東福寺
○東福寺 豊島区南大塚1-26-10
<すがも史跡まっぷ(抜粋)>
東福寺周辺部分の抜粋です。巣鴨村に大塚駅が設けられ、巣鴨の中心地だった巣鴨本村は、現在は、大塚駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となっています。

<江戸切絵図>
「東福寺」とその周辺です。「大塚波切不動ヨリ巣鴨庚申塚ヘ行道へ出ル」の記載があります。

巣鴨庚申塚には「大塚波切不動道」と記されています。

<大塚三業通り>
大塚三業通りに「東福寺 日本文化会館」の大きな案内板があります。


電柱名にも「三業」の名前が残っています。

東福寺の石段上の山門から三業通り方向を見たところです。

【石段両脇】
石段の両脇に石碑が並んでいます。


<札所碑>
(正面)
「第六十四番
御府内八十八ヶ所 弘法大師霊場
東福寺」
(現在、御府内64番は台東区谷中の「加納院」となっています。)

(左側面)
「三十三番 真性寺
明治三十五年三月吉日」

(右側面)
「右 八十七番 護国寺」

<庚申塔道標>
(正面)
「(庚申/剥離)塔
右 大塚道
向 巣鴨監獄道
左 巣鴨庚申塚道」

「歩いて見ました東京の街」に掲載されている庚申塔道標の写真は損壊しておらず庚申塔の文字が読み取れます。東日本大震災で倒壊して損壊したのでしょうか?
「巣鴨監獄」の名称が道標に残っています。
「巣鴨庚申塚道」は、江戸切絵図では「大塚波切不動道」と記されています。

(左側面)
「東福寺道」

(右側面)
「明治三捨七年七月建之」

<疫牛供養塔>
明治中期から終戦まで、巣鴨には多くの牧場がありました。明治43(1910)年に牛乳搾取業組合巣鴨支部による建立です。
「明治四十三年七月十六日
疫牛供養塔
牛乳搾取業組合巣鴨支部志之」

<その他>



<山門脇の説明板>
山門脇に豊島区教育委員会の説明板があります。
(説明板)
「東福寺
真言宗豊山派に属し、観光山と号す。創建の年代は明らかでないが、永禄五年(一五六二)に良賢和尚が中興したと伝えられている。初め小石川大塚にあったが、元禄四年(一六九一)に当地へ移ってきた。本尊は十一面観世音菩薩であり、ほかに薬師如来がある。
山門前石段の左右には、道標の役割をも兼ねる明治三十七年庚申塔、明治四十三年の疫牛供養塔などがあり、境内には山門脇に十羅刹女神を祀る堂がある。これは江戸時代、現在の天祖神社の地に祀られ、巣鴨の総鎮守であった。しかし、明治の神仏分離令によって十羅刹女神は福蔵寺の所有となり、その後、福蔵寺が火災で焼失し東福寺に合併したので、東福寺のものとなった。これは昭和三十年まで天祖神社に隣接した場所に置かれていたが、同年東福寺の境内に移された。
墓地には守山藩(陸奥田村郡)の儒学者戸崎淡園の墓があり、甲冑帯刀した武士が床几に腰をおろした像を刻んだ遅塚九二八の碑もある。
昭和五十七年一月 東京都豊島区教育委員会」


【参道】
山門は閉じられているので、脇の参道から境内へ向かいます。途中、日本文化会館があります。




<二宮金次郎像など>
石段の右手に二宮金次郎像があります。

左手に何だかわからない石造物があります。

他寄付石碑など。

<弘法大師修行像>


<奉献石燈籠>
大塚(巣鴨本村)に地主として住んでいた山口家による令和3(2021)年に寄進された奉献石燈籠です。
最樹院殿は、一橋徳川家第二代当主の徳川治済です。八代将軍徳川吉宗の孫で、十一代将軍徳川家斉の実父に当たります。
「奉献石燈籠両座
武州東叡山
最樹院殿 尊前
文政十丁亥年二月廿日
濱松侍従水野越前守源忠邦」




(説明板)
「この灯籠は最樹院(一橋徳川家二代治済公)の為に、文政十年(一八二七)、浜松藩主水野忠邦が献上した灯籠である。
(途中略)
令和三年吉日 山口家」
寛永寺は、戦後、寛永寺再建寄付の返礼などで、奉献石燈籠を寺院や個人に払い下げているので、山口家は寛永寺の再建にも協力したのでしょうね。当寺では、十羅刹女奉安殿を建立しています。

浜松藩主水野忠邦は、石燈籠を二基奉献しており、もう一基が延命寺(足立区竹の塚)にあります(こちらで記載) 。


<本堂>



<宝篋印塔>

<百度石道>
百度石は多く見ましたが、百度石道は初見です。参道の敷石でしょうか。



<しあわせ地蔵尊>
平成3(1991)年4月の建立です。



<十羅刹女堂>
十羅刹女堂は、江戸時代には神明社(現・大塚天祖神社)にありましたが、明治維新の神仏分離令により隣接する福蔵寺へと移され、福蔵寺が明治7(1874)年の火災で焼失したため、東福寺の管理となりました。福蔵寺の旧地に置かれていましたが、昭和30(1955)年に東福寺境内に移動、安置されました。


(発願文)
鬼子母神と十羅刹女神を祀る十羅刹女奉安殿は、発願主山口萬一、貴美子により昭和42(1967)年に建立されています。
山口氏は、大塚(巣鴨本村)の地主の山口家の十二代目当主で、十四代目が奉献石燈籠を寄進しています。

<石柱「旧鎮守十羅刹女神」>
文化2(1805)年の建立。
(正面) 「舊 鎮守十羅刹女神」
(左側面)「文化二乙丑年秋九月/八歳金太書」
(右側面)「別当瑠璃山福蔵寺」


<如意輪観音像>
左右に信女の文字があり、墓石のようです。

<鬼子母神と十羅刹女神>


「江戸名所図会 十羅刹女堂」
神明社(現在の大塚天祖神社)が十羅刹女堂として描かれています。右にあるのは別当の福蔵寺です。大根の収穫が細かく描かれています。

大根畑で大根を抜いている人と、収穫した大根を天秤担いで運んでいる人が見えます。

大根を洗っている人と、キセル煙草を吸って休憩している人が見えます。

馬に大根を載せて運んでいる人が見えます。

【墓地】
<馬頭観音>
馬頭観音供養塔が二基あります。右、万治元(1860)年と、左、大正6(1917)年銘です。

「馬頭観世菩薩」
「万延元庚申年」
「七月十四日」

「馬頭観世音」
「大正六年四月建之」
真っ二つに折れた修復跡があります。


<笠付角柱型庚申塔>
寛文11(1671)年銘の庚申塔です。
正面中央「如我昔所願今者已満足 右庚申供養二世安樂也」
正面右「寛文十一年辛亥二月中旬」

<廻国六十六部供養塔>
六地蔵と、正徳5(1715)年8月銘の廻国六十六部供養塔です。




<念仏供養塔>
寛保2(1742)年7月銘、寛政10(1798)年8月再建。




<すがも史跡まっぷ(抜粋)>
東福寺周辺部分の抜粋です。巣鴨村に大塚駅が設けられ、巣鴨の中心地だった巣鴨本村は、現在は、大塚駅をはさんで豊島区北大塚、南大塚となっています。

<江戸切絵図>
「東福寺」とその周辺です。「大塚波切不動ヨリ巣鴨庚申塚ヘ行道へ出ル」の記載があります。

巣鴨庚申塚には「大塚波切不動道」と記されています。

<大塚三業通り>
大塚三業通りに「東福寺 日本文化会館」の大きな案内板があります。


電柱名にも「三業」の名前が残っています。

東福寺の石段上の山門から三業通り方向を見たところです。

【石段両脇】
石段の両脇に石碑が並んでいます。


<札所碑>
(正面)
「第六十四番
御府内八十八ヶ所 弘法大師霊場
東福寺」
(現在、御府内64番は台東区谷中の「加納院」となっています。)

(左側面)
「三十三番 真性寺
明治三十五年三月吉日」

(右側面)
「右 八十七番 護国寺」

<庚申塔道標>
(正面)
「(庚申/剥離)塔
右 大塚道
向 巣鴨監獄道
左 巣鴨庚申塚道」

「歩いて見ました東京の街」に掲載されている庚申塔道標の写真は損壊しておらず庚申塔の文字が読み取れます。東日本大震災で倒壊して損壊したのでしょうか?
「巣鴨監獄」の名称が道標に残っています。
「巣鴨庚申塚道」は、江戸切絵図では「大塚波切不動道」と記されています。

(左側面)
「東福寺道」

(右側面)
「明治三捨七年七月建之」

<疫牛供養塔>
明治中期から終戦まで、巣鴨には多くの牧場がありました。明治43(1910)年に牛乳搾取業組合巣鴨支部による建立です。
「明治四十三年七月十六日
疫牛供養塔
牛乳搾取業組合巣鴨支部志之」

<その他>



<山門脇の説明板>
山門脇に豊島区教育委員会の説明板があります。
(説明板)
「東福寺
真言宗豊山派に属し、観光山と号す。創建の年代は明らかでないが、永禄五年(一五六二)に良賢和尚が中興したと伝えられている。初め小石川大塚にあったが、元禄四年(一六九一)に当地へ移ってきた。本尊は十一面観世音菩薩であり、ほかに薬師如来がある。
山門前石段の左右には、道標の役割をも兼ねる明治三十七年庚申塔、明治四十三年の疫牛供養塔などがあり、境内には山門脇に十羅刹女神を祀る堂がある。これは江戸時代、現在の天祖神社の地に祀られ、巣鴨の総鎮守であった。しかし、明治の神仏分離令によって十羅刹女神は福蔵寺の所有となり、その後、福蔵寺が火災で焼失し東福寺に合併したので、東福寺のものとなった。これは昭和三十年まで天祖神社に隣接した場所に置かれていたが、同年東福寺の境内に移された。
墓地には守山藩(陸奥田村郡)の儒学者戸崎淡園の墓があり、甲冑帯刀した武士が床几に腰をおろした像を刻んだ遅塚九二八の碑もある。
昭和五十七年一月 東京都豊島区教育委員会」


【参道】
山門は閉じられているので、脇の参道から境内へ向かいます。途中、日本文化会館があります。




<二宮金次郎像など>
石段の右手に二宮金次郎像があります。

左手に何だかわからない石造物があります。

他寄付石碑など。

<弘法大師修行像>


<奉献石燈籠>
大塚(巣鴨本村)に地主として住んでいた山口家による令和3(2021)年に寄進された奉献石燈籠です。
最樹院殿は、一橋徳川家第二代当主の徳川治済です。八代将軍徳川吉宗の孫で、十一代将軍徳川家斉の実父に当たります。
「奉献石燈籠両座
武州東叡山
最樹院殿 尊前
文政十丁亥年二月廿日
濱松侍従水野越前守源忠邦」




(説明板)
「この灯籠は最樹院(一橋徳川家二代治済公)の為に、文政十年(一八二七)、浜松藩主水野忠邦が献上した灯籠である。
(途中略)
令和三年吉日 山口家」
寛永寺は、戦後、寛永寺再建寄付の返礼などで、奉献石燈籠を寺院や個人に払い下げているので、山口家は寛永寺の再建にも協力したのでしょうね。当寺では、十羅刹女奉安殿を建立しています。

浜松藩主水野忠邦は、石燈籠を二基奉献しており、もう一基が延命寺(足立区竹の塚)にあります(こちらで記載) 。


<本堂>



<宝篋印塔>

<百度石道>
百度石は多く見ましたが、百度石道は初見です。参道の敷石でしょうか。



<しあわせ地蔵尊>
平成3(1991)年4月の建立です。



<十羅刹女堂>
十羅刹女堂は、江戸時代には神明社(現・大塚天祖神社)にありましたが、明治維新の神仏分離令により隣接する福蔵寺へと移され、福蔵寺が明治7(1874)年の火災で焼失したため、東福寺の管理となりました。福蔵寺の旧地に置かれていましたが、昭和30(1955)年に東福寺境内に移動、安置されました。


(発願文)
鬼子母神と十羅刹女神を祀る十羅刹女奉安殿は、発願主山口萬一、貴美子により昭和42(1967)年に建立されています。
山口氏は、大塚(巣鴨本村)の地主の山口家の十二代目当主で、十四代目が奉献石燈籠を寄進しています。

<石柱「旧鎮守十羅刹女神」>
文化2(1805)年の建立。
(正面) 「舊 鎮守十羅刹女神」
(左側面)「文化二乙丑年秋九月/八歳金太書」
(右側面)「別当瑠璃山福蔵寺」


<如意輪観音像>
左右に信女の文字があり、墓石のようです。

<鬼子母神と十羅刹女神>


「江戸名所図会 十羅刹女堂」
神明社(現在の大塚天祖神社)が十羅刹女堂として描かれています。右にあるのは別当の福蔵寺です。大根の収穫が細かく描かれています。

大根畑で大根を抜いている人と、収穫した大根を天秤担いで運んでいる人が見えます。

大根を洗っている人と、キセル煙草を吸って休憩している人が見えます。

馬に大根を載せて運んでいる人が見えます。

【墓地】
<馬頭観音>
馬頭観音供養塔が二基あります。右、万治元(1860)年と、左、大正6(1917)年銘です。

「馬頭観世菩薩」
「万延元庚申年」
「七月十四日」

「馬頭観世音」
「大正六年四月建之」
真っ二つに折れた修復跡があります。


<笠付角柱型庚申塔>
寛文11(1671)年銘の庚申塔です。
正面中央「如我昔所願今者已満足 右庚申供養二世安樂也」
正面右「寛文十一年辛亥二月中旬」

<廻国六十六部供養塔>
六地蔵と、正徳5(1715)年8月銘の廻国六十六部供養塔です。




<念仏供養塔>
寛保2(1742)年7月銘、寛政10(1798)年8月再建。




慈眼寺② 芥川家墓・谷崎家墓
【慈眼寺墓地】
慈眼寺墓地入口に案内板があります。
(案内板)
「慈眼寺
司馬江漢の墓(イ之九側)
江戸時代の画家
日本初の銅版画作成
斎藤鶴磯の墓(イ之七側)
江戸時代の儒者
各地を歩き名著「武蔵野話」を刊行
小林平八郎の墓(司馬江漢の墓右隣)
江戸時代の侍
演劇・映画「忠臣蔵」で有名な吉良方の侍
芥川龍之介の墓(ハ之三側)
大正時代から昭和初期の小説家 代表作「羅生門」「蜘蛛の糸」等がある
その業績を記念して芥川賞が創設された
谷崎潤一郎の墓(ハ之三側)
明治末期から昭和中期の小説家 代表作「刺青」「春琴抄」等がある
京都鹿ヶ谷法然寺に墓があり、菩提寺である当山に分骨
比翼塚(慈眼寺境内)
新内「明烏夢泡雪」のモデルとなった浦里(吉原の遊女の美吉野)
時次郎(札差伊勢屋の若旦那伊之助)の墓」


○芥川龍之介の墓
墓石は、芥川龍之介が愛用した座布団のサイズに合わせて石を切り出したものです。墓石の天辺には家紋の五七桐紋が彫られています。
夏目漱石の墓石は椅子で、芥川龍之介の墓石は座布団であることは、座るのが仕事である作家らしい墓石と思いました。








随筆『本所両国』(芥川龍之介)で、慈眼寺について言及しています。
「僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所の猿江にあつた僕の家の菩提寺を思ひ出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの夜に両刀を揮つて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張り小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりも寧ろ禿だつた。)この寺は――慈眼寺といふ日蓮宗の寺は震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめじめした猿江の墓地は未に僕の記憶に残つてゐる。就中薄い水苔のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。」(青空文庫より引用)
<芥川家之墓>
墓誌には「芥川也寸志」「芥川比呂志」の名前も刻まれています。


○谷崎潤一郎の墓
谷崎潤一郎は、かつての論争相手だった芥川龍之介も眠る慈眼寺の谷崎家代々墓地に分骨されています。「安楽寿院功誉文林徳潤居士」とあります。 最後に「妻松子誌」とあります。



○司馬江漢の墓(江漢司馬峻之墓) 東京都旧跡
司馬江漢は、江戸時代後期の洋風画家で蘭学者です。



(説明板)
「東京都指定旧跡
司馬江漢墓
所在地 豊島区巣鴨五の三七の一 慈眼寺墓地
指定 昭和五年六月二日
江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(一七四七)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽き足らず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(一七七○)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派の宋紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋風画の教えを受け、天明三年(一七八三)腐蝕銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(一八一八)十月二一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書には『西洋画談』『春波楼筆記』『和蘭通舶』などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。
平成五年三月三一日 建設 東京都教育委員会」

○小林平八郎の墓
小林平八郎は、「忠臣蔵」の吉良方の侍です。
「小林平八郎平央通霊廟」とあります。 慈眼寺での法名は「通玄院恵澄正脱玉円日融信士」



○斎藤鶴磯の墓 東京都旧跡
斎藤鶴磯は、江戸時代の儒者で、各地を歩き名著「武蔵野話」を刊行しました。


(説明板)
「東京都指定旧跡
斎藤鶴磯墓
所在地 豊島区巣鴨五の三五の三三 慈眼寺墓地内
標識 昭和五年六月二日
指定 昭和三○年三月二八日
斎藤鶴磯(一七五二ー一八二八)は、水戸藩士の子として江戸に生まれました。江戸時代中期の儒学者、地誌研究家として知られています。通称を宇八郎、名を敬夫といい、鶴磯は号になります。武蔵国所沢に住み、江戸時代の有名な地誌である「武蔵野話初編」を文化十二年(一八一五)に完成させ、翌年江戸に戻りました。他に「女孝経補注」や「干支考」などの著作も知られていま
す。文政十一年(一八二八)に亡くなり、本所猿江町の慈眼寺に葬られましたが、のちに寺の移転に戸もない改葬されました。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」
慈眼寺墓地入口に案内板があります。
(案内板)
「慈眼寺
司馬江漢の墓(イ之九側)
江戸時代の画家
日本初の銅版画作成
斎藤鶴磯の墓(イ之七側)
江戸時代の儒者
各地を歩き名著「武蔵野話」を刊行
小林平八郎の墓(司馬江漢の墓右隣)
江戸時代の侍
演劇・映画「忠臣蔵」で有名な吉良方の侍
芥川龍之介の墓(ハ之三側)
大正時代から昭和初期の小説家 代表作「羅生門」「蜘蛛の糸」等がある
その業績を記念して芥川賞が創設された
谷崎潤一郎の墓(ハ之三側)
明治末期から昭和中期の小説家 代表作「刺青」「春琴抄」等がある
京都鹿ヶ谷法然寺に墓があり、菩提寺である当山に分骨
比翼塚(慈眼寺境内)
新内「明烏夢泡雪」のモデルとなった浦里(吉原の遊女の美吉野)
時次郎(札差伊勢屋の若旦那伊之助)の墓」


○芥川龍之介の墓
墓石は、芥川龍之介が愛用した座布団のサイズに合わせて石を切り出したものです。墓石の天辺には家紋の五七桐紋が彫られています。
夏目漱石の墓石は椅子で、芥川龍之介の墓石は座布団であることは、座るのが仕事である作家らしい墓石と思いました。








随筆『本所両国』(芥川龍之介)で、慈眼寺について言及しています。
「僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所の猿江にあつた僕の家の菩提寺を思ひ出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの夜に両刀を揮つて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張り小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりも寧ろ禿だつた。)この寺は――慈眼寺といふ日蓮宗の寺は震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめじめした猿江の墓地は未に僕の記憶に残つてゐる。就中薄い水苔のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。」(青空文庫より引用)
<芥川家之墓>
墓誌には「芥川也寸志」「芥川比呂志」の名前も刻まれています。


○谷崎潤一郎の墓
谷崎潤一郎は、かつての論争相手だった芥川龍之介も眠る慈眼寺の谷崎家代々墓地に分骨されています。「安楽寿院功誉文林徳潤居士」とあります。 最後に「妻松子誌」とあります。



○司馬江漢の墓(江漢司馬峻之墓) 東京都旧跡
司馬江漢は、江戸時代後期の洋風画家で蘭学者です。



(説明板)
「東京都指定旧跡
司馬江漢墓
所在地 豊島区巣鴨五の三七の一 慈眼寺墓地
指定 昭和五年六月二日
江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(一七四七)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽き足らず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(一七七○)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派の宋紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋風画の教えを受け、天明三年(一七八三)腐蝕銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(一八一八)十月二一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書には『西洋画談』『春波楼筆記』『和蘭通舶』などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。
平成五年三月三一日 建設 東京都教育委員会」

○小林平八郎の墓
小林平八郎は、「忠臣蔵」の吉良方の侍です。
「小林平八郎平央通霊廟」とあります。 慈眼寺での法名は「通玄院恵澄正脱玉円日融信士」



○斎藤鶴磯の墓 東京都旧跡
斎藤鶴磯は、江戸時代の儒者で、各地を歩き名著「武蔵野話」を刊行しました。


(説明板)
「東京都指定旧跡
斎藤鶴磯墓
所在地 豊島区巣鴨五の三五の三三 慈眼寺墓地内
標識 昭和五年六月二日
指定 昭和三○年三月二八日
斎藤鶴磯(一七五二ー一八二八)は、水戸藩士の子として江戸に生まれました。江戸時代中期の儒学者、地誌研究家として知られています。通称を宇八郎、名を敬夫といい、鶴磯は号になります。武蔵国所沢に住み、江戸時代の有名な地誌である「武蔵野話初編」を文化十二年(一八一五)に完成させ、翌年江戸に戻りました。他に「女孝経補注」や「干支考」などの著作も知られていま
す。文政十一年(一八二八)に亡くなり、本所猿江町の慈眼寺に葬られましたが、のちに寺の移転に戸もない改葬されました。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」

慈眼寺①
○慈眼寺 豊島区巣鴨5-35-33
慈眼寺は、「染井霊園」の北に隣接してあります。
<山門>
寺号標「日蓮宗慈眼寺」

「不染橋親柱」 豊島区駒込5-37-1
大正5(1916)年造立の不染橋(ふぜんばし)親柱が一対あります。


<染井霊園側案内板>
染井霊園側の案内板には、慈眼寺の墓の案内が記されています。



○慈眼寺本堂
本堂の扁額は「正寿山」です。


○比翼塚
慈眼寺の境内にある、墓石が二つ並んで建てられている浦里・時次郎の比翼塚です。新内「明烏夢の泡雪」や歌舞伎「明烏花濡衣」などのモデルで知られた悲恋物語の主人公です。
左は吉原の遊女美吉野(心誠妙貞信女)、右は蔵前の札差伊勢屋の若旦那伊之助(意實淨貞信士)です。「昭和二十年四月十日戦災 同二十八年再建」とあります。




墓石の横に刻まれている辞世句です。
「川たけの流るる身をもせき止めて 二世の契りを結ぶうれしさ 浦里」

「一人来て二人つれ立つ二世の道 一つうてなに受ける露の身 時次郎」

「鶴賀社中」の門柱

「石燈籠」嘉永年間の寄進です。

「手水鉢」昭和31(1956)年の寄進です。


慈眼寺は、「染井霊園」の北に隣接してあります。
<山門>
寺号標「日蓮宗慈眼寺」

「不染橋親柱」 豊島区駒込5-37-1
大正5(1916)年造立の不染橋(ふぜんばし)親柱が一対あります。


<染井霊園側案内板>
染井霊園側の案内板には、慈眼寺の墓の案内が記されています。



○慈眼寺本堂
本堂の扁額は「正寿山」です。


○比翼塚
慈眼寺の境内にある、墓石が二つ並んで建てられている浦里・時次郎の比翼塚です。新内「明烏夢の泡雪」や歌舞伎「明烏花濡衣」などのモデルで知られた悲恋物語の主人公です。
左は吉原の遊女美吉野(心誠妙貞信女)、右は蔵前の札差伊勢屋の若旦那伊之助(意實淨貞信士)です。「昭和二十年四月十日戦災 同二十八年再建」とあります。




墓石の横に刻まれている辞世句です。
「川たけの流るる身をもせき止めて 二世の契りを結ぶうれしさ 浦里」

「一人来て二人つれ立つ二世の道 一つうてなに受ける露の身 時次郎」

「鶴賀社中」の門柱

「石燈籠」嘉永年間の寄進です。

「手水鉢」昭和31(1956)年の寄進です。


tag : 巣鴨
巣鴨地蔵通り~庚申塚通り
○巣鴨地蔵通り 豊島区巣鴨3丁目・4丁目
巣鴨地蔵通りは、真性寺前から庚申塚まで続く旧中山道です。公式マスコットキャラクター「すがもん」が郵便ポストの上にいます。



<巣鴨の地名の由来>
(説明板)
「地名の由来
ここ「巣鴨」は、古い資料では「州賀茂」、「菅面」、「州鴨」、「州処面」、「須賀茂」、「須賀母」、「州賀茂」とも表記されています。砂州(州処)や沼地があり葭が茂った村とする説、大池に鴨が巣を作っていたからとする説などがありますが、はっきりとした根拠はわかっていません。「巣鴨」と表記されている古い資料は「長禄江戸図」(1457〜60年)程度しかなく、江戸半ば以降に武蔵国豊島郡巣鴨村として定着したと考えられています。」


<周辺案内図>
巣鴨郵便局前にある「周辺案内図」と、巣鴨地蔵通り部分の抜粋です。


<すがも史跡まっぷ>


<街路灯説明パネル>
LED装飾街路灯に、巣鴨の歴史や史跡を説明するパネルが掲示されており、延々と続いています。以下はその一部です。





<巣鴨地蔵通り標識> 豊島区巣鴨4-13-15地先
巣鴨地蔵通りの終端[庚申塚交差点」南に、標識「巣鴨地蔵通り」があります。

○庚申塚通り 豊島区西巣鴨2丁目・3丁目
庚申塚通りは、庚申塚から明治通りまで続く旧中山道です。庚申塚停留所所に「地域案内」があります。歩道には道標がはめられています。




巣鴨地蔵通りは、真性寺前から庚申塚まで続く旧中山道です。公式マスコットキャラクター「すがもん」が郵便ポストの上にいます。



<巣鴨の地名の由来>
(説明板)
「地名の由来
ここ「巣鴨」は、古い資料では「州賀茂」、「菅面」、「州鴨」、「州処面」、「須賀茂」、「須賀母」、「州賀茂」とも表記されています。砂州(州処)や沼地があり葭が茂った村とする説、大池に鴨が巣を作っていたからとする説などがありますが、はっきりとした根拠はわかっていません。「巣鴨」と表記されている古い資料は「長禄江戸図」(1457〜60年)程度しかなく、江戸半ば以降に武蔵国豊島郡巣鴨村として定着したと考えられています。」


<周辺案内図>
巣鴨郵便局前にある「周辺案内図」と、巣鴨地蔵通り部分の抜粋です。


<すがも史跡まっぷ>


<街路灯説明パネル>
LED装飾街路灯に、巣鴨の歴史や史跡を説明するパネルが掲示されており、延々と続いています。以下はその一部です。





<巣鴨地蔵通り標識> 豊島区巣鴨4-13-15地先
巣鴨地蔵通りの終端[庚申塚交差点」南に、標識「巣鴨地蔵通り」があります。

○庚申塚通り 豊島区西巣鴨2丁目・3丁目
庚申塚通りは、庚申塚から明治通りまで続く旧中山道です。庚申塚停留所所に「地域案内」があります。歩道には道標がはめられています。





テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
巣鴨庚申塚
○庚申塚・猿田彦大神神社 豊島区巣鴨4-35-2 HP
<巣鴨庚申塚立場>
庚申塚の地は、中山道の立場だったところで、よしず囲いの茶屋がありました。茶屋店では、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、小林一茶も訪れて句を詠んでいます。
(七番日記 小林一茶 文化13年)
「藤棚を潜れば王子海道哉」
「藤棚に翌巡る江戸の画解哉」
「藤棚に寝て見てもお江戸哉」
「藤棚の隅から見ゆるお江戸哉」
「江戸名所花暦 桜草」
江戸名所花暦では、巣鴨庚申塚の左右の植木屋や農家では、桜草を栽培して売っていたことが記されています。中山道を通って、江戸市中に「桜草」を売りに行っていたようです。
「巣鴨 庚申塚左右この辺植木屋又は農家にても作れるなり こは生業となすゆゑなり」
「江戸名所図会 巣鴨庚申塚」
巣鴨庚申塚の茶屋の夏の風景です。茶屋は3店描かれており、手前にもあるようで4店あったようです。 街道を行く人々は麦藁帽子をかぶり、扇子で仰ぎながら歩く人も見えます。虫捕りの子どもが見えます。茶屋では扇子で涼をとっています。茶屋ではスイカや団子を売っています。

・道標
中央左に道標が見えます。道標の正面には「王子稲荷大明神」、右側面「右わうじ道」と刻まれています。

・塚上の二碑
塚の上に石碑が二つ見えます。小さい方は青面金剛を刻んだ庚申塔で、大きい方は現在祀られている庚申塔でしょうか。明暦3(1657)年の庚申塔で、この下に文亀2(1502)年の石碑が埋められています。

・「スイカ」と「団子」
茶屋ではスイカを切って売っています。団子を焼いて売っています。


「絵本江戸土産 巣鴨庚申塚」
広重が巣鴨庚申塚を描いています。

「木曽街道板橋之駅」(英泉)
タイトルは板橋之駅(板橋宿)ですが、中央に王子道の道標が見え、その手前は巣鴨庚申堂のある立場が描かれています。巣鴨の立場から板橋宿(背後の森は加賀前田家の下屋敷)を描いていますが、その間の中山道が飛ばされています。立場の茶屋の後ろに庚申塚があります(絵には描かれていません)。

「江戸切絵図」
真性寺と庚申塚部分の抜粋と、庚申塚と滝ノ川三軒家部分の抜粋です。


<入口>
「仲仙道庚申塚 猿田彦大神庚申堂」と「庚申塔造立 五百年記念」の標石が並んでいます。その横には「猿田彦大神庚申堂 由来記」が掲示されています。


<猿田彦大神庚申堂 由来記>

<庚申塚>
入口左手に豊島区教育委員会の説明板があります。
(説明板)
「庚申塚
庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三尸説に求めることができる。それによれば、人の身体にいる三尸という虫が、六○日に一度訪れる庚申の夜に人の罪状を天帝に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮められるのを防ぐというものである。
こうしたことから、室町時代の中頃から庚申待が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講が作られ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。
さて、江戸時代の文化年間(一八○四〜一七)に出された地誌「遊歴雑記」によると、祠内に納めている庚申塔は、明暦二年(一六五七)一月の大火後に造られ、その際文亀二年(一五○二)造立の高さ八尺の碑は、その下に埋められたとされている。
この庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(一八三○〜四三)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人や、とげぬき地蔵(高岩寺)の参拝帰りに立ち寄る人が後を絶たない。
平成八年三月 東京都豊島区教育委員会」

<庚申塔(猿像)>
左右に庚申塔(猿像)2基があります。台座に三猿が刻まれています。昭和62(1987)年の奉納です。



<百度>
石柱ではなく木柱で、百度石ではなく百度木ですかね。

<手水鉢>


<江戸の名所>
(碑文)
「江戸の名所
巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。
「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葭簀の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば一六五七(明暦三)年に造立されたものということがわかります。これより以前、一五○二(文亀二)年に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊歴雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。
また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。
平成四年三月 豊島区教育委員会発行(石造文化財より)」



<庚申塚由来記>
(説明文)
「庚申塚由来記
全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は高さ八尺で文亀二年(一五○二年)造立、現存していれば区内最古の石碑
昔巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり板橋宿の一つ手前の立場として上り下りの旅人の往来が激しく休息所として賑わい簡単な茶店も在り人足や馬の世話もした。
広重の絵にも描かれ江戸名所図絵で見ると茶屋に人が休み人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。
ここに団子などを売る茶店もできて藤の花を綺麗に咲かせていたのが評判で花の頃は、小林一茶も訪れて
ふじ棚に 寝て見てもまたお江戸かな
の句もある。
令和元年十二月吉日 毛堀濤石書」

<榎本留吉翁顕彰碑>
(碑表)「榎本留吉翁顕彰碑
(碑横)
「榎本留吉翁は、明治三十二年庚申塚に生をうけ、戦前、戦後を通じ、町会長として庚申堂の奉斎につとめ、戦災により焼失した堂宇を、昭和四十六年桧づくりに再建、昭和四十九年、手水舎を設ける等、境内整備につくした。これらは六十余年に亘る翁の郷土愛のたまものであり、茲にその功績を賛え顕彰するものである
昭和六十年九月吉日 猿田彦大神奉賛会
天祖神社宮司高島俊彦書
真島泰峨文
石治刻」



<縁起>
(碑文)
「縁起
巣鴨旧中仙道庚申塚所在 猿田彦大神庚申堂は 古く江戸時代から当地にあって今上天皇御大典記念に 近隣有志により代々奉祭してきましたが その後立派に建造し 社務所兼庚申塚町会事務所 会合場として時代に即応してきたが 昭和十九年三月 戦災により焼失し仮堂におまつりして来たのである 昭和四十七年隣接四町会及び広く崇敬する信者の賛同を得て 現在のような立派な御堂を建直すことが出来 又続いて御水屋も完成 境内も一層荘厳さを増したので茲に関係者の名を刻して後世に伝える
昭和五十一年三月吉日
庚申堂猿田彦大神奉賛会
代表 榎本留吉」


<庚申堂>
「史蹟 巣鴨の庚申塚」(木柱です)
庚申堂には明暦3(1657)年銘の庚申塔が祀られ、その下に、文亀2(1502)年の石碑が埋められています。
また、猿田彦大神が合祀されています。 火消し組から奉納された立派な額「猿田彦大神」が右手にあります。




<巣鴨庚申塚立場>
庚申塚の地は、中山道の立場だったところで、よしず囲いの茶屋がありました。茶屋店では、藤の花をきれいに咲かせていたのが評判で、小林一茶も訪れて句を詠んでいます。
(七番日記 小林一茶 文化13年)
「藤棚を潜れば王子海道哉」
「藤棚に翌巡る江戸の画解哉」
「藤棚に寝て見てもお江戸哉」
「藤棚の隅から見ゆるお江戸哉」
「江戸名所花暦 桜草」
江戸名所花暦では、巣鴨庚申塚の左右の植木屋や農家では、桜草を栽培して売っていたことが記されています。中山道を通って、江戸市中に「桜草」を売りに行っていたようです。
「巣鴨 庚申塚左右この辺植木屋又は農家にても作れるなり こは生業となすゆゑなり」
「江戸名所図会 巣鴨庚申塚」
巣鴨庚申塚の茶屋の夏の風景です。茶屋は3店描かれており、手前にもあるようで4店あったようです。 街道を行く人々は麦藁帽子をかぶり、扇子で仰ぎながら歩く人も見えます。虫捕りの子どもが見えます。茶屋では扇子で涼をとっています。茶屋ではスイカや団子を売っています。

・道標
中央左に道標が見えます。道標の正面には「王子稲荷大明神」、右側面「右わうじ道」と刻まれています。

・塚上の二碑
塚の上に石碑が二つ見えます。小さい方は青面金剛を刻んだ庚申塔で、大きい方は現在祀られている庚申塔でしょうか。明暦3(1657)年の庚申塔で、この下に文亀2(1502)年の石碑が埋められています。

・「スイカ」と「団子」
茶屋ではスイカを切って売っています。団子を焼いて売っています。


「絵本江戸土産 巣鴨庚申塚」
広重が巣鴨庚申塚を描いています。

「木曽街道板橋之駅」(英泉)
タイトルは板橋之駅(板橋宿)ですが、中央に王子道の道標が見え、その手前は巣鴨庚申堂のある立場が描かれています。巣鴨の立場から板橋宿(背後の森は加賀前田家の下屋敷)を描いていますが、その間の中山道が飛ばされています。立場の茶屋の後ろに庚申塚があります(絵には描かれていません)。

「江戸切絵図」
真性寺と庚申塚部分の抜粋と、庚申塚と滝ノ川三軒家部分の抜粋です。


<入口>
「仲仙道庚申塚 猿田彦大神庚申堂」と「庚申塔造立 五百年記念」の標石が並んでいます。その横には「猿田彦大神庚申堂 由来記」が掲示されています。


<猿田彦大神庚申堂 由来記>

<庚申塚>
入口左手に豊島区教育委員会の説明板があります。
(説明板)
「庚申塚
庚申信仰の起源は、中国から伝わった道教の三尸説に求めることができる。それによれば、人の身体にいる三尸という虫が、六○日に一度訪れる庚申の夜に人の罪状を天帝に告げに行くため、人々はこの晩は寝ずに過ごし、寿命が縮められるのを防ぐというものである。
こうしたことから、室町時代の中頃から庚申待が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講が作られ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。
さて、江戸時代の文化年間(一八○四〜一七)に出された地誌「遊歴雑記」によると、祠内に納めている庚申塔は、明暦二年(一六五七)一月の大火後に造られ、その際文亀二年(一五○二)造立の高さ八尺の碑は、その下に埋められたとされている。
この庚申塚は、旧中山道(現地蔵通り)沿いに展開した巣鴨町の北東端、すなわち旧中山道と折戸通りの交差地に位置し、天保年間(一八三○〜四三)に刊行された「江戸名所図会」では、中山道板橋宿に入る前の立場(休憩所)として描かれている。現在も都電の庚申塚停留所を下車して参拝する人や、とげぬき地蔵(高岩寺)の参拝帰りに立ち寄る人が後を絶たない。
平成八年三月 東京都豊島区教育委員会」

<庚申塔(猿像)>
左右に庚申塔(猿像)2基があります。台座に三猿が刻まれています。昭和62(1987)年の奉納です。



<百度>
石柱ではなく木柱で、百度石ではなく百度木ですかね。

<手水鉢>


<江戸の名所>
(碑文)
「江戸の名所
巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。
「江戸名所図会」のなかの茶店の屋根の葭簀の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば一六五七(明暦三)年に造立されたものということがわかります。これより以前、一五○二(文亀二)年に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊歴雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。
また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという歴史的事実によるものです。
平成四年三月 豊島区教育委員会発行(石造文化財より)」



<庚申塚由来記>
(説明文)
「庚申塚由来記
全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は高さ八尺で文亀二年(一五○二年)造立、現存していれば区内最古の石碑
昔巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり板橋宿の一つ手前の立場として上り下りの旅人の往来が激しく休息所として賑わい簡単な茶店も在り人足や馬の世話もした。
広重の絵にも描かれ江戸名所図絵で見ると茶屋に人が休み人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。
ここに団子などを売る茶店もできて藤の花を綺麗に咲かせていたのが評判で花の頃は、小林一茶も訪れて
ふじ棚に 寝て見てもまたお江戸かな
の句もある。
令和元年十二月吉日 毛堀濤石書」

<榎本留吉翁顕彰碑>
(碑表)「榎本留吉翁顕彰碑
(碑横)
「榎本留吉翁は、明治三十二年庚申塚に生をうけ、戦前、戦後を通じ、町会長として庚申堂の奉斎につとめ、戦災により焼失した堂宇を、昭和四十六年桧づくりに再建、昭和四十九年、手水舎を設ける等、境内整備につくした。これらは六十余年に亘る翁の郷土愛のたまものであり、茲にその功績を賛え顕彰するものである
昭和六十年九月吉日 猿田彦大神奉賛会
天祖神社宮司高島俊彦書
真島泰峨文
石治刻」



<縁起>
(碑文)
「縁起
巣鴨旧中仙道庚申塚所在 猿田彦大神庚申堂は 古く江戸時代から当地にあって今上天皇御大典記念に 近隣有志により代々奉祭してきましたが その後立派に建造し 社務所兼庚申塚町会事務所 会合場として時代に即応してきたが 昭和十九年三月 戦災により焼失し仮堂におまつりして来たのである 昭和四十七年隣接四町会及び広く崇敬する信者の賛同を得て 現在のような立派な御堂を建直すことが出来 又続いて御水屋も完成 境内も一層荘厳さを増したので茲に関係者の名を刻して後世に伝える
昭和五十一年三月吉日
庚申堂猿田彦大神奉賛会
代表 榎本留吉」


<庚申堂>
「史蹟 巣鴨の庚申塚」(木柱です)
庚申堂には明暦3(1657)年銘の庚申塔が祀られ、その下に、文亀2(1502)年の石碑が埋められています。
また、猿田彦大神が合祀されています。 火消し組から奉納された立派な額「猿田彦大神」が右手にあります。





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