西光院(大日如来坐像)
〇西光院 足立区竹の塚1-3-16
西光院(さいこういん)は、河内与兵衛胤盛(寛永7(1630)年没)が開基となり創建されたと伝わっています。河内氏はもとは小田原北条氏の家臣で、小田原北条氏の没落後、竹塚村に土着し、のち徳川家に仕え、代々竹塚村の名主を務めました。
足立区内で最も大きな鋳造仏の大日如来坐像があります。 目黒不動尊の大日如来より小さいですが、西新井大師の大日如来より大きいです。
【山門前】




<札所標柱>
二基の札所標柱と正矯小学校跡碑があります。

「荒綾八十八箇所第十番 竹之塚西光院」(大正12(1923)年銘)


「新四国八十八箇所 第八十七番 西光院」(天保12(1841)年銘)


<正矯小学校跡>

(説明板)
「西光院
本院は真言宗豊山派で、正入山西光院積善寺という。
開基は、河内与兵衛胤盛(寛永八年・一六三一没)である。河内氏は、天正十八年(一五九○)小田原北条氏の没落後、この地竹塚村に土着し、のち徳川家に仕え、その一家は代々当村の名主を勤めていた。
本堂前にある銅造大日如来坐像は、智拳印を結び、宝冠をいただき、整然とした美しい顔立ちをしたものである。中央の蓮弁に、元禄十二年(一六九九)九月、河内喜衛門胤清・同久蔵・母かく・河内久左衛門等の名が、左右蓮弁には、近隣の村々の寄進者名が数多く彫られている。昭和五十七年十二月、足立区登録有形文化財(彫刻)になった。
境内にある河内久蔵碑は、河内久蔵武胤(慶応四年・一八六八没)の門人が明治十七年(一八八四)に建てたもので、隷書の大家中根半嶺の書である。昭和六十三年十一月足立区登録有形文化財(歴史資料)となった。また庚申塔(享保十一年銘)も平成十八年三月に足立区登録有形民俗文化財になった。
門前には、新四国八十八箇所と荒綾八十八箇所の標石がある。また明治十二年には、当院内で公立正矯小学校が開校された。
平成二十五年三月 足立区教育委員会」

<六地蔵>
六地蔵があります。

<河内久蔵碑> 足立区文化財
六地蔵の隣に河内久蔵碑(足立区文化財)があります。




<修行大師像>
「修行大師像」と「四国霊場お砂」があります。




<大日如来坐像> 足立区文化財
元禄12(1699)年に鋳造された像高約1.8メートルの大日如来坐像です。







<庚申塔二基> 足立区文化財
庚申塔が二基あり、両方とも足立区文化財です。


左は元禄11(1698)年銘の地蔵庚申塔です。


右は享保11(1726)年銘の青面金剛庚申塔です。

<頌徳碑>
「大僧正佐伯堅城師 頌徳碑」

<萬霊供養塔>

<本堂>

西光院(さいこういん)は、河内与兵衛胤盛(寛永7(1630)年没)が開基となり創建されたと伝わっています。河内氏はもとは小田原北条氏の家臣で、小田原北条氏の没落後、竹塚村に土着し、のち徳川家に仕え、代々竹塚村の名主を務めました。
足立区内で最も大きな鋳造仏の大日如来坐像があります。 目黒不動尊の大日如来より小さいですが、西新井大師の大日如来より大きいです。
【山門前】




<札所標柱>
二基の札所標柱と正矯小学校跡碑があります。

「荒綾八十八箇所第十番 竹之塚西光院」(大正12(1923)年銘)


「新四国八十八箇所 第八十七番 西光院」(天保12(1841)年銘)


<正矯小学校跡>

(説明板)
「西光院
本院は真言宗豊山派で、正入山西光院積善寺という。
開基は、河内与兵衛胤盛(寛永八年・一六三一没)である。河内氏は、天正十八年(一五九○)小田原北条氏の没落後、この地竹塚村に土着し、のち徳川家に仕え、その一家は代々当村の名主を勤めていた。
本堂前にある銅造大日如来坐像は、智拳印を結び、宝冠をいただき、整然とした美しい顔立ちをしたものである。中央の蓮弁に、元禄十二年(一六九九)九月、河内喜衛門胤清・同久蔵・母かく・河内久左衛門等の名が、左右蓮弁には、近隣の村々の寄進者名が数多く彫られている。昭和五十七年十二月、足立区登録有形文化財(彫刻)になった。
境内にある河内久蔵碑は、河内久蔵武胤(慶応四年・一八六八没)の門人が明治十七年(一八八四)に建てたもので、隷書の大家中根半嶺の書である。昭和六十三年十一月足立区登録有形文化財(歴史資料)となった。また庚申塔(享保十一年銘)も平成十八年三月に足立区登録有形民俗文化財になった。
門前には、新四国八十八箇所と荒綾八十八箇所の標石がある。また明治十二年には、当院内で公立正矯小学校が開校された。
平成二十五年三月 足立区教育委員会」

<六地蔵>
六地蔵があります。

<河内久蔵碑> 足立区文化財
六地蔵の隣に河内久蔵碑(足立区文化財)があります。




<修行大師像>
「修行大師像」と「四国霊場お砂」があります。




<大日如来坐像> 足立区文化財
元禄12(1699)年に鋳造された像高約1.8メートルの大日如来坐像です。







<庚申塔二基> 足立区文化財
庚申塔が二基あり、両方とも足立区文化財です。


左は元禄11(1698)年銘の地蔵庚申塔です。


右は享保11(1726)年銘の青面金剛庚申塔です。

<頌徳碑>
「大僧正佐伯堅城師 頌徳碑」

<萬霊供養塔>

<本堂>


tag : 荒綾八十八ヶ所霊場
十三仏堂
○十三仏堂 足立区竹の塚5-34-14
流山道の旧日光街道への合流点から、旧日光街道を150mほど北上すると、街道から奥に入った場所に十三仏堂があります。
荒綾八十八ヶ所霊場の第33番札所です。
<十三仏堂堂宇>

<十三仏堂神輿堂>

(説明板)
「この堂は、旧保木間村の三之輪厨子によって守られてきたもので、建造年月は詳らかではない。『新編武蔵風土記稿』には「庵、行基ノ作レル虚空蔵ノ木像ヲ安ズ」とある。
十三仏とは、初七日から三十三回忌までの十三回の追善供養のために組合わせた仏のことで、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・弥陀・阿閦・大日・虚空蔵を指す。堂内には、この十三仏のうち、弥勒が欠け、大日が金剛界と胎動界の二体となっている。
十三仏は、高さ六十センチ前後の木像で、全部、同一の手法で作られている。作者や年代の刻名はない。また中央の厨子にはいった秋葉権現像があり、この像には明治六年(一八七三)、高村東雲作の銘がある。高村東雲は高村光雲の師であり、当時、廃仏毀釈の影響などで苦境にあった仏像彫刻界で伝統的な技法を守った人物である。
三之輪厨子十三戸の人々によって、これだけの仏を守護し、今なお、講中による行事が行われていることは大変珍しく、民族資料として貴重な存在であり、足立区登録有形民俗文化財となっている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」

<庚申塔など>
普門品供養の大きな碑や、六地蔵、庚申塔が複数基あります。








「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
保木間のところに「十三仏」が記載されています。その名が知られていたようです。


流山道の旧日光街道への合流点から、旧日光街道を150mほど北上すると、街道から奥に入った場所に十三仏堂があります。
荒綾八十八ヶ所霊場の第33番札所です。
<十三仏堂堂宇>

<十三仏堂神輿堂>

(説明板)
「この堂は、旧保木間村の三之輪厨子によって守られてきたもので、建造年月は詳らかではない。『新編武蔵風土記稿』には「庵、行基ノ作レル虚空蔵ノ木像ヲ安ズ」とある。
十三仏とは、初七日から三十三回忌までの十三回の追善供養のために組合わせた仏のことで、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・弥陀・阿閦・大日・虚空蔵を指す。堂内には、この十三仏のうち、弥勒が欠け、大日が金剛界と胎動界の二体となっている。
十三仏は、高さ六十センチ前後の木像で、全部、同一の手法で作られている。作者や年代の刻名はない。また中央の厨子にはいった秋葉権現像があり、この像には明治六年(一八七三)、高村東雲作の銘がある。高村東雲は高村光雲の師であり、当時、廃仏毀釈の影響などで苦境にあった仏像彫刻界で伝統的な技法を守った人物である。
三之輪厨子十三戸の人々によって、これだけの仏を守護し、今なお、講中による行事が行われていることは大変珍しく、民族資料として貴重な存在であり、足立区登録有形民俗文化財となっている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」

<庚申塔など>
普門品供養の大きな碑や、六地蔵、庚申塔が複数基あります。








「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
保木間のところに「十三仏」が記載されています。その名が知られていたようです。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 荒綾八十八ヶ所霊場
常楽寺/萬福寺
竹の塚の寺院、常楽寺と萬福寺です。萬福寺に初回訪問時には気が付かなかった出羽三山供養塔があったので、追記しました。
〇常楽寺 足立区竹の塚1-10-16
萬福寺の裏手にあります。荒綾八十八ヶ所霊場の第20番札所です。



(説明板)
「常楽寺
当寺は真言宗豊山派で観林山極楽院常楽寺という。江戸時代初期、河内与兵衛胤盛によって開基されたと伝えられている。
本尊は聖観音菩薩坐像で、江戸中期の造像と思われる。他に弘法大師坐像、興教大師坐像、閻魔坐像、六地蔵、文久二年(一八六二)の十三仏画等がある。
墓地には、地元竹塚村が生んだ江戸後期の文人、竹塚東子の墓がある。東子は実名を谷古宇与兵衛といい、寛政から文化年間(一七八九〜一八一八)にかけて著作活動をした文人である。
東子は山東京伝の門下の戯作者で、俳諧を越谷の会田吾山に学び、狂歌、落語、活花等にも秀でた風流人であった。代表作に寛政二年(一七九○)刊の『田舎談義』がある。文化十二年(一八一五)十一月十三日没、法名は喬雲醍醐居士という。墓は昭和五十七年十二月、足立区登録有形文化財(歴史資料)となった。また境内にある庚申塔(天保十一年銘)も、平成十八年三月、足立区登録有形民俗文化財になっている。
平成二十五年三月 足立区教育委員会」

<六地蔵>
六地蔵が新しいものと古いものの2組あります。



<閻魔堂>
お堂が少々貧弱で最初は物置と勘違いしました。閻魔大王の顔は怖くないです。


<庚申塔>
足立区指定文化財の庚申塔があります。青面金剛、邪鬼、三猿が刻まれた庚申塔で、右側面に天保11(1840)年、左側面に3月とあります。




<竹塚東子墓>
小林一茶は千住関屋に住んでいた建部巣兆を中心とした文化人たちとかかわり、竹塚東子などと炎天寺の周辺をよく歩きました(炎天寺HPより)。
竹塚東子は、江戸時代の文人(実名:谷古宇与兵衛)で、谷古宇家の墓域に、竹塚東子墓があります。戒名「喬雲醍醐居士」と辞世の句「冬川や瀬ぶみもしらず南無阿弥陀仏 竹翁」が刻まれています。側面に文化12(1815)年11月13日とあります。




<谷古宇家墓誌>
谷古宇家先祖代々の墓誌の一番最初に竹塚東子が刻まれています。

○萬福寺 足立区竹の塚1-1-15
寺子屋があり、明治9(1876)年に公立の竹嶋小学校が設けられました。荒綾八十八ヶ所霊場の第46番札所です。


(説明板)
「萬福寺
当寺は真言宗豊山派で、慈照山大悲院萬福寺という。
いずれも足立区登録有形文化財(歴史史料)である貞治六年(一三六七)および文明十年(一四七八)銘の板碑を所蔵し、当寺および立地する地域の古さを知ることができる。寛政六年(一七九四)には盛大な護摩供が催され、当時、この寺が興隆したようすがうかがえる。
昭和三十五年に諸堂を再建し、境内や墓域とも美しく整備された。荒綾八十八箇所第四十六番札所にあたる。
本尊は十一面観世音菩薩坐像である。両脇に弘法大師・與教大師の木造坐像があり、それぞれ厨子に納められている。その前に木造不動明王立像が安置され、いずれも江戸中期の作と思われる。
なお、当寺に明治九年(一八七六)四月、公立竹嶋小学校(同十二年二月正矯小学校と改名)が設けられ、竹塚・島根・栗原各村の子どもたちが集う、近代学校教育の先がけの場所となった。
平成二十五年三月 足立区教育委員会」


<札所碑道標>
荒綾八十八ヶ所霊場の第46番札所碑があります。
(正面)「荒綾八十八ヶ所第四十六番」
西光院への道標を兼ねています。
(正面左下)「六月村 西光院へ二丁」

<弘法大師道道標/出羽三山供養塔>
山門を入って右側、植栽に隠れて石標があります。
天保5(1834)年銘の弘法大師道道標で、出羽三山供養塔を兼ねています。
(正面)「弘法大師道」



(左側面)「月山 湯殿山 羽黒山 三所大(以下読めず、権現と思料)」頂部に冨士講の印
冨士講が出羽三山供養塔を建てた珍しい例と思われます。



<巡拝成満之碑>
「萬福寺蓮華講」により昭和62(1987)年建立。


<境内>


<本堂/寺務所>



※ まとめ終わり(パソコンサイトです)
島根六月寺社めぐり散歩②
○来迎寺
○猿仏塚
○島根古蹟庚申塔
○鷲神社
○普門寺
○六月一里塚
○六月二丁目の庚申塔
竹の塚
○西光院
○常楽寺
○萬福寺
○増田橋跡
○延命寺
○十三仏堂
○竹塚神社
○白幡塚
(参考)
島根六月寺社めぐり散歩①
○源頼義・義家 古奥州街道足跡
○栗原氷川神社
○是ヨリ左 旧奥州街道
○将軍家御成橋・御成道松並木跡
○国土安穏寺
○旧陣屋(桐田家)
○赤羽家長屋門大扉
○炎天寺①
○炎天寺②
○六月八幡神社
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白旗塚史跡公園
○白旗塚史跡公園 足立区東伊興3-10-14
源義家が白幡を掲げたと伝わっている白旗塚です。

(説明板)
「東京都指定史跡 白旗塚古墳
この付近の毛長川南岸の自然堤防上には、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳など七基からなる白旗塚古墳群が形成されていたとされますが、現存するのは白旗塚古墳のみです。足立区教育委員会が擂鉢塚古墳や甲塚古墳の推定地域を調査していますが、確認までには至っていません。擂鉢塚古墳から出土したとされる馬形・円筒埴輪から、白旗塚古墳群の基礎は六世紀と推定されます。
白旗塚古墳は直径一二メートル、高さ約二.五メートルの円墳ですが、未調査のため主体部の構造や古墳の年代はわかっていません。白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が、奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗を立てたためと言われています。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」

<風土記「白旗塚の歴史」碑文>
表面には古文で、裏面には現代文で、白旗塚の由来が記されています。
「白旗塚(現代訳文)
伊興村の東の方にあり、この塚があるために、このあたりを白幡耕地と名づけている。塚の免税地二十二歩(約七二平方メートル)は村人の所有である。むかし、八幡太郎源義家が奥州征伐の時、この所に白幡をなびかせて、戦いに勝ったことがあるということでこの名を伝えたという。もともと神社地で祠もあったが、この塚に近寄ると良くないことが起るといって村人はおそれて近寄らなかったために、祠はすたれてなくなってしまった。また、塚の上に古い松の木があったが、のちに立枯れて大風に吹き倒され、根の下から兵器などが数多く出た。その時村人が何事かと見て、その兵器の中からまだ鉄性を失っていない刀剣を持ち帰って家にしまったが、このための祟りであろうか、一家がみな大病にかかって苦しんだので、おそれをなして元のとおり塚下へ埋めて、印に松を植え継ぎしたという。塚の上の二株がこれだという。いま土地の人は、この松を二本松と呼んでいる。太さ一かこい半ばかりである。」
文中にある二本松は枯れ、六本杉となり、また松の木八本に植えかえられて今日に至っている。
昭和五十年二月六日、東京都史跡に指定された。」


<方位の石碑>
東西南北に合わせて石が置かれています。

<埴輪>

<白旗神社>
塚の上にあるので、立ち入りはできません。


源義家が白幡を掲げたと伝わっている白旗塚です。

(説明板)
「東京都指定史跡 白旗塚古墳
この付近の毛長川南岸の自然堤防上には、擂鉢塚古墳、甲塚古墳、白旗塚古墳など七基からなる白旗塚古墳群が形成されていたとされますが、現存するのは白旗塚古墳のみです。足立区教育委員会が擂鉢塚古墳や甲塚古墳の推定地域を調査していますが、確認までには至っていません。擂鉢塚古墳から出土したとされる馬形・円筒埴輪から、白旗塚古墳群の基礎は六世紀と推定されます。
白旗塚古墳は直径一二メートル、高さ約二.五メートルの円墳ですが、未調査のため主体部の構造や古墳の年代はわかっていません。白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が、奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗を立てたためと言われています。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」

<風土記「白旗塚の歴史」碑文>
表面には古文で、裏面には現代文で、白旗塚の由来が記されています。
「白旗塚(現代訳文)
伊興村の東の方にあり、この塚があるために、このあたりを白幡耕地と名づけている。塚の免税地二十二歩(約七二平方メートル)は村人の所有である。むかし、八幡太郎源義家が奥州征伐の時、この所に白幡をなびかせて、戦いに勝ったことがあるということでこの名を伝えたという。もともと神社地で祠もあったが、この塚に近寄ると良くないことが起るといって村人はおそれて近寄らなかったために、祠はすたれてなくなってしまった。また、塚の上に古い松の木があったが、のちに立枯れて大風に吹き倒され、根の下から兵器などが数多く出た。その時村人が何事かと見て、その兵器の中からまだ鉄性を失っていない刀剣を持ち帰って家にしまったが、このための祟りであろうか、一家がみな大病にかかって苦しんだので、おそれをなして元のとおり塚下へ埋めて、印に松を植え継ぎしたという。塚の上の二株がこれだという。いま土地の人は、この松を二本松と呼んでいる。太さ一かこい半ばかりである。」
文中にある二本松は枯れ、六本杉となり、また松の木八本に植えかえられて今日に至っている。
昭和五十年二月六日、東京都史跡に指定された。」


<方位の石碑>
東西南北に合わせて石が置かれています。

<埴輪>

<白旗神社>
塚の上にあるので、立ち入りはできません。



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竹塚神社
○竹塚神社 足立区竹の塚6-12-1
源義家が宿陣したと伝えられています。








(説明碑)
「竹塚神社 由緒
人皇六十四代円融天皇の御宇、天元年間伊勢皇大神観宮を遷し茲に祭る。後、天喜四年源頼義公奥州東征の折、当神社境内に宿陣相成り、明治年間に至るまで境域に環濠が存し、本営の跡と伝えられる。頼義公お手植の大樹松有り、凡そ八百年星霜隔てる嘉永二年六月六日、雷火の為に枯れるに依りて、延慶二年以来の社殿造替の用材と為せり。
明治七年村社に列せらる。明治以降氏子崇敬老よく神徳発揚、社地整備を図り面目一新す。
昭和六十一年十一月十日建之
竹塚神社宮司石倉利夫撰 」


源義家が宿陣したと伝えられています。








(説明碑)
「竹塚神社 由緒
人皇六十四代円融天皇の御宇、天元年間伊勢皇大神観宮を遷し茲に祭る。後、天喜四年源頼義公奥州東征の折、当神社境内に宿陣相成り、明治年間に至るまで境域に環濠が存し、本営の跡と伝えられる。頼義公お手植の大樹松有り、凡そ八百年星霜隔てる嘉永二年六月六日、雷火の為に枯れるに依りて、延慶二年以来の社殿造替の用材と為せり。
明治七年村社に列せらる。明治以降氏子崇敬老よく神徳発揚、社地整備を図り面目一新す。
昭和六十一年十一月十日建之
竹塚神社宮司石倉利夫撰 」


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tag : 源義家
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