北千住駅
○北千住駅 足立区千住2丁目




○乾杯 足立区千住2-60
北千住駅西口にある、宮田亮平(東藝大)のイルカのオブジェ「乾杯」です。 平成16(2004)年2月の設置です。
「製作 足立区
企画 公益財団法人 日本交通文化協会」




作品データ→日本交通文化協会サイト
東京メトロ上野駅のステンドグラス「上野今昔物語」も同氏の作品です(こちらで記載)。
○わんさ君とJUJUちゃん 足立区千住2-59
きたろーど1010のマスコットキャラクター「わんさ君」と「JUJUちゃん」がトランペットを吹いています。

<きたろーど1010> 足立区千住2丁目・3丁目
フラッグには、赤門寺の閻魔さま、わんさくん、松尾芭蕉、銭湯、旧家、蔵、神社が描かれています。



○千住宿模型 足立区千住3-92 千住ミルディスI番館10階
ミルディスI番館(北千住マルイ)10階の、「シアター1010」と「足立区役所千住区民事務所」があるフロアーに、「千住宿」の1/50模型があります。模型を照らす照明が節電で消灯していて、暗くて見にくいです。


千住宿の南北2800メートルのうち、千住一丁目と掃部宿の一部、300メートルが復元されています。問屋場・貫目改所、一里塚、高札場、飛脚宿も復元されています。街道に沿った問屋・商店は、間口が狭く、奥行きが長い鰻の寝床です。



<高札場/一里塚/千住小橋/掃部堤>



<貫目改所>


<湯屋>
湯屋も精巧に造られています。 (江戸の湯屋について、こちらで記載)


「千住宿模型(1/50縮尺)
文化3年(1808)の「日光道中分間延絵図」(東京国立博物館蔵)をはじめとする参考資料を元に作成した江戸時代後期、19世紀初めの街並みの一部である。昭和61年(1986)に足立区郷土博物館千住町並調査団が作成、同年から平成21(2009)年まで同館の常設展示資料だった。」

「模型の復元範囲
宿場の実距離は南北約2800m、東西約300mで、南北に通る日光道中沿いに細長い形をしていた。宿場全体の約1/9、千住一丁目と千住掃部宿の各一部300mを復元した。」


「問屋場周辺の街並み
千住一丁目と掃部宿の各一部
千住一丁目には問屋場・貫目改所、馬寄場など宿場の機能をになう重要な施設があった。一里塚も千住小橋の脇にある。なお大名などの宿泊にあてられた本陣は千住三丁目にあり、復元模型には含まれていない。」


「■問屋場と貫目改所
問屋場は宿場の管理が行なわれた場所で、元禄8(1695)年に千住一丁目に設置されました。
貫目改所は荷物の公定重量を守らせるための重量検査所で、安保3(1743)年に幕府が設置しました。
「■高札場と一里塚
高札場は千住小橋の南西にあり荷物の公定重量や運賃、切支丹禁制などの高札がありました。
一里塚は一里(約4km)ごとに築かれた塚で、千住小橋にあり榎が植えられていました。」
川に千住小橋が架けてあり、榎木が植えてあるところが一里塚です。
「■街道沿いの街並み
千住宿は農村の境界に位地したことから、町屋風の瓦葺きの建物と農家風の茅葺きの建物が混在していました。」
「■商店の蔵
千住宿の特徴は問屋や商店が多いことで、模型でも多くの商店や取引物資などを保管する蔵が立ち並んでいます。」

<千住宿の成立と機能>
(説明板)
「千住宿の成立と機能
千住宿は江戸日本橋から2里8町(約9km)の場所にある日光道中・奥州道中の最初の宿場です。寛永2(1625)年に江戸と日光を結ぶ日光道中の整備の一環として、短冊形の地割を行い、周辺の家々を集めて建設されました。当初の宿場の範囲は千住一丁目から五丁目でした。その後、交通量の増大に伴って万治元(1658)年に掃部宿(現千住仲町)・河原町・橋戸町が、同3(1660)年には千住大橋を越えて小塚原町・中村町(いずれも現荒川区南千住)が千住宿に加えられました。宿場の機能は ①次の宿場までの荷物や人の運搬(人馬継立)②本陣や旅籠などの宿泊施設の設置 ③書状の伝達がありました。日光道中の初宿であった千住宿はこれらのほかにも宿場組合の取締役を務めたり、荷物の重量が公定通りであるか検査する貫目改所も設置されたりしました。」

「■千住宿を構成した町
天保15(1844)年の記録によれば宿場の町並みは22町19間余(約2.4km)続いていました。」

「■伝馬割図
千住宿では人馬継立のために馬50疋・人足50人が用意され、老中や同注奉行などの証文があったときに無料で提供されました。人馬を用意する家々を伝馬屋敷といい、街道に面した土地の間口に応じて割り振られました。当初は人足・馬を用意しましたが、後には金銭で負担するようになりました。」
「■地租改正地引絵図(明治10年・1877)
日光道中に面した間口が狭く、奥行きが長い短冊形の土地が並んでいます。日光道中が一番高く、東西に流れる水路に向かって緩やかに傾斜しています。」
「■日光御街道千住宿日本無類楠橋杭之風景本願寺行粧之図(慶應元・1865年 橋本貞秀画」
徳川家康の250回忌に法会のために日光へと向かう東本門寺門跡(皇族)の一行が、千住大橋を渡っているところを描いています。

「■東講商人鑑(安政2・1855年)

<流通都市千住宿>
(説明板)
「流通都市千住宿
千住宿は日光道中などの陸上輸送と荒川(現隅田川)の水上輸送の接点に位地し、宿場としてだけではなく流通の町としても賑わいました。このため江戸四宿(日光堂龍千住宿・東海道品川宿・中仙道板橋宿・甲州道中内藤新宿)の中で最も多い人口(約1万人)を数えるようになりました。橋戸町の河岸には荒川を行き来する船が発着し、食品や肥料、燃料、陶器、木材などが運ばれました。これらの産物は、千住宿の問屋や商店から江戸などへ送られました。逆に江戸から他地域へ送られる産物も集散しました。宿場にはさまざまな問屋・商店が軒を連ねていました。中でも米穀・前栽・川魚の三つの問屋は、享保20(1735)年に御用市場となり、江戸城に品物を納めるようになりました。また、野菜などを扱った前栽問屋(青物問屋)は神田・駒込とともに江戸の三大青物市場といわれました。」

「伊能忠敬と千住宿」
伊能忠敬の第1次測量は蝦夷地への測量で、往復3,200キロメートル、180日間の行程でした。
寛政12(1800)年4月19日深川黒江町を出発、富岡八幡宮に参拝後、天文方暦局に立ち寄り、千住宿で親戚や知人の見送りを受けました。 (参考:伊能忠敬)
(説明板)
「■送迎の地
参勤交代や庶民の旅行でも千住は江戸からの出発と到着に際して送迎が行われる場として機能した。伊能忠敬の測量旅行の際、千住で送迎が行われたのも一例である。」

「巣兆筆 芭蕉像」
巣兆筆「芭蕉像」が掲げられています。巣兆については、こちらで記載。

光茶釜と将軍吉宗(千住)
○光茶釜と将軍吉宗 足立区文化財 足立区千住5丁目(千住新橋下荒川河川敷)
千住宿と梅田村との境界の用水路に架かる茶屋石橋の傍らに「爺が茶屋」と呼ばれていた松風庵がありました。
参考ですが、用水路の付け替え工事の経緯を漢文で記した「千住新渠碑」(明治38(1905)年3月)が大川氷川神社に現存しています(こちらで記載)。
元文5(1740)年10月八代将軍徳川吉宗が千住で4回目の鷹狩を行い、この茶屋で休息をとりました。鏡のように磨き上げられた茶釜を見た吉宗は、手入れが行き届いていることを誉め、翌年再び松風庵を訪れ、
「名をのこす 爺の茶釜や てるかがみ」
という句を短冊に認め主人に与えたと伝えられています。
これが江戸中で評判となり、将軍と同じお茶が飲めると大勢の人が訪れるようになりました。この茶釜は「光茶釜」と呼ばれるようになり、傍らの橋も「茶釜橋」と呼ばれ、江戸の名所の一つとなりました。
文人墨客も多く見学に訪れ、句や歌を詠んで寄せ書きにした「松風庵揮毫帖」も残されています(足立区文化財)。
江戸の名所だった茶屋等にはアイドルがいました。谷中の茶屋「鍵屋」のお仙(こちらで記載)、浅草奥山の楊枝店「柳屋」のお藤(こちらで記載)、浅草寺の茶屋「蔦屋」のおよしです。
江戸名所図会では、この茶屋は、爺がお茶を運んでいる姿が描かれています。アイドルは爺でも、将軍と同じお茶が飲めることで名所となりました。
「光茶釜」(足立区立郷土博物館蔵)
光茶釜を所有していた石原家から寄託を受け、現在は足立区立郷土博物館が所蔵し現存しています。経年劣化で光っていないし、一部に穴が開いているそうですが、江戸名所図会に描かれた光茶釜が現存しているのは素晴らしい。
(足立区立郷土博物館解説)
「茶屋・松風庵を営んだ千住五丁目に伝来しました。江戸名所図会には徳川吉宗が上覧し賞賛したという故事が記されています。茶屋の名前は松風庵でしたが「爺ヶ茶屋」の呼称が一般的でした。明治時代にも存続し、付近に「茶釜橋」という名前の橋もありました。現在は千住新橋南詰付近の荒川河川敷となっています。」

「千住新橋南詰付近の荒川河川敷」 足立区千住5丁目
「爺が茶屋」と茶釜橋があった場所は、現在は千住新橋南詰付近の荒川河川敷となっています。明治26(1893)年に、千住茶釜橋を起点とし大沢(現越谷市)まで、千住馬車鉄道が開業しました。その後、粕壁(現春日部市)まで鉄道は延伸されましたが、東武鉄道の開業に伴い廃止されました。

「千住図会抜粋 光茶銚」
掃部宿憩いのプチテラスに掲示されている千住図会から光茶銚部分の抜粋です。日光街道を横切る用水路の脇に「光茶銚」が見えます。
「徳川吉宗が鷹狩の時ここでご休憩になり、この茶屋の茶釜をほめたので光茶釜と呼ばれ、後世まで名誉にしました。今日の千住新橋の下あたりに当ります。」

「江戸名所図会 光茶銚」
光茶釜は、江戸の名所の一つとなり、江戸名所図会に描かれています。
挿絵には、「千住の駅はなれ道の左側にあり 土人は耆老(ぢぢ)茶屋とも呼あへり むかし此店の茶銚の光沢の殊に勝たりしを重き御感賞にあづかりしより此茶銚竟名物となりて其名さへ世に光こととはなりぬ」とあります。
挿絵は光茶銚で茶湯をわかす耆老茶屋(じじがちゃや)の様子を描いています。柿が実り、すすきの穂が垂れ下がっているので、季節は秋です。煙草を吸っている旅人に、看板娘ならぬ爺がお茶を運んでいます。二人連れの猿回しの前の男は背中に猿をおんぶしています。


縁台の左後ろには青面金剛の文字と三猿が刻まれた庚申塔が建っています。どこかに移設されているのか消失しているのか気になります。

千住宿と梅田村との境界の用水路に架かる茶屋石橋の傍らに「爺が茶屋」と呼ばれていた松風庵がありました。
参考ですが、用水路の付け替え工事の経緯を漢文で記した「千住新渠碑」(明治38(1905)年3月)が大川氷川神社に現存しています(こちらで記載)。
元文5(1740)年10月八代将軍徳川吉宗が千住で4回目の鷹狩を行い、この茶屋で休息をとりました。鏡のように磨き上げられた茶釜を見た吉宗は、手入れが行き届いていることを誉め、翌年再び松風庵を訪れ、
「名をのこす 爺の茶釜や てるかがみ」
という句を短冊に認め主人に与えたと伝えられています。
これが江戸中で評判となり、将軍と同じお茶が飲めると大勢の人が訪れるようになりました。この茶釜は「光茶釜」と呼ばれるようになり、傍らの橋も「茶釜橋」と呼ばれ、江戸の名所の一つとなりました。
文人墨客も多く見学に訪れ、句や歌を詠んで寄せ書きにした「松風庵揮毫帖」も残されています(足立区文化財)。
江戸の名所だった茶屋等にはアイドルがいました。谷中の茶屋「鍵屋」のお仙(こちらで記載)、浅草奥山の楊枝店「柳屋」のお藤(こちらで記載)、浅草寺の茶屋「蔦屋」のおよしです。
江戸名所図会では、この茶屋は、爺がお茶を運んでいる姿が描かれています。アイドルは爺でも、将軍と同じお茶が飲めることで名所となりました。
「光茶釜」(足立区立郷土博物館蔵)
光茶釜を所有していた石原家から寄託を受け、現在は足立区立郷土博物館が所蔵し現存しています。経年劣化で光っていないし、一部に穴が開いているそうですが、江戸名所図会に描かれた光茶釜が現存しているのは素晴らしい。
(足立区立郷土博物館解説)
「茶屋・松風庵を営んだ千住五丁目に伝来しました。江戸名所図会には徳川吉宗が上覧し賞賛したという故事が記されています。茶屋の名前は松風庵でしたが「爺ヶ茶屋」の呼称が一般的でした。明治時代にも存続し、付近に「茶釜橋」という名前の橋もありました。現在は千住新橋南詰付近の荒川河川敷となっています。」

「千住新橋南詰付近の荒川河川敷」 足立区千住5丁目
「爺が茶屋」と茶釜橋があった場所は、現在は千住新橋南詰付近の荒川河川敷となっています。明治26(1893)年に、千住茶釜橋を起点とし大沢(現越谷市)まで、千住馬車鉄道が開業しました。その後、粕壁(現春日部市)まで鉄道は延伸されましたが、東武鉄道の開業に伴い廃止されました。

「千住図会抜粋 光茶銚」
掃部宿憩いのプチテラスに掲示されている千住図会から光茶銚部分の抜粋です。日光街道を横切る用水路の脇に「光茶銚」が見えます。
「徳川吉宗が鷹狩の時ここでご休憩になり、この茶屋の茶釜をほめたので光茶釜と呼ばれ、後世まで名誉にしました。今日の千住新橋の下あたりに当ります。」

「江戸名所図会 光茶銚」
光茶釜は、江戸の名所の一つとなり、江戸名所図会に描かれています。
挿絵には、「千住の駅はなれ道の左側にあり 土人は耆老(ぢぢ)茶屋とも呼あへり むかし此店の茶銚の光沢の殊に勝たりしを重き御感賞にあづかりしより此茶銚竟名物となりて其名さへ世に光こととはなりぬ」とあります。
挿絵は光茶銚で茶湯をわかす耆老茶屋(じじがちゃや)の様子を描いています。柿が実り、すすきの穂が垂れ下がっているので、季節は秋です。煙草を吸っている旅人に、看板娘ならぬ爺がお茶を運んでいます。二人連れの猿回しの前の男は背中に猿をおんぶしています。


縁台の左後ろには青面金剛の文字と三猿が刻まれた庚申塔が建っています。どこかに移設されているのか消失しているのか気になります。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
慈眼寺(千住)
○慈眼寺 足立区千住1-2-9
江戸城北方の祈願所として葵の紋の使用を許された「慈眼寺」です。やっちゃ場に近く文人墨客の出入りが多く、住職は建部巣兆と親交深く「巣兆寺」とも呼ばれました。
荒川辺八十八ヶ所霊場44番札所、荒綾八十八ヶ所霊場57番札所です。
【南門】
徳川家光の庇護を受け、寺紋は「丸に立ち葵紋」を使用しています。南門から石畳の先に本堂があります。





<札所碑>
荒綾八十八ヶ所霊場57番札所の札所碑で、道標を兼ねています。大正15(1926)年6月の造立です。
「荒綾八十八ケ所第五十七番 千住町ニ丁目 慈眼寺」
「是ヨリ元宿大師道中 一丁」


(説明板)
「慈眼寺
当寺は、新義真言宗で、山号を千龍山、院号を妙智院という。寺伝によれば、正和三年(一三一四)二月、行覚上人が関東巡錫の折に創建、三代将軍徳川家光の時、伝弘法大師作聖観世音菩薩像を安置し本尊とし、江戸城北方の祈願所として葵の紋の使用を許されたとされる。
幕末に編纂され、千住宿の故事を記録した『旧考録』によれば、弘化四年(一八四七)四月、東叡山寛永寺の山主(上野の宮様)慈性入道法親王が日光参拝の際、宿場本陣に支障があり、当寺が本陣を勤めた。以来、六度寛永寺山主の休息所となった。
また、文人墨客との付き合いが深く、特に江戸時代後期の画家建部巣兆との親交から、「巣兆寺」とも呼ばれた。
境内にある板碑(貞治六年銘)、地蔵菩薩庚申塔、庚申塔(寛文七年銘)が足立区文化財に登録されている。
平成二十六年三月 足立区教育委員会」

<消防記念碑>
参道右手に、大正12(1923)年建立の「南北消防組記念碑」があります。
「南北消防記念碑」
「南北消防保存會」



「南北消防記念碑建立六十年
記念事業碑
千龍山主了昭書」

「その他」


(説明板)
「千住町消防組
昭和七年十月一日、足立区の誕生とともにこの地にあった千住町消防組屯所は、足立消防署(昭和二十二年八月一日千住消防署と改称)となり、近代消防が発足した。
消防組織の歴史遡れば、享保四年(一七一九)ときの江戸町奉行大岡越前守忠相の肝煎りで江戸町火消が生まれ、自治的な「いろは四十八組」が鳶の者によって組織されたのを始めとする。
千住も江戸四宿の一つとして栄え、東北路の要衝であったところから、文政十二年(一八ニ九)に戒坊更番所を建て町民が管理したという。安政年間には南北千住消防組ができ、明治以降は警視庁の指揮下にあったが、明治二十八年からは自治体の千住町消防組として活躍した。
ここにある南北消防組記念碑は、大正十二年四月に建てられたもので、創始以来の殉職物故者の氏名を記し慰霊顕彰している。
昭和五十七年十月一日 東京都足立区教育委員会」

<庫裡>
参道左手にある「庫裡」です。

【本堂】
左に「興教大師像」、右に「弘法大師像」が本堂をおまもりしています。





本堂左手にある石燈籠には精緻な龍が巻きついています。


十三輪塔があります。

本堂右手の「弘法大師千百年御遠忌記念」

天水桶に丸に立ち葵紋が記されています。

本堂に掲げられている扁額「大悲閣」です。

<板碑> 足立区文化財
本堂右手に板碑があります。説明板に記載されている貞治6(1367)年銘の板碑でしょう。

【山門】
山門は東向きです。 山門の扁額は「千龍山」です。





<煉瓦塀>
境内東側の煉瓦塀です。



<地蔵堂/日限地蔵尊>
山門入って右手の地蔵堂と線刻の日限地蔵尊です。




<納骨堂>


<宝筐印塔>
宝暦4(1754)年銘の宝筐印塔です。



宝筐印塔台石の右側面「宝塔建立十方 施主 願主」に「庚申講中」の銘も見られます。


<法界萬霊塔>
嘉永元(1848)年銘の法界萬霊塔です。


<庚申塔> 足立区文化財
庚申塔がニ基ならんでいます。両基とも足立区文化財です。

・地蔵菩薩庚申塔(寛文7(1667)年銘)
左の庚申塔です。

左脇に紀年

右脇に「庚申待供養」とあります。

・地蔵菩薩庚申塔(万治3(1658)年銘)
右の庚申塔です。

上部に「奉納庚申待供養」

右脇に紀年が刻まれています。

台石に三猿が陽刻されています。

<橋本律蔵の墓>
別途記載
<薬師堂>
戦前まで、この薬師の縁日は大盛況でした。

<弁天堂>
水のない池に石橋が架かり、弁天堂があります。


ライオン吐水口




<豊川稲荷祠>
幟は「豐川吒枳尼眞天」とあります。


【本堂右脇】
<鬼瓦>


<鳥獣塚>
千住猟友会の鳥獣塚で、昭和38(1963)年の建立です。



<B29無名戦士慰霊碑>
昭和20(1945)年4月13日、当時の足立区嘉兵衛町に墜落したB29(POCAHONTAS号)の搭乗員11名の慰霊碑です。
鳩と地球をモチーフにした「慰霊碑」と、平和祈念の石碑「無名戦士を弔ふ」があります。
当初、北加平公園に造られた墓碑は、足立区郷土博物館に保存・展示されています。
(足立区のサイトが参考になります。あだちの戦争)

・「慰霊碑」


・「無名戦士を弔ふ」

<石仏>
不動明王、聖観音、弘法大師ですかね。

<六地蔵>

江戸城北方の祈願所として葵の紋の使用を許された「慈眼寺」です。やっちゃ場に近く文人墨客の出入りが多く、住職は建部巣兆と親交深く「巣兆寺」とも呼ばれました。
荒川辺八十八ヶ所霊場44番札所、荒綾八十八ヶ所霊場57番札所です。
【南門】
徳川家光の庇護を受け、寺紋は「丸に立ち葵紋」を使用しています。南門から石畳の先に本堂があります。





<札所碑>
荒綾八十八ヶ所霊場57番札所の札所碑で、道標を兼ねています。大正15(1926)年6月の造立です。
「荒綾八十八ケ所第五十七番 千住町ニ丁目 慈眼寺」
「是ヨリ元宿大師道中 一丁」


(説明板)
「慈眼寺
当寺は、新義真言宗で、山号を千龍山、院号を妙智院という。寺伝によれば、正和三年(一三一四)二月、行覚上人が関東巡錫の折に創建、三代将軍徳川家光の時、伝弘法大師作聖観世音菩薩像を安置し本尊とし、江戸城北方の祈願所として葵の紋の使用を許されたとされる。
幕末に編纂され、千住宿の故事を記録した『旧考録』によれば、弘化四年(一八四七)四月、東叡山寛永寺の山主(上野の宮様)慈性入道法親王が日光参拝の際、宿場本陣に支障があり、当寺が本陣を勤めた。以来、六度寛永寺山主の休息所となった。
また、文人墨客との付き合いが深く、特に江戸時代後期の画家建部巣兆との親交から、「巣兆寺」とも呼ばれた。
境内にある板碑(貞治六年銘)、地蔵菩薩庚申塔、庚申塔(寛文七年銘)が足立区文化財に登録されている。
平成二十六年三月 足立区教育委員会」

<消防記念碑>
参道右手に、大正12(1923)年建立の「南北消防組記念碑」があります。
「南北消防記念碑」
「南北消防保存會」



「南北消防記念碑建立六十年
記念事業碑
千龍山主了昭書」

「その他」


(説明板)
「千住町消防組
昭和七年十月一日、足立区の誕生とともにこの地にあった千住町消防組屯所は、足立消防署(昭和二十二年八月一日千住消防署と改称)となり、近代消防が発足した。
消防組織の歴史遡れば、享保四年(一七一九)ときの江戸町奉行大岡越前守忠相の肝煎りで江戸町火消が生まれ、自治的な「いろは四十八組」が鳶の者によって組織されたのを始めとする。
千住も江戸四宿の一つとして栄え、東北路の要衝であったところから、文政十二年(一八ニ九)に戒坊更番所を建て町民が管理したという。安政年間には南北千住消防組ができ、明治以降は警視庁の指揮下にあったが、明治二十八年からは自治体の千住町消防組として活躍した。
ここにある南北消防組記念碑は、大正十二年四月に建てられたもので、創始以来の殉職物故者の氏名を記し慰霊顕彰している。
昭和五十七年十月一日 東京都足立区教育委員会」

<庫裡>
参道左手にある「庫裡」です。

【本堂】
左に「興教大師像」、右に「弘法大師像」が本堂をおまもりしています。





本堂左手にある石燈籠には精緻な龍が巻きついています。


十三輪塔があります。

本堂右手の「弘法大師千百年御遠忌記念」

天水桶に丸に立ち葵紋が記されています。

本堂に掲げられている扁額「大悲閣」です。

<板碑> 足立区文化財
本堂右手に板碑があります。説明板に記載されている貞治6(1367)年銘の板碑でしょう。

【山門】
山門は東向きです。 山門の扁額は「千龍山」です。





<煉瓦塀>
境内東側の煉瓦塀です。



<地蔵堂/日限地蔵尊>
山門入って右手の地蔵堂と線刻の日限地蔵尊です。




<納骨堂>


<宝筐印塔>
宝暦4(1754)年銘の宝筐印塔です。



宝筐印塔台石の右側面「宝塔建立十方 施主 願主」に「庚申講中」の銘も見られます。


<法界萬霊塔>
嘉永元(1848)年銘の法界萬霊塔です。


<庚申塔> 足立区文化財
庚申塔がニ基ならんでいます。両基とも足立区文化財です。

・地蔵菩薩庚申塔(寛文7(1667)年銘)
左の庚申塔です。

左脇に紀年

右脇に「庚申待供養」とあります。

・地蔵菩薩庚申塔(万治3(1658)年銘)
右の庚申塔です。

上部に「奉納庚申待供養」

右脇に紀年が刻まれています。

台石に三猿が陽刻されています。

<橋本律蔵の墓>
別途記載
<薬師堂>
戦前まで、この薬師の縁日は大盛況でした。

<弁天堂>
水のない池に石橋が架かり、弁天堂があります。


ライオン吐水口




<豊川稲荷祠>
幟は「豐川吒枳尼眞天」とあります。


【本堂右脇】
<鬼瓦>


<鳥獣塚>
千住猟友会の鳥獣塚で、昭和38(1963)年の建立です。



<B29無名戦士慰霊碑>
昭和20(1945)年4月13日、当時の足立区嘉兵衛町に墜落したB29(POCAHONTAS号)の搭乗員11名の慰霊碑です。
鳩と地球をモチーフにした「慰霊碑」と、平和祈念の石碑「無名戦士を弔ふ」があります。
当初、北加平公園に造られた墓碑は、足立区郷土博物館に保存・展示されています。
(足立区のサイトが参考になります。あだちの戦争)

・「慰霊碑」


・「無名戦士を弔ふ」

<石仏>
不動明王、聖観音、弘法大師ですかね。

<六地蔵>

安藤昌益ゆかりの地(千住)
○『自然真営道』発見の地(西) 足立区千住仲町21-1
司馬遼太郎が「日本が世界に誇りうる唯一の社会思想家」と評した江戸時代の医師・安藤昌益の著作『自然真営道』が、千住仲町の橋本家から発見され、その説明板が掲示されています。
「千住宿「自然真営道」説明板横にあります↑」


(説明板)
「『自然真営道』発見の地
作家・司馬遼太郎さんが「日本における唯一の独創的な社会思想家」として絶賛した江戸時代の医者、安藤昌益が書き残した『自然真営道』の原稿本百一巻を、この地(本褐示板の北側一画)にあった穀物問屋薬屋橋本家が所有していました。橋本家の明治期の当主は橋本律蔵*、橋本知宣で、中組の戸長、千住町長を務めていました。
稿本『自然真営道』が明治中頃に第一高等学校校長、初代の京都帝国大学文科大学長になる狩野亨吉によって見出され、世に紹介されて以来、今日では国内はもとより中国・韓国をはじめ欧米諸国でも研究の輪が広がっています。そうした意味で、千住の地は安藤昌益研究の原点と言えます。
安藤昌益のすべてとも言うべき 『自然真営道』は、江戸時代中期にあって、常識を覆す破天荒な社会思想、科学的な自然観、生命尊重の医学の書で、膨大かつ体系的に集大成されたものでした。とりわけその平和思想は、人類の知的遺産の一つと見なされてきています。
大館(秋田県)で生まれ、京都で学び、八戸(青森県)の地で活躍した安藤昌益の未刊の原稿本を、なぜ、千住の橋本家が所有していたのか、これまで長い間不明でした。その時間の空白を埋めるべく、ニ○○四年五月、「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」を発足させ、昌益の思想に共感する人々とその謎を解明するため、未公開資料の解読を進めるなど、この間調査研究を進めてきました。
千住の出身で京都大学史学科の基礎を築いた文学博士内田銀蔵**が所蔵していた未開資料の中から、一八五○(嘉永三)年当時の橋本家の家人と思われる「橋栄徳」をペンネームとした医者が著した『静谿謾筆(せいけいまんぴつ)』を発見し、橋栄徳が昌益の本を書き写し「予、真営道ノ説二従フ也」と昌益思想を支持することを書き残していたことがわかりました。
また、明治一○年代に千住で森鴎外に漢詩を教授していた医師で漢詩人の佐藤元萇(鷹渠)の日記・遺稿書が発見されました。日記によると、足立区立郷土博物館所蔵の千住古地図に記載のある薬屋橋本家敷地内に住む医者橋本玄益を、佐藤元萇が一八五一(嘉永四)年より頻繁に訪ねています。五五(安政二)年からは千住の人々を治療していることもわかってきました。佐藤元蓑は明治維新を経ても千住の人々の治療を続け、医学や文芸知識を門人に授けていたことが判明してきました。
安藤昌益の思想はまだまだ未解明の部分があるように、安藤昌益と千住宿の関係についてもわからない部分がたくさん残されていますが、「調べる会」の活動で、謎の一端が解明できるようになってきました。
*橋本律蔵 この掲示板より徒歩三分ほどの慈眼寺(千住一丁目ニー九)に墓所があり、説明板掲示。
**内田銀蔵 この掲示板より日光道中南方向一○○メートル先の川魚問屋鮒与(千住仲町十一ー十一)に説明板掲示。
ニ○○六年五月設置、ニ○一四年十一月再改訂
安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」

○『自然真営道』発見の地(東) 足立区千住仲町21-8
旧橋本家の西側、旧日光街道沿の説明板を見て、旧橋本家の東側にもある掲示板を見に行きます。
江戸時代は、家の間口の広さで税金を決めていました。そのため大店の豪商などは節税対策として間口を極端に狭くして奥に長い構造としました。やっちゃ場の問屋も同様です。
細い路地に沿って東へ向かうと、ようやくミリオン通り商店街に突き当りました。かつての「千住御殿」は、まさに鰻の寝床です。鰻の寝床のアタマとシッポに同じ説明板があります。



○橋本律蔵の墓(慈眼寺) 足立区千住1-2-9
慈眼寺に橋本律蔵墓はあります。「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」が設置された、石碑「橋本家の墓」が設置されており、すぐわかりました。
説明石碑の左手に西に面して「橋本家之墓」があり、説明板碑の奥に西に南に面して墓石が3基並んで建っています。中央の墓石前に小さな石碑「橋本律蔵の墓」があり、これまた分かりやすいです。墓石左側面に戒名と没年が刻まれています。








○内田銀蔵博士の生家 足立区千住仲町11-11
掃部宿プチテラスから、旧日光街道を少し北に行くと、ビルの壁に説明板「内田銀蔵博士の生家」があります。この場所は、日本経済史学の先駆者であった内田銀蔵博士の生家とのことです。
内田銀蔵博士の墓は、清亮寺にあります(こちらで記載)。



(説明板)
「内田銀蔵博士の生家
明治・大正期の一時代を画した日本経済史学の先駆者、内田銀蔵は明治五年(一八七二) 正月二十五日、ここ千住仲町で江戸時代初期から続く川魚問屋の老舗「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれました。銀蔵は家業を継ぐ立場にありましたが幼少の頃から学問好きで、千寿小学校での成績も抜群でした。そして学問の道を熱望したため父親も許し、地方裁判所に願い出て弟善蔵に与兵衛の名跡を相続させ、学者の道に進みました。
明治二十二年、東京専門学校(後の早稲田大学)政治科に進学して経済学を学び、さらに東京大学文科大学国史科に進んで二十六年に卒業、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」を課題として大学院で研究し、学会誌『史学雑誌』に日本の古代・中世・近世における経済史関係の論文を次々と発表しました。これが認められて大学院卒業後は東京大学の講師となり、わが国最初の日本経済史を講義しました。経済史学の創始者と後々までも称えられる所以はここにあります。
三十五年十月、二十九歳の若さで文学博士となり、翌年一月には文部省の外国留学生として三年半の長きにわたりヨーロッパの歴史学・経済学を学び、その間、主著『日本近世史』を刊行しました。
また、海外留学中にもかかわらず広島高等師範の教授に任命され、帰国後は京都大学文科大学の教授も兼任して史学の道を切り開きました。史学といえば現在も京都大学が一目おかれるのは、銀蔵が築いた研究室の在り方が伝統になっているからだと言われています。かくして四十年五月、三十六歳の時、京都大学の専任教授となり、五年後には経済史のバイブル的存在『経済史総論』を刊行しています。
第一次世界大戦後の大正七年(一九一八)、欧米各国に出張して翌年帰国しましたが、間もなく発病し、七月二十日、四十七歳の若さで他界しました。 戒名は「文教院智顕日明居士」、墓は日ノ出町四ニノーの清亮寺墓地にあります。
なお、銀蔵は幼い日、生家の向かいにある橋本家で、稿本『自然真営道』の旧蔵書・橋本律蔵の薫陶を受けていたと言われ、銀蔵の死後、京都大学に寄贈された遺品資料の中からは、〇六年九月、調べる会の調査によって、安藤昌益の医学や自然哲学を受け継ぐ川村真斎の『老子解真斎先生草稿』や橋栄徳の『静谿謾筆』、橋本律蔵の『雑記』等といった貴重な資料が見出されました。
長いあいだ昌益研究史上の謎とされてきた、安藤昌益と千住宿を結ぶ医師たちの系譜が、他ならぬ内田銀蔵の仲介によって解明されつつあるのです。
二○○六年五月設置、二○○九年二月増補
安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」


※旧記事を削除して、こちらに移動しました。
司馬遼太郎が「日本が世界に誇りうる唯一の社会思想家」と評した江戸時代の医師・安藤昌益の著作『自然真営道』が、千住仲町の橋本家から発見され、その説明板が掲示されています。
「千住宿「自然真営道」説明板横にあります↑」


(説明板)
「『自然真営道』発見の地
作家・司馬遼太郎さんが「日本における唯一の独創的な社会思想家」として絶賛した江戸時代の医者、安藤昌益が書き残した『自然真営道』の原稿本百一巻を、この地(本褐示板の北側一画)にあった穀物問屋薬屋橋本家が所有していました。橋本家の明治期の当主は橋本律蔵*、橋本知宣で、中組の戸長、千住町長を務めていました。
稿本『自然真営道』が明治中頃に第一高等学校校長、初代の京都帝国大学文科大学長になる狩野亨吉によって見出され、世に紹介されて以来、今日では国内はもとより中国・韓国をはじめ欧米諸国でも研究の輪が広がっています。そうした意味で、千住の地は安藤昌益研究の原点と言えます。
安藤昌益のすべてとも言うべき 『自然真営道』は、江戸時代中期にあって、常識を覆す破天荒な社会思想、科学的な自然観、生命尊重の医学の書で、膨大かつ体系的に集大成されたものでした。とりわけその平和思想は、人類の知的遺産の一つと見なされてきています。
大館(秋田県)で生まれ、京都で学び、八戸(青森県)の地で活躍した安藤昌益の未刊の原稿本を、なぜ、千住の橋本家が所有していたのか、これまで長い間不明でした。その時間の空白を埋めるべく、ニ○○四年五月、「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」を発足させ、昌益の思想に共感する人々とその謎を解明するため、未公開資料の解読を進めるなど、この間調査研究を進めてきました。
千住の出身で京都大学史学科の基礎を築いた文学博士内田銀蔵**が所蔵していた未開資料の中から、一八五○(嘉永三)年当時の橋本家の家人と思われる「橋栄徳」をペンネームとした医者が著した『静谿謾筆(せいけいまんぴつ)』を発見し、橋栄徳が昌益の本を書き写し「予、真営道ノ説二従フ也」と昌益思想を支持することを書き残していたことがわかりました。
また、明治一○年代に千住で森鴎外に漢詩を教授していた医師で漢詩人の佐藤元萇(鷹渠)の日記・遺稿書が発見されました。日記によると、足立区立郷土博物館所蔵の千住古地図に記載のある薬屋橋本家敷地内に住む医者橋本玄益を、佐藤元萇が一八五一(嘉永四)年より頻繁に訪ねています。五五(安政二)年からは千住の人々を治療していることもわかってきました。佐藤元蓑は明治維新を経ても千住の人々の治療を続け、医学や文芸知識を門人に授けていたことが判明してきました。
安藤昌益の思想はまだまだ未解明の部分があるように、安藤昌益と千住宿の関係についてもわからない部分がたくさん残されていますが、「調べる会」の活動で、謎の一端が解明できるようになってきました。
*橋本律蔵 この掲示板より徒歩三分ほどの慈眼寺(千住一丁目ニー九)に墓所があり、説明板掲示。
**内田銀蔵 この掲示板より日光道中南方向一○○メートル先の川魚問屋鮒与(千住仲町十一ー十一)に説明板掲示。
ニ○○六年五月設置、ニ○一四年十一月再改訂
安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」

○『自然真営道』発見の地(東) 足立区千住仲町21-8
旧橋本家の西側、旧日光街道沿の説明板を見て、旧橋本家の東側にもある掲示板を見に行きます。
江戸時代は、家の間口の広さで税金を決めていました。そのため大店の豪商などは節税対策として間口を極端に狭くして奥に長い構造としました。やっちゃ場の問屋も同様です。
細い路地に沿って東へ向かうと、ようやくミリオン通り商店街に突き当りました。かつての「千住御殿」は、まさに鰻の寝床です。鰻の寝床のアタマとシッポに同じ説明板があります。



○橋本律蔵の墓(慈眼寺) 足立区千住1-2-9
慈眼寺に橋本律蔵墓はあります。「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」が設置された、石碑「橋本家の墓」が設置されており、すぐわかりました。
説明石碑の左手に西に面して「橋本家之墓」があり、説明板碑の奥に西に南に面して墓石が3基並んで建っています。中央の墓石前に小さな石碑「橋本律蔵の墓」があり、これまた分かりやすいです。墓石左側面に戒名と没年が刻まれています。








○内田銀蔵博士の生家 足立区千住仲町11-11
掃部宿プチテラスから、旧日光街道を少し北に行くと、ビルの壁に説明板「内田銀蔵博士の生家」があります。この場所は、日本経済史学の先駆者であった内田銀蔵博士の生家とのことです。
内田銀蔵博士の墓は、清亮寺にあります(こちらで記載)。



(説明板)
「内田銀蔵博士の生家
明治・大正期の一時代を画した日本経済史学の先駆者、内田銀蔵は明治五年(一八七二) 正月二十五日、ここ千住仲町で江戸時代初期から続く川魚問屋の老舗「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれました。銀蔵は家業を継ぐ立場にありましたが幼少の頃から学問好きで、千寿小学校での成績も抜群でした。そして学問の道を熱望したため父親も許し、地方裁判所に願い出て弟善蔵に与兵衛の名跡を相続させ、学者の道に進みました。
明治二十二年、東京専門学校(後の早稲田大学)政治科に進学して経済学を学び、さらに東京大学文科大学国史科に進んで二十六年に卒業、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」を課題として大学院で研究し、学会誌『史学雑誌』に日本の古代・中世・近世における経済史関係の論文を次々と発表しました。これが認められて大学院卒業後は東京大学の講師となり、わが国最初の日本経済史を講義しました。経済史学の創始者と後々までも称えられる所以はここにあります。
三十五年十月、二十九歳の若さで文学博士となり、翌年一月には文部省の外国留学生として三年半の長きにわたりヨーロッパの歴史学・経済学を学び、その間、主著『日本近世史』を刊行しました。
また、海外留学中にもかかわらず広島高等師範の教授に任命され、帰国後は京都大学文科大学の教授も兼任して史学の道を切り開きました。史学といえば現在も京都大学が一目おかれるのは、銀蔵が築いた研究室の在り方が伝統になっているからだと言われています。かくして四十年五月、三十六歳の時、京都大学の専任教授となり、五年後には経済史のバイブル的存在『経済史総論』を刊行しています。
第一次世界大戦後の大正七年(一九一八)、欧米各国に出張して翌年帰国しましたが、間もなく発病し、七月二十日、四十七歳の若さで他界しました。 戒名は「文教院智顕日明居士」、墓は日ノ出町四ニノーの清亮寺墓地にあります。
なお、銀蔵は幼い日、生家の向かいにある橋本家で、稿本『自然真営道』の旧蔵書・橋本律蔵の薫陶を受けていたと言われ、銀蔵の死後、京都大学に寄贈された遺品資料の中からは、〇六年九月、調べる会の調査によって、安藤昌益の医学や自然哲学を受け継ぐ川村真斎の『老子解真斎先生草稿』や橋栄徳の『静谿謾筆』、橋本律蔵の『雑記』等といった貴重な資料が見出されました。
長いあいだ昌益研究史上の謎とされてきた、安藤昌益と千住宿を結ぶ医師たちの系譜が、他ならぬ内田銀蔵の仲介によって解明されつつあるのです。
二○○六年五月設置、二○○九年二月増補
安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」


※旧記事を削除して、こちらに移動しました。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 千住
掃部堤跡碑/源長寺(千住仲町)
○掃部堤跡碑 足立区千住仲町4-1
源長寺掃部宿門(東門)南辺りの墨堤通り歩道にあります。

(正面)「掃部堤跡」

(左) 「元和二年築堤」

(右) 「昭和四十九年十月 足立区」

○源長寺 足立区千住仲町4-1
日光街道と墨堤通りの源長寺前交差点に「源長寺」はあります。
源長寺は、慶長3(1598)年、この地を開拓した石出掃部亮吉胤が、郡代伊奈備前守忠次の法名にちなむ寺号を付して勧請開基とし、慶長15(1610)年に創建したといいます。
同寺号を持ち、関東郡代伊奈備前守忠次を開基とする赤山源長寺が川口市にあります(こちらで記載)。
<南門>
墨堤通り(旧掃部堤)に面して、南門があります。

(説明板)
「源長寺 千住仲町四−一
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(一五九八)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(一六一○)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている。
本尊は、阿弥陀如来である。
墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。
また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。
平成五年三月 東京都足立区教育委員会」

<石碑>
南門入って左手の石碑です。
(表)

(裏)

<山門>
旧日光街道に面して山門はあります。




仁王像は令和2(2020)年10月に新造されたものです。




<地蔵堂>
山門の外の北側に地蔵堂があり、「子育延命地蔵尊」が祀られています。

手水鉢は、「銭型手水鉢」です。水穴の四角を漢字の「口」として合わせて使います。すると「吾」「唯」「足」「知」の四つの漢字となります。「吾唯足るを知る」となります。

石標「掃部宿門 旧跡延命子育地蔵堂」



【参道左】
<馬頭観世音>
山門をくぐると左手(墨堤通り側)にニ基の馬頭観世音塔が並んでいます。両基とも正面に「馬頭観世音」と刻まれています。左は折れた跡があり、右は左側面に馬持中等の世話人が刻まれています。




<石碑>
読み切れませんが、増上寺八十四世明誉?

<大欅>
空襲で焼けたケヤキの切り株が筒状に残っています。


(説明板)
「大欅
文化文政年間この地帯に多く見られたが、昭和二十年戦火の為最後の一本を焼失、その残りがこの切り株である。」

<多坂梅里先生追悼碑>


(説明板)
「多坂梅里先生追悼碑
寺子屋の発祥は享保年中(一七一六〜三五)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。
碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居L、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法主て全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。
梅里先生は、天明九年(一七八九)九月二日没した。
平成四年三月 東京都足立区教育委員会」

<石碑>
多坂梅里先生追悼碑のうしろの石碑です。

<三輪塔>
さらに後ろの三輪塔です。

<女行者心静法尼碑>
心静法尼は、源長寺の孝誉上人の弟子で、大山阿夫利神社で修行を積み、大山の女行者として崇信されました。同法尼は明治3年に没し、その翌年明治4年に心静法尼碑は建てられました。


「大山阿夫利神社 知足庵寂誉心静法尼之碑」
台座の上に、大山阿夫利の行者、心静法尼の青石の碑「知足寂誉心静法尼」が建っています。



<三遊亭円朝寄進の石燈籠>
三遊亭円朝が咽喉を痛めて声が出なくなったのを、大山阿夫利女行者心静法尼の法力によって全快し、心静法尼塚の建立の際に報恩寄進した石燈籠です。


明治4年

「三遊亭圓長建之」と刻まれています。

【参道右】

<寿稲荷社>


<庚申塔>
参道右手の竹林に三基の庚申塔があります。

一番右(山門側)は、青面金剛像の庚申塔です。

中央は寛文4(1664)年銘の笠付角柱型阿弥陀如来坐像の庚申塔(足立区文化財)です。三猿は正面最下部、左右と一猿づつ陽刻されています。



一番左(本堂側)は、元禄9(1696)年銘の青面金剛像の庚申塔です。

<十三輪塔>

<不老門>
本堂の左下に「不老門」の石標があります。

<本堂>
扁額には「源長寺 増上寺八十三世 徹誉法道」とあります。




【墓地】
<石出掃部亮吉胤の墓> 足立区史跡



(説明板)
「石出掃部亮吉胤の墓
石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。その事績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に記されている。これによると、吉胤は千葉氏一族で、遠江国(静岡県)石出の出身とされる。のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(一五九ニ~九六)本木に移って土地開発をし、慶長三年(一五九八)には掃部宿に移住して開拓に当たったという。元和ニ年(一六一六)、鷹狩りに来訪した徳川家康にこの地に延長ニキロの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。
また『南足立郡誌』(大正五年版)には、大永ニ年(一五ニニ)に千葉日向守幸胤の長子として小田原に生まれたとある。北条氏家臣であったが、天正十八年(一五九○)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和四年六月二十ニ日に九十七歳(数え年)で没したと記述している。大正五年(一九一六)、従五位を追贈された。
石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長十五年に創建したが、伊奈備前守忠次に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。現在の墓石は、後年子孫が建立したものである。昭和五十八年十ニ月、足立区指定文化財記念物(史跡)とした。
平成十八年四月 足立区教育委員会」
一番左に「石出家の墓」

一番右に「石出家累世之墓」

一番右「石出家累世之墓」の左隣が「石出掃部亮吉胤の墓」です。



「石出掃部亮吉胤像」(掃部宿憩いのプチテラス掲示より抜粋)

<画家 弥寂庵鯉隠之墓>
建部巣兆の弟子、やっちゃ場の左可和鯉隠の墓です。どれだかわかりません。



<矢野和泉守正倫墓>
大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守正倫の墓です。標柱は、昭和38(1963)年の建立です。
(表)「史蹟 矢野和泉守正倫墓」
(裏)「大阪冬之役陣歿西軍部将当家祖也
昭和三十八年秋三百五十年忌建之 牧野家一門」




台石に載った三基の墓碑の中央が矢野和泉守正倫墓です。



右側面に「矢野和泉守正倫之墓」と刻まれています。

<永代供養塔>

源長寺掃部宿門(東門)南辺りの墨堤通り歩道にあります。

(正面)「掃部堤跡」

(左) 「元和二年築堤」

(右) 「昭和四十九年十月 足立区」

○源長寺 足立区千住仲町4-1
日光街道と墨堤通りの源長寺前交差点に「源長寺」はあります。
源長寺は、慶長3(1598)年、この地を開拓した石出掃部亮吉胤が、郡代伊奈備前守忠次の法名にちなむ寺号を付して勧請開基とし、慶長15(1610)年に創建したといいます。
同寺号を持ち、関東郡代伊奈備前守忠次を開基とする赤山源長寺が川口市にあります(こちらで記載)。
<南門>
墨堤通り(旧掃部堤)に面して、南門があります。

(説明板)
「源長寺 千住仲町四−一
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(一五九八)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(一六一○)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている。
本尊は、阿弥陀如来である。
墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。
また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。
平成五年三月 東京都足立区教育委員会」

<石碑>
南門入って左手の石碑です。
(表)

(裏)

<山門>
旧日光街道に面して山門はあります。




仁王像は令和2(2020)年10月に新造されたものです。




<地蔵堂>
山門の外の北側に地蔵堂があり、「子育延命地蔵尊」が祀られています。

手水鉢は、「銭型手水鉢」です。水穴の四角を漢字の「口」として合わせて使います。すると「吾」「唯」「足」「知」の四つの漢字となります。「吾唯足るを知る」となります。

石標「掃部宿門 旧跡延命子育地蔵堂」



【参道左】
<馬頭観世音>
山門をくぐると左手(墨堤通り側)にニ基の馬頭観世音塔が並んでいます。両基とも正面に「馬頭観世音」と刻まれています。左は折れた跡があり、右は左側面に馬持中等の世話人が刻まれています。




<石碑>
読み切れませんが、増上寺八十四世明誉?

<大欅>
空襲で焼けたケヤキの切り株が筒状に残っています。


(説明板)
「大欅
文化文政年間この地帯に多く見られたが、昭和二十年戦火の為最後の一本を焼失、その残りがこの切り株である。」

<多坂梅里先生追悼碑>


(説明板)
「多坂梅里先生追悼碑
寺子屋の発祥は享保年中(一七一六〜三五)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。
碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居L、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法主て全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。
梅里先生は、天明九年(一七八九)九月二日没した。
平成四年三月 東京都足立区教育委員会」

<石碑>
多坂梅里先生追悼碑のうしろの石碑です。

<三輪塔>
さらに後ろの三輪塔です。

<女行者心静法尼碑>
心静法尼は、源長寺の孝誉上人の弟子で、大山阿夫利神社で修行を積み、大山の女行者として崇信されました。同法尼は明治3年に没し、その翌年明治4年に心静法尼碑は建てられました。


「大山阿夫利神社 知足庵寂誉心静法尼之碑」
台座の上に、大山阿夫利の行者、心静法尼の青石の碑「知足寂誉心静法尼」が建っています。



<三遊亭円朝寄進の石燈籠>
三遊亭円朝が咽喉を痛めて声が出なくなったのを、大山阿夫利女行者心静法尼の法力によって全快し、心静法尼塚の建立の際に報恩寄進した石燈籠です。


明治4年

「三遊亭圓長建之」と刻まれています。

【参道右】

<寿稲荷社>


<庚申塔>
参道右手の竹林に三基の庚申塔があります。

一番右(山門側)は、青面金剛像の庚申塔です。

中央は寛文4(1664)年銘の笠付角柱型阿弥陀如来坐像の庚申塔(足立区文化財)です。三猿は正面最下部、左右と一猿づつ陽刻されています。



一番左(本堂側)は、元禄9(1696)年銘の青面金剛像の庚申塔です。

<十三輪塔>

<不老門>
本堂の左下に「不老門」の石標があります。

<本堂>
扁額には「源長寺 増上寺八十三世 徹誉法道」とあります。




【墓地】
<石出掃部亮吉胤の墓> 足立区史跡



(説明板)
「石出掃部亮吉胤の墓
石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。その事績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に記されている。これによると、吉胤は千葉氏一族で、遠江国(静岡県)石出の出身とされる。のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(一五九ニ~九六)本木に移って土地開発をし、慶長三年(一五九八)には掃部宿に移住して開拓に当たったという。元和ニ年(一六一六)、鷹狩りに来訪した徳川家康にこの地に延長ニキロの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。
また『南足立郡誌』(大正五年版)には、大永ニ年(一五ニニ)に千葉日向守幸胤の長子として小田原に生まれたとある。北条氏家臣であったが、天正十八年(一五九○)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和四年六月二十ニ日に九十七歳(数え年)で没したと記述している。大正五年(一九一六)、従五位を追贈された。
石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長十五年に創建したが、伊奈備前守忠次に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。現在の墓石は、後年子孫が建立したものである。昭和五十八年十ニ月、足立区指定文化財記念物(史跡)とした。
平成十八年四月 足立区教育委員会」
一番左に「石出家の墓」

一番右に「石出家累世之墓」

一番右「石出家累世之墓」の左隣が「石出掃部亮吉胤の墓」です。



「石出掃部亮吉胤像」(掃部宿憩いのプチテラス掲示より抜粋)

<画家 弥寂庵鯉隠之墓>
建部巣兆の弟子、やっちゃ場の左可和鯉隠の墓です。どれだかわかりません。



<矢野和泉守正倫墓>
大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守正倫の墓です。標柱は、昭和38(1963)年の建立です。
(表)「史蹟 矢野和泉守正倫墓」
(裏)「大阪冬之役陣歿西軍部将当家祖也
昭和三十八年秋三百五十年忌建之 牧野家一門」




台石に載った三基の墓碑の中央が矢野和泉守正倫墓です。



右側面に「矢野和泉守正倫之墓」と刻まれています。

<永代供養塔>


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