千住神社(千住宮元町)
○千住神社 足立区千住宮元町24-1 HP
延長4(926)年に創建された千崎稲荷神社(別當慈眼寺)と、弘安2(1279)年に創建された氷川神社(別當金蔵寺)の二つの神社が森の中に並び、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられました。
明治6(1873)年、千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正4(1915)年に千住神社と改称しました。

<史蹟八幡太郎源義家陣営の地>
千住神社の石標の右に、「八幡太郎源義家陣営の地」の石碑があります。
源義家が当地二ツ森に陣営を設けて神前に戦勝祈願をしたと伝わっています。


説明板が更新されています(昭和63年2月→令和元年12月)。
(説明板)
「千住神社
およそ一千年前、この地は千崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(九ニ六)に稲荷の神が勧請され、千崎稲荷神社が創建された。弘安二年(一ニ七九)、氷川神社も勧請Lたので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ッ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(一八七三)、千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(一九一五)に千住神社と改称した。
祭神は、須佐之男命と字迦之御魂命の二神を祀り、明治七年に区内唯一の郷社に列せられた。当氏子の厚い信仰と熱誠により昭和三十三年(一九五八)九月、現在の神殿(権現造り・流れ作り・神明造りの三者混合)が完成した。
千住神社では、元禄八年(一六九五)の御本社再建に際して掲示された開帳木札(足立区登録有形文化財)や、大正天皇ご即位と改元を記念して千住一丁目の有志が作らせた獅子頭(足立区登録有形民俗文化財)が保存されているほか、神田囃子睦会(足立区登録無形民俗文化財)も活動している。
境内には、千住神社富士塚(足立区登録有形民俗文化財)のほか、松尾芭蕉の句碑や、森鴎外の師佐籐元萇が撰文した「西森神社之碑」、大戦中の防空壕などもあり、千住の歴史を物語っている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」

「足立区指定 第25号 保存樹林」
樹林指定は第25号なので、最近のようです。

<由緒>
由緒の石碑です。もう一つの石碑は、昭和42(1967)年1月1日に明治百年を記念して建碑され、震災後の神社再建について記されています。
「由緒
祭 神 須佐之男命 宇迦之御魂命
例祭日 九月十五日
創 立 当神社は、千住に集落が形成され始めた、延長四年(九ニ六年)土地鎮護と五穀豊穣を祈って、伏見稲荷より御分霊を勧請し、稲荷神社を創立した。永承六年(一○五一年)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ツ森(千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されている。
弘安二年(一二七九年)に武蔵国、一の宮氷川神社の御分霊を勧請し、氷川神社を創立した。この為に、鎌倉時代より江戸時代には、ここを二ツ森と言っており、旧考録には、代々の将軍が、鷹狩りを行ったという記事が、随所に記録されている。
寛永年間に至って、千住が日光街道の第一宿となり、当神社は、その西方にある為に、西の森とも言われた。江戸時代までは、稲荷神社と氷川神社の二つの神社があったが、明治五年十一月十八日、両社は村社と定められ、更に翌六年六月には、稲荷神社を氷川神社に合祀し、西森神社と名を改めた。同年七月五日に、足立区内最高唯一の郷社と定められ、更に大正四年十二月十五日以来、千住神社と改称した。
昭和二十年四月、戦災にあい、全ての建物は焼失したが、三十三年以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備された。」


<芭蕉句碑>
「ものいえば唇さむし秋の風」
慶応二年建之(1866年)です。


<西森神社坐碑>
森鴎外の師である佐籐元萇の撰文による漢文「西森神社坐碑」です。明治23(1890)年11月の建立です。

<一之鳥居>
慶応2(1866)年の建立です。扁額は「鯨岡兵輔謹書」とあるので、新しいです。ニ之鳥居、三之鳥居と続きます。




<ニ之鳥居>
大正15(1926)年の造立。


<手水舎>
ニ之鳥居を過ぎると、左手に手水舎。センサー手水鉢です。


<不屈のイチョウ>
幹の一部が黒こげになっています。
(説明板)
「生命の大切さを伝える
不屈のイチョウ
昭和二十年四月十日、空襲により、神社に爆弾が投下され、蔵を残して神社は焼失しました。
このイチョウも燃えましたがコゲ跡を刻み復活して今も、生き続けます。
平成二十九年五月 千住神社歴史保存会
公益信託あだちまちづくりトラストの助成を受けてます。」



<三之鳥居>
大正12(1923)年の造立。


<神狐>
狐山に神狐像。社殿には、稲荷と氷川が合祀されており、神狐が参道を守っています。


<防空壕>
神社入口右手にあります。



(説明板)
「防空壕
昭和二十年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。
簡易なものから、強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。
平成二十九年五月 千住神社歴史保存会」

<日露戦役紀念碑>
神社入口からすぐ左手にあります。
「日露戦役紀念碑 希助書」
明治39(1906)年3月の建立です。



<旗台「八紘一宇」>
旗台に「八紘一宇」とあります。昭和15(1940)年の建設です。
(表) 「八紘一宇」


(裏) 「紀元二千六百年記念
昭和十五年十一月吉日建設
千住宮元町會」

<千住富士> 足立区文化財
大正12(1923)年の建立、昭和11(1936)年の再築です。






(説明板)
「千住富士 御祭神 木花咲耶比売命
七月一日のみ登拝可。
江戸中期に富士信仰が盛んになり、「江戸八百八町講中八万人」と言われ、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、各地に富士塚がつくられました。
宿場町として栄えた千住には、多くの富士講があり、活気溢れる土地柄もあり、当社にも富士塚がつくられ、富士信仰の文化が、脈々と受け継がれていました。
(現在の富士塚は、昭和十一年再築)」


「合目石」

「小御嶽神社」



「浅間神社」


【境内社】

<稲荷神社>


(説明板)
「末社<稲荷神社> 御祭神 字迦之御魂命>
元々は稲の精霊を神格化された神で、名前の「字迦」は、「食(うけ)」と同じ意味で食物のことをさし、五穀・食物を司る神として尊ばれ、家内安全、商売繁昌、開運の御神徳は、多くの人々から崇敬を得ています。」

<願かけ恵比寿>
「千住宿 千寿七福神 願かけ恵比寿」
平成5(1993)年に千寿七福神が設定されています。 台座上の恵比寿神は回転します。男性は左へ三回、女性は右へ三回まわします。 勝専寺前の石屋の作です。







<天満宮>


(説明板)
「末社<天満宮>
御祭神 菅原道真
「天神さま」と呼ぱれ、学問や芸能上達の神として、古くより親しまれています。」

<火伏せ三社(三峯神社/恵比寿神社/八幡神社)>
昭和6(1931)年の建立で、東京大空襲で千住宮元町のあらゆる建物が焼失した中、木造としてたった一棟、焼け残った木造社殿の三社です。


(説明板)
「末社 火伏せ三社
昭和六年一月建立。もともと夫婦銀杏の下にあったが、昭和二十年四月の東京大空襲で、千住宮元町のあらゆる建物が焼失した中で、木造としてたった一棟、奇跡的に焼け残ったのが、この三社である。
三社御祭神それぞれの御神徳とともに、火伏せの神、火防守護の神としての御神威もあり、崇敬されています。
三峯神社 恵比寿神社 八幡神社」

左から「八幡神社」「恵比寿神社」「三峯神社」



<経王稲荷社>
石鳥居がニ基あり、狛犬、神狐が守っています。





<神楽殿>




<カメヤマローソクベンチ>
カメヤマ株式会社(本社:大阪市)は、神社仏閣向けに「カメヤマローソクベンチ」の提供を続けています。



<御神輿庫>
神輿庫にまで天水桶があるのは珍しいでしょうね。


<納札所>

<御神木/神橋> 足立区保存樹
参道左に、2本の銀杏(足立区指定保存樹)とその間に「神橋」があります。


(説明板)
「御神木
この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほぼ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。
寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。
<足立区指定保存樹>」

<社務所>
社務所は近代的なビルです。

【拝殿/本殿】
<狛犬>
文政13(1830)年に奉納の狛犬です。





(説明板)
「狛犬
江戸末期(文政十三年五月)に、氏子有志によって献納されたものであるが、その狛犬の姿が“子を抱える”“子を護る”とても珍しい姿であります。
これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繁昌、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)のお恵みが、特に灼かであったことによることが理由の一つとされています。」


<天水桶>
安政5(1858)年に奉献の川口産の天水桶です。
「武州川口 御鋳物師 増田安次郎」(増田家の四代目?)
増田家は幕末に多くの大砲を鋳造し、幕府や諸藩に納入しています。大砲鋳造の功績により苗字・帯刀を許されました。





<社殿>
社殿は戦災で焼失、昭和33(1958)年の再建です。







※加筆したので、旧記事は削除しました。
延長4(926)年に創建された千崎稲荷神社(別當慈眼寺)と、弘安2(1279)年に創建された氷川神社(別當金蔵寺)の二つの神社が森の中に並び、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられました。
明治6(1873)年、千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正4(1915)年に千住神社と改称しました。

<史蹟八幡太郎源義家陣営の地>
千住神社の石標の右に、「八幡太郎源義家陣営の地」の石碑があります。
源義家が当地二ツ森に陣営を設けて神前に戦勝祈願をしたと伝わっています。


説明板が更新されています(昭和63年2月→令和元年12月)。
(説明板)
「千住神社
およそ一千年前、この地は千崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(九ニ六)に稲荷の神が勧請され、千崎稲荷神社が創建された。弘安二年(一ニ七九)、氷川神社も勧請Lたので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ッ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(一八七三)、千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(一九一五)に千住神社と改称した。
祭神は、須佐之男命と字迦之御魂命の二神を祀り、明治七年に区内唯一の郷社に列せられた。当氏子の厚い信仰と熱誠により昭和三十三年(一九五八)九月、現在の神殿(権現造り・流れ作り・神明造りの三者混合)が完成した。
千住神社では、元禄八年(一六九五)の御本社再建に際して掲示された開帳木札(足立区登録有形文化財)や、大正天皇ご即位と改元を記念して千住一丁目の有志が作らせた獅子頭(足立区登録有形民俗文化財)が保存されているほか、神田囃子睦会(足立区登録無形民俗文化財)も活動している。
境内には、千住神社富士塚(足立区登録有形民俗文化財)のほか、松尾芭蕉の句碑や、森鴎外の師佐籐元萇が撰文した「西森神社之碑」、大戦中の防空壕などもあり、千住の歴史を物語っている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」

「足立区指定 第25号 保存樹林」
樹林指定は第25号なので、最近のようです。

<由緒>
由緒の石碑です。もう一つの石碑は、昭和42(1967)年1月1日に明治百年を記念して建碑され、震災後の神社再建について記されています。
「由緒
祭 神 須佐之男命 宇迦之御魂命
例祭日 九月十五日
創 立 当神社は、千住に集落が形成され始めた、延長四年(九ニ六年)土地鎮護と五穀豊穣を祈って、伏見稲荷より御分霊を勧請し、稲荷神社を創立した。永承六年(一○五一年)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ツ森(千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されている。
弘安二年(一二七九年)に武蔵国、一の宮氷川神社の御分霊を勧請し、氷川神社を創立した。この為に、鎌倉時代より江戸時代には、ここを二ツ森と言っており、旧考録には、代々の将軍が、鷹狩りを行ったという記事が、随所に記録されている。
寛永年間に至って、千住が日光街道の第一宿となり、当神社は、その西方にある為に、西の森とも言われた。江戸時代までは、稲荷神社と氷川神社の二つの神社があったが、明治五年十一月十八日、両社は村社と定められ、更に翌六年六月には、稲荷神社を氷川神社に合祀し、西森神社と名を改めた。同年七月五日に、足立区内最高唯一の郷社と定められ、更に大正四年十二月十五日以来、千住神社と改称した。
昭和二十年四月、戦災にあい、全ての建物は焼失したが、三十三年以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備された。」


<芭蕉句碑>
「ものいえば唇さむし秋の風」
慶応二年建之(1866年)です。


<西森神社坐碑>
森鴎外の師である佐籐元萇の撰文による漢文「西森神社坐碑」です。明治23(1890)年11月の建立です。

<一之鳥居>
慶応2(1866)年の建立です。扁額は「鯨岡兵輔謹書」とあるので、新しいです。ニ之鳥居、三之鳥居と続きます。




<ニ之鳥居>
大正15(1926)年の造立。


<手水舎>
ニ之鳥居を過ぎると、左手に手水舎。センサー手水鉢です。


<不屈のイチョウ>
幹の一部が黒こげになっています。
(説明板)
「生命の大切さを伝える
不屈のイチョウ
昭和二十年四月十日、空襲により、神社に爆弾が投下され、蔵を残して神社は焼失しました。
このイチョウも燃えましたがコゲ跡を刻み復活して今も、生き続けます。
平成二十九年五月 千住神社歴史保存会
公益信託あだちまちづくりトラストの助成を受けてます。」



<三之鳥居>
大正12(1923)年の造立。


<神狐>
狐山に神狐像。社殿には、稲荷と氷川が合祀されており、神狐が参道を守っています。


<防空壕>
神社入口右手にあります。



(説明板)
「防空壕
昭和二十年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。
簡易なものから、強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。
平成二十九年五月 千住神社歴史保存会」

<日露戦役紀念碑>
神社入口からすぐ左手にあります。
「日露戦役紀念碑 希助書」
明治39(1906)年3月の建立です。



<旗台「八紘一宇」>
旗台に「八紘一宇」とあります。昭和15(1940)年の建設です。
(表) 「八紘一宇」


(裏) 「紀元二千六百年記念
昭和十五年十一月吉日建設
千住宮元町會」

<千住富士> 足立区文化財
大正12(1923)年の建立、昭和11(1936)年の再築です。






(説明板)
「千住富士 御祭神 木花咲耶比売命
七月一日のみ登拝可。
江戸中期に富士信仰が盛んになり、「江戸八百八町講中八万人」と言われ、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、各地に富士塚がつくられました。
宿場町として栄えた千住には、多くの富士講があり、活気溢れる土地柄もあり、当社にも富士塚がつくられ、富士信仰の文化が、脈々と受け継がれていました。
(現在の富士塚は、昭和十一年再築)」


「合目石」

「小御嶽神社」



「浅間神社」


【境内社】

<稲荷神社>


(説明板)
「末社<稲荷神社> 御祭神 字迦之御魂命>
元々は稲の精霊を神格化された神で、名前の「字迦」は、「食(うけ)」と同じ意味で食物のことをさし、五穀・食物を司る神として尊ばれ、家内安全、商売繁昌、開運の御神徳は、多くの人々から崇敬を得ています。」

<願かけ恵比寿>
「千住宿 千寿七福神 願かけ恵比寿」
平成5(1993)年に千寿七福神が設定されています。 台座上の恵比寿神は回転します。男性は左へ三回、女性は右へ三回まわします。 勝専寺前の石屋の作です。







<天満宮>


(説明板)
「末社<天満宮>
御祭神 菅原道真
「天神さま」と呼ぱれ、学問や芸能上達の神として、古くより親しまれています。」

<火伏せ三社(三峯神社/恵比寿神社/八幡神社)>
昭和6(1931)年の建立で、東京大空襲で千住宮元町のあらゆる建物が焼失した中、木造としてたった一棟、焼け残った木造社殿の三社です。


(説明板)
「末社 火伏せ三社
昭和六年一月建立。もともと夫婦銀杏の下にあったが、昭和二十年四月の東京大空襲で、千住宮元町のあらゆる建物が焼失した中で、木造としてたった一棟、奇跡的に焼け残ったのが、この三社である。
三社御祭神それぞれの御神徳とともに、火伏せの神、火防守護の神としての御神威もあり、崇敬されています。
三峯神社 恵比寿神社 八幡神社」

左から「八幡神社」「恵比寿神社」「三峯神社」



<経王稲荷社>
石鳥居がニ基あり、狛犬、神狐が守っています。





<神楽殿>




<カメヤマローソクベンチ>
カメヤマ株式会社(本社:大阪市)は、神社仏閣向けに「カメヤマローソクベンチ」の提供を続けています。



<御神輿庫>
神輿庫にまで天水桶があるのは珍しいでしょうね。


<納札所>

<御神木/神橋> 足立区保存樹
参道左に、2本の銀杏(足立区指定保存樹)とその間に「神橋」があります。


(説明板)
「御神木
この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほぼ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。
寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。
<足立区指定保存樹>」

<社務所>
社務所は近代的なビルです。

【拝殿/本殿】
<狛犬>
文政13(1830)年に奉納の狛犬です。





(説明板)
「狛犬
江戸末期(文政十三年五月)に、氏子有志によって献納されたものであるが、その狛犬の姿が“子を抱える”“子を護る”とても珍しい姿であります。
これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繁昌、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)のお恵みが、特に灼かであったことによることが理由の一つとされています。」


<天水桶>
安政5(1858)年に奉献の川口産の天水桶です。
「武州川口 御鋳物師 増田安次郎」(増田家の四代目?)
増田家は幕末に多くの大砲を鋳造し、幕府や諸藩に納入しています。大砲鋳造の功績により苗字・帯刀を許されました。





<社殿>
社殿は戦災で焼失、昭和33(1958)年の再建です。







※加筆したので、旧記事は削除しました。
白幡八幡神社(千住宮元町)
○白幡八幡神社 足立区千住宮元町3-8
白幡八幡神社は、源義家が、渡裸川を渡る際、両岸に白旗を立て目印にしたことに因んでいます。 かつては大師道沿いにありましたが、明治41(1908)年に現在地に移転しています。
千住七福神の毘沙門天を祀っています。現在は、千住神社の兼務社です。
<鳥居/社号標>
鳥居と社殿は東向き、社号標は南向きに建っています。


(説明板)
「八幡神社
白幡八幡宮が正式名称との事です。諸説ありますが、源家が奥州征伐に赴く際に武運長久を願って、渡し場に白旗を立てたことが始まりと言われています。
第十五代応神天皇として即位された誉田別命(ほんだわけのみこと)、別名『八幡の皇子』様が祭られています。
ここ宮元町の八幡神社は、明治四十一年(1908)この地に建立されましたが、昭和二十年(1945)戦災により焼失、昭和三十四年(1959)再建されました。
以来、宮元町の鎮守様として武運長久、勝運、厄災除けの神様として、見守っていただいています。」

<千寿七福神/毘沙門天>


<拝殿/本殿>






<社務所>


※加筆したので、旧記事は削除しました。
白幡八幡神社は、源義家が、渡裸川を渡る際、両岸に白旗を立て目印にしたことに因んでいます。 かつては大師道沿いにありましたが、明治41(1908)年に現在地に移転しています。
千住七福神の毘沙門天を祀っています。現在は、千住神社の兼務社です。
<鳥居/社号標>
鳥居と社殿は東向き、社号標は南向きに建っています。


(説明板)
「八幡神社
白幡八幡宮が正式名称との事です。諸説ありますが、源家が奥州征伐に赴く際に武運長久を願って、渡し場に白旗を立てたことが始まりと言われています。
第十五代応神天皇として即位された誉田別命(ほんだわけのみこと)、別名『八幡の皇子』様が祭られています。
ここ宮元町の八幡神社は、明治四十一年(1908)この地に建立されましたが、昭和二十年(1945)戦災により焼失、昭和三十四年(1959)再建されました。
以来、宮元町の鎮守様として武運長久、勝運、厄災除けの神様として、見守っていただいています。」

<千寿七福神/毘沙門天>


<拝殿/本殿>






<社務所>


※加筆したので、旧記事は削除しました。
NTT東日本千住ビル(千住中居町)
○NTT東日本千住ビル 足立区千住中居町15-1
昭和4(1929)年5月に「千住郵便局電話事務室」として竣工した建物です。設計は逓信省の技師、山田守。永代橋、聖橋、日本武道館、京都タワーなどを設計しました。現在は、NTT東日本千住ビルとして現役で使用されています。
(東方向から撮)




(南方向から撮)





(西方向から撮) 切断された煙突跡が見えます。


昭和4(1929)年5月に「千住郵便局電話事務室」として竣工した建物です。設計は逓信省の技師、山田守。永代橋、聖橋、日本武道館、京都タワーなどを設計しました。現在は、NTT東日本千住ビルとして現役で使用されています。
(東方向から撮)




(南方向から撮)





(西方向から撮) 切断された煙突跡が見えます。



テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 千住
北千住昭和会 虎斑稲荷 イトー児童遊園
○北千住昭和会 足立区千住中居町
北千住駅西口前より西方向に伸びる「きたろーど1010商店街」から日光街道を超えると「北千住昭和会」です。大正通りとの交差まで続きます。
街灯

東から西方向

西から東方向

西から日光街道

○虎斑稲荷神社 足立区千住中居町28-28
北千住昭和会にあるタイムズ駐車場に「虎斑(とらふ)稲荷神社」はあります。「鷹野鳥見屋敷(鳥見番所)」(千住1-16-8)からの移転です。社殿の中を見ると、赤鳥居と紙人形しか見えません。



(参考)
鷹野鳥見屋敷(鳥見番所)跡 足立区千住1-16-8
鷹狩場を管理する鳥見の役宅が鷹野鳥見屋敷で、その屋敷神として祀られていた稲荷社が虎斑稲荷と呼ばれていました。御神体の狐には虎のような斑紋があることからの名であるといいます。虎斑稲荷の創建は鳥見屋敷が設けられる以前であり、のちに屋敷に囲いこまれたものです。かつては足立区教育委員会の標柱と説明板がありましたが、現在は何もありません。

○足立区立イトー児童遊園 足立区千住中居町21-1
※千住中居町でまとめたので、旧記事は削除しました。
イトーヨーカドー創業者自宅跡地は、伊藤家が足立区へ土地を寄贈され、足立区立の児童遊園となっています。飛び立つ鳩と子供の「子供像」があります。その台座に説明が書かれています。
(台座銘文)
「この児童遊園は、イトーヨーカドーの創立者の伊藤ゆきさん、 同じく令息譲氏夫人せきさんが、昭和34年から昭和57年まで住まわれた場所です。
千住は、イトーヨーカドーグループ発祥の地であり、地域の皆様への感謝の気持ちをこめて、伊藤せきさんから足立区に寄贈されたものです。
足立区は、このご厚好意を受けて「イトー児童公園」として開園いたしました。
昭和63年3月 足立区」







<里帰り桜>
イトー児童遊園には、ワシントンからの里帰り桜が植えられ、その説明板があります。
(説明板)
「ワシントンからの里帰り桜
足立区江北の一帯は、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。「五色桜」とはソメイヨシノの他に、当時、珍しかったヤエザクラなどの品種が混植されていたため、白や黄色、淡紅色、濃紅色などに彩どられ、五色の雲がたなびく如く見えたところからこの名が付いたと言われています。
明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として、十ニ品種三千本の桜苗を、首都ワシントンに贈った話は有名ですが、このときの桜が「五色桜」でした。その後、ワシントンのポットマック公園は世界的な桜の名所となりました。しかし、本家の「荒川の五色桜」は、堤防工事や公害の影響で衰退してしまいました。
足立区では、この由緒ある「五色桜」を復活させるため、区政五十周年記念事業ととして、「桜の里帰り」を計画しました。そして昭和五十六年ニ月、多くの関係者の努力と米国の協力により、主としてポットマック公園の桜から枝を採取し、三十五品種三千本の「桜の里帰り」が実現しました。
ここに植えられている桜は、この里帰りした桜の一部です。区内の緑化、美化のために、みなさんで大切に育てていきましょう。
足立区」


<イトーヨーカ堂発祥の地(山谷)> 台東区清川2-5-3
イトーヨーカ堂の母体は、大正9(1920)年に創業した「羊華堂洋品店」(浅草区浅草山谷町)です。

「羊華堂洋品店」があった場所で営業していたイタリアン料理店「バール・アルテ」が閉店・解体となり、新たにビルが建ちました。(左が旧安田銀行、右が新たなビル)
北千住駅西口前より西方向に伸びる「きたろーど1010商店街」から日光街道を超えると「北千住昭和会」です。大正通りとの交差まで続きます。
街灯

東から西方向

西から東方向

西から日光街道

○虎斑稲荷神社 足立区千住中居町28-28
北千住昭和会にあるタイムズ駐車場に「虎斑(とらふ)稲荷神社」はあります。「鷹野鳥見屋敷(鳥見番所)」(千住1-16-8)からの移転です。社殿の中を見ると、赤鳥居と紙人形しか見えません。



(参考)
鷹野鳥見屋敷(鳥見番所)跡 足立区千住1-16-8
鷹狩場を管理する鳥見の役宅が鷹野鳥見屋敷で、その屋敷神として祀られていた稲荷社が虎斑稲荷と呼ばれていました。御神体の狐には虎のような斑紋があることからの名であるといいます。虎斑稲荷の創建は鳥見屋敷が設けられる以前であり、のちに屋敷に囲いこまれたものです。かつては足立区教育委員会の標柱と説明板がありましたが、現在は何もありません。

○足立区立イトー児童遊園 足立区千住中居町21-1
※千住中居町でまとめたので、旧記事は削除しました。
イトーヨーカドー創業者自宅跡地は、伊藤家が足立区へ土地を寄贈され、足立区立の児童遊園となっています。飛び立つ鳩と子供の「子供像」があります。その台座に説明が書かれています。
(台座銘文)
「この児童遊園は、イトーヨーカドーの創立者の伊藤ゆきさん、 同じく令息譲氏夫人せきさんが、昭和34年から昭和57年まで住まわれた場所です。
千住は、イトーヨーカドーグループ発祥の地であり、地域の皆様への感謝の気持ちをこめて、伊藤せきさんから足立区に寄贈されたものです。
足立区は、このご厚好意を受けて「イトー児童公園」として開園いたしました。
昭和63年3月 足立区」







<里帰り桜>
イトー児童遊園には、ワシントンからの里帰り桜が植えられ、その説明板があります。
(説明板)
「ワシントンからの里帰り桜
足立区江北の一帯は、「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。「五色桜」とはソメイヨシノの他に、当時、珍しかったヤエザクラなどの品種が混植されていたため、白や黄色、淡紅色、濃紅色などに彩どられ、五色の雲がたなびく如く見えたところからこの名が付いたと言われています。
明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄が日米友好の証として、十ニ品種三千本の桜苗を、首都ワシントンに贈った話は有名ですが、このときの桜が「五色桜」でした。その後、ワシントンのポットマック公園は世界的な桜の名所となりました。しかし、本家の「荒川の五色桜」は、堤防工事や公害の影響で衰退してしまいました。
足立区では、この由緒ある「五色桜」を復活させるため、区政五十周年記念事業ととして、「桜の里帰り」を計画しました。そして昭和五十六年ニ月、多くの関係者の努力と米国の協力により、主としてポットマック公園の桜から枝を採取し、三十五品種三千本の「桜の里帰り」が実現しました。
ここに植えられている桜は、この里帰りした桜の一部です。区内の緑化、美化のために、みなさんで大切に育てていきましょう。
足立区」


<イトーヨーカ堂発祥の地(山谷)> 台東区清川2-5-3
イトーヨーカ堂の母体は、大正9(1920)年に創業した「羊華堂洋品店」(浅草区浅草山谷町)です。

「羊華堂洋品店」があった場所で営業していたイタリアン料理店「バール・アルテ」が閉店・解体となり、新たにビルが建ちました。(左が旧安田銀行、右が新たなビル)

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
大正記念道碑 (千住中居町)
○大正記念道碑 足立区千住中居町24-7 千住中居町公園
大正通りに面して千住中居町公園があり、ここに「大正記念道碑」(文学博士森林太郎撰文)があります。
千住中居町公園入口


千住中居町公園から大正通り北方向

<大正記念道碑> 足立区文化財
大正記念道碑は、大正5(1916)年11月に大正記念道の完成を記念して建立された碑です。碑銘は大正天皇即位を記念して命名されました。碑文は、千住に住んだことのある森鴎外の漢文による撰文です。当初は千住宮本町にありましたが、平成26(2014)年4月に、大正通りに面する千住中居町公園に移設されました。
大正記念道は、荒川放水路の完成で不用となった西掃部堀を埋めて造成され、大正5(1916)年11月に完成しました。千住大川町氷川神社前から墨堤通りに至る1,052mに及ぶ道で、完成当時は千住で最も広い道路でした。



「大正記念道碑」

「大正五年十月 森鴎外撰文」



(碑表)

(碑裏)

「森鴎外と千住大正記念道碑」/「碑文の要旨」

「大正記念道碑移設整備について」
千住の鴎外碑保存会による説明板です。




大正通りに面して千住中居町公園があり、ここに「大正記念道碑」(文学博士森林太郎撰文)があります。
千住中居町公園入口


千住中居町公園から大正通り北方向

<大正記念道碑> 足立区文化財
大正記念道碑は、大正5(1916)年11月に大正記念道の完成を記念して建立された碑です。碑銘は大正天皇即位を記念して命名されました。碑文は、千住に住んだことのある森鴎外の漢文による撰文です。当初は千住宮本町にありましたが、平成26(2014)年4月に、大正通りに面する千住中居町公園に移設されました。
大正記念道は、荒川放水路の完成で不用となった西掃部堀を埋めて造成され、大正5(1916)年11月に完成しました。千住大川町氷川神社前から墨堤通りに至る1,052mに及ぶ道で、完成当時は千住で最も広い道路でした。



「大正記念道碑」

「大正五年十月 森鴎外撰文」



(碑表)

(碑裏)

「森鴎外と千住大正記念道碑」/「碑文の要旨」

「大正記念道碑移設整備について」
千住の鴎外碑保存会による説明板です。





テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
- カウンター