大聖寺(関原不動尊)と道標
○大聖寺(関原不動尊) 足立区関原2-22-10
真言宗豊山派の寺院で関原山不動院大聖寺と号します。山号が関原の地名由来となっている寺です。 荒綾八十八ヶ所霊場の第9番札所です。





<大聖寺>
(説明板)
「大聖寺
本寺は寺蹟によると、応永年間(一三九四?一四二八)に小宮光?が関原の地に草堂を建て、不動明王を安置し、その後、天正十三年(一五八三)に再建成就して、名を聞原山不動院大聖寺と定めたという。
江戸時代には、江戸の庶民の熱い信仰を受けた。現在の本堂(足立区登録有形文化財)は、嘉永元年(一八四八)の建立で、区内随一の木造伽藍であるが、これは深川木場の講中が材木その他を寄進して再建されたものである。本|堂中央の中の間の天井には九十九枚の彫刻がある。欅の木目を美しく生かし、彫りも深く、美麗精巧な美術品である。
また、八代目市川團十郎奉納木造提灯扁額(足立区登録有形文化財)は、提灯本体に大きく「八代目」と記され、奉納の目的を父の寿海老人白狼(七代目市川團十郎)が記しており、著名な歌舞伎役者の家である市川家が大聖寺を信仰Lていたことを伝えている。
本寺草創の由来を刻んだ関原不動尊略?起、世に鉄眼版の名で知られる大般若経六百卷、文明年間(一四六九?八七)の板碑二基なども蔵し、いずれも足立区登録文化財となっている。その他、本尊の不動明王 (秘仏) を中心に八大童子像や百体の小観音像などがある。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」

【不動明王像道標三基】
山門前に不動明王像道標が三基並んでいます。左から見ていきます。

<不動明王像道標>
嘉永4(1851)年銘の道標です。
(正面)不動明王坐像「関原山」
(左側面)「是より十壱町」



<不動明王像道標>
享和3(1803)年銘の道標です。
(正面)不動明王坐像「不動尊道 関原山 大聖寺」
(左側面)「これより 二町」




<不動明王道標>
嘉永元(1848)年銘の道標です。
(正面)「関原山不動明王」
(右側面)「厄除弘法大師」「是より 十六町」




<百度石>
嘉永4(1851)年銘の百度石です。

<力石>
力石があります。「六十貫目」と彫られています。


<百観音巡拝記念>


<和合会諸霊位>

<五文字題句碑>
天保6(1837)年銘の五文字題句碑です。

<訓導田中富次郎之墓>
墓地ではなく境内にある墓碑です。

<不詳>
表面が半分崩壊している石碑です。読めません。


<手水舎>
手水舎は細かい彫が施されています。手水鉢は、天保3(1932)年銘です。



<天水桶>
平成元年奉納の天水桶。「鋳物師 鈴木文吾」
東京オリンピック(昭和39年)の聖火台を鋳造した鋳物師の鈴木文吾氏が鋳造した「天水桶」です。


<本堂> 足立区文化財



○関原八幡神社 足立区関原2-35-22
関原八幡神社は、大聖寺の境内に鎮座していましたが、明治の「神仏分離令」により、明治3(1870)年に当地に移転しています。






<八紘一宇>


○廻国塔道標 足立区関原1-6-24
江北橋通りと消失している梅田堀の交差する地点に「梅田上町プチテラス」があります。防災機能が整備され、かまどベンチ、防災マンホールトイレ、防火貯水槽などが設置されています。2006年4月にオープン。プチテラス前の路上にはカラーマンホール蓋があります。
プチテラスの一角に、天保7(1836)年銘の廻国塔道標があります。大聖寺及び明王院への参詣路を示す道標となっています。





<廻国塔道標>
(正面) 「奉納 西國秩父坂東 現當二世(安楽)也」
(正面左)「関原山不動尊道」
(正面右)「右 當村不動尊道」
(左側面)「向テ 右リ千住掃部宿 左リ千住五町目道」
(台石左面)「拾七丁 十五丁」
(台石右面)「すぐ せき 原山 みち」




(説明板)
「天保七年銘道標
右側面に天保七年(一八三六)三月と造立年を刻んだこの石柱は、「当村不動尊」である明王院と「関原山不□□(動尊)」こと大聖寺への参詣路を示す道標である。造立を発起したのは小宮仙右衛門・勝間倉右衛門・堀口岩右衛門等三名の梅田村住人であることが台石正面に刻まれている。この三名は西国・秩父・坂東の各霊場に巡拝したことを機に、現世と来世の平穏を祈って道標を奉納したことが本体正面に見えている。
近年まで道標は、造立主の子孫の方により保存されてきた。当初の地点は不明であるが、現在この道標が移設された、この場所の前の道路に沿ってあった梅田堀沿いにあったものという。左側面には、千住掃部宿(千住仲町)へ十七丁(約一・九キロ)、千住五町目道(千住五丁目)へ十五丁(約一・六キロ)と、それぞれ大師道と日光道中を経て江戸時代の千住宿の中央と北端へ至る距離が記されている。
従来から明王院は通称「赤不動」、大聖寺は「関原不動」の名で地域の人々に親しまれてきた。足立区周辺にも参詣路が設定され、江戸市中の人々の来訪が盛んだったことを、大聖寺に保存された他の道標ともども物語っている。
平成十八年四月 足立区教育委員会」



○不動道大師道道標 足立区本木1-19-8
本木新道沿いにある「本木一丁目プチテラス」に、天保6(1835)年銘の道標があります。



(正面)「関原山 不動尊」
(右側面)「ふどう だ以し 道」



<本木の起こり>


真言宗豊山派の寺院で関原山不動院大聖寺と号します。山号が関原の地名由来となっている寺です。 荒綾八十八ヶ所霊場の第9番札所です。





<大聖寺>
(説明板)
「大聖寺
本寺は寺蹟によると、応永年間(一三九四?一四二八)に小宮光?が関原の地に草堂を建て、不動明王を安置し、その後、天正十三年(一五八三)に再建成就して、名を聞原山不動院大聖寺と定めたという。
江戸時代には、江戸の庶民の熱い信仰を受けた。現在の本堂(足立区登録有形文化財)は、嘉永元年(一八四八)の建立で、区内随一の木造伽藍であるが、これは深川木場の講中が材木その他を寄進して再建されたものである。本|堂中央の中の間の天井には九十九枚の彫刻がある。欅の木目を美しく生かし、彫りも深く、美麗精巧な美術品である。
また、八代目市川團十郎奉納木造提灯扁額(足立区登録有形文化財)は、提灯本体に大きく「八代目」と記され、奉納の目的を父の寿海老人白狼(七代目市川團十郎)が記しており、著名な歌舞伎役者の家である市川家が大聖寺を信仰Lていたことを伝えている。
本寺草創の由来を刻んだ関原不動尊略?起、世に鉄眼版の名で知られる大般若経六百卷、文明年間(一四六九?八七)の板碑二基なども蔵し、いずれも足立区登録文化財となっている。その他、本尊の不動明王 (秘仏) を中心に八大童子像や百体の小観音像などがある。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」

【不動明王像道標三基】
山門前に不動明王像道標が三基並んでいます。左から見ていきます。

<不動明王像道標>
嘉永4(1851)年銘の道標です。
(正面)不動明王坐像「関原山」
(左側面)「是より十壱町」



<不動明王像道標>
享和3(1803)年銘の道標です。
(正面)不動明王坐像「不動尊道 関原山 大聖寺」
(左側面)「これより 二町」




<不動明王道標>
嘉永元(1848)年銘の道標です。
(正面)「関原山不動明王」
(右側面)「厄除弘法大師」「是より 十六町」




<百度石>
嘉永4(1851)年銘の百度石です。

<力石>
力石があります。「六十貫目」と彫られています。


<百観音巡拝記念>


<和合会諸霊位>

<五文字題句碑>
天保6(1837)年銘の五文字題句碑です。

<訓導田中富次郎之墓>
墓地ではなく境内にある墓碑です。

<不詳>
表面が半分崩壊している石碑です。読めません。


<手水舎>
手水舎は細かい彫が施されています。手水鉢は、天保3(1932)年銘です。



<天水桶>
平成元年奉納の天水桶。「鋳物師 鈴木文吾」
東京オリンピック(昭和39年)の聖火台を鋳造した鋳物師の鈴木文吾氏が鋳造した「天水桶」です。


<本堂> 足立区文化財



○関原八幡神社 足立区関原2-35-22
関原八幡神社は、大聖寺の境内に鎮座していましたが、明治の「神仏分離令」により、明治3(1870)年に当地に移転しています。






<八紘一宇>


○廻国塔道標 足立区関原1-6-24
江北橋通りと消失している梅田堀の交差する地点に「梅田上町プチテラス」があります。防災機能が整備され、かまどベンチ、防災マンホールトイレ、防火貯水槽などが設置されています。2006年4月にオープン。プチテラス前の路上にはカラーマンホール蓋があります。
プチテラスの一角に、天保7(1836)年銘の廻国塔道標があります。大聖寺及び明王院への参詣路を示す道標となっています。





<廻国塔道標>
(正面) 「奉納 西國秩父坂東 現當二世(安楽)也」
(正面左)「関原山不動尊道」
(正面右)「右 當村不動尊道」
(左側面)「向テ 右リ千住掃部宿 左リ千住五町目道」
(台石左面)「拾七丁 十五丁」
(台石右面)「すぐ せき 原山 みち」




(説明板)
「天保七年銘道標
右側面に天保七年(一八三六)三月と造立年を刻んだこの石柱は、「当村不動尊」である明王院と「関原山不□□(動尊)」こと大聖寺への参詣路を示す道標である。造立を発起したのは小宮仙右衛門・勝間倉右衛門・堀口岩右衛門等三名の梅田村住人であることが台石正面に刻まれている。この三名は西国・秩父・坂東の各霊場に巡拝したことを機に、現世と来世の平穏を祈って道標を奉納したことが本体正面に見えている。
近年まで道標は、造立主の子孫の方により保存されてきた。当初の地点は不明であるが、現在この道標が移設された、この場所の前の道路に沿ってあった梅田堀沿いにあったものという。左側面には、千住掃部宿(千住仲町)へ十七丁(約一・九キロ)、千住五町目道(千住五丁目)へ十五丁(約一・六キロ)と、それぞれ大師道と日光道中を経て江戸時代の千住宿の中央と北端へ至る距離が記されている。
従来から明王院は通称「赤不動」、大聖寺は「関原不動」の名で地域の人々に親しまれてきた。足立区周辺にも参詣路が設定され、江戸市中の人々の来訪が盛んだったことを、大聖寺に保存された他の道標ともども物語っている。
平成十八年四月 足立区教育委員会」



○不動道大師道道標 足立区本木1-19-8
本木新道沿いにある「本木一丁目プチテラス」に、天保6(1835)年銘の道標があります。



(正面)「関原山 不動尊」
(右側面)「ふどう だ以し 道」



<本木の起こり>


吉祥院
○吉祥院 足立区本木西町17-5 HP
<山門>
山門に掲げられているのは扁額「淵江山」で、文化財の扁額は非公開です。




山門表には仁王像。


山門裏には左に普賢菩薩、右に文殊菩薩。




(説明板)
「吉祥院
当寺は真言宗豊山派に属し、渕江山吉祥院星谷寺と称する。 本尊は大日如来(金剛界)である。開山の時期には諸説あるが、室町時代と推定されている。
『新編武蔵風土記』には、徳川家康から五石の朱印地を授与されたとある。以降、将軍の代替わりごとに寺領が安堵された。江戸時代は京都仁和寺を本寺とし、三十三ヶ寺もの末寺を持つ中本寺であった。その格式により、正月四日に江戸城に年賀のため登城する際、住職が用いた葵紋を付けた駕籠も現存している。
境内には、享保二年(一七四二)に建立され、平成十四年(二○○二)に現在地(常念坊)に移築された旧山門や、寛永五年(一六二八)の銘を持っ宝筐印塔がある。また、本堂内には、元禄六年(一六九三)に吉祥院に寄進された木造弁才天坐像、宝永二年(一七○五)に十四世義真が購した大般若経(付・廻村什具)、寛保元年(一七四一)に宝鏡院宮が染筆した扁額「渕江山」などが収蔵されている。他にも、板碑や庚申塔なども多数ある。
吉祥院に残されたこれらの文化財は、いずれも区の登録文化財となっており、当寺の誇る歴史の重さを今に伝えている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」

<石造物四基>
山門手前左手に石造物が四基並んでいます。左から順に見ていきます。

<弘法大師道道標>
中央 「弘法大師道吉祥院」と刻まれています。
右脇 「荒川附廿一箇所第七番 本木是ヨリ二丁」
右側面 明治36(1903)年3月の記銘です。


<角柱型庚申塔>
地蔵菩薩を主尊とする延宝4(1676)年銘の庚申塔です。




<地蔵菩薩像>
万治元(1658)年銘の地蔵菩薩像です。

<荒綾八十八ヶ所札所碑/道標>
中央「荒綾八十八ヶ所第八十番 本木吉祥院」とあり、第八十番札所碑です。
左脇「是ヨリ寺地瑞應寺へ三丁半」と瑞応寺への道標も兼ねています。

<三霊場札所>
一番右は三霊場の札所碑となっています。

<案内図と説明板>
山門に令和元(2019)年の新しい説明板があり、境内には平成24(2012)年の説明板があります。
(説明板)
「吉祥院
当寺は真言宗豊山派に属し、淵江山吉祥院星谷寺と称する。本尊は大日如来である。開山の時期には諸説あるが、室町時代と推定されている。
『新編武咸風土記稿』には、徳川家康から五石の朱印地を授与されたと見え、家光以下、将軍の代替わりに寺領が安堵された。江戸時代は京都・仁和寺を本寺とし、多くの末寺・門徒を擁した中本寺であった。その格式により、正月四日に江戸城に年賀のため登城する際、住職が用いた葵紋を付けた駕籠も現存している。
当寺は足立区登録有形文化財(建造物)吉祥院旧山門、吉祥院宝篋印塔(寛永五年在銘)、区登録有形文化財(書籍)扁額「渕江山」(宝鏡院宮染筆)、区登録有形文化財(典籍)大般若経(付・迴村什具)、区登録有形文化財(歴史資料)応永年間(一三九四〜一四二八)銘他の板碑、区登録有形民俗文化財寛文五年(一六六五)銘他の庚申塔等くの文化財を有している。
平成二十四年三月 足立区教育委員会」


<手水舎>
手水舎は井戸です。


四天王の童子が四方を守護しています。
北「多聞天童子」

西「広目天童子」

東「持国天童子」

南「増長天童子」です。

<客殿>

<欅の大木>
欅の大木が多い樹林です。



<外灯と四阿>


【庚申塔四基】
四基とも足立区文化財に登録されています。

<庚申塔型石橋供養塔> 足立区文化財
一番左は元禄8(1695)年銘の石橋供養塔です。
正面「庚申供養」(その下に「念佛」を追刻)
裏 「石橋二ヶ所供養□□□□」と刻まれています。


<駒型庚申塔> 足立区文化財
左から二番目は年不詳の駒型庚申塔です。

<庚申塔板碑> 足立区文化財
寛文5(1665)年銘の板碑型庚申塔です。中央に三猿が陽刻されています。



<阿弥陀如来庚申塔> 足立区文化財
一番右は元禄2(1689)年銘の阿弥陀如来の庚申塔です。


<巡拝記念碑>
「秩父坂東西國 百観音巡拝記念」
昭和52(1977)年4月の建立です。


<宝筐印陀羅尼塔>
延享2(1746)年銘の宝筐印陀羅尼塔です。

<水子地蔵尊>

<鐘楼堂>
天明3(1783)年に建立された鐘楼堂です。

<稲荷社>
鐘楼堂の裏に稲荷社があります。

<石燈籠型庚申塔> 足立区文化財
天和2(1682)年銘の石燈籠竿の庚申塔です。鐘楼堂の裏にあります。足立区文化財の寛永5(1628)年銘の宝筐印塔も並んでいます。





<南無大師遍照金剛>


<本堂>
葵の紋がいたるところに見えます。






○旧吉祥院山門 足立区本木西町13-3 常念坊 足立区文化財
吉祥院に隣接する境外墓地に常念坊があり、吉祥院の旧山門は、現在は常念坊の山門となっています。 寛保2(1742)年に建立の旧吉祥院山門です。
<山門>
山門に掲げられているのは扁額「淵江山」で、文化財の扁額は非公開です。




山門表には仁王像。


山門裏には左に普賢菩薩、右に文殊菩薩。




(説明板)
「吉祥院
当寺は真言宗豊山派に属し、渕江山吉祥院星谷寺と称する。 本尊は大日如来(金剛界)である。開山の時期には諸説あるが、室町時代と推定されている。
『新編武蔵風土記』には、徳川家康から五石の朱印地を授与されたとある。以降、将軍の代替わりごとに寺領が安堵された。江戸時代は京都仁和寺を本寺とし、三十三ヶ寺もの末寺を持つ中本寺であった。その格式により、正月四日に江戸城に年賀のため登城する際、住職が用いた葵紋を付けた駕籠も現存している。
境内には、享保二年(一七四二)に建立され、平成十四年(二○○二)に現在地(常念坊)に移築された旧山門や、寛永五年(一六二八)の銘を持っ宝筐印塔がある。また、本堂内には、元禄六年(一六九三)に吉祥院に寄進された木造弁才天坐像、宝永二年(一七○五)に十四世義真が購した大般若経(付・廻村什具)、寛保元年(一七四一)に宝鏡院宮が染筆した扁額「渕江山」などが収蔵されている。他にも、板碑や庚申塔なども多数ある。
吉祥院に残されたこれらの文化財は、いずれも区の登録文化財となっており、当寺の誇る歴史の重さを今に伝えている。
令和元年十二月 東京都足立区教育委員会」

<石造物四基>
山門手前左手に石造物が四基並んでいます。左から順に見ていきます。

<弘法大師道道標>
中央 「弘法大師道吉祥院」と刻まれています。
右脇 「荒川附廿一箇所第七番 本木是ヨリ二丁」
右側面 明治36(1903)年3月の記銘です。


<角柱型庚申塔>
地蔵菩薩を主尊とする延宝4(1676)年銘の庚申塔です。




<地蔵菩薩像>
万治元(1658)年銘の地蔵菩薩像です。

<荒綾八十八ヶ所札所碑/道標>
中央「荒綾八十八ヶ所第八十番 本木吉祥院」とあり、第八十番札所碑です。
左脇「是ヨリ寺地瑞應寺へ三丁半」と瑞応寺への道標も兼ねています。

<三霊場札所>
一番右は三霊場の札所碑となっています。

<案内図と説明板>
山門に令和元(2019)年の新しい説明板があり、境内には平成24(2012)年の説明板があります。
(説明板)
「吉祥院
当寺は真言宗豊山派に属し、淵江山吉祥院星谷寺と称する。本尊は大日如来である。開山の時期には諸説あるが、室町時代と推定されている。
『新編武咸風土記稿』には、徳川家康から五石の朱印地を授与されたと見え、家光以下、将軍の代替わりに寺領が安堵された。江戸時代は京都・仁和寺を本寺とし、多くの末寺・門徒を擁した中本寺であった。その格式により、正月四日に江戸城に年賀のため登城する際、住職が用いた葵紋を付けた駕籠も現存している。
当寺は足立区登録有形文化財(建造物)吉祥院旧山門、吉祥院宝篋印塔(寛永五年在銘)、区登録有形文化財(書籍)扁額「渕江山」(宝鏡院宮染筆)、区登録有形文化財(典籍)大般若経(付・迴村什具)、区登録有形文化財(歴史資料)応永年間(一三九四〜一四二八)銘他の板碑、区登録有形民俗文化財寛文五年(一六六五)銘他の庚申塔等くの文化財を有している。
平成二十四年三月 足立区教育委員会」


<手水舎>
手水舎は井戸です。


四天王の童子が四方を守護しています。
北「多聞天童子」

西「広目天童子」

東「持国天童子」

南「増長天童子」です。

<客殿>

<欅の大木>
欅の大木が多い樹林です。



<外灯と四阿>


【庚申塔四基】
四基とも足立区文化財に登録されています。

<庚申塔型石橋供養塔> 足立区文化財
一番左は元禄8(1695)年銘の石橋供養塔です。
正面「庚申供養」(その下に「念佛」を追刻)
裏 「石橋二ヶ所供養□□□□」と刻まれています。


<駒型庚申塔> 足立区文化財
左から二番目は年不詳の駒型庚申塔です。

<庚申塔板碑> 足立区文化財
寛文5(1665)年銘の板碑型庚申塔です。中央に三猿が陽刻されています。



<阿弥陀如来庚申塔> 足立区文化財
一番右は元禄2(1689)年銘の阿弥陀如来の庚申塔です。


<巡拝記念碑>
「秩父坂東西國 百観音巡拝記念」
昭和52(1977)年4月の建立です。


<宝筐印陀羅尼塔>
延享2(1746)年銘の宝筐印陀羅尼塔です。

<水子地蔵尊>

<鐘楼堂>
天明3(1783)年に建立された鐘楼堂です。

<稲荷社>
鐘楼堂の裏に稲荷社があります。

<石燈籠型庚申塔> 足立区文化財
天和2(1682)年銘の石燈籠竿の庚申塔です。鐘楼堂の裏にあります。足立区文化財の寛永5(1628)年銘の宝筐印塔も並んでいます。





<南無大師遍照金剛>


<本堂>
葵の紋がいたるところに見えます。






○旧吉祥院山門 足立区本木西町13-3 常念坊 足立区文化財
吉祥院に隣接する境外墓地に常念坊があり、吉祥院の旧山門は、現在は常念坊の山門となっています。 寛保2(1742)年に建立の旧吉祥院山門です。

tag : 荒綾八十八ヶ所霊場
扇三嶋神社
○扇三嶋神社 足立区扇2-9-3
小田原北條氏の元家臣だった阿出川権左衛門知康が、本木村の太田(おおだ)を開拓、崇敬していた三嶋大明神を勧請したといいます。 現在は扇の地にありますが、この地はかつて本木村で、三嶋神社は、本木村の小名太田・高野の鎮守社でした。
珍しい仁王型庚申塔と、燈籠型庚申塔があります。
<仁王型庚申塔>
仁王型庚申塔が電話ボックスの横にあります。
元禄10(1697)年銘の仁王型庚申塔です。
「元禄十丁丑天 十一月上旬」
「庚申待成就 三嶋御宝前 本木太田村」







<鳥居>
控柱があり瓦葺の鳥居です。平成14(2002)年9月の建立です。






<三嶋神社由来碑>
平成14(2002)年9月の建碑です。
(碑文)
「三嶋神社由来碑
三嶋神社の祭神は大山津見命。慶長年間に元小田原北条氏の家臣であった阿出川丹後守権左衛門知康という人が元木村字太田一帯の開拓をすすめたと伝えられる。三嶋神社は彼が年来崇敬してきた三嶋大明神をこの地に勧請したことに始まるという。
寛文年間には鳥居や社殿が新たにされ、疫病除けに本地仏薬師如来を建立した。その頃からずっと三嶋神社は太田と高野の人々の鎮守として祀られてきた。当時、太田・高野の人家は四十軒程であった。延享元年には本殿を覆う雨屋(鞘堂)が建立された。その後も改修が繰り返され、氏子の努力と町民の協力によって今日まで維持されてきた。幸いに、保存されている棟札が、氏子の献身と神社の経歴を今日に伝えている。
棟札の他に当神社に付随する文化財として、年々奉納される絵馬と延宝六年の灯籠型庚申塔一対及び荒川放水路開削工事で移設された水神碑と元禄十年の仁王型庚申塔一対(区内唯一のもの)がある。
慶長年間(一五九六〜一六一四)
寛文年間(一六六一〜一六七二)
延宝六年(一六七八年)燈籠型庚申塔
元禄十年(一六九七年)仁王型庚申塔
延享元年(一七四四年)雨屋新設
文化十五年(一八一八年)雨屋改修
明治十三年(一八八○年)鳥居改修
昭和三十年(一九五五年)社殿改修」


<牛頭天正宮/馬頭観音>

<玉垣建設記念碑>
奉納寄付者のお名前に阿出川氏が複数見えます。ご子孫なのでしょうね。

<稲荷社/第六天龍王社>





<水神宮>
水神宮は荒川開削のため昭和18(1943)年にこちらに移設されています。

表「水神宮」
裏「昭和十八年九月本木六丁目六千四百三十四番地より当方に移転す
昭和三十七年六月吉辰
本木五丁目南町会氏子中」

<拝殿・本殿>






<石燈籠型庚申塔>
延宝6(1678)年銘の燈籠型庚申塔です。鞘堂の中の本殿前に一対あります。近寄れないので銘文などは確認できず。倒壊の修復跡が両基ともあります。






<足立区指定第835号>
「足立区指定第835号 保存樹木 まき
神社には、まき・けやき・えのき・すだじいが保存樹に指定されています。中でも、まきは、明治時代に植えられたものと思われ、一番古い木です。これからも鎮守の木々を大切に地域にシンボルになるよう見守って下さい。
平成18年5月撮影」



<扇南町会会館>
朝礼台もあります。ここでラジオ体操なども行われているのでしょうね。

「江戸切絵図」
「六アミタ木余如来性翁寺足立姫墓有」と、その隣に「本木大田三嶋大明神」が記載されています。
小田原北條氏の元家臣だった阿出川権左衛門知康が、本木村の太田(おおだ)を開拓、崇敬していた三嶋大明神を勧請したといいます。 現在は扇の地にありますが、この地はかつて本木村で、三嶋神社は、本木村の小名太田・高野の鎮守社でした。
珍しい仁王型庚申塔と、燈籠型庚申塔があります。
<仁王型庚申塔>
仁王型庚申塔が電話ボックスの横にあります。
元禄10(1697)年銘の仁王型庚申塔です。
「元禄十丁丑天 十一月上旬」
「庚申待成就 三嶋御宝前 本木太田村」







<鳥居>
控柱があり瓦葺の鳥居です。平成14(2002)年9月の建立です。






<三嶋神社由来碑>
平成14(2002)年9月の建碑です。
(碑文)
「三嶋神社由来碑
三嶋神社の祭神は大山津見命。慶長年間に元小田原北条氏の家臣であった阿出川丹後守権左衛門知康という人が元木村字太田一帯の開拓をすすめたと伝えられる。三嶋神社は彼が年来崇敬してきた三嶋大明神をこの地に勧請したことに始まるという。
寛文年間には鳥居や社殿が新たにされ、疫病除けに本地仏薬師如来を建立した。その頃からずっと三嶋神社は太田と高野の人々の鎮守として祀られてきた。当時、太田・高野の人家は四十軒程であった。延享元年には本殿を覆う雨屋(鞘堂)が建立された。その後も改修が繰り返され、氏子の努力と町民の協力によって今日まで維持されてきた。幸いに、保存されている棟札が、氏子の献身と神社の経歴を今日に伝えている。
棟札の他に当神社に付随する文化財として、年々奉納される絵馬と延宝六年の灯籠型庚申塔一対及び荒川放水路開削工事で移設された水神碑と元禄十年の仁王型庚申塔一対(区内唯一のもの)がある。
慶長年間(一五九六〜一六一四)
寛文年間(一六六一〜一六七二)
延宝六年(一六七八年)燈籠型庚申塔
元禄十年(一六九七年)仁王型庚申塔
延享元年(一七四四年)雨屋新設
文化十五年(一八一八年)雨屋改修
明治十三年(一八八○年)鳥居改修
昭和三十年(一九五五年)社殿改修」


<牛頭天正宮/馬頭観音>

<玉垣建設記念碑>
奉納寄付者のお名前に阿出川氏が複数見えます。ご子孫なのでしょうね。

<稲荷社/第六天龍王社>





<水神宮>
水神宮は荒川開削のため昭和18(1943)年にこちらに移設されています。

表「水神宮」
裏「昭和十八年九月本木六丁目六千四百三十四番地より当方に移転す
昭和三十七年六月吉辰
本木五丁目南町会氏子中」

<拝殿・本殿>






<石燈籠型庚申塔>
延宝6(1678)年銘の燈籠型庚申塔です。鞘堂の中の本殿前に一対あります。近寄れないので銘文などは確認できず。倒壊の修復跡が両基ともあります。






<足立区指定第835号>
「足立区指定第835号 保存樹木 まき
神社には、まき・けやき・えのき・すだじいが保存樹に指定されています。中でも、まきは、明治時代に植えられたものと思われ、一番古い木です。これからも鎮守の木々を大切に地域にシンボルになるよう見守って下さい。
平成18年5月撮影」



<扇南町会会館>
朝礼台もあります。ここでラジオ体操なども行われているのでしょうね。

「江戸切絵図」
「六アミタ木余如来性翁寺足立姫墓有」と、その隣に「本木大田三嶋大明神」が記載されています。

佐野いこいの森/妙見社
○佐野いこいの森 足立区佐野1-31-11 HP
佐野家の屋敷森を「佐野いこいの森」として足立区が整備し、週2日(水曜と日曜)公開しています。
水曜と日曜に一般般開放
開園時間 11月から 1月:午前10時から午後4時
2月から10月:午 9時から午後5時
千葉勝胤の子、新蔵胤信が佐野氏の養子となり(佐野家の伝承)、佐野家は、佐野新田の開発者であるとともに、関東郡代伊那氏に仕えました。
<新田開発と佐野新田>
足立区立郷土博物館の展示パネルより、佐野新田部分の抜粋です。


<駐車場・駐輪場>
「駐車場・駐輪場」が北側にあります。土手の向こうは中川です。後ほど、東に見える階段から中川土手に上がりました。

<佐野家墓地>
駐車場・駐輪場に接して、柵に囲まれ中に入れませんが、佐野家墓地があります。一番奥に、佐野新蔵胤信の墓(足立区文化財)が見えます。(足立区HPを参照しました。参照先。)


<西門>
エントランスは中川沿いの東側にありますが、西門から入りました。




(説明板)
「佐野いこいの森緑地は、徳川家康の重臣、伊奈忠次に仕え、関東、東海各地の徳川領支配に活躍した佐野信蔵胤信の居館跡で、同家が中心となり文禄2年(西暦1593年)に開いた佐野新田の屋敷として子孫が代々居住した屋敷林の一部です。
区では、この歴史ある貴重な屋敷林とその自然環境を守るため、昭和49年(西暦1974年)4月1日に保存樹林第1号に指定し、その後、皆様に親しんでいただくために「佐野いこいの森」を開園しました。
緑地の中には希少種ともいえる植物、昆虫、さまざまな野鳥などが生息し、生態系を有する貴重な森となっています。
佐野いこいの森緑地は貴重な森を保全するため、開園日時を設定していますのでご了承ください。
なお、開園日時が決められている区域(赤線内)に入る場合は、右の「佐野いこいの森作法集(利用のルール)」をお読みください。
開園日:水曜日・日曜日
(ただし年末年始12月29日〜1月3日は休演日となります)
開園時間:季節によって変わります。
午前 9:00〜午後5:00(2月~10月)
午前10:00〜午後4:00(11月~1月)
連絡先:足立区パークイノベーション推進課
(以下略)」



<佐野いこいの森通路>
左手に「構え掘」があります。右手に佐野家邸宅が見えます。



<妙見社跡>
通路途中、高台にある佐野家の屋敷神である妙見社の基壇です。千葉氏は妙見神をあつく信仰しており、佐野家も継承したようです。




何に使われていたものでしょうか、煉瓦の遺構もあります。

妙見社は現邸宅内に移動しています。妙見社はその後稲荷社を合祀し千葉稲荷となっているようです。いこいの森内から社殿の後ろを見たところです。


社殿の表は、いこいの森の外から邸宅の塀に囲まれ隙間から垣間見たところですが、鳥居や石燈籠もあり、立派な社殿です。

<エントランス>
西門から入って、あっという間に東のエントランスに到着です。





<中川>
中川上流方面と下流方面


中川土手から見た「佐野いこいの森」



<佐野六月土地区画整理事業について>
中川、花畑川、葛西用水に囲まれた土地となっています。

佐野家の屋敷森を「佐野いこいの森」として足立区が整備し、週2日(水曜と日曜)公開しています。
水曜と日曜に一般般開放
開園時間 11月から 1月:午前10時から午後4時
2月から10月:午 9時から午後5時
千葉勝胤の子、新蔵胤信が佐野氏の養子となり(佐野家の伝承)、佐野家は、佐野新田の開発者であるとともに、関東郡代伊那氏に仕えました。
<新田開発と佐野新田>
足立区立郷土博物館の展示パネルより、佐野新田部分の抜粋です。


<駐車場・駐輪場>
「駐車場・駐輪場」が北側にあります。土手の向こうは中川です。後ほど、東に見える階段から中川土手に上がりました。

<佐野家墓地>
駐車場・駐輪場に接して、柵に囲まれ中に入れませんが、佐野家墓地があります。一番奥に、佐野新蔵胤信の墓(足立区文化財)が見えます。(足立区HPを参照しました。参照先。)


<西門>
エントランスは中川沿いの東側にありますが、西門から入りました。




(説明板)
「佐野いこいの森緑地は、徳川家康の重臣、伊奈忠次に仕え、関東、東海各地の徳川領支配に活躍した佐野信蔵胤信の居館跡で、同家が中心となり文禄2年(西暦1593年)に開いた佐野新田の屋敷として子孫が代々居住した屋敷林の一部です。
区では、この歴史ある貴重な屋敷林とその自然環境を守るため、昭和49年(西暦1974年)4月1日に保存樹林第1号に指定し、その後、皆様に親しんでいただくために「佐野いこいの森」を開園しました。
緑地の中には希少種ともいえる植物、昆虫、さまざまな野鳥などが生息し、生態系を有する貴重な森となっています。
佐野いこいの森緑地は貴重な森を保全するため、開園日時を設定していますのでご了承ください。
なお、開園日時が決められている区域(赤線内)に入る場合は、右の「佐野いこいの森作法集(利用のルール)」をお読みください。
開園日:水曜日・日曜日
(ただし年末年始12月29日〜1月3日は休演日となります)
開園時間:季節によって変わります。
午前 9:00〜午後5:00(2月~10月)
午前10:00〜午後4:00(11月~1月)
連絡先:足立区パークイノベーション推進課
(以下略)」



<佐野いこいの森通路>
左手に「構え掘」があります。右手に佐野家邸宅が見えます。



<妙見社跡>
通路途中、高台にある佐野家の屋敷神である妙見社の基壇です。千葉氏は妙見神をあつく信仰しており、佐野家も継承したようです。




何に使われていたものでしょうか、煉瓦の遺構もあります。

妙見社は現邸宅内に移動しています。妙見社はその後稲荷社を合祀し千葉稲荷となっているようです。いこいの森内から社殿の後ろを見たところです。


社殿の表は、いこいの森の外から邸宅の塀に囲まれ隙間から垣間見たところですが、鳥居や石燈籠もあり、立派な社殿です。

<エントランス>
西門から入って、あっという間に東のエントランスに到着です。





<中川>
中川上流方面と下流方面


中川土手から見た「佐野いこいの森」



<佐野六月土地区画整理事業について>
中川、花畑川、葛西用水に囲まれた土地となっています。


瑞応寺(千葉氏菩提寺)
○瑞応寺 足立区扇1-5-37
瑞応寺は、武蔵千葉氏の菩提寺として明応7(1498)年に創建されたといわれ、観音堂には武蔵千葉氏ゆかりの寺紋「月星の紋」がつけられています。アーティスティックなお寺です。
<参道>
参道入口には、赤く塗られた金剛力士像が立っています。




<寺号標/象>
横向きの寺号標と、象がこちらを見ています。象は枯山水の上を歩いています。



<塚碑>

<札所碑>
荒綾八十八ヶ所霊場七十四番札所です。

<瑞応寺(説明板)>
(説明板)
「瑞応寺
当寺は真言宗で阿修羅山観音院瑞応寺と称する。
本尊は聖観世音菩薩、別名を「夕顔観音」という。
中世に下総国や武蔵国に勢力のあった千葉市一族ゆかりの古寺といわれ、寺紋は「月星の紋」である。
当寺には中世の石造塔婆が十三基ある。特に文和二年(一三五三)銘・年不詳の下総型板碑(連碑)二基は珍しく、足立本区でも貴重な遺物である。他の板碑とともに足立区登録有形文化財(歴史資料)になっている。
また境内には、寛永十三年(一六三六)の紀年銘を刻む五輪塔、天和二年(一六八二)の紀年銘のある傘塔婆、その他古い供養塔や地蔵菩薩像、観音菩薩像等の石造物がある。
平成二十七年三月 足立区教育委員会」

<普門品供養塔>
文化7(1810)年銘の普門品供養塔です。
「奉供養普門品塔 講中」とあります。

<獅子>
カラフルな獅子が並んでいます。

<手水舎>
手水舎にはカエルがいます。水道の蛇口には、カエルと雀がいます。




<六道しるべ>
建仁元(1201)年銘の亡くなった後「六道輪廻」の道を歩む人々の「六道しるべ」です。


<慈母観世音菩薩>
参道の突き当りに「慈母観世音菩薩」。アイシャドーをいれています。台座には象がいます。


<蓮池とイルカ>
蓮池の前には三頭のイルカショーです。

<夕顔姫の井戸>
夕顔姫は、千葉常胤の娘です。


<地蔵さん縁起>
覆屋に四基の石造物があります。右手の壁に「地蔵さん縁起」が掲示されています。
左から二基目が天和2(1682)年銘の「笠塔婆」で、虚空蔵菩薩の浮彫りの下に「十三仏供養」と刻まれています。
三基目はガラスで覆われた溶けて原型をとどめていない塩地蔵です。一番右にも塩地蔵がおられます。 塩は器に入れられています。



<舟>

<本堂/ゴジラ>
本堂の扉には、寺紋「月星の紋」があります。カエルに見えてしまいます。
本堂の前には、カラフルなゴジラがいます。




瑞応寺は、武蔵千葉氏の菩提寺として明応7(1498)年に創建されたといわれ、観音堂には武蔵千葉氏ゆかりの寺紋「月星の紋」がつけられています。アーティスティックなお寺です。
<参道>
参道入口には、赤く塗られた金剛力士像が立っています。




<寺号標/象>
横向きの寺号標と、象がこちらを見ています。象は枯山水の上を歩いています。



<塚碑>

<札所碑>
荒綾八十八ヶ所霊場七十四番札所です。

<瑞応寺(説明板)>
(説明板)
「瑞応寺
当寺は真言宗で阿修羅山観音院瑞応寺と称する。
本尊は聖観世音菩薩、別名を「夕顔観音」という。
中世に下総国や武蔵国に勢力のあった千葉市一族ゆかりの古寺といわれ、寺紋は「月星の紋」である。
当寺には中世の石造塔婆が十三基ある。特に文和二年(一三五三)銘・年不詳の下総型板碑(連碑)二基は珍しく、足立本区でも貴重な遺物である。他の板碑とともに足立区登録有形文化財(歴史資料)になっている。
また境内には、寛永十三年(一六三六)の紀年銘を刻む五輪塔、天和二年(一六八二)の紀年銘のある傘塔婆、その他古い供養塔や地蔵菩薩像、観音菩薩像等の石造物がある。
平成二十七年三月 足立区教育委員会」

<普門品供養塔>
文化7(1810)年銘の普門品供養塔です。
「奉供養普門品塔 講中」とあります。

<獅子>
カラフルな獅子が並んでいます。

<手水舎>
手水舎にはカエルがいます。水道の蛇口には、カエルと雀がいます。




<六道しるべ>
建仁元(1201)年銘の亡くなった後「六道輪廻」の道を歩む人々の「六道しるべ」です。


<慈母観世音菩薩>
参道の突き当りに「慈母観世音菩薩」。アイシャドーをいれています。台座には象がいます。


<蓮池とイルカ>
蓮池の前には三頭のイルカショーです。

<夕顔姫の井戸>
夕顔姫は、千葉常胤の娘です。


<地蔵さん縁起>
覆屋に四基の石造物があります。右手の壁に「地蔵さん縁起」が掲示されています。
左から二基目が天和2(1682)年銘の「笠塔婆」で、虚空蔵菩薩の浮彫りの下に「十三仏供養」と刻まれています。
三基目はガラスで覆われた溶けて原型をとどめていない塩地蔵です。一番右にも塩地蔵がおられます。 塩は器に入れられています。



<舟>

<本堂/ゴジラ>
本堂の扉には、寺紋「月星の紋」があります。カエルに見えてしまいます。
本堂の前には、カラフルなゴジラがいます。




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