千駄ヶ谷の富士塚

○千駄ヶ谷の富士塚(東京都文化財)  渋谷区千駄ケ谷1-1-24

 「千駄ヶ谷の富士塚」は、都内最古の富士塚です。常時登拝が可能で、登山道が整備されています。登拝記念の御朱印も用意されています。
 江戸時代から続く「烏帽子講」が昭和60年代まで続いていましたが、講社が閉じられたため、六月三日の例祭は神社が斉行しています。

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<標柱>
 「東京都指定有形民俗文化財 千駄ヶ谷の富士塚」

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(説明板)
「東京都指定有形文化財
 千駄ヶ谷の富士塚
   所在 渋谷区千駄ヶ谷一ノ一ノ二四 鳩森八幡神社境内
   指定 昭和五十六年三月十二日
 この富士塚は寛政元年(一七八九)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒ボク(富士山の溶岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向って左側に木造の里宮の建物がある。
 頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて怪談としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が安置されている。塚の前面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。
 この富士塚は大正十二年(一九二三)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものではもっとも古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。
  昭和五十七年三月三十一日 建設 東京都教育委員会」

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<狛犬>

 享保20(1735)年奉納の狛犬です。

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<登山口>

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<参明藤開山>

 昭和10(1935)年に烏帽子岩総講社が柵工事を寄付した工事記念碑です。

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<合目標>

 合目石の代わりに合目標が一合目から山頂まで設けられています。

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<講碑>

 「惣同行講」「丸嘉同行」

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<享保16年寄進の手水鉢>

 享保16(1731)年11月、講中による寄進の手水鉢です。

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<冨士浅間神社里宮>

 昭和60(1985)年 に御影石で造られた里宮です。里宮の後方に、烏帽子岩講の講碑があります。

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<三合目/亀岩>

 里宮から登山路を時計回りに進む右手に「亀岩」があります。

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<四合目・五合目/お中道>

 富士塚の山腹周回路のお中道を進みます。

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<小御嶽石尊大権現>

 五合目にある、富士塚の造立年の推定となっている寛政元(1789)年銘の「小御嶽石尊大権現」です。
   
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<六号目>

 お中道を六号目に向かいます。

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<七合目>

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<食行身禄像>

 洞窟があり「食行身禄像」が祀られています。首に修復跡があります。

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<烏帽子岩>

 「食行身禄像」の横に「烏帽子岩」があります。

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<八合目・九合目・山頂>

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<冨士浅間神社奥宮>

 頂上には黒ボクに囲まれた奥宮があります。

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<頂上からの光景>

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<金明水・銀明水・釈迦の割れ石>

 周囲には、富士山頂の名所である、金明水、銀明水、釈迦の割れ石が設けられています。

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<高鞆霊神>

 下山路を進んでくると「高鞆霊神」があります。神社の富士塚案内図にも挿絵が掲載されていますが、詳細はわかりません。

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<力石>

 力石に見えます。

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<松山銘>

 漢文碑です。戸川近江守達本は、天保14((1843)年4月17日に家慶公の日光御参詣に際し御書院番を勤め、日光山の若松を持ってきて植え、今では成木になって奉られている等々とあり、最後に「文久二年」「近江守達本書」とあります。戸川近江守屋敷に置かれていた碑のようです。
 wikipediaによりますと、戸川達本(とがわ みちもと 文化6(1809)年10月〜 明治16(1883)年3月11日)は、江戸時代の幕臣(旗本)。官位は近江守。天保14(1843)年4月、日光社参で徳川家慶の供回りをしています。嘉永2(1849)年3月、小金原御鹿狩で徳川家慶の警護をしています。

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<地眼>

 富士塚の裾にある石碑です。

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<筆塚>

 富士塚の裾にある石碑です。
 「筆塚
   皓民粛書」

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tag : 富士塚力石

鳩森八幡神社

○鳩森八幡神社 渋谷区千駄ケ谷1-1-24 HP

 都内最古の富士塚「千駄ヶ谷の富士塚」(東京都文化財)があります。当社の隣には将棋会館があり、日本将棋連盟によって将棋堂が建立されています。


「江戸名所図会 千駄ヶ谷八幡宮」

 挿絵では、「表門」から入ると正面に本社があります。表門の左には、将軍家光の愛鷹「鈴」がとまった「鈴かけ松」が見えます(現存せず)。参道の右側には「かくら殿」があります。「冨士」「浅間社」が見えます。

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「江戸切絵図」

 「江戸切絵図」にも、富士が描かれています。八幡宮の西隣に「戸川近江守」の屋敷が見えますが、富士塚の隅に、旗本の戸川達本による石碑があります。

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<現在の地図>

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【表参道】

 社号標「鳩森八幡宮」

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<手水鉢>

 文政3(1820)年銘の人感センサーの手水鉢です。

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<慰霊碑>

 「慰霊碑
   靖國神社宮司 筑波藤麿」

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<能楽殿>

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<社殿>

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【西参道】

 鳥居をくぐると、ご神木の大銀杏。他にも歩道にはみ出ている銀杏など、境内には年輪を重ねた木々が目立ちます。

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 狛犬
   
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 神輿庫
  
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 タッチパネル案内板

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<神明社(千駄ヶ谷太神宮)>

 太神宮として権田原にありましたが、明治41(1908)年11月、八幡神社の末社となって境内に遷座しました。

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(掲示)
「神明社(千駄ヶ谷太神宮)
 太神宮として権田原にありましたが、明治四十一年十一月、八幡神社の末社になって境内に遷座されました」

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「江戸名所図会 千駄谷 大神宮 寂光寺」

 中央上に大神宮の「本社」が見えます。左中央に、別当の寂光寺の「本堂」、山門を入った左手に、三代将軍家光の愛鷹「遊女」がとまった「遊女松」が見えます。

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 「遊女松」の跡地には、「御鷹乃松碑」(渋沢栄一が揮毫)が建っています(神宮外苑)。

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<甲賀稲荷社>

 権田原の御鉄砲場に鎮座していた稲荷神社で、甲賀組組屋敷の武士が崇敬していたといいます。明治18(1885)年に青山練兵場設置のために当社に遷座。

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(説明掲示)
「甲賀稲荷社(御祭神 宇迦之御霊神)
甲賀組組屋敷の武士が崇敬していた甲賀稲荷社は、かつて青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座していましたが、明治十八年に、青山練兵場設置のため当社境内に遷座・合祀されました。
 昭和二十年五月の戦災で社殿を焼失、本殿の中に八幡大神、諏訪大神とともに奉られていましたが、復興を望む声が高まり、昭和四十五年この場所に欅造りの社殿が完成し、遷座されました。」

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<将棋堂>

 昭和61(1986)年1月、日本将棋連盟(大山康晴会長)より大駒が奉納され、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂が同年11月に建立されました。

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(標柱)
 (表)「将棋堂  十五世名人 大山康晴書」
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 (裏)「昭和六十一年十一月吉日建之」
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(説明板)
「将棋堂由来記
 昭和六十一年一月、社団法人日本将棋連盟(当時の会長 大山康晴十五世名人)より、山形県の駒師 香月氏の製作による、高さ一米二十糎の欅製の大駒が奉納された。この縁により、同年十一月将棋の技術向上を目指す人々の守護神とし、更に将棋界の繁栄を願って、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂を建立した。御堂の六角は天地四方を表わし、屋根の上の飾り金物は将棋盤の足の形、つまりくちなし(梔子)の実の形をしている。くちなしは口無しに通じ、助言無用の戒めからきていると古くから言い伝えられている。
 室内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立ち、その奥に氏神の八幡神が祀られている。
 毎年年頭に、この御堂の前で祈願祭が行われる。将棋上達を祈願する人は、いつでもその夢を絵馬札に托して奉納することができる。参拝者は棋力向上の願いが叶えられ、よろず勝運に恵まれると言われている。
  平成六年十二月吉日
    鳩森八幡神社
    財団法人 日本将棋連盟」

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(大駒)
 堂内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立っています。

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次、千駄ヶ谷の富士塚(東京都文化財)

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将棋会館 鳩森八幡神社の庚申塚

○将棋会館 渋谷区千駄ケ谷2-39-9

 藤井聡太七冠のニュースでよく登場する将棋会館です。令和6(2024)年秋には移転します。令和5(2023)年6月から羽生善治九段が日本将棋連盟会長を務めています。
 日本将棋連盟初代会長木村義雄の「十四世名人木村義雄」の書「将棋会館」と、「十五世名人大山康晴」の陶板を見て、中へ入ります。

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<将棋会館>

 木村義雄の書「将棋会館」

(表)「将棋会館」
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(裏)「十四世名人 木村義雄書」
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<大山康晴十五世名人(1923〜1992)陶板>

 エントランス右手に「大山康晴十五世名人(1923〜1992)陶板」「平成四年夏」が掲げられています。

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<ようこそ!将棋会館へ>

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○鳩森八幡神社の庚申塚 渋谷区千駄ヶ谷1-1-24

 将棋会館の前の道を西に進むと右手に鳩森八幡神社の庚申塚があります。享保8(1723)年4月銘の庚申塔が祀られています。「わらじの庚申」と呼ばれ、多くのわらじが奉納されています。

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 お堂の屋根の鬼瓦は猿です。猿は桃、きび団子を持っています。

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<庚申の由緒>

(掲示)
「庚申の由緒
 享保八癸卯歳 四月十一日 建之
 えとの庚申に当る日を重んじ 身を慎んでこの日を過す信仰
 中国の道教には六十年 或は 六十日毎にめぐってくる庚申の夜には三尸(さんし)の虫が睡眠中の人体からぬけ出て昇天するという信仰があった
 この虫が天帝にその人の罪過を報告すると 人は命を奪われるからこの夜は眠らないで善を行い 身を慎まねばならないとした
 これが中世以後の日本にも受入れられ 現在でも庚申講として広く行なわれている
 この庚申塔は享保八年(西暦一七二三)の庚申の日に建てられたもので 庚申を「かのえさる」と呼ぶことから猿の信仰とも結びつき 更に猿田彦(天孫降臨の道案内をつとめた神)との連想から道を守る道祖神とも習合している
 この庚申供養塔は 庚申信仰の民間に根を下すようになった室町末期頃から建てられるようになり江戸時代に入って非常に盛んになった
 この塔の尊像としては 青面金剛が最も多く そして日月二鶏三猿 庚申の文字や猿の像などを配するものが多い 又型状としては 駒型 舟型 角柱型 角丸型など各種がある
 渋谷地区も古くから庚申信仰が盛んで その塔が多く存在したであろうことが推察されるのである
 この庚申塔は道路新造等により片付けられていたのを町内有志たちの手によって修理復現されたものである
  昭和五十八年十二月吉日  鳩森八幡神社
 交通安全守護 祈願家内安全 商売繁昌」

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<草鞋奉納>

(掲示)
「草鞋奉納
 ここに大勢の方が草鞋を奉納されておりますが、これは草鞋を奉納して、足、腰が悪い方が、早く快方しますようにと、又、足、腰が何時までも丈夫でありますようにとの願いで、奉納して頂いております。
 草鞋の奉納をご希望の方は左記までご連絡ください。又はお店にお越しください。
  理容ムラヤマ 電話番号略
  ソフィー美容室 電話番号略
  壱足 弐千円」

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御鷹の松碑

○御鷹の松碑 新宿区霞ヶ丘町1 明治神宮外苑

 三代将軍徳川家光が鷹狩りの際に寂光寺で休息していたところ、いなくなっていた愛鷹「遊女」が飛来し、境内前庭の松にとまったので、家光はこれを大いに喜び、以前は「霞の松」と呼ばれていた松を「遊女の松」と名付けたと伝えられます。後に「御鷹の松」とも呼ばれました。

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(説明板)
「お鷹の松
大正7年(一九一八)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(一六○三〜一六五一)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定二○○年 高さ四メートル)は昭和三十九年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。
  昭和五十四年十月  明治神宮外苑」

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<題字>

 題字は渋沢栄一の揮毫です。「明治神宮外苑」は渋沢栄一たちを中心に、民間や市民の手によって作られました。

(題字)
 「御鷹乃松
    澁澤榮一書 時年八十又七」

(碑文)
「此の松昔は霞乃松とて名高く徳川三代将軍放鷹のをり樹下に憩ひて鷹の名をそのまゝ遊女の松と呼ばれしが又御鷹の松とも稍するに至れり當時の古松は枯れてこれは二代目なりと云ふ元は北方五十間の地境妙寺境内に在りしを大正八年此処に移植したり
  大正十五年七月  明治神宮奉賛會」

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「江戸名所図会 千駄谷 大神宮 寂光寺」

 中央上に大神宮、左中央に別当の寂光寺が描かれています。山門を入った左手に、三代将軍家光の愛鷹「遊女」がとまった「遊女松」の注記があります。

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 大神宮の別当であった日蓮宗寂光寺は、日蓮宗不受不施派への弾圧により、元禄12(1699)年に天台宗に改め、天保5(1835)年には寺号も境妙寺と改めました。明治神宮外苑造営に伴い、大正4(1915)年、上高田の地へ移転しています。


○権田原交差点 港区北青山1-7・港区元赤坂2-2・港区元赤坂2-2

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tag : 江戸名所図会渋沢栄一

樺太国境画定標石

○樺太国境画定標石 新宿区霞ヶ丘町1 明治神宮外苑

 日露戦争終結後、樺太島の北緯50度の日露国境に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基と、小標石17基が建てられました。ここにある「天測境界標」は、樺太庁が明治神宮外苑に寄贈した第四号のレプリカです。

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<標柱>

 「樺太島日露國境天測標」

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<天測境界標>

 一番上には「模造」とあります。

(正面)
 「模造
  大日本帝國
  境界」

(側面)
 「天第四號
  明治三十九年」

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(説明板)
「樺太国境画定標石
  時 明治三十九年六月〜四十年十月
  所 樺太日露境界
 明治三十七、八年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治四十年九月四基の天測標と十七基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。
 又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
  昭和五十四年六月二日  明治神宮外苑」

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「樺太に於ける日露の國境」(実写奠都五十年史 大正6年)

 解説「上は國境の標石にして右は南面左北面のところ 下は境界をつくる為日本委員の伐木作業なり」

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○聖徳記念絵画館(国重要文化財) 新宿区霞ヶ丘町1-1 明治神宮外苑

 「樺太国境画定標石」は、こちらの駐車場脇にあります。

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