花見の名所だった新吉原

○新吉原の花見

 江戸時代の花見の名所は、上野寛永寺、浅草、王子飛鳥山、御殿山、向島の墨堤、小金井などがあり、今でも、上野や飛鳥山、墨堤は、お花見スポットとして有名です。

 江戸時代には、ガイドブックが盛んに出版されており、「江戸名所図会」や、四季の花の見頃と名所を紹介する「江戸遊覧花暦」などを手に人々は花見に繰り出しました。

 「吉原遊郭」も江戸の花見の名所でした。旧暦の3月1日(4月上旬頃)になると、仲之町通りに植木職人が桜の木を数千本も植えました。(「江戸遊覧花暦」に記載あり、しかし数千本は誇張かと思います。)
 桜が散るとぼたんを植え、次はしょうぶ、秋には紅葉を移植し、人工的な花見の名所でした。

 上野の寛永寺は、暮六つ(午後六時頃)の鐘とともに山門が閉ざされ、見物人は追い出され、夜桜は禁止されていましたが、新吉原の花見の名所では、夜桜を楽しめました。

 江戸には一日千両ものお金が動く場所が三カ所あったと、川柳「日に三箱鼻の上下臍の下」と詠まれたのが、芝居町、魚河岸、新吉原です。その新吉原の夜桜は浮世絵に多く描かれています。


「江戸遊覧花暦 新吉原」(岡山鳥/長谷川雪旦画)

 江戸の花見のガイドブックに、新吉原が掲載されています。

hanagoyomi.jpg


「東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図」(広重)

 広大な敷地と周囲に巡らされた鉄漿溝(おはぐろどぶ)が描かれています。
 仲之町の中央には満開の桜が咲いています。

toutomeisyoyoshiwara.jpg

 水道尻に「秋葉常燈明」があります。水道尻の裏門は、酉の市には開放され、大門から通り抜けられるよう便宜が図られました。
 suidouziri.jpg

 鉄漿溝の跳橋も見えます。
 hanebashi.jpg


「東都名所 新吉原」(広重)

 新吉原仲之町より見返柳・日本堤を見た絵です。

toutomeisyosinyosiwara.jpg

 左下の仲之町に満開の桜が見えます。 屋根には、火災に備えての天水桶が見えます。
 toutomeisyosinyosiwarasakura.jpg

 日本堤と見返柳の抜粋です。
 toutomeisyosinyosiwaranihontutumi.jpg

 toutomeisyosinyosiwara2.jpg


「絵本江戸土産 新吉原仲の町上櫻」(広重)

 挿絵には、「吉原大門を入て 直なる通りを仲の町といふ 春時満開の桜を植て芳野初瀬をここに摸せり また灯籠俄の踊りもみなこの仲の町にありて 四時遊楽このうへなし」とあります。

ehonsakura.jpg


「画本東都遊 新吉原」(北斎)

 葛飾北斎も新吉原の桜を描いています。

hokusaisinyoshiwara.jpg


「絵本江戸錦 新吉原」(豊春)

 大門から仲之町の桜が描かれています。竹柵の中には多くの明かりが配されライトアップされています。

edonisikiyoshiwara.jpg


「名所江戸百景 廓中東雲」(広重)

 木戸から朝帰りの遊客が桜が満開の仲之町通りに出てくる光景です。

shinonome.jpg


「江戸名勝図会 吉原」(二代広重)

 桜と花魁が描かれています。

edomeisyouyoshiwara.jpg


「東都三十六景 吉原仲之町」(広重)

 夜桜が行灯に照らされています。

nakanomachi.jpg


「江戸自慢三十六興 新よし原仲の町の桜」(豊国/広重)

 三代豊国と二代広重の合筆です。

36kyouyosiwarasakura.jpg

  
「吉原高名三幅対」(国貞)

 満開の夜桜を背景に、三人の花魁と付き添う禿が描かれています。

sanbukutui.jpg


「全盛花菖蒲之図」(三代豊国)

 菖蒲が植えられた仲之町が描かれています。菖蒲は堀切からの取り寄せでしょうか。

yoshiwarasyobu.jpg


「江戸名所百人美女 新吉原満花」(豊国・国久)

100bizyoyoshiwara.jpg

100bizyoyoshiwara2.jpg


【新吉原全般】

「江戸名所図会 新吉原町」

 挿絵には、「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな 其角」と其角の句が書かれています。
 本文には、庄司甚右衛門から始まる歴史が書かれています。

shinyoshiwara.jpg


「江戸名所図会 新吉原中之町八朔図」

 八朔(八月一日)の情景を描いたものです。

shinyoshiwaranakanomachi.jpg
  

「絵本江戸土産 衣紋坂・見帰柳」(広重)

 「右 日本堤より西の方へ入れば新吉原町なり その下り口に一本の柳あり これを見返り柳といふ またその下り口を衣紋坂といふ これはこの廓に来たる人ここにて衣紋を製ふゆゑの名 柳は後朝この辺より跡を見かへる故の名なるべし」とあります。

ehonemonzaka.jpg


「 江戸高名会亭尽 新吉原衣紋坂日本堤」(広重)

 「狂句合 播磨屋の門きよめにも赤穂しほ 左棟」
 土手八丁に茶屋がずらりと並んでいます。見返り柳から衣紋坂に入ってすぐ左手に料亭「はりまや」が見えます。

koumyoukaiteisinyosiwara.jpg


「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(広重)

 日本堤、見返り柳、衣紋坂、大門が見えます。

emonzaka.jpg

 
「新吉原大門」「新吉原遊郭」(東京名所写真帖 明治33(1900)年)

 明治14(1881)年に鉄の門が完成し、4月1日に開門式が行われています。完成時はアーチはなく、鉄柱だけだったようです。
 写真の大門はアーチが架かっています。桜の木が植えられていた仲之町の中央は、桜の木ではなく電柱が連なっています。

shinyoshiwaraoomon.jpg

shinyoshiwarayuukaku.jpg


「東京名所写真帖 芳原仲ノ町」(美博堂 明治35(1902)年)

 大門は、アーチ部分がなく、門柱のみとなっています。
 仲之町の中央は木が植えられており電柱は見られないので、柱の上にあるのはガス燈でしょう。鉄柱が完成した当時の古い写真を使用しているようです。
 さて、関東大震災で吉原大門は遊女の足抜けを防ぐため閉められたと、東京新聞までが事実誤認の記事を書いています。門柱だけの門をどうやって閉めたのでしょうかね、見解を聞きたいところです。。

syasinnakanomachi.jpg


「新吉原の景」(小林清親)

 ガス灯が見えます。仲之町中央には電柱はなく、木が植えられ木々の間に行灯が見えます。
 まだ夜桜の花見が行われていた時の描画でしょう。

kobayashioomon.jpg


「新吉原夜桜景」(井上安治)

 小林清親の弟子の井上安治の作です。
 タイトルからして、描いた明治13年には、まだ夜桜を行っていたことになります。電柱が設置されてなくなったのでしょうか。

inoueyoshiwara1.jpg


「新吉原夜桜之景」(井上探景(安治))

 外国のご婦人方も、新吉原の夜桜見物に来ていたことがうかがえます。

inoueyoshiwara2.jpg


「東京名所帖 吉原」(井上探景(安治))明治20年)

 井上安治の作です。仲之町の中央には木々が植えられています。まだ夜桜の見物が行われていた時でしょうか。

inoueyoshiwara.jpg


「東京名勝独案内 新吉原夜景」(豊栄堂 明治23年4月)

 大門にはガス燈です。

toukyoumeisyoyosiwara.jpg


「吉原神社及新吉原氏子全図」(明治40年)

 吉原神社に掲示の抜粋です。
 大門にはアーチが架かっています。仲之町中央には電柱はなく、ガス燈だか電灯だかが続いています。

DSC00773_202110222343103b0.jpg


「現在の大門」

 花見の名所だった仲之町の中央は、現在はセンターラインのみです。

DSC00408.jpg

DSC00471.jpg


「吉原細見」(蔦屋重三郎 寛政7 (1795)年)

 当時の妓廊の詳細が記されています。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 吉原江戸名所図会其角庄司甚右衛門歌川広重江戸名所百人美女小林清親井上安治葛飾北斎

浅草ひさご通り/浅草千束通り

○浅草ひさご通り

 「浅草ひさご通り」は、浅草六区から言問通りまで、180mのアーケード商店街です。 ひさご(瓢)とは、かつて浅草公園にあったひょうたん(瓢箪)池が名称の由来です。 (浅草ひさご通り商店街HP
 古くは浅草寺から吉原遊郭へ通ずる沿道として、関東大震災前は凌雲閣(十二階)下の「米久通り」として繁栄しました。
 浅草ひさご通り→千束通り→地方橋通り→今吉柳通り→東京都人権プラザ分館(2018/3/31閉館)と連なります。

DSC04373.jpg

DSC04376.jpg

米久↓
DSC04416.jpg

花やしき↓
DSC04380.jpg


○凌雲閣(浅草12階)

 凌雲閣があった場所は、浅草公園五区千束二丁目三十八番地(現在:台東区浅草2-13-10) で、ひさご通りの米久の脇を入ったところの最初の十字路です。

ryouunkaku.jpg


<浅草公園町会建札>

 「WINS浅草」(台東区浅草2-9-8)にある浅草公園町会建札の凌雲閣の説明です。
「凌雲閣、通称十二階の名で知られ、明治二十三年(一八九〇)に浅草の空に聳え立った日本最高の凌雲閣は、東京市民驚嘆の的であった。凌雲閣は今の浅草東映から西北約五十メートルの地点にあった。(浅草公園五区、千束二丁目三十八番地)  設計者はイギリス人WK・バートン氏。高さ約六十メートル、一階から十階までが煉瓦積みで、十一階と十二階それに屋根は木造であった。八角形の塔状で八階まで日本最初の昇降装置があり、明治二十三年十一月十日に開業した。
 浅草の文明開化の金字塔であった東京名物凌雲閣も、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災で八階から二つに折れ取りこわされてしまった。
  昭和五十二年十月 浅草公園町会建札」

DSC04379.jpg

DSC04377.jpg


<旧町名解説>

 台東区役所の旧町名解説によると、
「浅草千束二丁目には、明治・大正の東京人に親しまれた凌雲閣、通称十二階があった。
 その位置は、現在の浅草二丁目十三番北隅にあたる。近くに凌雲閣の碑がある。」


<昔の位置図>(国立国会図書館資料より)
asakusakouen.jpg


<凌雲閣記念碑>

 パチンコ店「サンシャイン浅草店」(台東区浅草2-14-5)に 「凌雲閣記念碑」(凌雲閣史蹟保存の会)があります。「11月27日に完成」とありますが、開業は予定日の11月10日がずれて11月11日。
 「台東区浅草2丁目14番5号辺りに」とありますが、跡地は台東区浅草2-13-10です。「辺り」と記載しているので、間違いではありません。
 「その跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します」とありますが当時の地図を見ると、ここから北西の凌雲閣に向かう道が記されています。
 運営会社の敷地だったとは思いますが、跡地ではありません。

(碑文)
「1890年(明治23年)11月27日。この地、台東区浅草二丁目14番5号辺りに浅草凌雲閣(通称:十二階)が完成。
設計は東京の上水道設計者でもある英国人ウィリアム・K・バルトンが担当。
当時としては超高層の八角形12階の建物で、1階から10階までが煉瓦積、11・12階が木造で、屋根には風見の付いた避雷針がのり、8階までは日本で最初の電動エレベーターを設置、各階には凡そ50の店が軒をつらねた。
最上階の12階には30倍の望遠鏡が設置され、隅田の流れからお台場を映し品川沖の海、遠くは筑波、秩父の山々が望めたとされる。
観覧料は大人8銭(現在の約700円)子供4銭であったが高所から東京を一望しようという人が押し寄せ、東京随一の観光名所となった。開業から33年の1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で破壊され、その幕を閉じた。
明治・大正の33年間、多くの人達にときめきと感動をあたえ、一世を風靡し浅草の振興に貢献した浅草凌雲閣、その跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します。  凌雲閣史蹟保存の会」

DSC04410.jpg

DSC04404.jpg

DSC04406.jpg


<田山花袋>
  「一日の行楽」(田山花袋)で、「浅草十二階の眺望」として記述しています。

asakusazyuunikai.jpg


○千束通り

 ひさご通りから言問通りを越え、吉原方面に向かい土手通りに至る約1200mに及ぶ商店街となっています。
 (浅草千束通り商店街HP

DSC04374.jpg

DSC04375.jpg


<猿之助横町碑> 台東区浅草3-16-1

 以前設置されていた台東区浅草3-39-10から、道路反対側(浅草3-16-1)に移設されています。
 猿之助横町は台東区浅草3丁目16番と39番の間の西に進む路地です。
 2代目市川猿之助の猿翁(明治21(1888)年5月10日~昭和38(1963)年6月12日)は、浅草で生まれ、浅草で育ちました。
 この辺りは猿之助が住んでいたことから猿之助横町と呼ばれるようになりました。
 昭和36(1961)年3月28日浅草3丁目39番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」が浅草観光連盟の人々によって戦災で焼失したものが再建されたものです。
 ここには説明板はありませんが、浅草神社の猿翁句碑に説明板があります。

現在の設置場所

DSCN3795.jpg

DSCN3796.jpg

DSCN3799.jpg

以前の設置場所,

DSC01358.jpg

DSC01359.jpg


<「猿之助支」電信柱>

 猿之助の名称が電信柱に残っています。

「猿之助支1」
DSC01362.jpg

 「猿之助支2」
DSCN3801.jpg


<市川猿翁の句碑> 台東区浅草2-3-1浅草神社

 浅草神社境内に市川猿翁の句碑があります。
 「翁の文字 まだ身にそはず 衣がへ 猿翁」

(説明板)
「初代 市川猿翁句碑
「翁の文字まだ身にそはず 衣がえ」 猿翁
建碑 昭和四十二年五月十七日
撰文 市川猿翁
孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。昭和三十八年五月、歌舞伎座に於て襲名興行。(浅草寺の襲名お練りは四月十六日)『猿翁』(昭和三十九年六月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず衣がへ 猿翁 昭和三十七年五月猿翁襲名のとき」とある。
明治二十一年五月十日、浅草千束町二丁目に生れる。父、喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助ー段四郎)、母古登の長男。(弟妹は十人)兵役を終えたのち明治四十三年十月(二十二才)で、二代目市川猿之助を襲名。昭和三十八年六月聖路加病院(心不全)にて死去。享年七十五才。
昭和三十六年三月二十八日浅草三丁目三十九番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。
  浅草観光連盟」

DSC02815.jpg

DSC02818.jpg

DSCN4297_20220409201008d7b.jpg


<半助地蔵> 台東区浅草4-22-2

 浅草留の唯一の痕跡かと思います。

「浅草4丁目22番2号浅草中町会会館の角にある。由来は、今を去ること、200余年前、享保~宝暦の頃、江戸中期より末期にかけて、江戸傳馬町の牢に在った囚人の内、疾病に罹かった者を、時の奉行が、当時囚人溜として有名だった浅草溜(武蔵國豊島群千束郷にあり、即ちここの近傍)に護送した。
 古老が語り継いだところによると、傳馬町より疾囚人を畚(もっこ)に乗せ、浅草施無畏橋(ひさご通り)へ搬送した。そこから浅草溜に至る迄は、どんな病人であっても必ず歩かせた。
 この近くに半助と称する名主がいた。資性は温情淳朴で、身を尽くしてこれら囚人を保護看病したため、多くの囚人は慈父のように慕い、恰も暗夜に光明を得たるが如く感泣した。
 後年、半助老人が死没するや、囚人たちの慟哭その極に達し、慈悲の深かったことに報いんと、心を合わせて一体の地蔵尊を彫み、これを祀って朝夕香煙を捧げ掌を合わせて敬慕したという。
 このように有様だったので以来、常に香華の絶えることはなかった。
 後世、これを半助地蔵尊と名付けて参詣者極めて多く、特に疫病除災に効顕新たかだと伝えられている。
 按ずるに今日の免囚保護事業の魁けともいうべく、また以てこの町の誇りとするところだ。(以下略)」
「地名の由来東京23区辞典 台東区の地名の由来 半助地蔵」より引用

DSC04343.jpg

DSC04346.jpg

DSC04347.jpg

DSC04349.jpg

DSC04349a.jpg

DSC04350.jpg

DSC04351.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 吉原田山花袋電信柱江戸幕府施設煉瓦

馬道/馬市

○馬道

 浅草寺の随身門(二天門)を左手に見て、北に向かう道が馬道です。遊客が馬を利用して新吉原へ通う道であったことから起ったとの江戸時代からの俗説がありますが、馬道は家康が江戸入城前から存在しています。

 馬道が駕籠道になる繁盛さ(川柳)
 馬道で横ぞっ方へ手を合わせ(川柳)

DSC02831.jpg

DSCN0736_2022101315403525e.jpg


<旧町名由来案内「旧浅草馬道」> 二天門交差点の角に設置(台東区花川戸1-15)

(説明板)
「「馬道」という町名は相当古くからあり、「御府内備考」によるとすでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣りあたりが北馬道町である。享保十五年(一七三○)には二天門の右手に南馬道新町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺子院街として発展したが、明治十年(一八七七)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和九年(一九三四)さらに浅草馬道町は隣接する幾つかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。
 町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。 台東区」

DSC02811.jpg

DSC02812.jpg

 上記旧町名由来案内では、「町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。」としています。下谷・浅草町名由来考(台東区)でも、浅草寺の僧が、北方にある「僧正ヶ馬場」へ乗馬練習に通った道だからとしています。


<馬市 藪の内>(江戸名所図会)

「馬市
 藪の内といへるにあり 毎歳十二月なかばのころ 南部駒三歳立なるを ここに出して売買す。」
 挿絵には、馬の購入前に試乗する武士と馬が躍動しています。

umaichi.jpg


<江戸切絵図>

 「俗ニ藪之内ト云」とあります。現在の花川戸2丁目辺りです。

yabunouchi.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 吉原江戸名所図会

吉原神社/吉原弁財天

○吉原神社 台東区千束3-20-2 03-3872-5966

<5つの稲荷社>

 新吉原には5つの稲荷社が存在しました。
 大門の手前に「玄徳稲荷社(吉徳稲荷社)」 、廓内の4隅に「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」が祀られていました。吉原神社は5つの稲荷社を合祀しています。

DSC00199.jpg

DSC00400.jpg


<久保田万太郎の句碑>
 浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・作家の久保田万太郎の句碑があります。
 「この里に おぼろふたたび 濃きならむ 万」

DSC00198.jpg


<逢初桜>
 吉原大門手前の右手に吉徳稲荷、稲生の手前に駒止松、その手前に逢初桜。
 吉原大門手前の左手の逢初桜の対面に見返り柳が描かれています。

DSC00196.jpg

DSC00195b_20190805133029536.jpg
      

<吉原今昔図>
 吉原今昔図として、貴重な資料が掲示されています。
 吉原カフェ建築探訪で、旧屋号を確認するのに重宝しました。
 明治27年、大正12年、昭和20年、昭和33年、現在と、個々の店舗が記録されています。

DSC00390.jpg


<銭湯が2カ所あった>
 色々な店があって、興味深いです。
 たとえば銭湯が「松の湯」と「櫻湯」の2カ所ありました。

DSC00392b.jpg

DSC00392c.jpg


○吉原弁財天 台東区千束3-22-3

<寄進>
 寄進者をみていくと「大文字楼 波木井長」「角海老楼 遠藤はつ」「三浦屋 高野治吉」等々。

DSC00884.jpg

DSC00883_201908051340306e6.jpg

DSC00882.jpg

DSC00885.jpg


<燈籠寄進など>
 蔦福の寄進「燈明碑」や、稲本楼と大文字楼の寄進による「燈籠(奉 稲本楼 大文字楼)」があります。

DSC00892.jpg

DSC00894.jpg

DSC00895.jpg


<蛇塚>
 昔、塚(古墳)だったことを示す「蛇塚」があります。塚(古墳)だったところに、吉原弁財天があります。

DSCN7268.jpg


<新吉原花園池(弁天池)跡>
 案内板より引用
「江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、 明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、 毎年正月に多くの参詣者が訪れている。
  池は、花園池・弁天池の名で呼ばれていたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、 490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の筑山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
  平成10年3月 台東区教育委員会」

DSC00207.jpg

DSCN7269.jpg

DSC00200.jpg

DSC00201.jpg

DSC00891.jpg

DSC00888.jpg


<吉原観音>
 前掲案内板。

DSC00203.jpg


<花吉原名残碑>
 吉原遊郭の歴史を永く止めようと昭和35年に地域有志の皆様によって建立された石碑。
 碑文は共立大学教授で俳人の山路閑古氏の撰。

DSC00204.jpg


<庄司甚右衛門の碑>
  「花吉原名残碑」の右に、元吉原の創設者である初代惣名主庄司甚右衛門の碑があります。漢文で刻まれています。

DSCN7259_20191210090515f58.jpg

DSCN7261_20191210090516c61.jpg

※(参考)庄司甚右衛門碑/庄司甚右衛門墓(雲光院)はこちらで記載しています。


<智栄上人歌碑>
 こちらで記載しています。


<吉原弁財天本宮社殿> 台東区千束3-22-3
 吉原弁財天の本宮です。
 平成24年に有志の方々によって改修工事が行われ、壁一面には東京芸術大学等の学生等による壁画が描かれました。

DSC00209.jpg

DSC00893.jpg

DSC00212.jpg

DSC00213.jpg


○千束繁城稲荷神社 台東区千束3-3-6
 マイナーな稲荷神社です。

DSC00618.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 吉原庄司甚右衛門久保田万太郎古墳

吉原への道

○吉原への道

 馬が吉原通いに使われたのは元禄前後で、寛文元(1661)年に馬での登楼は禁止され、駕籠と舟が主となり馬は使われなくなりました。 なお、駕籠で通うことは幕府により禁じられていましたが、守られていませんでした。

DSC00635.jpg


<徒歩、籠、馬で行く場合>

① 浅草寺の横の馬道を進み、田町一丁目から禿坂を上がって日本堤へ出る道。
 船以外ではメインのルートだったようです。

② 浅草寺の裏の田圃を通り、田町二丁目から化粧坂を上がって日本堤へ出る道。
 現在のほぼ千束通りかと思いますが、途中に浅草溜があります。人通りの乏しい田んぼ道だったので、メインではなかったようです。

③ 箕輪から日本堤へ出る道。

④ 下谷竜泉寺町から茶屋通りを進み、お歯黒どぶへ出る道。


<舟で行く場合>

 柳橋の船宿から猪牙舟で隅田川をさかのぼり山谷堀に至り、日本堤に出て徒歩か籠で行くもの。猪牙舟は隅田川から山谷堀へ入り、今戸橋を過ぎたあたりの船宿の桟橋に着きます。柳橋から今戸橋桟橋まで船賃は148文でした。
 今戸橋桟橋で下船し、船宿で一服してから、日本堤を徒歩か籠で吉原に向かいます。今戸の船宿は吉原に行く遊客のほか、猿若町へ行く芝居客の中継地でもありました。

 吉原や地方橋まで猪牙舟が山谷堀を行ったという記述をウィキ等で見かけますが、俗説で根拠はないようです。今戸橋から現在の聖天橋までは川幅が広いですが、聖天橋から一気に川幅は狭くなり、桟橋のあるところでも、引き潮には底の浅い猪牙舟以外の船は底をついたようです。

「新吉原聖賢画図」(寛政2(1790) 秩父屋 二代喜三二 作 桜文橋 画)に描かれているちょきぶね
tyokibune.jpg


<土手八丁>

 いずれにしても、日本堤を通ることとなります。山谷から箕輪までの日本堤は十三町ほどで「俗に通い馴れたる土手八丁」は、道哲庵(西方寺)の右側の日本堤取付から吉原の入口の衣紋坂まで八丁あることを言っています。
 浅草寺からの馬道から土手に出ると、土手に出てから四丁半です。道哲庵を過ぎ左側に砂利場、山川町、禿坂、田町一丁目、袖摺稲荷、粧坂、田町二丁目、編笠茶屋、孔雀長屋と続き、見返り柳に着きます。

「新吉原之図」(旧幕府引継書 国立国会図書館蔵) より。日本堤取付の西方寺と田町が記載されています。

nihontutumia.jpg

nihontutumib.jpg


「江戸切絵図」の「西方寺」及び「砂利バ」部分抜粋と日本堤。

kiriezua_20220920122951f13.jpg

kiriezuc.jpg


○浅草田町

 江戸切絵図で浅草田町を見ると、「クジャクナカヤ」(孔雀長屋)、「アミカサ茶ヤ」「袖スリイナリ」(袖摺稲荷)「砂利場」があります。

 「角川地名大辞典」の田町の項によれば、「江戸城修築の際に砂利採取場となった地。通称砂利場といわれた。無許可で町が開かれ、はじめ泥町と称したがのちに田町と改称し,さらに1〜2丁目となる。砂利場跡は1丁目で、埋め立てられて埋堀と俗称。
2丁目には、吉原通いの遊客が編笠を借りた編笠茶屋28軒があった。また1〜2丁目の境に袖摺稲荷神社(衽稲荷)があった。」


<浅草田町1丁目>

「本町は江戸時代から、自然発生的に町屋が開かれ、すでに一・二丁目に分けられていた。延宝五年(一六七七)に本町西側の砂利採取場から日本堤際にかけて新規家作を願い出て、宝永元年(一七〇四)町屋として正式に許可された。万治三年(一六六〇)の江戸城修築の際に、工事用の砂利を採取したところを埋立てて町屋にし、町域を広げていった。
 (中略)
 町名の由来は、『寛文図』がこの付近一帯に「田」という記入をしていることから、田地だったことにちなむと考えられている。」(台東区HPより)


<砂利場>

  山谷堀三谷橋(現在の吉野橋)の上流右岸に砂利場(田町一丁目)下流左岸に弾左衛門の居所が記されています。


<田町2丁目の現在>

DSC00876.jpg


□日本堤が崩された時になくなった坂(衣紋坂、化粧坂、禿坂)

○衣紋坂(えもんざか)/五十間道

 日本堤から新吉原へ向かう連絡路の坂道が五十間道です。衣紋坂入り口左に見返り柳、右に駒止松がありました。日本堤は崩され土手通りとなり低くなったので、坂はなくなっています。
 なぜ直線ではなく、曲がっているのか、主に以下3説があります。
・高さ3mの日本堤から吉原大門へ一気に下りる勾配なので、くの字型に道を曲げざるを得なかった。
  (東京の坂風情 道家剛三郎 東京図書出版会)
・風致上も郭の格式上も見通しでは面白くないということでこのようになった。
  ([考証]江戸の面影(二))
・町奉行神尾備前守元勝の指図で三曲がりの道となった。
 これは、将軍が鷹狩にきたときに、大門が直接見えないように配慮したものといわれている。
  (坂の町・江戸東京を歩く 大石学 PHP研究所)


<見返り柳/高札場/吉徳稲荷/駒止松>

 衣紋坂に向かって左側に見返り柳、右側に高札場、高札場の隣に吉徳稲荷の鳥居と駒止松があります。衣紋坂から大門まで五十間あり、五十間道と呼ばれました。

DSC00397_20190804204120b8e.jpg

oomon.jpg

DSC00195b_20190804204117a51.jpg


「江戸名所若人美女 吉徳稲荷」(豊国・国久)

 こま絵に「高札場」と「吉徳稲荷」が描かれています。

100bizyoyoshitoku.jpg

100bizyoyoshitoku2.jpg


<廓の三雅木>

 新吉原入口の玄徳稲荷社脇「逢初桜」「駒止松」、「見返り柳」と合わせて 「廓の三雅木」として知られていました。
  (吉原神社:http://yoshiwarajinja.tokyo-jinjacho.or.jp/keidai00.html


<見返り柳> 台東区千束4-10-8吉原大門交差点ガソリンスタンド前

 見返り柳の案内板より引用します。
「見返り柳
 旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。
 遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから、「見返り柳」の名があり、
  きぬぎぬの後ろ髪ひく柳かな
  見返れば意見か柳顔をうち
など、多くの川柳の題材となっている。
 かっては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、 また、震災・戦災よる焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。
  平成八年七月 台東区教育委員会」

DSC00189_20190804204114fe6.jpg

DSC00190_20190804204116bfb.jpg


<見返り柳の道標>

 正面は「新吉原衣紋坂 見返り柳」と彫られ、側面は「大門此処より西一丁」と道標となっています。

DSC00186_201908042041110f5.jpg

DSC00187_201908042041136da.jpg

DSC00492_20190804204122096.jpg

DSC00493_2019080420412379e.jpg


<吉原大門>

DSC00408.jpg

DSC00405.jpg

DSC00404.jpg

DSC00471.jpg


「江戸名所図会 新吉原町」

 挿絵には「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな 其角」とあります。

zueshinyoshiwara.jpg


○化粧坂(けわいざか)

 化粧坂は、現在の千束通りから日本堤に上がる坂でした (江戸切絵図に田町から日本堤に上がる道が記されています)。坂の左右に編笠茶屋がありました。遊客はここで編笠を借り、扇子で顔を覆いながら大門をくぐりました。
 編笠茶屋は田町から日本堤に上がる化粧坂の両側と、吉原大門へ下る五十間道の両側の2カ所ありました。

「嬉遊笑覧」巻九娼妓中(p300)
 吉原に通ふ者編笠著さるやうになりしは享保より稀になり元文に至りて全くやみたり」とあります。編み笠で顔を隠すのは江戸初期だけの風俗習慣でした。

(参考)化粧坂の記載がある本
「江戸の坂東京の坂」横関英一
「江戸東京坂道辞典」新人物往来社
「坂の町・江戸東京を歩く」大石学
「東京の坂風情」道家剛三郎


<江戸切絵図>

 浅草田町を見ると、「クジャクナカヤ」(孔雀長屋)、「アミカサ茶ヤ」「袖スリイナリ」(袖摺稲荷)があります。 孔雀長屋のはずれの長屋にいる美人が有名でした。

kiriezutamachi.jpg


「江戸名所百人美女 浅草田町」(豊国・国久 安政5(1859)年)

 浅草田町の編笠茶屋から、遊郭に大きな箱提灯を持って新吉原遊郭へ案内する美人(孔雀長屋の評判の美人でしょうか)が描かれています。こま絵には、編笠茶屋が描かれています。浅草田町から日本堤へ上がる化粧坂が見えます。化粧坂の手前には、新吉原遊郭のお歯黒どぶから流れてくるドブが見えます。

bizyotamachi1.jpg

bizyotamachi.jpg


○禿坂(かむろざか) 浅草5丁目と6丁目の境

 「江戸の坂東京の坂」横関英一著によると、「田町の袖摺稲荷からの付近から、吉原土手へ上る坂であった。今の山谷堀橋のあるところが、昔の禿坂のあったところであろう。吉原土手が崩されたときに消えてしまった坂の一つ。」としています。
 江戸切絵図で確認すると、馬道が日本堤にぶつかるのは、昔は山谷橋よりもう少々下流のところです。


○江戸時代の川柳

「田町でハそるゑもんではのめる也」 (川柳集成 山沢英雄より)

 駕籠で吉原に行くときの日本堤の2つの坂を上がって下りる様子をよんだ川柳です。
 浅草仁王門から駕籠に乗って吉原に行く場合、馬道北谷、南谷を二、三度曲折して、六郷邸、浅草富士を左に見て田町から禿坂を登って日本堤を北へ向かい、衣紋坂を下ると大門に出ます。駕籠にのって田町の禿坂を上がっていく時は体が後ろにそり、衣紋坂を下っていく時は体が前にのめります。

「江戸名所道外尽 四十八 新よし原えもんさか」(歌川広景)
 衣紋坂で駕籠が人とぶつかって、乗っていた人は、体がのめるどころか、転げ落ちています。

douke48emonzaka.jpg

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 江戸名所図会其角吉原歌川広景江戸名所百人美女

カウンター
プロフィール

ほっと湯Web

Author:ほっと湯Web

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
05 | 2023/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
検索フォーム
リンク
カテゴリ
タグリスト

全記事タイトル表示

全ての記事を表示する

Japanese→English
English
♥. ♠. ♣Alice
QRコード
QR