下町まちしるべ 吉原六ヶ町

下町まちしるべ 吉原六ヶ町

 新吉原は、江戸町一丁目、江戸町二丁目、揚屋町、角町、京町一丁目、京町二丁目と6町あります。

○浅草新吉原江戸町一丁目 台東区千束4-40-6 江戸町通り

 江戸町通り「吉原公園」入口脇に設置されています。

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草新吉原江戸町一丁目
 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転
するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五カ町であった。そのうちの江戸町一丁目は元和四年の吉原開設とともにできたが、はじめは本柳一丁目と呼ばれていた。その後、江戸が大変繁盛していたことから、これにあやかって江戸町一丁目と改称した。 台東区」

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<龍吐水>
 吉原公園内に「動力龍吐水格納庫」が置かれています。
 「動力龍吐水格納庫」「吉原六ヶ町会 浅草防犯健全協力会」
 江戸時代に、龍吐水(りゅうどすい)と呼ばれる木製の腕用ポンプが開発され、町火消組で使用されていました。放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから名付けられたといわれています。
 放水距離が短く水量も少なく、火災を消火できるほどではありませんでした(板橋区立郷土資料館の解説では、龍吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものと言いきっています)。
 火災の延焼阻止には家々を破壊するいわゆる破壊消防がもっぱら用いられました。
 さて、動力とあり、どんな消火ポンプが格納されているのでしょうか。吉原公園にもあります。
 浅草防犯健全協力会のHPを見ると、個室付き浴場業者と物件所有者で組織されています。

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(参考)
 石神井神社(越谷市西新井)の龍吐水(こちらで記載
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(参考)
 ポンプ車及び輅車(らくしゃ) 板橋区立郷土資料館(こちらで記載
(説明板)
「ポンプ車及び輅車
 明治3年(1870)にイギリスから輸入されたのが、この形式のポンプ車の始まりである。同17年には警視庁で製作され、実際に配備された。こうして江戸時代以来の「竜吐水」は廃止された。
 竜吐水は火を消す人が火傷をしないように水をかけるためのものであり、直接消火に役立つものではなかったが、ポンプ車はこの意味でも画期的なものだった。
 輅車は普通、消防自動車に詰まれ、火災現場に到着すると降ろし、これを引いて走りながらホースを伸ばすものである。」
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○浅草新吉原江戸町二丁目 台東区千束4-15 仲之町通り

 仲之町通り「よし原大門」の脇に設置されています。

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草新吉原江戸町二丁目
 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転
するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五カ町であった。そのうちの江戸町二丁目は元和四年(一六一八)にできたが、はじめは本柳二丁目と呼ばれていた。その後、江戸が大変繁盛していたことから、これにあやかって江戸町二丁目と改称した。 台東区」

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○浅草新吉原揚屋町 台東区千束4-31-2 仲之町通り

 千束四丁目交差点の仲之町通り側に設置されています。

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草新吉原揚屋町
 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転
するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。揚屋町ができたのは、吉原が新吉原へ移転する際に、それまで各町にあつたいくつかの揚屋を一力所にまとめたときである。 台東区」

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○浅草新吉原角町 台東区千束4-24-12 角町通り

 千束四丁目交差点「新吉原会館」の角町通り側に設置されています。

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草新吉原角町
 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊郭開設を許可した。遊郭は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転
するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。そのうちの角町は寛永三年に京橋角町の傾城屋約十軒が移転してできた町である。 台東
区」

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○浅草新吉原京町一丁目 台東区千束4-29-5 京町通り

 「千束保健センター交差点」の京町通り側に設置されています。

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草新吉原京町一丁目
 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊廓開設を許可した。遊廓は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転
するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。そのうちの京町一丁目は元和四年にできた町で、名の起こりは、そこで営業していた者の多くが京都出身者であったことに由来している。 台東区」

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○浅草新吉原京町二丁目 台東区千束3-26-18 京町公園

 京町通り「京町公園」内に設置されています。

(説明板)
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
 旧 浅草新吉原京町二丁目
 元和三年(一六一七)幕府は日本橋葺屋町東側(現日本橋人形町二丁目付近)に江戸では唯一の遊廓開設を許可した。遊廓は翌年、営業を開始したが葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、はじめのころは“葭原”(よしわら)と呼ばれた。そして寛永三年(一六二六)に縁起のいい文字にかえて吉原となった。明暦二年(一六五六)になると町奉行から、吉原を浅草日本堤へ移転
するように命じられ、翌三年に移転した。それから、この付近は浅草新吉原と呼ばれるようになった。
 日本橋に開設されたころの吉原は江戸町一丁目、二丁目、京町一丁目、二丁目、角町の五力町であった。そのうちの京町二丁目は一丁目より遅く、元和六年(一六二○)頃にできた町で、大阪や奈良から移ってきた人達が営業をはじめた。 台東区」

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<京町公園>

 京町公園は、間口が狭く奥行きが長く、かつての楼閣の名残りです。
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 時計塔には蝉のオブジェがとまっています。
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 トイレの外には、起きているフクロウと寝ているフクロウがいます。
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 以前のジャングルジムと一体化したすべり台
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 現在のすべり台
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 フラワーカップの遊具があります。
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 回転遊具があります。
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<龍吐水>

 公園内に「動力龍吐水格納庫」が置かれています。
 「動力龍吐水格納庫」「吉原六ヶ町会 浅草防犯健全協力会」
 江戸時代に、龍吐水(りゅうどすい)と呼ばれる木製の腕用ポンプが開発され、町火消組で使用されていました。放水する様子が、龍が水を吐くように見えたことから名付けられたといわれています。
 放水距離が短く水量も少なく、火災を消火できるほどではないため、火災の延焼阻止には家々を破壊するいわゆる破壊消防がもっぱら用いられました。
 さて、動力とあり、どんな消火ポンプが格納されているのでしょうか。吉原公園にもあります。
 浅草防犯健全協力会のHPを見ると、個室付き浴場業者と物件所有者で組織されています。

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 吉原下町まちしるべ

花見の名所だった新吉原

○新吉原の花見

 江戸時代の花見の名所は、上野寛永寺、浅草、王子飛鳥山、御殿山、向島の墨堤、小金井などがあり、今でも、上野や飛鳥山、墨堤は、お花見スポットとして有名です。

 江戸時代には、ガイドブックが盛んに出版されており、「江戸名所図会」や、四季の花の見頃と名所を紹介する「江戸遊覧花暦」などを手に人々は花見に繰り出しました。

 「吉原遊郭」も江戸の花見の名所でした。旧暦の3月1日(4月上旬頃)になると、仲之町通りに植木職人が桜の木を数千本も植えました。(「江戸遊覧花暦」に記載あり、しかし数千本は誇張かと思います。)
 桜が散るとぼたんを植え、次はしょうぶ、秋には紅葉を移植し、人工的な花見の名所でした。

 上野の寛永寺は、暮六つ(午後六時頃)の鐘とともに山門が閉ざされ、見物人は追い出され、夜桜は禁止されていましたが、新吉原の花見の名所では、夜桜を楽しめました。

 江戸には一日千両ものお金が動く場所が三カ所あったと、川柳「日に三箱鼻の上下臍の下」と詠まれたのが、芝居町、魚河岸、新吉原です。その新吉原の夜桜は浮世絵に多く描かれています。


「江戸遊覧花暦 新吉原」(岡山鳥/長谷川雪旦画)

 江戸の花見のガイドブックに、新吉原が掲載されています。

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「東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図」(広重)

 広大な敷地と周囲に巡らされた鉄漿溝(おはぐろどぶ)が描かれています。
 仲之町の中央には満開の桜が咲いています。

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 水道尻に「秋葉常燈明」があります。水道尻の裏門は、酉の市には開放され、大門から通り抜けられるよう便宜が図られました。
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 鉄漿溝の跳橋も見えます。
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「東都名所 新吉原」(広重)

 新吉原仲之町より見返柳・日本堤を見た絵です。

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 左下の仲之町に満開の桜が見えます。 屋根には、火災に備えての天水桶が見えます。
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 日本堤と見返柳の抜粋です。
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「絵本江戸土産 新吉原仲の町上櫻」(広重)

 挿絵には、「吉原大門を入て 直なる通りを仲の町といふ 春時満開の桜を植て芳野初瀬をここに摸せり また灯籠俄の踊りもみなこの仲の町にありて 四時遊楽このうへなし」とあります。

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「画本東都遊 新吉原」(北斎)

 葛飾北斎も新吉原の桜を描いています。

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「絵本江戸錦 新吉原」(豊春)

 大門から仲之町の桜が描かれています。竹柵の中には多くの明かりが配されライトアップされています。

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「名所江戸百景 廓中東雲」(広重)

 木戸から朝帰りの遊客が桜が満開の仲之町通りに出てくる光景です。

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「江戸名勝図会 吉原」(二代広重)

 桜と花魁が描かれています。

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「東都三十六景 吉原仲之町」(広重)

 夜桜が行灯に照らされています。

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「江戸自慢三十六興 新よし原仲の町の桜」(豊国/広重)

 三代豊国と二代広重の合筆です。

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「吉原高名三幅対」(国貞)

 満開の夜桜を背景に、三人の花魁と付き添う禿が描かれています。

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「全盛花菖蒲之図」(三代豊国)

 菖蒲が植えられた仲之町が描かれています。菖蒲は堀切からの取り寄せでしょうか。

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「江戸名所百人美女 新吉原満花」(豊国・国久)

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【新吉原全般】

「江戸名所図会 新吉原町」

 挿絵には、「闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな 其角」と其角の句が書かれています。
 本文には、庄司甚右衛門から始まる歴史が書かれています。

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「江戸名所図会 新吉原中之町八朔図」

 八朔(八月一日)の情景を描いたものです。

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「絵本江戸土産 衣紋坂・見帰柳」(広重)

 「右 日本堤より西の方へ入れば新吉原町なり その下り口に一本の柳あり これを見返り柳といふ またその下り口を衣紋坂といふ これはこの廓に来たる人ここにて衣紋を製ふゆゑの名 柳は後朝この辺より跡を見かへる故の名なるべし」とあります。

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「 江戸高名会亭尽 新吉原衣紋坂日本堤」(広重)

 「狂句合 播磨屋の門きよめにも赤穂しほ 左棟」
 土手八丁に茶屋がずらりと並んでいます。見返り柳から衣紋坂に入ってすぐ左手に料亭「はりまや」が見えます。

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「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(広重)

 日本堤、見返り柳、衣紋坂、大門が見えます。

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「新吉原大門」「新吉原遊郭」(東京名所写真帖 明治33(1900)年)

 明治14(1881)年に鉄の門が完成し、4月1日に開門式が行われています。完成時はアーチはなく、鉄柱だけだったようです。
 写真の大門はアーチが架かっています。桜の木が植えられていた仲之町の中央は、桜の木ではなく電柱が連なっています。

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「東京名所写真帖 芳原仲ノ町」(美博堂 明治35(1902)年)

 大門は、アーチ部分がなく、門柱のみとなっています。
 仲之町の中央は木が植えられており電柱は見られないので、柱の上にあるのはガス燈でしょう。鉄柱が完成した当時の古い写真を使用しているようです。
 さて、関東大震災で吉原大門は遊女の足抜けを防ぐため閉められたと、東京新聞までが事実誤認の記事を書いています。門柱だけの門をどうやって閉めたのでしょうかね、見解を聞きたいところです。。

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「新吉原の景」(小林清親)

 ガス灯が見えます。仲之町中央には電柱はなく、木が植えられ木々の間に行灯が見えます。
 まだ夜桜の花見が行われていた時の描画でしょう。

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「新吉原夜桜景」(井上安治)

 小林清親の弟子の井上安治の作です。
 タイトルからして、描いた明治13年には、まだ夜桜を行っていたことになります。電柱が設置されてなくなったのでしょうか。

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「新吉原夜桜之景」(井上探景(安治))

 外国のご婦人方も、新吉原の夜桜見物に来ていたことがうかがえます。

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「東京名所帖 吉原」(井上探景(安治))明治20年)

 井上安治の作です。仲之町の中央には木々が植えられています。まだ夜桜の見物が行われていた時でしょうか。

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「東京名勝独案内 新吉原夜景」(豊栄堂 明治23年4月)

 大門にはガス燈です。

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「吉原神社及新吉原氏子全図」(明治40年)

 吉原神社に掲示の抜粋です。
 大門にはアーチが架かっています。仲之町中央には電柱はなく、ガス燈だか電灯だかが続いています。

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「現在の大門」

 花見の名所だった仲之町の中央は、現在はセンターラインのみです。

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「吉原細見」(蔦屋重三郎 寛政7 (1795)年)

 当時の妓廊の詳細が記されています。

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tag : 吉原江戸名所図会其角庄司甚右衛門歌川広重江戸名所百人美女小林清親井上安治葛飾北斎

浅草ひさご通り/浅草千束通り

○浅草ひさご通り

 「浅草ひさご通り」は、浅草六区から言問通りまで、180mのアーケード商店街です。 ひさご(瓢)とは、かつて浅草公園にあったひょうたん(瓢箪)池が名称の由来です。 (浅草ひさご通り商店街HP
 古くは浅草寺から吉原遊郭へ通ずる沿道として、関東大震災前は凌雲閣(十二階)下の「米久通り」として繁栄しました。
 浅草ひさご通り→千束通り→地方橋通り→今吉柳通り→東京都人権プラザ分館(2018/3/31閉館)と連なります。

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米久↓
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花やしき↓
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○凌雲閣(浅草12階)

 凌雲閣があった場所は、浅草公園五区千束二丁目三十八番地(現在:台東区浅草2-13-10) で、ひさご通りの米久の脇を入ったところの最初の十字路です。

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<浅草公園町会建札>

 「WINS浅草」(台東区浅草2-9-8)にある浅草公園町会建札の凌雲閣の説明です。
「凌雲閣、通称十二階の名で知られ、明治二十三年(一八九〇)に浅草の空に聳え立った日本最高の凌雲閣は、東京市民驚嘆の的であった。凌雲閣は今の浅草東映から西北約五十メートルの地点にあった。(浅草公園五区、千束二丁目三十八番地)  設計者はイギリス人WK・バートン氏。高さ約六十メートル、一階から十階までが煉瓦積みで、十一階と十二階それに屋根は木造であった。八角形の塔状で八階まで日本最初の昇降装置があり、明治二十三年十一月十日に開業した。
 浅草の文明開化の金字塔であった東京名物凌雲閣も、大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災で八階から二つに折れ取りこわされてしまった。
  昭和五十二年十月 浅草公園町会建札」

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<旧町名解説>

 台東区役所の旧町名解説によると、
「浅草千束二丁目には、明治・大正の東京人に親しまれた凌雲閣、通称十二階があった。
 その位置は、現在の浅草二丁目十三番北隅にあたる。近くに凌雲閣の碑がある。」


<昔の位置図>(国立国会図書館資料より)
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<凌雲閣記念碑>

 パチンコ店「サンシャイン浅草店」(台東区浅草2-14-5)に 「凌雲閣記念碑」(凌雲閣史蹟保存の会)があります。「11月27日に完成」とありますが、開業は予定日の11月10日がずれて11月11日。
 「台東区浅草2丁目14番5号辺りに」とありますが、跡地は台東区浅草2-13-10です。「辺り」と記載しているので、間違いではありません。
 「その跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します」とありますが当時の地図を見ると、ここから北西の凌雲閣に向かう道が記されています。
 運営会社の敷地だったとは思いますが、跡地ではありません。

(碑文)
「1890年(明治23年)11月27日。この地、台東区浅草二丁目14番5号辺りに浅草凌雲閣(通称:十二階)が完成。
設計は東京の上水道設計者でもある英国人ウィリアム・K・バルトンが担当。
当時としては超高層の八角形12階の建物で、1階から10階までが煉瓦積、11・12階が木造で、屋根には風見の付いた避雷針がのり、8階までは日本で最初の電動エレベーターを設置、各階には凡そ50の店が軒をつらねた。
最上階の12階には30倍の望遠鏡が設置され、隅田の流れからお台場を映し品川沖の海、遠くは筑波、秩父の山々が望めたとされる。
観覧料は大人8銭(現在の約700円)子供4銭であったが高所から東京を一望しようという人が押し寄せ、東京随一の観光名所となった。開業から33年の1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で破壊され、その幕を閉じた。
明治・大正の33年間、多くの人達にときめきと感動をあたえ、一世を風靡し浅草の振興に貢献した浅草凌雲閣、その跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します。  凌雲閣史蹟保存の会」

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<田山花袋>
  「一日の行楽」(田山花袋)で、「浅草十二階の眺望」として記述しています。

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<浅草十二階下>

 浅草十二階下の一帯は銘酒屋街となっており、私娼窟と化していました。文学者達も多く通いました。芥川龍之介、石川啄木、江戸川乱歩、川端康成、北原白秋、高村光太郎、谷崎潤一郎、永井荷風、室生犀星等々。石川啄木は「地上の仙境」と記しています。


○千束通り

 ひさご通りから言問通りを越え、吉原方面に向かい土手通りに至る約1200mに及ぶ商店街となっています。
 (浅草千束通り商店街HP

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<猿之助横町碑> 台東区浅草3-16-1

 以前設置されていた台東区浅草3-39-10から、道路反対側(浅草3-16-1)に移設されています。
 猿之助横町は台東区浅草3丁目16番と39番の間の西に進む路地です。
 2代目市川猿之助の猿翁(明治21(1888)年5月10日~昭和38(1963)年6月12日)は、浅草で生まれ、浅草で育ちました。
 この辺りは猿之助が住んでいたことから猿之助横町と呼ばれるようになりました。
 昭和36(1961)年3月28日浅草3丁目39番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」が浅草観光連盟の人々によって戦災で焼失したものが再建されたものです。
 ここには説明板はありませんが、浅草神社の猿翁句碑に説明板があります。

現在の設置場所

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以前の設置場所,

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<「猿之助支」電信柱>

 猿之助の名称が電信柱に残っています。

「猿之助支1」
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 「猿之助支2」
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<市川猿翁の句碑> 台東区浅草2-3-1浅草神社

 浅草神社境内に市川猿翁の句碑があります。
 「翁の文字 まだ身にそはず 衣がへ 猿翁」

(説明板)
「初代 市川猿翁句碑
「翁の文字まだ身にそはず 衣がえ」 猿翁
建碑 昭和四十二年五月十七日
撰文 市川猿翁
孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。昭和三十八年五月、歌舞伎座に於て襲名興行。(浅草寺の襲名お練りは四月十六日)『猿翁』(昭和三十九年六月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず衣がへ 猿翁 昭和三十七年五月猿翁襲名のとき」とある。
明治二十一年五月十日、浅草千束町二丁目に生れる。父、喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助ー段四郎)、母古登の長男。(弟妹は十人)兵役を終えたのち明治四十三年十月(二十二才)で、二代目市川猿之助を襲名。昭和三十八年六月聖路加病院(心不全)にて死去。享年七十五才。
昭和三十六年三月二十八日浅草三丁目三十九番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。
  浅草観光連盟」

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<半助地蔵> 台東区浅草4-22-2

 浅草留の唯一の痕跡かと思います。

「浅草4丁目22番2号浅草中町会会館の角にある。由来は、今を去ること、200余年前、享保~宝暦の頃、江戸中期より末期にかけて、江戸傳馬町の牢に在った囚人の内、疾病に罹かった者を、時の奉行が、当時囚人溜として有名だった浅草溜(武蔵國豊島群千束郷にあり、即ちここの近傍)に護送した。
 古老が語り継いだところによると、傳馬町より疾囚人を畚(もっこ)に乗せ、浅草施無畏橋(ひさご通り)へ搬送した。そこから浅草溜に至る迄は、どんな病人であっても必ず歩かせた。
 この近くに半助と称する名主がいた。資性は温情淳朴で、身を尽くしてこれら囚人を保護看病したため、多くの囚人は慈父のように慕い、恰も暗夜に光明を得たるが如く感泣した。
 後年、半助老人が死没するや、囚人たちの慟哭その極に達し、慈悲の深かったことに報いんと、心を合わせて一体の地蔵尊を彫み、これを祀って朝夕香煙を捧げ掌を合わせて敬慕したという。
 このように有様だったので以来、常に香華の絶えることはなかった。
 後世、これを半助地蔵尊と名付けて参詣者極めて多く、特に疫病除災に効顕新たかだと伝えられている。
 按ずるに今日の免囚保護事業の魁けともいうべく、また以てこの町の誇りとするところだ。(以下略)」
「地名の由来東京23区辞典 台東区の地名の由来 半助地蔵」より引用

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浅草馬道/馬市

○馬道

 浅草寺の随身門(二天門)を左手に見て、北に向かう道が馬道です。遊客が馬を利用して新吉原へ通う道であったことから起ったとの江戸時代からの俗説がありますが、馬道は家康が江戸入城前から存在しています。

 馬道が駕籠道になる繁盛さ(川柳)
 馬道で横ぞっ方へ手を合わせ(川柳)

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<旧町名由来案内 下町まちしるべ> 二天門交差点の角に設置(台東区花川戸1-15)

(説明板)
「旧浅草馬道
 「馬道」という町名は相当古くからあり、「御府内備考」によるとすでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣りあたりが北馬道町である。享保十五年(一七三○)には二天門の右手に南馬道新町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺子院街として発展したが、明治十年(一八七七)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。そして昭和九年(一九三四)さらに浅草馬道町は隣接する幾つかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。
 町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。 台東区」

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 上記旧町名由来案内では、「町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。」としています。下谷・浅草町名由来考(台東区)でも、浅草寺の僧が、北方にある「僧正ヶ馬場」へ乗馬練習に通った道だからとしています。


<馬市 藪の内>(江戸名所図会)

「馬市
 藪の内といへるにあり 毎歳十二月なかばのころ 南部駒三歳立なるを ここに出して売買す。」
 挿絵には、馬の購入前に試乗する武士と馬が躍動しています。

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<江戸切絵図>

 「俗ニ藪之内ト云」とあります。現在の花川戸2丁目辺りです。

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吉原神社 吉原弁財天

○吉原神社 台東区千束3-20-2 03-3872-5966

<5つの稲荷社>

 新吉原には5つの稲荷社が存在しました。
 大門の手前に「玄徳稲荷社(吉徳稲荷社)」 、廓内の4隅に「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」が祀られていました。吉原神社は5つの稲荷社を合祀しています。

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<久保田万太郎の句碑>
 浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・作家の久保田万太郎の句碑があります。
 「この里に おぼろふたたび 濃きならむ 万」

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<逢初桜>
 吉原大門手前の右手に吉徳稲荷、稲生の手前に駒止松、その手前に逢初桜。
 吉原大門手前の左手の逢初桜の対面に見返り柳が描かれています。

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<吉原今昔図>
 吉原今昔図として、貴重な資料が掲示されています。
 吉原カフェ建築探訪で、旧屋号を確認するのに重宝しました。
 明治27年、大正12年、昭和20年、昭和33年、現在と、個々の店舗が記録されています。

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<銭湯が2カ所あった>
 色々な店があって、興味深いです。
 たとえば銭湯が「松の湯」と「櫻湯」の2カ所ありました。

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○吉原弁財天 台東区千束3-22-3

<寄進>
 寄進者をみていくと「大文字楼 波木井長」「角海老楼 遠藤はつ」「三浦屋 高野治吉」等々。

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<燈籠寄進など>
 蔦福の寄進「燈明碑」や、稲本楼と大文字楼の寄進による「燈籠(奉 稲本楼 大文字楼)」があります。

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<蛇塚>
 昔、塚(古墳)だったことを示す「蛇塚」があります。塚(古墳)だったところに、吉原弁財天があります。

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<新吉原花園池(弁天池)跡>
 案内板より引用
「江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、 明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、 毎年正月に多くの参詣者が訪れている。
  池は、花園池・弁天池の名で呼ばれていたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、 490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の筑山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
  平成10年3月 台東区教育委員会」

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<吉原観音>
 前掲案内板。

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<花吉原名残碑>
 吉原遊郭の歴史を永く止めようと昭和35年に地域有志の皆様によって建立された石碑です。

(説明板)
「花吉原名残碑  台東区千束三丁目二十二番 吉原弁財天
 吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊里で、元和三年(一六一七)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
 明暦三年(一六五七)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊廓を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年売春防止法の成立によって廃止された。
 その名残を記す当碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
 昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
  平成十七年三月  台東区教育委員会」

 碑文は共立大学教授で俳人の山路閑古氏の撰。
(碑文)
「花吉原名残碑
二神出世この方 男女相聞の道開け 日本国は常世の春となれり 中の頃江戸の初世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き 名づけて元吉原といふ 明暦三年故ありて廓この地に移り 名も新吉原と改む 爾来年と共に繁榮しやがて江戸文化の淵叢となれり 名妓妍を競ひ万客粹を争ひ 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと 開基以来火災を蒙ること十数度 震災又戦禍を受くるとも微動だもせざりし北国の堅城も 昭和三十三年四月一日売春防止法の完全施行を期として 僅か一夜にして消滅し了んぬ 人為の天工を亡ぼす何ぞ甚しきや 二万七百余坪の旧地悉く分散して 辛くも瓢池一半を殘すのみ 有志等この池畔に一基の碑を建つるは 麗人吉原が悲しき墓標の營みなりけりと云爾。
  昭和三十五年五月二十一日
    白面青客 山路閑古 撰並書」

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<庄司甚右衛門の碑>
  「花吉原名残碑」の右に、元吉原の創設者である初代惣名主庄司甚右衛門の碑があります。漢文で刻まれています。

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※(参考)庄司甚右衛門碑/庄司甚右衛門墓(雲光院)はこちらで記載しています。


<智栄上人歌碑>
 こちらで記載しています。


<吉原弁財天本宮社殿> 台東区千束3-22-3
 吉原弁財天の本宮です。
 平成24年に有志の方々によって改修工事が行われ、壁一面には東京芸術大学等の学生等による壁画が描かれました。

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○千束繁城稲荷神社 台東区千束3-3-6
 マイナーな稲荷神社です。

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