祐天寺墓地

○祐天寺墓地

<宝篋印塔>

 墓地に入って石畳の先に、巨大な「宝篋印塔」があります。

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<柳原愛子墓>

 「宝篋印塔」を右に曲がって進むと「祐天上人墓」があり、墓正面左手前に大正天皇御生母の柳原愛子(やなぎしまなるこ)さま墓はあります。 掲示に「大正天皇御生母 柳原一位局之墓」とあります。

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 (正面) 「従一位勲一等柳原愛子墓」

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 (左側面)「智孝院殿法譽妙愛日實大姉」
      「安政五年五月二十六日生
       昭和十八年十月十六日薨

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「美人七陽華 正五位柳原愛子」(月岡芳年 明治11年)

 浮世絵にも取り上げられています。

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<柳原愛子> 大正天皇御生母

 ※出典「大正天皇と塩原温泉」(塩原もの語り館展示)

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(参考)大正天皇と塩原温泉について、こちらで記載


<柳原家之墓>

 左隣りは、「柳原家之墓」です。 柳原愛子の兄である柳原前光(柳原白蓮の父)が葬られています。

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<祐天上人墓> 東京都旧跡

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「江戸名所図会」

 祐天寺の挿絵に、「祐天大僧正墓」が描かれています。

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(説明板)
「東京都指定旧跡 祐天上人墓
  所在地 目黒区中目黒五の二十三の十七 祐天寺墓地内
  仮指定 大正十四年六月六日
  指 定 昭和三十年三月二八日
 祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。陸奥国岩城郡(福島県)四倉村に生まれ、伯父の芝増上寺内池徳院休波を訪ねて江戸に上がります。その後檀通を師として修学し、諸国修行の旅に出ました。
 牛島で念仏生活を続けていたところ桂昌院の帰依を得て、将軍綱吉との関係も深まります。元禄十二年(一六九九)に下総国生実大巌寺の住持となり、宝永元年(一七○四)には伝通院住持となりました。たびたび江戸城に召され、とりわけ大奥の人々が深く帰依しました。正徳元年(一七一一)将軍家宣より芝増上寺住持を命じられ、三十六世となり大僧正に任ぜられました。多数の寺院の復興などを行い、多くの人々の帰依を得ました。
 正徳四年(一七一四)隠居し、享保三年(一七一八)入寂しました。
 祐天寺は、祐天上人の遺言により高弟祐海が念仏道場を建立したことに始まります。祐天を開山とし、祐海は二世となりました。
 墓はいわゆる無縫塔で、倒卵部分の高さは九○センチメートルを計ります。六角板状の基部があり「当寺開山 祐天大僧正」などと記されています。
  平成二十四年三月 建設  東京都教育委員会」

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テーマ : 神社・仏閣巡り - ジャンル : 旅行

tag : 江戸名所図会

祐天寺

○祐天寺 目黒区中目黒5-24-53 HP

「江戸名所図会」

 挿絵には、「惣門」があり、「惣門」をくぐってすぐ左手に「地蔵」があります。「仁王門」をすぎると左手に「阿弥陀堂」、右手に「鐘」「手水や」があり、「本堂」に至ります。境内左手にも出入り口があり、その先に「祐天大僧正墓」があります。現在も江戸時代と変わらぬたたずまいです。

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【表門】

 表門は、国の有形文化財(建築物)です。

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<新東京八名勝 目黒祐天寺>

 昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定、その記念碑が建っています。

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(参考)
【新東京八名勝】
 池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
【新東京十六景】
 雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園


<当寺開山祐天大僧正二百回遠忌報恩塔>

 大正6(1917)年の祐天上人200回遠忌に建立されました。

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<祐天寺(浄土宗)>

(説明板)
「祐天寺(浄土宗)  中目黒5-24-53
 祐天寺は、享保三年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
 本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見の名作です(都指定文化財)。また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
 本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字法華経巻第三」1巻(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
 なお境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
 墓地には、「祐天上人の墓」や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。
  平成3年3月  目黒区教育委員会」

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<国の文化財>

「登録有形文化財
 第13-0298〜0308号
 この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁
 0298 本堂   万延元年(1860)建立
 0299 書院   明治28年(1895)建立
 0300 地蔵堂  天明 8年(1788)建立
 0301 地蔵堂門 嘉永 4年(1851)建立
 0302 表門   明治時代前期
 0303 水屋   弘化 3年(1846)建立
 0410 鐘楼   享保14年(1729)建立」

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<仁王門> 目黒区文化財

 享保20(1735)年に、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進しています。

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(説明板)
「仁王門
  目黒区指定有形文化財(建造物)
  昭和55年2月12日指定
    中目黒5-24
 この仁王門は冶王像とともに、享保20年(1735)の建立で、5代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。
 桁行8.5m(28尺)梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦葺型銅版葺(昭和6年本葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
 正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られ、方位を示しています。
 各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
 長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。
  平成5年3月  目黒区教育委員会」

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【境内左】
<荏原郡忠死者弔魂碑>

 山門脇にある日清戦争戦没者慰霊碑です。

 「明治二十七八年之役」
 「荏原郡忠死者弔魂碑」

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<耆山上人衣鉢塔>

 天明3(1783)年造立の石塔です。耆山(きざん)上人は優れた学僧で、服部南郭の門人でした。大田南畝(蜀山人)は彼に深く私淑していました。

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 隣にあるのは、江戸町火消や組の小次桜が安政5(1858)年に建てた句碑。その先にあるのは、左が瑞泰院殿(萩藩七代藩主毛利重就正室)、右が養源院殿(瑞泰院殿の娘)の功徳碑です。

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<島崎七郎翁之像>

 昭和34(1959)年11月の建立です。

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<海難供養碑> 目黒区文化財

 「白子組海難供養塔」文政4(1821)年に建立。

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 「灘目の海難供養塔」寛政8(1796)年に建立。

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(説明板)
「海難供養塔  灘目の海難供養碑  1基
        白子組の海難供養碑 1基
      目黒区指定文化財(昭和62年3月31日指定)
      中目黒5-24-53
 江戸時代に灘の樽回船と、関西の木綿問屋仲間白子組の回船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州灘で大風に遭い、度々沈没しました。
 この2基の海難供養塔は、その遭難者の慰霊のために江戸の商業問屋仲間が建立したものです。いずれも祐天寺住職であっ祐全・祐東自筆の名号が刻まれ、当初から当寺に建てられたものと推定されます。
 供養塔に刻まれた碑文により、度重なる海難の事実を知ることができます。またそれぞれの廻船および海難事故については、船籍所在地の史料からも史的事実の裏付けがなされています。祐天寺の海難供養塔2基は近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究において貴重な資料です。
  平成21年3月  目黒区教育委員会」

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<地蔵堂> 国重要文化財

 天明8(1788)年の建立です。

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<阿弥陀堂> 目黒区文化財

 阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9(1724)年4月に上棟されました。

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(説明板)
「阿弥陀堂
   目黒区指定有形文化財(建造物)
   平成5年6月29日指定
 阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。
 同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
 名棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行なわれたにもかかわらず、回禄や倒壊などによる根本的な再造営は、行なわれなかったものと考えられます。
 祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。
 〔注〕回禄とは火の神のこと。転じて火災のこと。
  平成7年3月  目黒区教育委員会」

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<五社稲荷神社>

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<仏舎利殿>

 大絵馬「祐天上人かさね済度」が奉納されています。累の物語を描いたもので、昭和61(1986)年に日本美術院同人の月岡栄貴らによって制作されています。雲に乗った祐天上人が導いています。

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【境内右】
<子まもり地蔵尊>

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<歌碑>

 平成11(1999)年に建立されています。
 「寝ぬれはほとけのみ胸に 覚むれば佛のみ手に」(知恩院86世中村康隆)

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<かさね塚>

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(説明板)
「かさね塚の由来
 祐天上人は増上寺第三十六代の大僧正で徳川家五代〜八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
 寛文八年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累一族の怨霊を化益された事跡あり。
 文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。大正十五年、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の遺徳に浴することになった。
 爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興行の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習となっている。
  以上」

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<梵鐘(時の鐘)> 国重要文化財・目黒区文化財

 この梵鐘は、享保13(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、正室の天英院が発願し翌享保14(1729)年に完成したものです。元文3(1738)年に時の鐘に加えられました。今日でも撞かれているのは、上野、浅草寺、祐天寺と3つです。鐘楼は国の重要文化財、梵鐘は目黒区文化財です。

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(説明板)
「梵鐘
   目黒区指定有形文化財(工芸品)
   平成26年9月26日指定
     中目黒5-24-53
 総高179.6cm、口径102.2cm。この梵鐘は、享保13(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、正室の天英院(近衛熙子)が発願し、翌享保14年に完成したものです。鋳造は祐天寺の敷地内で行われたことが記録に残り、鋳身には何回かに分けて鋳造されていった痕跡が見られます。鐘には、祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ南無阿弥陀仏の名号および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。
 また鐘の上部には徳川家の家紋の三葉葵、下部には天英院の実家である近衛家の家紋の牡丹が陽鋳されています。徳川家と祐天寺の関係を示すだけでなく、目黒区の郷土資料として貴重です。
 元文3(1738)年の27回忌追善を期に時の鐘として撞かれることになり、現在でも朝6時と正午前に撞かれています。
  平成27年3月  目具区教育委員会」

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<木遣り塚>

 南無阿弥陀仏の名号が刻まれています。

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<地蔵菩薩像>

 平成29(2017)年5月の開眼で、地蔵堂の本地身である地蔵菩薩像の模刻です。

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<安住敦の句碑>

 安住敦(1907-1988)の七回忌に句碑が建てられました。

 「てんとむし一兵われの死なざりし 敦」

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<寺務所>

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<御本堂>

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(説明板)
「木造祐海上人坐像
  区指定文化財(昭和53年3月22日指定)
  中目黒5-24-53
 この像は祐天寺2世祐海56歳の姿を写した寿像です。元文2年(1737)に弟子たちが発願し、大仏師法橋石見により製作されました。
 本堂に安置され、像高48.3cm。寄木造、彩色、一部金泥塗り、玉眼、円頂、頭部は襟際で挿首。法衣に環付の袈裟をかけ、合掌、趺坐の姿をしています。
 祐海自著の銘文が墨書され、文化5年(1808)に胎内に祐海の遺言とともに納められました。
 江戸時代中期の紀年を有する入念な肖像彫刻として貴重であり、内刳の内部に箔押を施しているのは本尊祐天上人坐像にならったもので、大変珍しい遺例です。
  平成21年3月  目黒区教育委員会」

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(説明板)
「東京都指定有形文化財 旧崇源院霊屋宮殿
  所在地 目黒区目黒五の二四の五三
  指定 平成二七年三月十六日
 旧崇源院霊屋宮殿は、徳川二代将軍秀忠の夫人で三代将軍家光の生母、江(宗源院)の位牌を祀るために寛永五年(一六二八)に建立された宮殿で、元々は家康の側室である愛の菩提寺の、駿府(静岡市)金米山宝台院龍泉寺の崇源院霊屋にあったものです。その後、八代将軍吉宗の治世(一七一六ー四五)にこの霊屋が畳まれた際に、目黒区の明顕山祐天寺に寄付されました。現在は徳川家康像を安置します。
 本宮殿は、正八角形を基本とする変形六角形の特異な形式です。これは将軍夫人の宮殿に限定的に用いられた形式と考えられ、類似の宮殿が芝増上寺の徳川家霊廟にありましたが戦災焼失したため、本件は存在が知られるものとしては現存する唯一の遺構です。禅宗様の建築技法や豊富な金具による豪華な装飾は、徳川将軍家にふさわしい顕著な特徴で、その典型例でもあります。
 本件は、歴史的・文化的意義を有するとともに、学術上・芸術上の価値が極めて高いものです。
  平成二八年三月 建設  東京都教育委員会」

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目黒不動尊 参道 比翼塚 三福堂

○滝泉寺(目黒不動) 目黒区下目黒3-20-26 HP

<目黒不動と門前町>

(説明板)
「目黒不動と門前町
 「お不動さん」の名で親しまれる目黒不動。大同3年(八○八)、慈覚大師の創建と伝えられるが、寺が隆盛を極めるのは江戸時代に入ってから。3代将軍・家光以来、徳川幕府の厚い庇護を受け、荘厳華麗な大寺院に生まれ変わった。
 また周辺は門前町として発展。目黒名物の飴や餅を売る店が軒を連ね、活況を呈した。
 目黒不動には「独鈷の滝」「鷹居の松」など、慈覚と家光の二人に因んだ伝説や挿話も多く、興味が尽きない。」
 (江戸名所図会から 目黒不動尊)
 (廣重筆 江戸自慢三十六点から 目黒行人坂富士)←タイトル誤り、正しくは「江戸自慢三十六興 目黒不動餅花」

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<寺号標/仁王門>

 仁王門手前右手に寺号標、左手に不動明王像と守護2像があります。仁王門前に、平成11(1999)年奉納の新しい狛犬が座しています。

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 仁王門は昭和36(1961)年4月に落慶、仁王門裏の狛犬は昭和53(1978)年7月に落慶。仁王像、狛犬とも後藤良氏に委嘱され、氏の急逝後、門弟が後を継ぎ完成しています。

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 仁王門の階上に韋駄天尊が祀られています(扁額「韋駄天尊」のみ見え、像は見えません)。

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<象>

 仁王門の両側の外の石柱に、象がいます。瀧泉寺には石柱が多く、様々な像が乗っていて、鷹や牛は理由がわかりますが、象は?です。由縁は何でしょうかね。

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<瀧泉寺(目黒不動尊)>

(説明板)
「瀧泉寺(目黒不動尊)  下目黒3ー20ー26
 天台宗泰叡山龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
 江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。
 境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
 その他、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。
 裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。
  平成21年3月  目黒区教育委員会」

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<目黒不動尊 境内案内図>

 HPに掲載されている「境内案内」と同様の案内図が境内の参道脇に掲示されています。

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<参道/狛犬(和犬)>

 新しい燈籠が3対続き、一番奥に文政12(1829)年銘の燈籠が建っています。一番奥の燈籠の手前に、一対の狛犬(和犬)が座しています。明治期の写真と違った狛犬(和犬)です。

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○伏見稲荷 目黒区下目黒3-17

 仁王門前の道路脇に「伏見稲荷」と「比翼塚」があります。伏見稲荷と比翼塚も、瀧泉寺の境内の一部です。

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○比翼塚 目黒区下目黒3-17

 平井権八と小紫を弔っているのが比翼塚です。比翼塚は普化宗の東昌寺にありましたが、明治4(1871)年に官命により普化宗は廃止、東昌寺も廃寺となりました。比翼塚は料理屋「角伊勢」の庭内に移り、「角伊勢」は希望する客に鍵を開けて比翼塚を見せていました。その後、荒廃していたようですが、昭和37(1962)年に現在地に移転しています。

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「江戸情緒 目黒比翼塚 白井権八 小紫」

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「傾城の恋に眞こと無いとは誰が云うた
 まことありやこそ今が世に目黒にのこる比翼塚」

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「権八・小紫の悲話伝える比翼塚
 処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は[後追い心中]として歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、二人の来世での幸せを祈りたてられたという。 設置年月 1991年3月」

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「記念碑」(目黒比翼塚保存会)と「比翼塚」

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「新東京名勝選外十六景 目黒不動」

 昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定し、その選に漏れた十六名勝の記念碑です。
 【新東京八名勝】
 池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
 【新東京十六景】
 雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園

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「目黒不動附近」(一日の行楽 田山花袋 大正7年)

 田山花袋が比翼塚について言及しています。
「目黒不動はしかし今でも矢張東京郊外の一名勝として、筍飯、栗飯の名所として世に知られてゐる。料理店なども多く、女のなまめかしい聲などもする。それに、此処に白井権八の比翼塚があるので、一種柔らかななめまかしい気分を感ずる。何でも、その墓は門前の茶店でその鍵をあづかってゐて、頼めば見せて呉れる。私も一度見たことがあった。小さな墓で、暗い塀のかげに打潰されるやうになって残ってゐた。」


「江戸切絵図」

 江戸切絵図に「ヒヨクツカ」の記載が見えます。

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「The loves of Gonpachi and Komurasaki」(Tales of old Japan A.B.Mitford 1871(明治4) こちらから引用)

 「Tales of old Japan」に掲載の明治初期の比翼塚の挿絵です。

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○三福堂 目黒区下目黒3-20-31


<江戸最初山手七福神>

 「江戸最初 山手七福神」は、龍泉寺の参詣道筋(白金台の清正公〜目黒の龍泉寺)に設置された江戸最初の七福神巡りです。目黒不動への江戸市中からの参詣は、七福神ルートの他、品川宿に寄るルートも、多く詠まれた川柳からうかがえます。
 龍泉寺は、かつては大黒堂に大黒天と恵比寿神を祀っており、大黒天も龍泉寺だったようです。「江戸名所図会」には、本堂の前の鐘楼脇に大黒堂が見えます。現在の三福堂は、当時の弁天社の場所です。

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<弁天池>

 一寸法師がたらい舟を漕いでいます。以前は独鈷の滝におられたようですが、今度はどちらへ?

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<金明湧水>

 見るからに鉱泉っぽいです。鉄臭がします。味見すると、塩味はなく鉄味です。オーバーフローした湧水の排水口は析出物ですごいことになっています。分析したら温泉かもしれません。この湧水は池には流していないようで、池には別のところから水が注がれています。

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(掲示板)
 「金明湧水 福銭洗い
  三福神にお参りしてから、ご縁に導かれますように
  洗うお金に五円玉を添えて一緒に洗ってください。」

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<三福堂/福珠稲荷/豊川稲荷>

 中央が三福堂です。恵比寿神・弁財天・大黒天の三福神を筆頭に七福神すべてを祀っています。

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 左が福珠稲荷大明神です。

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 右が商売繁盛の御神徳の豊川稲荷社です。

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○野村宗十郎翁像

 三福堂の前に、野村宗十郎翁像があります。野村宗十郎は、築地活版製造所の社長で、日本に明朝体活字を普及させました。 銘文の末に「昭和五年六月 遠藤隆吉記 堀進二作像 亀田雲鵬書」とあります。亀田雲鵬は鵬齋の曽孫です。

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目黒不動尊 諸堂と諸碑など


【目黒不動尊参道左手の諸堂など】

○前不動堂 東京都文化財

 将軍や大名の参拝があると、一般参詣客は石段を登ることは許されませんでした。このため、一般参詣客への便宜を図って、前不動堂が建立されたといいます。 無事カエルがいますが、前不動堂だけで帰るのも空しいですね。

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(説明板)
「東京都指定有形文化財(建造物)
 滝泉寺前不動堂
  所在地 目黒区下目黒三ー二○ー二六
  指定 昭和四十一年三月三一日
 泰叡山滝泉寺は、通称「目黒不動尊」と呼ばれており、大同三年(八○八)、慈覚大師円仁の創建と伝えられる天台宗の寺院です。境内にある前不動堂は、江戸時代中期の建築になり、「江戸名所図会」にも、現在地付近に「前不動」として図示されています。前不動堂は、滝泉寺本堂手前の男階段左下にある、独鈷の滝の左崖下に建立され、堂内には木造不動明王三尊立像等を安置してあります。江戸時代中期の仏堂建築として、比較的良く往時の姿を保っています。建造物と併せて、扁額「前不動」も附として指定されています。この扁額には「佐玄龍書」の署名があり、堂建立当時のものと推測されています。筆者の佐々木玄龍は、通称万二郎、池庵を号していました。慶安三年(一六五○)、江戸に生まれ、書風一家をなし、享保七年(一七七二)に亡くなり、墓標は青山霊園にあります。
  平成二十二年三月 建設  東京都教育委員会」

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<東京都標柱>

 東京都の標柱があります。

 (正面)「都重宝 滝泉寺前不動堂」

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 (裏面)「昭和四十一年三月十七日指定
      昭和四十四年三月十日建設
      東京都教育委員会」

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<狛犬(和犬)>

 首が折れた跡があります。かつて参道に座していた狛犬(和犬)に酷似しています。

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○甘藷先生記念碑 別途記載


○北一輝先生碑

 「北一輝先生碑」と文化14(1817)年銘の「千家華塚」があります。

(説明板)
「北一輝先生
 この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。
 先生は明治十六年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助し又日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。
 時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に二・二六事件を惹起する要因になった。勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和十二年銃殺刑に処せられた。然し先生の生涯をさゝえたものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。
 毎年八月十九日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。
  当山」

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「北一輝肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

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○勢至堂 目黒区文化財

 江戸時代中期の造営です。

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(説明板)
「瀧泉寺勢至堂
  区指定文化財(昭和59年3月31日指定)
    下目黒3-20-26
 瀧泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の龍泉寺の面影を残しています。
 向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。
 現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、龍泉寺境内の優れた景観を形成しています。
  平成21年3月  目黒区教育委員会」

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○本居長世の碑

 碑には『十五夜お月さん』の五線譜が刻され、本居長世の写真が掲げられています。

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(説明板)
「童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送りました。ことに大正九年、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられました。本居はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜この寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。
 今ここに氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。
  本居長世を慕う会 童謡の里めぐろ保存会」

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○腰立不動堂

 立身出世の不動尊が祀られています。

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○三界萬霊塔

 西塀に面して三界萬霊塔があります。

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○北向六地蔵尊

(説明掲示)
「北向六地蔵尊。
 地蔵菩薩の浄土伽羅陀山は南方にあり、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し、人々のいる北に向かって救いに来て下さるので北を向いています。
 南無北向六地蔵尊」

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○諸石造物

<馬頭観世音像>

 新しい馬頭観世音像です。

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<馬頭観世音>

 大正9(1920)年銘の自然石に文字を刻む馬頭観世音です。

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<釈迦如来坐像>

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<観世音菩薩立像>

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<大黒天>

 竜泉寺は山手七福神のうち恵比寿天をお祀りする場所ですが、大黒天もおわします。

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【目黒不動尊参道右手の諸堂など】

○湯放処/うすさま明王

 仁王門右手「湯放処」(トイレ)の前に、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が祀られています。烏枢沙摩明王は炎の功徳によって清浄な場所に変えるというトイレと関連する不動明王です。

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○交通安全祈願殿

 交通安全の不動尊を祀っています。

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○秀農鈴木久太夫碑

 鈴木久太夫(1829〜1891)は、幕末から明治期の農事指導者で、種子土囲法を考案し、農器具を改良しました。大きな碑で、明治24(1891)年の建立です。能久親王篆額、内務大臣品川彌二郎撰文、衣笠豪谷書とあります。

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○鈴懸の木

 台風で倒れた鈴懸の木(プラタナス)、養生で回復しているようです。鈴懸の木の前に寛政12(1800)年銘の宝篋印塔があります。

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○観音堂

 江戸三十三観音霊場の結願札所三十三番です。

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○阿弥陀堂

 阿弥陀堂前に享保12(1727)年銘の六字名号塔「南無阿弥陀佛」があります。

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○地蔵堂

 かつての石橋が残っています。地蔵堂前には念仏車(後生車)があります。左側面に「遊化六道 抜苦与楽」と刻されています。木でできている輪っかだと簡単に廻りますが、ここは石でできていて廻すのに重いです。

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 地蔵堂内は、中央に地蔵坐像、左に奪衣婆、右に閻魔大王が座しています。

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○精霊堂と諸碑

<春洞西川先生碑>

 西川春洞は、明治大正にかけて活躍した書道の大家です。大正10(1921)年の造立です。

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<精霊堂>

 六地蔵と地蔵菩薩が祀られ、その左に奪衣婆、右に閻魔大王が座しています。 「西の河原地蔵菩薩和讃」が掲示されています。

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<刷毛筆供養塚>

 刷毛筆供養会造立の碑です。

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<市川先生退筆塚>

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目黒不動尊 鷹居の松/男坂・女坂/独鈷の滝

○鷹居の松跡

 将軍家光の愛鷹が行方不明となり、松の枝に飛び戻ってきたのが「鷹居(たかすえ)の松」です。現在の鷹居の松は、何代か後のものです。

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 松の下に、二鶏とヒヨコの石板レリーフ、さらにその下にカエル(鷹カエルで置いている?)がいます。

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<鷹居松標柱と鷹>

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(説明板)
「鷹居の松跡
  下目黒3-20-26 目黒不動尊 瀧泉寺
 江戸幕府 3代将軍徳川家光 が寛永(1624〜1644)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹が行方不明になりました。家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。
 これ以後、家光は不動尊を深く信仰するようになり、火災によって焼失していた目黒不動尊の堂塔を次々と再建させ、寛永11年(1634)には諸堂末寺等を併せて50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。
 幕府の保護を受けて以来、歴代将軍が目黒不動尊へ参詣するようになると江戸庶民にも不動信仰が広がり、目黒不動尊は江戸近郊の有名な行楽地の一つとなり大変にぎわいました。
 尚、現在の松は「鷹居の松」の話から何代か後のものになります。
  平成21年3月  目黒区教育委員会」

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○男坂

 石階の両側の玉垣には、お経が刻まれています。
 石標「男坂 経につつまれ不動心」

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○女坂

 石標「女坂 水音ききてまた祈る」

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<鯱手水>

 鯱から湧水が流れています。飲料不適。

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<銅造役の行者倚像(神変大菩薩)> 目黒区文化財

 石窟の中に、寛政8(1796)年銘の銅造役の行者倚像(神変大菩薩)が祀られています。奥の壁には孔雀明王が祀られています。玉垣に「浅草 舟和」が見えます。

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(説明板)
「銅造役の行者倚像
   区指定文化財(昭和59年3月31日指定)
   下目黒3ー20ー26
 役の行者(役小角ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物です。この像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもとても巧みで江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。
 表面は黒光りしており、これは鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には巻子を持っています。
 また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります。
  平成21年3月 目黒区教育委員会」

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<神変大菩薩>

 石窟の上には、「神変大菩薩」の石碑が建っています。

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<力石>

 女坂の踊り場に力石が置かれています。一番大きい力石は「五拾六貫目」210kgで、「本八丁堀五丁目熊蔵」による奉納です。

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<倶利伽羅剣>

 不動明王が右手に携える「倶利伽羅剣」が、炎に取り巻かれて祀られています。剣の両脇に緑色のセメント製の狛犬が座しています。城南講による奉納です。
 右脇に「城南講参拝五拾回記念」碑が、力石の隣に「目黒不動尊100回参拝記念城南講」碑があります。

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○独鈷の滝

 湧水は「東京の名湧水57選」(平成15年1月)に選定されています。

<水かけ不動明王>

 現在は水垢離は禁止で、水かけ不動明王が成り代わって水垢離をします。天明8(1788)年銘の手水舎から霊泉をすくって不動明王にかけます。

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(説明板)
「當山の開基は天台座主第三祖慈覚大師圓仁で、一千二百有余年前の大同三年(八○八)大師自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。
 天安二年、大師が法具『獨鈷』を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出。涸れることのないその瀧泉は『獨鈷の瀧』と称されました。
 大師はお堂の棟札に、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号され、「泰睿」の勅願を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花、夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男善女の心に安らぎをもたらします。
 『獨鈷の瀧』は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬公の當病平癒を祈願されました。

  目黒不動尊御詠歌
   清らけき 目黒の杜の獨鈷瀧 災厄難を除ける不動尊

 ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され、より清らかな心と身で目黒のお不動さまに参詣できることとなりました。
 合掌礼拝して『獨鈷の瀧』の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成就のご縁をお結びください。
  平成八年五月吉日  目黒不動尊別當泰叡山瀧泉寺」

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(説明板)
「独鈷の滝
 このお滝は今を去る千二百年程前、当山をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷を投げたところ、忽ち滝泉が湧き出したので之を独鈷の滝と名付けられた。それより今日迄どんなに旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場として利用されてきた。
 今日都内では大変珍しい名所である。
  当山」

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<庚申塔/和犬>

 三猿が陽刻された庚申塔がとりあえず二基見えます。他に多々あるようです。和犬も見えます。

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<独股霊泉碑>

 崖上にある石塔で、一番大きい「独股霊泉碑」です。

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<龍口>

 左の龍は玉を持っています。右の龍は手ぶらです。

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<慧光照無量>

 「慧光照無量」「明治四十年六月寄附 春湖安本孝和拝書 木部松鶴刻」
 春洞の高弟、春湖による書です。

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<燈籠>

 浮世絵に必ず描かれている燈籠です。

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<聖願鉢>

 お賽銭を投げ、入ったら願いが叶う聖願鉢です。

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<養老孝子像>

 祈願する孝子像が湧水池にいます。

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<霊泉の流れ>

 霊泉の湧水は、暗渠を経て、白壁のところで姿を現し流れて行きます。

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○垢離堂

 女身の龍神である青龍大権現を祀っています。

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