水天宮

○水天宮 中央区日本橋蛎殻町2-4-1 公式HP

 「水天宮」は、文政元(1818)年、当時の久留米藩主・有馬頼徳が、久留米の「水天宮」を芝赤羽橋の上屋敷内に勧請して祀ったことに始まります(邸内社)。毎月5日に参拝が認められるようになり、大勢の人々で賑わいました。「情け有馬の水天宮」の言葉も生まれました。
 久留米藩有馬家は、増上寺警備の役目を仰せつかっていたので、上屋敷内の岡の上に江戸で一番高い火の見櫓を建てていました。水天宮には幟がたっており、浮世絵に火の見櫓と幟が多く描かれています。
 明治維新により有馬家上屋敷が没収となり、屋敷の移転とともに、明治4(1871)年に青山へ、さらに翌明治5(1872)年に有馬家中屋敷があった現在の鎮座地に遷座しました。


<浮世絵に見る水天宮>

「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」(初代広重)

 有馬家上屋敷の左上に火の見櫓。右手に幟が描かれています。

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「江戸名所百人美女 赤羽根水天宮」(豊国・国久)

 こま絵に有馬家上屋敷内の火の見櫓と水天宮の幟が描かれています。

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「江戸名所道戯尽 十四 芝赤羽橋の雪中」(歌川広景)

 雪が降り続いています。有馬家上屋敷の門内に幟が見えます。赤羽橋では男が転んで、はずみで下駄の鼻緒を切れて、対面の男の顎に命中しています。

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「江戸自慢三十六興 赤はね火之見」(二代広重、初代国貞)

 有馬家上屋敷の左上に火の見櫓。右手に幟。多くの人々が出入りしているので、5日の縁日で開放されている光景を描いたものでしょう。

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「東都名所芝赤羽根増上寺」(二代広重)

 右手に有馬家上屋敷が描かれ、屋敷内に多くの青と赤の幟が見えます。幟の奥に火の見櫓が見えます。

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「東都名所 芝赤羽橋之図」(広重)

 左上に火の見櫓が見えます。右手に多くの幟が見えます。

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<明治の頃の水天宮>

 「東京名勝三十六景 水天宮真景」(明治26年12月)

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【現在の水天宮】

<表参道>

 南に面して表参道。通りからすぐに階段です。

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<西参道>

 水天宮通りに面して、西参道があります。「参拝時間」の案内とともに、「水天宮 御由緒」はこちらに掲示されています。階段を上って左手が境内です。

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<隋身像/狛犬>

 ガラスの中に、隋身像。

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 狛犬は、昭和42(1967)年に、ブリヂストンの創業者である石橋正二郎氏が奉納。

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<手水舎>

 階段参道を登って、すぐ左手に手水舎。

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<安産子育河童>

 手水舎の隣に「安産子育河童」。

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<境内社 秋葉神社・火風神社・高尾神社>

 境内社が左から、秋葉神社・火風神社・高尾神社。

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<寳生辨財天>

 参道の左手に「寳生辨財天」

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<子宝いぬ>

 弁財天の裏に「子宝いぬ」と、周囲を取り巻く十二支。母犬はマスクを着用、自分の干支を撫でるとご利益がありますが、マスク着用を見て、コロナのご時勢で触れるのはパス。

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<拝殿>

 境内ごと、免震構造の拝殿・本殿です。

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○蛎殻町公園 中央区日本橋蛎殻町2-9

 彫刻作家、流政之氏の作品「江戸こまた」があります。

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元吉原 人形町

○元吉原

 かつて人形町にあった、葭原遊廓(後に縁起をかつぎ吉原遊郭)は、元和3(1617)年に葦の繁茂する湿地を埋立てて造成され、掘で囲んだ遊郭は江戸一番の歓楽の地となりました。
 明暦3(1657)年の大火で消失した吉原遊廓は、40年の歴史を閉じ、新吉原へ移されました。


<かつてあった元吉原の石碑> 中央区日本橋人形町2-4-3

 駅のリニューアル工事を行っていて、「元吉原」の説明碑がありません。工事は令和4年3月31日までです。工事が終わって戻るのかどうか。 ※工事は令和6年6月30日までとなりました。

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<人形町界隈の歴史>「隅田川テラス周辺案内図」(清洲橋西詰の南側)

 清洲橋西詰にある「隅田川テラス周辺案内図」に、吉原遊郭について説明があります。

「◆人形町界隈の歴史
江戸初期、今の中央区人形町付近は葭(よし)の生い茂る低湿地でしたが、幕府公認の遊里ができると、一帯は一転して歓楽の地となりました。明暦の大火(1657)で吉原遊郭が焼失した後は、中村座、市村座を中心とする芝居町となり、歌舞伎芝居の客で賑わいました。土産の人形を売る店が増えたため、付近の町々を総称して”人形町”と俗称するようになりました。」

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「新添江戸之圖」(国立国会図書館蔵書)

 明暦の大火の直前に描かれた江戸之図に、吉原遊郭が描かれています。北に1ヶ所だけ橋がかかっているのが見えます。

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「江戸名所図会 堺町 葺屋町 劇場」

 芝居小屋の賑わいが描かれています。手前に流れているのは東堀留川で、「親父橋」が架かっています。中村座、市村座は、この絵が描かれた直後、天保の改革により、天保13(1842)年に猿若町に移転しました。

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「江戸名所百人美女 人形町」

 こま絵の店看板には「菊露香」とあります。人形町通りにあった女形の歌舞伎役者、瀬川菊之丞の白粉を売る化粧品店です。瀬川菊之丞は、化粧品店を副業としていました。
 美女は、白粉の「寿々女香」を手にしています。床にも化粧品が置いてあります。

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○大門通り

 「大門(おおもん)通り」のプレートがあるのは、遊郭「元吉原」があったことの名残りです。かつては、遊郭の中央を南北に貫いていました。人形町2丁目はプレートの標識ですが、人形町3丁目からは電柱の表示となっています。


<大門通りの標識> 中央区日本橋人形町2-20-3

 甘酒横丁との交差点に「大門通り」の標識があります。ここは遊郭の大門通りの水道尻の先で、遊郭の外です。
 一方通行の大門通りを進んで、3つ目の交差点から先(末広神社のある通りから先)が遊郭だったようです。

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<大門通り>

 一方通行のごく一般的な道路です。

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<大門通りの標識> 中央区日本橋人形町2-7-8

 こちらのプレートは、かつての大門内(遊郭内)にあります。

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<電柱の標識> 中央区日本橋人形町3丁目

 信号の交差点を越えるて人形町3丁目に入ると、電柱での「大門通り」表示となります。2つ目の交差点(人形町3-12)が、「元吉原大門跡」とgoogle mapに表示されています。

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「江戸名所図会 大門通」

 挿絵には「昔此地に吉原町ありし頃の大門の通りなり しかによりかく名つく 今は銅物屋馬具師多く住り」「鐘ひとつ うれぬ日もなし 江戸の春 其角」とあります。

 大門通には、銅物屋、馬具屋が多くありました。右の店では、仏具が売られています。灯篭、燭台、神盃などなど。梵鐘は大きなものから小さなものまで売っています。店内でお茶を出されている客は、僧侶です。
 左の菊屋の屋号の店では、馬具、甲冑の武具を売っています。店内の客は刀を差した武士です。
 道には、梵鐘を載せた大八車を6人で運んでいます。

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○末廣神社 中央区日本橋人形町2-25-20 HP

<末広神社由来>

 元和3(1617)年、庄司甚右衛門らが幕府から許可を得て、未開の沼地を開拓し、江戸町一、二丁目・京町一、二丁目を定めました。これが江戸で初めての遊郭「葭原(吉原)」となり、人々は末廣神社を鎮守として信仰しました。明暦2(1656年)年、幕府は葭原の移転を言い渡し、さらに翌年の「明暦の大火」により葭原は焼失。同年、遊郭は現在地へ移転し「新吉原」が開かれました。
(掲示の沿革よりHPの由緒がわかりやすかったので、HPを参照しました)

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<玉垣>

 「葭町芸妓芸妓屋組合」奉納の玉垣があります。吉原遊郭が移転した後、この地は花街として繁栄した歴史を語っています。

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<手水鉢と参道>

 狭い神社で参道も短いのですが、ひととおり揃っています。

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<石徳/見番さんのお稲荷>

 様々な徳を授け高める力があるといわれる「石徳」と、見番さんのお稲荷さんがあります。

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<「は組」の石碑>

 火消しの石碑は、よく見るところです。

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<拝殿>

 「人生草露の如し辛艱 何ぞ虞るるに足らん 吉田松陰」の掲示があります。
 末廣酒造と関係が深いようです。福島の末廣酒造ですが、かつて日本橋で商売していた時に氏子だったのでしょうかね。

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○人形町の由来 中央区日本橋人形町1-18-12

 人形町通りの説明板を見ていきます。

(説明板)
「人形町の由来
The History of the Name of the Ningyocho
江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。」

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○人形町の由来 中央区日本橋人形町1-18-12

(説明板)
「現在の人形町交差点北側一帯には、江戸唯一の歓楽街が在りました。中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また見世物小屋をはじめ人形芝居の小屋が5,6軒あり、そのため、かなりの人形師がこの町に住んでいたので、江戸時代より俗に人形町と呼ばれ親しまれてきました。」

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○江戸からの商業地 中央区日本橋人形町1-16-10

(説明板)
「江戸からの商業地
 この地は往時武家地でしたが、近くを流れる日本橋川に通じる掘り割りが多く在り、物資の大量輸送を容易にし商業が盛んになる基礎をつくりました。
 明治に入って武家地の場所は、広く商業地となり、第五国立銀行をはじめ、米穀取引所が設けられ「米屋町」と呼ばれ活気がありました。現在も商業の中心地のひとつとして繁栄しております。
 明治に入って人形町通りも確立し、水天宮・明治座・商業地周辺にひかえた商店街として共に繁盛し、現在に続いています。」
「東京自慢人形町通り水天宮繁栄之図」(明治15年 国利)

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○水天宮 中央区日本橋人形町2-2-1

 水天宮の説明があります。

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○からくり櫓「町火消し」 中央区日本橋人形町1-17-4

 「は組」の衣裳を着た人形が梯子乗りを披露します。もう1基が2丁目にあります。

(説明板)
「からくり櫓 町火消し
 江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。
 当時の衣装などを再現した人形が「梯子(はしご)乗り」や「纏(まとい)上げ」を披露します。
 流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣(きやり)」です。
 (社)江戸消防記念会第一区八番「は組」の方々に資料や助言の協力を頂きました。
 起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分  平成21年11月完成」

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○からくり櫓「江戸落語」 中央区日本橋人形町2-2

(説明板)
「からくり櫓 江戸落語
 下段の緞帳が開くと噺や家の人形が登場。
 落語家 立川談幸氏による創作小噺「人形町の由来」が流れます。
 上段の絵が回転すると、江戸の町並と町人たちの暮らしが再現されます。
 起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分  平成21年11月完成」

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○谷崎潤一郎生誕の地 中央区日本橋人形町1-7-10

 谷崎潤一郎は日本橋区蠣殻町2丁目14番地(現在地)で祖父経営の谷崎活版所で生まれました。

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 碑文には「松子書」とあり、谷崎潤一郎の3人目で最後の妻、随筆家の谷崎松子(1903年9月24日〜1991年2月1日)による書です。
(碑文)
「谷崎潤一郎生誕の地
  1886ー1965
 元東京市日本橋區蠣殻町二丁目十四番地
                  松子書」

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(説明板)
「谷崎潤一郎生誕の地
    所在地 中央区日本橋人形町一‐七‐十
 谷崎潤一郎(一八八六~一九六五)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
 同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くて文学にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青』『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文学界で名を成しました。
 のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼喰ふ虫』『春琴抄』『細雪』『少将滋幹の母』などを遺しています。この間、昭和十二年、芸術会員に推され、同二十四年には文化勲章を受章していました。
  平成七年三月  中央区教育委員会」

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※日本橋川に架かる兜橋の説明板「鎧橋」に、谷崎潤一郎「幼少時代」の一部が紹介されています。こちらで記載済
「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・・・(以下略)」

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其角住居跡 日枝神社 明徳稲荷 智泉院

○宝井其角住居跡  中央区日本橋茅場町1-6-10

「其角住居跡」

 昭和45年11月、日本勧業銀行茅場町支店の建立で、頭取の筆です。
 宝井(榎本)其角(1661~1707)は、蕉門十哲と称された芭蕉の門下10人のひとりです。

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 江戸名所図会の本文に以下の記載があります。
「俳仙宝晋斎其角翁宿 
 茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ 元禄の末ここに住す 即ち終焉の地なり 按ずるに梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は 其角翁のすさびなる由あまねく人口に膾炙す よってその可否はしらずといえどもここに注してその居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ」

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 「梅が香や隣は萩生惣右衛門」という句は、世間では其角が詠んだ句だと言っていますが、本当かどうかは知りませんけれどもと書かれています。
 荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた隣に塾を開いたのは、其角が亡くなった宝永4(1707)年の2年後の宝永6(1709)年です。
 今ではこの句は、蕉門の一人で 杉山杉風の弟子である松木珪琳(1684〜1742)のものだと言われているようです。茅場町薬師を訪れた松木珪琳が、其角が亡くなった隣に荻生惣右衛門の塾が開かれたのを見て詠んだ句と理解します。

※室井其角の墓は長い長慶寺(江東区森下)にあります(こちらで記載)。


○日本橋日枝神社  中央区日本橋茅場町1-6-16

<江戸名所図会 永田馬場 山王御旅所/茅場町薬師堂>

 右手に山王御旅所、左手に茅場町薬師堂が描かれています。
 「此辺傘屋多し」だそうです。

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<天を仰ぐ狛犬> 

 参道はビルに挟まれています。
 天を仰ぐ(天に吠える)珍しい狛犬です。

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○明徳稲荷神社  中央区日本橋茅場町1-6-16

 明徳稲荷神社は、日本橋日枝神社と境内を接しています。翁稲荷、祇園稲荷を合祀しています。幟に「翁」「祇園」の文字が見えます。合祀されている翁稲荷は、流行り神として江戸時代末に大いに流行り、浮世絵にも描かれました。

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「奪衣婆と翁稲荷の首引」(一勇斎国芳 嘉永2(1849)年))

 江戸時代末から大いに流行った内藤新宿の正受院の奪衣婆と日本橋の翁稲荷大明神が首引きをしている場面が描かれています。翁稲荷には狐、奪衣婆には三途の川の渡し馬が、それぞれ応援しています。

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○智泉院(通称:茅場町薬師) 中央区日本橋茅場町1-5-13

 徳川家康は、天海に命じて江戸城の鎮守である日枝神社(山王神社)の神輿が渡る所である山王御旅所を南茅場町に設置し、
別当寺として薬師堂をつくりました。これが智泉院です。
 日枝神社裏門から境内を出ると、神仏混合の名残である智泉院や薬師堂にあった天水桶があります。


「江戸名所図会 夕薬師」

 挿絵には「夕薬師 すずしき風の誓いかな 其角」とあります。其角は 薬師の境内に住み、ここで亡くなりました。
 挿絵には「毎月八日十二日薬師の縁日には植木を商ふこと夥しく参詣群集して賑はへり」とあります。毎月8日と12日に行われた縁日では、夕方から開かれる植木市が特に賑わいました。
 富くじの興業所としても賑わったようです。

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「江戸名所百人美女 かやば町」(豊国,国久)

 こま絵は薬師堂の屋根と思われます。美人は夕薬師の植木市で植木鉢を購入したようです。

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<本堂>

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<天水鉢> 中央区文化財

 天保12(1841)年4月、坂本町(現:日本橋兜町)による深川の「釜屋七右衛門」鋳造の天水鉢です。

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<地蔵尊> 中央区文化財

 日本橋魚河岸「地蔵講」により昭和2(1927)年9月1日奉納です。

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(説明板)
「智泉院
所在地 中央区日本橋茅場町一‐五‐十三
 鎧島山智泉院(天台宗)は、台東区上野の寛永寺の末寺にあたる寺院で、寛永十二年(一六三五)に創建されました。徳川家康の知遇を得た天海大僧正の発意によって開かれたと伝えられています。本尊の薬師如来は。平安時代中期の恵心僧都(源信)作と伝えられ、江戸時代には山王権現の本地仏として、山王御旅所(現在の日枝神社)内にありました。明治時代の廃仏棄釈などの影響もあり、現在は川崎市の等覚院に安置されています。
 江戸時代には、病を治す利益のある薬師信仰が盛んで、この智泉院も「茅場町薬師」と呼ばれて江戸庶民の信仰を集めました。毎月八日と十二日には縁日が開かれ、特に夕方からの植木市は大変な賑わいを見せたと言われています。
 瑠璃殿前の天水鉢は、天保十二年(一八四一)に本尊が開帳されたのを記念し、当時の坂本町(現在の日本橋兜町)の人々によって奉納されました。当時有名な鋳物師であった釜屋七右衛門(通称釜七)によって鋳造されたもので、中央区民文化財に登録されています。
 また境内に立つ銅製の地蔵尊は、本小田原町(現在の日本橋本町・日本橋室町)生まれの彫刻家、戸張弧雁(一八八二~一九二七)の作品と思われます。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔うため、日本橋魚河岸から依頼を受けて制作され、昭和二年(一九二七)に完成しました。こちらも、中央区の歴史を語る貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。
   平成二十三年六月   中央区教育委員会」

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〇福田会育児院(現在:社会福祉法人福田会

 福田会育児院は、1879(明治12)年6月、智泉院内に設けられた育児施設です。育児院開院の際には、渋沢栄一は会計監査委員として協力しています(渋沢喜作や大倉喜八郎の名前もあります)。

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