。東京都建設局のサイトに説明があります(サイト)。
<桜橋>
隅田公園入口にある案内板





<隅田川テラス案内図>
「桜橋」「待乳山聖天」の説明があります。



<隅田川距離標>
「隅田川距離標
河口より7.9km地点」

「河口より8.0km
墨田川右岸」

<隅田川ウォールアートギャラリー>(南端)
「~『粋』のある浅草今昔ギャラリー~」


<展示>
下流から順に「江戸~明治~大正~昭和」と辿ります。
「東都名所 浅草金竜山」(広重)

「江戸高名会亭尽 今戸橋之図 玉庄」(広重)
「狂句合 夜光の玉庄燈臺の百目掛」 掲示の題名は会亭ではなく金亭と誤っています。


「江戸名所 猿若町芝居顔見世繁栄の図」(広重)

「東京名所四十八景 ミめくり真乳山遠景」(昇齋一景)

「東京真画名所図解 今戸橋雪 明治前期」(井上安治)

「東京両国橋開大花火之図 永島春暁 明治23年5月(1890)」

「凌雲閣機絵双六 歌川国貞 明治23年11月(1890)」

「東京名所真景之内 如月待乳山雪のたそがれ 小林清親 明治29年(1896)」


「東京風景六 待乳山 織田一麿 大正5年(1916)」
待乳山聖天の境内の同じ光景の場所にも、掲示があります。

「東京名所 浅草公園池畔観覧場殷賑之光景 大正7年4月10日(1918)」

「大東京十二景の内 七月 花火の両国(隅田川) 藤森静雄 昭和8年8月(1933)」

<隅田川ウォールアートギャラリー>(北端)
「~『粋』のある浅草今昔ギャラリー~」の説明板があります。



○隅田川テラス(今戸2丁目~橋場1丁目~2丁目)
<隅田川テラス案内図>
「早慶レガッタ」「橋場の銭座」の説明があります。


<隅田川テラス案内図>
←白鬚橋650M 桜橋→550M


<隅田川テラス周辺案内図>
「隅田川テラス」「白鬚の渡し」の説明があります。



<橋場銭座跡> 台東区橋場1-1-6 別途記載
<橋場の渡し> 別途記載
<明治天皇行幸対鴎荘跡> 台東区橋場2-1 別途記載
○白鬚橋 台東区橋場2丁目・荒川区南千住3丁目~墨田区堤通1丁目・2丁目
(碑文)
「白鬚橋
白鬚(しらひげ)の名は、天暦五年(九五一年)創建の縁起のある向島の白髭神社に由来している。古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあり、のちには舟の浮橋などもかけられたという説もある。
ここを、「船場の渡し」といったのは、このゆかりの名であり、交通の要地であったことを示している。
大正三年(一九一四年)には、地元の住民によって会社が設立され、有料の木橋がかけられた。
関東大震災(一九二三年)を経て、復興事業の一環として、昭和六年(一九三一年)に重量感溢れるアーチ橋としてかけかえられた。その後、東京大空襲などにも他の橋とともに多くの人を救う役割を果たした。
現在も、荒川区・墨田区・台東区の三区を結ぶ重要な橋である。
昭和五十八年三月 東京都」




<名所江戸百景 隅田川 水神の森 真崎>(広重)
石碑にはめ込まれているパネルの国立国会図書館所蔵の錦絵です。
墨堤の桜から、手前に水神の森、隅田川対岸に真崎稲荷、遠方に筑波山が描かれています。ここからは筑波山は右手なので見えないはずですが描かれています。

○水神大橋 荒川区南千住8丁目~墨田区堤通2丁目
水神の森は、隅田川神社と改められていますが、水神大橋にその名を留めます。


「~『粋』のある浅草今昔ギャラリー~」として、浅草・今戸地域の文化や街並みの錦絵が「江戸~明治~大正~昭和」と展示されています。東京都建設局のサイトに説明があります(サイト)。
<桜橋>
隅田公園入口にある案内板





<隅田川テラス案内図>
「桜橋」「待乳山聖天」の説明があります。



<隅田川距離標>
「隅田川距離標
河口より7.9km地点」

「河口より8.0km
墨田川右岸」

<隅田川ウォールアートギャラリー>(南端)
「~『粋』のある浅草今昔ギャラリー~」


<展示>
下流から順に「江戸~明治~大正~昭和」と辿ります。
「東都名所 浅草金竜山」(広重)

「江戸高名会亭尽 今戸橋之図 玉庄」(広重)
「狂句合 夜光の玉庄燈臺の百目掛」 掲示の題名は会亭ではなく金亭と誤っています。


「江戸名所 猿若町芝居顔見世繁栄の図」(広重)

「東京名所四十八景 ミめくり真乳山遠景」(昇齋一景)

「東京真画名所図解 今戸橋雪 明治前期」(井上安治)

「東京両国橋開大花火之図 永島春暁 明治23年5月(1890)」

「凌雲閣機絵双六 歌川国貞 明治23年11月(1890)」

「東京名所真景之内 如月待乳山雪のたそがれ 小林清親 明治29年(1896)」


「東京風景六 待乳山 織田一麿 大正5年(1916)」
待乳山聖天の境内の同じ光景の場所にも、掲示があります。

「東京名所 浅草公園池畔観覧場殷賑之光景 大正7年4月10日(1918)」

「大東京十二景の内 七月 花火の両国(隅田川) 藤森静雄 昭和8年8月(1933)」

<隅田川ウォールアートギャラリー>(北端)
「~『粋』のある浅草今昔ギャラリー~」の説明板があります。



○隅田川テラス(今戸2丁目~橋場1丁目~2丁目)
<隅田川テラス案内図>
「早慶レガッタ」「橋場の銭座」の説明があります。


<隅田川テラス案内図>
←白鬚橋650M 桜橋→550M


<隅田川テラス周辺案内図>
「隅田川テラス」「白鬚の渡し」の説明があります。



<橋場銭座跡> 台東区橋場1-1-6 別途記載
<橋場の渡し> 別途記載
<明治天皇行幸対鴎荘跡> 台東区橋場2-1 別途記載
○白鬚橋 台東区橋場2丁目・荒川区南千住3丁目~墨田区堤通1丁目・2丁目
(碑文)
「白鬚橋
白鬚(しらひげ)の名は、天暦五年(九五一年)創建の縁起のある向島の白髭神社に由来している。古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあり、のちには舟の浮橋などもかけられたという説もある。
ここを、「船場の渡し」といったのは、このゆかりの名であり、交通の要地であったことを示している。
大正三年(一九一四年)には、地元の住民によって会社が設立され、有料の木橋がかけられた。
関東大震災(一九二三年)を経て、復興事業の一環として、昭和六年(一九三一年)に重量感溢れるアーチ橋としてかけかえられた。その後、東京大空襲などにも他の橋とともに多くの人を救う役割を果たした。
現在も、荒川区・墨田区・台東区の三区を結ぶ重要な橋である。
昭和五十八年三月 東京都」




<名所江戸百景 隅田川 水神の森 真崎>(広重)
石碑にはめ込まれているパネルの国立国会図書館所蔵の錦絵です。
墨堤の桜から、手前に水神の森、隅田川対岸に真崎稲荷、遠方に筑波山が描かれています。ここからは筑波山は右手なので見えないはずですが描かれています。

○水神大橋 荒川区南千住8丁目~墨田区堤通2丁目
水神の森は、隅田川神社と改められていますが、水神大橋にその名を留めます。



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