別れの橋跡・見送り坂と見返り坂

○別れの橋跡・見送り坂と見返り坂 文京区本郷4-37

 菊坂通りの入口近く、本郷通りに面した歩道に説明板「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂」が設置されています。太田道灌の頃、ここは領地の境目で、江戸を追放される者が「別れの橋」で放たれました。橋から南側の坂を「見送り坂」、北側の坂を「見返り坂」といいました。

 『本郷も かねやすまでは 江戸のうち』
 江戸時代に兼康祐悦が売り出した乳香散(歯磨き粉)が流行した「かねやす」は本郷3丁目交差点にありました(閉店)。

(説明板)
「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂  本郷4-37先本郷通り
 「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・太田道灌(1742〜86)の頃罪人など此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた。『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
 今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。
  文京区教育委員会 昭和59年3月」

DSCN1175_20231015004745521.jpg

DSCN1176_202310150047480b6.jpg


「東京市及接続郡部地籍地図」(東京市区調査会 大正1年)

 大正元年に東京市が発行した地図から、「別れの橋跡」「見送り坂」「見返り坂」部分の抜粋です。

mapkikusaka1.jpg

 大正元年に東京市が発行した地図から、「本郷四丁目」及び「菊坂町」の2つの地図を合成した「東大下水(菊坂支流)」の抜粋です。
 加賀藩上屋敷から流れ出た「東大下水(菊坂支流)」は、見送り坂と見返り坂の間を「別れの橋」下で横切り、菊坂の二の谷を流れ下っていました。別れの橋は見当たりませんが、菊坂の南側に沿った流れが、現在の菊坂下道に続いています。

mapkikusaka_2023101500475146b.jpg


<菊坂下道> 文京区本郷4丁目

 旧川筋です。

DSCN7311_2023101423441207e.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 本郷中山道太田道灌

本妙寺跡 本郷菊富士ホテル跡

○本妙寺坂 文京区本郷4丁目

 本妙寺は巣鴨に移転していますが、本妙寺坂にその名をとどめています。
 本郷台地から菊坂へ下っている坂が本妙寺坂です。菊坂からはかつて本妙寺のあった本郷丸山へ上っていく坂があります。

DSCN1209_20231015000610ab9.jpg

DSCN1210_20231015000613e9d.jpg

DSCN1242_2023101500061688b.jpg


<菊坂界隈文人マップ>  文京区本郷4-8-3

 本妙寺坂にある男女平等センター前に、「菊坂界隈文人マップ」(文教育教育委員会 平成17年3月)が掲示されています。

DSCN1243_20231015002301d5d.jpg

DSCN1245_202310150023038f4.jpg


<真砂遺跡>  文京区本郷4-8-3

 同じ場所に掲示されている「真砂遺跡」です。

(説明板)
「真砂遺跡  本郷4-8-3
 “文京区男女平等センター”の建っているこの地に、江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、そして幕末まで上田(長野県)藩主・松平氏の中屋敷があった。
 現在の建物を建築するにあたり、昭和59年に発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物を検出し、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料を得ることができた。この遺跡をもとの町名にちなんで「真砂遺跡」と命名した。
 出土品で最も多かったのは、生活用具としての陶磁器であったが、文京区内では非常に珍しい1万8千年位前に使われたと思われる黒曜石の矢じり、18世紀にオランダでつくられた土製のクレイパイプなどが発見された。遺構としては、火災の時の荷物の避難場所、あるいは酒やみその発酵場所と考えられる40に及ぶ地下室、千川上水を引き込んだ上水道遺跡等が発掘され、多大な成果を収めた。
  東京都文京区教育委員会 平成元年3月」

DSCN1249_2023101500230582f.jpg


○本妙寺跡と明暦の大火など 文京区本郷5-18-2プラウド本郷前

 菊坂から本妙寺跡に続くプラウド本郷前の坂道に、二基の説明板が建てられています。

DSCN1212_20231015003202620.jpg

DSCN1211_20231015003203804.jpg

<本妙寺跡と明暦の大火>

(説明板)
「本妙寺跡と明暦の大火  文京区本郷5-16あたり
 本妙寺(現在豊島区巣鴨5-35-6)は旧菊坂82番地(現本郷5-16)の台地一帯にあった法華宗の大寺院であった。寺伝によれば寛永13年(1636)にこの地に移ってきた。
 境内には北町奉行“遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓所があった。
 明暦3年(1657)の大火“振袖火事"の火元とされているが原因には諸説がある。この大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷なとが多く移転してきて、漸次発展することとなった。
 私立女子美術学校菊坂校舎跡
 この地に、明治42年(1909)佐藤志津校長らの尽力により、私立女子美術学校【現女子美術大学・同短期大学:創立明治33年(1900)本郷弓町】・佐藤高等女学校【現同大学付属高等学校・中学校:創立大正4年(1915)】の菊坂校舎が建設された。特に女子を対象とした美術教育の専門学校として、画期的な役割を果たしたが、さらに大規模な校地を求め、昭和10年(1935)現杉並区和田へ移転した。
  文京区教育委員会  平成12年3月」

DSCN1214_202310150032041b5.jpg

「江戸切絵図」

 本妙寺部分の抜粋です。

kiriezukikusaka.jpg

<公立小学校のさきがけ>

(説明板)
「公立小学校のさきがけ
 第四(本妙寺)校跡  本郷5-16・17
 明治5年(1872)、近代教育制度の基となる「学制」が決められた。それに先立ち東京府は、明治3年(1870)6月、市内に六つの小学校を開設した。
 最初の公立小学校である。そのうちの1校が、この地(旧本郷丸山)にあった「本妙寺」に置かれた「第四校」である。
 この小学校は、中学に進み専門学科を学ぶ者のために普通学を授けた。そのため程度も高く、主に漢籍を教授した。
 開校当時の生徒数は不詳であるが、職員は7名であった。
 翌4年(1871)12月、文部省直轄の「共立学校」となり、近くの麟祥院(旧龍岡町)境内に移った。今日の湯島小学校の前身である。
  東京都文京区教育委員会 平成元年11月」

DSCN1215_20231015003207f22.jpg

 (参考)現在の本妙寺については、こちらで記載


○近代文学発祥の地本郷 文京区本郷5-18-2プラウド本郷

 マンションの柱にプレート「近代文学発祥の地 本郷」が掲げられ、他4枚の銅板プレートが設置されています。

DSCN1241_20231015003607389.jpg

DSCN1216_20231015003609373.jpg

DSCN1224_20231015003610e70.jpg

(プレート文)
 「近代文学発祥の地本郷
  近隣に住んだ人々
  樋口一葉  宇野浩二
  石川啄木  広津和郎
  坪内逍遥  伊藤野枝
  徳田秋声  高田保
  宮沢賢治  宇野千代
  二葉亭四迷 尾崎士郎
  竹久夢二  宮本百合子
  大杉栄   石川淳
  谷崎潤一郎 月形竜之介
  直木三十五 坂口安吾 他」

DSCN1219_20231015003710c48.jpg
     
 「生きのびて又夏草の目に沁みる 秋声」
DSCN1223_20231015003815a98.jpg

 「文学は藝術である 逍遥」 
DSCN1216b.jpg

 「東海の小島の磯の白砂に
   われ泣きぬれて
    蟹とたわむる 啄木」
DSCN1221_202310140515339d3.jpg

 「蔵のうちに はるかくれ行
         ころもがえ 一葉」
DSCN1220_2023101500402247f.jpg


○本郷菊富士ホテルの跡 文京区本郷5-5-17

 坂を北へ上り詰めた左手の小路へ入った突き当り左手に、「本郷菊富士ホテルの跡」の碑があります。

(碑文)
「本郷菊富士ホテルの跡
   昭和五十二年八月吉日
     羽根田富士雄
     羽根田 孝夫
     羽根田 武夫」

「由来
 明治三十年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助菊江の両親が此の地に下宿菊富士楼を開業し大正三年五層楼を新築菊富士ホテルと改名し営業を続けたが昭和二十年三月十日第二次大戦の戦災に依り五十年の歴史を閉じた此の間菊富士ホテルに止宿した内外の文学芸術思想医科学政治経済各界に亘り多くの逸材を輩出近代日本の歩みに曙光を放ちその名を今日に及ぶ この菊富士ホテルの名を永く記念する」

「主な止宿者
石川淳 宇野浩二 宇野千代 尾崎士郎 坂口安吾 高田保 谷崎潤一郎 直木三十五 広津和郎 正宗白鳥 真山青果 竹久夢二 三木清 中條百合子 湯浅芳子 大杉栄 福本和夫 伊藤野枝 三宅周太郎 兼常清佐 菅谷北斗星 下村海南 青木一男 小原直 月形龍之介 片岡我童 石井漠 伊藤大輔 溝口健二 高柳健次郎 エドモンド・ブランデン セルゲイ・エリセーエフ  敬称略順不同」

DSCN1227_20231015004205579.jpg

DSCN1231_20231015004208c0f.jpg

DSCN1229_20231015004208cfc.jpg
    
<菊坂通りプレート> 文京区本郷5-1

(プレート文)
「本郷菊富士ホテル  大正三年より昭和十九年
 この坂を下って二百米ほど先、右側の坂を上り詰めた辺りにあったこのホテルは大正三年に上野公園で開催された博覧会に来日する外国人を目当てに建てられて、博覧会終了後は何時の間にか高級下宿に変身ひとかどの人物が次々と宿泊した。終業までの三十年間にここを仕事場としていた人達には谷崎潤一郎、竹久夢二、尾崎士郎、直木三十五、宇野浩二、三木清、大杉栄、坂口安吾、宮本百合子、高田保、広津和郎、宇野千代、石川淳等々枚挙にいとまがない。おそらくのこ辺りを彼らが闊歩していた事であろう。日本の近代文学を語る上で忘れてはならない場所である。」

DSCN1255_2023101500455008b.jpg

(プレート文)
「当地ゆかりの文人たち
 谷崎潤一郎 明治一九年~昭和四十年 菊富士ホテルに止宿
 明治四四年永井荷風に激賞され二六歳で作家としての地位を確立。大正八年ごろから本郷菊富士ホテルを仕事場にしていた。やがて潤一郎の千代子夫人に対する一方的なわがまま行為に同情した友人の佐藤春夫と夫人は結婚することとなる。この時期夫人の妹に対する恋愛も含めて彼の心は苦悩の嵐であった。主な作品は刺青、痴人の愛、蓼食う虫、春琴抄、細雪、少将慈幹の母、鍵、など女性崇拝的な独特の世界を築いている。」

DSCN1261_202310142351465e1.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 本郷谷崎潤一郎

本郷ゆかりの文人達 菊坂通り

○菊坂通り 文京区本郷4丁目・5丁目

 本郷通りと春日通りが交わる「本郷三丁目」交差点から本郷通りを東大赤門の方へ70mほど進むと、「菊坂通り」が北西へ延びています。本郷四丁目と本郷五丁目の境を下り、言問通りとの交差点「菊坂下」へと至ります。

 本郷通り側
DSCN7310_202310142341296e0.jpg

 長泉寺の参道手前
DSCN1285_20231014234134285.jpg

 旧伊勢屋質店前
DSCN7331_20231014234132c77.jpg

 菊坂下 
DSCN7821_2023101423413238e.jpg


<菊坂> 文京区本郷5-6 説明板

 菊坂に面した長泉寺の参道入口右手に説明板「菊坂」が設置されています。

(説明板)
「菊坂  本郷四丁目と五丁目の間
 「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。
 今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
 また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。
  寝ざめせしよはの枕に音たてて なみだもよほす初時雨かな
                     樋口夏子(一葉)
  文京区教育委員会 平成11年3月」

DSCN1284_20231014234402d97.jpg

DSCN1282_20231014234404249.jpg


<旧町名案内旧菊坂町> 文京区本郷5-6 説明板

 菊坂に面した長泉寺の参道入口左手に「旧町名案内旧菊坂町」があります。

「旧町名案内
 旧 菊坂町(昭和40年までの町名)
 この辺一帯に菊畑があり、菊の花を作る人が多く住んでいた。それで坂を菊坂、坂上の方を菊坂台町、坂下の方を菊坂町と名づけたという。
 寛永5年(1628)中間方の拝領地となり、その後町屋を開いたが、その時期は元禄9年(1696)ころといわれる。
 台地上に振袖火事(明暦大火とも、1657)の火元で有名な本妙寺があった。寺内の墓地に、“遠山の金さん”(遠山景元)の墓があった。明治43年寺は巣鴨へ移った。
 坂下通りには、“たけくらべ”の作家樋口一葉が、父の死後18歳で母と妹の3人で、移り住んだ旧居跡がある。針仕事や洗張りで生計を立て、厳しい勉学に励み、小説を書き始めた。使った掘抜井戸がいまも残っている。  文京区」

DSCN1281_20231014234408b49.jpg


<本郷文学散歩> 文京区本郷5-1

 「菊坂通り」にある「本郷文学散歩」です。

DSCN1257_2023101423440894e.jpg

DSCN1258_202310142344095d4.jpg


「文の京 一葉文学のまち 文京区本郷5-1
  文京区観光協会 文京区 平成16年11月」

 「菊坂通り」に樋口一葉の紹介パネルがあります。

DSCN1180_20231014234759614.jpg

DSCN1178_202310142348028ab.jpg

DSCN1179_20231014234802e84.jpg

    
<当地ゆかりの文人達> 文京区本郷4丁目・5丁目

 菊坂通りの街灯には、「当地ゆかりの文人達」の紹介プレートが掲げられています。

【菊坂通り北側】 文京区本郷5丁目
 樋口一葉  明治 5年-明治29年
DSCN1260_202310142351449c7.jpg

 谷崎潤一郎 明治19年-昭和40年
DSCN1261_202310142351465e1.jpg

 宮沢賢治  明治29年-昭和 8年
DSCN1264_20231014235150809.jpg

 菊池寛   明治24年-昭和23年(※掲示の「菊地」は誤謬)
DSCN1266_20231014235248e58.jpg

 石川啄木  明治19年-明治45年
DSCN1269_20231014235252a0e.jpg

 夏目漱石  慶応 3年-大正 5年
DSCN1273_2023101423525291e.jpg

 芥川竜之介 明治25年-昭和 2年
DSCN1274_20231014235254716.jpg

 正岡子規  慶応 3年-明治35年
DSCN1277_2023101423532097c.jpg

 竹久夢二  明治17年-昭和 9年
DSCN1254_20231014235714724.jpg

 宇野浩二  明治24年-昭和36年
DSCN1251_20231014235717a88.jpg

【菊坂通南側】 文京区本郷4丁目
 宇野千代  明治30年-平成 8年
DSCN1182_20231014235822e89.jpg

 広津和郎  明治14年-昭和43年
DSCN1183_20231014235824bdc.jpg

 真山青果  明治11年-昭和23年
DSCN1186_2023101423582402b.jpg

 坪内逍遥  安政 6年-昭和10年
DSCN1187_20231014235926769.jpg

 大杉栄   明治18年-大正15年
DSCN1190_20231014235929581.jpg

 坂口安伍  明治39年-昭和30年
DSCN1191_20231014235929d2f.jpg

 佐藤春夫  明治25年-昭和39年
 プレート文
「当地ゆかりの文人達
 佐藤春夫 明治二五年~昭和三九年 菊富士ホテル滞在の谷崎潤一郎をしばしば訪問
中学時代から文学を好み荷風を慕って慶応に入る。古風なスタイルの中に近代的知性をしのばせる豊かな抒情詩で注目を集めた。谷崎潤一郎の夫人と結婚後次第に古典への関心を深めた。主な作品は西班牙犬の家、田園の憂鬱、晶子曼陀羅、都会の憂鬱など。」
DSCN1194_2023101500010804e.jpg

 若山牧水  明治18年-昭和 3年
DSCN1195_20231015000111da5.jpg

 石川淳   明治32年-昭和62年
DSCN1198_20231015000111924.jpg

 久米正雄  明治24年-昭和27年
DSCN1199_20231015000219de7.jpg

 直木三十五 明治24年-昭和 9年
DSCN1202_202310150002229de.jpg

 宮本百合子 明治32年-昭和26年
DSCN1203_2023101500022420b.jpg

 尾崎士郎  明治31年-昭和39年
DSCN1206_20231015000228348.jpg

 徳田秋声  明治 4年-昭和18年
DSCN1207_20231015000228e14.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 本郷樋口一葉石川啄木若山牧水谷崎潤一郎佐藤春夫菊池寛正岡子規

昌平橋(神田川)

○昌平橋 千代田区外神田1丁目・2丁目〜神田淡路町2丁目・神田須田町1丁目

 橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷があり、一口橋と呼ばれました。元禄4(1691)年、5代将軍綱吉の命で孔子廟が設けられてからは、昌平橋と呼ばれました。昌平橋の下流の「筋違橋」とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されていました。

DSCN2178_20220221000604483.jpg

DSCN2182_20220221000605610.jpg

DSCN2186_202202210006075f2.jpg

DSCN2183_20220221001241a37.jpg

 神田川上流

DSCN2185_20220221000610938.jpg

DSCN2184_20220221000611cd5.jpg

 神田川下流(万世橋)

DSCN2179_20220221000613a56.jpg


<昌平橋>

(説明板) 千代田区外神田1-1-1
「昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、1624〜44年(寛永年間)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一口橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、1691(元禄4年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。
 少し下流にあった筋違門とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。
(「絵本江戸土産」昌平橋を掲示)
  千代田区」

DSCN2176_20220221001504143.jpg

DSCN2177_20220221001506c0e.jpg


「江戸切絵図 駿河台小川町絵図」

 「アワジザカ」「太田姫稲荷」が描かれています。
 ※ 一口(いもあらい)神社(太田姫稲荷)については、こちらで記載済

edokiriekanda.jpg


「江戸名所図会 筋違八ツ小路」

 八つ小路、中山道、筋違橋、昌平橋がまとめて描かれています。

yatukojiichiran.jpg


「名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川」(広重)

 神田川の下流から描かれています。

seidou.jpg


「絵本江戸土産 昌平橋聖堂」(広重)

 神田川の上流から描かれています。

seidouehon.jpg


「江戸名勝図会 昌平橋」(二代広重)

 神田川の上流から描かれています。

edomeisyoshyouheibashi_20220221002108a58.jpg


「明治初年の神田昌平橋」(実写奠都五十年史 大正6年)

 江戸時代の木造の昌平橋の写真がありました。

 (写真コメント)
 「旧江戸城外郭の一部にして遠く見ゆるは駿河台なり明治初年廃せらる」

syouheibashimeiji.jpg


○千代田区町名由来板 神田旅籠町 千代田区外神田1-1-1 千代田区立昌平橋東橋詰広場

<神田旅籠町 >

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田旅籠町
 この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。
 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
 しかし、天和二年(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。
 さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば、嘉永(1848〜1854)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。」

DSCN2180_2022022100211103d.jpg

DSCN2180b_202202210021123dd.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 江戸名所図会歌川広重中山道神田川神田日光御成道千代田区町名由来

白山神社/白山富士

○白山神社 文京区白山5-31-26

「創開は古く、天暦年間(947~957)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。
 後に元和年間(1615~1624)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、その後五代将軍職につく前の館林候綱吉の屋敷の造営のため、明暦元年(1655)現在地に再度移った。この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。」(文京区HPより引用)
 東京十社のひとつです。


<参道>

 拝殿の横に至る鳥居のある参道と、拝殿の正面に至る参道があります。

DSCN6221_202109092310040b2.jpg

DSCN6222_20210909231005fed.jpg

DSCN6230.jpg


<白山神社由緒/手水鉢/金色の目の狛犬>

DSCN6226_20210909231009238.jpg

DSCN6225_202109092310106a2.jpg

DSCN6245_2021090923101237f.jpg

DSCN6246.jpg


<拝殿/本殿/社務所>

DSCN6243_20210909231540208.jpg

DSCN6776_20210909231542ded.jpg

DSCN6244_20210909231543a41.jpg

DSCN6248_202109092315457b1.jpg

DSCN6247_2021090923154600d.jpg

DSCN6256_20210909231548a13.jpg

DSCN6224_2021090923154905e.jpg


<孫文先生座石の碑>

 明治43(1910)年5月中旬、白山神社近くの宮崎滔天氏宅に寄遇していた孫文は、滔天氏と神社境内の石に腰掛け語り合っていた時、夜空に一条の流星を見て、祖国の革命を心に誓ったとのこと。
 このことを後世に伝えるべく、昭和58(1983)年6月に座石の記念碑が建立されました。

 「腰掛けの石」は、どこですかね、台石の上段?それとも境内のどれかの石?
 碑文では言及されていませんが、両人が見た流星は、時期的にハレー聾星ではないかと考えられています。

DSCN6771_20210909231811785.jpg

DSCN6223_20210909231812ce2.jpg

DSCN6779_20210909231813ba1.jpg

(碑文)
「由緒
 昭和四十三年度総代会に於ける宮総代秋本平十郎及浦部武夫両氏の談話の中に白山神社境内には中国の政治家孫文先生と宮崎滔天寅蔵氏の腰掛けられた石があるとの御話がありました依而昭和四十四年度の総代会に故滔天氏の御子息宮崎龍介氏を御招きし其の当時の事をお伺ひ致した処明治四十三年五月中旬の一夜孫文先生は滔天氏と共に境内の此の石に腰掛けながら中国の将来及其の経綸について幾多の抱負を語り合わされて居た折たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見られ此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふお話をなされました
 宮崎滔天全集の中に孫文先生は当神社に程近ひ小石川原町の滔天氏宅に寄寓せられて居た事が記るされております
 此の歴史上の事実と当社との因縁を後世に伝うべく兼ねてより総代会にて屡々議題に上りましたが此の度宮総代酒井瀧蔵氏の御発案を契機として神社総代各町会総代有志の心からの賛同の結果、此の腰掛石の記念碑建立の運びと成り之を永代史跡として残す事に成った次第であります。
  昭和五十八年六月一日  白山神社宮司 清水司」

DSCN6778_20210909231815ee7.jpg

DSCN6780.jpg


<関東松尾神社>

 本殿の左隣にあるのが「関東松尾神社」。酒造の神が祀られており、左手に酒樽が多く奉納されています。

DSCN6240_202109092320213b8.jpg

DSCN6242_20210909232023fd8.jpg


<福受稲荷神社>

 社務所の脇に「福受稲荷神社」。富士塚の講碑が近くに2基あります。

DSCN6772_20210909232325925.jpg

DSCN6773_20210909232326fc6.jpg


<合祀社>

 富士浅間社・稲荷社・三峯社・玉津島社・天満天神社・山王社・住吉社

DSCN6237_20210909232328b00.jpg


<火消し「万組」奉納>

 合祀社の参道に火消し「万組」奉納の石物。手水鉢ですかね。手が届かない場所に乗っています。

DSCN6239_20210909232550c16.jpg

DSCN6777_20210909232551b5a.jpg


<無神の祠?>

DSCN6236_202109092325527c6.jpg

DSCN6238.jpg


<八幡神社>

 祭神は八幡太郎義家公。

DSCN6233_20210909232755918.jpg

DSCN6232_202109092327564cb.jpg

DSCN6234_202109092327575c8.jpg

DSCN6235_20210909232759c64.jpg


<御神木「旗桜」/旗桜記碑>

 明治29(1896)年に旗桜記碑が建てられています。昭和10(1935)年に国の天然記念物に指定されましたが2年後に枯れています。現在は後継樹。

(八幡神社由縁より抜粋)
「御神木 旗桜
 この桜木は旗桜と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり、花の真に旗の形なる花弁ある名花なり。」

 白山神社は、本郷→小石川→白山と江戸時代初期に二度遍座しており、その度に古木を移植できたとするのは非現実的かと思います。また江戸時代に2度全焼しています。
  
DSCN6228.jpg


「絵本狂歌山満多山 旗桜」(大原亭炭方 葛飾北斎画 享和4(1804)年)

  旗桜が描かれています。

hatazakura.jpg


○白山富士

 社殿に向かって左の白山公園への通路を進み白山公園の中を通るか、社殿右側の通路を進むと、右手に富士塚があります。6月のあじさい祭りの期間に開放されます。

DSCN6249_20210909233446c60.jpg

DSCN6255_20210909233447ba4.jpg

DSCN6254_20210909233449220.jpg

DSCN6253_2021090923345195b.jpg

DSCN6250_202109092334527d0.jpg

DSCN6251_202109092334543a4.jpg

DSCN6252_20210909233455fe0.jpg


<富士講の石碑>

 社務所の東側に講碑が2基あります。

 ・文政5(1822)年銘の講碑

DSCN6775_202109092336237b8.jpg

 ・山水講(木更津)の講碑

DSCN6774_20210909233624681.jpg


「江戸名所図会 小石川白山権現社」

 現在の駐車場の場所に「旗桜」が描かれています。

hakusangongen.jpg

hatazakurameisyo.jpg


<江戸切絵図>

 白山権現の裏手に富士が描かれています。
 社前には「八幡太郎ハタカケサクラ」の記載と桜が見えます。

toutokomagome.jpg


<江戸高名会亭尽 白山傾城か窪>(広重)

 「狂句合 玉子の厚焼き 大鉢へ数万金 扇枩」
 「即席御料理」と書かれた腰高障子と「万金」「まんきん」と染められたのれんが料亭にかかっています。画面右に高札場が見えます。中山道沿いの料理屋「万金」の繁盛ぶりと、街道の賑わいが描かれています。

hakusan_20210921020212160.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 江戸名所図会歌川広重葛飾北斎富士塚源義家孫文東京十社腰掛け石・松

カウンター
プロフィール

ほっと湯Web

Author:ほっと湯Web

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
04 | 2024/05 | 06
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
検索フォーム
リンク
カテゴリ
タグリスト

全記事タイトル表示

全ての記事を表示する

Japanese→English
English
♥. ♠. ♣Alice
QRコード
QR