芭蕉・旅立ち (南千住)

○芭蕉・旅立ち 荒川区南千住6-63-1(荒川ふるさと文化館)

 「荒川ふるさと文化館」入口に、平野千里氏作「芭蕉・旅立ち」があります。平成10(1998)年の作品です。旅立ちの句を詠もうと筆を手にする芭蕉と、石に座って待つ曽良の像です。 サイズ:H850×W700×D600mm 。

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 奥の細道 旅程図
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 あらかわ俳句マップ
 ここに掲載の句碑は全て行っています、記事にしています。
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○芭蕉 旅立ち 荒川区南千住6-63-1 南千住図書館3階

 「南千住図書館」三階の俳句コーナーに、平野千里氏作「芭蕉 旅立ち」があります。平成29(2017)年の設置です。サイズ:H800×W900×D800mm。

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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行

tag : 松尾芭蕉曾良南千住

小塚原刑場跡と首切地蔵(延命寺)

○延命寺 荒川区南千住2-34-5

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<小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵> 荒川区史跡

(説明板)
「小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵
 小塚原刑場は、火罪・磔・獄門などの刑罰、無縁の埋葬・供養、刀の試し斬り、腑分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の埋葬地としても利用された。間口は六十間余(約百八メートル)、奥行き三十間余(約五十四メートル)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。
 首切地蔵は、寛保元年(一七四一)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。
 明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。
  荒川区教育委員会」

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<題目塔> 荒川区文化財

 元禄11(1698)年に寄進され、土中に埋もれていたのを慶応3(1867)年に再設置された題目塔です。「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれています。

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(標柱)
 「荒川区指定 有形文化財・歴史資料 題目塔(元禄十一年二月中浣五日銘」
「元禄十一年(一六九八)ニ月十五日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立された題目塔。十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切衆生の救済のため造立した題目塔のひとつであり、品川の仕置場等一○○基以上が確認されている。
 十九世紀前半には土中に埋もれていたが、慶応三年(一八六七)、江戸の法華信者らによって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光道中沿いに移設し、小塚原の首切地蔵(区指定有形文化財)と並んで安置された。明治二十九年(一八九六)、土浦線・隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場跡を象徴する石造物として紹介され、広く知られるようになった。」

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<馬頭観世音菩薩>

 万延元(1860)年銘の馬頭観世音菩薩塔です。

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<百度石>

 大正5(1916)年銘の百度石です。

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<子育て地蔵>

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<金光稲荷>

 三方に社号がありました。

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<小塚原の首切地蔵> 荒川区文化財

 寛保元(1741)年銘の首切地蔵です。

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(標柱)
「荒川区指定 有形文化財・歴史資料
 小塚原の首切地蔵
 寛保元年(一七四一)に造立された延命地蔵菩薩。花崗岩製。台座に「願主 東都 浄心」、大坂西横堀住 石工 中村屋半六」、施主名の他、「奉納経 天下泰平 国土安穏」とあり、法華経の納経が行われたことが窺える。刑死者や行倒人等の無縁供養のため造られたといわれ、日光道中沿いにあったため、江戸に出入りする多くの人が、この地蔵の前で手を合わせたという。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。平成二十三年三月十一日、東日本大震災で被災して、解体されていたが、荒川区及び公益財団法人文化財保護・芸術研究助成財団の補助を始め、多くの方々の支援を受け、同二十四年修復工事が完了した。
 昭和六十一年一月十三月指定 荒川区教育委員会」

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「小塚原石地蔵」(「江戸の今昔」歌川広重 昭和7年)

 左手に「題目塔」「馬頭観世音菩薩塔」が見えます。

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○首切地蔵の修復

 首切り地蔵ですが、東日本大震災で、お地蔵さんの左腕が落下、胴体部分がずれるという事態が発生しました。解体し、復元されました。(2012年8月23日修復完了)

<「小塚原の首切地蔵」修復寄付募集のお願い>

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<「小塚原の首切地蔵」修復事業のお知らせ>

 修復工事は清水建設が担当しています。

「「小塚原の首切地蔵」は、江戸の刑死者をはじめとする無縁の供養のために小塚原の仕置場に建立されました。この地蔵尊は、鈴ヶ森と並び称された江戸の二大刑場の1つ「小塚原の仕置場」の象徴であり、柔和なお顔で時の流れを静かに見守り、江戸の歴史を今日に伝えてきました。
  建立年代 寛保元年(一七四一)
  法量   一丈二尺(約三・六m)
  願主   東都浄心
  石工   大阪西横堀 中村半六
  材質等  花崗岩 20数個の石を組み合わせて建立
 もとは、隅田川貨物線の南側に安置されていましたが、明治二十八年(一八九五)、鉄道敷設工事のため現在地に移設されました。地元の南千住の皆様に「延命地蔵尊」と呼ばれ、暮らしの安穏を見守る地蔵尊として親しまれています。
 しかしながら、平成二十三年三月十一日午後ニ時四十六分に発生しました東日本大地震により、延命地蔵尊の左腕が落下、また胴体部分も大きくズレが生じ、倒壊の危険性が高くなったことから、三月十七日、荒川区文化財保護条例に基づく文化財修復のための補助を受け、第一期修復工事(解体施行:清水建設株式会社)を実施しました。
 (以下、第二期修復工事の予定と寄進について記載)
  平成二十三年三月吉日  延命寺住職 水野了尚」

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tag : 南千住

回向院 (解体新書 烈士遣蹟と渋沢栄一)

○回向院 荒川区南千住5-33-13

 荒川区HPの回向院の項目によると、「寛文7年(1667)に本所の回向院が、牢死者や刑死者等を供養するために、この地に回向院を開創しました。なお、ここより南にある延命寺境内(南千住二丁目34番5号)には、無縁となったこのような人々を供養するために建てられた首切地蔵があります。
 回向院には、安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内らの墓所があります。
 また、杉田玄白や前野良沢らがここで刑死者の腑分けに立会い、それをきっかけに「解体新書」を翻訳したと言われています。これを記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています。」


<史蹟小塚原回向院>

 「史蹟小塚原回向院」と掲示されています。 扁額は「豊国山」

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(説明板)
「回向院
 回向院は、寛文七年(一六六七)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当寺は常行堂と称していた。
 安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られている。
 明和八年(一七七一)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に『解体新書』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正十一年に観臓記念碑が建立された。
  荒川区教育委員会」

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<吉展地蔵尊>

 昭和38(1963)年に起きた「吉展ちゃん事件」の被害者の供養の為、菩提寺である小塚原回向院に吉展地蔵尊が祀られています。また被害者の遺体が見つかった円通寺にも吉展地蔵尊が祀られています。

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<観臓記念碑> 荒川区文化財

(碑文)
「観臓記念碑
 蘭学を生んだ解体の記念に
 一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
 その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心の末、ついに一七七四年・安政三年八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。
 これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。
 さきに一九ニニ年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、一九四五年ニ月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅板だけをここへ移して、あらたに建てなおした。
  一九五九年・昭和三十四年三月四日
  第十五回日本医学会総会の機会に
    日本医史学会
    日本医学会
    日本医師会」

「道路拡張のためあたらしく設計された本堂の落慶式が今月十日におこなわれた その機会に この場所を解体記念碑のために提供されたので よそおいをあらたにしてここに移し 今日除幕の式をあげた それは解体新書の出版から二百年にあたる年にできたことになる
  一九七四年・昭和四十九年十月二十六日
  解体新書出版二百年記念の年
    日本医史学会
    日本医学会
    日本医師会」

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「観蔵記念碑(「荒川区史」 昭和11年)

 荒川区史に掲載の、戦災に遭う前の「観蔵記念碑」です。

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【志士墓石の再建】

 志士の墓石の再建は、小塚原烈士常行会、小琢原回向院烈士遣蹟保存会、小塚原烈士遺墳再建会という3つの組織が担いました。
 そのうちの一つ、小塚原回向院烈士遣蹟保存会は、殉難烈士の墳墓が荒廃している状態を嘆き、渋沢栄一を会長として、大正8(1919)年に発足しました。大正9(1920)年に無縁仏供養塔、大正10(1921)年に渋沢栄一の篆額、岩崎英重の撰文で烈婦瀧本之碑を建立しています。


○明治維新殉難志士墓所

 観臓記念碑の裏側に「明治維新殉難志士墓所」があり、墓碑26基と碑がまとめられています。小塚原烈士遺墳再建会が昭和6(1931)年に創設され、昭和17(1942)年まで遺墳の再建を行っています。

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「烈士遺墳再建碑」

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○史蹟エリア

 一般墓地と区分けされた「史蹟エリア」があります。エリアには、墓碑61基と木製標柱1基がまとめられています。

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(説明板)
「荒川区指定記念物(史跡)
 小塚原の刑場跡  回向院
 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行30間余り(約54m)、約1800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
 小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけはでなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院)はこれらの供養を担っていました。
 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたも
のです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。(平成18年1月13日指定)
  平成20年3月  荒川区教育委員会」

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<田中光顕歌碑>

 史蹟エリアに入ると、「田中光顕歌碑」があります。

 「偲ぶけふかな
  花とちり雪ときえにし
  桜田の
  ますらたけを
   九十四叟田中光顕」

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「田中光顕肖像」(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)

 天保14年閏9月25日〜昭和14年3月28日(1843年11月16日〜1939年3月28日)
 勤王運動を経て明治政府に出仕。貴族院議員、宮内大臣等を歴任しました。政界引退後は、維新烈士の顕彰に尽力しました。墓所は護国寺です。

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<史蹟エリア内>

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<木標柱「史跡小塚原志士墓」>

 「大正十四年六月」建立の木標柱です。

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<題目塔(南無阿弥陀仏)>

 大正9(1920)年秋に行われた墓域修理時に発掘された35体余りの遺骨を供養するため、烈士遺蹟保存会が建てた無縁仏供養塔です。
 (碑表)「南無阿弥陀仏」

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<無縁仏供養塔>

 同上です。

 左「為殃罰殺害諸無魂離苦得楽也」
 右「為前亡後滅非人等往詣楽邦也」

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<勤王烈士追悼碑>

 (碑表)「南無阿弥陀仏」

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<烈婦瀧本之碑>

 小塚原回向院烈士遣蹟保存会が、大正10(1921)年に「烈婦瀧本之碑」を建立しています。渋沢栄一の篆額、岩崎英重の撰文です。

 「大正十年七月 子爵渋澤榮一篆額」

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 桜田門外の変の実行隊長だった水戸藩士、関鉄之介の愛人・瀧本(いの)(遊女名:瀧本、本名:伊能)は、元、新吉原・谷本楼の遊女で、関鉄之介の逃亡の手助けをしたため拷問にあい、伝馬町牢屋敷にて獄死しました。享年23歳。
 裏面の「発企人」には「谷本楼」ではなく新吉原「玉中楼」「水常楼」とあります。

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<関鉄之介妾伊能遺墳>

 瀧本(伊能)の墓が、「烈婦瀧本之碑」の右手にあります。
 右面には万延元年と没年が刻まれています。享年23歳。
 左面には「明治ニ年己巳三月改葬 于谷中天王寺」とあります。天王寺で調べても手掛かりがありません。

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【桜田門外の変】

<関鉄之介の墓>

 関鉄之介は、桜田門外の変の実行隊長だった水戸藩士です。

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【安政の大獄】

<橋本左内の墓(供養塔)> 荒川区文化財

 史蹟エリアの一番奥右に「橋本左内の墓」があります。

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「標柱」

 (表)「橋本景岳先生墓所」
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 (裏)「昭和四十九年十月建之 景岳會」
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「橋本岳先生の生涯と墓所の由来」

(掲示文)
「橋本岳先生の生涯と墓所の由来
 橋本景岳先生は、天保五年(一八三四年)三月十一日、福井藩の藩醫橋本長綱の長男として生れ、名を綱紀、通称を左内、号を景岳又は黎園といった。
 幼少の時から學問を好み、やがて藩儒の吉田東篁について儒學を學び、ついで大坂の緒方洪庵、江戸の坪井信良、杉田成卿等について蘭學を修め、その見識は当時の第一流の人々を驚かせるまでに至った。有名な「啓發録」は、嘉永元年、十五歳の時、自戒のために書いたもので、先生の人物、思想は、すでにこの著書の中に示されている。
 嘉永六年(一八五三)のペルリ来航以来、わが国は急速に内外の問題が多事多難となり、しかも藩主松平春嶽公は、幕政改革の先頭に立ってゐたので、この俊秀なる青年を抜擢してその側近に加へ、これより先生は公の理想の具現のために心血を注ぐこととなる。しかるに春嶽公の政策は、新たに大老に任ぜられた井伊直弼のそれと相容れず、公は幕命によって隠居慎しみを命ぜられ、ついで先生も幽因の身となり、翌六年十月七日、江戸伝馬町の獄内において死刑に處せられて、二十六歳の短い生涯を終へた。長州藩の吉田松陰とともに、安政の大獄において日本が失った最も惜しい人物である。
 先生刑死の日、同藩の長谷部恕連は、春嶽公の命を受けて先生の遺骸を小塚原の回向院、すなはちこの地に埋葬して、「橋本左内墓」と刻んだ墓表を建てたが、幕吏は刑人の墓を建ててはならないといつて、これを許さなかったので、改めて「黎園墓」の三字を刻んだものを建てた。しかるにその後、井伊大老は倒され、先生の罪も許されたので、文久三年(一八六三年)五月、この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の橋本家墓所に改葬されたが、明治二十六年、その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどして再建され、さらに昭和八年、破損の甚しくなった墓石を風雨より守るために新たに套堂が設けられて今日に至つた。
 套堂の向つて右に聳えている巨碑「橋本景岳之碑」は、明治十八年、先生と信仰のあった福井藩士及び先生門下の人々によって建立されたもので、碑文は先生の盟友西郷隆盛の友人重野成斎の作により、巌谷修が書し、三條實美が蒙額したものである。
 昭和四十九年十月  景岳會」

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<橋本景岳之碑> 荒川区文化財

 巨碑「橋本景岳之碑」は、明治18(1885)年、福井藩士及び門下の人々によって建立されたものです。

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<橋本左内の墓旧鞘堂> 荒川区南千住6-63-1(荒川ふるさと文化館)

 こちらで記載


<吉田松陰の墓> 荒川区文化財

 「松陰二十一回猛士墓」
 史蹟エリアの一番奥左に「吉田松陰の墓」があります。文久3(1863)年に、高杉晋作等の門人により長州藩主の別邸に改葬され、明治15(1882)年に松陰神社が創建されています。墓石は文化財として保存されています。

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<頼三樹三郎の墓> 荒川区文化財

 安政の大獄により処刑された頼三樹三郎の墓です。吉田松陰墓石のすぐ右手にあります。吉田松陰とともに改葬されており、墓石は文化財として保存されています。 墓石には三樹三郎の号「鴨崖」の名が刻まれています。

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<成就院信海の墓>

 頼三樹三郎の墓の右手にあるのが尊王攘夷派の僧侶「信海の墓」です。

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<小林良典の墓>

 信海の墓の右手にあるのが「小林其典」と刻まれている小林良典の墓です。
 公家家臣の尊王攘夷派で、吉田松陰とともに改葬されています。

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<梅田雲浜の墓>

 「梅田源次郎遺墳」と刻まれた梅田雲浜の墓です。

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 右側面に辞世の句が刻まれています。
 「君が代を思ふ心の一すぢに わが身ありとも思はざりけり
  雲濱先生辞世 有馬良橘敬書」

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 ※ 当初当地に葬られましたが、海禅寺(台東区松が谷)に改葬(仮埋葬)されています(こちらで記載)。


【坂下門外の変/他】

<中野方蔵先生遺墳>

 史蹟エリアの右側の一番手前です。中野方蔵は幕末の佐賀藩士で、文久2(1862)年に坂下門外の変に関係したとして捕らえられ獄死しています。明治2(1869)年に賢崇寺に改葬、墓石が残されています。

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<相馬大作・関良助供養碑>

 史蹟エリアの右側の手前から4つ目です。文政4(1821)年の津軽藩主暗殺未遂事件で小塚原刑場で斬首された、相馬大作と関良助の供養碑です。

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【悪役四人組】

 左から
 「鼠小僧次郎吉」 大名屋敷専門の盗賊。本来墓は墨田区の回向院です。
 「片岡直次郎」  江戸後期の小悪党。
 「高橋お伝」   明治初期の稀代の殺人悪婦。
 「腕の喜三郎」  喧嘩で斬られた腕を子分に切り落とさせた侠客。

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【二・二六事件】

<磯部浅一・妻登美子の墓>

 史跡エリアの墓所に入ってすぐ左手です。磯部浅一は、二・二六事件の計画・指揮に当たり、昭和12(1937)年に銃殺刑に処されています。

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【その他】

<カール・ゴッチ之墓>

 カール・ゴッチ氏は、2007(平成19)年に82歳で亡くなり、10年を経て2017(平成29)年7月、同氏の墓が建立されました。ゴッチ氏の遺志により遺骨の9割は海に散骨され、残りの1割が墓に納められたということです。墓所を探すのに苦労されたようですが、関係者以外立ち入り禁止の一般墓地ではなく、史蹟エリアに墓はあるので、より多くの方々が墓参できるので、多くのワインや花などが供えられています。

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(墓誌)
「Karl Gotch
 1924.8.3〜2007.7.28
 Known as God of Wrestling in Japan
 カール・ゴッチ 本名 カール・イスターチ
   ベルギー・アントワープ出身
 来歴
 1968年日本へ移住 日本プロレスのコーチとしてアントニオ猪木にストロングスタイルレスリングの確立を成さしめプロレスの神様と称された

 言葉
 Never lie, never cheat, never quit.
 技術と精神は常に一緒だ
 決して嘘をつくな 決してごまかすな
 決して放棄するな

 2017年7月吉日
  アントニオ猪木
  西村修 他有志 建之」

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素盞雄神社② 瑞光石 富士塚 庚申塔

素盞雄神社②
 蘇民将来子孫也~瑞光石~富士塚~庚申塔~境内社

【蘇民将来子孫也】

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(説明板)
「蘇民将来子孫也
 スサノオノミコトが、遥か遠くの南の海に妻問いに出掛けたときのことです。陽はすでにとっぷりと暮れ、旅に疲れ果てたスサノオノミコトは、蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞いました。
 裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服もよごれた姿を怪しみ惜しんで拒みましたが、兄の蘇民将来は家も小さく貧しい生活をしていたものの、快く歓迎し、粟の飯で精一杯のもてなしをしたのです。
 それから歳月が経ち・・・。スサノオノミコトは再びその土地を訪れました。そして、かつて自分をもてなしてくれた兄の蘇民将来に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅で作った小さな輪を腰につけていなさい。そうすればきっと、その疫病から逃れ、子孫は永く栄えることでしょう。」と伝えて帰りました。
 その後のこと、二人の兄弟が住む村に突然疫病が流行しましたが、茅の輪をつけていた蘇民将来の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまいました。それ以来、村人たちは疫病が流行ると口々に「蘇民将来子孫也」の言葉を唱え、茅の輪を腰につけて疫病から免れるようになったということです。
 この≪蘇民将来子孫也≫は、降りかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノミコトにお護りいただく言葉として、また、その腰につけた小さな茅の輪は、6月の大祓に御神前に設ける大きな茅の輪神事・茅の輪守となって現在に伝わっています。」

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<茅の輪守>

 参集殿にて「茅の輪守」を授与しています。

(説明板)
「蘇民将来子孫也
 二天の棒先でひときわ光を放つ金具に刻まれた言葉「蘇民将来子孫也」。ふりかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノミコトにお護りいただく唱え言葉です。
 遠い遠い神代の昔、長旅に疲れ果てたスサノオノミコトを、貧しいながらも精一杯にもてなした村人《蘇民将来》。スサノオノミコトは再び彼のもとを訪れると、当時の御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)の小さな輪を腰につけていなさい。疫病から逃れ子孫は末永く栄えるでしょう。」と告げ去ります。奇しくもその「もしも」の時は訪れ、多くの村人は疫病に苦しみ倒れましたが、茅の輪をつけた蘇民将来の家族だけは助かりました。それ以来、疫病が流行すると村人たちは口々に「蘇民将来子孫也」と唱え、茅の輪を腰につけ疫病から免れるようになったということです。」
 蘇民将来たちが腰につけた小さな茅の輪は、6月の大祓で天王祭後に御神前に設ける大きな茅の輪神事・茅の輪守となって現在に伝わっています。」

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<素盞烏尊 稲田姫>

 月岡芳年の「大日本名将鑑」から「素盞烏尊 稲田姫」が掲示されています。 祭典の時だけ、期間限定の掲示のようです。

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【瑞光石】

 延暦14(795)年)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたといいます。 そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀ります。

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 「両社古蹟瑞光石」
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 「石祠」
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 「瑞光石」
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(説明板)
「瑞光石
 瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
 嘉永四年(一八五一)には周囲に玉垣を築き、元治元年(一八六四)には浅間神社を祀った。
 万延元年(一八六○)に編纂された『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。
  荒川区教育委員会」

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(説明板)
「《瑞光石》
 御祭神すさのお大神・あすか大神が光とともに降臨した小塚の中の奇岩を瑞光石(ずいこうせき)といいます。
 文政12(1829)編集の『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋に際して、この瑞光石の根が大川(現・隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
 この瑞光石のある小さな塚から「小塚原(こつかはら)」の地名が起こり、『江戸名所図会』には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をもうかがうことができます。元治元年(1864)には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。
 なお、現在周辺小学校の「第●瑞光小学校」と冠された瑞光もこれに因むものです。」

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【富士塚】

<富士塚> 荒川区史跡

 元治元(1864)年に、瑞光石のある塚に富士塚が築かれました。山頂に石祠の浅間神社が鎮座しています。

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<荒川区標柱>

「荒川区 指定 記念物・史跡」
「平成二十五年二月八日指定 荒川区教育委員会」
「元治元年(一八六四)、「瑞光石」のある小塚上に浅間大神を祀り富士塚としたと伝え、「お富士さま」と呼ばれている。富士講の一つ、丸瀧講が築造。山肌をクロボウ(溶岩)で覆い、山頂の浅間社、中腹の小御嶽、山裾の石尊、人穴等が設けられている。富士講によって築かれた典型的な形状で当初の形体を良く保っている。幕末から大正期に奉納された富士講等の石碑ニ○基も伝存。近代には「南千住富士」とも呼ばれ、東京七富士廻りの北廻りコースの一つに数えられた。六月朔日(新暦七月一日)の山開きには麦藁の蛇がお守りとして境内で売られたという。地域の民間信仰の姿を今日に伝えるばかりでなく、江戸時代から近代にかけて流行した富士信仰の学術資料としても大変重要である。」

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(説明板)
「素盞雄神社には「瑞光石」が鎮座する塚がある。縁起の中で2柱の神が現れたとする祭祀上重要な場所である。この塚は、ある人の眼には富土塚として映り、“南千住富士”とも呼ばれる。また古墳が富士塚に転用されたと見る人もある。いずれにせよこの場所が聖なる場所であることに違いはない。
 この塚には、「瑞光石」に奉納された石造物以外に、人工の富士山=富士塚としての構造物がある。瑞光石の左側に「浅間神社」の碑①がある。その脇から頂上に登山道が伸び、途中、五合目として小御嶽石尊大権現の碑③、頂上には浅間神社奥宮④がある。塚には、「黒ぼく」という溶岩塊が積まれている。富士講が建てた碑の多くは西側に林立し、北側には人穴も造られている。
 明治28年(1895)の由緒書によれば、元治2年(1865)に、黒ぼくなどの石を積んで塚を築き、浅間大神を祀ったという(但し、元治元年とする説もある)。現存する碑を見ると、造立当初から大正期にかけて、碑が断続的に建てられていったようである。
 その後時期は定かでないが、黒ぼくや碑をコンクリートで固め、土中に埋める措置が施された。幕末につくられた瑞垣が平成7年に取り払われ(一部、塚の脇に保存)、今日の姿に至っている。」

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【地蔵堂】

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<地蔵菩薩像/宝篋印塔>

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<庚申塔三基>

 左から、延宝6(1678)年銘、寛文13(1673)年銘、文化8(1811)年銘の庚申塔です。

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(説明板)
「荒川区指定有形民俗文化財
 庚申塔群三基(寛文十三年銘他) 素盞雄神社
 江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から、延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘があります。
 庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した所願成就の証しとして建てられたものです。
 中央の寛文13年銘の庚申塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝6年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。
 寛文13年銘と延宝6年銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。
  (平成18年1月13日指定)
 平成20年3月 荒川区教育委員会」

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<神輿庫>

 「宮元」「通新町」の銘板が見えます。

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<境内社>

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「福徳稲荷神社」
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「菅原神社」
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「稲荷神社」
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※旧記事に加筆せずに、新たに記事にしたので、旧記事は削除します。

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素盞雄神社①(南千住)

○素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1 HP

「江戸名所図会」

 「江戸名所図会」には「飛鳥社 小塚原天王宮」と紹介されています。
 拝殿・本社は西向きの一社として描かれています。境内への入口は、南と西に見えます。境内に「瑞光石」、「ちそう(地蔵堂)」が見えます。

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「江戸切絵図」

 「牛頭天王社」が見えます

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【境外】

<荒川区説明板>

 素盞雄神社について記載されています。

(説明板)
「素盞雄神社
 小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。
 石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるのもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(七九五)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
 宝暦年間(一七五一〜六四)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、『東都歳時記』(天保九年)にその勇壮な様が描かれている。
  荒川区教育委員会」

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 英語版に、「千住大橋綱曳」(東都歳事記)が掲示されています。

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「千住大橋綱曳」(東都歳事記)
 6月9日に行われた千住大橋の綱曳神事が描かれています。橋を挟んで北と南で曳き合いました。けんかが絶えず取り止めとなりました。

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<素盞雄神社>

「江戸の社寺や名所旧跡を紹介した『江戸名所図会』では、当社は「飛鳥社 小塚原天王宮」と紹介されでいます。「小塚原」とは御祭神が御姿を現された「瑞光石」のある小高い塚に由来するこの土地の古い地名で、「天王宮」は素盞雄大神の別名「牛頭天王」によるものです。」

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【参道(飛鳥大神)】

 牛頭天王と飛鳥権現は、別々の社殿に祀られていましたが、火災にあい、享保12(1727)年に、社殿再建の際に両社を合祀、二柱を相殿として祀った社殿は「瑞光殿」と称されました。こちらは「飛鳥大神」をお祀りしている側の参道です。

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<石鳥居>

 扁額は「素盞雄大神 飛鳥大神」(東郷元帥書)と御祭神の2柱が記されています。石鳥居は、「御大典記念」として大正4(1915)年11月10日の建立です。

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<提灯>

 大嶋屋提灯店の奉納です。
 「操業明治三十年 大嶋屋提灯店 四代目石井達也」

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(大嶋屋提灯店)
 江戸文字揮毫の提灯の老舗(享保年間創業)「土手・大嶋屋」(台東区東浅草)から暖簾分けを受けて、明治30(1897)年にコツ通りにて創業しています。
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<門柱>

 「帝國在郷軍人會 南千住町分會有志」による大正3(1914)年3月建立の門柱です。

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<瑞光殿華表碑銘>

 東参道右手の「瑞光殿華表碑銘」の漢文碑です。寛保2(1742)年起立の瑞光殿前鳥居が安政の大地震で倒壊し、安政6(1859)年に再建と書かれています。漢文で記されており詳細はわかりません。最後に「安政六年巳未夏四月 霞外山孺書」とあります。

(表)
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(裏)
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 「墓碑史蹟研究 第7巻」(磯ケ谷紫江 国立国会図書館蔵)に「瑞光殿華表碑銘」が記載されており、その抜粋です。

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【考察】
 江戸名所図会に描かれている鳥居です。図会の発行は天保5-7(1834-1836)年なので、この鳥居は安政の大地震で倒壊した寛保2(1742)年起立の鳥居と考えられます。
 現在、同じ場所に建つ鳥居には「几号水準点」が刻まれているので明治初期以前の鳥居です。昭和5(1930)年発行の「墓碑史蹟研究 第7巻」には「瑞光殿華表碑銘」の存立位地を社前左としています。「几号水準点」が刻まれている現在の鳥居は、安政の大地震後の安政6(1859)年に再建された鳥居である可能性が強いと考えます。
 鳥居に紀年や願主等が刻まれていないのも、「瑞光殿華表碑銘」に紀年や願主等が刻まれているので、合点がいきます。

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【玉垣沿の石碑群】

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<石鳥居建設の碑>

 鳥居の左手(南側)に「御大禮記念石鳥居建設の碑」があります。「大正五年十一月」の造立です。

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<神社復興記念碑>

 「神社復興記念碑 明治神宮宮司甘露寺受長書」とあります。甘露寺受長は、明治神宮の第6代宮司(1959-1972)です。

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<萬歳樹>

 国道4号線に向いて建っています。表に「萬歳樹」、裏に「大正四年十一月十日」とあります。

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<石碑>

 寄進者の芳名が多く刻まれています。

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【神苑】

 砲弾をかたどった石造の柵柱に囲われた一画があり、石碑群があります。

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<明治神宮鎮座祭紀念碑>

 「子爵澁澤榮一書」とあり、大正10(1921)年8月の建立です。
  明治神宮は、渋沢栄一らが主導して創建され、大正9(1920)年11月1日から3日間、鎮座祭が行われています。

(表)「明治神宮鎮座祭紀念碑 子爵澁澤榮一書」

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(裏)「大正拾年八月建之」

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<明治卅七八年戦役紀念碑>

 明治39(1906)年建立の日露戦争の記念碑で、希典の書です。

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<神苑門柱奉獻誌>

 表題「神苑門柱奉獻誌」とあり、漢文が続きます。
 最後に「大正三年三月日 帝國在郷軍人會 東京府南千住町分會有志」とあります。

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<日露戦役紀念之樹>

 「日露戦役紀念之樹」「明治三十九年七月 凱旋者」とあります。

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<伝統野菜 三河島菜>

 三河島氏子有志による奉納です。

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<厄神祭 桃 圃場>

 「厄神祭 桃 圃場」とあります。

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<大灯籠>

 以前は「宮元 太二講」の台座だけでしたが、白木に銅板葺の大灯籠が平成30(2018)年4月に奉納されています。
 台座は大正7(1918)年竣工、昭和35(1960)年の再建です。

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<参集殿>

 扁額「出羽三山神社 宮司 緒方久信」」とあります。

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<天王社の大銀杏(飛鳥の杜)>

 境内は「飛鳥の杜」と呼ばれ、江戸名所図会に描かれています。イチョウは気根を出しています。

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(説明板)
「天王社の大銀杏
 素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。『江戸名所図会』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
 この大銀杏は、幹の周囲約三・五メートル、高さ約三十メートルである。
 この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。
  荒川区教育委員会」

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「荒川区から荒川が消えた!
 昭和7年10月、南千住・三河島・尾久・日暮里の4町が合併し、区の周りを流れる荒川を区名とした荒川区が誕生しました。
 これは徳川家康公の江戸幕府により最初に架けられた千住の大橋から上流を《荒川》、下流を《隅田川》と呼んでいたことによります。
 文字通りの荒ぶる川ではありましたが、肥沃な土地をもたらし、物資水運の集散や利便性の高い工業地・住宅地として町を成長させました。
 しかしながら、昭和40年3月建設省令により、岩淵水門より下流域の《荒川を隅田川》昭和5年完成の水害対策の為の人工河川《荒川放水路を荒川》と呼ぶように定められ、荒川区から歴史ある《荒川》が消えました。
 「荒川」は、荒川区にとって母なる川であり、素盞雄神社にとっても強い結びつきがあります。このことを心に刻み、絶えず流れる川のたどった歴史を愛おしみ、大切に護り伝えたいものです。
〔荒川区の紋章〕上部半径を中心の字へ連続してアとし、水平平行線と下部半径をラ、中心の縦三本が川で、全体の円形は和を象徴しています。昭和25年5月2日指定」

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<句碑>

 現代の俳人の句の寄せ書きです。

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<鈴木俊一句碑>

 「あすかの杜に 悠久の千二弐百年 こころのふるさと此処に在り
   東京都知事 鈴木俊一書」

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<出羽三山供養塔>

 月山(左) 湯殿山(中) 羽黒山(右) 大権現供養塔とあります。文政十(1827)年と刻まれています。台座には「通新甼」とあり、下谷通新町の小林治左右衛門、小林仁右衛門が建立しています。以前より場所が微妙に移動しています。

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<松尾芭蕉の碑> 荒川区文化財

 千住大橋のモニュメント先に、「松尾芭蕉の碑」があります。「千住おおはし」には、綱が渡されています。東都歳事記にも描かれている橋を挟んで北と南で曳き合った綱曳神事を表しているのでしょう。橋の下には、川の主といわれる大亀が棲んでいた伝説を模した石造亀がいます。

【素盞雄神社HP説明】
「千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別のなみたをそそく
 行はるや鳥啼魚の目ハなみた(行く春や鳥啼き魚の目は泪)
 松尾芭蕉『奥の細道』矢立初め(旅立ち)となった有名な一節です。「矢立」とは、携行用の筆記具のことを意味します。文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晃の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられました。
 建碑以来百七十有余年、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読できないために、平成7年当社御鎮座1200年祭に際し復刻し、これを契機に全国俳句大会をはじめ様々な俳句興隆事業が行われています。」

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<森昌庵追慕の碑> 荒川区文化財

 旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保12(1841)年に建てられた森昌庵追慕の碑です。描かれた絵の担当は、近隣に住んでいた「江戸名所図会」の挿絵を描いた長谷川雪旦です。近時、以前あった説明柱が消失しています(画像は存在していた時)。

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<素盞雄神社と文人たち>

(説明板)
「素盞雄神社と文人たち
 千住宿界隈や墨田川沿岸の社寺には、江戸の文人が残した碑が多くみられる。
 この境内にも、文人が建てた二基の碑がある。文政三年(一八二○)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保十二年(一八四一)に建てられた森昌庵追慕の碑である。
 芭蕉の句碑は、谷文晁の弟子で関屋在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は、『江戸名所図会』などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかわった。
 これらの碑は、文人たちの交流を今日に伝えている。
  荒川区教育委員会」

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<天水桶> 荒川区文化財

 天保12(1829)年銘の永瀬源内富広作の鉄製天水桶です。荒川区文化財です。

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<社殿/本殿>

 社殿の右手に本殿の覆屋が見えます。

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「《七歳までは神の子》
 病死という概念がなかったその昔、『もののけ』という死霊が幼い生命を突然奪いにくると考えられていました。医学がまだ発達していない頃の乳幼児の生存率は低く、《七歳までは神の子》という言葉が伝わっています。それほどまでに乳幼児は死と隣合せだったのです。
 医療医学の発達したといわれる現代においても、子は「授かりもの」であり、生命は父母双方の先祖から脈々と流れ受け継ぐ「賜りもの」です。
 初宮詣氏子入りに際し「子育てのイチョウ」に奉納された絵馬は、7年間、御祭神の御加護を願いお供えいたしております。
 御祝いのお子様が七歳となる最後の一年は、御神前に最も近い殿内にお供えします。
 そして七年間が過ぎた11月15日七五三詣の日に〔おかげさま〕の感謝の心をこめて浄火によりお焚き上げいたします。」

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【西参道】

 西参道の鳥居は、寛政元(1789)年の建立です。

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 拝殿・本殿
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【表参道(素盞雄大神)】

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<度数拝禮碑>

 「度数拝禮碑」です。昭和40(1965)年、解脱会浅草支部の建立です。百度石と違うのですかね。

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<手水舎>

(表)
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(裏)
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(説明板)
「御神水
 平安時代延暦十四年創建より悠久の千二百有余年。江戸の文人墨客たちに飛鳥の杜と親しまれたこの境内に、神事ならびに非常時の生活用水として広く地域に供すべく、平成二十六年六月、深井戸(深度百四十メートル)を新設いたしました。
 深井戸掘削により実施した水質試験の結果、【飲料適合】と出ましたので、手水舎の水を天地の恵み〔御神水〕に切替えています。
 お水取りの方は、水鉢後方に蛇口が有ります。」

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<飛鳥の杜 御神水>

 手水舎の裏にある「飛鳥の杜 御神水」と書かれた木小屋の中に井戸ポンプがあり、地下140mから御神水を汲み上げています。

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<吉原 松葉屋半左衛門寄進の狛犬>

 狛犬の台座に「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあります。文化5(1808)年6月吉日銘の狛犬です。

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 最下段の台座には「再建」と「昭和十年」の文字が見えます。

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<几号水準点>

 鳥居に明瞭に「几号水準点」が刻まれています。松葉屋蔵の寄進した狛犬(文化5(1808)年6月吉日)のところの石鳥居です。

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<力石>

 力石が三基並んでいます。

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<狛犬>

 社殿前の獅子山の狛犬です。

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 左から読むとすれば「三筋通?」の文字が見えますが他不明です。
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<月桂樹>

 御大典記念として、昭和3(1928)年11月10日の建立です。

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<神楽殿>

 美術鋳金家の菓子満氏制作の「撫で桃〔桃の祓〕が飾られています。令和3(2021)年3月30日に納められました。
 3つの桃の実に「後顧(こうこ)」「中今(なかいま)」「幸先(さいさき)」の祓を託し、「あと・いま・さき」を祓い清めます。

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「三河島山車人形 稲田姫」(荒川区文化財)
 3年に一度の御神幸祭では、稲田姫(幕末人形師・古川長延作)が神楽殿に飾られます。
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<社殿>

 社殿は空襲で焼失したため、昭和32(1957)年に再建されています。

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 拝殿には扁額「素盞雄神社」(有栖川宮殿下書)が掲げられています。
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 拝殿内には扁額「瑞光殿」が掲げられています。
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