成子子育地蔵尊

○成子子育地蔵尊 新宿区西新宿6-10-2

 青梅街道の成子天神下交差点の角にあります。

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(説明板)
「成子子育地蔵尊概要
 成子子育地蔵尊は、享保十二年(一七二七年)に成子坂に北面して建立、その後天保年間に再建、以来二百数十年霊験あらたかに其の名も高く近郷近在の崇敬の対象となっていましたが、昭和二十年不幸にも戦災の為壊滅の悲運にあわれました。
 しかし、昭和二十六年(一九五一年)十一月十四日有志の協賛を得て、現在の慈悲深く温和な尊容のお像と木造のお堂が再建されました。爾来五十余年、子宝祈願や家内安全を願う近隣庶民の拠り所となって参りました。
 昭和四十六年頃よりこの一帯は超高層ビル街に生まれ変わり、平成十四年当地区も西新宿六丁目再開発地域として一新し、それを機にお堂も不燃化造りに建て替えられて安置され、入魂法要が執り行われました。
  平成十四年七月十八日」


<成子地蔵尊伝説>

温故知しん!じゅく散歩 成子地蔵尊」より引用
「青梅街道に面して建つこの地蔵尊には次のような悲しい伝説がある。ひとり息子を江戸に奉公に出していた百姓が、盆に帰ってくる息子を迎える支度が何も無いことに気づき、青梅街道を通る旅人を夕闇にまぎれて殺し財布を奪った。ところが帰宅して財布を開けると、それはかつて息子に持たせた財布とわかった。間違えて息子を殺してしまった百姓は、悲しみのあまり自殺し、村人は供養のため地蔵を建てたという。」

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旧淀橋浄水場六角堂(新宿中央公園)

○旧淀橋浄水場六角堂 新宿区西新宿2-11 新宿中央公園

<六角堂>

 六角堂は、旧淀橋浄水場の洋風四阿で、富士見台と呼ばれる築山上にあります。富士見台は沈澄池増設工事に際して出た残土を利用して造られました。六角堂の通路の飛び石は、浄水池の壁に使われていた明治30年頃の古いレンガが再利用されています。新宿区地域文化財に認定されています。

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(説明板)
「旧淀橋浄水場六角堂  新宿区立新宿中央公園
 六角堂は、旧淀橋浄水場の洋風四阿で、階段を上がった先にある富士見台と呼ばれる築山上にあります。建てられた時期は、明治39年から昭和2年の間と考えられています。公園整備の際に、当時の地盤をそのまま残し、浄水場時代の記念物として保存しました。今では、浄水場があった当時の施設等はほとんど無くなり、この六角堂は現存する貴重な施設であることから、平成25年3月に新宿区の「地域文化財」に認定されました。
(※地域文化財・・・地域の身近な文化財や近現代の文化財を対象としたもので平成23年4月から始まった新たな文化財制度です。)
 六角堂の足元にはレンガを用いた飛び石があります。これは淀橋浄水場に使われていたレンガを再利用したものです。
 当時淀橋浄水場を訪れた見学者は、ここから眺めながら説明を受けたり、休憩していました。
 浄水場から副都心へ
 東京の多くの家庭にきれいな水を提供し続けた淀橋浄水場は新宿副都心計画の中で移転が決まり、昭和40年、60年以上にわたる歴史に幕を閉じました。跡地には現在、新宿中央公園や日本屈指の高層ビル群が立ち並んでいます。」

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<富士見台>

 現在は、ビルに遮られて、富士山は見えません。

(碑文)
「富士見台
 この丘は公園の最高所(標高 東京湾中等潮位+45米)で はるか西空に秀嶺富士を仰ぐ展望台である
 なお ここにある六角堂は淀橋浄水場時代のものを補修してそのまま残した
 また通路の飛び石は浄水池の壁に使われていた明治30年頃の古い煉瓦である」

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○淀橋浄水場(東京都水道歴史館掲示)

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写真工業発祥の地(六桜社跡)

○写真工業発祥の地(六桜社跡) 新宿区西新宿2-11 新宿中央公園

 国産初のカラーフィルムを作った小西六写真工業(現コニカミノルタ)が、明治35(1902)年から昭和38(1963)年まで操業した工場の跡地です。小西六写真工業は、明治35年5月に淀橋町に移転し、「六桜社」と改称しています。玉川上水助水堀から良質な水を得られる当地に移転したのは、写真感光材料の国産化を目指してのことでした。新宿区地域文化財第3号に認定されています。

【新宿ミニ博物館(十ニ社熊野神社の文化財)】に以下の説明文があり、寄りました。新宿中央公園は、以前に「久遠の像」(こちらで記載)を見に来ましたが、それ以来です。
⑥熊野神社南側、旧小西六工場付近の滝
 熊野神社の南東側には、明治35年から昭和38年(1902〜1963)まで、この地の良質で豊富な水を使い、小西六写真工業(サクラフィルム)の工場が操業していました(写真工業発祥の地として説明板あり)。この工場のあたりにも滝があったと言われています。

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(プレート)
「地域文化財
 第3号
 六桜社跡
 明治35年〜昭和38年の間操業していた、
 六桜社(現コニカミノルタ)の写真感光材
 製造工場の跡である。 新宿区」

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(標柱)
「写真工業発祥の地
 この地は、 明治三十五年五月、小西本店(現・コニカミノルタ)が, 写真感光材料の国産化を図り、 研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラの製造も始め、写真フィルムの国産化にも成功した。その後、昭和三十八年、新宿副都心建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎は、この地で
築かれたものである。
  昭和五十八年五月一日  新宿区設置」

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<新宿中央公園 ご案内>

 案内板にも「写真工業発祥地記念碑」と記されています。

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tag : 新宿

新宿十ニ社熊野神社

○新宿十ニ社熊野神社 新宿区西新宿2-11-2 HP

<表参道/社号標>

 十ニ社通り沿いに社号標と表参道があります。
 右手に説明板「新宿ミニ博物館 十二社熊野神社の文化財」があります。

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<鳥居>

 坂を上ると左手に平成6(1994)年に建てられた鳥居があります。

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<階段参道>

 十二社通り沿いの階段参道にも平成6(1994)年に建てられた鳥居があります。

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<東神門>

 東の新宿中央公園側に、神門と社号標があります。

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 東京都庁が見えます。

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<十二社碑など>

 表参道鳥居右手に「十二社碑」などがあります。


「十弐社碑」 新宿区史跡

 嘉永4(1851)年の建立「十弐社碑」です。江戸時代の十二社(現新宿中央公園周辺)は、大池や滝のある景勝地として知られ、文人墨客も多数訪れました。
 十弐社碑は儒学者寺門静軒(1796〜1868)と中野宝仙寺の僧侶負笈道人の撰文により、景勝池十二社の様子を称えた記念碑です。書は日本書堂中川憲齋(1791〜1867)によるもので、表面に紹介文、裏面には負笈道人の履歴等が刻まれています。

(説明板)
「熊野神社の文化財①
 新宿区指定史跡 十二社の碑
   指定年月日 昭和五十九年十一月ニ日
 ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永四年(一八五一)三月に建てられました。
 高さ二一〇cm、幅一一九cm。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』の著者寺門静軒と中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、西郊の名所として有名になった十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は二六二字あります。
 また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は二八六字に及びます。
 なお、書は中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。」

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「熊野神社纏石碑」

 十二社碑と並んで「纏石碑」が建っています。江戸消防第九区による平成7(1995)年5月の建立です。10種の纏の絵が刻まれています。

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「御即位記念神楽殿改築碑」

 十二社碑の後にある碑で、大正4(1915)年9月の建立です。

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「昭和三年御大典記念」

 淀橋町青年団による昭和7(1932)年の建立です。侍従武官長陸軍大将奈良武次の書。新宿駅南口の陸橋脇からの移設です。

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「神徳日進道自通碑」

 神楽殿改築碑の後ろ右手にある碑で、明治40(1907)年1月の建立です。

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<神輿蔵>

(説明板)
「熊野神社の文化財②
 神輿蔵
 神輿は、神社の例大祭などで氏子区域を巡幸するもので、古くは奈良時代の記録に見られます。
 普通は木製黒塗で、四角造・六角造・八角造・お宮造などの形式があります。主に屋根・胴・台輪の三部分からなり、屋根上には鳳凰を置き、台にはニ本の棒を貫きます。 神社祭礼の神輿は、通常この棒を肩でかつぐ形です。
 この神輿蔵には、神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦の町神輿(大人神輿と子供神輿)が保管されています。
 宮神輿は、昭和三年(一九二八)に十二社と淀橋の氏子により製作されたもので、大祭に巡幸します。」

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<神楽殿>

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<島川玄丈人壽兆碑>

 文化4(1807)年11月の建立です。

(ミニ博物館説明板)
「紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、紀州藩合衡の撰文により、文化4年(1807)に造られたものです。」

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<手水舎>

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<狛犬>

 文化元(1804)年9月に角筈下町の水越平三郎と岡平蔵、目白の横井丈右エ門による奉納です。石工は内藤新宿下町の吉右エ門。

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<社殿>

 拝殿は、昭和9(1934)年に、「明治神宮」が改築された際に、古材を譲り受けて造営されたようです。扁額には「一品幟仁親王」とあり、有栖川宮幟仁親王の書です。

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<八咫烏>

 燈籠の上に八咫烏がいます。提燈に八咫烏が描かれています。八咫烏の酒樽が奉納されています。

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 「やたがらす守」
  授与品に「やたがらす守」があります。なでしこジャパンがワールドカップ優勝時に身につけていたとのこと。

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<七人役者図絵馬/式三番奉納額>

(説明板)
「熊野神社の文化財③
 新宿区指定有形文化財 絵画
  七人役者図絵馬
    指定年月日 平成五年三月五日
 安永二年(一七七三)四月に、当時の若手歌舞伎役者の吾妻富五郎と大谷谷次が奉納した大絵馬で、拝殿内に掲げられています。
 板地着色で、縦一三六cm、横一八○cm。図柄は桜の大木の下に七人の歌舞伎役者の扮装姿と十二支の動物が描かれています。
 図中の役者は、当時の名優三世大谷広次や後に十ニ代目羽左衛門を襲名する市村亀蔵らを中心とした市村座の役者たちです。
 この絵馬の作者一筆齋文調は、江戸時代中期、明和から寛政にかけて、優れた役者絵を描いて活躍した浮世絵師です。
 
 新宿区指定有形文化財 歴史資料
 式三番奉納額
   指定年月日 平成五年三月五日
 上部に式三番の図が描かれている奉納額で、拝殿内にニ枚が掲げられています。向って右側は宝暦十四年(一七六四)に九代目市村羽左衛門が、左側は弘化四年(一八四七)に十ニ代目市村羽左衛門がそれぞれ奉納したもので、ともに板地着色、縦九○・七cm、横三一・四cmあります。
 図柄は、江戸三座の1つ市村座で、十一月の顔見世興行と正月の初春興行に、初日から三日間演ぜられた式三番を描いたもので、座元の羽左衛門自身が翁を演じるのに因んで奉納されたようです。
 式三番は、歌舞伎舞踊のひとつで、祝賀や追悼の時に行われた能の「翁」を舞踊化したものです。」

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<大田南畝の水鉢> 新宿区文化財

 文政3(1820)年に淀橋の氏子により奉納された水鉢で、大田南畝(1749〜1823)の銘文が刻まれています。

(説明板)
「熊野神社の文化財④
 新宿区指定有形文化財 工芸品
 大田南畝の水鉢
   指定年月日 昭和五十九年十一月ニ日
 文政三年(一八ニ○)三月に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師大田南畝(蜀山人)(一七四九〜一八ニ三)の書による銘文が刻まれています。
 外部が幅一五○cm、高さ六○cm、奥行六四cm。内部の鉢の部分は幅一二六cm、深さニ三cmcm、奥行四○cmあります。
 銘文は次のとおりです。
 正面
  熊野三山
  十二叢祠
  洋洋神徳
  覧於斯池
   大田覃(落款)
 右側面
  「文政三年庚申」暮春
 左側面
  奉納 淀橋」

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【境内社】

 社殿右手奥に境内社があります。

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<弁天社>

 小さな池にかかる神橋を渡った先に「弁天社」があります。小さな滝もあります。

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<鯉塚(古ひづか)>

 弁天社の奥に石碑が4基並んでいます。一番左手に「鯉塚(古ひづか)」があります。十二社の池は昭和初期より一部の埋立てが行われ、水質の汚濁により昭和16(1941)年7月には多数の鯉が死んだため「古ひづか」が建立されました。

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<太白堂桃隣句碑>

 太白堂桃隣の「白桃や 雫も落ちる 水の色」の句が刻まれています。

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<御即位記念碑/倉稲魂碑>

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<大鳥神社>

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「狛犬」 新宿区文化財

 享保12(1727)年に角筈村上野百姓店児講中により奉納の狛犬です。令和4(2022)年に新宿区文化財に登録され、令和5(2023)年2月の説明板が建っています。

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(説明板)
「新宿区登録有形民俗文化財
 熊野神社の狛犬
   所在地 新宿区西新宿二丁目十一番二号 熊野神社
   登録年月日 令和四年十一月四日
 享保十ニ年(一七二七)に奉納された一対の石造狛犬で、区内に現存する狛犬としては比較的古い時代に造立されたものである。
 この狛犬は熊野神社の境内社・大鳥神社の社殿に向かって、右側に阿形(頭部に角を持たない獅子)が、左側に吽形(頭部に一角を有する狛犬)が安置されている。
 狛犬と台座は一つの石材から彫り出されており、腹の下はくりぬかずに残され、享保十ニ年九月の年紀と角筈村上町の百姓店衆講中という奉納者銘が刻まれている。
 総高は、阿形が一一二・五センチ、吽形が一一三・五センチで、安山岩製である。
 享保年間(一七一六〜一七三六)には、十二社熊野神社周辺が江戸西郊の景勝地として知られるようになった。狛犬は、この時期に地元の講中により奉納されており、姿の珍しさとともに貴重である。
  令和五年ニ月ニ十八日  新宿区教育委員会」

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<能勢嘉門賛碑>

 「大鳥神社」と「胡桃下稲荷神社」の間に、文政13(1830)8月建立の十二社の風景を讃えた記念碑「能勢嘉門賛碑」があります。

(ミニ博物館説明板)
「「滝津冷々一千尺 松樹森々十二層 司馬乃屋嘉門」
 「蝉の声 しくれて細し滝の糸 よれば暑さも 那智の俤 山陽堂竹友」
 十ニ社の滝と周囲の風景をたたえた記念碑です。」

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<胡桃下稲荷神社>

 胡桃下稲荷は笠間稲荷の別称です。

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<延命陀羅尼二千一百萬遍読誦碑>

 熊野神社の別当寺であった中野成願寺に関係する石造品です。手前左右にある石造物は「淀橋」の遺構でしょうか。

(ミニ博物館説明板)
「元治元年(1864)に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てられた記念碑で、神仏習合時代を物語る資料です。」

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<清水長雄胸像>

 清水長雄は元東京都議会議長で、新宿副都心建設に努力しました。昭和35(1960)年の建立です。

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<地蔵菩薩>

 十二社通りにある境外の「地蔵菩薩」です。

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tag : 史跡大田南畝銅像新宿

熊野十二社

○熊野十二社 (くまのじゅうにそう) 【江戸名所図会・浮世絵】

 熊野十二所権現社(くまのじゅうにしょごんげんのやしろ)は、応永年間(1394-1428)に、紀州熊野からこの地に流れ着いた鈴木九郎某が故郷熊野の十二所の神を勧請したことに始まります。付近の地名を十二社(じゅうにそう)と言います。
 八代将軍吉宗が鷹狩の折に十二社を参拝して以来、「十二社の池」の周りには茶店や料亭が建ち並び、瀧があり江戸近郊の景勝地として賑わいました。
 明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形舟・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、十ニ社の池は、昭和43(1968)年7月に最後の埋立てが行われました。


「江戸名所図会 角筈村十二所権現社」

 「熊野十二所権現社」の付近一帯は「十二所」と呼ばれました。いつしかこれが転訛し「十二社(じゅうにそう)」と呼ばれることとなりました。挿絵には「世人誤て十二そうといふ多景にして遊観多し」とあります。

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「江戸名所図会 其ニ 熊野瀧」

 熊野瀧の挿絵も掲載されています。

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「絵本江戸土産 角筈熊野 十二社 権現」(広重)

 挿絵には「この社物舊神寂て神威殊に尊としまた十二相と唱ふ大いなる池ありて山水自然の絶景なり実は十二所権現といふ十二相とは訛れるなるべしこの池より落る大瀧ありその図次にあらはす」とあります。

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「絵本江戸土産 其二 大滝」(広重)
 挿絵には「近来この所の池より落る小滝をまうけて夏月納涼の一助とす都下の人々こゝに群集しこの滝を浴みて逆上を治し且發狂等の病を癒さしむ」とあります。

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「名所江戸百景 角筈熊野十二社俗称十二そう」(広重)

 熊野十二所権現社の境内西側に位置する「十二社の池」と茶店が描かれています。左下に描かれている建物が熊野十二所権現社とすれば、大瀧から俯瞰した光景と考えられます。

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「江戸名所之内 四谷角筈十二そうの池熊のゝ社」(広重)

 こちらも大瀧から俯瞰した光景と考えます。

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「十二荘菖蒲の図」(歌川芳宗 万延元(1860)年 東京都立図書館蔵)

 池では泳いでいる人がいます。茶店の脇に滝が2本見え、それぞれ男女が滝に打たれています。ミニ博物館の説明では、明治時代に茶屋が客寄せのため造ったものとありますが、錦絵は明治以前の発行なのでどうでしょうか。花菖蒲が満開です。

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「江戸名所図会 十ニ荘」(二代広重 文久2(1862)年 プーシキン美術館蔵)

 大瀧が描かれています。

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「江戸切絵図」

 「十ニ社権現」が十ニ社の池とともに描かれています。東の「成子丁」には「ヨドバシ」と「天満宮」が見えます。

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「角筈村熊野神社絵図面」(国立国会図書館蔵)

 明治初年頃の角筈村熊野神社の絵図面です。

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<現在の十二社の池跡>

 新宿ミニ博物館の説明書によると、十二社の池は「熊野神社西側、十二社通りを隔てて建つ三省堂ビル・後楽園ビルの辺りにありました。」とあります。
 現在は、三省堂ビル→住友不動産西新宿ビル3号館(西新宿4-15-3)、後楽園ビル→ パシフィックマークス新宿パークサイドビル(西新宿4-15-7)となっており、地図にプロットすると次の場所となります。

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【新宿ミニ博物館(十ニ社熊野神社の文化財)】  新宿区西新宿2‐11‐2

 新宿ミニ博物館として、熊野神社に伝えられる江戸時代以来の文化財や、かつての十二社の風景などを紹介しています。


<パンフレット>

「新宿ミニ博物館 十ニ社熊野神社の文化財
 十ニ社(じゅうにそう)と熊野神社の歴史
 十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532〜69)の熊野の乱に際し紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。
 鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
 九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため応永十年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。
 江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
 また、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。
 明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
 氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。」

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<新宿ミニ博物館 十二社熊野神社の文化財>

 表参道入口と、東神門入口の2ヶ所に、「新宿ミニ博物館 十二社熊野神社の文化財」の掲示があります。

(掲示)
「新宿ミニ博物館
 十二社熊野神社の文化財
   住  所 新宿区西新宿2‐11‐2
   電話番号 03(3343)5521
 熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に、中野長者鈴木九郎が、故郷である紀州熊野の十二所権現をうつし祀ったものと伝えられ、そのためにこのあたりは十二社と呼ばれるようになりました。
 また、周辺にはかつて池や滝があり、江戸時代中期より江戸西郊の景勝地として有名でした。
 ミニ博物館「十二社熊野神社の文化財」では、熊野神社に伝えられる江戸時代以来の文化財や、かつての十二社の風景などを紹介しています。ぜひ、ご覧ください。
 ※社務所にて、解説パンフレットを配布しています。」

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「ミニ博物館総合案内板」

 境内にある「ミニ博物館総合案内板」です。

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「①十ニ社と熊野神社の歴史
 十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二社権現をうつし祠ったものと伝えられます〔一説に、この地域の開拓にあった渡辺與兵衛が、天文・永禄(1532〜69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祀ったともいいます〕。
 鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
 九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祀りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祀ったといいます。
 この十二所が、昭和45年(1970)までこの地の町名であった十二社と読み変わったものとされますが、別に複数の社を1つに祀る相(双)殿形式で十二の社を祀った十二相(双)殿からきたという説もあります。江戸時代の文献にはこの他、十二處・十二荘・十二叢・十二層などの記述が見られます。
 神社は、江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
 また、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。
 明治維新後は、現在の櫛御気大神(須佐之男命の別名)・伊邪那美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
 氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。」

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「②十ニ社の池と滝
 江戸時代以来、西郊の景勝地として賑わった十ニ社には、かつては大小2つの池と、いくつかの滝がありました。

 十二社の池
 十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りを隔てて建つ三省堂ビル・後楽園ビルの辺りにありました。
 大池は、南北126間・東西8〜26間とされ、湧水があったようです。十二社の中池、上の溜井と呼ばれたほか、中野長者の娘が婚礼の夜1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池とも呼ばれました。また、この池のくびれた奥の部分は別に上池と呼ばれたようです。
 池の周囲には享保年間(1716〜1735)頃より多数の茶屋ができ景勝地として賑わい、文政3年(1820)の熊野神社の祭礼の時には角乗・筏乗などの見世物ができたりしました。
 明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形舟・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43(1968)年7月に埋立てられました。
 小池は、大池の北側に隣接し、下池、下の溜井と呼ばれました。
 大池を分水したもので、南北50間・東西7〜16間ありました。
 昭和初期より一部の埋立てが行われ、水質の汚濁により昭和16年(1941)7月には多数の鯉が死んだため「こひ塚」が建立され、現在は熊野神社境内の池のほとりに建っています。小池はその後間もなく宅地化のため埋立てられました。

 十二社の滝
 熊野神社の周囲には、いくつかの滝があり、あたりの風致に彩りを添えていました。
 記録や古老の話から、次のような6つの滝の話が伝えられますが、それぞれの正確な位置やあった時期などははっきりしません。
①大滝
 『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け造られた神田上水助水堀(現在の新宿区立区民ギャラリーと熊野神社の間の道あたり)が熊野神社東端の崖から落ちるところにできたものです。
 池とともに、江戸中期以来景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させています。
 しかし明治25(1892)年頃、淀橋上水場の工事に伴い埋立てられました。
②小滝
 『江戸土産』に記載があり、大滝に付設していた小規模な滝とされます。
③熊野神社神楽殿裏より小池(下池)にそそぐ滝
 「角筈村熊野神社絵図面」に記されている滝です。熊野神社西側の斜面にあったものと思われます。
④大池のイチョウ脇にあったニつの滝
 古老の話によるもので、大滝の遊興街の大イチョウの脇に4m程の高さの滝が2本あったとされます。明治時代に茶屋が客寄せのため造ったもののようで、男女別があり人々が滝に打たれていたそうです。
⑤十二社にちなんだ十ニの滝
 古老の話で、かつては十ニの滝が存在したというものです。そのうちの3つが、熊野神社の甲州街道への参道の脇に、水の出ない赤土の滝として残っていたとされます。
⑥熊野神社南側、旧小西六工場付近の滝
 熊野神社の南東側には、明治35年から昭和38年(1902〜1963)まで、この地の良質で豊富な水を使い、小西六写真工業(サクラフィルム)の工場が操業していました(写真工業発祥の地として説明板あり)。この工場のあたりにも滝があったと言われています。

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③熊野神社の文化財
 熊野神社には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち、十二社の碑・水鉢・七人役者図絵馬・式三番奉納額の4点は、新宿区指定文化財に指定され、それぞれに説明板を設けてありますが、この他にもつぎのような文化財があります。
 ①狛犬 ②島川玄丈人壽兆碑 ③能勢嘉門讃碑 ④延命陀羅尼二千一百萬遍読誦碑 ⑤絵馬・奉納額

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