待乳山聖天
○待乳山聖天 台東区浅草7-4-1 HP
<聖天町の名所・史跡>
とても大きな案内板があります。項目のみ抜粋します。
「①待乳山聖天
②山谷堀公園
③池波正太郎生誕地碑
④葛飾北斎終焉地
⑤金竜山下瓦町
⑥猿若三座跡地」


<入口>
正面の入口は2ヶ所に分かれています。
左から入ると、トーキー渡来碑が、右から入ると庚申塔が建っています。
江戸名所図会の挿絵によると、左からは、裏門口のようです。





<庚申塔群>
左から、寛文9(1669)年、天和2年(1682)、不詳、寛文12(1672)年、元禄13(1700)年、宝永元(1704)年、延宝7(1679)年。










<待乳山聖天>
(説明板)
「待乳山聖天
台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(六〇一)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
哀れとは夕越えて行く人も見よ
待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根際には多くの信者で賑う。
なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。
平成十一年三月 台東区教育委員会」

<欲油供祈祷の勧め>


<トーキー渡来の碑>
アメリカの発明家リー・デ・フォレスト博士の顕彰碑です。博士は大正12(1923)年にトーキー(発声映画)を発明しました。
「昭和三十一年五月吉日」に、皆川芳造の建碑です。

<金龍山大聖歓喜廟碑>
文化元(1804)年に建てられた「金龍山大聖歓喜廟碑」です。
漢文で綴られおり、聖天宮創設のこと、天安元(857)年に慈覚大師が逗留し十一面観音像彫り安置したこと、歓喜天の功徳のことなどが記されています。


<出世観音像>
参道右手にあります。
(説明板)
「出世観音像
昭和十一年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(一、六〇〇年頃)の作と鑑定された学業芸道に志す者の尊信をあつめている」



<歓喜地蔵尊>
参道左手にあります。
(説明板)
「歓喜地蔵尊
数度の火災に遭いその尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている」




<額堂>
御供の大根を売っています。以前は200円、今回は250円。市場の動静によって上下し、400円の時もあったようです。




<水屋>

<築地塀>
(説明板)
「築地塀
江戸時代の名残りをとどめる唯一のもので貴重な文化財である。全長二十五間(四五.五m)
広重の錦絵にも描かれている」


<心願成就>
浴油祈祷により心願成就した方の寄進碑です。

<奉納石板>
文政3(1820)年庚辰秋九月、新吉原神楽講中が奉献。


葛飾北斎「絵本隅田川両岸一覧 吉原の終年」に描かれている狐の神楽のことでしょうか。奉献の文化3年は、北斎は存命で活躍中です。

<神楽殿>
扁額は「舞殿」です。

<水行場>
待乳山聖天は戦災で灰燼に帰していますが、立派な水行場。戦後も水行が行われたのでしょうか。



<香炉>
香炉は巾着をかたどっています。


<本堂>
大根と巾着がいたるところで見られます。










<境内>
本堂から左回りでめぐります。
<銅製宝篋印塔>
天明元(1782)年に奉納された笠を持つ「銅造り宝筐印塔」です。
(説明板)
「銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
台東区浅草七丁目四番一号 本龍寺
宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(一七八一)に鋳物師西村和泉守が製作し、蔵前の札差等十六名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
平成十四年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成十九年三月 台東区教育委員会」



<稲荷尊>
境内奥左手に「稲荷尊」。



山谷堀方面がどうにか見えます。

<道灌稲荷跡>
待乳山便りによると、道灌稲荷跡碑の除幕式が2017年9月3日に行われています。
(説明板)
「道灌稲荷跡
かつて当山境内には、太田道灌勧請の「道灌稲荷」が祀られていた。
文政八年(一八二五)、本龍院より江戸幕府に提出された『寺社書上』に、「一、稲荷社、道灌稲荷と唱候、四尺一間」と見て、また、かつて当町内の木戸には「道灌稲荷の守護」の札が貼られ、地域の人々より尊崇を受けていた由が知れる。
人望篤く、文武両道の部将として名を馳せていた太田道灌(一四三に?八六)は、文明八年(一四七六)、鎌倉の詩僧を招き、隅田川に船を浮かべて詩歌管弦の宴を開いている。自らの稲荷尊信仰と景勝の待乳山に浅からぬ因縁を窺うことができる。」



<百度石>
百度石が本堂の裏に2基あります。ひとつは平成22(2010)年11月と新しいです。


<糸塚>
三味線の糸の「糸塚」です。
(説明板)
「糸塚
十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
この糸塚は元治元年十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして
十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記」



<戸田茂睡歌碑>
江戸最古の歌碑と称された「戸田茂睡歌碑」は、戦火に遭い昭和30年拓本をもとに再建されました。
戸田茂睡歌碑「哀れとは夕越えて行く人も見よ待乳の山に残す言の葉」
(説明板)
「戸田茂睡歌碑
茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和三十年拓本をもとに再建された」





<天狗坂>
修復工事を経て、開放されています。「天狗坂 開放いたしました。ご自由にお通りください。」
天狗坂が描かれている「東都名所 真土山之図」(広重)掲示。
天狗坂説明板に久保田万太郎の句を掲示。
(説明板)
「天狗坂
昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった
天狗坂 夕木枯の おもいでに
久保田万太郎」




「東京風景 六 待乳山から隅田川」(大正5年(1916)5月 織田一磨 画)
震災前の東京を記録した石版画です。
(説明板)
「古来、待乳山は聖天信仰の聖地としてはもちろん、風光明媚な名所としても、つとに有名であった。
詩歌にも多く詠まれ、江戸期から大正期の浮世絵にも多く描かれた。
「江戸名所図会」には、この東側を望む山上から、近くは葛飾の村落、遠くは国府台の木々の緑が一望できたとある。
奉納 朝まいり会
発会七十周年記念
令和二年」



<龍の水盤>
天狗坂を上がった境内には、「龍の水盤」があります。

○天狗坂下
「坂の途中で立ち止まらないようお願い致します。」の掲示。


<狛犬>
石段下に、一対の狛犬があります。

<常夜燈>

<浪曲相輪塔>
昭和18(1943)年、浪曲協会の建立です。


<さくらレール>
駐車場と本堂を結ぶモノレール。途中に寺務所駅があります。




<天狗坂口社号標>
天狗坂下は駐車場で、駐車場入り口に社号標がありあす。
道路反対側の先は、竹屋の渡し跡碑があり、その先、隅田川に面して東京都下水道局の山谷堀水門です。



<聖天町の名所・史跡>
とても大きな案内板があります。項目のみ抜粋します。
「①待乳山聖天
②山谷堀公園
③池波正太郎生誕地碑
④葛飾北斎終焉地
⑤金竜山下瓦町
⑥猿若三座跡地」


<入口>
正面の入口は2ヶ所に分かれています。
左から入ると、トーキー渡来碑が、右から入ると庚申塔が建っています。
江戸名所図会の挿絵によると、左からは、裏門口のようです。





<庚申塔群>
左から、寛文9(1669)年、天和2年(1682)、不詳、寛文12(1672)年、元禄13(1700)年、宝永元(1704)年、延宝7(1679)年。










<待乳山聖天>
(説明板)
「待乳山聖天
台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(六〇一)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
哀れとは夕越えて行く人も見よ
待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根際には多くの信者で賑う。
なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。
平成十一年三月 台東区教育委員会」

<欲油供祈祷の勧め>


<トーキー渡来の碑>
アメリカの発明家リー・デ・フォレスト博士の顕彰碑です。博士は大正12(1923)年にトーキー(発声映画)を発明しました。
「昭和三十一年五月吉日」に、皆川芳造の建碑です。

<金龍山大聖歓喜廟碑>
文化元(1804)年に建てられた「金龍山大聖歓喜廟碑」です。
漢文で綴られおり、聖天宮創設のこと、天安元(857)年に慈覚大師が逗留し十一面観音像彫り安置したこと、歓喜天の功徳のことなどが記されています。


<出世観音像>
参道右手にあります。
(説明板)
「出世観音像
昭和十一年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(一、六〇〇年頃)の作と鑑定された学業芸道に志す者の尊信をあつめている」



<歓喜地蔵尊>
参道左手にあります。
(説明板)
「歓喜地蔵尊
数度の火災に遭いその尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている」




<額堂>
御供の大根を売っています。以前は200円、今回は250円。市場の動静によって上下し、400円の時もあったようです。




<水屋>

<築地塀>
(説明板)
「築地塀
江戸時代の名残りをとどめる唯一のもので貴重な文化財である。全長二十五間(四五.五m)
広重の錦絵にも描かれている」


<心願成就>
浴油祈祷により心願成就した方の寄進碑です。

<奉納石板>
文政3(1820)年庚辰秋九月、新吉原神楽講中が奉献。


葛飾北斎「絵本隅田川両岸一覧 吉原の終年」に描かれている狐の神楽のことでしょうか。奉献の文化3年は、北斎は存命で活躍中です。

<神楽殿>
扁額は「舞殿」です。

<水行場>
待乳山聖天は戦災で灰燼に帰していますが、立派な水行場。戦後も水行が行われたのでしょうか。



<香炉>
香炉は巾着をかたどっています。


<本堂>
大根と巾着がいたるところで見られます。










<境内>
本堂から左回りでめぐります。
<銅製宝篋印塔>
天明元(1782)年に奉納された笠を持つ「銅造り宝筐印塔」です。
(説明板)
「銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
台東区浅草七丁目四番一号 本龍寺
宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(一七八一)に鋳物師西村和泉守が製作し、蔵前の札差等十六名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
平成十四年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成十九年三月 台東区教育委員会」



<稲荷尊>
境内奥左手に「稲荷尊」。



山谷堀方面がどうにか見えます。

<道灌稲荷跡>
待乳山便りによると、道灌稲荷跡碑の除幕式が2017年9月3日に行われています。
(説明板)
「道灌稲荷跡
かつて当山境内には、太田道灌勧請の「道灌稲荷」が祀られていた。
文政八年(一八二五)、本龍院より江戸幕府に提出された『寺社書上』に、「一、稲荷社、道灌稲荷と唱候、四尺一間」と見て、また、かつて当町内の木戸には「道灌稲荷の守護」の札が貼られ、地域の人々より尊崇を受けていた由が知れる。
人望篤く、文武両道の部将として名を馳せていた太田道灌(一四三に?八六)は、文明八年(一四七六)、鎌倉の詩僧を招き、隅田川に船を浮かべて詩歌管弦の宴を開いている。自らの稲荷尊信仰と景勝の待乳山に浅からぬ因縁を窺うことができる。」



<百度石>
百度石が本堂の裏に2基あります。ひとつは平成22(2010)年11月と新しいです。


<糸塚>
三味線の糸の「糸塚」です。
(説明板)
「糸塚
十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
この糸塚は元治元年十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして
十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記」



<戸田茂睡歌碑>
江戸最古の歌碑と称された「戸田茂睡歌碑」は、戦火に遭い昭和30年拓本をもとに再建されました。
戸田茂睡歌碑「哀れとは夕越えて行く人も見よ待乳の山に残す言の葉」
(説明板)
「戸田茂睡歌碑
茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和三十年拓本をもとに再建された」





<天狗坂>
修復工事を経て、開放されています。「天狗坂 開放いたしました。ご自由にお通りください。」
天狗坂が描かれている「東都名所 真土山之図」(広重)掲示。
天狗坂説明板に久保田万太郎の句を掲示。
(説明板)
「天狗坂
昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった
天狗坂 夕木枯の おもいでに
久保田万太郎」




「東京風景 六 待乳山から隅田川」(大正5年(1916)5月 織田一磨 画)
震災前の東京を記録した石版画です。
(説明板)
「古来、待乳山は聖天信仰の聖地としてはもちろん、風光明媚な名所としても、つとに有名であった。
詩歌にも多く詠まれ、江戸期から大正期の浮世絵にも多く描かれた。
「江戸名所図会」には、この東側を望む山上から、近くは葛飾の村落、遠くは国府台の木々の緑が一望できたとある。
奉納 朝まいり会
発会七十周年記念
令和二年」



<龍の水盤>
天狗坂を上がった境内には、「龍の水盤」があります。

○天狗坂下
「坂の途中で立ち止まらないようお願い致します。」の掲示。


<狛犬>
石段下に、一対の狛犬があります。

<常夜燈>

<浪曲相輪塔>
昭和18(1943)年、浪曲協会の建立です。


<さくらレール>
駐車場と本堂を結ぶモノレール。途中に寺務所駅があります。




<天狗坂口社号標>
天狗坂下は駐車場で、駐車場入り口に社号標がありあす。
道路反対側の先は、竹屋の渡し跡碑があり、その先、隅田川に面して東京都下水道局の山谷堀水門です。



待乳山聖天庭園~待乳山聖天公園
○待乳山聖天庭園/地蔵堂 台東区浅草7-4-1
寺務所脇から庭園に入ります。庭園への入口には、「成就橋」が架かっています。
橋を渡って通路を進むと、右手に地蔵堂があります。




<石仏群>
寛政四(1792)年六月奉納「七躰佛」ほか石仏群が右手にあります。




<地蔵堂>



<参道>
参拝経路とは逆かと思いますが、石段参道を下ります。

<狛犬/力石>
石段を下りたところに、「狛犬」と「小亀石」と刻まれた文政3(1827)年の力石があります。
「文政十歳 小亀石 柴田連中」。




<池>
池には錦鯉がウヨウヨ。井戸があります。
池の上には溶岩と思われる岩で築かれた小山があります。






<藤棚/しだれ桜/苔庭>
藤棚があります。平成29(2017)年奉納のしだれ桜があります。庭は苔がむし、色々な木々が植えられています。



<手水鉢>
文政5(1822)年10月銘の手水鉢です。



<庫裡>

○待乳山聖天公園 台東区浅草7-4-9
待乳山聖天公園の指標が、地面に横倒しになっているのが不思議です。



<待乳山聖天と隅田川>
(説明板)
「江戸時代の待乳山聖天のかいわいは、こんな楽しそうな町並みでした。
聖天さまから見た隅田川の眺めがすばらしく、多くの画人たちが描くほどの兆望の名所でありました。
台東区」

<旧浅草聖天町、浅草聖天横町>
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草聖天町、浅草聖天横町
本町の起立年代は不詳である。寛文図に「聖天丁」と記載があるので、かなり古く開かれた町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名称は本龍院といい、聖天宮は聖天を安置していることによる。金龍山あるいは待乳山と号し、浅草寺の子院である。
待乳山は隅田川西側の小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天宮はこの待乳山の上にある。
「浅草聖天町」昭和二十三年(一九四八)に浅草山川町、同金龍山下瓦町、同山ノ宿町の北隅を合して誕生した。
「浅草聖天横町」 浅草聖天町の西側続地であり、町の地形から横町とつけられた。起立年代は分からないが浅草聖天町よりやや遅れてできたのであろう明治五年(一八七二)、浅草寺子院の遍照院を合併して町域を広げた。 台東区」

<池波正太郎生誕の地>
(説明板)
「池波正太郎生誕の地
作家・池波正太郎(1923~1990)は、大正12年、旧東京市浅草区聖天町61番地に生まれました。
この年の9月に関東大震災が起こり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期・青年期を台東区で暮らしました。
昭和35(1960)年「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生み出し、このあたりも度々舞台として描いています。
「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しています。生家は、待乳山聖天公園の南側(現台東区浅草7丁目3番付近)にありました。
平成19年11月 台東区」



<震災供養碑>
天台座主大僧正による揮毫。戦前は境内地にありました。
毎年9月1日に待乳山聖天によって、慰霊法要が行われています。

寺務所脇から庭園に入ります。庭園への入口には、「成就橋」が架かっています。
橋を渡って通路を進むと、右手に地蔵堂があります。




<石仏群>
寛政四(1792)年六月奉納「七躰佛」ほか石仏群が右手にあります。




<地蔵堂>



<参道>
参拝経路とは逆かと思いますが、石段参道を下ります。

<狛犬/力石>
石段を下りたところに、「狛犬」と「小亀石」と刻まれた文政3(1827)年の力石があります。
「文政十歳 小亀石 柴田連中」。




<池>
池には錦鯉がウヨウヨ。井戸があります。
池の上には溶岩と思われる岩で築かれた小山があります。






<藤棚/しだれ桜/苔庭>
藤棚があります。平成29(2017)年奉納のしだれ桜があります。庭は苔がむし、色々な木々が植えられています。



<手水鉢>
文政5(1822)年10月銘の手水鉢です。



<庫裡>

○待乳山聖天公園 台東区浅草7-4-9
待乳山聖天公園の指標が、地面に横倒しになっているのが不思議です。



<待乳山聖天と隅田川>
(説明板)
「江戸時代の待乳山聖天のかいわいは、こんな楽しそうな町並みでした。
聖天さまから見た隅田川の眺めがすばらしく、多くの画人たちが描くほどの兆望の名所でありました。
台東区」

<旧浅草聖天町、浅草聖天横町>
(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧 浅草聖天町、浅草聖天横町
本町の起立年代は不詳である。寛文図に「聖天丁」と記載があるので、かなり古く開かれた町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名称は本龍院といい、聖天宮は聖天を安置していることによる。金龍山あるいは待乳山と号し、浅草寺の子院である。
待乳山は隅田川西側の小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天宮はこの待乳山の上にある。
「浅草聖天町」昭和二十三年(一九四八)に浅草山川町、同金龍山下瓦町、同山ノ宿町の北隅を合して誕生した。
「浅草聖天横町」 浅草聖天町の西側続地であり、町の地形から横町とつけられた。起立年代は分からないが浅草聖天町よりやや遅れてできたのであろう明治五年(一八七二)、浅草寺子院の遍照院を合併して町域を広げた。 台東区」

<池波正太郎生誕の地>
(説明板)
「池波正太郎生誕の地
作家・池波正太郎(1923~1990)は、大正12年、旧東京市浅草区聖天町61番地に生まれました。
この年の9月に関東大震災が起こり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期・青年期を台東区で暮らしました。
昭和35(1960)年「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生み出し、このあたりも度々舞台として描いています。
「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しています。生家は、待乳山聖天公園の南側(現台東区浅草7丁目3番付近)にありました。
平成19年11月 台東区」



<震災供養碑>
天台座主大僧正による揮毫。戦前は境内地にありました。
毎年9月1日に待乳山聖天によって、慰霊法要が行われています。


待乳山聖天~江戸名所図会と錦絵
○江戸名所図会と錦絵で見る待乳山聖天
「江戸名所図会 真土山聖天宮」
挿絵には「あはれとは夕越えて行く人も見よ待乳の山に残す言の葉 戸田茂睡」とあります。
挿絵左には「山谷通り」とあります。当時の日光街道(現・吉野通り)です。

本堂向かって左に「銅造り宝筐印塔」が見え、向かって右に「茂睡碑」とあります。

別当部分を拡大しています。現在の庭園の敷石の配置と同じです。

本来は繋がっていない2枚の挿絵を無理矢理合成しています。山谷堀との位置関係がよくわかります。

「江戸名所花暦 真乳山」(岡山鳥/長谷川雪旦画)
待乳山は月見の名所でした。浅草川(隅田川)の水面に映る中秋の名月が見えます。江戸名所花暦では、月見の名所として三派と浅草川を本文で最初に取り上げています。

「江戸遊覧花暦 隅田川の雪」(岡山鳥/長谷川雪旦画)
竹屋の渡しの渡し船でしょうか、真乳山に向かっています。左手遠景の隅田川下流に吾妻橋が見えます。

「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
[東都隅田川両岸一覧」は、鶴岡蘆水の作品で、隅田川両岸の連続絵巻となっています。「金龍山聖天宮」部分の抜粋です。
山谷堀の奥に「新吉原」、隅田川に「此舟場吉原舟上りバ大さんばしといふ」 桟橋の左奥に「竹家舟宿」の記載が見えます。

「絵本江戸土産 隅田川 真乳山の夕景」(広重)
真乳山と山谷堀です。

「絵本江戸錦 三囲 待乳山」(豊春)
手前に今戸橋と待乳山、向岸に三囲の鳥居が見えます。

「名所江戸百景 真乳山山谷堀夜景」(広重)
向岸に真乳山と山谷堀が描かれているので、手前は三囲の土手でしょう。向岸は料亭船宿の明かり、手前の墨堤を提灯に導かれる芸妓が描かれています。

「江戸名所道戯尽 八 隅田堤の弥生」(歌川広景)
向岸に、待乳山と今戸橋、山谷堀が見えます。広重の真乳山山谷堀夜景の昼のドタバタバージョンですね。
向島の茶屋では縁台の足が折れて、大変な状況に。女性のキセルと煙草入れが地面に転がっています。曳舟の場面でもキセルが出てきますが、広景はヘビースモーカーだったのかな。


「東京名所三十六戯撰 隅田川」(昇齋一景)
向岸に、今戸橋、山谷堀が見えます。広重の真乳山山谷堀夜景のドタバタバージョンですね。

「隅田川夜」(小林清親)
広重の名所百景を連想させる小林清親の光線画です。
向岸の今戸橋両脇の料亭船宿の明かりが隅田川に映えています。その後ろに、待乳山と慶養寺の木々。手前の墨堤にはシルエットの男女、スティックを持った男の提灯が光を放っています。「竹ヤー」の声が美しい女将の茶屋が傍にある場所です。
タイトルは隅田川夜で場所は明示されていませんが、この場所でしょう。

「東京名所 待乳山夕景」(井上安治)
井上安治が、向岸を拡大したところを描いています。

「東京名所真景之内 如月待乳山雪のたそがれ」(小林清親)

「東都名所 真土山之図」(広重)
向島側から隅田川、真土山、今戸橋、山谷堀を見たところで、真土山に天狗坂が見えます。右に描かれている建物は慶養寺でしょうか。

「江戸名勝図会 真乳山」(広重)
真乳山と、今戸橋、山谷堀が描かれています。

「東都三十六景 今戸橋真乳山」(広重)
雪の真乳山と今戸橋・山谷堀です。

「大日本六十余州名勝図会 六十余州名所図会 武蔵 隅田川雪の朝」(広重)
近景に待乳山と山谷堀が見えます。
待乳山から今戸橋を渡ったところにある料理屋は、玉庄でしょうか。
「江戸高名会亭尽 今戸橋之図 玉庄」(広重)
有名な料理屋だった「玉庄」が描かれています。現在地は隅田公園内の野球場です。

「江戸名所八景 晴嵐(待乳山)」(長喜)
待乳山の境内と拝殿が描かれています。

「画本東都遊 待乳山」(北斎)
葛飾北斎らしく、待乳山の遠景に富士山が見えます。

「絵本隅田川両岸一覧 待乳山の紅葉」(北斎)
葛飾北斎の終焉の地は、待乳山聖天のある聖天町でした。目の前なので何度も行っていると想像します。

待乳山周辺を含めた隅田川右岸の図を連結しています。

「風流浮絵聖天之図」(豊国)
参道と境内・社殿、隅田川が描かれています。参道石階を上がったところに、鳥居が描かれている絵とないものが混在していますが、こちらは鳥居は見えません。

「富士筑波隅田川の図 真乳山望冨岳」(旦霞)
富士山がやけに大きいです。

「東京名所写真帖 待乳山」(明治33(1900)年)

「旅の家つと 第29 都の巻」(明治35(1902)年)

「最新東京名所写真帖 隅田川の桜」(小島又市 明42(1909)年)
明治時代の、待乳山対岸の向島の渡し場を含む隅田川の桜の写真です。
「江戸名所図会 真土山聖天宮」
挿絵には「あはれとは夕越えて行く人も見よ待乳の山に残す言の葉 戸田茂睡」とあります。
挿絵左には「山谷通り」とあります。当時の日光街道(現・吉野通り)です。

本堂向かって左に「銅造り宝筐印塔」が見え、向かって右に「茂睡碑」とあります。

別当部分を拡大しています。現在の庭園の敷石の配置と同じです。

本来は繋がっていない2枚の挿絵を無理矢理合成しています。山谷堀との位置関係がよくわかります。

「江戸名所花暦 真乳山」(岡山鳥/長谷川雪旦画)
待乳山は月見の名所でした。浅草川(隅田川)の水面に映る中秋の名月が見えます。江戸名所花暦では、月見の名所として三派と浅草川を本文で最初に取り上げています。

「江戸遊覧花暦 隅田川の雪」(岡山鳥/長谷川雪旦画)
竹屋の渡しの渡し船でしょうか、真乳山に向かっています。左手遠景の隅田川下流に吾妻橋が見えます。

「東都隅田川両岸一覧 西」(鶴岡蘆水 天明1(1781)年)
[東都隅田川両岸一覧」は、鶴岡蘆水の作品で、隅田川両岸の連続絵巻となっています。「金龍山聖天宮」部分の抜粋です。
山谷堀の奥に「新吉原」、隅田川に「此舟場吉原舟上りバ大さんばしといふ」 桟橋の左奥に「竹家舟宿」の記載が見えます。

「絵本江戸土産 隅田川 真乳山の夕景」(広重)
真乳山と山谷堀です。

「絵本江戸錦 三囲 待乳山」(豊春)
手前に今戸橋と待乳山、向岸に三囲の鳥居が見えます。

「名所江戸百景 真乳山山谷堀夜景」(広重)
向岸に真乳山と山谷堀が描かれているので、手前は三囲の土手でしょう。向岸は料亭船宿の明かり、手前の墨堤を提灯に導かれる芸妓が描かれています。

「江戸名所道戯尽 八 隅田堤の弥生」(歌川広景)
向岸に、待乳山と今戸橋、山谷堀が見えます。広重の真乳山山谷堀夜景の昼のドタバタバージョンですね。
向島の茶屋では縁台の足が折れて、大変な状況に。女性のキセルと煙草入れが地面に転がっています。曳舟の場面でもキセルが出てきますが、広景はヘビースモーカーだったのかな。


「東京名所三十六戯撰 隅田川」(昇齋一景)
向岸に、今戸橋、山谷堀が見えます。広重の真乳山山谷堀夜景のドタバタバージョンですね。

「隅田川夜」(小林清親)
広重の名所百景を連想させる小林清親の光線画です。
向岸の今戸橋両脇の料亭船宿の明かりが隅田川に映えています。その後ろに、待乳山と慶養寺の木々。手前の墨堤にはシルエットの男女、スティックを持った男の提灯が光を放っています。「竹ヤー」の声が美しい女将の茶屋が傍にある場所です。
タイトルは隅田川夜で場所は明示されていませんが、この場所でしょう。

「東京名所 待乳山夕景」(井上安治)
井上安治が、向岸を拡大したところを描いています。

「東京名所真景之内 如月待乳山雪のたそがれ」(小林清親)

「東都名所 真土山之図」(広重)
向島側から隅田川、真土山、今戸橋、山谷堀を見たところで、真土山に天狗坂が見えます。右に描かれている建物は慶養寺でしょうか。

「江戸名勝図会 真乳山」(広重)
真乳山と、今戸橋、山谷堀が描かれています。

「東都三十六景 今戸橋真乳山」(広重)
雪の真乳山と今戸橋・山谷堀です。

「大日本六十余州名勝図会 六十余州名所図会 武蔵 隅田川雪の朝」(広重)
近景に待乳山と山谷堀が見えます。
待乳山から今戸橋を渡ったところにある料理屋は、玉庄でしょうか。

「江戸高名会亭尽 今戸橋之図 玉庄」(広重)
有名な料理屋だった「玉庄」が描かれています。現在地は隅田公園内の野球場です。

「江戸名所八景 晴嵐(待乳山)」(長喜)
待乳山の境内と拝殿が描かれています。

「画本東都遊 待乳山」(北斎)
葛飾北斎らしく、待乳山の遠景に富士山が見えます。

「絵本隅田川両岸一覧 待乳山の紅葉」(北斎)
葛飾北斎の終焉の地は、待乳山聖天のある聖天町でした。目の前なので何度も行っていると想像します。

待乳山周辺を含めた隅田川右岸の図を連結しています。

「風流浮絵聖天之図」(豊国)
参道と境内・社殿、隅田川が描かれています。参道石階を上がったところに、鳥居が描かれている絵とないものが混在していますが、こちらは鳥居は見えません。

「富士筑波隅田川の図 真乳山望冨岳」(旦霞)
富士山がやけに大きいです。

「東京名所写真帖 待乳山」(明治33(1900)年)

「旅の家つと 第29 都の巻」(明治35(1902)年)

「最新東京名所写真帖 隅田川の桜」(小島又市 明42(1909)年)
明治時代の、待乳山対岸の向島の渡し場を含む隅田川の桜の写真です。

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