愛宕下藪小路
○愛宕下藪小路 港区虎ノ門一丁目〜二丁目
藪小路は、「江戸名所図会」や「名所江戸百景」にも描かれる江戸の名所として知られていました。現在の西新橋交番前交差点から虎ノ門二丁目西交差点に至る道です。
「名所江戸百景 愛宕下藪小路」(広重)
愛宕下通りが描かれています。右手の桜川にせり出している竹藪が加藤越中守上屋敷の裏手となります。正面奥の右手に真福寺山門の赤い門が見えます。その先は増上寺へと続きます。藪小路は、描かれている絵の手前を右へ行く道で(現:虎の門一丁目)、藪小路自体は描かれていません。

桜川には石垣がきれいに積まれています。また標石が並んでいます。川柳「どぶ端に何のためだかどかり石」江戸ッ子も気になっていたようです。

江戸名所図会の藪小路の下水にも標石が並んでいます。

<細川家屋敷→加藤家屋敷>
藪小路と愛宕下通りの交差には、細川忠興が隠居後、三斎と号して構えた屋敷がありました。細川家は、忠興の子、忠利の時代に加藤忠広(清正の子)の改易後に肥後熊本に転封、明治維新まで続きました。細川忠興(三斎)の屋敷の北東の裏手には、桜川に沿って20間(約40m)の竹藪がありました。屋敷の表門の通りは、「三斎小路」と呼ばれ、裏手の通りは「藪小路」と呼ばれました。「三斎小路」は細川忠興の茶人としての「三斎」に由来します。「藪小路」の由来は、秘蔵の鷹が死んだ竹藪を切らずに残したためとも、「藪金神」がなまったなど諸説あります。
細川家の屋敷は、正徳4(1714)年から近江水口藩加藤家の上屋敷となりますが、竹薮はそのまま残されました。表門の通りは「三斎小路」、裏手の通りは「藪小路」と引き続き呼ばれました。
「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永9(1632)年頃)
「細川三斎」の屋敷が記載されています。

「江戸切絵図 桜川と愛宕下通り」」
桜川が溜池を水源として流れ、三斉小路に沿った後、愛宕下通りで南に流れを変えています。
三斉小路には「加藤越中守」屋敷の正門があり、屋敷の裏の小路が「藪小路」です。
愛宕下通りから東は、「佐久間小路」です。


「江戸名所図会 藪小路」
桜川に架かっているのは北桜橋で、桜川に沿った道が愛宕下通りです。桜川に沿って、竹藪が描かれています。挿絵の北桜橋から左上へ向かう道が藪小路です。

「狂歌江都名所図会 桜川 藪小路」(広重画)
「桜川」「藪小路」が描かれています。

「江戸名所図会 愛宕下 真福寺薬師堂」「江戸名所図会 愛宕社総門」
藪小路から南の、真福寺山門から愛宕社総門までの愛宕下通りと桜川です。2つの挿絵を合成しています。

真福寺山門脇に桜川をまたいで辻番所が建っています。

<桜川の石橋>
芝増上寺霊廟旧御成門前の桜川の石橋(江戸時代)が日比谷公園に移築・保存されています。
(説明板)
「石橋
この石橋は、芝増上寺霊廟の旧御成門前桜川にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられています。
素朴なうちにも力強く、江戸時代の彫りの深さを漂わせています。」


<虎ノ門大坂屋砂場> 港区虎ノ門1-10-6 こちらで記載
「虎ノ門大坂屋砂場」の南側の道路が「藪小路」です。
砂場は明治5(1872)年創業、国登録有形文化財及び東京都の登録有形文化財(建造物)となっています。
都道「愛宕下通り」の拡幅工事に伴い、曳家により3メートルほど西へ移動し、2022年3月7日より営業再開しています。


藪小路は、「江戸名所図会」や「名所江戸百景」にも描かれる江戸の名所として知られていました。現在の西新橋交番前交差点から虎ノ門二丁目西交差点に至る道です。
「名所江戸百景 愛宕下藪小路」(広重)
愛宕下通りが描かれています。右手の桜川にせり出している竹藪が加藤越中守上屋敷の裏手となります。正面奥の右手に真福寺山門の赤い門が見えます。その先は増上寺へと続きます。藪小路は、描かれている絵の手前を右へ行く道で(現:虎の門一丁目)、藪小路自体は描かれていません。

桜川には石垣がきれいに積まれています。また標石が並んでいます。川柳「どぶ端に何のためだかどかり石」江戸ッ子も気になっていたようです。

江戸名所図会の藪小路の下水にも標石が並んでいます。

<細川家屋敷→加藤家屋敷>
藪小路と愛宕下通りの交差には、細川忠興が隠居後、三斎と号して構えた屋敷がありました。細川家は、忠興の子、忠利の時代に加藤忠広(清正の子)の改易後に肥後熊本に転封、明治維新まで続きました。細川忠興(三斎)の屋敷の北東の裏手には、桜川に沿って20間(約40m)の竹藪がありました。屋敷の表門の通りは、「三斎小路」と呼ばれ、裏手の通りは「藪小路」と呼ばれました。「三斎小路」は細川忠興の茶人としての「三斎」に由来します。「藪小路」の由来は、秘蔵の鷹が死んだ竹藪を切らずに残したためとも、「藪金神」がなまったなど諸説あります。
細川家の屋敷は、正徳4(1714)年から近江水口藩加藤家の上屋敷となりますが、竹薮はそのまま残されました。表門の通りは「三斎小路」、裏手の通りは「藪小路」と引き続き呼ばれました。
「武州豊嶋郡江戸庄図」(寛永9(1632)年頃)
「細川三斎」の屋敷が記載されています。

「江戸切絵図 桜川と愛宕下通り」」
桜川が溜池を水源として流れ、三斉小路に沿った後、愛宕下通りで南に流れを変えています。
三斉小路には「加藤越中守」屋敷の正門があり、屋敷の裏の小路が「藪小路」です。
愛宕下通りから東は、「佐久間小路」です。


「江戸名所図会 藪小路」
桜川に架かっているのは北桜橋で、桜川に沿った道が愛宕下通りです。桜川に沿って、竹藪が描かれています。挿絵の北桜橋から左上へ向かう道が藪小路です。

「狂歌江都名所図会 桜川 藪小路」(広重画)
「桜川」「藪小路」が描かれています。

「江戸名所図会 愛宕下 真福寺薬師堂」「江戸名所図会 愛宕社総門」
藪小路から南の、真福寺山門から愛宕社総門までの愛宕下通りと桜川です。2つの挿絵を合成しています。

真福寺山門脇に桜川をまたいで辻番所が建っています。

<桜川の石橋>
芝増上寺霊廟旧御成門前の桜川の石橋(江戸時代)が日比谷公園に移築・保存されています。
(説明板)
「石橋
この石橋は、芝増上寺霊廟の旧御成門前桜川にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられています。
素朴なうちにも力強く、江戸時代の彫りの深さを漂わせています。」


<虎ノ門大坂屋砂場> 港区虎ノ門1-10-6 こちらで記載
「虎ノ門大坂屋砂場」の南側の道路が「藪小路」です。
砂場は明治5(1872)年創業、国登録有形文化財及び東京都の登録有形文化財(建造物)となっています。
都道「愛宕下通り」の拡幅工事に伴い、曳家により3メートルほど西へ移動し、2022年3月7日より営業再開しています。



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葵坂と溜池洗堰
○葵坂
<葵坂>
移転前の虎ノ門病院から特許庁へ抜ける環二通りに、江戸名所の葵坂がありました。坂の上の番所で葵を栽培していたことが坂名の由来です。
坂の北側には溜池から音をたてて流れ出る水の落ち口、洗堰があり、「どんどん」と呼ばれました。
溜池の埋め立て工事(明治21年3月〜明治22年1月)で葵坂の土が削られ、葵坂は消えました。
<溜池>
溜池は、江戸城の外堀を兼ね、江戸の飲料水を確保するため堰を設けて造られた人造池で、溜池上水の水源として利用されました。
「江戸名所図会 溜池」
本文に「溜池 赤坂御門の外より山王宮の麓を東南へめぐる 昔神田玉川の両上水いまだ江城の御もとへ引せ給はざりし其以前は此池水を上水に用いられしとなり」とあります。
挿絵の手前に「潮見坂」、左に「霊南坂」が見えます。

「江戸切絵図」
「葵坂」と「溜池」、「金毘羅」が描かれています。南に行くと「江戸見坂」があります。
玉川上水の開削により溜池上水の利用度は減り、溜池の埋め立てが始まります。溜池を埋め立てて「馬場」が造られました。

「上水」の記載があります。

「絵本江戸土産 虎の門金比羅社葵坂」(広重)
挿絵には「讃州丸亀の神社をこの所に摸して霊験ことに新なりとて毎月十日参詣夥し」とあります。

「名所江戸百景 虎の門外あふひ坂」(広重)
星空に三日月と雁、堰を落ちる水、榎の巨木のシルエットと葵坂が描かれています。
葵坂には「二八そば」と「太平しっぽく」の暖かい食べ物の屋台が描かれています。

寒行裸参りの職人が持つ長提灯に「金比羅大権現」とあり、画面の右手前にあるはずの金比羅宮から出てきたところです。

「江戸名所道戯尽二十九 虎の御門外の景」(歌川広景)
落下した凧と糸が侍に絡まっています。

「江戸名所百人美女 葵坂」(豊国、国久)

こま絵に榎の大樹と葵坂が描かれ、画面下には金毘羅大権現の幟旗が3本見えます。

「東都坂尽 葵阪之図 (広重)
富士山まで描きこまれています。

「諸国瀧廻 東都葵ヶ岡の滝」(葛飾北斎 ボストン美術館蔵)
葛飾北斎が葵坂と洗堰を描いています。

「江戸名勝図会 虎の門」(二代広重)
邸内の金毘羅権現の鳥居が見えます。

「三十六花撰 東都あふひ坂葵」(二代広重)

「葵坂」(井上安治)
井上安治が葵坂を描いています。

<葵坂>
移転前の虎ノ門病院から特許庁へ抜ける環二通りに、江戸名所の葵坂がありました。坂の上の番所で葵を栽培していたことが坂名の由来です。
坂の北側には溜池から音をたてて流れ出る水の落ち口、洗堰があり、「どんどん」と呼ばれました。
溜池の埋め立て工事(明治21年3月〜明治22年1月)で葵坂の土が削られ、葵坂は消えました。
<溜池>
溜池は、江戸城の外堀を兼ね、江戸の飲料水を確保するため堰を設けて造られた人造池で、溜池上水の水源として利用されました。
「江戸名所図会 溜池」
本文に「溜池 赤坂御門の外より山王宮の麓を東南へめぐる 昔神田玉川の両上水いまだ江城の御もとへ引せ給はざりし其以前は此池水を上水に用いられしとなり」とあります。
挿絵の手前に「潮見坂」、左に「霊南坂」が見えます。

「江戸切絵図」
「葵坂」と「溜池」、「金毘羅」が描かれています。南に行くと「江戸見坂」があります。
玉川上水の開削により溜池上水の利用度は減り、溜池の埋め立てが始まります。溜池を埋め立てて「馬場」が造られました。

「上水」の記載があります。

「絵本江戸土産 虎の門金比羅社葵坂」(広重)
挿絵には「讃州丸亀の神社をこの所に摸して霊験ことに新なりとて毎月十日参詣夥し」とあります。

「名所江戸百景 虎の門外あふひ坂」(広重)
星空に三日月と雁、堰を落ちる水、榎の巨木のシルエットと葵坂が描かれています。
葵坂には「二八そば」と「太平しっぽく」の暖かい食べ物の屋台が描かれています。

寒行裸参りの職人が持つ長提灯に「金比羅大権現」とあり、画面の右手前にあるはずの金比羅宮から出てきたところです。

「江戸名所道戯尽二十九 虎の御門外の景」(歌川広景)
落下した凧と糸が侍に絡まっています。

「江戸名所百人美女 葵坂」(豊国、国久)

こま絵に榎の大樹と葵坂が描かれ、画面下には金毘羅大権現の幟旗が3本見えます。

「東都坂尽 葵阪之図 (広重)
富士山まで描きこまれています。

「諸国瀧廻 東都葵ヶ岡の滝」(葛飾北斎 ボストン美術館蔵)
葛飾北斎が葵坂と洗堰を描いています。

「江戸名勝図会 虎の門」(二代広重)
邸内の金毘羅権現の鳥居が見えます。

「三十六花撰 東都あふひ坂葵」(二代広重)

「葵坂」(井上安治)
井上安治が葵坂を描いています。

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オークラ庭園
○オークラ庭園 港区虎ノ門2-10-4
「The Okura Tokyo」の敷地の19mという高低差を生かして、枯山水の風景を展開した庭園です。2020年に国土交通省が主催する「第40回緑の都市賞」において、国土交通大臣賞を受賞しています。
霊南坂沿の階段

庭園内ウッドウォーク

竹林を抜ける道



<モニュメント>
大倉集古館所蔵の歴史的モニュメントが色々と展示されています。
「道標
明治44年[1911]
「葵坂ここが双葉の分かれ道
左鶴彦 右集古館」」
(「鶴彦」は大倉喜八郎の号です。)



「歌碑 大倉喜八郎詠
「渡り来し浮世の橋のあとみれば命にかけてあやふかりけり」
明治44年[1911] 」
(碑裏「昭和三十七年十一月建之」とあります。)




「燈籠 藤原道重 江戸時代・貞享3年(1686)」 2基
寛永寺の厳有院(徳川家綱)霊廟にあった奉献唐金燈籠ですかね?




「華表 朝鮮・朝鮮時代」

「踏石台 時代不詳」

「石祠 時代不詳」


「宝塔 江戸時代」 2基




○大倉集古館 港区虎ノ門2-10-3



大倉集古館の屋外展示が色々とあります。
「大倉鶴彦翁像」
大正2(1913)年の建立です。
作者:武石弘三郎(1878〜1963年)

周辺には、「八卦文鼎香炉」「双亀」(武石弘三郎の作)「竜頭」があります。

「石羊」
朝鮮の石羊です。
参考までに、「願生寺」(港区高輪)には満州国の石羊がいました(こちらで記載)。

【大倉集古館の裏手(霊南坂側)】
「普賢菩薩騎象像」

「大倉聴松翁頌徳碑」
大倉財閥2代目の大倉喜七郎の頌徳碑です。

碑文に記載はありませんが、昭和10(1935)年7月に、大倉喜七郎は養育院の院長となりました。渋沢栄一は亡くなるまで養育院の院長を続けました。
「現院長男爵 大倉喜七郎」(東京市養育院概要 昭和11年 国立国会図書館蔵)

「地蔵菩薩坐像」

「金童玉女立像」

「薬師如来坐像」

「釈迦如来坐像」

(参考)
「大倉喜八郎像」(帝国ホテル)
「大倉喜八郎墓」(護国寺)
○霊南坂教会 港区赤坂1-14-3
霊南坂上の西側にあるのが霊南坂教会です。住所は赤坂となります。 留岡幸助は、霊南坂教会の牧師だったことがあります。有馬四郎助は、霊南坂教会で、留岡幸助牧師から洗礼を受けています。
歌手の山口百恵さんと俳優の三浦友和さんが霊南坂教会で挙式をあげています。霊南坂教会礼拝堂へは、結婚式では訪れていませんが、お別れ会に何度か訪れました。


「The Okura Tokyo」の敷地の19mという高低差を生かして、枯山水の風景を展開した庭園です。2020年に国土交通省が主催する「第40回緑の都市賞」において、国土交通大臣賞を受賞しています。
霊南坂沿の階段

庭園内ウッドウォーク

竹林を抜ける道



<モニュメント>
大倉集古館所蔵の歴史的モニュメントが色々と展示されています。
「道標
明治44年[1911]
「葵坂ここが双葉の分かれ道
左鶴彦 右集古館」」
(「鶴彦」は大倉喜八郎の号です。)



「歌碑 大倉喜八郎詠
「渡り来し浮世の橋のあとみれば命にかけてあやふかりけり」
明治44年[1911] 」
(碑裏「昭和三十七年十一月建之」とあります。)




「燈籠 藤原道重 江戸時代・貞享3年(1686)」 2基
寛永寺の厳有院(徳川家綱)霊廟にあった奉献唐金燈籠ですかね?




「華表 朝鮮・朝鮮時代」

「踏石台 時代不詳」

「石祠 時代不詳」


「宝塔 江戸時代」 2基




○大倉集古館 港区虎ノ門2-10-3



大倉集古館の屋外展示が色々とあります。
「大倉鶴彦翁像」
大正2(1913)年の建立です。
作者:武石弘三郎(1878〜1963年)

周辺には、「八卦文鼎香炉」「双亀」(武石弘三郎の作)「竜頭」があります。

「石羊」
朝鮮の石羊です。
参考までに、「願生寺」(港区高輪)には満州国の石羊がいました(こちらで記載)。

【大倉集古館の裏手(霊南坂側)】
「普賢菩薩騎象像」

「大倉聴松翁頌徳碑」
大倉財閥2代目の大倉喜七郎の頌徳碑です。

碑文に記載はありませんが、昭和10(1935)年7月に、大倉喜七郎は養育院の院長となりました。渋沢栄一は亡くなるまで養育院の院長を続けました。
「現院長男爵 大倉喜七郎」(東京市養育院概要 昭和11年 国立国会図書館蔵)

「地蔵菩薩坐像」

「金童玉女立像」

「薬師如来坐像」

「釈迦如来坐像」

(参考)
「大倉喜八郎像」(帝国ホテル)
「大倉喜八郎墓」(護国寺)
○霊南坂教会 港区赤坂1-14-3
霊南坂上の西側にあるのが霊南坂教会です。住所は赤坂となります。 留岡幸助は、霊南坂教会の牧師だったことがあります。有馬四郎助は、霊南坂教会で、留岡幸助牧師から洗礼を受けています。
歌手の山口百恵さんと俳優の三浦友和さんが霊南坂教会で挙式をあげています。霊南坂教会礼拝堂へは、結婚式では訪れていませんが、お別れ会に何度か訪れました。



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江戸見坂 中国同盟会発祥の地
○江戸見坂 港区虎ノ門二丁目・虎ノ門三丁目/四丁目
傾斜が急な江戸見坂です。坂に沿って港区立江戸見坂公園があります。木標柱が坂上と坂下に設置されています。
坂上に「中国同盟会発祥の地」碑があり、西側にオークラ東京があります。
坂下西側には「東京経済大学発祥の地」碑があります。
(標柱)
「江戸見坂 EDOMI ZAKA
えどみざか 江戸の中心部に市街がひらけて以来、その大半を眺望することができたのに名づけられた坂である。
平成二十三年一月 港区」
坂上



坂下

<江戸見坂公園案内板> 港区虎ノ門2-10-2

「江戸切絵図」
江戸見坂と虎の門辺りの抜粋です。

「絵本江戸土産 江戸見坂」(広重)
挿絵には「江都第一の岳にしてここへ登れば江戸中一眼に見するゆえこの名ありとぞ」とあります。

「東都坂尽 江戸見坂之図」(広重)
坂上に「玉や」の番傘のさぼん玉売りがシャボン玉を吹き上げ、子どもたちが見ています。二人連れが笠を尻に敷いて江戸の眺めを楽しんでいます。棒手振りがラッパを吹きながら坂を上っていきます。

「新撰東京名勝画譜 江戸見坂」(尾形月耕画 東陽堂 明治41年)
明治時代の江戸見坂が描かれ、大倉邸が見えます。

(解説文)
「江戸見坂
赤坂區溜池葵町の南を東に下る坂あり、江戸見坂といふ、市中を瞰下し、眺望佳絶なり、坂名は昔時江戸中を見晴らせしかば、斯く呼ぶとぞ、圖中左にあるは大倉邸にして、搭状の建築物は其の美術館なり。」

○中国同盟会発祥の地 港区虎ノ門2-10-4
1905年、大倉喜八郎邸(現ホテルオークラ東京)で孫文を総理とする中国同盟会が結成され、これが辛亥革命(1911年)に繋がりました。
中国同盟会の結成大会が開かれた場所は坂本邸とされ、その場所は長く謎でしたが、大倉喜八郎の邸宅内の洋館が貸し出されていたことが判明しました。「The Okura Tokyo」(オークラ東京)の再開業と合わせて、江戸見坂上に令和元(2019)年8月「中国同盟会発祥の地」の碑が建てられました。
ツアーのコースに組まれているようで、中国語を話す団体が碑に見入ったり記念写真を撮ったりしていました。人気スポットのようです。


「中国同盟会発祥の地」

「建立 株式会社ホテルオークラ
協賛 中央建物株式会社
大成建設株式会社
公益財団法人大倉文化財団
監修 公益財団法人孫中山記念会
2019年(令和元年)8月吉日」

(説明板)
「中国同盟会発祥の地
1905年8月20日大倉喜八郎邸すなわち此地、現ホテルオークラにおいて、孫文を総理とする中国同盟会が結成された。その後、中国同盟会が母体となった辛亥革命により、1912年、アジア史上初の共和国家、中華民国が誕生した。その意義を称え、同時に末永い日中友好を期して記念碑を建立する。
一九零五年八月二十日,中國同盟會以孫中山為總理在此地,即存在於大倉東京飯店原址的大倉喜八郎的私宅宣告成立。其後,由中國同盟會發起的辛亥革命在中國成功,於是中華民國做為亞洲歴史上第一個共和國家誕生了。為留下紀念,並祝願目中兩國世世代代友好,特立此碑。」

(参考)
「孫文肖像」(孫文先生東游紀念写真帖 日華新報社 大正2年 国立国会図書館蔵)
1866年11月12日〜1925年3月12日

「孫文先生座石の碑」(白山神社)
「山田良政君碑」(全生庵)
「維新號」(孫文、蒋介石、周恩来、魯迅が通った食堂) ※PCサイト
○東京経済大学発祥の地 港区虎ノ門2-10-1虎ノ門ツインビルディング
明治33(1900)年、大倉喜八郎は赤坂葵町(現:「オークラ東京」隣接地)に大倉商業学校を創設しました。

(碑文)
「東京経済大学発祥の地
1900年 この地に大倉商業学校開校
1920年 大倉高等商業学校となる
1945年 戦災により校舎焼失
1946年 国分寺市(当寺国分寺町)へ移転
1949年 東京経済大学となる
1990年10月 東京経済大学」

<オークラ東京>
大倉邸跡は、「オークラ東京」が建っています。


傾斜が急な江戸見坂です。坂に沿って港区立江戸見坂公園があります。木標柱が坂上と坂下に設置されています。
坂上に「中国同盟会発祥の地」碑があり、西側にオークラ東京があります。
坂下西側には「東京経済大学発祥の地」碑があります。
(標柱)
「江戸見坂 EDOMI ZAKA
えどみざか 江戸の中心部に市街がひらけて以来、その大半を眺望することができたのに名づけられた坂である。
平成二十三年一月 港区」
坂上



坂下

<江戸見坂公園案内板> 港区虎ノ門2-10-2

「江戸切絵図」
江戸見坂と虎の門辺りの抜粋です。

「絵本江戸土産 江戸見坂」(広重)
挿絵には「江都第一の岳にしてここへ登れば江戸中一眼に見するゆえこの名ありとぞ」とあります。

「東都坂尽 江戸見坂之図」(広重)
坂上に「玉や」の番傘のさぼん玉売りがシャボン玉を吹き上げ、子どもたちが見ています。二人連れが笠を尻に敷いて江戸の眺めを楽しんでいます。棒手振りがラッパを吹きながら坂を上っていきます。

「新撰東京名勝画譜 江戸見坂」(尾形月耕画 東陽堂 明治41年)
明治時代の江戸見坂が描かれ、大倉邸が見えます。

(解説文)
「江戸見坂
赤坂區溜池葵町の南を東に下る坂あり、江戸見坂といふ、市中を瞰下し、眺望佳絶なり、坂名は昔時江戸中を見晴らせしかば、斯く呼ぶとぞ、圖中左にあるは大倉邸にして、搭状の建築物は其の美術館なり。」

○中国同盟会発祥の地 港区虎ノ門2-10-4
1905年、大倉喜八郎邸(現ホテルオークラ東京)で孫文を総理とする中国同盟会が結成され、これが辛亥革命(1911年)に繋がりました。
中国同盟会の結成大会が開かれた場所は坂本邸とされ、その場所は長く謎でしたが、大倉喜八郎の邸宅内の洋館が貸し出されていたことが判明しました。「The Okura Tokyo」(オークラ東京)の再開業と合わせて、江戸見坂上に令和元(2019)年8月「中国同盟会発祥の地」の碑が建てられました。
ツアーのコースに組まれているようで、中国語を話す団体が碑に見入ったり記念写真を撮ったりしていました。人気スポットのようです。


「中国同盟会発祥の地」

「建立 株式会社ホテルオークラ
協賛 中央建物株式会社
大成建設株式会社
公益財団法人大倉文化財団
監修 公益財団法人孫中山記念会
2019年(令和元年)8月吉日」

(説明板)
「中国同盟会発祥の地
1905年8月20日大倉喜八郎邸すなわち此地、現ホテルオークラにおいて、孫文を総理とする中国同盟会が結成された。その後、中国同盟会が母体となった辛亥革命により、1912年、アジア史上初の共和国家、中華民国が誕生した。その意義を称え、同時に末永い日中友好を期して記念碑を建立する。
一九零五年八月二十日,中國同盟會以孫中山為總理在此地,即存在於大倉東京飯店原址的大倉喜八郎的私宅宣告成立。其後,由中國同盟會發起的辛亥革命在中國成功,於是中華民國做為亞洲歴史上第一個共和國家誕生了。為留下紀念,並祝願目中兩國世世代代友好,特立此碑。」

(参考)
「孫文肖像」(孫文先生東游紀念写真帖 日華新報社 大正2年 国立国会図書館蔵)
1866年11月12日〜1925年3月12日

「孫文先生座石の碑」(白山神社)
「山田良政君碑」(全生庵)
「維新號」(孫文、蒋介石、周恩来、魯迅が通った食堂) ※PCサイト
○東京経済大学発祥の地 港区虎ノ門2-10-1虎ノ門ツインビルディング
明治33(1900)年、大倉喜八郎は赤坂葵町(現:「オークラ東京」隣接地)に大倉商業学校を創設しました。

(碑文)
「東京経済大学発祥の地
1900年 この地に大倉商業学校開校
1920年 大倉高等商業学校となる
1945年 戦災により校舎焼失
1946年 国分寺市(当寺国分寺町)へ移転
1949年 東京経済大学となる
1990年10月 東京経済大学」

<オークラ東京>
大倉邸跡は、「オークラ東京」が建っています。


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誓いの碑など(霞が関)
○誓いの碑 千代田区霞が関1-2-2 HP
<厚労省「誓いの碑」>
「厚生労働省では、「薬害エイズ事件」の反省から、血液製剤によるHIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないように、その決意を銘記した「誓いの碑」を、平成11年8月24日、厚生労働省の正面玄関前に設置しました。」
(碑文)
「誓いの碑
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省」


○らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の碑 HP
平成23(2011)年6月の建碑です(撮影失敗画像なし)。
(参考)式典動画(令和4(2022)年6月22日:厚生労働省)
○海軍省跡 軍令部跡
昭和60(1985)年11月の建立です。
(碑文)
「海軍省跡 軍令部跡
内閣総理大臣 中曽根康弘書」

(参考)
「東京名所図会 海軍省」(明治23年 国立国会図書館蔵)
<厚労省「誓いの碑」>
「厚生労働省では、「薬害エイズ事件」の反省から、血液製剤によるHIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないように、その決意を銘記した「誓いの碑」を、平成11年8月24日、厚生労働省の正面玄関前に設置しました。」
(碑文)
「誓いの碑
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省」


○らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の碑 HP
平成23(2011)年6月の建碑です(撮影失敗画像なし)。
(参考)式典動画(令和4(2022)年6月22日:厚生労働省)
○海軍省跡 軍令部跡
昭和60(1985)年11月の建立です。
(碑文)
「海軍省跡 軍令部跡
内閣総理大臣 中曽根康弘書」

(参考)
「東京名所図会 海軍省」(明治23年 国立国会図書館蔵)

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