笠森お仙(功徳林寺 養寿院 大円寺)
○笠森お仙
「笠森お仙」(宝暦元年~文政十年(1751~1827))は、江戸三大美人の水茶屋「鍵屋」の娘です。
谷中福泉院の境内にあった笠森稲荷門前に水茶屋「鍵屋」があり、店主の鍵屋五兵衛の娘で、看板娘が「お仙」でした。
鈴木春信が「お仙」を錦絵で描いたところ、大評判となり、お仙さん見たさに水茶屋「鍵屋」は大繁盛、手拭いや人形などのお仙グッズも販売されるほどだったようです。
<浮世絵板画傑作集 お仙の茶屋>

○功徳林寺 台東区谷中7-6-9
福泉院の境内に「笠森稲荷」があり、門前に水茶屋「鍵屋」がありました。上野戦争で福泉院は廃寺となり、笠森稲荷は養寿院に移されました。功徳林寺の笠森稲荷は、明治後期に勧請されたものです。


(説明板)
「江戸三大美人・お仙ゆかりの寺 笠森稲荷堂
笠森稲荷は諸願成就のお稲荷さまとして信仰されてきました。
江戸時代の中ごろ、門前の茶屋の一人娘のお仙が店に立つと、江戸三大美人の一人
として浮世絵に描かれ、童唄にも歌われて大評判になりました。その笠森稲荷堂が
境内にあります。御自由に御参拝ください。」

<笠森稲荷堂>



○東叡山寛永寺 養寿院 台東区上野桜木1-15-3
寛永寺の子院です。笠森稲荷の本尊は、養寿院末寺福泉院に祀られていましたが、明治3年福泉院が廃寺となり、養寿院に遷されています。

<笠森稲荷>



〇大円寺 台東区谷中3-1-2
永井荷風撰の「笠森阿仙乃碑」、「錦絵開祖鈴木春信」碑があります。





(説明板)
「笠森おせん・鈴木春信の碑
童女の手鞠唄にもうたわれた笠森おせんは、明和年間、錦絵の開祖といわれる鈴木春信の麗筆により、水茶屋の美しい茶汲女として江戸中に名を知られた。
おせんは春信の錦絵によって有名になり、春信はおせんによってその天分を発揮したといわれている。
春信碑の選文は笹川臨風、おせんの碑は永井荷風がこれを記している。
昭和四十六年二月 台東区」


<笠森阿仙乃碑>



(説明板)
「笠森お仙と鈴木春信の碑
台東区谷中三丁目一番二号大円寺内
お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正八年二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字は東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。
荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。
女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、こヽに阿仙の碑を建つ。
時恰大正己未夏六月鰹のうまい頃
五大州は日本のことで、大正己未は大正八年にあたる。
平成八年七月 台東区教育委員会」

<錦絵開祖鈴木春信>
お仙を描いて錦絵技法の開祖となった浮世絵師鈴木晴信の顕彰碑です。

「笠森お仙」(宝暦元年~文政十年(1751~1827))は、江戸三大美人の水茶屋「鍵屋」の娘です。
谷中福泉院の境内にあった笠森稲荷門前に水茶屋「鍵屋」があり、店主の鍵屋五兵衛の娘で、看板娘が「お仙」でした。
鈴木春信が「お仙」を錦絵で描いたところ、大評判となり、お仙さん見たさに水茶屋「鍵屋」は大繁盛、手拭いや人形などのお仙グッズも販売されるほどだったようです。
<浮世絵板画傑作集 お仙の茶屋>

○功徳林寺 台東区谷中7-6-9
福泉院の境内に「笠森稲荷」があり、門前に水茶屋「鍵屋」がありました。上野戦争で福泉院は廃寺となり、笠森稲荷は養寿院に移されました。功徳林寺の笠森稲荷は、明治後期に勧請されたものです。


(説明板)
「江戸三大美人・お仙ゆかりの寺 笠森稲荷堂
笠森稲荷は諸願成就のお稲荷さまとして信仰されてきました。
江戸時代の中ごろ、門前の茶屋の一人娘のお仙が店に立つと、江戸三大美人の一人
として浮世絵に描かれ、童唄にも歌われて大評判になりました。その笠森稲荷堂が
境内にあります。御自由に御参拝ください。」

<笠森稲荷堂>



○東叡山寛永寺 養寿院 台東区上野桜木1-15-3
寛永寺の子院です。笠森稲荷の本尊は、養寿院末寺福泉院に祀られていましたが、明治3年福泉院が廃寺となり、養寿院に遷されています。

<笠森稲荷>



〇大円寺 台東区谷中3-1-2
永井荷風撰の「笠森阿仙乃碑」、「錦絵開祖鈴木春信」碑があります。





(説明板)
「笠森おせん・鈴木春信の碑
童女の手鞠唄にもうたわれた笠森おせんは、明和年間、錦絵の開祖といわれる鈴木春信の麗筆により、水茶屋の美しい茶汲女として江戸中に名を知られた。
おせんは春信の錦絵によって有名になり、春信はおせんによってその天分を発揮したといわれている。
春信碑の選文は笹川臨風、おせんの碑は永井荷風がこれを記している。
昭和四十六年二月 台東区」


<笠森阿仙乃碑>



(説明板)
「笠森お仙と鈴木春信の碑
台東区谷中三丁目一番二号大円寺内
お仙は、笠森稲荷社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はその姿を、当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。お仙に関係の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に、大正八年二つの碑が建てられた。「笠森阿仙の碑」は小説家永井荷風の撰、「錦絵開祖鈴木春信」碑は、文学博士笹川臨風が撰し、題字は東京美術学校(現、東京芸術大学美術学部)校長正木直彦の手になる。
荷風の撰文は、漢字仮名交じりの文語調である。
女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年都門の粋人、春信が忌日を選びて、こヽに阿仙の碑を建つ。
時恰大正己未夏六月鰹のうまい頃
五大州は日本のことで、大正己未は大正八年にあたる。
平成八年七月 台東区教育委員会」

<錦絵開祖鈴木春信>
お仙を描いて錦絵技法の開祖となった浮世絵師鈴木晴信の顕彰碑です。


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浄名院(几号/八万四千体地蔵/江戸六地蔵)
○東叡山浄名院 台東区上野桜木2-6-4
東叡山浄名院は、寛文6(1666)年、寛永寺36坊のひとつとして開かれました。 「几号水準点」「八万四千体地蔵」「江戸六地蔵」があります。



<几号水準点>
山門手前右手に几号水準点独立標があります。




<八万四千体地蔵>




(説明板)
「八万四千体地蔵
台東区上野桜木二丁目六番四号 浄名院
この寺の名は初め浄円院といい、寛文六年(一六六六)寛永寺三十六坊の一つとして創建された。享保八年(一八二三)浄名院となる。表門は享保年間(一七一六〜三五)の建立。
地蔵信仰の寺となったのは第三十八世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大阪に生まれ、二十五歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を建てた。明治九年浄名院に入り、明治十二年、さきの一千体の願が満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願に進んだ。明治十八年には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の信者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。
境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地蔵第六番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治三十九年新たに建立されたものである。
なお、旧八月十五日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わう。
平成十三年三月 台東区教育委員会」

<江戸六地蔵六番>
かつて江戸六地蔵第六番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治39(1906)年に新たに建立されたものです。江戸六地蔵を名乗っていることには、異論もあるようです。



<石燈籠両基>
奉献石燈籠が2基あります。
「奉献石燈籠両基 武州東叡山」慶安5年4月20日の奉献です。奉献先と奉献者名が削り取られているので詳細不明ですが、奉献された年月日から、徳川三代将軍家光(大猷院)への奉献石燈籠と推察します。




東叡山浄名院は、寛文6(1666)年、寛永寺36坊のひとつとして開かれました。 「几号水準点」「八万四千体地蔵」「江戸六地蔵」があります。



<几号水準点>
山門手前右手に几号水準点独立標があります。




<八万四千体地蔵>




(説明板)
「八万四千体地蔵
台東区上野桜木二丁目六番四号 浄名院
この寺の名は初め浄円院といい、寛文六年(一六六六)寛永寺三十六坊の一つとして創建された。享保八年(一八二三)浄名院となる。表門は享保年間(一七一六〜三五)の建立。
地蔵信仰の寺となったのは第三十八世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大阪に生まれ、二十五歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を建てた。明治九年浄名院に入り、明治十二年、さきの一千体の願が満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願に進んだ。明治十八年には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の信者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。
境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地蔵第六番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治三十九年新たに建立されたものである。
なお、旧八月十五日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わう。
平成十三年三月 台東区教育委員会」

<江戸六地蔵六番>
かつて江戸六地蔵第六番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治39(1906)年に新たに建立されたものです。江戸六地蔵を名乗っていることには、異論もあるようです。



<石燈籠両基>
奉献石燈籠が2基あります。
「奉献石燈籠両基 武州東叡山」慶安5年4月20日の奉献です。奉献先と奉献者名が削り取られているので詳細不明ですが、奉献された年月日から、徳川三代将軍家光(大猷院)への奉献石燈籠と推察します。





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寛永寺根本中堂
○寛永寺根本中堂跡 台東区上野公園8番
噴水池の一帯に、寛永寺根本中堂がかつてありました。




○寛永寺総門「黒門」壁泉
上野公園入口にある壁泉が、寛永寺総門「黒門」の姿を表現しています。黒門は南千住の円通寺に移築されています。


○寛永寺根本中堂 台東区上野桜木1-14-11 国登録有形文化財
元禄11(1698)年、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応4(1868)年、彰義隊の戦争の際に焼失しました。現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建したものです。
渋沢栄一は寛永寺の檀家総代を明治32(1899)年から務めています。












<銅燈籠>
記銘が見当たらない銅燈籠2基。元はどこにあったのか不明です。




<石燈籠>
社務所の前にある石燈籠。
南部重直盛岡藩主が大猷院殿尊前両基奉献ですが、1基のみあります。
「奉献 石燈籠両基 武州 東叡山
大猷院殿 尊前 慶安四年辛卯歳 十二月廿日
従五位下南部山城守源重直」

<銅鐘>
「厳有院殿 御宝前」の鐘楼。4代将軍家綱の霊廟にあったものです。厳有院霊廟は東京大空襲で焼失しています。



<水盤>
元禄11年銘の水盤です。


<六地蔵>

<鬼瓦>
かつての根本中堂と本坊表門の鬼瓦。

<慈海僧正墓(都旧跡)>

<尾形乾山墓碑・乾山深省蹟>
墓と顕彰碑の写しがあります。


<東京都指定旧跡 了翁禅師塔碑>
石碑が亀趺に乗っているので、かなりの偉人でしょう。





<上野戦争碑記>

<虫塚>


<茶筅塚>

<宝塔>
気になる不詳の宝塔です。

<葵の間> 国登録有形文化財
別途記載


噴水池の一帯に、寛永寺根本中堂がかつてありました。




○寛永寺総門「黒門」壁泉
上野公園入口にある壁泉が、寛永寺総門「黒門」の姿を表現しています。黒門は南千住の円通寺に移築されています。


○寛永寺根本中堂 台東区上野桜木1-14-11 国登録有形文化財
元禄11(1698)年、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応4(1868)年、彰義隊の戦争の際に焼失しました。現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建したものです。
渋沢栄一は寛永寺の檀家総代を明治32(1899)年から務めています。












<銅燈籠>
記銘が見当たらない銅燈籠2基。元はどこにあったのか不明です。




<石燈籠>
社務所の前にある石燈籠。
南部重直盛岡藩主が大猷院殿尊前両基奉献ですが、1基のみあります。
「奉献 石燈籠両基 武州 東叡山
大猷院殿 尊前 慶安四年辛卯歳 十二月廿日
従五位下南部山城守源重直」


<銅鐘>
「厳有院殿 御宝前」の鐘楼。4代将軍家綱の霊廟にあったものです。厳有院霊廟は東京大空襲で焼失しています。



<水盤>
元禄11年銘の水盤です。


<六地蔵>

<鬼瓦>
かつての根本中堂と本坊表門の鬼瓦。


<慈海僧正墓(都旧跡)>


<尾形乾山墓碑・乾山深省蹟>
墓と顕彰碑の写しがあります。


<東京都指定旧跡 了翁禅師塔碑>
石碑が亀趺に乗っているので、かなりの偉人でしょう。





<上野戦争碑記>

<虫塚>


<茶筅塚>

<宝塔>
気になる不詳の宝塔です。

<葵の間> 国登録有形文化財
別途記載


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
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