品川宿本陣跡
○聖蹟公園(品川宿本陣跡)品川区史跡 品川区北品川2-7-21
情報量の多い公園(品川宿本陣跡)です。
<道標「品川宿本陣跡」> 品川区北品川2-7-22
旧東海道の入口にある道標です。
(正面)「八番 品川宿本陣跡」
(左面)「左 歩行新宿」
(右面)「右後 北番場を経て新馬場駅北口」


左手に本陣の建物の説明と、明治天皇の行在所の説明が掲示しています。品川宿本陣が明治天皇の行在所となったのは、東幸、還幸、再東幸の際の計3回とのこと。



「遷都鳳輦品川通御之図 歌川芳盛(伝)品川歴史館蔵」

(説明板)
「品川宿本陣跡(聖蹟公園)
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本・門跡・公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南品川宿と北品川宿に一軒ずつありましたが、 江戸中期には北品川宿のみとなりました。
大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札をたて、紋の入った幕をめぐらしました。
明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。」

<土山宿の街道松>
公園入口には、土山宿から贈られた街道松があります。


<公園入口門柱>
右の門柱に「品川区立聖蹟公園」とあります。


<しながわ百景>
「しながわ百景
区政40周年・区民憲章制定5周年記念 昭和62年選定
6 聖蹟公園(本陣跡)
平成29年 品川区」

<本陣の復元井戸と園内>


<東海道品川宿本陣跡>
(説明板)
「品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
所在 北品川二丁目七番二十一号 聖蹟公園
指定 昭和五十三年十一月二十二日(史跡第七号)
品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、 品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(一八七二)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
現在、跡地は公園となり、明治元年(一八六八)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
平成十四年三月二十八日
品川区教育委員会」

<聖蹟公園の石碑案内>
(説明板)
「聖蹟公園の石碑案内
聖蹟公園由来の碑
昭和十三年(一九三八年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
灯籠
聖徳の碑
東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
御聖蹟の碑
明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(一九三八年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
旗台
石井鐵太郎氏胸像
常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽し、昭和五十年に社会福祉功労を顕彰し名誉区民となった。
夜明けの像
昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さられたが、昭和四十二年に石井鐵太郎によって、現在の子ども達が親しみやすい像ということで改めて新聞少年の像が贈られた。
品川区」




<開園碑>
「東京市
品川聖蹟公園
昭和十三年十一月開園」

<聖蹟公園由来の碑>
昭和13(1938)年に東京市によって建立。聖蹟公園由来が記されています。


<街頭ラヂオ塔>
見た目は石灯籠ですが、街頭ラヂオ塔(公衆用聴取施設)です。 東京で現存のラヂオ塔は、ここだけのようです。

「寄贈 日の丸奉仕團」

<景仰聖蹟の碑>
昭和13(1938)年11月15日建立。聖蹟公園の開園までの明治天皇・品川聖蹟保存会の活動記録を記しています。明治天皇の御聖徳を記念する碑です。


<御聖蹟>
昭和13(1938)年に東京市の公園となったのを機に設置された碑です。



<石井鐵太郎翁之像>



<夜明け>


<タイル絵>
「東都名所 御殿山花見品川全図 歌川広重<初代>
御殿山花見、品川宿、品川湊、右奥の海上には、海苔養殖のヒビが描かれています。

「東海道五十三次之内 品川日之出(保永堂版東海道) 歌川広重<初代>」

「品川宿本陣」

情報量の多い公園(品川宿本陣跡)です。
<道標「品川宿本陣跡」> 品川区北品川2-7-22
旧東海道の入口にある道標です。
(正面)「八番 品川宿本陣跡」
(左面)「左 歩行新宿」
(右面)「右後 北番場を経て新馬場駅北口」


左手に本陣の建物の説明と、明治天皇の行在所の説明が掲示しています。品川宿本陣が明治天皇の行在所となったのは、東幸、還幸、再東幸の際の計3回とのこと。



「遷都鳳輦品川通御之図 歌川芳盛(伝)品川歴史館蔵」

(説明板)
「品川宿本陣跡(聖蹟公園)
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本・門跡・公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南品川宿と北品川宿に一軒ずつありましたが、 江戸中期には北品川宿のみとなりました。
大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札をたて、紋の入った幕をめぐらしました。
明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。」

<土山宿の街道松>
公園入口には、土山宿から贈られた街道松があります。


<公園入口門柱>
右の門柱に「品川区立聖蹟公園」とあります。


<しながわ百景>
「しながわ百景
区政40周年・区民憲章制定5周年記念 昭和62年選定
6 聖蹟公園(本陣跡)
平成29年 品川区」

<本陣の復元井戸と園内>


<東海道品川宿本陣跡>
(説明板)
「品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
所在 北品川二丁目七番二十一号 聖蹟公園
指定 昭和五十三年十一月二十二日(史跡第七号)
品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、 品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(一八七二)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
現在、跡地は公園となり、明治元年(一八六八)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
平成十四年三月二十八日
品川区教育委員会」

<聖蹟公園の石碑案内>
(説明板)
「聖蹟公園の石碑案内
聖蹟公園由来の碑
昭和十三年(一九三八年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
灯籠
聖徳の碑
東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
御聖蹟の碑
明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(一九三八年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
旗台
石井鐵太郎氏胸像
常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽し、昭和五十年に社会福祉功労を顕彰し名誉区民となった。
夜明けの像
昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さられたが、昭和四十二年に石井鐵太郎によって、現在の子ども達が親しみやすい像ということで改めて新聞少年の像が贈られた。
品川区」




<開園碑>
「東京市
品川聖蹟公園
昭和十三年十一月開園」

<聖蹟公園由来の碑>
昭和13(1938)年に東京市によって建立。聖蹟公園由来が記されています。


<街頭ラヂオ塔>
見た目は石灯籠ですが、街頭ラヂオ塔(公衆用聴取施設)です。 東京で現存のラヂオ塔は、ここだけのようです。

「寄贈 日の丸奉仕團」

<景仰聖蹟の碑>
昭和13(1938)年11月15日建立。聖蹟公園の開園までの明治天皇・品川聖蹟保存会の活動記録を記しています。明治天皇の御聖徳を記念する碑です。


<御聖蹟>
昭和13(1938)年に東京市の公園となったのを機に設置された碑です。



<石井鐵太郎翁之像>



<夜明け>


<タイル絵>
「東都名所 御殿山花見品川全図 歌川広重<初代>
御殿山花見、品川宿、品川湊、右奥の海上には、海苔養殖のヒビが描かれています。

「東海道五十三次之内 品川日之出(保永堂版東海道) 歌川広重<初代>」

「品川宿本陣」


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
東海道 問答河岸、磯の清水、土蔵相模
○問答河岸跡 品川区北品川1-22-21
三代将軍徳川家光と沢庵和尚が禅問答をした場所に建つ石碑です(実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりといわれています)。
家光「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚「大軍を率いても将軍と言うが如し」と答えたと伝わります。
(説明板)
「問答河岸跡」
「昭和六十二年吉日 勲五等 永原徳」
(由来記)
「問答河岸由来記
寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也 宗彭沢庵禅師に帰依して 品川に萬松山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連って輪奐美を極む 将軍枉駕年間十数度法を聴き政治を問う 厚遇思う可し 将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る 将軍乗船に臨んで禅師に参問して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る 時移りて三百年地勢亦変じ河海遠し然れ共 市人傳えて問答河岸と称す 一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永世芳を傳えんとす 亦可しからすや
昭和四十三年仲秋 衆議院議員 宇都宮徳馬書」



問答河岸跡碑碑から、踏切方向を振り返ったところ。

○磯の清水
「江戸名所図会 磯の清水」

「江戸切絵図」
○が2つ描かれている「清水井」と「シミズヨコ丁」が見えます。

<道標「二番 東海道品川宿入り口> 品川区北品川1-26-10
「二番 東海道品川宿入り口」
道標の上に磯の清水の説明板がありましたが、撤去されてありません。



<清水横町> 品川区北品川1-24-4
道標「二番 東海道品川宿入り口」から石畳の清水横町を進み、旧東海道に突き当ると、鮮魚店「魚武」の壁に、説明板「清水横町」が掲示されています。



(説明板)
「東海道の品川通りから二本榎(港区)に至る横町の名称で、享保期(一七一六?三六)に島屋文七という者が往んていたため島屋横町と呼んていた。江戸時代後期になると、「磯の清水」といわれた清泉で旱魃にも涸れることがない井戸があったことから清水横町と呼ばれるようになった。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 品川礎会」

(説明板)
「古くからの主要な道として切り絵図にも描かれている清水横町。
現在も変わらないこの横町のたたずまいは、品川宿に残された貴重な歴史遺産だ。
東海品川宿 徒歩新宿」

○土蔵相模跡 品川区北品川1-22-18
「ロイヤルガーデン品川」の角に、道標「土蔵相模跡」があります。
道標「三番 歩行新宿 土蔵相模跡」

「左 品川駅」

「右 本宿」

○土蔵相模跡 品川区北品川1-22-17
一階にファミリーマートが入った「ニックハイム北品川」の前に説明板「土蔵相模跡」があります。


(説明板)
「土蔵相模
土蔵相模は歩行新宿(北品川一丁目)の食売旅籠屋「相模屋」の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから付けられた名勝である。万延元年(一八六○)大老・井伊直弼を襲撃した桜田門外の変の水戸浪士たちや、文久二年(一八六二)英国公使館を焼打ちした高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら長州半紙の集合場所になるなど、幕末の歴史の舞台となった場所である。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 品川礎会」




「其紫袖が浦染 相模様源氏製」(初代国貞(三代豊国))

「名所江戸百景 月の岬」(広重)
描かれた場所は諸説あり、八ツ山からの光景を「相模屋(土蔵相模)」を借りて描いたとする説があります。

「高杉晋作肖像」(近世名士写真 昭和10年)

「伊藤博文肖像」(近世名士写真 昭和10年)

○品海公園 品川区北品川1-30-9
石碑や説明板が色々とあります。

<道標>
「品川宿
川崎宿へ二里半
日本橋より二里」

「しながわ百景
3 旧東海道のにぎわい
101 しながわ宿場まつり」

(説明板)
「「東海道品川宿」
「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。
旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は一六〇〇軒、人口七〇〇〇人規模で賑わっていた。
今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かつての宿場町として、活気が息づいている。」

<品川宿の松>



<東海道品川宿の石垣石>
三代将軍徳川家光と沢庵和尚が禅問答をした場所に建つ石碑です(実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりといわれています)。
家光「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚「大軍を率いても将軍と言うが如し」と答えたと伝わります。
(説明板)
「問答河岸跡」
「昭和六十二年吉日 勲五等 永原徳」
(由来記)
「問答河岸由来記
寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也 宗彭沢庵禅師に帰依して 品川に萬松山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連って輪奐美を極む 将軍枉駕年間十数度法を聴き政治を問う 厚遇思う可し 将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立って是れを送る 将軍乗船に臨んで禅師に参問して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る 時移りて三百年地勢亦変じ河海遠し然れ共 市人傳えて問答河岸と称す 一世の英主 一代の名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永世芳を傳えんとす 亦可しからすや
昭和四十三年仲秋 衆議院議員 宇都宮徳馬書」



問答河岸跡碑碑から、踏切方向を振り返ったところ。

○磯の清水
「江戸名所図会 磯の清水」

「江戸切絵図」
○が2つ描かれている「清水井」と「シミズヨコ丁」が見えます。

<道標「二番 東海道品川宿入り口> 品川区北品川1-26-10
「二番 東海道品川宿入り口」
道標の上に磯の清水の説明板がありましたが、撤去されてありません。



<清水横町> 品川区北品川1-24-4
道標「二番 東海道品川宿入り口」から石畳の清水横町を進み、旧東海道に突き当ると、鮮魚店「魚武」の壁に、説明板「清水横町」が掲示されています。



(説明板)
「東海道の品川通りから二本榎(港区)に至る横町の名称で、享保期(一七一六?三六)に島屋文七という者が往んていたため島屋横町と呼んていた。江戸時代後期になると、「磯の清水」といわれた清泉で旱魃にも涸れることがない井戸があったことから清水横町と呼ばれるようになった。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 品川礎会」

(説明板)
「古くからの主要な道として切り絵図にも描かれている清水横町。
現在も変わらないこの横町のたたずまいは、品川宿に残された貴重な歴史遺産だ。
東海品川宿 徒歩新宿」

○土蔵相模跡 品川区北品川1-22-18
「ロイヤルガーデン品川」の角に、道標「土蔵相模跡」があります。
道標「三番 歩行新宿 土蔵相模跡」

「左 品川駅」

「右 本宿」

○土蔵相模跡 品川区北品川1-22-17
一階にファミリーマートが入った「ニックハイム北品川」の前に説明板「土蔵相模跡」があります。


(説明板)
「土蔵相模
土蔵相模は歩行新宿(北品川一丁目)の食売旅籠屋「相模屋」の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから付けられた名勝である。万延元年(一八六○)大老・井伊直弼を襲撃した桜田門外の変の水戸浪士たちや、文久二年(一八六二)英国公使館を焼打ちした高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら長州半紙の集合場所になるなど、幕末の歴史の舞台となった場所である。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 品川礎会」




「其紫袖が浦染 相模様源氏製」(初代国貞(三代豊国))

「名所江戸百景 月の岬」(広重)
描かれた場所は諸説あり、八ツ山からの光景を「相模屋(土蔵相模)」を借りて描いたとする説があります。

「高杉晋作肖像」(近世名士写真 昭和10年)

「伊藤博文肖像」(近世名士写真 昭和10年)

○品海公園 品川区北品川1-30-9
石碑や説明板が色々とあります。

<道標>
「品川宿
川崎宿へ二里半
日本橋より二里」

「しながわ百景
3 旧東海道のにぎわい
101 しながわ宿場まつり」

(説明板)
「「東海道品川宿」
「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町である。
旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は一六〇〇軒、人口七〇〇〇人規模で賑わっていた。
今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かつての宿場町として、活気が息づいている。」

<品川宿の松>



<東海道品川宿の石垣石>

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
東海道 八ツ山
○品川宿
品川宿は当初、目黒川をはさんで「北品川宿」「南品川宿」の二宿で構成されていましたが、享保7(1722)年、その北に「徒歩(かち)新宿」が加わりました。従来の南北の両品川宿を、新宿に対して本宿ともいいました。
「江戸名所図会 品川驛」
品川宿の賑わいが描かれていますが、どこを描いたのか定説はありません。木戸の門のあるこの建物はどこでしょうかね。

「東海道五拾三次 品川・日之出」(広重)
西に向かう大名行列は、最初の宿場である品川宿を通るころには日の出を迎えます。八ツ山の崖下に、品川宿入口を示す「榜示杭」が見えます。行列が行き過ぎる様子が茶屋に姿を現す人々の姿でわかります。

「品川」(東海道:広重画五拾三次現状写真対照 大正7年)
広重の絵と同じ場所を撮った大正時代の写真です。八ツ山は切り崩され鉄道が走っています。

「江戸名所之内 品川の駅海上」(広重)
旅籠屋が建ち並んでいます。街道に面している所が2階で、2階に見える所が3階です。

「江戸名所百人美女 品川歩行新宿」(豊国,国久)
飯盛女が右手に御簾紙を持っています。

こま絵には旅籠屋の3階が描かれ(海からは3階建に見えますが街道からは2階建に見える)、満月が見えます。

「東京名所三十六戯撰」(昇齋一景 明治5(1872)年)
階段で転んで三階から落ちてきた男が、はずみで飯盛女の顔面をキックしています。女が持っていたとっくりが転がり酒がこぼれています。女は蹴られたはずみで、後ろにいた子どもに手があたり、子どもが落とした壺が床にひっくりかえっています。海には品川台場が見えます。川柳「三階に居る潮干狩り母案じ」があるように、旅籠屋は三階建で、この絵も男が落ちてきているのは三階からです。

○八ツ山橋 港区港南2丁目・高輪4丁目・北品川4丁目〜品川区北品川1丁目
八ツ山橋は、明治5(1872)年10月の新橋・横浜間の鉄道開通に先立ち、5月の品川・横浜間の仮営業に際して1月に架けられていた跨線橋です。現在の橋は昭和60(1985)年に架け替えられた4代目となります。欄干に「旧東海道」とあります。




<ゴジラ上陸地点>
ここは、ゴジラ上陸地点です。ゴジラが上陸して八ツ山橋を破壊しました。

「東京蒸気車鉄道一覧之図」(孟斎芳虎 明治4(1871)年 国立国会図書館蔵)
一覧之図から八ツ山橋部分を抜粋しています。高輪築堤を経て品川停車場に至り、八ツ山橋をくぐり、八ツ山・御殿山の切通しを抜けた蒸気車が見えます。


「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(三代広重 明治4(1871)年頃 都立図書館蔵)
海上にお台場が連なっています。品川燈台も描かれています。右下に八ツ山橋が見え、この先が品川宿です。東海道は賑やかです。

「東京明細圖會 品川鐵道」(三代広重 国立国会図書館蔵)
これから八ツ山橋をくぐって、品川停車場、その先の海上の築堤に向かう品川鉄道です。タイトルが品川鉄道とあるので、まだ新橋〜品川間は開通していない時かもしれません。海上には品川台場が見えます。

「品川蒸気車鉄道之図」(国政 国立国会図書館蔵)
品川停車場を出発した蒸気機関車が八ツ山橋をくぐって、八ツ山、御殿山を削って通した線路に向かう光景が描かれています。タイトルが品川蒸気車鉄道とあるので、まだ新橋〜品川間は開通していない時かもしれません。機関車の煙で品川宿は隠れています。

「東京名所図会 八ツ山下の鉄道」(三代広重 国立国会図書館蔵)
八ツ山橋と蒸気機関車が描かれています。八ツ山橋の左手が品川宿ですが、八ツ山橋手前の東海道に傍示杭があります。「従是〜」が見えます。


「東京名勝 高輪蒸気車鉄道之全図」(芳年 明治4年 国立国会図書館蔵)
品川停車場を出発し、八ツ山橋をくぐり、切通しに向かう蒸気車です。

切通しにも橋が見えます。御殿山橋なのでしょうかね。

「品川停車場 東京市芝区」(日本写真帖 明治45年 国立国会図書館蔵)
品川停車場は、現在の品川駅より南、八ツ山橋の北の海岸である芝区高輪南町(現:港区港南)にありました。明治29年に建築の駅舎が写っています。

「絵本江戸土産 月の岬」(広重 国立国会図書館蔵)
八ツ山から高輪、芝浦の海岸線を望んで描いています。

○品川宿入口の歩道広場 品川区北品川1-3-27
歩道に設けられたレストスペースです。

<東海道品川宿まち歩きマップ>
ゴジラ上陸地点も記載されています。


<八ツ山の東司>
公衆トイレです。


<五十三次石柱>
反対側の歩道には、宿場の名称が刻まれた石柱が並んでいます。

○品川宿傍示杭 是従南品川宿地内 品川区北品川1-3-29
榜示杭は、宿や村など領地の境を示す杭で、この傍示杭は、弘化2(1845)年を想定して復元されています。
(正面)「従是南 品川宿 地内」

(右面)「従是南 御代官築山茂左衛門支配所」

(左面)「弘化二年乙巳 月」

○品川第二踏切 品川区北品川1-1・1-3
品川第二踏切の西側に「旧東海道」の標識。品川宿の入口です。



○道標「一番 東海道八ツ山口」 品川区北品川1-3-6
道標は、一番八ツ山口から二十五番鈴ケ森口までと番外の計26本あります。
「一番 東海道八ツ山口」
「左 品川駅」
「右 品川宿」

品川宿は当初、目黒川をはさんで「北品川宿」「南品川宿」の二宿で構成されていましたが、享保7(1722)年、その北に「徒歩(かち)新宿」が加わりました。従来の南北の両品川宿を、新宿に対して本宿ともいいました。
「江戸名所図会 品川驛」
品川宿の賑わいが描かれていますが、どこを描いたのか定説はありません。木戸の門のあるこの建物はどこでしょうかね。

「東海道五拾三次 品川・日之出」(広重)
西に向かう大名行列は、最初の宿場である品川宿を通るころには日の出を迎えます。八ツ山の崖下に、品川宿入口を示す「榜示杭」が見えます。行列が行き過ぎる様子が茶屋に姿を現す人々の姿でわかります。

「品川」(東海道:広重画五拾三次現状写真対照 大正7年)
広重の絵と同じ場所を撮った大正時代の写真です。八ツ山は切り崩され鉄道が走っています。

「江戸名所之内 品川の駅海上」(広重)
旅籠屋が建ち並んでいます。街道に面している所が2階で、2階に見える所が3階です。

「江戸名所百人美女 品川歩行新宿」(豊国,国久)
飯盛女が右手に御簾紙を持っています。

こま絵には旅籠屋の3階が描かれ(海からは3階建に見えますが街道からは2階建に見える)、満月が見えます。

「東京名所三十六戯撰」(昇齋一景 明治5(1872)年)
階段で転んで三階から落ちてきた男が、はずみで飯盛女の顔面をキックしています。女が持っていたとっくりが転がり酒がこぼれています。女は蹴られたはずみで、後ろにいた子どもに手があたり、子どもが落とした壺が床にひっくりかえっています。海には品川台場が見えます。川柳「三階に居る潮干狩り母案じ」があるように、旅籠屋は三階建で、この絵も男が落ちてきているのは三階からです。

○八ツ山橋 港区港南2丁目・高輪4丁目・北品川4丁目〜品川区北品川1丁目
八ツ山橋は、明治5(1872)年10月の新橋・横浜間の鉄道開通に先立ち、5月の品川・横浜間の仮営業に際して1月に架けられていた跨線橋です。現在の橋は昭和60(1985)年に架け替えられた4代目となります。欄干に「旧東海道」とあります。




<ゴジラ上陸地点>
ここは、ゴジラ上陸地点です。ゴジラが上陸して八ツ山橋を破壊しました。

「東京蒸気車鉄道一覧之図」(孟斎芳虎 明治4(1871)年 国立国会図書館蔵)
一覧之図から八ツ山橋部分を抜粋しています。高輪築堤を経て品川停車場に至り、八ツ山橋をくぐり、八ツ山・御殿山の切通しを抜けた蒸気車が見えます。


「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(三代広重 明治4(1871)年頃 都立図書館蔵)
海上にお台場が連なっています。品川燈台も描かれています。右下に八ツ山橋が見え、この先が品川宿です。東海道は賑やかです。

「東京明細圖會 品川鐵道」(三代広重 国立国会図書館蔵)
これから八ツ山橋をくぐって、品川停車場、その先の海上の築堤に向かう品川鉄道です。タイトルが品川鉄道とあるので、まだ新橋〜品川間は開通していない時かもしれません。海上には品川台場が見えます。

「品川蒸気車鉄道之図」(国政 国立国会図書館蔵)
品川停車場を出発した蒸気機関車が八ツ山橋をくぐって、八ツ山、御殿山を削って通した線路に向かう光景が描かれています。タイトルが品川蒸気車鉄道とあるので、まだ新橋〜品川間は開通していない時かもしれません。機関車の煙で品川宿は隠れています。

「東京名所図会 八ツ山下の鉄道」(三代広重 国立国会図書館蔵)
八ツ山橋と蒸気機関車が描かれています。八ツ山橋の左手が品川宿ですが、八ツ山橋手前の東海道に傍示杭があります。「従是〜」が見えます。


「東京名勝 高輪蒸気車鉄道之全図」(芳年 明治4年 国立国会図書館蔵)
品川停車場を出発し、八ツ山橋をくぐり、切通しに向かう蒸気車です。

切通しにも橋が見えます。御殿山橋なのでしょうかね。

「品川停車場 東京市芝区」(日本写真帖 明治45年 国立国会図書館蔵)
品川停車場は、現在の品川駅より南、八ツ山橋の北の海岸である芝区高輪南町(現:港区港南)にありました。明治29年に建築の駅舎が写っています。

「絵本江戸土産 月の岬」(広重 国立国会図書館蔵)
八ツ山から高輪、芝浦の海岸線を望んで描いています。

○品川宿入口の歩道広場 品川区北品川1-3-27
歩道に設けられたレストスペースです。

<東海道品川宿まち歩きマップ>
ゴジラ上陸地点も記載されています。


<八ツ山の東司>
公衆トイレです。


<五十三次石柱>
反対側の歩道には、宿場の名称が刻まれた石柱が並んでいます。

○品川宿傍示杭 是従南品川宿地内 品川区北品川1-3-29
榜示杭は、宿や村など領地の境を示す杭で、この傍示杭は、弘化2(1845)年を想定して復元されています。
(正面)「従是南 品川宿 地内」

(右面)「従是南 御代官築山茂左衛門支配所」

(左面)「弘化二年乙巳 月」

○品川第二踏切 品川区北品川1-1・1-3
品川第二踏切の西側に「旧東海道」の標識。品川宿の入口です。



○道標「一番 東海道八ツ山口」 品川区北品川1-3-6
道標は、一番八ツ山口から二十五番鈴ケ森口までと番外の計26本あります。
「一番 東海道八ツ山口」
「左 品川駅」
「右 品川宿」


東海道 品川橋(目黒川)
○品川橋 品川区北品川2丁目〜南品川1丁目
北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架かるのが品川橋です。



(説明板)
「品川橋の今昔
この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
〔品川橋〕は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には〔境橋〕と呼ばれていました。また別に〔行合橋〕・〔中の橋〕とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
〔品川橋〕がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。
平成三年四月一日 品川区」

○まちなか観光案内所 品川区南品川1-3-4
昭和4(1929)年頃に交番として開設された建物を「まちなか観光案内所 南品川櫻河岸」として、令和4(2022)年3月16日に完成、4月2日にオープンしています。品川橋の袂にあります。






<マンホール蓋>
観光案内所前の歩道に、デザインマンホール蓋「品川橋さくら」があります。橋を渡る品川紋次郎と川沿いに咲く桜がデザインされています。

<飛行機>
車輪を降ろした飛行機が列をなして降りてきます。

北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架かるのが品川橋です。



(説明板)
「品川橋の今昔
この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
〔品川橋〕は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には〔境橋〕と呼ばれていました。また別に〔行合橋〕・〔中の橋〕とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
〔品川橋〕がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。
平成三年四月一日 品川区」

○まちなか観光案内所 品川区南品川1-3-4
昭和4(1929)年頃に交番として開設された建物を「まちなか観光案内所 南品川櫻河岸」として、令和4(2022)年3月16日に完成、4月2日にオープンしています。品川橋の袂にあります。






<マンホール蓋>
観光案内所前の歩道に、デザインマンホール蓋「品川橋さくら」があります。橋を渡る品川紋次郎と川沿いに咲く桜がデザインされています。

<飛行機>
車輪を降ろした飛行機が列をなして降りてきます。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
洲崎弁天 品川汐干
○浮世絵に見る洲崎弁天
「江戸名所図会 洲崎弁天」
挿絵には、橋の袂に鯨塚が描かれています。


「江戸切絵図」
江戸切絵図には「池」「弁才天」とあります。

「絵本江戸土産 品川 冽嵜辨天の祠 芝浦眺望」
挿絵には「深川にも同名あり 思ふにここには元地なるべし 元来海の出洲なれば 風景はいふに及ばず この後ろは妓楼の正面或ひいは綾羅の袂をかざし 糸竹の音の賑はしきも 岸によせくるささら浪の音に和して いと興あり」とあります。

「名所江戸百景 品川すさき」(広重)
目黒川に架かる「鳥見橋」とその先に洲崎弁天社が見えます。

「土蔵相模屋」が左下に描かれていlます。

品川沖には品川台場が見えます。

○利田神社(旧洲崎弁天) 品川区東品川1-7-17
利田神社は、寛永3(1626)年に、東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したのが始まりとされます。目黒川の海に突き出た砂洲に祀られており、「洲崎弁天」と呼ばれていました。明治の神仏分離で、御祭神を変更し、「利田神社(かがた)」と称するようになりました。
<品川百景>
「区政40周年・区民憲章制定5周年記念
しながわ百景
利田神社と鯨塚
昭和62年 品川区 23」

<利田神社参道/鳥居>
埋め立てられた旧目黒川から、利田神社の横を見たところです。鳥居には神額「利田神社」が掲げられています。鳥居の先には一対の石燈籠があります。



<境内>
門柱には「魚がし」とあります。

手水舎に手水鉢。

<狛犬>


<天水桶>
石造の天水桶に、神紋「波に三つ鱗」が刻まれています。

<お役御免の石造物>
社殿前左手には、神額「利田神社」や、延享元(1744)年銘の標柱「奉獻 石燈籠一基」等が転がっています。

<社殿>
賽銭箱に、神紋「波に三つ鱗」です。社殿には、見事な龍の彫刻が施されています。



提灯には「福壽辨財天社」とあります。


社殿と本殿は一体となっているようです。 神紋「波に三つ鱗」がずらりと並んでいます。



<金槌稲荷神社>
境内社「金槌稲荷神社」です。リアルな石造狐がいます。



○品川汐干
汐干狩りは三月の年中行事として、芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、中川などが名所でした。なかでも品川と洲崎は、潮干狩りの名所として、多くの人々で賑わいました。(深川洲崎はこちらで記載)
「江戸名所図会 品川汐干」
江戸名所図会にも描かれている「品川汐干」です。

「絵本江戸土産 品川汐干狩」(二代広重)
挿絵には「毎年三月朔日より三日の間を第一として 美女も裳裾をひるかへし 貝を拾ふを戯れとす」とあります。

「江戸名所 品川沖汐干狩之図」(二代広重 嘉永5(1852)年)
多くの人々が汐干を楽しんでいます。

鮃を素手で採っています。

船頭でしょうか一升瓶を持って酒を飲んでいます。

干潟を行く出前も見えます。

「東京名所 品川の汐干」(三代広重 明治10年頃 足立区立郷土資料館蔵)
明治時代にも続く潮干狩りです。 道具を使わず素手で採っているのが一般的ですが、この絵では熊手を持っています。

鮃を素手で採っていたり、干潟を行く出前も見え、二代広重の構図に似ています。

「江戸風俗十二ケ月の内 三月 潮干狩の図」(楊洲周延 明治23(1890)年)
明治時代にも続く潮干狩りです。江戸時代もそうですが、道具を使わず素手で採っています。
タイトルに場所の記載はありませんが、沖合に品川台場が見えるので、品川の潮干狩かと思います。

カゴの中にはたくさんの大きな貝が見えます。当時は、道具を使わずとも、大きな貝が簡単にザコザコ採れたのでしょうね。

「品川汐干」(仁山智水帖 明治35年)
「親にらむ平目を踏んで汐干かな 其角」が添えられています。
親をにらむとそのばちでヒラメみたいな目になってしまう、親は敬えということが言われていたことを踏まえた句です。干潟の砂に潜って隠れているヒラメを歩いて踏んで見つけ捕えることができました。

「汐干狩」(東京風景 明治44年)
芝浦海岸の汐干狩です。
正岡子規の句が添えられています。
「汽車に乗りて汐干の濱を通りけり 子規」

「江戸名所図会 洲崎弁天」
挿絵には、橋の袂に鯨塚が描かれています。


「江戸切絵図」
江戸切絵図には「池」「弁才天」とあります。

「絵本江戸土産 品川 冽嵜辨天の祠 芝浦眺望」
挿絵には「深川にも同名あり 思ふにここには元地なるべし 元来海の出洲なれば 風景はいふに及ばず この後ろは妓楼の正面或ひいは綾羅の袂をかざし 糸竹の音の賑はしきも 岸によせくるささら浪の音に和して いと興あり」とあります。

「名所江戸百景 品川すさき」(広重)
目黒川に架かる「鳥見橋」とその先に洲崎弁天社が見えます。

「土蔵相模屋」が左下に描かれていlます。

品川沖には品川台場が見えます。

○利田神社(旧洲崎弁天) 品川区東品川1-7-17
利田神社は、寛永3(1626)年に、東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したのが始まりとされます。目黒川の海に突き出た砂洲に祀られており、「洲崎弁天」と呼ばれていました。明治の神仏分離で、御祭神を変更し、「利田神社(かがた)」と称するようになりました。
<品川百景>
「区政40周年・区民憲章制定5周年記念
しながわ百景
利田神社と鯨塚
昭和62年 品川区 23」

<利田神社参道/鳥居>
埋め立てられた旧目黒川から、利田神社の横を見たところです。鳥居には神額「利田神社」が掲げられています。鳥居の先には一対の石燈籠があります。



<境内>
門柱には「魚がし」とあります。

手水舎に手水鉢。

<狛犬>


<天水桶>
石造の天水桶に、神紋「波に三つ鱗」が刻まれています。

<お役御免の石造物>
社殿前左手には、神額「利田神社」や、延享元(1744)年銘の標柱「奉獻 石燈籠一基」等が転がっています。

<社殿>
賽銭箱に、神紋「波に三つ鱗」です。社殿には、見事な龍の彫刻が施されています。



提灯には「福壽辨財天社」とあります。


社殿と本殿は一体となっているようです。 神紋「波に三つ鱗」がずらりと並んでいます。



<金槌稲荷神社>
境内社「金槌稲荷神社」です。リアルな石造狐がいます。



○品川汐干
汐干狩りは三月の年中行事として、芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、中川などが名所でした。なかでも品川と洲崎は、潮干狩りの名所として、多くの人々で賑わいました。(深川洲崎はこちらで記載)
「江戸名所図会 品川汐干」
江戸名所図会にも描かれている「品川汐干」です。

「絵本江戸土産 品川汐干狩」(二代広重)
挿絵には「毎年三月朔日より三日の間を第一として 美女も裳裾をひるかへし 貝を拾ふを戯れとす」とあります。

「江戸名所 品川沖汐干狩之図」(二代広重 嘉永5(1852)年)
多くの人々が汐干を楽しんでいます。

鮃を素手で採っています。

船頭でしょうか一升瓶を持って酒を飲んでいます。

干潟を行く出前も見えます。

「東京名所 品川の汐干」(三代広重 明治10年頃 足立区立郷土資料館蔵)
明治時代にも続く潮干狩りです。 道具を使わず素手で採っているのが一般的ですが、この絵では熊手を持っています。

鮃を素手で採っていたり、干潟を行く出前も見え、二代広重の構図に似ています。

「江戸風俗十二ケ月の内 三月 潮干狩の図」(楊洲周延 明治23(1890)年)
明治時代にも続く潮干狩りです。江戸時代もそうですが、道具を使わず素手で採っています。
タイトルに場所の記載はありませんが、沖合に品川台場が見えるので、品川の潮干狩かと思います。

カゴの中にはたくさんの大きな貝が見えます。当時は、道具を使わずとも、大きな貝が簡単にザコザコ採れたのでしょうね。

「品川汐干」(仁山智水帖 明治35年)
「親にらむ平目を踏んで汐干かな 其角」が添えられています。
親をにらむとそのばちでヒラメみたいな目になってしまう、親は敬えということが言われていたことを踏まえた句です。干潟の砂に潜って隠れているヒラメを歩いて踏んで見つけ捕えることができました。

「汐干狩」(東京風景 明治44年)
芝浦海岸の汐干狩です。
正岡子規の句が添えられています。
「汽車に乗りて汐干の濱を通りけり 子規」

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