関屋の里プチテラス(牛田駅)
○関屋の里プチテラス 足立区千住曙町1-3
東武線牛田駅の隣に、関屋の里プチテラスがあります。
<隅田川」関屋の里>
説明板「隅田川」関屋の里」と、葛飾北斎「富嶽三十六景関屋の里」のタイル絵が掲示されています。

(説明板)
「隅田川関屋の里
「庵崎のすみだ河原に日は暮れぬ関屋の里に宿やからまし」
康元元年(一二五六)藤原光俊が読んだ歌が「江戸名所図会」に紹介されています。この頃すでに「関屋」の地名が使われていたことから、計り知れない人々の歴史がこの地に刻み続けられていることになります。
そして、江戸時代には隅田川八景の一つとして舟遊びの名所に、また葛飾北斎によって富嶽三十六景の一つとして選ばれる程、親しまれてきました。
「関屋の里」への人々の愛着が尽きぬよう、ここに再現してみました。
平成四年三月
足立区都市環境部
出典 葛飾北斎「富嶽三十六景関屋の里」」

※プチテラス公衆トイレ前には、デザインマンホール「隅田川関屋の里」があります.(再掲)。

<日光道中>
説明板「日光街道(千住宿)」が掲示されているとともに、歌川広重「日光道中」から複数枚掲示されています。




(説明板)
説明板が喫煙所の裏に掲示されています。
「日光街道(千住宿)
江戸時代の五街道の一つであった日光道中(現在は日光街道と呼ばれています。)は將軍の日光社参が行われた政治・経済・文化の面からも重要な街道でありました。
日本橋を起点として、千住、草加、越谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋、中田、古河、野木、間間田、小山、芋柄新田、小金井、石橋、雀宮、宇都宮、徳次良、大沢、今市、鉢石、日光に至る二十一
宿をいい、ここ千住は日光街道の第一の宿として寛永二年(一六二五)に江戸幕府によって定められ、以後発展繁栄してゆくことになりました。
安藤広重作『日光道中』より
足立区制六十周年記念
贈 足立まつり実行委員会」


「日光道中」(広重)
「日光道中」は32枚(2枚1組)の浮世絵で、千住から鉢石までの21宿と日本橋、野沢の日光道中23枚、神橋から御宮までの日光山9枚があります。
以下は掲示されている錦絵を抜粋しました(足立区郷土博物館所蔵より)。
「ニ 千住」

「三 草加」

「八 栗橋」

「十八 宇都の宮」

「廿四 御神橋」

東武線牛田駅の隣に、関屋の里プチテラスがあります。
<隅田川」関屋の里>
説明板「隅田川」関屋の里」と、葛飾北斎「富嶽三十六景関屋の里」のタイル絵が掲示されています。

(説明板)
「隅田川関屋の里
「庵崎のすみだ河原に日は暮れぬ関屋の里に宿やからまし」
康元元年(一二五六)藤原光俊が読んだ歌が「江戸名所図会」に紹介されています。この頃すでに「関屋」の地名が使われていたことから、計り知れない人々の歴史がこの地に刻み続けられていることになります。
そして、江戸時代には隅田川八景の一つとして舟遊びの名所に、また葛飾北斎によって富嶽三十六景の一つとして選ばれる程、親しまれてきました。
「関屋の里」への人々の愛着が尽きぬよう、ここに再現してみました。
平成四年三月
足立区都市環境部
出典 葛飾北斎「富嶽三十六景関屋の里」」

※プチテラス公衆トイレ前には、デザインマンホール「隅田川関屋の里」があります.(再掲)。

<日光道中>
説明板「日光街道(千住宿)」が掲示されているとともに、歌川広重「日光道中」から複数枚掲示されています。




(説明板)
説明板が喫煙所の裏に掲示されています。
「日光街道(千住宿)
江戸時代の五街道の一つであった日光道中(現在は日光街道と呼ばれています。)は將軍の日光社参が行われた政治・経済・文化の面からも重要な街道でありました。
日本橋を起点として、千住、草加、越谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋、中田、古河、野木、間間田、小山、芋柄新田、小金井、石橋、雀宮、宇都宮、徳次良、大沢、今市、鉢石、日光に至る二十一
宿をいい、ここ千住は日光街道の第一の宿として寛永二年(一六二五)に江戸幕府によって定められ、以後発展繁栄してゆくことになりました。
安藤広重作『日光道中』より
足立区制六十周年記念
贈 足立まつり実行委員会」


「日光道中」(広重)
「日光道中」は32枚(2枚1組)の浮世絵で、千住から鉢石までの21宿と日本橋、野沢の日光道中23枚、神橋から御宮までの日光山9枚があります。
以下は掲示されている錦絵を抜粋しました(足立区郷土博物館所蔵より)。
「ニ 千住」

「三 草加」

「八 栗橋」

「十八 宇都の宮」

「廿四 御神橋」

東武鉄道千住貨物線
○東武鉄道千住貨物線 足立区千住東1丁目〜千住関屋町
<北千住駅〜中千住駅〜千住貨物駅>
中千住駅から分岐しいていた千住貨物線は、1935(昭和10)年11月1日〜1987(昭和62)年4月30日まで稼働。
中千住駅は1953年に廃駅となり、信号所を経て、貨物線の分岐点となります。分岐点から先、墨堤通りで2方向へ線路が延び、京成線の高架をくぐります。
東の線路跡は岡田商事の中へ。西の線路跡の先が千住貨物駅となります。
<中千住駅> 足立区千住東1-23
大踏切の南に、かつて中千住駅がありました。現在は、東武エンジニアリングがあります。


「東京府南足立郡千住町全図」(昭和6年1月15日 足立区立郷土博物館蔵)
昭和6年の地図に、中千住駅が見えます。

<煉瓦の架道橋>
愛里病院の正面に、西側石積み、東側煉瓦積みの架道橋があります。中千住駅の南に位置しているので、東西の通路だったのでしょう。




<伊第21号踏切道>
大踏切(第22号)の次の第21号踏切の先で、貨物線は千住貨物駅に向かいます。墨堤通りを横切り、京成線の高架をくぐります。




<西の線路跡>
京成線の高架下。



<関屋公園に通ずる緑道> 千住関屋町17
京成線の高架をくぐり、高層住宅の間を通る緑道が貨物線跡になります。



<関屋公園> 足立区千住関屋町17-7
千住貨物駅は、足立区立関屋公園となっています。


<引き込み線> 足立区千住関屋町18-1
東側の線路跡は、奇跡的に線路が残っています。




岡田商事の工場内に「スユ3720」郵便客車が残されています。


(参考)
足立市場専用線跡
<北千住駅〜中千住駅〜千住貨物駅>
中千住駅から分岐しいていた千住貨物線は、1935(昭和10)年11月1日〜1987(昭和62)年4月30日まで稼働。
中千住駅は1953年に廃駅となり、信号所を経て、貨物線の分岐点となります。分岐点から先、墨堤通りで2方向へ線路が延び、京成線の高架をくぐります。
東の線路跡は岡田商事の中へ。西の線路跡の先が千住貨物駅となります。
<中千住駅> 足立区千住東1-23
大踏切の南に、かつて中千住駅がありました。現在は、東武エンジニアリングがあります。


「東京府南足立郡千住町全図」(昭和6年1月15日 足立区立郷土博物館蔵)
昭和6年の地図に、中千住駅が見えます。

<煉瓦の架道橋>
愛里病院の正面に、西側石積み、東側煉瓦積みの架道橋があります。中千住駅の南に位置しているので、東西の通路だったのでしょう。




<伊第21号踏切道>
大踏切(第22号)の次の第21号踏切の先で、貨物線は千住貨物駅に向かいます。墨堤通りを横切り、京成線の高架をくぐります。




<西の線路跡>
京成線の高架下。



<関屋公園に通ずる緑道> 千住関屋町17
京成線の高架をくぐり、高層住宅の間を通る緑道が貨物線跡になります。



<関屋公園> 足立区千住関屋町17-7
千住貨物駅は、足立区立関屋公園となっています。


<引き込み線> 足立区千住関屋町18-1
東側の線路跡は、奇跡的に線路が残っています。




岡田商事の工場内に「スユ3720」郵便客車が残されています。


(参考)
足立市場専用線跡
隅田川関屋の里(マンホール蓋 碑)
○デザインマンホール蓋 隅田川関屋の里 足立区千住曙町1-3(関屋の里プチテラス前)
東武線牛田駅隣の関屋の里プチテラス前に、デザインマンホール「隅田川関屋の里」があります。


○富嶽三十六景隅田川関谷の里碑 足立区千住仲町28-1
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。
作品が描かれたと思われる場所に、PO法人千住文化普及会が「公益信託あだちまちづくりトラスト」の助成金を受け、顕彰碑が2016年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。
<隅田川関屋の里>
現在の墨堤通り沿いを疾走する早馬が描かれています。
場所は仲町氷川神社南側付近と考えられるので、千住仲町公園(千住仲町28-1)入口に設置されています。


(説明文)
「葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」


「富嶽三十六景 隅田川関谷の里」(北斎)

「絵本江戸土産 関屋の里」(広重)
「木母寺より十町ばかり東北にあたれり ここは東都の名所にして古へよりその名高く 春秋の眺望には遊人騒客ここに遊びて 一時延気の場となすめり」

「名所江戸百景 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」(広重)
真先稲荷境内の田楽屋から隅田川の対岸を見た構図です。
水神の森と内川、筑波山が見えます。

筑波山の下のほうが関谷の里です(拡大)。
東武線牛田駅隣の関屋の里プチテラス前に、デザインマンホール「隅田川関屋の里」があります。


○富嶽三十六景隅田川関谷の里碑 足立区千住仲町28-1
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。
作品が描かれたと思われる場所に、PO法人千住文化普及会が「公益信託あだちまちづくりトラスト」の助成金を受け、顕彰碑が2016年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。
<隅田川関屋の里>
現在の墨堤通り沿いを疾走する早馬が描かれています。
場所は仲町氷川神社南側付近と考えられるので、千住仲町公園(千住仲町28-1)入口に設置されています。


(説明文)
「葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」


「富嶽三十六景 隅田川関谷の里」(北斎)

「絵本江戸土産 関屋の里」(広重)
「木母寺より十町ばかり東北にあたれり ここは東都の名所にして古へよりその名高く 春秋の眺望には遊人騒客ここに遊びて 一時延気の場となすめり」

「名所江戸百景 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」(広重)
真先稲荷境内の田楽屋から隅田川の対岸を見た構図です。
水神の森と内川、筑波山が見えます。

筑波山の下のほうが関谷の里です(拡大)。

千葉山西光院(牛田薬師)
○千葉山西光院(牛田薬師) 足立区千住曙町27-1 HP
江戸時代には、牛田薬師として知られていました。荒川辺八十八ヶ所霊場第63番札所、荒綾八十八ヶ所霊場第82番札所です。
石出常軒の碑と墓があります。石出帯刀吉深といい江戸町奉行配下の牢屋奉行でした。振袖火事で江戸市中が火の海になり吉深は、小伝馬町牢屋から囚人を一時解放し避難させ人命を救いました。晩年、国学に傾倒していた吉深は常軒と号しました。
「江戸名所図会 牛田 薬師堂 関屋里」
其二と其三を繋げています。手前に千住川(隅田川)、右から奥に綾瀬川が流れています。挿絵には、「西光院」「やくし」が見えます。中央下には「元天神」が見えます。左手に「此辺を関屋の里といふ」とあります。

<山門/寺号標>
山門左手に寺号標「牛田薬師 西光院」。


<稲荷社>
祠内に神狐が控えているので、稲荷社でしょう。山門入ってする左手です。
祠の左手に石碑。右手にも説明板「石出常軒の碑」の下に石碑。



<庚申塔>
山門入って右手の塀沿いに、庚申塔などが並んでいます。

・文字庚申塔「庚申青面金剛」「三猿」(左と右の猿は内向きです。)文化8(1811)年。

・板碑型庚申塔

・光背型庚申塔

・「荒綾 八十八ヶ所第八十二番西光院」

・庚申塔手洗鉢・三猿(天和3年)

<水子地蔵尊>

<石庭と池/石燈籠>





<本堂>



<石出常軒の碑>
(説明板)
「石出常軒の碑 千住曙町二七‐一 西光院
石出帯刀吉深は、江戸町奉行配下の断獄令(牢屋奉行)で、明暦三年(一六五七)一月の、いわゆる振袖火事で江戸市中が火の海と化した折、小伝馬町の牢屋から囚人を一時切放(解放)し、避難させ人命を救った。以後この切放は慣例となり、日本行刑監獄史上、特記される人物である。
また、役職とは別に、朱子学や忌部神道を学び、国学に傾倒して和歌・連歌で名をなし多くの作品を残した。晩年関屋の里に隠棲してからは常軒と号し、病弱を押して源氏物語全巻の注釈全書『窺原抄』六十二巻を完成させ、元禄二年(一六八九)三月、七十五歳で歿した。
西光院墓地にある「石出常軒法名日念碑」は、長男師深が父の事績を書き残した碑で、かなり風化しているが、一部は『新編武蔵風土記稿』にも記録されている。昭和五十七年十二月区登録有形文化財(歴史資料)とした。
平成五年三月 東京都足立区教育委員会」

<墓地>
説明板から墓地に入って突き当たりに「石出常軒の墓」と「石出常軒の碑」があります。
NPO法人千住文化普及会のサイトによると、右端「石出常軒の墓」、その隣「石出常軒の碑」です。





(参考)
小伝馬町牢屋敷
江戸時代には、牛田薬師として知られていました。荒川辺八十八ヶ所霊場第63番札所、荒綾八十八ヶ所霊場第82番札所です。
石出常軒の碑と墓があります。石出帯刀吉深といい江戸町奉行配下の牢屋奉行でした。振袖火事で江戸市中が火の海になり吉深は、小伝馬町牢屋から囚人を一時解放し避難させ人命を救いました。晩年、国学に傾倒していた吉深は常軒と号しました。
「江戸名所図会 牛田 薬師堂 関屋里」
其二と其三を繋げています。手前に千住川(隅田川)、右から奥に綾瀬川が流れています。挿絵には、「西光院」「やくし」が見えます。中央下には「元天神」が見えます。左手に「此辺を関屋の里といふ」とあります。

<山門/寺号標>
山門左手に寺号標「牛田薬師 西光院」。


<稲荷社>
祠内に神狐が控えているので、稲荷社でしょう。山門入ってする左手です。
祠の左手に石碑。右手にも説明板「石出常軒の碑」の下に石碑。



<庚申塔>
山門入って右手の塀沿いに、庚申塔などが並んでいます。

・文字庚申塔「庚申青面金剛」「三猿」(左と右の猿は内向きです。)文化8(1811)年。

・板碑型庚申塔

・光背型庚申塔

・「荒綾 八十八ヶ所第八十二番西光院」

・庚申塔手洗鉢・三猿(天和3年)

<水子地蔵尊>

<石庭と池/石燈籠>





<本堂>



<石出常軒の碑>
(説明板)
「石出常軒の碑 千住曙町二七‐一 西光院
石出帯刀吉深は、江戸町奉行配下の断獄令(牢屋奉行)で、明暦三年(一六五七)一月の、いわゆる振袖火事で江戸市中が火の海と化した折、小伝馬町の牢屋から囚人を一時切放(解放)し、避難させ人命を救った。以後この切放は慣例となり、日本行刑監獄史上、特記される人物である。
また、役職とは別に、朱子学や忌部神道を学び、国学に傾倒して和歌・連歌で名をなし多くの作品を残した。晩年関屋の里に隠棲してからは常軒と号し、病弱を押して源氏物語全巻の注釈全書『窺原抄』六十二巻を完成させ、元禄二年(一六八九)三月、七十五歳で歿した。
西光院墓地にある「石出常軒法名日念碑」は、長男師深が父の事績を書き残した碑で、かなり風化しているが、一部は『新編武蔵風土記稿』にも記録されている。昭和五十七年十二月区登録有形文化財(歴史資料)とした。
平成五年三月 東京都足立区教育委員会」

<墓地>
説明板から墓地に入って突き当たりに「石出常軒の墓」と「石出常軒の碑」があります。
NPO法人千住文化普及会のサイトによると、右端「石出常軒の墓」、その隣「石出常軒の碑」です。





(参考)
小伝馬町牢屋敷
- カウンター