日朗菩薩草庵之地・朗師坂/池上会館
○日朗菩薩草庵之地/朗師坂 大田区池上1-32
池上会館の庭に「日朗菩薩草庵之地」碑があり、その左手に「朗師坂」があります。日朗聖人は日連聖人御廟所へ、毎日この坂を上って参詣したといわれます。
「日朗菩薩草庵之地」
「池上第七十七世 日教書」とあるので、昭和の建碑です。

「史蹟 朗師坂
日朗聖人ガ三十九年ノ間日蓮大聖人ノ御墓所ヘ日日往復ナサレ給ヒシ坂ナリ」


○池上会館 大田区池上1-32-8
池上本門寺と隣接している大田区立のコミュニティセンターです。屋上庭園、展望台があります。エレベーターが屋上まで通じていて、本門寺境内と繋がっています。


<屋上庭園>



パブリックアート8点のうち、6点が屋上庭園に展示されています。


「浮くかたちー赤・垂 1996 植松奎二」


「馬込文化村 1996 藤原吉志子」


「空間 1996 ジャン=フランソワ・ブラン」
ドーナツ状のオブジェが柱の上につけられ3本並んでいます。



「浮遊する水芽 松田重仁」

「羽田の空に飛行機が飛んだ 1996 藤原吉志子」


「OTA 1996 木戸修」

「東京ーかたち 1996 フレ・イルゲン(オランダ)」
壁にあります。




「双 1996 湯村光」
1階にあります。



<展望台>
富士山が見えました。






池上会館の庭に「日朗菩薩草庵之地」碑があり、その左手に「朗師坂」があります。日朗聖人は日連聖人御廟所へ、毎日この坂を上って参詣したといわれます。
「日朗菩薩草庵之地」
「池上第七十七世 日教書」とあるので、昭和の建碑です。

「史蹟 朗師坂
日朗聖人ガ三十九年ノ間日蓮大聖人ノ御墓所ヘ日日往復ナサレ給ヒシ坂ナリ」


○池上会館 大田区池上1-32-8
池上本門寺と隣接している大田区立のコミュニティセンターです。屋上庭園、展望台があります。エレベーターが屋上まで通じていて、本門寺境内と繋がっています。


<屋上庭園>



パブリックアート8点のうち、6点が屋上庭園に展示されています。


「浮くかたちー赤・垂 1996 植松奎二」


「馬込文化村 1996 藤原吉志子」


「空間 1996 ジャン=フランソワ・ブラン」
ドーナツ状のオブジェが柱の上につけられ3本並んでいます。



「浮遊する水芽 松田重仁」

「羽田の空に飛行機が飛んだ 1996 藤原吉志子」


「OTA 1996 木戸修」

「東京ーかたち 1996 フレ・イルゲン(オランダ)」
壁にあります。




「双 1996 湯村光」
1階にあります。



<展望台>
富士山が見えました。







妙見堂
○妙見堂 大田区池上1-31-10 HP
<妙見堂参道>
「此経難持坂」上からも「妙見堂」への参道があり、こちらから行くと妙見堂の真裏に出ます。



<妙見坂>


(説明文)
「妙見坂(みょうけんざか)
『大日本名所図会』には「妙見堂、妙見坂の上にあり。妙見大菩薩を安置す。寛文四年甲辰七月紀伊頼宣卿の造立せし所なり。即ち照栄院の鎮守とす。」とあり坂名はこれに因む。また 照栄院には元禄期に南谷壇林が開設された。本門寺に寄進された妙見菩薩立像は、のちに壇林の守護鎮守として、坂上のお堂に移されたと伝えられる。
昭和五十九年三月 大田区」


<百度石>
大正8年銘の百度石が階段を上がった右手にあります。

<玄武燈籠>
天保6(1835)年銘の玄武燈籠両基です。
それぞれに、妙見菩薩の神使の玄武(亀蛇)が亀と蛇に分けて彫刻されています。
燈籠の円筒竿に巻きつく「蛇」、それを台石として支える「亀」です。
左の燈籠は瓶の頭がとれており、右の燈籠は蛇の頭がとれています。








<妙見堂>


(説明板)
「大田区文化財
妙見菩薩立像(非公開)
木造寄木造り、玉眼、彩色、箔押。像高四三センチ。
この像を安置する厨子扉に記された銘文から、寛文四年(一六六四)に、徳川家康の子で紀伊徳川藩の祖である頼宣の「現世安穏後世善処」を祈念して造像されたことがわかる。
像背に、当寺の本門寺貫主、日豊(一六○○〜一六六九)の開眼墨書銘がある。製作年代、由来等が明確な妙見像として貴重である。
頼宣の妻、瑤林院(加藤清正の娘)が、本門寺に寄進したもので、元禄期(一六八八〜一七○四)に、南谷檀林(僧侶の学校)が開校された際に、その守護の尊像として当院に移管されたものである。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」

<いぼとり地蔵祠>

<樹老人祠>

<シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑>

○妙見坂下
坂上と同じ標柱「妙見坂」があります。




○昭栄院 大田区池上1-31-10 HP
日朗聖人の庵室として開創。元禄2(1689)年に、池上本門寺の僧侶の学校「南谷檀林」が開設されました。山門の左横の道を進むと、妙見坂です。



<緒碑>
「厄除開運 妙見第菩薩」碑

「南谷壇林趾」碑

「日朗菩薩草庵跡」碑

<大田区文化財>
「南谷檀林「板頭寮」遺構(非公開)」

「南谷壇林諸堂の棟札(非公開)」

「古文書(照栄院文書)(非公開)」

「日朗聖人坐像(非公開)」

「三宝尊像(非公開)」

<本堂>
本堂の額は「朗慶山」です。


(説明板)
「照栄院 縁起
正応四年(一二九一)日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後荒廃したが、嘉吉年間(一四四一〜一四四四)に再興された。元禄二年(一六八九)南谷檀林という僧侶教育の学校を開設、明治二年(一八六九)に廃されるまで多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られる妙見菩薩立像は寛文四年(一六六四)加藤清正の娘瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して奉納したもの。」
<妙見堂参道>
「此経難持坂」上からも「妙見堂」への参道があり、こちらから行くと妙見堂の真裏に出ます。



<妙見坂>


(説明文)
「妙見坂(みょうけんざか)
『大日本名所図会』には「妙見堂、妙見坂の上にあり。妙見大菩薩を安置す。寛文四年甲辰七月紀伊頼宣卿の造立せし所なり。即ち照栄院の鎮守とす。」とあり坂名はこれに因む。また 照栄院には元禄期に南谷壇林が開設された。本門寺に寄進された妙見菩薩立像は、のちに壇林の守護鎮守として、坂上のお堂に移されたと伝えられる。
昭和五十九年三月 大田区」


<百度石>
大正8年銘の百度石が階段を上がった右手にあります。

<玄武燈籠>
天保6(1835)年銘の玄武燈籠両基です。
それぞれに、妙見菩薩の神使の玄武(亀蛇)が亀と蛇に分けて彫刻されています。
燈籠の円筒竿に巻きつく「蛇」、それを台石として支える「亀」です。
左の燈籠は瓶の頭がとれており、右の燈籠は蛇の頭がとれています。








<妙見堂>


(説明板)
「大田区文化財
妙見菩薩立像(非公開)
木造寄木造り、玉眼、彩色、箔押。像高四三センチ。
この像を安置する厨子扉に記された銘文から、寛文四年(一六六四)に、徳川家康の子で紀伊徳川藩の祖である頼宣の「現世安穏後世善処」を祈念して造像されたことがわかる。
像背に、当寺の本門寺貫主、日豊(一六○○〜一六六九)の開眼墨書銘がある。製作年代、由来等が明確な妙見像として貴重である。
頼宣の妻、瑤林院(加藤清正の娘)が、本門寺に寄進したもので、元禄期(一六八八〜一七○四)に、南谷檀林(僧侶の学校)が開校された際に、その守護の尊像として当院に移管されたものである。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」

<いぼとり地蔵祠>

<樹老人祠>

<シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑>

○妙見坂下
坂上と同じ標柱「妙見坂」があります。




○昭栄院 大田区池上1-31-10 HP
日朗聖人の庵室として開創。元禄2(1689)年に、池上本門寺の僧侶の学校「南谷檀林」が開設されました。山門の左横の道を進むと、妙見坂です。



<緒碑>
「厄除開運 妙見第菩薩」碑

「南谷壇林趾」碑

「日朗菩薩草庵跡」碑

<大田区文化財>
「南谷檀林「板頭寮」遺構(非公開)」

「南谷壇林諸堂の棟札(非公開)」

「古文書(照栄院文書)(非公開)」

「日朗聖人坐像(非公開)」

「三宝尊像(非公開)」

<本堂>
本堂の額は「朗慶山」です。


(説明板)
「照栄院 縁起
正応四年(一二九一)日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後荒廃したが、嘉吉年間(一四四一〜一四四四)に再興された。元禄二年(一六八九)南谷檀林という僧侶教育の学校を開設、明治二年(一八六九)に廃されるまで多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られる妙見菩薩立像は寛文四年(一六六四)加藤清正の娘瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して奉納したもの。」

万両塚/弥生住居跡/堤方権現台古墳
○万両塚(芳心院墓所)/弥生時代住居跡・堤方権現台古墳 大田区池上1-19-1 永寿院HP
芳心院(紀州徳川頼宣の娘、家康の孫)の墓は、二重の空堀に囲まれた墓地となっています。建造費が一万両に及んだことから「万両塚」と呼ばれています。
「江戸名所図会 本門寺」
「江戸名所図会 本門寺」から、万両塚部分の抜粋です。

<池上永寿院 万両塚>
「芳心院墓所
徳川家康の孫、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室、芳心院は、お墓をつくりました。」








(説明板)
「芳心院墓所
万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」は、徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。
宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。
万両塚をめぐる系図
永寿院と芳心院
祖母養珠院の仏縁で、永寿院に帰依していた芳心院は、息子永寿丸が多病であったため、本門寺の祖師に祈念し、もしつつがなく成長した時には出家させると願をかけた。この願はかなえられ永寿丸は立派に成長したが、その出家させるのを惜しみ、観成院日遥を猶子として、永寿丸の身代わりとなして、永寿院の住職とした。それ以前は蓮乗院という寺号であったが、芳心院より永寿院の寺号を賜った。
芳心院の親戚関係
徳川家康とお万の方の孫
紀州頼宣の娘、池田光仲の妻、
徳川光圀のいとこ、徳川吉宗の叔母」

「万両塚は 徳川家康と側室お万の方の孫
芳心院殿妙英日春大姉 の墓です。
万両塚とは 建設に一万両かかったという俗説から名づけられた俗称です。」

「外堀に水が湛えられていた形跡はなく、当初から空堀であったことがわかりました。
蛇よけに水が張られていたという話は伝説だと考えられます。」

<石門>
「石門
宝塔の門柱基礎と寸法が合わないため外堀の外に建てました。何度も加工を加えられたあとがあります。」


<芳心院の侍女たちの墓と供養塔>
「芳心院の侍女たちの墓と供養塔
信仰生活を共にしていた大名の正室と侍女たちの暮らしが偲ばれます。」


<歴代住職墓所>


○弥生時代住居跡/堤方権現台古墳
万両塚調査の際に弥生時代の集落跡が発見され、そのレプリカと、堤方権現台古墳(復元)があります。
<弥生時代の集落跡>





「弥生時代 池上の山の上には大きな集落がありました」

「江戸時代 万両塚を築くとき住居跡半分が壊れました」

「いのちの営みを伝えるために住居跡は再生されました」

(説明板)
「万両塚調査の過程で、約二千年前の弥生時代の住居跡が十棟以上発見されました。
それらは時間的なズレがあり、かなり長い期間この地に集落が存在していたことがわかります。
その中の一棟、江戸時代に万両塚を築くときに半分壊れた住居跡を、歴史が重層する貴重な遺跡として現位置に再生保存をしました。
また、住居跡からは完全な形に近い土器が数多く発掘されました。
発掘された土器は弥生時代後期のもので、櫛描文や縄文が描かれています。土器の表面に焼け焦げたあとがあるものもあり、火災にあったためだと考えられます。
池上の古代の記憶が、足元からよみがえりました。」

<堤方権現台古墳>


(説明板)
「6世紀前半に築かれた古墳。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』にこの地にあった熊野神社後方の塚から「古刀古器」が出土したという記述があり、古墳であることは推定されていました。
万両塚周辺調査の際、古墳の周濠・埴輪・須恵器・土器が出土。平成19年には本格的調査を行ない、馬具一式・木製の鞘に収められた鉄製直刀・鉄鏃を取り付けた矢が数十本等の副葬品が出土。さらに、刀の脇の土の部分に白いしみのようなものがあり、骨盤から下の下半身の骨格であることが確認されました。全体で4mほどの木棺に副葬品とともに納められていたことが想像されます。
なお、昭和7年に住宅が建てるために整地した際に、古墳の主体部ごと上半身が削りとられたではないかと考えられています。」

<復元地層トレンチ>


<復元弥生住居跡>
古墳の歴史が掲示されています。





芳心院(紀州徳川頼宣の娘、家康の孫)の墓は、二重の空堀に囲まれた墓地となっています。建造費が一万両に及んだことから「万両塚」と呼ばれています。
「江戸名所図会 本門寺」
「江戸名所図会 本門寺」から、万両塚部分の抜粋です。

<池上永寿院 万両塚>
「芳心院墓所
徳川家康の孫、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室、芳心院は、お墓をつくりました。」








(説明板)
「芳心院墓所
万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」は、徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。
宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。
万両塚をめぐる系図
永寿院と芳心院
祖母養珠院の仏縁で、永寿院に帰依していた芳心院は、息子永寿丸が多病であったため、本門寺の祖師に祈念し、もしつつがなく成長した時には出家させると願をかけた。この願はかなえられ永寿丸は立派に成長したが、その出家させるのを惜しみ、観成院日遥を猶子として、永寿丸の身代わりとなして、永寿院の住職とした。それ以前は蓮乗院という寺号であったが、芳心院より永寿院の寺号を賜った。
芳心院の親戚関係
徳川家康とお万の方の孫
紀州頼宣の娘、池田光仲の妻、
徳川光圀のいとこ、徳川吉宗の叔母」

「万両塚は 徳川家康と側室お万の方の孫
芳心院殿妙英日春大姉 の墓です。
万両塚とは 建設に一万両かかったという俗説から名づけられた俗称です。」

「外堀に水が湛えられていた形跡はなく、当初から空堀であったことがわかりました。
蛇よけに水が張られていたという話は伝説だと考えられます。」

<石門>
「石門
宝塔の門柱基礎と寸法が合わないため外堀の外に建てました。何度も加工を加えられたあとがあります。」


<芳心院の侍女たちの墓と供養塔>
「芳心院の侍女たちの墓と供養塔
信仰生活を共にしていた大名の正室と侍女たちの暮らしが偲ばれます。」


<歴代住職墓所>


○弥生時代住居跡/堤方権現台古墳
万両塚調査の際に弥生時代の集落跡が発見され、そのレプリカと、堤方権現台古墳(復元)があります。
<弥生時代の集落跡>





「弥生時代 池上の山の上には大きな集落がありました」

「江戸時代 万両塚を築くとき住居跡半分が壊れました」

「いのちの営みを伝えるために住居跡は再生されました」

(説明板)
「万両塚調査の過程で、約二千年前の弥生時代の住居跡が十棟以上発見されました。
それらは時間的なズレがあり、かなり長い期間この地に集落が存在していたことがわかります。
その中の一棟、江戸時代に万両塚を築くときに半分壊れた住居跡を、歴史が重層する貴重な遺跡として現位置に再生保存をしました。
また、住居跡からは完全な形に近い土器が数多く発掘されました。
発掘された土器は弥生時代後期のもので、櫛描文や縄文が描かれています。土器の表面に焼け焦げたあとがあるものもあり、火災にあったためだと考えられます。
池上の古代の記憶が、足元からよみがえりました。」

<堤方権現台古墳>


(説明板)
「6世紀前半に築かれた古墳。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』にこの地にあった熊野神社後方の塚から「古刀古器」が出土したという記述があり、古墳であることは推定されていました。
万両塚周辺調査の際、古墳の周濠・埴輪・須恵器・土器が出土。平成19年には本格的調査を行ない、馬具一式・木製の鞘に収められた鉄製直刀・鉄鏃を取り付けた矢が数十本等の副葬品が出土。さらに、刀の脇の土の部分に白いしみのようなものがあり、骨盤から下の下半身の骨格であることが確認されました。全体で4mほどの木棺に副葬品とともに納められていたことが想像されます。
なお、昭和7年に住宅が建てるために整地した際に、古墳の主体部ごと上半身が削りとられたではないかと考えられています。」

<復元地層トレンチ>


<復元弥生住居跡>
古墳の歴史が掲示されています。





池上本門寺 五重塔周辺の墓域
【池上本門寺五重塔周辺の墓域】
○前田利家室の層塔 大田区文化財



江戸名所図会にも層塔が見えます。

(説明板)
「大田区文化財
前田利家室の層塔
この塔は、前田利家の側室、寿福院が、元和八年(一六二二)に、自身の逆修供養のために建てた十一重の層塔である。このことは当寺十五世(復歴)日樹の銘文でわかる。
寿福院は、第三代加賀藩主、利常の生母で、豊臣秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために、江戸に差し出され、人質となった。
現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋の反り具合から見て様式的に古い形を示し、注目される。
なお天保四年(一八三三)の修復銘もある。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」

○加藤清正室の層塔 大田区文化財



(説明板)
「大田区文化財
加藤清正室の層塔
この塔は、江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔である。現在では相輪も失われ、八層を残すのみとなっている。初層塔身の銘文によれば、寛永三年(一六二六)に、十一層の石塔として建てられた。
加藤清正(一五六二〜一六一一)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(一六○一〜五三)の母である正応院が、生前に自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るという逆修供養のために建てたものである。本門寺一五代日樹が開眼している。
初層の塔身に追刻されている慶安三年(一六五○)の銘は、正応院の命日である。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」

○水難死者供養塔
「南無妙法蓮華経 各國 水難死者供養塔」
「昭和八年九月」



○オナイダ号紀念碑
正面「IN MEMORY」から始まる英文銘が刻まれた紀念碑です。明治3(1870)年1月24日に観音崎沖で沈没したアメリカ軍艦オナイダ号を 明治22(1889)に引き揚げた際に、発見・回収された遺骨の供養碑として造立されました。


○池上の杜
池上の杜は、ペット供養墓です。入口には、鳩2羽と猫と犬のモニュメントがあります。明治25(1892)年銘の「鳥獣魚虫法界万霊供養塔」を平成29(2017)年に移設・復興しています。





「鳥獣魚蟲法界萬霊供養塔」
「明治廿五年十月」





○幸田家の墓所


「幸田露伴の墓」
左「露伴幸田成行墓」、右「幸田幾美子之墓」です。


「幸田露伴の肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)


「幸田文の墓」
幸田文(こうだあや)は、幸田露伴の次女で随筆家、小説家。明治37(1904)年9月1日〜平成2(1990)年10月31日

「幸田文の肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)



「幸田延の墓」
幸田延(こうだのぶ)は、幸田露伴の妹で音楽家。明治3(1870)年〜昭和21(1946)年。

「幸田延先生記念碑」
左に、幸田延の作曲した「天」の楽譜と、右に、歌詞が刻まれています。



○佐伯矩博士顕彰碑
本門寺公園入口脇に「佐伯矩博士顕彰碑」があります。
「栄養学の父」
佐伯矩博士顕彰碑」



「佐伯矩博士略年譜」


○木挽町狩野家の墓 東京都史跡 大田区池上1-1-35
木挽町狩野家の墓です。三基ともシンプルな亀趺の墓です。

手前、奥左、右へ。
・狩野晴川院養信 弘化3(1846)年 「晴川院殿會心齋 法印養信日叡大居士」
右隣りにあるのは養信の筆塚です。


・如川周信 享保13(1728)年 「晃曜院法眼周信靆雲日洽大居士」


・養朴常信 正徳3(1713)年 「常心院古川道雲日觀大居士」


○熊本藩細川家墓所


○於須磨の方の墓
於須磨の方(深徳院)は、八代将軍徳川吉宗が紀州藩主の頃の側室で、九代将軍徳川家重の生母です。

○高松藩6代藩主松平頼真正室「永昌院 薫姫」墓

○児玉誉士夫の墓
一画には「釣人の主を思ふ夕時雨」という安都子の句碑が建っています。

○大野伴睦の墓
虎の像は、大野伴睦の虎のコレクションの一つ。




○力動山の墓所
力道山の墓所への案内板が随所に出ています。

「力道山之像」




「力道山之碑 児玉誉志夫書」

(碑文)
「力道山先生名は百田光浩 九州大村の産 幼にして角界を志し 関脇に栄進せるも 一九五一年プロレス界に転身 爾来研鑚鍛錬 又多くの門弟を養成 後進の道を拓き 斯界の始祖と奈り隆盛を斎す 一九六二年WWA世界選手権を獲得名声世界に洽きも 昨年末不慮の災に遭い急逝 時三十九才 一周忌に際し 門弟一同碑を献納 謝恩の意を捧げつゝ不滅の遺業を讃う
一九六四年十二月十五日 建立」」



「大光院力道日源居士」

○前田利家室の層塔 大田区文化財



江戸名所図会にも層塔が見えます。

(説明板)
「大田区文化財
前田利家室の層塔
この塔は、前田利家の側室、寿福院が、元和八年(一六二二)に、自身の逆修供養のために建てた十一重の層塔である。このことは当寺十五世(復歴)日樹の銘文でわかる。
寿福院は、第三代加賀藩主、利常の生母で、豊臣秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために、江戸に差し出され、人質となった。
現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋の反り具合から見て様式的に古い形を示し、注目される。
なお天保四年(一八三三)の修復銘もある。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」

○加藤清正室の層塔 大田区文化財



(説明板)
「大田区文化財
加藤清正室の層塔
この塔は、江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔である。現在では相輪も失われ、八層を残すのみとなっている。初層塔身の銘文によれば、寛永三年(一六二六)に、十一層の石塔として建てられた。
加藤清正(一五六二〜一六一一)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(一六○一〜五三)の母である正応院が、生前に自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るという逆修供養のために建てたものである。本門寺一五代日樹が開眼している。
初層の塔身に追刻されている慶安三年(一六五○)の銘は、正応院の命日である。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」

○水難死者供養塔
「南無妙法蓮華経 各國 水難死者供養塔」
「昭和八年九月」



○オナイダ号紀念碑
正面「IN MEMORY」から始まる英文銘が刻まれた紀念碑です。明治3(1870)年1月24日に観音崎沖で沈没したアメリカ軍艦オナイダ号を 明治22(1889)に引き揚げた際に、発見・回収された遺骨の供養碑として造立されました。


○池上の杜
池上の杜は、ペット供養墓です。入口には、鳩2羽と猫と犬のモニュメントがあります。明治25(1892)年銘の「鳥獣魚虫法界万霊供養塔」を平成29(2017)年に移設・復興しています。





「鳥獣魚蟲法界萬霊供養塔」
「明治廿五年十月」





○幸田家の墓所


「幸田露伴の墓」
左「露伴幸田成行墓」、右「幸田幾美子之墓」です。


「幸田露伴の肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)


「幸田文の墓」
幸田文(こうだあや)は、幸田露伴の次女で随筆家、小説家。明治37(1904)年9月1日〜平成2(1990)年10月31日

「幸田文の肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)



「幸田延の墓」
幸田延(こうだのぶ)は、幸田露伴の妹で音楽家。明治3(1870)年〜昭和21(1946)年。

「幸田延先生記念碑」
左に、幸田延の作曲した「天」の楽譜と、右に、歌詞が刻まれています。



○佐伯矩博士顕彰碑
本門寺公園入口脇に「佐伯矩博士顕彰碑」があります。
「栄養学の父」
佐伯矩博士顕彰碑」



「佐伯矩博士略年譜」


○木挽町狩野家の墓 東京都史跡 大田区池上1-1-35
木挽町狩野家の墓です。三基ともシンプルな亀趺の墓です。

手前、奥左、右へ。
・狩野晴川院養信 弘化3(1846)年 「晴川院殿會心齋 法印養信日叡大居士」
右隣りにあるのは養信の筆塚です。


・如川周信 享保13(1728)年 「晃曜院法眼周信靆雲日洽大居士」


・養朴常信 正徳3(1713)年 「常心院古川道雲日觀大居士」


○熊本藩細川家墓所


○於須磨の方の墓
於須磨の方(深徳院)は、八代将軍徳川吉宗が紀州藩主の頃の側室で、九代将軍徳川家重の生母です。

○高松藩6代藩主松平頼真正室「永昌院 薫姫」墓

○児玉誉士夫の墓
一画には「釣人の主を思ふ夕時雨」という安都子の句碑が建っています。

○大野伴睦の墓
虎の像は、大野伴睦の虎のコレクションの一つ。




○力動山の墓所
力道山の墓所への案内板が随所に出ています。

「力道山之像」




「力道山之碑 児玉誉志夫書」

(碑文)
「力道山先生名は百田光浩 九州大村の産 幼にして角界を志し 関脇に栄進せるも 一九五一年プロレス界に転身 爾来研鑚鍛錬 又多くの門弟を養成 後進の道を拓き 斯界の始祖と奈り隆盛を斎す 一九六二年WWA世界選手権を獲得名声世界に洽きも 昨年末不慮の災に遭い急逝 時三十九才 一周忌に際し 門弟一同碑を献納 謝恩の意を捧げつゝ不滅の遺業を讃う
一九六四年十二月十五日 建立」」



「大光院力道日源居士」


日蓮聖人御廟所/歴代御墓所/池上宗仲夫婦墓
○日蓮聖人御廟所 大田区池上1-2
<御廟参道>
本門寺本殿の脇に「御廟参道」はあります。参道突き当り右手に十三重石塔があります。



<御廟所>
中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安5(1282)年の御灰骨を奉安する墓塔が祀られています。左廟屋内に第二祖日朗聖人(元応2(1320)年)、右廟屋内に第三祖日輪聖人(延文4(1359)年)の墓塔が祀られています。




<御廟所配置図>




<日朗聖人墓塔> 大田区文化財

(説明板)
「大田区文化財 日朗聖人墓塔
安山岩製。石造宝塔。高さ一六○センチ(失われているは反花座を補うと推定一九○センチ)。
池上本願寺二世日朗の墓塔であり、塔身正面に一塔両導(中央に題目、その左右に釈迦如来と多宝如来)を刻み、基部背面には日朗聖人の没年(元応二年・一三二○)や造立願主の名等が刻まれている。
表面の剥離や損傷のため銘文は判読しにくいが、塔の形式から室町時代(十五世紀中頃)に造立されたものと推定される。この形式の宝塔は、当時、南関東の日蓮宗寺院において多く造立されているが、その中でも特に大きいものとして注目される。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」

○歴代聖人御墓所 大田区池上2-1
第四世日山聖人以降の歴代貫首の墓です。



<江戸名所図会>
石垣の上に石塔三基が見えるのが「日蓮上人廟所」で、現在はこの場所にはありません。右の囲いの中に石塔二基が並んでいるのが池上右衛門太夫宗仲夫婦墓です。現在はその右手が、第四世日山聖人以後の歴代貫首の墓所となっています。


○池上右衛門太夫宗仲夫婦墓 大田区池上2-1
開基檀越の池上宗仲公夫妻の墓塔が祀られています。左が宗仲公、右が妻の五輪塔です。







<池上宗仲夫妻像>

<池上家之墓>
「池上右衛門太夫宗仲夫婦墓」の左隣りには「池上家之墓」があります。江戸名所図会の挿絵によると、「日蓮上人廟所」だった場所のようです。ここから「宗祖御入滅霊跡 此坂下」の道標に従って石階段を下ると、大坊本行寺の裏門に出ます。


<御廟参道>
本門寺本殿の脇に「御廟参道」はあります。参道突き当り右手に十三重石塔があります。



<御廟所>
中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安5(1282)年の御灰骨を奉安する墓塔が祀られています。左廟屋内に第二祖日朗聖人(元応2(1320)年)、右廟屋内に第三祖日輪聖人(延文4(1359)年)の墓塔が祀られています。




<御廟所配置図>




<日朗聖人墓塔> 大田区文化財

(説明板)
「大田区文化財 日朗聖人墓塔
安山岩製。石造宝塔。高さ一六○センチ(失われているは反花座を補うと推定一九○センチ)。
池上本願寺二世日朗の墓塔であり、塔身正面に一塔両導(中央に題目、その左右に釈迦如来と多宝如来)を刻み、基部背面には日朗聖人の没年(元応二年・一三二○)や造立願主の名等が刻まれている。
表面の剥離や損傷のため銘文は判読しにくいが、塔の形式から室町時代(十五世紀中頃)に造立されたものと推定される。この形式の宝塔は、当時、南関東の日蓮宗寺院において多く造立されているが、その中でも特に大きいものとして注目される。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」

○歴代聖人御墓所 大田区池上2-1
第四世日山聖人以降の歴代貫首の墓です。



<江戸名所図会>
石垣の上に石塔三基が見えるのが「日蓮上人廟所」で、現在はこの場所にはありません。右の囲いの中に石塔二基が並んでいるのが池上右衛門太夫宗仲夫婦墓です。現在はその右手が、第四世日山聖人以後の歴代貫首の墓所となっています。


○池上右衛門太夫宗仲夫婦墓 大田区池上2-1
開基檀越の池上宗仲公夫妻の墓塔が祀られています。左が宗仲公、右が妻の五輪塔です。







<池上宗仲夫妻像>

<池上家之墓>
「池上右衛門太夫宗仲夫婦墓」の左隣りには「池上家之墓」があります。江戸名所図会の挿絵によると、「日蓮上人廟所」だった場所のようです。ここから「宗祖御入滅霊跡 此坂下」の道標に従って石階段を下ると、大坊本行寺の裏門に出ます。



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