大川町氷川神社/千住川田浅間神社富士塚
○大川町氷川神社 足立区千住大川町12-3
当社は、荒川放水路開削により、千住5丁目の旧日光街道北側から大正4(1915)年に現在地に移りました。現在の本殿は昭和43年の竣工です。千住5丁目の鎮守として、この神社の神輿も、祭礼のときは旧日光街道を巡行します。
「千住川田浅間神社富士塚」は、元々は文政7(1824)年に元宿の川田耕地(現在は荒川の河川敷)に築造されたものです。
几号水準点が刻まれた天保14(1843)年の「紙すき碑」は、千住5丁目の旧日光街道北側から大正6(1917)年に現在地に移りました。
<表参道>



<千住新渠碑>
参道左手にある明治38(1905)年3月建立の「千住新渠碑」です。用水路の付け替え工事の経緯を漢文で記しています。


<旧千住新橋の親柱>
大正13(1924)年6月20日、千住新橋の完成に伴い、荒川放水路全川に通水されました。その時完成した千住新橋の親柱が参道左手に保存されています。親柱は2つあり、手前の親柱は全体が保存されていますが、隣の親柱は土台のみです。その土台には「大正十三年五月成」と刻まれています。



(説明板)
「旧千住新橋の親柱
この石柱は、旧千住新橋の親柱である。
千住新橋は、明治四十四年から荒川放水路の大改修計画の一環として、大正九年より同十三年までの永い歳月と、一一九万円を費して完成したものである。橋の構造、規模は、長さ四五二・七メートル、幅七・二メートル、鋼板桁の近代橋であった。
その後昭和三十二年に幅一七メートルに拡幅され、東北地方への玄関口として機能を果たしてきたが、堤防の嵩上げ、著しい橋桁の老朽化、さらに交通量の増大などで架け替えをすることとなったのである。
架け替えに当り永年親しんできた旧千住新橋の標柱を大川町東町会の要請により、氷川神社の協賛を得て記念のためこの地へ移したものである。
昭和五十三年十二月 東京都足立区」

<千住新橋親柱> 足立区立郷土博物館
足立区立郷土博物館にもあります。

<一之鳥居>
木製の両部鳥居です。

<布袋尊と庚申塔>
手水舎の先に千寿七福神の「布袋尊」がおられます。




布袋尊の左脇に力石のような庚申塔があります。紀年は見当たりません。同じような力石の庚申塔が、不動院(こちらで記載)と元宿神社(こちらで記載)にもありました。

<祭具庫>
今の大川町氷川神社の所在地は千住大川町ですが、千住5丁目の鎮守として大川町氷川神社の神輿も、祭礼のときは旧日光街道を巡行します。参道右手奥にある祭具庫には、千住5丁目のものがあります。


<二之鳥居>
石造の鳥居です。

<紙すき碑> 足立区文化財
浅草紙は、江戸の再生紙です。主生産地は浅草、山谷、千住、本木・梅田と北上していきました。ちなみに「ひやかし」は浅草紙の製造過程に由来し山谷で生まれました。


(説明板)
「紙すき碑
足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことがのべられている。
この歌碑は、天保十四年(一八四三)六月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。
碑文の上部に、永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より岳のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせさするわさは田をつくるひなの賎らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。
紙すきが、稲作にも劣らない仕事であるという自讃の歌である。台座石に二十一軒の問屋名が記されている。
荒川放水路開削のため、この碑は、大正六年に移転し、再建された。
足立の紙すきを物語る貴重な資料である。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会」

<几号水準点>
「千住北組五丁目鎮守八幡社内石碑」が元々あった場所は、旧日光街道が千住5丁目の名倉医院の手前から大きく西に曲がった先、千住新橋の下流の荒川堤防です。
紙すきの歌碑は、明治44年に開始された荒川路開削工事により、大正6(1517)年1月に氷川神社に移転、再建されています。碑の裏面に「大正六年一月」と刻まれています。なお、氷川神社の移転は大正4年です。
台座石に21軒の紙すき問屋名が刻まれていますが、台座石の縁取りを削って、永続連(紙すき同業組合)の文字の、続と連の間に几号が刻まれています。古碑や鳥居、皇居の門の石垣に刻まれる几号、昔の内務省の力を感じます。



<西参道>


<社殿>
「上棟紀念 千住町五丁目」と、ここにも五丁目。



<旧狛犬等>
社殿の横に置かれている、とろけてしまっている旧狛犬等です。


○千住川田浅間神社富士塚 足立区文化財
石段があり、登頂出来る富士塚です。都内で9番目に古い富士塚です。




(説明板)
「千住川田浅間神社富士塚
富士塚は、文政七年(一八ニ四)築造。祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。
明治四十四年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正五年五月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和四十三年六月現在地に移築復元され今日に至っている。
塚は,冨士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ約三メートルである。
山頂に、天保二年(一八三一)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政七年(一八ニ四)のもので丸藤惣同行冨士三十三度大願成就とある。
この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住十三夜同行と呼ぶ。講中は、千住五丁目と、千住大川町全域に及び、かっては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。
毎年七月一日祭礼が行われる。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会」

<移築記念碑>

登頂入口にある、それぞれ「奉」と「納」と刻まれた石碑ですが、右側面に紀年(明治十五年六月かな?)、左側面に庚申?の文字が刻まれています。




合目石があります。確認できた合目石は、一・五・六・七・十です。五合目に、周りを一周できる「御中道」が設けられています。





「小御嶽石尊大権現」があります。

頂上には、天保2(1831)年6月銘の石祠の浅間神社があります。



<出羽三山碑>
初回訪問時には出羽三山は気が付きませんでした。同一の石塔に、富士山と出羽三山が共存しているのは珍しいかと思います。

(正面) 「冨士山三十三度大願成就」の両側には、「西國坂東秩父」「湯殿山月山羽黒山」と刻まれています。


(左側面)「天下泰平 國土安穏 五穀成就」

(裏面) 文政七年(1824)の紀年が刻まれています。

※旧記事に加筆したので、旧記事は削除しました。
当社は、荒川放水路開削により、千住5丁目の旧日光街道北側から大正4(1915)年に現在地に移りました。現在の本殿は昭和43年の竣工です。千住5丁目の鎮守として、この神社の神輿も、祭礼のときは旧日光街道を巡行します。
「千住川田浅間神社富士塚」は、元々は文政7(1824)年に元宿の川田耕地(現在は荒川の河川敷)に築造されたものです。
几号水準点が刻まれた天保14(1843)年の「紙すき碑」は、千住5丁目の旧日光街道北側から大正6(1917)年に現在地に移りました。
<表参道>



<千住新渠碑>
参道左手にある明治38(1905)年3月建立の「千住新渠碑」です。用水路の付け替え工事の経緯を漢文で記しています。


<旧千住新橋の親柱>
大正13(1924)年6月20日、千住新橋の完成に伴い、荒川放水路全川に通水されました。その時完成した千住新橋の親柱が参道左手に保存されています。親柱は2つあり、手前の親柱は全体が保存されていますが、隣の親柱は土台のみです。その土台には「大正十三年五月成」と刻まれています。



(説明板)
「旧千住新橋の親柱
この石柱は、旧千住新橋の親柱である。
千住新橋は、明治四十四年から荒川放水路の大改修計画の一環として、大正九年より同十三年までの永い歳月と、一一九万円を費して完成したものである。橋の構造、規模は、長さ四五二・七メートル、幅七・二メートル、鋼板桁の近代橋であった。
その後昭和三十二年に幅一七メートルに拡幅され、東北地方への玄関口として機能を果たしてきたが、堤防の嵩上げ、著しい橋桁の老朽化、さらに交通量の増大などで架け替えをすることとなったのである。
架け替えに当り永年親しんできた旧千住新橋の標柱を大川町東町会の要請により、氷川神社の協賛を得て記念のためこの地へ移したものである。
昭和五十三年十二月 東京都足立区」

<千住新橋親柱> 足立区立郷土博物館
足立区立郷土博物館にもあります。

<一之鳥居>
木製の両部鳥居です。

<布袋尊と庚申塔>
手水舎の先に千寿七福神の「布袋尊」がおられます。




布袋尊の左脇に力石のような庚申塔があります。紀年は見当たりません。同じような力石の庚申塔が、不動院(こちらで記載)と元宿神社(こちらで記載)にもありました。

<祭具庫>
今の大川町氷川神社の所在地は千住大川町ですが、千住5丁目の鎮守として大川町氷川神社の神輿も、祭礼のときは旧日光街道を巡行します。参道右手奥にある祭具庫には、千住5丁目のものがあります。


<二之鳥居>
石造の鳥居です。

<紙すき碑> 足立区文化財
浅草紙は、江戸の再生紙です。主生産地は浅草、山谷、千住、本木・梅田と北上していきました。ちなみに「ひやかし」は浅草紙の製造過程に由来し山谷で生まれました。


(説明板)
「紙すき碑
足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことがのべられている。
この歌碑は、天保十四年(一八四三)六月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。
碑文の上部に、永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より岳のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせさするわさは田をつくるひなの賎らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。
紙すきが、稲作にも劣らない仕事であるという自讃の歌である。台座石に二十一軒の問屋名が記されている。
荒川放水路開削のため、この碑は、大正六年に移転し、再建された。
足立の紙すきを物語る貴重な資料である。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会」

<几号水準点>
「千住北組五丁目鎮守八幡社内石碑」が元々あった場所は、旧日光街道が千住5丁目の名倉医院の手前から大きく西に曲がった先、千住新橋の下流の荒川堤防です。
紙すきの歌碑は、明治44年に開始された荒川路開削工事により、大正6(1517)年1月に氷川神社に移転、再建されています。碑の裏面に「大正六年一月」と刻まれています。なお、氷川神社の移転は大正4年です。
台座石に21軒の紙すき問屋名が刻まれていますが、台座石の縁取りを削って、永続連(紙すき同業組合)の文字の、続と連の間に几号が刻まれています。古碑や鳥居、皇居の門の石垣に刻まれる几号、昔の内務省の力を感じます。



<西参道>


<社殿>
「上棟紀念 千住町五丁目」と、ここにも五丁目。



<旧狛犬等>
社殿の横に置かれている、とろけてしまっている旧狛犬等です。


○千住川田浅間神社富士塚 足立区文化財
石段があり、登頂出来る富士塚です。都内で9番目に古い富士塚です。




(説明板)
「千住川田浅間神社富士塚
富士塚は、文政七年(一八ニ四)築造。祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。
明治四十四年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正五年五月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和四十三年六月現在地に移築復元され今日に至っている。
塚は,冨士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ約三メートルである。
山頂に、天保二年(一八三一)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政七年(一八ニ四)のもので丸藤惣同行冨士三十三度大願成就とある。
この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住十三夜同行と呼ぶ。講中は、千住五丁目と、千住大川町全域に及び、かっては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。
毎年七月一日祭礼が行われる。
平成六年三月 東京都足立区教育委員会」

<移築記念碑>

登頂入口にある、それぞれ「奉」と「納」と刻まれた石碑ですが、右側面に紀年(明治十五年六月かな?)、左側面に庚申?の文字が刻まれています。




合目石があります。確認できた合目石は、一・五・六・七・十です。五合目に、周りを一周できる「御中道」が設けられています。





「小御嶽石尊大権現」があります。

頂上には、天保2(1831)年6月銘の石祠の浅間神社があります。



<出羽三山碑>
初回訪問時には出羽三山は気が付きませんでした。同一の石塔に、富士山と出羽三山が共存しているのは珍しいかと思います。

(正面) 「冨士山三十三度大願成就」の両側には、「西國坂東秩父」「湯殿山月山羽黒山」と刻まれています。


(左側面)「天下泰平 國土安穏 五穀成就」

(裏面) 文政七年(1824)の紀年が刻まれています。

※旧記事に加筆したので、旧記事は削除しました。
千住いろは通り商店会 千住公園(郡立病院跡)
○千住いろは通り商店会 足立区千住寿町・千住大川町
日光街道の車道が千住新橋を下りたところに入口があります。かつては、都電北千住線の千住四丁目停車場が目の前の商店街でした。旧千住遊郭(柳新地)北側の「千住ニコニコ商店会」へと続く商店街が「千住いろは通り商店会」です。
旧千住遊郭(柳新地)の周囲の商店街では、唯一街路装飾灯アーチが残っています。
日光街道側の入口


都電停車場跡

街灯


中間地点の街路装飾灯アーチ(東側から)

中間地点の街路装飾灯アーチ(西側から)

大正通り終端から東方向

「千住四丁目、都電終点の停留所」(昭和43(1968)年1月30日 足立区立郷土博物館蔵)
昭和43(1968)年1月30日撮影の都電終点の千住四丁目停留所です。

「廃止当日の都電「千住四丁目」停留所」(昭和43(1968)年2月24日 足立区立郷土博物館蔵)
この日、千住四丁目から三ノ輪橋間が廃止されました。足立区立郷土博物館解説によると、場所は、現千住大川町1番北西角付近で、東側から西側を撮影しているとのことです。

○千住公園 足立区千住大川町35-1
千住ニコニコ商店会の一本北の細道に面して千住公園があります。墨堤通り下から、東へ向かう一方通行で、タカラ湯の前を通り、大川町氷川神社の前に出ます。荒川放水路開削前は、自動車が走るメインの道路だったようです。

「旧千住町営住宅」(足立区立郷土博物館蔵)
東から西に向かう道路と、左手に水田(写っていませんが南足立郡立病院あり)と右手に関東大震災後に建設された千住町営住宅が見えます。

<千住元町川田道>(「千住案内図」より)
旧日光街道の所々に掲示されている「千住案内図」によると、道路の名称は「千住元町川田道」とあります。千住公園、郡立病院アトの記載も見えます。

<千住公園>
東京府南足立郡立病院(明治30年設立)が昭和11(1936)年に現在の駒込病院に吸収され、跡地に千住公園が昭和12(1937)年に開園しました。
煉瓦アーチの入口です。トイレも煉瓦で、やたらと煉瓦が多い公園です。






<千住大川町と川田耕地>
公園内に、説明板「千住大川町と川田耕地」があります。
(説明板)
「千住大川町と川田耕地
千住大川町は、昭和7年10月1日、それまでの東京府南足立群から東京市への編入によって千住大字大川町区域の町名として誕生しました。
この名前は、その前年、昭和6年1月1日に行われた千住町字名地番整理により、川田耕地(旧千住町大字五丁目の字)を中心に、西耕地(旧千住町大字一丁目から五丁目の字)、全佛耕地(旧千住大字四丁目と五丁目の字)の3耕地で構成された大字大川町に由来しています。また、大川町という名は、荒川放水路の沿岸であることにちなんで付けられたものと言われています。
川田耕地は、荒川放水路が開削される以前は、現在の千住大川町の北半分から梅田三丁目付近までにいたる広い地域を占め、家屋や田園がありました。放水路の工事によって、ここに住む人々の住居や浅間神社は、移転を余儀なくされましたが、現在でも石碑や祭太鼓などに川田の名前は伝えられています。
平成15年10月 足立区」


日光街道の車道が千住新橋を下りたところに入口があります。かつては、都電北千住線の千住四丁目停車場が目の前の商店街でした。旧千住遊郭(柳新地)北側の「千住ニコニコ商店会」へと続く商店街が「千住いろは通り商店会」です。
旧千住遊郭(柳新地)の周囲の商店街では、唯一街路装飾灯アーチが残っています。
日光街道側の入口


都電停車場跡

街灯


中間地点の街路装飾灯アーチ(東側から)

中間地点の街路装飾灯アーチ(西側から)

大正通り終端から東方向

「千住四丁目、都電終点の停留所」(昭和43(1968)年1月30日 足立区立郷土博物館蔵)
昭和43(1968)年1月30日撮影の都電終点の千住四丁目停留所です。

「廃止当日の都電「千住四丁目」停留所」(昭和43(1968)年2月24日 足立区立郷土博物館蔵)
この日、千住四丁目から三ノ輪橋間が廃止されました。足立区立郷土博物館解説によると、場所は、現千住大川町1番北西角付近で、東側から西側を撮影しているとのことです。

○千住公園 足立区千住大川町35-1
千住ニコニコ商店会の一本北の細道に面して千住公園があります。墨堤通り下から、東へ向かう一方通行で、タカラ湯の前を通り、大川町氷川神社の前に出ます。荒川放水路開削前は、自動車が走るメインの道路だったようです。

「旧千住町営住宅」(足立区立郷土博物館蔵)
東から西に向かう道路と、左手に水田(写っていませんが南足立郡立病院あり)と右手に関東大震災後に建設された千住町営住宅が見えます。

<千住元町川田道>(「千住案内図」より)
旧日光街道の所々に掲示されている「千住案内図」によると、道路の名称は「千住元町川田道」とあります。千住公園、郡立病院アトの記載も見えます。

<千住公園>
東京府南足立郡立病院(明治30年設立)が昭和11(1936)年に現在の駒込病院に吸収され、跡地に千住公園が昭和12(1937)年に開園しました。
煉瓦アーチの入口です。トイレも煉瓦で、やたらと煉瓦が多い公園です。






<千住大川町と川田耕地>
公園内に、説明板「千住大川町と川田耕地」があります。
(説明板)
「千住大川町と川田耕地
千住大川町は、昭和7年10月1日、それまでの東京府南足立群から東京市への編入によって千住大字大川町区域の町名として誕生しました。
この名前は、その前年、昭和6年1月1日に行われた千住町字名地番整理により、川田耕地(旧千住町大字五丁目の字)を中心に、西耕地(旧千住町大字一丁目から五丁目の字)、全佛耕地(旧千住大字四丁目と五丁目の字)の3耕地で構成された大字大川町に由来しています。また、大川町という名は、荒川放水路の沿岸であることにちなんで付けられたものと言われています。
川田耕地は、荒川放水路が開削される以前は、現在の千住大川町の北半分から梅田三丁目付近までにいたる広い地域を占め、家屋や田園がありました。放水路の工事によって、ここに住む人々の住居や浅間神社は、移転を余儀なくされましたが、現在でも石碑や祭太鼓などに川田の名前は伝えられています。
平成15年10月 足立区」



テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 千住
千住元町明公会(千住元町)
○千住元町明公会 足立区千住元町
墨堤通りの下から東へ向かい、旧千住遊郭(柳新地)北側の「千住ニコニコ商店会」へと続く商店街が「千住元町明公会」です。街灯が立派な商店街です。
西端から東方向

街灯

東から西方向

東端から西方向
墨堤通りの下から東へ向かい、旧千住遊郭(柳新地)北側の「千住ニコニコ商店会」へと続く商店街が「千住元町明公会」です。街灯が立派な商店街です。
西端から東方向

街灯

東から西方向

東端から西方向

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 千住
里帰り桜(千住元町)
○里帰り桜 足立区千住元町33-4
元宿神社前の区道の歩道に、「里帰り桜」碑と、説明板「桜土手」があります。
現在の墨堤通り(旧掃部堤)は、明治時代に桜が植樹され、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、多くの花見客で大変賑わいました。 関東大震災後、桜並木は徐々に衰え姿を消しました。旧掃部堤西側は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めています。
旧桜土手から東にのびるこの区道に、昭和60(1985)年3月に桜を植えてかつての名残としています。



(説明板)
「桜土手
現在、干住地域の南部を走る都道補助一一九号線は、従来、元和二年(一六一六)に石出掃部助吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が築いた荒川水除堤(通称は掃部堤)と熊谷堤の跡に敷設された道路である。明治時代中頃、この堤防には桜が植樹されてから、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、春の開花時期には多くの花見客で大変賑わった。
大正十二年(一九ニ三)の関東大震災後、土手の桜並木は徐々に衰え残念ながらその姿を消した。昭和六年(一九三一)一月一日を期して、旧掃部堤西側の西耕地は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めた。
旧桜土手から東にのびるこの区道には、桜を植えてかつての名残とした。
平成二十九年三月 足立区教育委員会」

<里帰り桜>
(表)「里帰り桜」


(裏)「昭和六十年三月植樹」

<里帰り桜とは>
昭和27(1952)年、8種55本の桜の苗木の里帰りが行われましたが成功しませんでした。
昭和56(1981)年、再度里帰り桜が企画され、33品種3,000本の「桜の里帰り」が行われました。「桜の里帰り」の一環として、ナンシー・レーガン米国大統領夫人から贈られた「レーガン桜」も都立舎人公園に植えられました。
元宿神社前の区道の歩道に、「里帰り桜」碑と、説明板「桜土手」があります。
現在の墨堤通り(旧掃部堤)は、明治時代に桜が植樹され、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、多くの花見客で大変賑わいました。 関東大震災後、桜並木は徐々に衰え姿を消しました。旧掃部堤西側は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めています。
旧桜土手から東にのびるこの区道に、昭和60(1985)年3月に桜を植えてかつての名残としています。



(説明板)
「桜土手
現在、干住地域の南部を走る都道補助一一九号線は、従来、元和二年(一六一六)に石出掃部助吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が築いた荒川水除堤(通称は掃部堤)と熊谷堤の跡に敷設された道路である。明治時代中頃、この堤防には桜が植樹されてから、大正時代末期まで桜土手の愛称で親しまれ、春の開花時期には多くの花見客で大変賑わった。
大正十二年(一九ニ三)の関東大震災後、土手の桜並木は徐々に衰え残念ながらその姿を消した。昭和六年(一九三一)一月一日を期して、旧掃部堤西側の西耕地は千住桜木町と命名され、かつての桜土手の盛況を地名に止めた。
旧桜土手から東にのびるこの区道には、桜を植えてかつての名残とした。
平成二十九年三月 足立区教育委員会」

<里帰り桜>
(表)「里帰り桜」


(裏)「昭和六十年三月植樹」

<里帰り桜とは>
昭和27(1952)年、8種55本の桜の苗木の里帰りが行われましたが成功しませんでした。
昭和56(1981)年、再度里帰り桜が企画され、33品種3,000本の「桜の里帰り」が行われました。「桜の里帰り」の一環として、ナンシー・レーガン米国大統領夫人から贈られた「レーガン桜」も都立舎人公園に植えられました。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
元宿神社(千住元町)
○元宿神社 足立区千住元町33-4
千住元町は地名の通り、江戸時代初期に日光道中開発とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称し、奥州路が通る宿場町でした。かつての元宿の元宿耕地と川田耕地は、荒川の河川敷になっています。また、川田耕地に築かれていた富士塚は、現在、大川町氷川神社にあります。
<社号標>
昭和10(1935)年銘の社号標「元宿神社」です。




(説明板)
「元宿神社 千住元町三三−四
祭神 誉田別命(八幡神)宇迦之御魂命(稲荷神)
この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。
天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。
荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れなければならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。
平成十七年三月 足立区教育委員会」

<大師堂>
石鳥居の手前右に「大師堂」があります。 荒綾八十八ヶ所霊場五番札所です。大正14(1925)年に建立。


「札所碑」「八十八ヶ所第五番 元宿 大師堂」

「荒綾八十八ヶ所五番大師堂」「弘法大師」




<八幡神>
左に石祠、右に石扁額「八幡宮」。
「天正ニ年 一五七四年 八幡神 建立
昭和六年 元宿神社 改称」



後方に石扁額「元宿神社」があります。

<手水舎>
花手水です。


<感旧碑> 足立区文化財
この石碑には、鈴木印幡守貞宗の末裔である鈴木与吉氏によって大正5(1916)年に造立され、元宿開拓の歴史と荒川放水路開削により故地を離れざるを得なくなった思いが漢文で記されています。




(説明板)
「感旧碑(現代語訳)
我が祖先、因幡守貞宗は、長享元年、武田氏に仕え、甲府に住んでいました。長男蔵人は大永六年、武州安達郡に移り、さらに陸羽街道「元宿」に転居しました。その子左ヱ門尉信義は、天正元年(1573)、この地を開墾し、多くの良田を得ました。翌二年八月、村の東南に八幡神祠を、九月東北に稲荷新祠を建てました。
この信義は戦にも才能を発揮し、徳川に仕え、幾度となく功績をあげ、天正・慶長の時には、功状を賜ること三度、今尚、当家に伝わっています。この地に移転当初は、一族二十四戸でした。しかし、元禄二年、そのうち二十戸が今の千住四丁目一帯に移り住み、僅か四戸しか残りませんでしたが、後に十四戸までになり、全戸代々農業を営んできました。
天明七年(1787)の飢饉の時も、先祖代々の土地を固守して、この地を去ることなく、明治四十年?四十三年の大洪水の時は、家屋に浸水すること十余日、田圃もほとんどが被害にあい荒廃しましたが、それでも村から離れず死守して来ました。
大正元年八月、内務省が荒川改修工事を行うことになり、この村もその改修区域に入っていたので、先祖伝来の土地を十四戸分すべて国に提供し、その後一族は四散してしまいました。
我が一族が、この地に移り住んで四百余年、私は貞宗の遠い子孫になりますので、今この地を去るにあたり愛慕の情を禁じ得ず、碑を八幡神社に建てその概要を記して末代に伝えたいと思います。
大正五年次丙辰三月 貞宗遠孫 鈴木与吉建立
平成十八年丙戌三月 元宿神社」

<社務所>

<千寿七福神 ぼけ封じ 寿老神>



<狛犬>
昭和10(1935)年9月の奉納。



<拝殿>






<本殿>


<神楽殿>

<御神輿庫>

<庚申塔/三峯神社/元宿神社縁起>



左は天保9(1838)年2月銘の「庚申塔」です。足立区文化財です。
表に「庚申」、裏に紀年が刻まれています。


中央は「三峯神社」です。

右は昭和41(1966)年3月銘の「元宿神社縁起」碑です。


竹箒があちこちに置かれていて、お掃除が徹底して、とてもきれいな境内でした。
千住元町は地名の通り、江戸時代初期に日光道中開発とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称し、奥州路が通る宿場町でした。かつての元宿の元宿耕地と川田耕地は、荒川の河川敷になっています。また、川田耕地に築かれていた富士塚は、現在、大川町氷川神社にあります。
<社号標>
昭和10(1935)年銘の社号標「元宿神社」です。




(説明板)
「元宿神社 千住元町三三−四
祭神 誉田別命(八幡神)宇迦之御魂命(稲荷神)
この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。
天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。
荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れなければならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。
平成十七年三月 足立区教育委員会」

<大師堂>
石鳥居の手前右に「大師堂」があります。 荒綾八十八ヶ所霊場五番札所です。大正14(1925)年に建立。


「札所碑」「八十八ヶ所第五番 元宿 大師堂」

「荒綾八十八ヶ所五番大師堂」「弘法大師」




<八幡神>
左に石祠、右に石扁額「八幡宮」。
「天正ニ年 一五七四年 八幡神 建立
昭和六年 元宿神社 改称」



後方に石扁額「元宿神社」があります。

<手水舎>
花手水です。


<感旧碑> 足立区文化財
この石碑には、鈴木印幡守貞宗の末裔である鈴木与吉氏によって大正5(1916)年に造立され、元宿開拓の歴史と荒川放水路開削により故地を離れざるを得なくなった思いが漢文で記されています。




(説明板)
「感旧碑(現代語訳)
我が祖先、因幡守貞宗は、長享元年、武田氏に仕え、甲府に住んでいました。長男蔵人は大永六年、武州安達郡に移り、さらに陸羽街道「元宿」に転居しました。その子左ヱ門尉信義は、天正元年(1573)、この地を開墾し、多くの良田を得ました。翌二年八月、村の東南に八幡神祠を、九月東北に稲荷新祠を建てました。
この信義は戦にも才能を発揮し、徳川に仕え、幾度となく功績をあげ、天正・慶長の時には、功状を賜ること三度、今尚、当家に伝わっています。この地に移転当初は、一族二十四戸でした。しかし、元禄二年、そのうち二十戸が今の千住四丁目一帯に移り住み、僅か四戸しか残りませんでしたが、後に十四戸までになり、全戸代々農業を営んできました。
天明七年(1787)の飢饉の時も、先祖代々の土地を固守して、この地を去ることなく、明治四十年?四十三年の大洪水の時は、家屋に浸水すること十余日、田圃もほとんどが被害にあい荒廃しましたが、それでも村から離れず死守して来ました。
大正元年八月、内務省が荒川改修工事を行うことになり、この村もその改修区域に入っていたので、先祖伝来の土地を十四戸分すべて国に提供し、その後一族は四散してしまいました。
我が一族が、この地に移り住んで四百余年、私は貞宗の遠い子孫になりますので、今この地を去るにあたり愛慕の情を禁じ得ず、碑を八幡神社に建てその概要を記して末代に伝えたいと思います。
大正五年次丙辰三月 貞宗遠孫 鈴木与吉建立
平成十八年丙戌三月 元宿神社」

<社務所>

<千寿七福神 ぼけ封じ 寿老神>



<狛犬>
昭和10(1935)年9月の奉納。



<拝殿>






<本殿>


<神楽殿>

<御神輿庫>

<庚申塔/三峯神社/元宿神社縁起>



左は天保9(1838)年2月銘の「庚申塔」です。足立区文化財です。
表に「庚申」、裏に紀年が刻まれています。


中央は「三峯神社」です。

右は昭和41(1966)年3月銘の「元宿神社縁起」碑です。


竹箒があちこちに置かれていて、お掃除が徹底して、とてもきれいな境内でした。
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