堀切の花菖蒲と堀切菖蒲園

○堀切の花菖蒲

 堀切は綾瀬川の支流が流れ、花菖蒲の栽培に適した湿地帯でした。多種多様な花菖蒲が咲き誇り、多くの江戸市民が舟や駕籠で遊覧に訪れました。堀切という地名は、葛西氏の一族の城跡という説があります。

「江戸切絵図」

 「堀切村百姓伊右エ門花菖蒲之名所ナリ」とあります。

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「江戸名所図会 無題」

 「其三 関屋天満宮」と「渋江 西光寺 清重稲荷」の間に描かれている「無題」の挿絵です。葛西は四季の花を江戸に出荷し花卉栽培の盛んな土地であったことが記されています。描かれた場所はわかりませんが挿絵には、「葛西の辺は人家の後園あるハ 圃畦にも悉く四季の草花を栽並はべるかゆゑに芳香常に馥郁たり 土人開花の時を待得てこれを刈取 大江戸の市街なる花戸に出して鬻く事もっとも夥し」とあります。左下には切花が蓆で覆われています。これから出荷するのか大八車に積んで行商に出るのでしょう。
 さて、堀切では、畑での花栽培が盛んでした。市場に出荷するほか、大八車に花を積んで行商で売りにも行きました。江戸市中の人々は1日、15日は神棚に新しい花をお供えする習慣があり、それを目当にしていたようです。
 東京都立日比谷公園にある日比谷花壇も、明治5(1872)年、葛飾区堀切で創業し、花栽培、花売りをしていました。昭和25(1950年に東京都知事より要請を受けて日比谷公園に出店しています。(日比谷花壇 HP

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「絵本江戸土産 堀切の里 花菖蒲」(広重)

 挿絵には「綾瀬川の東にあり 数万株の花菖蒲その色更に数を知らす 眺望類ひあらされば毎年卯月下浣より皐月に至りて遠きを厭わす船に乗り箯に駕して都下の美女競うときハいつれか花と見紛ふはかり水陸の遊観なり」とあります。

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「名所江戸百景 堀切の花菖蒲」(広重)

 左手の遠景には、お堂とその後ろに富士山(?)が見えます。

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「東都堀切花菖蒲」(三代豊国、二代広重 安政4(1857)年 東京都立図書館)

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「江戸名所百人美女 堀切菖蒲」(豊国、国久 安政4(1857)年)

 美人の足元が草履です。舟か駕籠で訪れたのでしょう。こま絵には、水路に石橋が架かり、築山の上に茶屋が見えます。

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「東都三十六景 堀切花菖蒲」(二代広重 文久2(1862)年)

 築山の頂に設けられた茶屋から、眼下の花菖蒲を観賞しています。

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「江戸自慢三十六興 堀きり花菖蒲」(二代広重、三代豊国 元冶元(1864)年)

 通路側に品種名を示す名札が立てられています。現代と同じです。

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「三十六花撰 東京堀切花菖蒲」(二代広重 慶応2(1866)年 東京都立図書館)

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「全盛花菖蒲之図」(三代豊国)

 新吉原は、桜が散るとぼたんを植え、次は菖蒲、秋には紅葉を移植し、人工的な花見の名所でした。菖蒲が植えられた仲之町が描かれています。菖蒲は堀切からの取り寄せでしょうか。

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「千代田の大奥 花菖蒲」(楊洲周延 明治29年)

 大奥での花菖蒲の観賞が描かれています。現在も、二の丸庭園で花菖蒲の一般観覧可能です。

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【明治時代】
「東京名所四十八景 堀切しよふ婦五月雨」(昇斉一景 明治4(1871)年 都立図書館)

 菖蒲が咲いている脇では田植です。江戸時代の堀切村は、みな花作りを家業としていたので、明治に入って米作りもするようになったということですかね。

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「東京開化三十六景 堀切の花菖蒲」(三代広重)

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「美人堀切の遊覧」(楊斎延一 明治27(1894)年)

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「堀切花菖蒲」(小林清親 明治12(1879)年)

 小高園が描かれています。

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「堀切」(井上安治)

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「堀切之菖蒲」(東京風景 小川一真出版部 明治44年4月)

 明治の堀切の花菖蒲の光景です。

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○堀切菖蒲園 葛飾区堀切2-19-1

 堀切菖蒲園は、葛飾区堀切に、今日も残る唯一の花菖蒲園です。

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(説明板)
「「堀切菖蒲園」の歴史
 東京の東部低地に位置する葛飾区一帯は、江戸試合に葛西三万石ともいわれる水田地帯で、稲作のほかに野菜類や花卉(草花)の栽培が盛んな地域でした。寛政6年(1794)の地誌『四神地名録』に「いろいろの草花かぎりもなき事」という記載がみられます。
 堀切への花菖蒲伝来については、室町時代の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から持ち込んだのが起源という伝承があります。16世紀後半の『小田原衆所領役帳』に「窪寺」という名は見られますが、詳細は不明です。
 記録に残る花菖蒲栽培の始まりは、小高園の祖となる伊左衛門です。伊左衛門は父子二代にわたり、享和・文化年間(1801〜1818)頃から各地の花菖蒲を収集したほか、花菖蒲愛好家で知られる旗本の松平左金吾定朝(菖翁)や、万年録三郎からも品種を入手し繁殖に努めました。
 天保年間(1830〜1844)になると、小高家の花菖蒲は諸大名や旗本の間で評判となります。嘉永元年(1848)には十二代将軍家慶と子の家定が鷹狩の際に立ち寄ったほか、尾張藩主徳川斉荘からは「日本一菖蒲」の画賛が贈られました。
 また、初代広重などの絵師が堀切の花菖蒲を描いていることや、弘化3年(1846)に、「草花より穀物の栽培に専念すること、見物客に飲食物の提供をしない」という誓約書を代官所へ提出していることから、文人・墨客や江戸の庶民も堀切に押し寄せていたことがうかがえます。
 明治維新を迎えると、幕末に日本で最初の観光花菖蒲園として開園した小高園・武蔵園に加えて、吉野園・堀切園・観花園が明治時代後期までに相次いで開園します。さらに昭和初期にかけて、四ツ木園・菖香園・(山岸)菖蒲園が開園、花菖蒲栽培農家も多数存在しました。昭和5年(1930)の日本花菖蒲協会設立時には、堀切の花菖蒲園関係者が会員の一割を占めていました。
 しかし、都市化の進行に伴う水質汚染と第二次世界大戦下の影響が、花菖蒲園に及ぶようになります。昭和10年代にかけて武蔵園・吉野園などが閉園、戦争が激化すると、食糧難解消のために花菖蒲田は水田となっていきました。昭和17年(1942)の小高園の閉園により、堀切の花菖蒲栽培は一旦途絶えました。
 終戦後、唯一復興した花菖蒲園が堀切園です。疎開させていた花菖蒲の株を植え戻し、昭和28年(1953)に有限会社堀切菖蒲園と名を改め営業を再開しました。その後、昭和34年(1959)に都が買収、翌年に都立堀切菖蒲園が誕生しました。当初は有料でしたが、昭和47年(1972)からは無料化されます。
 そして昭和50年(1975)4月に葛飾区に移管、昭和52年(1977)には、葛飾区指定名勝に指定され、今日に至ります。現在、園内では役二百種六千株に及ぶ花菖蒲が栽培されており、その中には菖翁由来の菖翁花も含まれます。
  平成30年3月  葛飾区教育委員会」

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(説明板)
「葛飾区指定名勝
  堀切菖蒲園
    所在地 葛飾区堀切二丁目19番1号
    指定年月日 昭和52年(1977)3月19日
 この地にはじめて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではありませんが、一説によると、室町時代堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて培養させたのが始まりとも、文化年間(1804~1817)堀切村の百姓伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、本所の旗本万年録三郎から「十二一重」を、花菖蒲の愛好家松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受け繁殖させたのが始まりとも言われています。
 堀切で最初の菖蒲園は、江戸時代末期に開園した小高園で、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などの菖蒲園が開園しています。この堀切菖蒲園は堀切園の跡です。
 堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・安藤広重などの著名な浮世絵にも描かれています。また明治には『東京遊行記(明治39)』『東京近郊名所図会(明治43)』などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期は明治中期から大正末期頃だと思われます。
 園内では、「十二単衣」「酔美人」「霓裳羽衣」など希少な品種も多くみられます。」
  葛飾区教育委員会」

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<新東京名勝選外>

 「新東京名勝 選外十六景
  堀切の花菖蒲」

 昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定し、その選に漏れた十六名勝の記念碑です。

 【新東京八名勝】
 池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
 【新東京十六景】
 雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園

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<堀切菖蒲園 花菖蒲園発祥の地(静観亭)>

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【園内】

 菖蒲園の西側は綾瀬川・荒川、高速道路です。

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【花菖蒲】

<堀切三姉妹/堀切の夢>
 「堀切の祭」「堀切の舞」「堀切の君」 。令和4(2022)年に新花登録です。
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 「堀切の夢」
 平成2(1990)年に新花登録です。
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<菖翁花>

(説明板)
「菖翁花(しょうおうか)
 江戸時代後期、花菖蒲の発展に大きな功績を残したのは、旗本、松平左金吾定朝です。自らを「菖翁」と名乗り、六十年にわたって花菖蒲の改良と新品種の作出に情熱を傾けました。菖翁により作出された花を「菖翁花」といいます。安政三年には、菖翁花の集大成「花菖蒲花銘」が執筆され、百二十種に及ぶ品種が挙げられましたが、現在は十七種前後が現存するのみとなっています。
 堀切でまず花菖蒲を栽培し、江戸末期から花菖蒲園として名を馳せたのは後の小高園の祖となる伊左衛門です。文政初期には、伊左衛門が菖翁から「宇宙」、「霓裳羽衣」などの品種を譲り受けて栽培し、繁殖を図りました。その後、菖翁花が小高園から堀切園や他の花菖蒲園に広まったと考えられています。
 堀切菖蒲園では、品種の保存と江戸情緒の創出に役立てるため、現在も菖翁花の名を引継ぐ、十種余りの花菖蒲の栽培管理を行っています。
(※1)小高園
 武蔵園と並ぶ、堀切における葉菖蒲の祖。明治以降は花菖蒲をアメリカに輸出する等、数多くの功績を残した。
(※2)堀切園
 現在の堀切菖蒲園の前身。終戦後、足立に疎開させていた花菖蒲を圃場に戻すことで、復興を果たした。」

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<花菖蒲の系統/ハナショウブ、アヤメ、カキツバタの違い>

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【歌碑/句碑】

<渡辺千秋の歌碑>

 明治35(1902)年に武蔵園に建てられ、変遷を経てここに移設されています。

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(説明板)
「区登録有形文化財
  渡辺千秋の歌碑
  所在地 葛飾区堀切二丁目19番1号
  登録年月日 平成2年(1990)3月19日
 この碑には、明治から大正初期の宮内大臣、渡辺千秋が武蔵園に来遊して詠んだ和歌一首が刻まれています。

  ほりき里能のさとのあやめは老まつに
    ちよをちぎりてさ支さかかゆら舞

 渡辺千秋(1843?1921)は天保14年(1843)に信州高島藩士の子として生まれました。明治期に入ると鹿児島県令などを歴任したのち、明治25年(1892)内務次官となり、27年には貴族院議員に勅選され、さらに宮内大臣に任命されたのは明治43年(1910)のことでした。こうして千秋は政府高官として活躍しましたが、その一方『千秋歌集』を著すなど歌人としても著名で、彼の多彩な才能がしのばれます。
 なお、この碑はもともと明治35年(1902)武蔵園主吉木磯吉によって同園内に建てられたものですが、武蔵園が廃園となり、幾多の変遷を経て、平成24年(2012)奥村敞氏から区へ寄贈され、現在に至っています。
  葛飾区教育委員会」

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<松野自得句碑>

 「石 長野県産霧ヶ峯 句 松野自得」
 「天日に菖蒲の花の白まぶし 自得」

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<鳴鶴堂梥雄句碑>

 「花びらに雲をささえて朝菖蒲」
 裏に「明治庚戌初夏」とあり、明治43(1910)年に「五老井社中」による建立です。

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<中村汀女句碑>

 「花菖蒲かがやく雨の走るなり」

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(碑文)
「花菖蒲かがやく雨の走るなり
中村汀女先生の作 昭和五十九年六月二十日 当堀切菖蒲園に遊びこの句をよんだ
先生は明治三十三年熊本に生まれ高浜虚子に師事 昭和二十二年俳誌「風花」を創立主宰し今日に至る
昭和四十七年勲四等宝冠賞を受け、五十五に文化功労者となり五十九年には日本芸術院賞を授けらる
句集「紅梅」ほか多数の著書がある
  昭和六十年六月  葛飾区長 小日向毅夫」

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<石祠>

 石祠があります。

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<手水場>

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<休憩所>

 休憩所には、「浮世絵に見る堀切の花菖蒲」「古絵葉書写真」「堀切地区と花菖蒲園の歴史」「花菖蒲番付」が掲示されています。

「浮世絵に見る堀切の花菖蒲」

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「堀切菖蒲園等古絵葉書写真」

 「堀切園」「武蔵園」「吉野園」「小高園」「観花園」」

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「堀切地区と花菖蒲園の歴史」「花菖蒲番付」

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六町神社(地蔵堂)/六町加平橋/えぼ地蔵

○六町神社 足立区六町1-11-20

 かつての六町は大部分が竹の塚村と六月村の飛地でした。昭和8(1933)年に六町が成立した機会に六月町の八幡神社、竹ノ塚町の竹塚神社の御分霊を清水家邸内社の三峰神社に合祀し六町神社が成立しました。

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<六町神社の由緒>

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<狛犬(狼)/社殿>

 狛犬は、三峰神社由来の狼でしょうか。

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○六町神社社務所 足立区六町1-11-21

 六町神社の境内より、社務所の境内のほうがべらぼうに広いです。

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<鷲大明神・矢納弁才天道 道標> (不動院で記載の再掲)

 鷲大明神・矢納弁才天への道標があります。道標の正面が玉垣の真裏に面しているので、正面が見えにくいです。

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 (正面)「鷲大明神 矢納弁才天 道」
 (右面)「東 八条領 二合半領 道
       榎戸 八丁 千住 壹里」
 (左面)「西 此道馬ひく編可ら須」
 (裏面)「□永二年 酉二月」
     ※「□永二」と「酉」の組合せは宝永と嘉永のみ。宝永2(1705)年か、嘉永2(1849)年のどちらか。

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※「馬ひくべからず」とあるのは、下妻街道は参詣者が多く安全確保とか、宗教上の理由からでしょうか。下妻街道は馬を曳いて下肥を運べないとなるので、下肥は綾瀬川を舟で運んでいたこととなります。
   
 「東都花暦 隅田堤之桜」(英泉)では、隅田堤を長綱で馬を曳いています。明治時代になると東京府内は条例で長綱で馬を曳くことや、下肥の桶に蓋をしないことは禁止されました。

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<漱水>

 「漱水」と刻まれた手水鉢があります。最初、明治45年9月と読みましたが、明治45年は7月で終わっているので、明治15年でしょうか?

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<土地整美記念/力石>

 大きな土地整美記念碑の裏に、力石が二基並んでいます。

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【庚申塔/地蔵堂/道標など】

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<庚申塔>

 寛政5(1793)年銘の笠付庚申塔です。

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<地蔵堂札所碑/円泉寺道標>

 荒綾八十八ヶ所霊場第22番の地蔵堂の札所碑と思われます。荒綾八十八ヶ所霊場第71番の円泉寺(加平2-6-16)への道標も兼ねているようです。

 「第二十二番地蔵堂」
 「是・・・円泉寺へ 十丁」

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<弘法大師像?>

 隣に弘法大師霊場の札所碑があるので、もしかして第22番札所の弘法大師座像でしょうか。

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<とろけ地蔵>

 とろけてしまっている地蔵像です。地蔵堂のご本体の地蔵でしょうか。

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<地蔵頭部/石祠>

 綾瀬川の新加平橋上流で発見された地蔵の頭部です。新加平橋下流(旧嘉兵衛橋袂)で発見された「えぼ地蔵」(足立区加平)の頭部と考えられています。

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<石祠>

 文字が全く読めないのが残念。

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<不詳供養塔>

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<宝永三年(1706)銘道標> (不動院で記載の再掲)

 宝永3(1706)年銘の蛇体(宇賀神)を主尊とする「花又村 不動院」への道標です。足立区立郷土博物館に保存されている道標(移設元:下妻街道青井)と同型です。

 「是より□□□
  花又村 不動院ヘヨシ
  施主 中村□太夫」

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○六町加平橋(六町河岸) 足立区六町1-9〜加平2-22

 綾瀬川に架かる内匠橋と新加平橋の間に六町加平橋があります。令和3(2021)年3月に全面開通しています。

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 かつて六町には河岸があり、六月村の米の集積所だったようです。 (足立区立郷土博物館展示資料より)

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○えぼ地蔵(塩地蔵) 足立区加平1-2-37

 首都高速6号線加平ランプ裏の道路沿いに小さな祠があります。この祠に祀られているのが「えぼ地蔵」です
 「えぼ地蔵」は、元禄8(1695)年頃に綾瀬川の拡張工事を行なった際、嘉兵衛橋(現:新加平橋のすぐ下流)のすぐ上から発見され、嘉兵衛橋東詰に祠が建てられ、昭和39(1964)年に区画整理で現在地に移されたそうです。

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 右にある小さい地蔵が本来のえぼ地蔵で、大きい地蔵は後から作られたもののようです。両地蔵とも頭部はありません。胴体だけのえぼ地蔵ですが、新加平橋の上流から発見された地蔵の頭部が「えぼ地蔵」の頭部と考えられているとのことです。頭部は、六町神社の覆屋に祀られています。

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tag : 綾瀬川荒綾八十八ヶ所霊場力石

不動院(矢納弁天)

○江亀山不動院(矢納弁天) 足立区南花畑3-25-8

 不動院は、天喜2(1054)年に開山されたと伝えられています。荒綾八十八ヶ所霊場85番札所です。
 矢納弁天社は、源義光が矢を納めたことから矢納弁天と称されるようになったといわれています。また、花又村は源義光が名付けたと伝えられています。

「東都花暦名所案内」

 「東都花暦名所案内」に「矢納弁天」と記されています。江戸時代には鷲明神とともに認識されていたことが伺えます。

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【下妻街道の道標】

<宝永三年(1706)銘道標> 足立区立郷土博物館(移設元:足立区青井5-1下妻街道)

 宝永3(1706)年銘の蛇体(宇賀神)を主尊とする「花又村 不動院」への道標です。

 「是より□□□
  花又村 不動院ヘヨシ
  施主 中村□太夫」

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<宝永三年(1706)銘道標> 六町神社社務所(足立区六町1-11-21)

 宝永3(1706)年銘の蛇体(宇賀神)を主尊とする「花又村 不動院」への道標です。上記と同型です。

 「是より□□□
  花又村 不動院ヘヨシ
  施主 中村□太夫」

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<鷲大明神・矢納弁才天道 道標> 六町神社社務所 足立区六町1-11-21

 鷲大明神・矢納弁才天への道標が六町神社にあります。

 (正面)「鷲大明神 矢納弁才天 道」
 (右面)「東 八条領 二合半領 道
       榎戸 八丁 千住 壹里」
 (左面)「西 此道馬ひく編可ら須」
 (裏面)「□永二年 酉二月」
     ※「□永二」と「酉」の組合せは宝永と嘉永のみ。宝永2(1705)年か、嘉永2(1849)年のどちらか。

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※「馬ひくべからず」とあるのは、下妻街道は参詣者が多く安全確保とか、宗教上の理由からでしょうか。下妻街道は馬を曳いて下肥を運べないとなるので、下肥は綾瀬川を舟で運んでいたこととなります。
   
「東都花暦 隅田堤之桜」(英泉)では、隅田堤を長綱で馬を曳いています。明治時代になると東京府内は条例で長綱で馬を曳くことや、下肥の桶に蓋をしないことは禁止されました。 

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<不動院山門>

 山門左手に寺号標、右手に霊場札所碑などがあります。

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<三界萬霊塔>

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<札所碑等>

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 左は上半分が折れて失われているようです。蛇体(宇賀神)が陽刻された道標の下半分と表記がそっくりです。

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 右が荒綾八十八ヶ所霊場85番札所の札所碑です。

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<庚申塔四基>

 本堂右脇に庚申塔が四基並んでいます。

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左から、
・寛文7(1667)年銘の三猿庚申板碑
 中央「奉待庚申二世安樂処」

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・明和4(1767)年銘の青面金剛庚申塔

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・造立年不詳の青面金剛庚申塔

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・弘化3(1846)年銘の庚申文字塔
 台座に「榎戸講」

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(説明板)
「不動院の庚申塔群
 正面に向かって左から寛文七年(一六六七)銘・明和四年(一七六七)銘・年不詳・弘化三年(一八四六)銘
 不動院は山号を江亀山、寺号を薬王寺とする真言宗豊山派寺院である。寺伝によれば天喜二年(一〇五四)、源範僧都開山とされ、本尊薬師如来を安置する。
 山門を入って右、本堂脇に立つ四基の石造物は庚申塔と呼ばれる。
 庚申塔は、我が国で平安時代以来盛んであった庚申信仰に基づいて造立された。この信仰は古代中国の道教から発生し、六十日でひと回りする十干十二支の「庚申」の夜、寝入ると体内から三尸という虫が天に昇りその人の日頃の悪事を天帝に告げ、寿命が縮まるので徹夜をして三尸が抜け出るのを防ぎ長寿を祈る俗信である。時代が下ると庶民にも広がり、江戸時代には村々に講が結成され、順番に宿を決め寄り集まって夜通し娯楽に興じることが主な目的となった。三年で結願とされ、庚申塔が造立された。
 庚申信仰が石造物として最初に現れるのは中世の板碑である。寛文七年銘の板碑型の形態は、庚申塔が板碑から他の形へ移行する過程で多く造立された。明和四年銘は駒型で、庚申塔として最も典型的な青面金剛が陽刻される。この二基は、複数の造立者名とともに三猿を刻んでいる。年不詳の庚申塔は、角柱型で青面金剛が邪鬼を踏んでいる。弘化三年銘は駒形で、「庚申塔」と文字が刻まれている。台石には、「榎戸講」というこの付近にあった講の名が刻まれている。一般的には青面金剛等の主尊を刻まず、文字を刻む庚申塔は、新しいものが多く、この庚申塔も江戸時代末期に造立されたものである。
 四基の庚申塔は、旧花又村内に造立されたものが後に不動院に集められたと思われる。江戸時代の地域の信仰や習俗を知る資料として、いずれも平成十八年三月に足立区登録有形民俗文化財となった。
  平成二十二年三月  足立区教育委員会」

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<矢納弁財天>

 本堂右手奥に、昭和51(1976)年に再建された矢納弁財天堂があります。後三年の役の戦勝祈願の成就をした源義光が矢を納めたことから、矢納弁天と称されるようになったといわれています。

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<手水鉢>

 宝暦14(1764)年銘の手水鉢です。

 「宝暦十四甲申三月吉日」
 「神田大工町 勝田利右衛門」

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<狛犬>

 「榎戸 若者中」の奉納です。

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<矢納弁財天堂>

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<矢収辯財天供養塔>

 新羅三郎義光の名が刻まれている嘉永2(1849)年銘の矢収辯財天供養塔です。蛇体(宇賀神)が陽刻されています。弁財天は音楽・芸能の上達に霊験があり、江戸時代には「花柳界」の芸子たちに特に篤く信仰されました。綾瀬川を舟で上り、あるいは千住から下妻道を利用して、多くの参詣者が訪れました。

 (正面)「新羅三郎□□朝臣」
     「矢収辯財」
 (左側面) 「嘉永二〜建之」の銘があります。
 (右側面) 願主が刻まれていますが破損で読めません。

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<奉献石燈籠>

 寛永9(1632)年に、信濃上田藩第二代藩主の仙石政俊が増上寺の台徳院霊廟に奉献した石燈籠です。台徳院は2代将軍・秀忠です。今まで見た奉献石燈籠の中で、一番の大きさです。

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 「奉拜進
  台徳院殿 尊前」
 「寛永九壬申年七月二十四日」(二が赤く塗られていない)
 「仙石兵(介?)源政俊」

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<修行大師像/六地蔵等>

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<本堂>

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 本堂右手に、再建寛政記念碑があります。
 「本堂 弁財天堂 山門客殿庫裡
  不動院再建完成記念碑
  昭和五十一年四月」

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tag : 綾瀬川花畑源義光奉献石燈籠荒綾八十八ヶ所霊場

内匠本町/七面神社/内匠橋

○内匠本町

 内匠本町は、昭和53(1978)年2月に実施された住居表示により、南花畑の一部となった地域です。町内会名や児童遊園名、内匠橋の名称等にその名残りを留めています。住民のほとんどが芦川姓で、日蓮宗を信仰し七面神社を氏神とし、他地区にない特徴があります。

 内匠という名前はその昔、武田氏の家臣だった芦川内匠がこのあたりに土着し、新田開発に従事したからと伝えられています。江戸時代、この地は内匠新田と呼ばれました。

 パネル「移住と開発の奨励」から抜粋(足立区立郷土博物館)
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○七面神社 足立区南花畑3-17-5

 武田氏の家臣だった芦川内匠がこのあたりに土着し、一族の守護神として七面神社を祀ったと伝えられています。 七面大明神は、日蓮宗信仰の総本山・身延山久遠寺の守護神です。 江戸の中では延命院の七面大明神が、江戸名所の一つとして多くの参詣者を集めました(こちらで記載)。
 七面神社の土地は、元は芦川家の所有地で、境内には芦川家の墓地があります。 境内には「内匠本町会館」があり、「内匠本町児童遊園」が併設されています。

 鳥居と参道。左手に芦川家の墓地があります。

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 参道には階段の脇にスロープが設けられています。歌碑?があります。社殿前に絵馬掛けがあります。

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 手水鉢、社殿と扁額「七面大明神」

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 社殿内と参道を振り返ったところ。

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<内匠本町会館> 足立区南花畑3-17-5

 「内匠本町会館」は、七面神社の境内にあります。

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<内匠本町児童遊園> 足立区南花畑3-17-5

 「内匠本町児童遊園」は、七面神社に併設された児童遊園です。内匠本町会が清掃や除草を行っています。

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○内匠橋 足立区南花畑3丁目〜神明1丁目

 綾瀬川に架かる内匠橋の両岸には、かつて榎戸河岸がありました。榎戸河岸には、江戸への乗り合いの船もあり、鷲大明神社や矢納弁天社への参詣にも利用されました。

<小林一茶と榎戸>

 文化7(1810)年6月13日、小林一茶は、桜井蕉雨を伴い二郷半領(三郷市)の文人加藤定雅を訪ねました。二人は山谷で猪牙舟に乗り隅田川から綾瀬川に入り、榎戸で舟を下りて食事をとりました。
 小菅川(綾瀬川)に入り合歓の木が盛りなのを見て、
  「古舟もそよそよ合歓のもやう哉」(一茶)
  「遠くからくゝり支度や竹の露」(一茶)
  「向の木合歓の仲間の花らしや」(蕉雨)
 江戸に出荷される茄子やささげの野菜の中に夏菊を見て、
  「朝涼に菊も一艘通りけり」(一茶)
 舟を降り流山道に歩みを進めるにあたって、
  「合歓の露浴ねばならぬ支度哉」(一茶)
 などと詠みました。(七番日記より)

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 上流
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 下流
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 スカイツリーが見えます
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<花畑・六木の分岐点道標> 足立区立郷土博物館(移設元:内匠橋)

 花畑・六木の分岐点(内匠橋)にあった道標が足立区立郷土博物館に保存されています。明和4(1767)年銘の「庚申講中」による道標です。「庚申講中」が造立したので、道標型庚申塔ですか?

 (正面)「左 棋戸道 是ゟ千住迄 一里半」
 (右面)「右 ニがう半道 是ゟ戸ヶ崎渡場迄 廿丁」
     「明和四丁亥十一月吉日庚申講中」

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<武州渕江米の集積所>

 榎戸河岸は武州渕江米の保木間村、伊興村、竹塚村の集積所だったようです。(足立区立郷土博物館展示資料より)

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tag : 綾瀬川花畑邸内社小林一茶

神明六木遊歩道(武蔵野の路)

○神明六木遊歩道(武蔵野の路) 足立区神明1丁目〜神明3丁目〜六木3丁目

 垳川は、古綾瀬川を締め切った川で、西端は綾瀬川、東端は中川にそれぞれ接し、中間で葛西用水と交差します。綾瀬川、中川とは遮断され、「垳」「小溜井」と称されていました。
 神明六木遊歩道は、垳川沿いに続く足立区側の遊歩道です。武蔵野の路の舎人コースになっています。


<足立区小溜井排水場> 足立区神明1-12-6

 綾瀬川を締め切った場所で、ここから垳川(古綾瀬川)沿いに遊歩道が始まります。

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<神明六木遊歩道入口>

 神明六木遊歩道入口に、案内板「武蔵野の路(舎人コース)」と遊歩道案内図があります。

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<距離標>

 「綾瀬川から70m 中川から2110m」 トータルで、2,180mです。

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<平成泉橋(人道橋)> 足立区神明1丁目〜埼玉県八潮市浮塚

 平成6(1994)年に架けられた人道橋です。平成7(1995)年に、国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。
 欄干にはカワセミがいます。水処理施設がありますが、故障との掲示でした。

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 足立区の花「チューリップ」の石板がはめられています。
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 平成泉橋から上流
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 平成泉橋から下流
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 遊歩道は森の中を進みます。

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<小溜井引入水門橋> 足立区神明3丁目・六木3丁目〜埼玉県八潮市垳

 葛西用水との交差にある小溜井引入水門の脇の橋です。

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<小溜井引入水門>

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<小溜井引入口圦> 足立区郷土博物館

 足立区立郷土博物館に、小溜井引入口圦(画像上)が保存されています。

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<葛西第一水門>

 葛西用水は垳川に交差し、葛西第一水門から下流に流れていきます。

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<ふれあい桜橋> 足立区六木3丁目〜埼玉県八潮市

 垳川に架かる「ふれあい桜橋」は、つくばエクスプレス八潮駅が開業した平成17(2005)年に開通しました。

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<垳川排水機場> 埼玉県八潮市垳

 垳川の終端です。

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<神明六木遊歩道入口> 足立区六木3丁目

 案内板「武蔵野の路(舎人コース)」があります。

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