御殿山 御殿山庭園 権現山公園
○御殿山
御殿山の地名の由来は、太田道灌が館を構えていたためとも、徳川家康が建立した品川御殿があったためとも言われています。江戸時代からの桜と紅葉の名所で、江戸名所図会で紹介され、また、多くの浮世絵にも描かれています。
幕末、御殿山は品川台場建設のために一部を削られました。文久2(1862)年には、新築中の英国公使館が焼き打ちされ、全焼となる「御殿山焼き打ち事件」がありました。明治となり、鉄道を海の上に通す高輪築堤の築造のため、御殿山はさらに削られ、また鉄道が御殿山を分断しました。
太田道灌の御殿山城の跡地は御殿山庭園ですが、遺構はありません。御殿山のピークの一部が権現山公園に残っています。
「江戸名所図会 御殿山看花」
御殿山花見の賑わいが描かれています。 本文には「土人相伝へてこの地を太田道真居住の旧址なりといふ」とあります。

「江都名所 御殿山遊興」(広重)
御殿山花見、品川宿、品川湊が描かれています。

「東都名所 御殿山花見品川全図」(広重)
御殿山花見、品川宿、品川湊、右奥の海上には、海苔養殖のヒビが描かれています。

「冨嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不二」(北斎)

「江戸名所百人美女 御殿山」(豊国・国久)
こま絵に御殿山の花見の光景が描かれています。


「武蔵百景之内 品川見越ノ月」(小林清親 明治17(1884)年)
小林清親の時代は、御殿山は削られ無残な姿になっていたと思われ、清親は、蚊帳を通して、品川港に満月が昇っている光景を描いています。

○御殿山庭園 品川区北品川4-7 HP
御殿山庭園は、太田道灌の御殿山城の跡地ですが、遺構は何もありません。また、品川歴史館解説シートによると、東京マリオットホテル辺りが品川御殿跡とのこと。





<しながわ百景 桜の名所の御殿山>
御殿山庭園に面した御殿山通りの歩道に「しながわ百景 桜の名所の御殿山」があります。

<御殿山庭園内>




<原六郎銅像>
ガラスケースに覆われた像は、森の中にあって目立ちます。四方が立ち入り禁止で近づけませんが、御殿山に広大な邸宅を構えていた明治の実業家、原六郎の銅像です。


肖像は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」からです。


○権現山公園 品川区北品川3-9-5
緒明横町の坂道をのぼっていくと、坂上に「権現山公園」への階段があります。あるいは、御殿山橋から線路沿い進むと線路沿いに公園入口があります。
<しながわ百景>
「14 権現山公園」

<権現山の桜>
(説明板)
「権現山の桜
この地は御殿山からの地続きの高台で、江戸時代には東海寺の境内であった。
維新後、官有地となり軍艦に飲料水を供給するための海軍用地となる。
明治初年の鉄道敷設工事によっては花見の名勝「御殿山」は切崩されたが、この地は大正七年(一九一八)、桜の名所を保存するために 品川町に払い下げられ、権現山公園として整備された。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会品川礎会」



「江戸名所四季の詠 御殿山花見之図」(広重 都立図書館蔵)
御殿山花見、品川宿、品川湊が描かれています。

<遊具>




<権現山のピーク>
緒明横町坂上の階段を上がると、左手は階段があり、さらに高くなっています。




ピークの南は、崖下に品川区立品川学園があります。

<御殿山橋から見た権現山公園>
御殿山通りの御殿山橋(北品川4-8)から見た権現山です。
御殿山の地名の由来は、太田道灌が館を構えていたためとも、徳川家康が建立した品川御殿があったためとも言われています。江戸時代からの桜と紅葉の名所で、江戸名所図会で紹介され、また、多くの浮世絵にも描かれています。
幕末、御殿山は品川台場建設のために一部を削られました。文久2(1862)年には、新築中の英国公使館が焼き打ちされ、全焼となる「御殿山焼き打ち事件」がありました。明治となり、鉄道を海の上に通す高輪築堤の築造のため、御殿山はさらに削られ、また鉄道が御殿山を分断しました。
太田道灌の御殿山城の跡地は御殿山庭園ですが、遺構はありません。御殿山のピークの一部が権現山公園に残っています。
「江戸名所図会 御殿山看花」
御殿山花見の賑わいが描かれています。 本文には「土人相伝へてこの地を太田道真居住の旧址なりといふ」とあります。

「江都名所 御殿山遊興」(広重)
御殿山花見、品川宿、品川湊が描かれています。

「東都名所 御殿山花見品川全図」(広重)
御殿山花見、品川宿、品川湊、右奥の海上には、海苔養殖のヒビが描かれています。

「冨嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不二」(北斎)

「江戸名所百人美女 御殿山」(豊国・国久)
こま絵に御殿山の花見の光景が描かれています。


「武蔵百景之内 品川見越ノ月」(小林清親 明治17(1884)年)
小林清親の時代は、御殿山は削られ無残な姿になっていたと思われ、清親は、蚊帳を通して、品川港に満月が昇っている光景を描いています。

○御殿山庭園 品川区北品川4-7 HP
御殿山庭園は、太田道灌の御殿山城の跡地ですが、遺構は何もありません。また、品川歴史館解説シートによると、東京マリオットホテル辺りが品川御殿跡とのこと。





<しながわ百景 桜の名所の御殿山>
御殿山庭園に面した御殿山通りの歩道に「しながわ百景 桜の名所の御殿山」があります。

<御殿山庭園内>




<原六郎銅像>
ガラスケースに覆われた像は、森の中にあって目立ちます。四方が立ち入り禁止で近づけませんが、御殿山に広大な邸宅を構えていた明治の実業家、原六郎の銅像です。


肖像は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」からです。


○権現山公園 品川区北品川3-9-5
緒明横町の坂道をのぼっていくと、坂上に「権現山公園」への階段があります。あるいは、御殿山橋から線路沿い進むと線路沿いに公園入口があります。
<しながわ百景>
「14 権現山公園」

<権現山の桜>
(説明板)
「権現山の桜
この地は御殿山からの地続きの高台で、江戸時代には東海寺の境内であった。
維新後、官有地となり軍艦に飲料水を供給するための海軍用地となる。
明治初年の鉄道敷設工事によっては花見の名勝「御殿山」は切崩されたが、この地は大正七年(一九一八)、桜の名所を保存するために 品川町に払い下げられ、権現山公園として整備された。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会品川礎会」



「江戸名所四季の詠 御殿山花見之図」(広重 都立図書館蔵)
御殿山花見、品川宿、品川湊が描かれています。

<遊具>




<権現山のピーク>
緒明横町坂上の階段を上がると、左手は階段があり、さらに高くなっています。




ピークの南は、崖下に品川区立品川学園があります。

<御殿山橋から見た権現山公園>
御殿山通りの御殿山橋(北品川4-8)から見た権現山です。

台場築造土取跡/緒明横町
○台場築造土取跡
<御殿山通り> 港区北品川3丁目〜4丁目〜5丁目
御殿山通りは、国道15号(第一京浜)から山の手通りへ、御殿山を横断する通り(670m)です。




<台場築造土取跡/英国公使館跡>
御殿山通りと北側一帯は、不自然に低くなっています。南からの道路は階段になっています。階段下から先の品川女子学園一帯(北品川3-3・3-4)が台場築造土取跡です。階段上の右手の北品川郵政宿舎の場所が、英国公使館跡です。



<土出場>
御殿山を始め泉岳寺境内及び高輪〜品川の諸侯宅の高地から土砂を調達し、土取人夫は5,000人に及びました。土砂は土出場から1,400〜2,000艘の土船が運搬し、陸海とも大混乱しました。

【品川台場と御殿山】(こちらの再掲です)
「五十三次名所図会 品川」(広重)
「御殿山より駅中を見る」とあります。桜が咲く御殿山から品川駅を見下ろし、海上には台場が見えます。切崩された御殿山は崖となっています。

「江戸名所四十八景 御殿山満花 」(二代広重 都立図書館蔵)
海上に台場が見えます。御殿山は、台場を築くために土を削り取り、崖となっています。

「名所江戸百景 品川御殿やま」(広重)
台場建造のため崩された崖の上に桜が咲く御殿山を海側から見ています。手前は東海道で、人々が掘削によるぬかるみを通り、崖を登っていきます。

「絵本江戸土産 再出 御殿山 当時のさま」
挿絵には、「嚮にこの図を出しし後 蕃鎮の為にとて 蒼々たる大洋に御台場を築かれしとき この山の土を取り そのさま昔に変りぬれば 今また図して参考の便とす」とあります。 名所江戸百景のほうでは、削られた御殿山を海側から描いています。

「絵本江戸土産 御殿山の花盛」「其二」
削られる前の御殿山を「御殿山の花盛」「其二」として描いています。


○緒明横町 品川区北品川3-6-17(説明板設置場所)
御殿山通りの一本南に、国道15号から権現山公園に至る坂道「緒明横町」があります。国道15号近くに、説明板「緒明横町」があります。 (参考:緒明造船所)
(説明板)
「緒明横町(おあきよこちょう)
この横町の奥(権現山公園下)に、明活時代の実業家の緒明菊三郎邸があったことが名称の由来である。緒明は伊豆下田出身で、明治十六年(一八八三)に、品川沖の御台場(第四砲台)跡を利用して西洋式造船祈を設け、盛況を極めた。邱宅の望楼から猪明造船所をみることができた。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会品川礎会」




<緒明菊三郎邸跡>
坂上の権現山公園から見た緒明横町の坂上部分です。石垣に囲まれたマンションが緒明菊三郎邸跡です。
「蘆川青年叢書「世渡上手の人々」(蘆川忠雄著 大正8年)より要約引用」
緒明菊三郎氏は、小さな造船所を火災で焼失したため、石川島の地を借りて造船所にしようとすると、当局は、囚人70人を使用するならば借地を許すとのことで、条件通りに造船所を運営しましたが、うまくいかず閉鎖して芝浦に移転します。次に明治16(1883)年に品川第四台場を借りて造船所を始めました。
緒明菊三郎氏の邸宅は、庭には松、檜の苗が槍のごとくに突出して殺風景でした。趣味は事業だったため、庭園の趣味なく、また書画や骨董品を弄ぶこともありませんでした。第四台場の造船所へ朝早く舟で出勤し、日没に帰宅していました。


ここから左手に進んだ奥の北品川郵政宿舎がイギリス公使館跡です。
<御殿山通り> 港区北品川3丁目〜4丁目〜5丁目
御殿山通りは、国道15号(第一京浜)から山の手通りへ、御殿山を横断する通り(670m)です。




<台場築造土取跡/英国公使館跡>
御殿山通りと北側一帯は、不自然に低くなっています。南からの道路は階段になっています。階段下から先の品川女子学園一帯(北品川3-3・3-4)が台場築造土取跡です。階段上の右手の北品川郵政宿舎の場所が、英国公使館跡です。



<土出場>
御殿山を始め泉岳寺境内及び高輪〜品川の諸侯宅の高地から土砂を調達し、土取人夫は5,000人に及びました。土砂は土出場から1,400〜2,000艘の土船が運搬し、陸海とも大混乱しました。

【品川台場と御殿山】(こちらの再掲です)
「五十三次名所図会 品川」(広重)
「御殿山より駅中を見る」とあります。桜が咲く御殿山から品川駅を見下ろし、海上には台場が見えます。切崩された御殿山は崖となっています。

「江戸名所四十八景 御殿山満花 」(二代広重 都立図書館蔵)
海上に台場が見えます。御殿山は、台場を築くために土を削り取り、崖となっています。

「名所江戸百景 品川御殿やま」(広重)
台場建造のため崩された崖の上に桜が咲く御殿山を海側から見ています。手前は東海道で、人々が掘削によるぬかるみを通り、崖を登っていきます。

「絵本江戸土産 再出 御殿山 当時のさま」
挿絵には、「嚮にこの図を出しし後 蕃鎮の為にとて 蒼々たる大洋に御台場を築かれしとき この山の土を取り そのさま昔に変りぬれば 今また図して参考の便とす」とあります。 名所江戸百景のほうでは、削られた御殿山を海側から描いています。

「絵本江戸土産 御殿山の花盛」「其二」
削られる前の御殿山を「御殿山の花盛」「其二」として描いています。


○緒明横町 品川区北品川3-6-17(説明板設置場所)
御殿山通りの一本南に、国道15号から権現山公園に至る坂道「緒明横町」があります。国道15号近くに、説明板「緒明横町」があります。 (参考:緒明造船所)
(説明板)
「緒明横町(おあきよこちょう)
この横町の奥(権現山公園下)に、明活時代の実業家の緒明菊三郎邸があったことが名称の由来である。緒明は伊豆下田出身で、明治十六年(一八八三)に、品川沖の御台場(第四砲台)跡を利用して西洋式造船祈を設け、盛況を極めた。邱宅の望楼から猪明造船所をみることができた。
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会品川礎会」




<緒明菊三郎邸跡>
坂上の権現山公園から見た緒明横町の坂上部分です。石垣に囲まれたマンションが緒明菊三郎邸跡です。
「蘆川青年叢書「世渡上手の人々」(蘆川忠雄著 大正8年)より要約引用」
緒明菊三郎氏は、小さな造船所を火災で焼失したため、石川島の地を借りて造船所にしようとすると、当局は、囚人70人を使用するならば借地を許すとのことで、条件通りに造船所を運営しましたが、うまくいかず閉鎖して芝浦に移転します。次に明治16(1883)年に品川第四台場を借りて造船所を始めました。
緒明菊三郎氏の邸宅は、庭には松、檜の苗が槍のごとくに突出して殺風景でした。趣味は事業だったため、庭園の趣味なく、また書画や骨董品を弄ぶこともありませんでした。第四台場の造船所へ朝早く舟で出勤し、日没に帰宅していました。


ここから左手に進んだ奥の北品川郵政宿舎がイギリス公使館跡です。
お台場海浜公園
○お台場海浜公園 港区台場1-4







「品川船清」(HP)の屋形舟「おと姫」が台場公園の手前に見えました。

<韮山町記念碑>
お台場海浜公園に、静岡県韮山町の第三台場築造150周年の記念植樹の碑があります。
「第三台場築造150周年記念植樹
静岡県韮山町
2004年10月吉日」




<続日本100名城>
お台場海浜公園管理事務所に「続日本100名城」の品川台場のスタンプあります。



隣の海上バス待合所に、品川台場の若干の展示があります。




<錨と鎖のオブジェ>
巨大なアンカー(錨)が浜辺にトリプルで突き刺さっていたり、チェーン(錨鎖)をつけて横倒しになっていたりします。どれもこれもびくともしない安定感があります。自由の女神像の背中にあります。








<錨と信仰>
日露戦争で活躍した駆逐艦「不知火」の錨です(両国小学校)。(こちらで記載)

隅田川神社に奉納されている錨です。 (こちらで記載)

山王清兵衛(荒川区)では、錨は船を繋ぎとめることから、揺らぐ歯の動きが止まる、あるいは歯痛が止まるといいます。 (こちらで記載)
お台場海浜公園の浜辺には、多数のいかりがあるから、一発で歯痛がおさまるパワースポットかと思います、ではなくてアートのようです。
<自由の女神像>
お台場海浜公園の一画に、レインボーブリッジを背に「自由の女神像」が立っています。(こちらで記載)







「品川船清」(HP)の屋形舟「おと姫」が台場公園の手前に見えました。

<韮山町記念碑>
お台場海浜公園に、静岡県韮山町の第三台場築造150周年の記念植樹の碑があります。
「第三台場築造150周年記念植樹
静岡県韮山町
2004年10月吉日」




<続日本100名城>
お台場海浜公園管理事務所に「続日本100名城」の品川台場のスタンプあります。



隣の海上バス待合所に、品川台場の若干の展示があります。




<錨と鎖のオブジェ>
巨大なアンカー(錨)が浜辺にトリプルで突き刺さっていたり、チェーン(錨鎖)をつけて横倒しになっていたりします。どれもこれもびくともしない安定感があります。自由の女神像の背中にあります。








<錨と信仰>
日露戦争で活躍した駆逐艦「不知火」の錨です(両国小学校)。(こちらで記載)

隅田川神社に奉納されている錨です。 (こちらで記載)

山王清兵衛(荒川区)では、錨は船を繋ぎとめることから、揺らぐ歯の動きが止まる、あるいは歯痛が止まるといいます。 (こちらで記載)
お台場海浜公園の浜辺には、多数のいかりがあるから、一発で歯痛がおさまるパワースポットかと思います、ではなくてアートのようです。
<自由の女神像>
お台場海浜公園の一画に、レインボーブリッジを背に「自由の女神像」が立っています。(こちらで記載)
品川台場(東京市編 昭和2年)
○「品川台場」(東京市保健局公園課編 昭和2(1927)年 国立国会図書館蔵)
当時の東京市が、品川台場について、写真や図を入れて、詳細に記述しています。



<品川台場の築造>
品川台場築造のため、土砂を御殿山を始め泉岳寺境内及び高輪品川の諸侯宅の高地から調達しました。土取人夫は5,000人に及び、土砂を1,400〜2,000艘の土船が運搬し、陸海とも大混乱しました。東海道の高輪海岸部分は昼間は通行止めにして工事が行われました。築造の予算額は98万両、決算額が75万両の大工事でした。
完成した台場は、「品川台場」あるいは「品海砲台」(芝区の住所地名)と呼ばれました。第四台場は七割の完成で工事が打ち切られたため「崩れ台場」とも呼ばれ、また、緒明造船所があったことから「緒明台場」と呼ばれました。
「品川台場附近地図」
「御殿山下台場」「第四」「第一」「第五」「第二(燈明台)」「第六」「第三」と順に記されています。


「内海御台場本芝ヨリ品川宿マデ海岸図」
距離入りで台場と本芝から品川宿までの海岸が描かれています。土出場が2ヶ所見えます。


「江川坦庵肖像/江川坦庵筆蹟/台場模型」
江川英龍(通称:太郎左衛門、号:坦庵)の肖像と筆蹟が掲載されています。また、江川が台場の模型を製作して老中阿部伊勢守に送った写真が掲載されています。



「一番台場」「二番台場」
二番台場に明治3(1870)年に点灯が開始された品川燈台が見えます。


「三番台場」

「第三台場内部 全景(震災前) 震災直後の休憩所 同上(修繕後)」
第三台場の関東大震災前と被災、修繕後の写真が掲載されています。2枚目は、震災前の写真を注を入れて拡大しました。
修繕後の写真左下には物干し台に洗濯物が干されていて、生活感を感じます(管理人が常駐)。


「震災直後の三番台場 休憩所 同上屋根 沖側石垣」
関東大震災で大きな被害を受け、東京市が修繕しています。震災で火薬庫2棟のうち、1棟が倒壊しました。

「休憩所内部」

「火薬庫、波止場、玉置場」
波止場の先には柵門が見えます。

「三番御台場図」
現地を巡るのに役にたちました。

「四番台場」

「五番台場」

「六番台場」

「六番台場内部 震災前の休憩所 同上震災直後 全景(修繕後)」

「六番御台場図」
当時の東京市が、品川台場について、写真や図を入れて、詳細に記述しています。



<品川台場の築造>
品川台場築造のため、土砂を御殿山を始め泉岳寺境内及び高輪品川の諸侯宅の高地から調達しました。土取人夫は5,000人に及び、土砂を1,400〜2,000艘の土船が運搬し、陸海とも大混乱しました。東海道の高輪海岸部分は昼間は通行止めにして工事が行われました。築造の予算額は98万両、決算額が75万両の大工事でした。
完成した台場は、「品川台場」あるいは「品海砲台」(芝区の住所地名)と呼ばれました。第四台場は七割の完成で工事が打ち切られたため「崩れ台場」とも呼ばれ、また、緒明造船所があったことから「緒明台場」と呼ばれました。
「品川台場附近地図」
「御殿山下台場」「第四」「第一」「第五」「第二(燈明台)」「第六」「第三」と順に記されています。


「内海御台場本芝ヨリ品川宿マデ海岸図」
距離入りで台場と本芝から品川宿までの海岸が描かれています。土出場が2ヶ所見えます。


「江川坦庵肖像/江川坦庵筆蹟/台場模型」
江川英龍(通称:太郎左衛門、号:坦庵)の肖像と筆蹟が掲載されています。また、江川が台場の模型を製作して老中阿部伊勢守に送った写真が掲載されています。



「一番台場」「二番台場」
二番台場に明治3(1870)年に点灯が開始された品川燈台が見えます。


「三番台場」

「第三台場内部 全景(震災前) 震災直後の休憩所 同上(修繕後)」
第三台場の関東大震災前と被災、修繕後の写真が掲載されています。2枚目は、震災前の写真を注を入れて拡大しました。
修繕後の写真左下には物干し台に洗濯物が干されていて、生活感を感じます(管理人が常駐)。


「震災直後の三番台場 休憩所 同上屋根 沖側石垣」
関東大震災で大きな被害を受け、東京市が修繕しています。震災で火薬庫2棟のうち、1棟が倒壊しました。

「休憩所内部」

「火薬庫、波止場、玉置場」
波止場の先には柵門が見えます。

「三番御台場図」
現地を巡るのに役にたちました。

「四番台場」

「五番台場」

「六番台場」

「六番台場内部 震災前の休憩所 同上震災直後 全景(修繕後)」

「六番御台場図」

台場公園(品川第三台場)〜国史跡
○台場公園(品川第三台場)〜国史跡 港区台場1-10 HP
台場公園(品川第三台場)へは、陸繋で歩いて行けます。

第三台場と第六台場が見えます。

<関東大震災東京大空襲犠牲者慰霊碑>
台場海浜公園から台場公園への陸繋、木々の中に慰霊碑があります。
(銘文)
「東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。
これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。
いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。
平成六年三月吉日 東京都港湾局」



<台場公園(第三台場)案内板>
(案内板)
「〜国指定史跡〜 台場公園(第三台場)
1853年、ペリーで知られる黒船の来航に備えて江戸幕府が品川沖に築いた砲台跡地です。
1926年には「品川台場」として国の史跡に指定されました。
公園内には青々とした芝生が茂っており、レインボーブリッジを最も近くで見ることができる穴場スポット。
春は桜の名所となります。
お台場に遊びに来た際には、歴史に触れあえる「台場公園」へぜひ足を運んでみて下さい。
台場公園はあちら→」

陸繋の西側に「係船柱」があります。

陸繋の終端にさしかかります。

<台場公園入口>
石垣を木造階段で越えて、土塁を上がって台場公園内に入ります。階段手前にはパンフレットが置いてあるのには感心しました。



<石垣>
木造階段を上がる前に石垣を見学します。石垣の天端石がはね出ているのがわかります。武者返しになっています。


階段右の石垣です。海側の石垣と積み方が違っています。

<都立台場公園のあらまし>
(説明板)
「都立台場公園のあらまし
台場公園(第三砲台)
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永六年(一八五三)八月に着工、一年三ヶ月の間に六基が完成しました。
現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。
このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から五~七mの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。
利用上の注意(省略)
所在地 港区台場1丁目10番
面積 29,963.40㎡
開園 昭和3年7月7日
史跡指定 大正15年12月20日(外周30間<約55m>の海面を含む)
(問い合せ先)東京都潮風公園事務所 電話5500-2455」
「第三台場の配置図
※砲台跡とかまど場は江戸時代のものではありません。」



<史蹟品川臺場参番碑>
立ち入り禁止エリアに建っているので、海を向いている正面はレインボープロムナードから撮ったものです。
(正面) 「史蹟品川臺場参番」
(右側面)「天然記念物保存法ニヨリ
大正十五年拾月内務大臣指定」
(左側面)「昭和二年八月建設 東京市」
※第三台場は、大正4(1915)年に陸軍省から東京市に払い下げられ、東京市は塵芥焼却所とする予定でした。東京府が大正13(1924)年に史跡の仮指定を行ったため、東京市は所管を衛生課から公園課に変更し、第三台場を公園にすることとしました。大正15(1926)年に内務大臣が史跡として本指定を行いました。




<波止場跡>
波止場からは両脇が石塁となっている通路が続きます。台場内からは、陥没か所あり危険通行止めの掲示があり、柵が設けられ通路は塞がれています。


<砲台跡 (復元品)>
昭和8(1933)年に復元された砲台です。砲身はありませんが、VRで出てきます。第三台場は、大砲を29門備えていました。
第三台場は忍藩が防備に当ったことから、埼玉県HPに第三台場が紹介されています。




<台場内>




<石階段>
台場内へ降りる石階段は多くあります。


<休憩所(陣屋)跡>
勤番者の詰所として建設されたのが休憩所(陣屋)です。陸軍省が日露戦争の戦利品を運び入れたため、床が損壊していたところに、関東大震災で大損壊し、東京市が修理しました。


<かまど場跡(火薬庫跡)>
昭和3(1928)年7月に都市公園としての開園に伴い、東京市が設置した大谷石製の八角型のかまどです。東京市民は、国史跡でレジャーとして飯盒炊爨を楽しんだということですね。
「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年)によると、ここには関東大震災までは火薬庫が建っていました。 火薬庫跡なので、防火の上でうってつけなのでかまどを設置したのですかね。


<玉薬置所跡>
玉薬は、7か所に分散して格納されていました。配布している資料では火薬庫跡としていますが、東京市の文献によると「玉薬置所」としています。

<玉置所跡>
図面には玉置所が2か所描かれていますが、痕跡はありませんでした。
<火薬庫跡>
案内図には白空白で囲まれていて、説明がないのでわからなかったのですが、「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年)によると、木造平屋建瓦葺の火薬庫が建っていましたが、関東大震災で火薬庫2つのうち一つは大破、一つは倒壊しています。

○第六台場(国史跡) 港区台場1-11-1
第三台場の西面から第六台場が見えますが、レインボープロムナードからのほうが良く見えます。第六台場は帝国倉庫運輸会社が大正7(1918)年から倉庫として使用していましたが、史跡仮指定を受けて、東京市は煉瓦造倉庫を取り壊させて賃貸契約解除としています。その後は絶対保存により現在に至っています。


○鳥の島(旧防波堤) 港区台場1丁目
第三台場の南面から、鳥の島(旧防波堤)が間近に見えます。

○パンフレット
パンフレット「品川御台場の歴史」です。
(表)


(裏)



台場公園(品川第三台場)へは、陸繋で歩いて行けます。

第三台場と第六台場が見えます。

<関東大震災東京大空襲犠牲者慰霊碑>
台場海浜公園から台場公園への陸繋、木々の中に慰霊碑があります。
(銘文)
「東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。
これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。
いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。
平成六年三月吉日 東京都港湾局」



<台場公園(第三台場)案内板>
(案内板)
「〜国指定史跡〜 台場公園(第三台場)
1853年、ペリーで知られる黒船の来航に備えて江戸幕府が品川沖に築いた砲台跡地です。
1926年には「品川台場」として国の史跡に指定されました。
公園内には青々とした芝生が茂っており、レインボーブリッジを最も近くで見ることができる穴場スポット。
春は桜の名所となります。
お台場に遊びに来た際には、歴史に触れあえる「台場公園」へぜひ足を運んでみて下さい。
台場公園はあちら→」

陸繋の西側に「係船柱」があります。

陸繋の終端にさしかかります。

<台場公園入口>
石垣を木造階段で越えて、土塁を上がって台場公園内に入ります。階段手前にはパンフレットが置いてあるのには感心しました。



<石垣>
木造階段を上がる前に石垣を見学します。石垣の天端石がはね出ているのがわかります。武者返しになっています。


階段右の石垣です。海側の石垣と積み方が違っています。

<都立台場公園のあらまし>
(説明板)
「都立台場公園のあらまし
台場公園(第三砲台)
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永六年(一八五三)八月に着工、一年三ヶ月の間に六基が完成しました。
現在は大正十五年(一九二六年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。
このうち第三台場は、昭和三年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から五~七mの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。
利用上の注意(省略)
所在地 港区台場1丁目10番
面積 29,963.40㎡
開園 昭和3年7月7日
史跡指定 大正15年12月20日(外周30間<約55m>の海面を含む)
(問い合せ先)東京都潮風公園事務所 電話5500-2455」
「第三台場の配置図
※砲台跡とかまど場は江戸時代のものではありません。」



<史蹟品川臺場参番碑>
立ち入り禁止エリアに建っているので、海を向いている正面はレインボープロムナードから撮ったものです。
(正面) 「史蹟品川臺場参番」
(右側面)「天然記念物保存法ニヨリ
大正十五年拾月内務大臣指定」
(左側面)「昭和二年八月建設 東京市」
※第三台場は、大正4(1915)年に陸軍省から東京市に払い下げられ、東京市は塵芥焼却所とする予定でした。東京府が大正13(1924)年に史跡の仮指定を行ったため、東京市は所管を衛生課から公園課に変更し、第三台場を公園にすることとしました。大正15(1926)年に内務大臣が史跡として本指定を行いました。




<波止場跡>
波止場からは両脇が石塁となっている通路が続きます。台場内からは、陥没か所あり危険通行止めの掲示があり、柵が設けられ通路は塞がれています。


<砲台跡 (復元品)>
昭和8(1933)年に復元された砲台です。砲身はありませんが、VRで出てきます。第三台場は、大砲を29門備えていました。
第三台場は忍藩が防備に当ったことから、埼玉県HPに第三台場が紹介されています。




<台場内>




<石階段>
台場内へ降りる石階段は多くあります。


<休憩所(陣屋)跡>
勤番者の詰所として建設されたのが休憩所(陣屋)です。陸軍省が日露戦争の戦利品を運び入れたため、床が損壊していたところに、関東大震災で大損壊し、東京市が修理しました。


<かまど場跡(火薬庫跡)>
昭和3(1928)年7月に都市公園としての開園に伴い、東京市が設置した大谷石製の八角型のかまどです。東京市民は、国史跡でレジャーとして飯盒炊爨を楽しんだということですね。
「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年)によると、ここには関東大震災までは火薬庫が建っていました。 火薬庫跡なので、防火の上でうってつけなのでかまどを設置したのですかね。


<玉薬置所跡>
玉薬は、7か所に分散して格納されていました。配布している資料では火薬庫跡としていますが、東京市の文献によると「玉薬置所」としています。

<玉置所跡>
図面には玉置所が2か所描かれていますが、痕跡はありませんでした。
<火薬庫跡>
案内図には白空白で囲まれていて、説明がないのでわからなかったのですが、「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年)によると、木造平屋建瓦葺の火薬庫が建っていましたが、関東大震災で火薬庫2つのうち一つは大破、一つは倒壊しています。

○第六台場(国史跡) 港区台場1-11-1
第三台場の西面から第六台場が見えますが、レインボープロムナードからのほうが良く見えます。第六台場は帝国倉庫運輸会社が大正7(1918)年から倉庫として使用していましたが、史跡仮指定を受けて、東京市は煉瓦造倉庫を取り壊させて賃貸契約解除としています。その後は絶対保存により現在に至っています。


○鳥の島(旧防波堤) 港区台場1丁目
第三台場の南面から、鳥の島(旧防波堤)が間近に見えます。

○パンフレット
パンフレット「品川御台場の歴史」です。
(表)


(裏)




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