春日局の菩提寺〜麟祥院
○春日局の菩提寺〜麟祥院 文京区湯島4-1-8 HP
春日局の終焉の地に麟祥院があり、同寺は、春日局の菩提寺です。
<江戸名所図会 麟祥院>
挿絵の手前の道は「ゆしま切通」(現在の春日通り)で、通りに沿って麟祥院の「からたち」の生垣が続いています。「からたち寺」とも呼ばれました。


<麟祥院案内図>
寺務所で配布している「麟祥院案内図」。山門開閉時間は6時から17時まで。


<春日局像>
「春日局像 湯島麟祥院安置スル所、木像也。」
出典:東京市史稿 市街篇第四(東京市編 昭和3年)
京都の麟祥寺の春日局座像とそっくりで、こちらのほうは微笑んでおられます。
家光公が狩野探幽に命じて描かせた「紙本墨画着色春日局像」は文京区文化財に指定されていますが、春日局座像は文化財に見当たりません。関東大震災は難を逃れたようですが、空襲で焼失してしまったのでしょうか。


<山門>
「海東法窟」の扁額が山門に掲げられています。


「不許葷酒入山門」宝暦9(1759)年の銘。
江戸名所図会の挿絵では、総門の左に「不許葷酒入山門」が描かれています。
現在は総門の直ぐ右に設置されています。禁酒の碑です。



「春日局終焉之地碑」と説明板
(説明板)
「春日局の墓
麟祥院
区指定史跡
春日局(天正7年?寛永20年・1579?1643)は、三代将軍徳川家光乳母で名はお福。
稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光(竹千代)が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。
この麟祥院は、寛永元年(1624)春日局隠棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺は局び菩提寺となり、法名にちなみ「天澤山 麟祥院」と改めた。
墓地奥にある局の墓は、無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形をしている。
哲学館跡(省略)
東京都文京区教育委員会 令和2年11月」


<参道>
山門くぐると、すぐ左手に寺務所。寺務所の裏に鐘楼があります。参道右手に庫裡、本堂書院。参道をそのまま直進すると、「春日局御廟所」がある墓地に至ります。墓地手前に「無縁仏群」。




<庫裡>
庫裡にかかる扁額は「麟祥院」。庫裡の左に、人なつこい吠えない柴犬「チヨ」がいます。

「麟称院碑」
「亀趺」があります。元禄13(1700)年の造立。
亀趺に乗っている石碑は、表も裏も横も漢文で文字が埋めつくされています。
正成の文字もあるので、春日局と夫の稲葉正成を顕彰する内容かと思います。




江戸名所図会の挿絵では、禅堂の脇に亀趺が描かれています。

<本堂>
「中門」
中門にかかる扁額は 「天澤山」。


「手水鉢」
手水鉢は、寛永20(1643)年の造立。奥には苔蒸した庭が拡がっています。
稲葉氏家紋「角切折敷三文字」がある手水鉢です。



「石燈籠】」
寛永21年9月14日の銘です。


「本堂」
本堂にかかる扁額は 「麟祥禅院」。



「書院」

○墓地
<慰霊碑>
墓地入口左手に、三基の慰霊碑が並んでいます。
左から「大正大震災横死者之碑」「中華民国留学生癸亥地震遭難招魂碑」「神田火災死亡者記念碑」




<東洋大学発祥之地碑>
墓地入口右手に東洋大学発祥之地碑が建っています。裏面に昭和六十二年(1987)建碑とあります。
仏教哲学者の井上円了は境内に、東洋大学の前身である哲学館を創設しました。


<春日局墓所 順路/案内図>
春日局の墓は、麟祥院の墓地の奥に位置します。案内板がありますので、それに従って進むとあっさりと着きました。








「當山開基 春日局御廟所」 文京区指定史跡
廟所前の左手に「當山開基 春日局御廟所」、右手に手水鉢。
石燈籠2基は、両基とも寛永21(1644)年9月14日の銘。




廟門には、徳川の三つ葉葵と稲葉家の家紋があります。

春日局の墓石は、僧侶の墓塔で多々見られる、塔身が卵形の無縫塔(卵塔)です。
二重の蓮台に台石と墓石が乗り、墓石の四方及び台石の二方には、穴が穿ってあります。
「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」との春日局の遺言に、衆議して建立されたものです。


正面

右横

左横

(説明板)
「 春日局
幼名は福、父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長九年(一六○四)三代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜わりました。
家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。
寛永五年家光二十五歳の折、疱瘡にかゝられ、諸医の手当てにも験がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。
その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が快復しました。そのため局は身の終る迄、鍼灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。
寛永六年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜わり、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。同九年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永二十年(一六四三)九月十四日 六十五歳で卒し、当院墓地に葬られました。 文京区」

「佐倉藩 堀田家墓」
崩壊した石燈籠に、横倒しの手水鉢。放置されているような印象を受けます。



・堀田正俊(家光に殉死した堀田正盛の3男)正室。戒名は栄昌院華陰宗融尼大姉。
春日局の曾孫です(春日局と夫である稲葉正成の子稲葉正勝の次男正則の娘)

・堀田正篤(佐倉藩5代藩主)の長男、春之助、涼松院殿の墓。

「館山藩稲葉家分家墓」



「淀藩稲葉家墓」
淀藩稲葉家墓
2代目藩主の稲葉正任や4代目藩主の稲葉正親らが眠っています。


・奉献石燈籠
墓所入口の石畳の両脇に石燈籠があります。
麟祥院殿と刻まれているかと思ったら、大義院と刻まれています。
大義院は、稲葉正親。山城淀藩第4代藩主です。
享保19(1734)年9月14日の奉献。



「正厳院の墓」
「正厳院殿尊前」石燈籠が多数で圧巻です。
正厳院は、小田原藩主稲葉正則(春日局の孫)の正室で名は万菊子。戒名は正厳院天室知鏡大姉。




<六地蔵>


<無縁墓石群>
墓地入口左手に、角柱と板型墓石が集積されています。仏像型墓石は参道にありました。

<十方至聖三界萬霊>
春日局の墓の東横に、三界萬霊塔に集積されている墓石もありました。


<福田会育児院 諸霊塔>
福田会育児院は、東京茅場町の智泉院内に. 設立された育児施設(児童擁護施設)です。
「福田会育児院 諸霊塔」「明治廿四年十二月八日建之」


<歴代住職墓所>

<石塔>
江戸名所図会の挿絵にも、同じ場所に描かれている石塔です。
漢文が読みくだせませんが、竹田氏の子である千代を供養しているのかと思います。



<動物供養塔>


<嵯峨三郎磨之墓/嵯峨実愛墓/嵯峨公勝之墓>
他にも立派な墓所多数。
春日局の終焉の地に麟祥院があり、同寺は、春日局の菩提寺です。
<江戸名所図会 麟祥院>
挿絵の手前の道は「ゆしま切通」(現在の春日通り)で、通りに沿って麟祥院の「からたち」の生垣が続いています。「からたち寺」とも呼ばれました。


<麟祥院案内図>
寺務所で配布している「麟祥院案内図」。山門開閉時間は6時から17時まで。


<春日局像>
「春日局像 湯島麟祥院安置スル所、木像也。」
出典:東京市史稿 市街篇第四(東京市編 昭和3年)
京都の麟祥寺の春日局座像とそっくりで、こちらのほうは微笑んでおられます。
家光公が狩野探幽に命じて描かせた「紙本墨画着色春日局像」は文京区文化財に指定されていますが、春日局座像は文化財に見当たりません。関東大震災は難を逃れたようですが、空襲で焼失してしまったのでしょうか。


<山門>
「海東法窟」の扁額が山門に掲げられています。


「不許葷酒入山門」宝暦9(1759)年の銘。
江戸名所図会の挿絵では、総門の左に「不許葷酒入山門」が描かれています。
現在は総門の直ぐ右に設置されています。禁酒の碑です。



「春日局終焉之地碑」と説明板
(説明板)
「春日局の墓
麟祥院
区指定史跡
春日局(天正7年?寛永20年・1579?1643)は、三代将軍徳川家光乳母で名はお福。
稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光(竹千代)が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。
この麟祥院は、寛永元年(1624)春日局隠棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺は局び菩提寺となり、法名にちなみ「天澤山 麟祥院」と改めた。
墓地奥にある局の墓は、無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形をしている。
哲学館跡(省略)
東京都文京区教育委員会 令和2年11月」


<参道>
山門くぐると、すぐ左手に寺務所。寺務所の裏に鐘楼があります。参道右手に庫裡、本堂書院。参道をそのまま直進すると、「春日局御廟所」がある墓地に至ります。墓地手前に「無縁仏群」。




<庫裡>
庫裡にかかる扁額は「麟祥院」。庫裡の左に、人なつこい吠えない柴犬「チヨ」がいます。

「麟称院碑」
「亀趺」があります。元禄13(1700)年の造立。
亀趺に乗っている石碑は、表も裏も横も漢文で文字が埋めつくされています。
正成の文字もあるので、春日局と夫の稲葉正成を顕彰する内容かと思います。




江戸名所図会の挿絵では、禅堂の脇に亀趺が描かれています。

<本堂>
「中門」
中門にかかる扁額は 「天澤山」。


「手水鉢」
手水鉢は、寛永20(1643)年の造立。奥には苔蒸した庭が拡がっています。
稲葉氏家紋「角切折敷三文字」がある手水鉢です。



「石燈籠】」
寛永21年9月14日の銘です。


「本堂」
本堂にかかる扁額は 「麟祥禅院」。



「書院」

○墓地
<慰霊碑>
墓地入口左手に、三基の慰霊碑が並んでいます。
左から「大正大震災横死者之碑」「中華民国留学生癸亥地震遭難招魂碑」「神田火災死亡者記念碑」




<東洋大学発祥之地碑>
墓地入口右手に東洋大学発祥之地碑が建っています。裏面に昭和六十二年(1987)建碑とあります。
仏教哲学者の井上円了は境内に、東洋大学の前身である哲学館を創設しました。


<春日局墓所 順路/案内図>
春日局の墓は、麟祥院の墓地の奥に位置します。案内板がありますので、それに従って進むとあっさりと着きました。








「當山開基 春日局御廟所」 文京区指定史跡
廟所前の左手に「當山開基 春日局御廟所」、右手に手水鉢。
石燈籠2基は、両基とも寛永21(1644)年9月14日の銘。




廟門には、徳川の三つ葉葵と稲葉家の家紋があります。

春日局の墓石は、僧侶の墓塔で多々見られる、塔身が卵形の無縫塔(卵塔)です。
二重の蓮台に台石と墓石が乗り、墓石の四方及び台石の二方には、穴が穿ってあります。
「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」との春日局の遺言に、衆議して建立されたものです。


正面

右横

左横

(説明板)
「 春日局
幼名は福、父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長九年(一六○四)三代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜わりました。
家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。
寛永五年家光二十五歳の折、疱瘡にかゝられ、諸医の手当てにも験がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。
その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が快復しました。そのため局は身の終る迄、鍼灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。
寛永六年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜わり、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。同九年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永二十年(一六四三)九月十四日 六十五歳で卒し、当院墓地に葬られました。 文京区」

「佐倉藩 堀田家墓」
崩壊した石燈籠に、横倒しの手水鉢。放置されているような印象を受けます。



・堀田正俊(家光に殉死した堀田正盛の3男)正室。戒名は栄昌院華陰宗融尼大姉。
春日局の曾孫です(春日局と夫である稲葉正成の子稲葉正勝の次男正則の娘)

・堀田正篤(佐倉藩5代藩主)の長男、春之助、涼松院殿の墓。

「館山藩稲葉家分家墓」



「淀藩稲葉家墓」
淀藩稲葉家墓
2代目藩主の稲葉正任や4代目藩主の稲葉正親らが眠っています。


・奉献石燈籠
墓所入口の石畳の両脇に石燈籠があります。
麟祥院殿と刻まれているかと思ったら、大義院と刻まれています。
大義院は、稲葉正親。山城淀藩第4代藩主です。
享保19(1734)年9月14日の奉献。



「正厳院の墓」
「正厳院殿尊前」石燈籠が多数で圧巻です。
正厳院は、小田原藩主稲葉正則(春日局の孫)の正室で名は万菊子。戒名は正厳院天室知鏡大姉。




<六地蔵>


<無縁墓石群>
墓地入口左手に、角柱と板型墓石が集積されています。仏像型墓石は参道にありました。

<十方至聖三界萬霊>
春日局の墓の東横に、三界萬霊塔に集積されている墓石もありました。


<福田会育児院 諸霊塔>
福田会育児院は、東京茅場町の智泉院内に. 設立された育児施設(児童擁護施設)です。
「福田会育児院 諸霊塔」「明治廿四年十二月八日建之」


<歴代住職墓所>

<石塔>
江戸名所図会の挿絵にも、同じ場所に描かれている石塔です。
漢文が読みくだせませんが、竹田氏の子である千代を供養しているのかと思います。



<動物供養塔>


<嵯峨三郎磨之墓/嵯峨実愛墓/嵯峨公勝之墓>
他にも立派な墓所多数。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
春日局之像
○麟祥院前ポケットパーク 文京区湯島4-1
<春日局之像>
「春日局之像」が、礫川公園から麟祥院前ポケットパークに令和元(2019)年10月14日に移設されました。
春日局が名前の由来の春日通りに面して建っています。 春日通りを西に行くと、徳川家康生母・於大の方の墓所である伝通院があります。
「春日局之像
高橋剛作 題字 文京区長 成島正嗣」




<石碑>
「春日局之像」の裏に、石碑があります。
春日局の辞世の句が刻まれ、「文京区と春日局」の説明文が刻まれています。
「 文京区と春日局
文京区「春日」の地名は 春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町と呼ばれていました
また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり 文京区は春日局と歴史的に深い縁があります 昭和六十四年一月(一九八九)より一年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました 文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設立し 区民の皆様と共に区内の活性化 地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました
平成元年十二月吉日
文京区春日局推進協議会
文 京 区
文京区産業連合会
東京商工会議所文京支部
文京区観光協会
文京区商店街連合会
文京区町会連合会
文京区旅館協同組合」



「春日局和歌 西に入る 月をいざない 法を得て 今日ぞ火宅を のがれけるかな」

<春日局之像>
「春日局之像」が、礫川公園から麟祥院前ポケットパークに令和元(2019)年10月14日に移設されました。
春日局が名前の由来の春日通りに面して建っています。 春日通りを西に行くと、徳川家康生母・於大の方の墓所である伝通院があります。
「春日局之像
高橋剛作 題字 文京区長 成島正嗣」




<石碑>
「春日局之像」の裏に、石碑があります。
春日局の辞世の句が刻まれ、「文京区と春日局」の説明文が刻まれています。
「 文京区と春日局
文京区「春日」の地名は 春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町と呼ばれていました
また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり 文京区は春日局と歴史的に深い縁があります 昭和六十四年一月(一九八九)より一年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました 文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設立し 区民の皆様と共に区内の活性化 地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました
平成元年十二月吉日
文京区春日局推進協議会
文 京 区
文京区産業連合会
東京商工会議所文京支部
文京区観光協会
文京区商店街連合会
文京区町会連合会
文京区旅館協同組合」



「春日局和歌 西に入る 月をいざない 法を得て 今日ぞ火宅を のがれけるかな」


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陸奥宗光
陸奥宗光
父は和歌山藩士。海援隊に参加。維新後外国事務局御用掛、兵庫・神奈川県等知事、大蔵省租税頭、元老院議官を歴任。明治11(1878)年、政府転覆を企図した土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄。
出獄後欧米を歴訪し、帰国後外務省入省。明治21(1888)年駐米全権公使に就任。明治23(1890)年第1回衆院選で当選。第1次山県、第1次松方各内閣の農商務相、第2次伊藤内閣の外相を歴任。明治27(1894)年、日英通商航海条約に調印。
【千代田区】
○ 陸奥宗光銅像
【台東区】
○ 旧陸奥宗光邸 本記事
【江東区】
○ 陸奥宗光邸跡

「近世名士写真 其2」(近世名士写真頒布会 昭和10年 国立国会図書館蔵)

「陸奥宗光像」(外務省)
○旧陸奥宗光邸 台東区根岸3-7-15
台東区根岸に「旧陸奥宗光邸」があります。




(説明板)
「西宮邸(陸奥宗光邸)と「ちりめん本」
▼陸奥宗光とその家族が住んだ屋敷
明治期の外務大臣として日清戦争の講和条約締結や欧米列強との条約改正など日本の外交史上に大きな足跡を残した陸奥宗光(一八四四~一八九七)の最後の住まいは、現在の西ケ原の旧古河庭園です。
しかしそんな華々しいスポットライトが当たる前の雌伏時代に、宗光はこの邸宅に住んでいました。
陸奥宗光は、西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁錮五年の刑をうけ、一八八三(明治十六)年一月に出獄したあと、同年九月に「一邸地を獲得した」のがこの邸宅です。まだここ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。
一八八四(明治十七)年四月から一八八六(明治十九)年二月まで宗光はロンドンに留学しますが、その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称される妻の亮子と子供たちがこの家に暮らしました。そして宗光は留学から帰国して一八八七(明治二十)年四月に六本木に転居するまでここで過ごしました。
この建物は住宅建築として建てられた洋館の現存例としては都内で最も古いもののひとつです。もともとは現存の洋館に和風(内部は洋式)の建物が付属した接客部と、母屋に付属した離れと土蔵二つを持つ生活部とからなる和様館並列型住宅でした。現存する洋館部分はコロニアル様式で建築されており、正面側の一、二階に大きな開口が連続して配置され、各部屋には暖炉が備えつけてあります。陸奥家とのかかわりという点からいうと、玄関を入るとすぐ階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。
一八八八(明治二十一)年、宗光は借金返済と息子・廣吉のロンドン留学費用の捻出のため、この家を売却します。
その後一九○七(明治四十一)年ごろ、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)として買い取ります。
長谷川弘文社による出版事業は、大正、昭和と引き継がれました。現在も、この家には長谷川武次郎のご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。建物内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。
根岸子規会」
▼「ちりめん本」と長谷川竹次郎
(略)
二○一七年三月 掲示:根岸子規会(地域の皆さんのご寄付により掲示しました)
敷地内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。」


父は和歌山藩士。海援隊に参加。維新後外国事務局御用掛、兵庫・神奈川県等知事、大蔵省租税頭、元老院議官を歴任。明治11(1878)年、政府転覆を企図した土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄。
出獄後欧米を歴訪し、帰国後外務省入省。明治21(1888)年駐米全権公使に就任。明治23(1890)年第1回衆院選で当選。第1次山県、第1次松方各内閣の農商務相、第2次伊藤内閣の外相を歴任。明治27(1894)年、日英通商航海条約に調印。
【千代田区】
○ 陸奥宗光銅像
【台東区】
○ 旧陸奥宗光邸 本記事
【江東区】
○ 陸奥宗光邸跡

「近世名士写真 其2」(近世名士写真頒布会 昭和10年 国立国会図書館蔵)

「陸奥宗光像」(外務省)
○旧陸奥宗光邸 台東区根岸3-7-15
台東区根岸に「旧陸奥宗光邸」があります。




(説明板)
「西宮邸(陸奥宗光邸)と「ちりめん本」
▼陸奥宗光とその家族が住んだ屋敷
明治期の外務大臣として日清戦争の講和条約締結や欧米列強との条約改正など日本の外交史上に大きな足跡を残した陸奥宗光(一八四四~一八九七)の最後の住まいは、現在の西ケ原の旧古河庭園です。
しかしそんな華々しいスポットライトが当たる前の雌伏時代に、宗光はこの邸宅に住んでいました。
陸奥宗光は、西南戦争時に反政府的な行動をとったとして禁錮五年の刑をうけ、一八八三(明治十六)年一月に出獄したあと、同年九月に「一邸地を獲得した」のがこの邸宅です。まだここ根岸が、東京府北豊島郡金杉村という地名で、上野の山の下を鉄道が開通したばかりのころです。
一八八四(明治十七)年四月から一八八六(明治十九)年二月まで宗光はロンドンに留学しますが、その留守中、後年「鹿鳴館の華」と称される妻の亮子と子供たちがこの家に暮らしました。そして宗光は留学から帰国して一八八七(明治二十)年四月に六本木に転居するまでここで過ごしました。
この建物は住宅建築として建てられた洋館の現存例としては都内で最も古いもののひとつです。もともとは現存の洋館に和風(内部は洋式)の建物が付属した接客部と、母屋に付属した離れと土蔵二つを持つ生活部とからなる和様館並列型住宅でした。現存する洋館部分はコロニアル様式で建築されており、正面側の一、二階に大きな開口が連続して配置され、各部屋には暖炉が備えつけてあります。陸奥家とのかかわりという点からいうと、玄関を入るとすぐ階段があり、その階段の手摺の親柱には陸奥家の家紋である「逆さ牡丹」が彫刻されています。
一八八八(明治二十一)年、宗光は借金返済と息子・廣吉のロンドン留学費用の捻出のため、この家を売却します。
その後一九○七(明治四十一)年ごろ、「ちりめん本」を出版していた長谷川武次郎が、自らの住まいと社屋(長谷川弘文社)として買い取ります。
長谷川弘文社による出版事業は、大正、昭和と引き継がれました。現在も、この家には長谷川武次郎のご子孫の西宮氏ご家族がお住まいです。建物内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。
根岸子規会」
▼「ちりめん本」と長谷川竹次郎
(略)
二○一七年三月 掲示:根岸子規会(地域の皆さんのご寄付により掲示しました)
敷地内への立ち入りはできません。静かに敷地外部からご見学ください。」



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三ノ宮卯之助顕彰碑
○三ノ宮卯之助顕彰碑 越谷市越ケ谷4-1-1越谷市中央市民会館
へいへいさんのブログで三ノ宮卯之助顕彰碑が設置されたのを知り、拝見しに行きました。
三ノ宮卯之助を顕彰する碑が越谷市中央市民会館前に設置され、2021年4月20日に除幕式が行われました。
顕彰碑は縦1.45メートル、横2メートルの大きさです。
「三ノ宮卯之助は、江戸時代後期に三野宮村(現在の越谷市三野宮)出身で日本一の力持ちといわれた人物である」





<四拾貫目の力石>
四拾貫目の力石を持ち上げています。



<碑文>
力比べの巡業で達成した卯之助の功績や、持ち上げた力石が全国各地に残されていることなどが記されています。
裏面の由縁の日付は2021年(令和3年)5月9日と刻まれています。



<「引き札」「番付」>
当時の興行チラシである「引き札」や「番付」もデザインされています。

へいへいさんのブログで三ノ宮卯之助顕彰碑が設置されたのを知り、拝見しに行きました。
三ノ宮卯之助を顕彰する碑が越谷市中央市民会館前に設置され、2021年4月20日に除幕式が行われました。
顕彰碑は縦1.45メートル、横2メートルの大きさです。
「三ノ宮卯之助は、江戸時代後期に三野宮村(現在の越谷市三野宮)出身で日本一の力持ちといわれた人物である」





<四拾貫目の力石>
四拾貫目の力石を持ち上げています。



<碑文>
力比べの巡業で達成した卯之助の功績や、持ち上げた力石が全国各地に残されていることなどが記されています。
裏面の由縁の日付は2021年(令和3年)5月9日と刻まれています。



<「引き札」「番付」>
当時の興行チラシである「引き札」や「番付」もデザインされています。


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