洗足池辨財天(厳嶋神社)
○洗足池辨財天(厳嶋神社) 大田区南千束2-13-1
洗足池の弁天島に鎮座している「洗足池辨弁財天(厳島神社)」です。弁天橋を渡ると、右手に鳥居と社殿があります。千束八幡神社の兼務社となっています。
弁天橋

鳥居正面

鳥居裏面

手水鉢

社殿

扁額

弁天島から洗足池光景

<由緒沿革>
「由緒沿革
創建の年代は、不祥なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多の人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月、洗足風到協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。」

○洗足池公園水生植物園
洗足池辨財天(厳嶋神社)のすぐ隣に、洗足池公園水生植物園があります。

洗足池の弁天島に鎮座している「洗足池辨弁財天(厳島神社)」です。弁天橋を渡ると、右手に鳥居と社殿があります。千束八幡神社の兼務社となっています。
弁天橋

鳥居正面

鳥居裏面

手水鉢

社殿

扁額

弁天島から洗足池光景

<由緒沿革>
「由緒沿革
創建の年代は、不祥なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多の人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月、洗足風到協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。」

○洗足池公園水生植物園
洗足池辨財天(厳嶋神社)のすぐ隣に、洗足池公園水生植物園があります。


tag : 千束
千束八幡神社(洗足池八幡宮)
○池月橋 大田区南千束2-14-5
名馬・池月の伝説から名付けられた池月橋が洗足池に架かっています。平成28年(2016)竣工の新しい橋です。



○新東京八名勝洗足池
昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定、その記念碑が建っています。
(参考)
【新東京八名勝】
池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
【新東京十六景】
雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園



○洗足池の詩碑
「昭和四十八年 存誠舎主人清超金子哲太郎」とあります。




○池月像
源頼朝の馬で、佐々木高綱に与えられ活躍した名馬・池月の銅像です。平家物語に登場します。




(銘板)
「名馬池月の由来
治承四年(一一八○年)源 頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。
或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕えて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを「池月」と命名し頼朝の乗馬とした。
寿永三年(一一八四年)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。
ここに名馬池月の銅像を造り、この名馬池月発生の伝承を永く後世に伝えようとするものである。
平成九年十月月吉日
洗足風致協会創立六十五周年記念
社団法人 洗足風致協会」


「池月発祥伝説の由来
池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
治承四年八月(一一八○)頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。
郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。
頼朝先に磨墨を得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝へて征旗を高く掲げ歎声やまざりしとか。
当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と稱するはこの故事による。寿永三年春(一一八四)頼朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川先陣争いである。
池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。
この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが、今はない。
遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。
尚磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。
氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年九月の祭日に奉納されてゐる。
池月の
蹄の音か
揆の冴え
平成四年三月 千束八幡神社
洗足風致協会」

<名馬池月絵馬>
拝殿脇に、巨大な絵馬が奉納されています。

「宇治川先陣」(歌川国芳 東京富士美術館蔵)
寿永3(1184)年1月、木曽義仲と、源頼朝が派遣した源範頼・源義経との間で行われた「宇治川の戦い」の様子が描かれています。

中央に頼朝より賜った名馬「池月」を駆る「佐々木四郎高綱」が波しぶきを上げながら岸に駆け上がり先陣を切っています。

右側後方には、高綱から馬の腹帯が緩んでいると声をかけられ出し抜かれた磨墨(するすみ)を駆る梶原源太景季の姿が見えます。 右側後方奥には、宇治川に先陣するも、渡河の途中で馬を射られた「畠山庄司重忠」が歩いている姿が見えます。

○千束八幡神社 大田区南千束2-23-10
承平5(935)年、平将門の乱の平定のため藤原忠方が鎮守副将軍として派遣され、乱を平定後、忠方は千束池の畔に館を構え、八幡宮を氏神として篤く祀ったと伝えられています。藤原忠方は池上家の祖とされ、9代目子孫が日蓮を身延から招請しています。
また、源義家がここで戦勝祈願を行ったと伝えられます。
そして、治承4(1180)年、源頼朝が安房より鎌倉へ向かう途次に当地に宿営、源頼朝の旗揚げの地との伝承があり「旗挙げ八幡」とも呼ばれ、「平家物語」に登場する名馬・池月の由来も伝わります。
江戸時代には城南の名勝として有名でした。正式名称は「千束八幡神社」ですが「洗足池八幡宮」と称されます。
<朱色鳥居>
洗足池に面して一之鳥居である朱色の両部鳥居が建っています。

<社号碑/石鳥居>
社号碑は「村社 八幡神社」。石鳥居の扁額は「八幡宮」



「御由緒
御祭神 品陀和気之命(應神天皇)
當社は千束八幡神社と稱し 平安前期の貞観二年豊前國宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の總鎮守としてこの巒上に創建せられ 今日に至る。
遠く千百余年の昔より この地の氏神として尊崇せられ 普く神徳を授けてこらる
承平五年 平将門の乱が起る 朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり 乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき 館が池の上手に当たるに依りて池上氏を呼稱 この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す 之池上康光なり
又八幡太郎義家奥羽征討の砌 この池にて禊を修し 社前に額つき戦勝祈願をなし出陣せりと伝えらる 源頼朝も亦鎌倉に上る途次 この地を過ぐるに八幡宮なるを知り 大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉 近郷より将兵集まりて 鎌倉に入る事を得 旗挙げ八幡の稱あり 名馬池月を得たるも此処に宿舎の折なりとの傳承あり
尚境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが 大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし。
古歌に『日が暮れて足もと暗き帰るさに空に映れる千束の松』と詠まれて居り 老松の偉容が想像されよう
斯の如く當八幡神社は城南屈指の古社にて亦名社なり。
宮司 恵良彰紀識」


<神楽殿>
左手に神楽殿。

<手水舎>
右手に手水舎。

<稲荷社>
手水舎の奥、右手に稲荷社。神狐としゃもじを持った道祖神。





<神明社>
手水舎の奥、左手に神明社。


<狛犬>
天保8(1837)年奉納の狛犬です。


<拝殿>



名馬・池月の伝説から名付けられた池月橋が洗足池に架かっています。平成28年(2016)竣工の新しい橋です。



○新東京八名勝洗足池
昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定、その記念碑が建っています。
(参考)
【新東京八名勝】
池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
【新東京十六景】
雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園



○洗足池の詩碑
「昭和四十八年 存誠舎主人清超金子哲太郎」とあります。




○池月像
源頼朝の馬で、佐々木高綱に与えられ活躍した名馬・池月の銅像です。平家物語に登場します。




(銘板)
「名馬池月の由来
治承四年(一一八○年)源 頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。
或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕えて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを「池月」と命名し頼朝の乗馬とした。
寿永三年(一一八四年)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。
ここに名馬池月の銅像を造り、この名馬池月発生の伝承を永く後世に伝えようとするものである。
平成九年十月月吉日
洗足風致協会創立六十五周年記念
社団法人 洗足風致協会」


「池月発祥伝説の由来
池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
治承四年八月(一一八○)頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。
郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。
頼朝先に磨墨を得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝へて征旗を高く掲げ歎声やまざりしとか。
当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と稱するはこの故事による。寿永三年春(一一八四)頼朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川先陣争いである。
池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。
この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが、今はない。
遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。
尚磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。
氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年九月の祭日に奉納されてゐる。
池月の
蹄の音か
揆の冴え
平成四年三月 千束八幡神社
洗足風致協会」

<名馬池月絵馬>
拝殿脇に、巨大な絵馬が奉納されています。

「宇治川先陣」(歌川国芳 東京富士美術館蔵)
寿永3(1184)年1月、木曽義仲と、源頼朝が派遣した源範頼・源義経との間で行われた「宇治川の戦い」の様子が描かれています。

中央に頼朝より賜った名馬「池月」を駆る「佐々木四郎高綱」が波しぶきを上げながら岸に駆け上がり先陣を切っています。

右側後方には、高綱から馬の腹帯が緩んでいると声をかけられ出し抜かれた磨墨(するすみ)を駆る梶原源太景季の姿が見えます。 右側後方奥には、宇治川に先陣するも、渡河の途中で馬を射られた「畠山庄司重忠」が歩いている姿が見えます。

○千束八幡神社 大田区南千束2-23-10
承平5(935)年、平将門の乱の平定のため藤原忠方が鎮守副将軍として派遣され、乱を平定後、忠方は千束池の畔に館を構え、八幡宮を氏神として篤く祀ったと伝えられています。藤原忠方は池上家の祖とされ、9代目子孫が日蓮を身延から招請しています。
また、源義家がここで戦勝祈願を行ったと伝えられます。
そして、治承4(1180)年、源頼朝が安房より鎌倉へ向かう途次に当地に宿営、源頼朝の旗揚げの地との伝承があり「旗挙げ八幡」とも呼ばれ、「平家物語」に登場する名馬・池月の由来も伝わります。
江戸時代には城南の名勝として有名でした。正式名称は「千束八幡神社」ですが「洗足池八幡宮」と称されます。
<朱色鳥居>
洗足池に面して一之鳥居である朱色の両部鳥居が建っています。

<社号碑/石鳥居>
社号碑は「村社 八幡神社」。石鳥居の扁額は「八幡宮」



「御由緒
御祭神 品陀和気之命(應神天皇)
當社は千束八幡神社と稱し 平安前期の貞観二年豊前國宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の總鎮守としてこの巒上に創建せられ 今日に至る。
遠く千百余年の昔より この地の氏神として尊崇せられ 普く神徳を授けてこらる
承平五年 平将門の乱が起る 朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり 乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき 館が池の上手に当たるに依りて池上氏を呼稱 この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す 之池上康光なり
又八幡太郎義家奥羽征討の砌 この池にて禊を修し 社前に額つき戦勝祈願をなし出陣せりと伝えらる 源頼朝も亦鎌倉に上る途次 この地を過ぐるに八幡宮なるを知り 大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉 近郷より将兵集まりて 鎌倉に入る事を得 旗挙げ八幡の稱あり 名馬池月を得たるも此処に宿舎の折なりとの傳承あり
尚境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが 大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし。
古歌に『日が暮れて足もと暗き帰るさに空に映れる千束の松』と詠まれて居り 老松の偉容が想像されよう
斯の如く當八幡神社は城南屈指の古社にて亦名社なり。
宮司 恵良彰紀識」


<神楽殿>
左手に神楽殿。

<手水舎>
右手に手水舎。

<稲荷社>
手水舎の奥、右手に稲荷社。神狐としゃもじを持った道祖神。





<神明社>
手水舎の奥、左手に神明社。


<狛犬>
天保8(1837)年奉納の狛犬です。


<拝殿>




西郷隆盛史跡 (洗足池公園)
○留魂祠 大田区南千束2-3洗足池公園
勝海舟によって、西郷隆盛を祀る留魂祠が建立されています。




<留魂祠>
(説明板)
「留魂祠
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由緒
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島に於いて子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六(一八八三)年、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一ー五ー九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。
南洲会」

「南洲西郷先生留魂祠手墨之碑」

「明治十六年九月 福田敬業書」


「西郷隆盛(南洲)留魂詩碑付近 案内板」


①西郷隆盛(南洲)留魂詩碑
勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を残すため、三回忌にあたる明治12年(1879)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。
内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されています。




朝蒙恩遇夕焚坑
人世浮沈似晦明
縦不回光葵向日
若無開運意推誠
洛陽知己皆為鬼
南嶼俘囚独竊生
生死何疑天付与
願留魂魄護皇城
獄中有感 南洲
朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人世の浮沈は晦明に似たり
縦ひ光を回らさざるも葵は日に向ふ
若し運を開く無きも意は誠を推さむ
洛陽の知己皆鬼と為り
南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何ぞ疑はむ天の附与なるを
願はくは魂魄を留めて皇城を護らむ
獄中感有り 南洲


②留魂祠
明治16年(1883)の西郷隆盛七回忌に際して、勝海舟から同志達に留魂詩碑の存在が明かせられると、彼らはその傍らに小祠を建てて「留魂祠」と名づけ西郷の霊を祀りました。詩碑と同じく大正2年に当地へ移設されたものです。

③南洲先生建碑記
留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建てたものです。留魂詩が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。
なお、④の追慕碑によると当地への運搬建設も群鶴が実施しています。





④勝海舟追慕碑
大正2年(1913)に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志により留魂祠が建てられたことが記されています。



⑤徳富蘇峰詩碑
昭和12年(1937)数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった徳富蘇峰(1863-1957)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。
大田区教育委員会事務局 文化財担当

「昭和十二年
堂々錦旆壓関東百万死
生談笑中群小不知天下
計千秋相對兩英雄
火國後學 蘇峯菅原正敬」



(参考)
「西郷隆盛像」(上野公園)
勝海舟によって、西郷隆盛を祀る留魂祠が建立されています。




<留魂祠>
(説明板)
「留魂祠
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由緒
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島に於いて子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六(一八八三)年、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一ー五ー九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。
南洲会」

「南洲西郷先生留魂祠手墨之碑」

「明治十六年九月 福田敬業書」


「西郷隆盛(南洲)留魂詩碑付近 案内板」


①西郷隆盛(南洲)留魂詩碑
勝海舟が、親交のあった西郷隆盛(南洲)の死をいたみ、詩とその筆跡を残すため、三回忌にあたる明治12年(1879)に自費で建てたものです。もとは葛飾区の浄光寺にあったものが、大正2年(1913)の荒川開削工事に伴い当地に移設されました。
内容は西郷が沖永良部島の獄中で作った七言律詩で、天皇に対する忠誠心が詠まれています。「願留魂魄護皇城」の文言から留魂詩と称されました。背面には勝の撰文で由来が記されています。




朝蒙恩遇夕焚坑
人世浮沈似晦明
縦不回光葵向日
若無開運意推誠
洛陽知己皆為鬼
南嶼俘囚独竊生
生死何疑天付与
願留魂魄護皇城
獄中有感 南洲
朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人世の浮沈は晦明に似たり
縦ひ光を回らさざるも葵は日に向ふ
若し運を開く無きも意は誠を推さむ
洛陽の知己皆鬼と為り
南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何ぞ疑はむ天の附与なるを
願はくは魂魄を留めて皇城を護らむ
獄中感有り 南洲


②留魂祠
明治16年(1883)の西郷隆盛七回忌に際して、勝海舟から同志達に留魂詩碑の存在が明かせられると、彼らはその傍らに小祠を建てて「留魂祠」と名づけ西郷の霊を祀りました。詩碑と同じく大正2年に当地へ移設されたものです。

③南洲先生建碑記
留魂詩碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建てたものです。留魂詩が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工群鶴の元から浄光寺に至る経緯が記されています。
なお、④の追慕碑によると当地への運搬建設も群鶴が実施しています。





④勝海舟追慕碑
大正2年(1913)に勝海舟門下生の富田鐡之助が記したもので、留魂詩碑が建立されてから現在地へ移設されるまでの経緯や、有志により留魂祠が建てられたことが記されています。



⑤徳富蘇峰詩碑
昭和12年(1937)数名の者が計画し、勝海舟門下生の1人であった徳富蘇峰(1863-1957)に詩を書いてもらい建てたものです。勝と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を称え、両雄を偲ぶ内容が刻まれています。この碑が完成した際に、隣接する清明文庫で記念講演が開かれており、その様子が写真で残されています。
大田区教育委員会事務局 文化財担当

「昭和十二年
堂々錦旆壓関東百万死
生談笑中群小不知天下
計千秋相對兩英雄
火國後學 蘇峯菅原正敬」



(参考)
「西郷隆盛像」(上野公園)
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
勝海舟墓所/海舟・隆盛の功績碑/勝海舟まとめ
○勝海舟夫妻墓所 大田区史跡
<勝海舟の墓入口>



(説明板)
「大田区文化財 勝海舟夫妻の墓
勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政六年(一八ニ三)江戸に生れる。幕臣として万延元年(一八六○)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(一八六八)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十ニ年(一八九九)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
千足村の別墅に 楓樹数株を植ゑて
うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも
秋はにしきを 織りいだすらむ
染めいづる 此の山かげの 紅葉は
残す心のにしきとも見よ(飛川歌集より)
昭和四十九年ニ月ニ日指定 大田区教育委員会」

<勝海舟夫妻墓所付近 案内板>

「①勝海舟夫妻墓所【大田区指定史跡】
勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、洗足軒と名づけました(今の大森第六小学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し、青山墓地に葬られましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。
当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました。」





「②水船(手水石)
勝海舟が亡くなった直後の明治32年(1899)6月に勝を慕う人々によって墓前に奉納されたものです。背面には嘉納治五郎、榎本武揚、津田真道、赤松則良ら著名な人々50余人の名が刻まれています。」




「③東京奠都七十周年記念碑
昭和14年(1939)、東京奠都70周年を記念して当時の東京市長小橋一太により建てられました。勝安房(海舟)と西郷隆盛の対話によって江戸が戦火を免れ、その結果東京として大いに発展出来たことを称えています。」
「勝海舟について
文政6年(1823)江戸に生まれ、諱は義邦、通称を麟太郎、後に安房または安芳と改め、海舟と号しました。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、後に軍艦奉行となるなど「日本海軍の生みの親」とも云われます。慶応4・明治元年(1868)には幕府側の代表として江戸無血開城に尽力しました。
維新後は海軍卿、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙せられます。徳川家存続のために奔走したり、西南戦争で逆賊扱いされた西郷隆盛の名誉回復に努めたほか、旧幕臣とその家族への援助にも励みました。また、漢詩や書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称されました。洗足池とその周辺の風光を愛し、「飛川歌集」には洗足軒にて詠まれた歌も掲載されています。
大田区教育委員会事務局 文化財担当」

(碑文)
「慶應三年十二月 王政古ニ復シ 翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ 三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム 城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及バントス 時ニ 勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ 時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ 十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ 四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ 都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ 江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ 爾来三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ 是レ一ニ隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ 今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ 當年兩雄ノ心事?潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ 茲ニ奠都七十年ニ際シ 兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顯彰シ永ク後昆ニ傳フ
昭和十四年四月 東京市長従三位勲一等小橋一太謹識」




【勝海舟 ゆかりの地】
○ 勝海舟生誕の地(両国)
○ 勝海舟像(吾妻橋)
○ 勝海舟胸像(本所)
○ 江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見の地(芝)
○ 勝海舟邸跡(赤坂)
○ 勝安房邸跡(勝海舟終焉の地)(赤坂)
○ 勝海舟展示品(赤坂)
○ 勝海舟・坂本龍馬の師弟像(赤坂)
○ 勝海舟別邸(洗足軒)跡(千束)
○ 勝海舟夫妻の墓(千束)
○ 勝海舟と安川町(日光市安川町)
【勝海舟関連】
○ 牛嶋神社(剣術の修行)
○ 弘福寺(座禅の修行)
○ 佐久間象山砲術塾跡(佐久間象山に入門)
○ 佐久間象山桜の賦の碑(門弟の勝海舟らが建立)
○ 赤坂氷川神社(命名の四合稲荷)
○ 軍艦操練所(教授方頭取に勝海舟)
○ 愛宕神社(勝と西郷の会談地)
○ 二峯先生之碑(勝海舟の篆額)
○ 品川神社(天地開闢碑)
○ 川越氷川神社(大鳥居扁額)
○ 白幡天神社(拝殿扁額)
○ 大久保一翁墓(多磨霊園勝海舟書の墓石)
○ 勝精墓(谷中)
<勝海舟像>(国立国会図書館蔵)




<勝海舟の墓入口>



(説明板)
「大田区文化財 勝海舟夫妻の墓
勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政六年(一八ニ三)江戸に生れる。幕臣として万延元年(一八六○)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(一八六八)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十ニ年(一八九九)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
千足村の別墅に 楓樹数株を植ゑて
うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも
秋はにしきを 織りいだすらむ
染めいづる 此の山かげの 紅葉は
残す心のにしきとも見よ(飛川歌集より)
昭和四十九年ニ月ニ日指定 大田区教育委員会」

<勝海舟夫妻墓所付近 案内板>

「①勝海舟夫妻墓所【大田区指定史跡】
勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、洗足軒と名づけました(今の大森第六小学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し、青山墓地に葬られましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。
当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました。」





「②水船(手水石)
勝海舟が亡くなった直後の明治32年(1899)6月に勝を慕う人々によって墓前に奉納されたものです。背面には嘉納治五郎、榎本武揚、津田真道、赤松則良ら著名な人々50余人の名が刻まれています。」




「③東京奠都七十周年記念碑
昭和14年(1939)、東京奠都70周年を記念して当時の東京市長小橋一太により建てられました。勝安房(海舟)と西郷隆盛の対話によって江戸が戦火を免れ、その結果東京として大いに発展出来たことを称えています。」
「勝海舟について
文政6年(1823)江戸に生まれ、諱は義邦、通称を麟太郎、後に安房または安芳と改め、海舟と号しました。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、後に軍艦奉行となるなど「日本海軍の生みの親」とも云われます。慶応4・明治元年(1868)には幕府側の代表として江戸無血開城に尽力しました。
維新後は海軍卿、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙せられます。徳川家存続のために奔走したり、西南戦争で逆賊扱いされた西郷隆盛の名誉回復に努めたほか、旧幕臣とその家族への援助にも励みました。また、漢詩や書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称されました。洗足池とその周辺の風光を愛し、「飛川歌集」には洗足軒にて詠まれた歌も掲載されています。
大田区教育委員会事務局 文化財担当」

(碑文)
「慶應三年十二月 王政古ニ復シ 翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ 三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム 城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及バントス 時ニ 勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ 時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ 十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ 四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ 都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ 江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ 爾来三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ 是レ一ニ隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ 今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ 當年兩雄ノ心事?潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ 茲ニ奠都七十年ニ際シ 兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顯彰シ永ク後昆ニ傳フ
昭和十四年四月 東京市長従三位勲一等小橋一太謹識」




【勝海舟 ゆかりの地】
○ 勝海舟生誕の地(両国)
○ 勝海舟像(吾妻橋)
○ 勝海舟胸像(本所)
○ 江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見の地(芝)
○ 勝海舟邸跡(赤坂)
○ 勝安房邸跡(勝海舟終焉の地)(赤坂)
○ 勝海舟展示品(赤坂)
○ 勝海舟・坂本龍馬の師弟像(赤坂)
○ 勝海舟別邸(洗足軒)跡(千束)
○ 勝海舟夫妻の墓(千束)
○ 勝海舟と安川町(日光市安川町)
【勝海舟関連】
○ 牛嶋神社(剣術の修行)
○ 弘福寺(座禅の修行)
○ 佐久間象山砲術塾跡(佐久間象山に入門)
○ 佐久間象山桜の賦の碑(門弟の勝海舟らが建立)
○ 赤坂氷川神社(命名の四合稲荷)
○ 軍艦操練所(教授方頭取に勝海舟)
○ 愛宕神社(勝と西郷の会談地)
○ 二峯先生之碑(勝海舟の篆額)
○ 品川神社(天地開闢碑)
○ 川越氷川神社(大鳥居扁額)
○ 白幡天神社(拝殿扁額)
○ 大久保一翁墓(多磨霊園勝海舟書の墓石)
○ 勝精墓(谷中)
<勝海舟像>(国立国会図書館蔵)




テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
妙福寺/日蓮聖人袈裟懸松
○妙福寺 大田区南千束2-2-7
<山門>
山門左手に、題目法塔があります。台座には「御松庵」とあります。
山門右手に「立正大師袈裟懸松之霊蹟」碑があります。



<日蓮聖人袈裟掛けの松 由来>
(説明板)
「日蓮聖人袈裟掛けの松 由来
弘安5年9月(1282年)日蓮聖人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍らの松に袈裟を掛け池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。
天保期(1830~1843年)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。
なお現在ある松は三代目であると伝えられる。
御松庵 社団法人 洗足風致協会」
「袈裟掛けの松は、この紋をくぐり奥に行き左側です→」

<御袈裟懸松>





<第六代目 御袈裟懸松>


<石塔>


<無縁塔群と石燈籠>


<日蓮上人像>
昭和54(1979)年10月建立。
「日蓮上人銅像建立の由来
牧野らくは 明治二十二年 千葉県東金市に生まれ 幼き頃より 孝心厚く 日蓮上人の偉大なる徳に感動し 太陽を崇め 先祖を尊び ニ○才頃より 霊感を授り修行する
昭和十ニ年五月 身延山参拝の帰路 御松庵に立ち寄り 冠水し おみくじを引き 八年間誰人にも授からなかった大吉1番を戴き感激にうたれ 神通力の妙を会得し 難行にもめげず 御題目を唱え続け 万病に苦しむ人々を 救済して 信仰を広める
七百年遠忌を目標として ここに 信者の皆様方の御協力を仰ぎ 九十一才にして 永年の念願を達成したものである
昭和五十四年十月吉日 牧野一子」


<本堂>

<馬頭観世音供養塔>





(説明板)
「大田区文化財 馬頭観世音供養塔
天保十一年(一八四○)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。
光背を付けた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北 堀ノ内碑文谷道」「東 江戸中延」「南 池上大師道」「西 丸子稲毛」というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。
この銘文から、元は中原街道と碑文谷~池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成一三年に現在地に移設された。
江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。
昭和四十九年ニ月ニ日指定 大田区教育委員会」

<題目宝塔/戦没死者英霊碑>



<洗足池碑>

<子育観音>

<小松稲荷>


<妙>
<山門>
山門左手に、題目法塔があります。台座には「御松庵」とあります。
山門右手に「立正大師袈裟懸松之霊蹟」碑があります。



<日蓮聖人袈裟掛けの松 由来>
(説明板)
「日蓮聖人袈裟掛けの松 由来
弘安5年9月(1282年)日蓮聖人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍らの松に袈裟を掛け池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。
天保期(1830~1843年)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。
なお現在ある松は三代目であると伝えられる。
御松庵 社団法人 洗足風致協会」
「袈裟掛けの松は、この紋をくぐり奥に行き左側です→」

<御袈裟懸松>





<第六代目 御袈裟懸松>


<石塔>


<無縁塔群と石燈籠>


<日蓮上人像>
昭和54(1979)年10月建立。
「日蓮上人銅像建立の由来
牧野らくは 明治二十二年 千葉県東金市に生まれ 幼き頃より 孝心厚く 日蓮上人の偉大なる徳に感動し 太陽を崇め 先祖を尊び ニ○才頃より 霊感を授り修行する
昭和十ニ年五月 身延山参拝の帰路 御松庵に立ち寄り 冠水し おみくじを引き 八年間誰人にも授からなかった大吉1番を戴き感激にうたれ 神通力の妙を会得し 難行にもめげず 御題目を唱え続け 万病に苦しむ人々を 救済して 信仰を広める
七百年遠忌を目標として ここに 信者の皆様方の御協力を仰ぎ 九十一才にして 永年の念願を達成したものである
昭和五十四年十月吉日 牧野一子」


<本堂>

<馬頭観世音供養塔>





(説明板)
「大田区文化財 馬頭観世音供養塔
天保十一年(一八四○)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。
光背を付けた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北 堀ノ内碑文谷道」「東 江戸中延」「南 池上大師道」「西 丸子稲毛」というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。
この銘文から、元は中原街道と碑文谷~池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成一三年に現在地に移設された。
江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。
昭和四十九年ニ月ニ日指定 大田区教育委員会」

<題目宝塔/戦没死者英霊碑>



<洗足池碑>

<子育観音>

<小松稲荷>


<妙>

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