神田ふれあい橋(神田川)

○神田ふれあい橋 千代田区神田須田町二丁目(右岸)〜神田佐久間町一丁目(左岸)

 東北・上越新幹線の東京駅乗り入れ工事の鉄橋工事用の橋が、地元の要望により工事完了後も撤去せず、平成元(1989)年4月から人道橋として供用されています。幅員が2.5メートルしかないので、並んで歩けない幅です。

 神田須田町側
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 神田佐久間町側
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 橋名板
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 柳森神社から神田ふれあい橋
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 神田ふれあい橋橋上
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 神田川上流(万世橋) 
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 神田川下流(和泉橋)
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 神田川下流右岸(柳森神社)
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 神田ふれあい橋の位置
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<欄干>

 橋の中央に設けられた2ヶ所のバルコニーの欄干には、「柳のレリーフ」(橋灯がじゃまで見えにくい)、「江戸名所図会 柳原堤」からの抜粋と、文化3(1806)年の柳原の地図のレリーフがはめられています。 「江戸名所図会柳原堤」からの抜粋には、柳森稲荷や、道行く様々な職業の人々、神田川を行く舟が掲示されています。

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「柳のレリーフ」
 太田道灌が柳原に植えたとされる柳のレリーフが掲げられています。

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「江戸名所図会 柳原堤」
 「江戸名所図会柳原堤」からの抜粋で、「柳森稲荷」、道行く様々な職業の人々と神田川の舟が掲示されています。

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「江戸名所図会 柳原堤」(国立国会図書館蔵)
 欄干に掲示されている図会の抜粋です。

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「江戸の地図」
 文化3(1806)年の地図が掲示されています。神田川右岸の柳原堤の抜粋です。
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 地図が横向きに掲示されているので、元の形に回転して抜粋したものです。「筋違門」「和泉橋」や、小菅へ移転前の「籾蔵」が見えます。
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<街灯>

 神田川右岸の神田ふれあい橋入口の銘板「神田ふれあい橋 Kanda Fureai Bashi」の街灯です。

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<柳原通り/神田ふれあい通り>

 神田ふれあい橋の南側の歩道に「柳原通り」「神田ふれあい通り」のプレートがあります。神田ふれあい通りは、神田ふれあい橋から神田駅へと、高架沿いに続く道です。

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 神田川神田鉄道遺構

秋葉原貨物取扱所と運河 神田佐久間町

○佐久間橋跡 千代田区神田佐久間町1-18 秋葉原公園

 明治23(1890)年に上野からの貨物線が開通し、「秋葉原貨物取扱所」が開設されました。貨物運搬のための船溜があり、神田川と掘割(運河)で繋がれていました。この掘割に架けられていたのが佐久間橋と秋葉橋です。

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○千代田区町名由来板 神田佐久間町一丁目 千代田区神田佐久間町1-18 秋葉原公園

 「佐久間町」の町名の由来は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来するとされています。
 長禄2(1458)年、太田道灌が江戸城の鬼門除として現在の佐久間町一帯に柳を植樹し柳森稲荷(その後現在地の神田須田町に移転)を創建した地です。

(説明板)
「千代田区町名由来版 神田佐久間町一丁目
 「佐久間町」の町名は、かつて佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来するとされています。商人の名がそのまま町名になっていることからもわかるとおり、この界隈はとりわけ江戸商業の発達史にゆかりの深い場所でした。
 神田佐久間町一丁目の商人のなかで、とくに目立ったのは材木問屋でした。あまりに多くの材木問屋が集まっていたため、材木商たちの間では神田材木町の通称で呼ばれていたといいます。そのほか町内には、薪や炭を扱う業者も多かったようです。
 明治維新を迎え、江戸が東京と名を変えても、神田佐久間町一丁目には数多くの材木問屋や薪炭業者が商いを続けました。とくに幕末から明治にかけては活発な取引がおこなわれたようで、この町における炭の相場の変動が東京全体の炭の価格に影響していたと伝えられています。
 江戸時代から続いていた神田佐久間町一丁目の町名は、明治四十四年(1911)の町名変更によって佐久間町一丁目となりました。そして神田区と麹町区が合併して千代田区となった昭和二十二年(1947)、ふたたび神田佐久間町一丁目という伝統ある名前を復活させ、いまに至っています。
  佐久間町一丁目町会」

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「纏持ち 八番組か組町火消」

 説明板に掲示の火消しの纏です。出典は記載されていません。神田佐久間町は「八番組か組町火消」が担当していました。

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「江戸の花名勝会 か 八番組 尾上菊五郎/神田明神の祭/神田」(豊国,貞秀,芳虎 国立国会図書館蔵)

 代わりに見つけた、江戸の花名勝会から「か 八番組」の抜粋です。神田明神社と、その祭神に祀られている平将門の首が飛んで石をかりかりかんだ図柄です。左上に「将門の亡念打来て首が飛んで石をかりかり神田」とあります。右下に尾上菊五郎が描かれています。右上に火消し八番組か組の纏が描かれています。

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テーマ : 駅めぐり - ジャンル : 旅行

tag : 太田道灌鉄道遺構神田川神田千代田区町名由来

柳森神社(おたぬき様)

○柳森神社(おたぬき様) 千代田区神田須田町2-25-1

 太田道灌公が江戸城の東北の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の「伏見稲荷大社」を勧請して創建したとされています。 境内の福寿神は「お狸さん」とよばれ、桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。江戸三森、江戸七森の一つです。

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「江戸名所図会 柳原堤」

 「江戸名所図会 柳原堤」の中で「柳森稲荷」が描かれています。通りを行く人に、車いすの人や視覚障害者が見えます。

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「江戸切絵図」

 和泉橋上流の柳原堤に、「籾蔵」と「イナリ」が見えます。

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「絵本江戸土産 柳原 河岸通」 (広重)

 神田川の和泉橋辺りから上流を描いています。左手の神田川右岸が柳原堤で、柳森稲荷が見えます。
 挿絵には 「浅草御門より西の方 これを神田川といひて江戸川の末流也 大川へ出るにより川舟左右に競ひ 旦より暮に至るまで盧櫂のおと引きもきらず 賑はひの地なり」 とあります。

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<一の鳥居/社号標>

 神田川の南側「柳原通り」沿いに神社入口があります。石鳥居と社号標「柳森神社」があります。鳥居より低い位置に境内がある「下り宮」です。

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<富士塚・富士講石碑群> 千代田区有形民俗文化財

 鳥居をくぐり階段を降りると右手に千代田区指定有形民俗文化財「富士講関係石碑群」があります。かつての富士塚の溶岩や碑などが積み上げられています。一番上には「三桂乃大神」、下に「富士宮浅間大社神」が祀られています。

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(説明板)
「富士講関係石碑群
 千代田区指定文化財
 1998年(平成10年)4月1日指定
 5つの石碑群は、柳森神社周辺に存在した富士講の名残を今日に伝える石碑群です。富士講とは、富士山信仰をもとに成立した民間信仰の一種で、江戸時代特に町民や農民の間で流行しました。
 柳森神社は、1680年(延宝8年)に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を、合殿・合祀した経緯から、富士講と深い関わりを持つ場所でした。『東都歳事記』には、天保年間(1830〜1844年)頃の「富士参」(富士浅間神社への参詣)の例として柳森神社のことが取り上げられています。
 1930年(昭和5年)には、境内に富士塚と呼ばれる、富士の溶岩石を積み上げて富士山に模した塚も築かれましたが、1960年(昭和35年)に取り壊され現存していません。
 石碑群の銘文には、富士塚が築かれた時期に近い、大正や昭和の文字があり、このころに富士講を再興させようという動きがあったことがわかります。」

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<力石群> 千代田区有形民俗文化財

 13個の力石が集められ壮観です。

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(説明板)
「力石群
 江戸時代には、若者たちの間で、重量のある石を持ち上げて力自慢を競うことが流行しました。明治時代の中頃から次第に衰退しましたが、大正時代になると再び盛り上がりをみせます。
 柳森神社の境内にあるカ石の一群は、当時のカ士で大関として名を上げた神田川徳蔵こと飯田徳蔵と、その一派が生前使った石の一部で、彼らの業績を記念し後世に伝えるために集められたものです。」

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<明徳稲荷神社>

 商人からの信仰を集めた明徳稲荷神社です。

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<秋葉大神>

 火防・火伏せの神として信仰を集めた「秋葉大神」です。

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<水神厳島大明神・江島大明神>

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<金比羅宮>

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<福寿社(おたぬきさま)>

 桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。

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<福寿 たぬき尊像>

 親子狸が鳥居の前におわします。

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<鳥居(福寿神)>

 鳥居の両側には親子の狸の像が座しています。鳥居の裏に説明板。

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<おたぬきさん 福寿神御由来>

(説明板)
「おたぬきさん 福寿神御由来
 江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院様によって江戸城内に福寿いなりとして創建された。
 桂昌院様は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍徳川家光の側室となり、五代将軍徳川家綱吉公の生母となる。
 大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいとこぞってお狸さまを崇拝したという。
 後世、元倉前甚内橋際 向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祀されました。
 開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。
 なお当社において頒与する、“おたぬきさん”と呼ばれる土製の親子狸のお守りは、素朴で、たいへん愛されております。」

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<幸神社>

 お稲荷様が祀られてる幸神社です。

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<神楽殿>

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<柳森神社由来>

 神楽殿の道路側に「柳森神社由来」が掲げられています。

(掲額文)
「柳森神社由来
 今を去る五百余年の昔この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄ニ年太田道灌公江戸築城の時その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ神田川土堤一帯に柳の木を多数植え繁茂したるに依り柳原の名と共に柳森神社の起源となった其の後江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁昌の神として非常に殷賑を極めたのである元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり其の造営物は大正十二年九月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した尚其頃迄この周辺には柳町小柳町元柳町向柳町柳原河岸などと柳に因んだ町名の有ったことも此の柳の森より起因したものである。
 昭和三十年が当神社創建五百年祭に相当するので崇敬者の発願に依って記念事業として此の神楽殿を建立し同年五月十五日楽慶大祭を執行した次第である。
 例大祭は毎年五月十四日十五日
  昭和三十六年五月吉日」


<手水舎>

 元禄6(1693)年の銘です。

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<天水桶>

 昭和5(1930)年奉納の鉄製天水桶です。川口町の浅倉庄吉の鋳造です。
 「川口町 「多」(社章) 浅倉庄吉製 昭和五年八月吉日」「山寅作」の印影です。

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<神狐>

 左の神狐は、子狐が親狐を見上げています。
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 右の神狐は赤い前掛けです。
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<拝殿>

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<本殿>

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<天水桶>

 文政3(1820)年銘の「江戸深川 釜屋」による製作の天水桶です。社務所前にあります。「柳原岩井町」の多くの人々による奉納です。現在の拝殿前にある天水桶は昭和5(1930)年の奉納なので、こちらは役目を終えた先代の天水桶なのでしょう。

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<庚申塔>

 正徳5(1715)年銘の庚申塔です。千代田区内に2基ある庚申塔のうちの一つです。社務所前にあります。

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tag : 歌川広重太田道灌桂昌院力石富士塚神田川神田江戸幕府施設御籾蔵江戸七森

柳原堤(神田川)

○柳原堤

 太田道灌が、江戸城を造成した際、鬼門の守りのため、土手を築き、水に強い柳の木を植えました。神田川下流の浅草御門から八ツ小路までの南岸に築かれたのが柳原堤です。
 飯田橋駅から和泉橋の江戸城小石川堀(神田川)は、仙台藩が開削工事を行った場所です。三代藩主伊達綱宗の時代に始まり、万治4年(1661年)、四代藩主綱村の時代に完成しました。


「江戸切絵図」

 筋違御門から浅草御門まで、神田川右岸に柳原堤が続いています。筋違門と和泉橋の間の柳原堤に沿って籾蔵が見えます。

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<柳原通り>

 柳原堤に沿って走っていたのが「柳原通り」です。

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「江戸名所図会 柳原堤」

 通りには籾蔵が見えます。「柳森稲荷」が描かれています。

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 古着屋の露店が軒を連ねて、古着が吊るされています。

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 通りを行く人に、車いすの人や視覚障害者が見えます。

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 和泉橋の南側の袂には、大弓の射的場が見えます。

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 切絵図からの抜粋です。

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「絵本江戸土産 柳原 河岸通」 (広重)

 神田川の和泉橋辺りから上流を描いています。左手の神田川右岸が柳原堤で、柳森稲荷が見えます。
 挿絵には 「浅草御門より西の方 これを神田川といひて江戸川の末流也 大川へ出るにより川舟左右に競ひ 旦より暮に至るまで盧櫂のおと引きもきらず 賑はひの地なり」 とあります。

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○和泉橋 千代田区神田佐久間町1・神田佐久間河岸〜千代田区神田岩本町・岩本町3

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「大正五年三月完成」

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 上流

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 下流 神田川下流には美倉橋が見えます。

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<柳原土手跡と和泉橋> 千代田区神田岩本町

(説明板)
「柳原土手跡と和泉橋
 柳原土手は、筋違門から浅草門までの約1.1kmにわたり、江戸城外堀(現在の神田川)南岸に築かれていた土手です。昔は町屋が土手の南側下まで建ち並び、人は土手の上を通行していました。土手下には柳森稲荷(現在の柳森神社)や古着や小道具を扱う葦簀張りの床店が並び、繁昌していたといわれます。
 1873年(明治6年)に土手は崩されましたが、岩本町周辺には古着屋が集中し、また軍服を扱う羅紗問屋が神田須田町にできたことで、岩本町・神田須田町・東神田の一帯は、現在に至るまで衣料の町として発展してきました。
 和泉橋は、江戸城外堀(現在の神田川)にかかる橋の一つです。伊勢津藩(現在の三重県)の藤堂和泉守の上屋敷前に向かう通りに架かることが橋名の由来です。1892年(明治25年)に鉄橋となり、関東大震災後の1927年(昭和2年)には帝都復興事業の一環で拡張され、東京を南北に走る防火帯の役割も兼ねた場所でした。」

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<國旗掲揚所> 千代田区神田岩本町

 自転車置き場に古い国旗掲揚所があります。「昭和八年八月建設」

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<既製服問屋街発祥の地> 千代田区岩本町3-11-16

(説明板)
「既製服問屋街発祥の地
 江戸時代後期、昌平橋から浅草橋の間にあった柳原土手に沿って古着を扱う床店(露店)が設けられ、日本橋富沢町とともに、江戸市中の古着を扱うマーケットの一つとして知られました。明治維新後の1881年(明治14年)、岩本町古着市場が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
 日常衣類として洋服が普及し、一般の人々の需要の中心が既製服へ代わると、この地域でも既製服を扱う店舗が増加し洋服の町へと変貌していきました。
 (神田柳原川岸通りの図 新撰東京名所図会)掲示」

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<岩本町三丁目> 千代田区岩本町3-11-16

(説明板)
「千代田区町名由来板 千代田区
 岩本町三丁目
 江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町周辺は、江戸城から見れば鬼門(北東方向)にあたります。柳森神社(現・神田須田町二丁目)の社伝によれば、太田道灌が鬼門除けに稲荷を祀り、柳を植えたのが始まりといわれています。
 そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。
 その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治十四年(1881)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると、町内には四階建てのビルまで登場し、「和泉橋ダンスホール」が併設されました。
 このように洒落で小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後、この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。
 現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎を築いてきたのは、こうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町、それが岩本町三丁目なのです。」

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「江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町」(歌川広景)

 和泉橋の橋名由来となった津藩藤堂和泉守上屋敷が描かれています。上屋敷表門前では、男が烏帽子を凧の糸に絡めとられています。

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「東京名所三十六戯撰 柳原元和泉はし」(昇齋一景 1872年)

 神田川の和泉橋辺りの柳原での光景です。女性が舟に乗ろうとして、たぶんこぼれていた汚物に滑って、お隣の汚穢舟に転げ落ちています。左端の男性は臭くて鼻をつまんでいます。右端の女性は着物の袖で顔の下をおおい、男性は扇子で顔の下をおおっています。下肥は、長屋より武家屋敷のほうが高く買い取られ、神田川は汚穢舟が目立った東京の名所でしたか?

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○美倉橋 千代田区神田佐久間河岸〜千代田区東神田2丁目

 江戸切絵図では「新シ橋」とあります。明治初期に美倉橋と改称されています。

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 「昭和四年三月完成」。

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 神田川下流には、左衛門橋が見えます。

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<美倉橋西児童遊園> 千代田区東神田2-3-1

 南詰にあるトイレは3つの蔵を形どっています(男女トイレと車いすトイレ)。

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「江戸名所道化尽 七 新シ橋の大風」(歌川広景)

 神田川の新シ橋(現在の美倉橋)辺りの柳原での光景です。柳原堤と強風にあおられている柳が見えます。神田川の上流には、火の見櫓が見えます。
 新シ橋の上では、吹き荒れる風に人々が翻弄されています。一人は空高く傘を飛ばされ、一人は笠を飛ばされています。女性はマリリン・モンロー状態で、紙(浅草紙ですかね)を飛ばされています。手がふさがっている男性は布を顔面に飛ばされ前が見えません。

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「北斎漫画」(北斎)に、風に翻弄される人たちの絵があります。元ネタですね。

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○左衛門橋 千代田区東神田3・台東区浅草橋1〜千代田区東神田2・中央区日本橋馬喰町2

 橋の中央が、台東区、千代田区、中央区の境界となっています。
 「平成十二年二月完成」

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 橋の下流に浅草橋が見え、屋形船が停泊しています。

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<町名由来板「東神田三丁目」> 千代田区東神田3-1-17 千代田区立左衛門橋北児童遊園

(説明板)
「千代田区町名由来板
 東神田三丁目
 南に神田川をのぞむ東神田三丁目は、かつて神田八名川町、神田元久右衛門町、神田餌鳥町、神田向柳原町一丁目に分かれていました。
 このうち、八名川町という名は、江戸時代初期の元和二年(一六一六)、駿府在城時の徳川家康に奉仕した三河国八名川村出身の旗本二十二名が、この地に屋敷を与えられたことから付けられました。隣の神田元久右衛門町は、同じく元和二年、久右衛門という人物が町屋を草創したことに由来するとされています。このあたりは河岸地で、材木商、薪炭商が多く住んでいました。一時、火事で深川に移転したものの、荷揚げに便利なこの地に願い出て戻り、焼け跡を蔵地として復興しました。
 神田餌鳥町は、鷹狩の鷹の餌となる小鳥などを飼う仕事を請け負っていた役人の屋敷が、神田餌鳥屋敷と呼ばれていたことからこの名が付きました。また、神田向柳原町は、神田川南岸の柳原から見て川向こうであることにちなむ名前です。
 江戸時代からのこれらの町の名は、明治五年(一八七二)に正式な町名となりました。向柳原町は、浅草区へ編入したのちに一部神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となります。
 昭和四十二年(一九六七)、住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。このとき案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは、要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。こうして江戸時代から続いていた町名は、東神田三丁目という名前に生まれ変わったのです。」

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<旧町名由来案内板「浅草上平右衛門町、浅草左衛門町」> 台東区浅草橋1-3-8 台東区立左衛門町児童遊園

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草上平右衛門町、浅草左衛門町
 浅草上平右衛門町を開いたのは、平右衛門という人物である。
 天正十八年(一五九○)家康の江戸入国に従い江戸へ入り、元和二年(一六一六)、家康が浅草寺へ参詣した際、この地に町家を開くことを命じられた。町名は、平右衛門が住んでいる土地ということで付され、この地の名主になった。
 当初、町名には上下の区別はなく「浅草平右衛門町」であったが、俗に浅草御門(現浅草橋南詰にあった)より東側を下平右衛門、西側を上平右衛門と称していた。明治五年(一八七二)になり正式に上下二町にわかれた。昭和九年(一九三四)、上平右衛門町は二分され、東側を浅草橋一丁目とした。残った西側部分も昭和三十九年(一九六四)の住居制度の実施で、浅草橋一丁目となった。(左図町名遍歴表参照)
 一方、浅草左衛門町が起立したのは、明治二十三年(一八九○)である。この地には、慶長三年(一五九八)以来、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉邸(明治元年現在で十二万石、領主酒井忠宝)があったが、明治元年(一八六八)に収公され、同五年に町屋が開かれた。当初、平右衛門町の隣にあったことから、新平右衛門町と称していた。後に、神田川に望むこの地を俗に左衛門河岸と呼んでいたのをとって町名となった。
※系図省略  台東区」

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太田姫稲荷神社(本宮 元宮 麹町)

○太田姫稲荷神社(本宮) 千代田区神田駿河台1-2-3

 元宮と本宮があり、こちらは本宮です。元宮には楠の大木の御神木がありますが、本宮には境内前のしめ縄のかかったこちらも大木です。

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<由来>

 太田道灌の娘が天然痘を罹い、道灌は、京都の「一口(いもあらい)稲荷神社」が霊験があると聞き、娘の回復を祈願したところ娘の病は治癒していきました。
 これに感謝した道灌のもとに太田姫命が現れ、御告げによって1457年に江戸城内に一口稲荷の分霊を遷し稲荷神社を築きました。 神紋は、太田道灌の家紋に同じで「桔梗紋」です。古くは「一口稲荷(いもあらいいなり)」と称され崇敬を集めました。


<遷座>

 太田道灌によって1457(長禄元)年に、江戸城内に一口稲荷を勧請したと伝わります。
 慶長11(1606)年、江戸城大改築にて、西丸の鬼門の地(現:神田駿河台4丁目)へ遷されました。
 昭和6(1931)年に、総武線建設のため社地の大半を収用され、現在地に建築物をそのまま移転します。旧社地には古い椋の御神木が元宮として残っています。東日本大震災で被災し、平成25(2013)年に大改修を終えています。

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<狛犬>

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<手水舎>

 吐水口は鯉です(一見して鯰かと思うも鱗があります)。

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<拝殿/本殿>

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○山下恒雄作の布袋像「慧」 千代田区神田駿河台3-9 三井海上本社ビル

 太田姫稲荷神社の西側にある三井住友海上火災保険駿河台ビルに団扇を持った布袋像があります。山下恒雄作の「慧」(けい)です。「民を災厄から守る布袋像をと祈願しつつ、制作に入った次第です。」と作者のコメント。

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 山下恒雄氏の他の作品には、墨田区横網の徳川家康像などがあります


○太田姫稲荷神社元宮 千代田区神田駿河台4-8

<ご神木>

 御茶ノ水駅・外堀(神田川)のほとりには、楠の大木のご神木が元宮として残っています。大木の隣は、「出口専用臨時改札口」です。
 飯田橋駅から和泉橋の江戸城小石川堀(神田川)は、仙台藩が開削工事を行った場所です。三代藩主伊達綱宗の時代に始まり、万治4年(1661年)、四代藩主綱村の時代に完成しました。

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<太田姫神社元宮>

 太田姫神社元宮木札、太田姫稲荷神社神札、一口太田姫神社の由緒、「ご自由にお持ち下さい」と書かれたボックスに「太田姫一口稲荷 風邪咳封治御守」 以上が椋の古木のご神木に括り付けられています。神社名がバラバラです。

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<太田姫神社元宮>

 「太田姫神社 元宮 旧名 一口神社」と書かれた社号板。

 「太田姫神社
  元宮
  旧名一口(いもあらい)神社」

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<太田姫稲荷神社商売繁昌守護>

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<一口太田姫神社>

(説明板)
「一口太田姫神社
一口である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開創した時江戸城の結界また鬼門の護り神とし旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された
昭和六年(一九三一)総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る 尚鐵道(「甲武線」中央線の前身)は濠の中にあり開通時天皇家との間に濠幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある(明治期鐵道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫」

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<御守 太田姫一口稲荷>

「御守
 太田姫一口稲荷
  風邪咳封治  御守
この御神符は当神社にて古い判木が現存して居りまして江戸時代より明治大正昭和の初めの頃まで風邪咳治封の御守護札としてかなり流行した町々に流布されたものと云われ伝はったものです。いささか摩滅の所がありますが当時の物で御座います。
当太田姫神社は京都稲荷大社の分社で日本いなり總社本宮愛染寺(別当寺名)より1キロ程の所、一口いなり別名豊吉いなりと申されます。宇治川と淀川の合流地の岸に社が御座います。村落は一口村と言はれ、この数年前に久美山町の一部に合併されで町政下にあります。
いもあらいは元語はゑも(潰瘍のウミ・血・尿の障害を洗ふと云う事申すのです。この一口の今はり五三〇年昔江戸城にありし太田道灌公の姫君当時大流行した天然痘泡瘡(ホウソウ)(いもがさ)高熱に呻吟苦悩余名危ふき時、人ありて進言、山城の国一口の里に病に靈験あらたかな一口神ありこの神を信仰し平癒を祈れば守護の御利益ある 古来より伝承あると、聞きたヾちに公使者を立て祈祷を修した。霊感いやちこに平癒せられた。公感謝。領民の健全をも含め城口に一口いなり分祀勧進す。後に太田姫いなりの社となり関西の神が江戸に創祀されて、江戸市民の信仰高く広く天然痘悪病除災の厚く宗教された 
この咳治療守りは願かけ中は里芋のネバっこい液が痰に悪い症状をもたらすと禁断にされてまじない祈願の時は神前に供へるので芋稲荷の凡稱で呼ばれて居りました。
百日咳風邪は季節を問はず発生流行し体熱高く痰多く万病の元とまで云はれました病でビールス菌が散りとび感染が広がる多勢の人を悩ます流行病であり幸い医術薬学の進歩にて悪質病は治封されました事、古代人のまじない秘法暗鬼の心も信神の心の支へと神札を懐中し守護御安泰ならん事を祈り上げます」
※なお、道灌が九江戸城内に稲荷神社を築いたとされるのは1457年ということですので、それより530年足すと、
この文書は今から24年前の1987年の頃のものと推定できます。」

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<淡路坂>

 聖橋南詰から昌平橋までの坂。一口(いもあらい)坂とも呼ばれました。

(標柱)
「淡路坂
 江戸時代、坂の上には鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられました。また、屋敷の道をはさんだ向かい側には太田姫稲荷がありましたが、別名の一口稲荷にちなんで一口坂とも呼ばれていました。」

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「江戸切絵図 駿河台小川町絵図」

 「アワジザカ」「太田姫稲荷」が画かれています。

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「神田川夕景」(小林清親)

 神田川下流から上流を眺めたところです。右手に昌平坂と湯島聖堂の塀、左手に淡路坂と坂上に大木が見えます。

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「神田川駿河臺」(井上安治)

 同じ構図の井上安治の作品です。

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○麹町太田姫稲荷神社 千代田区麹町1-5-4

 太田姫稲荷神社が麹町にもあるので寄りました。

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(説明板)
「麹町 太田姫稲荷神社 縁起
 当神社は、駿河台太田姫稲荷神社の分社と思われますが両社の伝説も共通のものがありますので左記に記します。
 伝説によれば、室町時代太田道灌の姫が当時大流行した天然痘を病み、薬石効なく一日一日と悪化の道をたどりつつあったとき、友人に「山城国一口の里にある稲荷神社に祈願しなさい。どんな思い天然痘でも忽ち平癒するから」と言われ、道灌は早速同神社に参詣祈願、帰国すると姫の病は忽ち平癒した。江戸築城のとき道灌は崇敬、感謝の念で一口稲荷を伏見より勧請、江戸城内にお祀りした。時は長禄元年(一四五七年)の頃であったと言われます。
 後、徳川家康・江戸入府、慶長十一年(一六○六年)江戸城改築の際、城内にあった神社、仏閣を城外に移したが、太田姫稲荷神社も駿河台の淡路坂(一口坂=いもあらいざか)上に遷座され、その後変遷を経て現在の地に鎮座しております。
 一口坂は「いもあらい坂」と言われており、九段の一口坂、神田一口坂、昌平橋(いもあらいばし)などがあります。いもあらい(一口)の意味は、当時天然痘を「いもがさ又はへも」とも呼ばれたので「天然痘を洗い流して直す」からきたものと解釈されています。
 現今は、病気平癒、商売繁盛の神として崇敬されております。
   平成六年五月二十日 祭祀再開二十年を記念して建之 麹町『太田姫稲荷神社』」

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<麹町一丁目の由来>

 記載内容は、千代田区のサイトのこちらにも書かれています。

(説明板)
「千代田区町名由来板 麹町一丁目の由来
   作家・荒俣 宏
 麹町は、江戸城の西に位置した半蔵門から外堀四谷御門にいたる道筋、現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに誕生した町である。
 江戸時代には半蔵門の正面に麹町一丁目、以下、聖イグナチオ教会付近が十丁目となり、あとは四谷御門の外から新宿に向かい、十一丁目から十三丁目まであった。江戸城の守りとなるこのあたりは、半蔵門から見て右手に番町の旗本屋敷、左手に但馬豊岡藩(兵庫)京極家や播磨明石藩松平家、近江彦根藩井伊家などの大名屋敷があった。その中央をつらぬくように走る麹町の通りは、四ツ谷)、内藤新宿を経由して甲州路につながり、沿道には武家屋敷の御用を調達する商家が並んでいた。江戸の町屋ではもっとも古い地区の一つで、幕府の麹御用を勤めた麹屋三四郎が一丁目の堀端に住んだことから「麹町」の名が起こったといわれている。ほかに竹屋、魚屋、西瓜屋、乗物屋、太物(綿・麻布)屋など有力な店もあって、日本橋の商家に対抗する勢力を誇ったといわれる。
 しかし麹町の由来はさらに古く、上古にあっては豊島宿(のち江戸宿)から府中の国府を往来する国府街道の、江戸における出入口であった。すなわち国府路の町であった。よって、元来は「国府路町(こうじまち)」であったとする説も有力で、徳川時代に入り大名旗本の小路となったことから「小路町(こうじまち)」となり、元禄年間(1688年?1704年)に麹屋をはじめ、呉服商の岩城枡屋などの有力な商屋の繁栄を見るようになってから、「麹」が当てられたと考えられる。
 かつて国府に行く道の始点であったことと、半蔵門から江戸城内を通って竹橋に抜ける通路(代官町通り)の出入口でもあったことから警護も厳しく、幕末に「桜田門外の変」が起きた際には半蔵門竹橋間は一般の往来も禁止された。明治維新後、多くの大店は大名旗本の没落と運命をともにした。
 明治二年(1869)に東京府が五十番組に区分され、麹町一丁目は第二十三番組に所属し、明治四年(1871)に大区小区に再区分されて第三大区第二小区の一部となった。次いで明治十一年(1878)に十五区制となり「麹町区」として分立した。さらに太平洋戦争後、昭和二十二年(1947)に隣接の神田区と統合し、千代田区内の町となり現在に至っている。
 麹町は武家地と町人地とが隣り合う江戸の中枢であった。その性格は今も継承され、国会、官庁、裁判所、大使館、そして皇居に囲まれた商業地として、賑やかだが品格のある町並みを回復した。政治・文化・商業のミックスされた、ユニークな町である。内堀沿いの風景も美しい。いつまでもこの景観が保たれることを願う。」

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