御穂鹿嶋神社/幸久稲荷神社

○御穂鹿嶋神社 港区芝4-15-1

 御穂鹿嶋神社は、本芝両社と称されていた御穂神社と鹿嶋神社を平成17(2005)年合祀、翌平成18(2006)年に新社殿が完成しました。

「江戸切絵図」

 「鹿島明神」と「御穂明神」がそれぞれ見えます。また、海岸に「沙濱」(芝浜)が見えます。

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「江戸名所図会 御穂神社 鹿嶋神社」

 手前に「鹿嶋社」、その後方に「三穂社」が描かれています。

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<几号水準点>

 本殿向かって右の狛犬台座に几号水準点が刻まれています。

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 左の狛犬

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<獅子山>

 社殿の裏手ですが、江戸名所図会を見ると、社殿の前は海なので、ここが表参道に当ります。かつては獅子山が置かれおり、その狛犬を模して平成18(2006)年に新たに奉納されたものです。

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<鳥居>

 神社は南を向いており、神社の前には本芝公園がありますが、ここはかつて海でした。

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<大乗妙法蓮華経全部一石一字六万九千三百八十四字謹寫>

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<希望の塔>

 昭和10(1935)年に建てられた国旗掲揚塔で、昭和41(1966)年に希望の塔として再建。

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<芝浜囃子の碑>

 昭和52(1977)年の建碑です。「芝濱囃子の碑 橘右近」

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<顕彰碑>

 漢文で刻まれており、わかりません。

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<境内社>

 天満宮・稲荷社・住吉社の3社が祀られています。江戸名所図会では、「天満」「いなり」「住吉」とそれぞれ描かれています。

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<手水舎>

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<力石>

 力石が整然と並べられています。

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<石柱「芝浦舩」>

 「芝浦舩」「明治三十五壬寅年六月吉日」 と刻まれている、明治35(1902)年銘の石柱「芝浦舩」です。
 江戸名所図会を見ると、神社の横のこの場所も海となっています。船からのお参りの入口だったのかもしれません。

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<天水桶>

 嘉永5(1852)年銘の川口で造られた天水桶です。

 「川口住 鋳工 永瀬源内 藤原富廣
  嘉永五年 壬子 三月吉日」

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<拝殿/本殿>

 扁額は「御穂神社」と「鹿嶋神社」の2つが掲げられています。

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○幸久稲荷神社 港区芝4-6-20

 幸久(さきく)稲荷神社は、鹿島神社へ合祀され御穂鹿島神社となった御穂神社の元宮(旧社地)です。

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<手水鉢/天水桶>

 祠の奥には、嘉永2(1849)年銘の天水桶があります。 

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tag : 江戸名所図会几号水準点歌川広重東海道力石

芝浦

○芝浦

 芝浦は、芝口(現在の新橋)から、本芝(現在の田町)周辺までの呼称です。芝浦(別称:竹芝浦・袖ヶ浦)は昔からある漁場で、冬春は、貝類、ウナギ、夏秋は、芝海老、こち、黒鯛、ざこなどが獲れ、芝肴のうちでも「芝海老」は特に名産でした。将軍家に鮮魚などを献上する「御菜肴八ヶ浦」の中でも、早くから、この役を担っていました。
 また、東海道の起点が、慶長8(1603)年に日本橋となるまでの三年間は、本芝が起点となっていました。


「江戸八景 芝浦の帰帆」(英泉)

 帆掛け船が夕暮れに遠方より戻ってくる風景が描かれています。海岸沿いには諸藩の蔵屋敷が並び、各藩の荷物が船で運び入れられていました。

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「江戸近郊八景之内 芝浦晴嵐」(広重)

 嵐のあとの芝浦を海上から描いています。

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「名所江戸百景 芝うらの風景」(広重)

 浅瀬を示す木の杭(澪標)の奥の海上に台場が見えます。浜御殿から高輪にかけての海岸沿いには大名屋敷が立ち並んでいます。「浜御庭、江川太郎左エ門、酒井左エ門尉、紀伊殿、丹羽左京、松平肥後陣屋、真田信濃陣屋、松平薩摩」と海岸線を屋敷がジグザグに並び、その先高輪海岸で湾曲して凹みます(諸説あります)。

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 「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年 国立国会図書館蔵)
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「絵本江戸土産 芝浦 御浜沖」(広重)

 「名所江戸百景 芝うらの風景」と同じ構図の挿絵が「絵本江戸土産」にあります。挿絵には「這は 舩より詠むるの躰なり 実にや岸辺に生たる松の自らに屈伸して 龍虎の名空しからず見ゆ」とあります。岸辺の屈伸した松はそれなりに知られていたようです。

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「絵本江戸土産 芝浦」(広重)

 挿絵には、「田町辺の惣名なり この所より見わたせば 海水渺々として安房上総を望み 右に羽田の森幽にて 遠く見ゆる白帆のさま 常に月雪にます絶景なり」とあります。

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「絵本江戸土産 其二」(広重)

 挿絵には、「沖より陸地を観たるさまなり 夏の末より秋にいたり 釣する小舟 日毎に絶えず 諸国の入船 出る船 実に繁昌を顕はせり」とあります。「増上寺」と「神明宮」が記されています。遠景に富士山が見えます。

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「名所江戸百景 金杉橋海」(広重)

 金杉橋から、北東を俯瞰しており、水平線に大きな屋根が見えます。築地門跡(築地本願寺)とも深川の浄心寺とも諸説あります。「井桁に橘」の紋や「身延山」「一天四海皆帰妙法」「南無妙法蓮華経」の文字が見え、日蓮宗の祖師参りの行列だとわかります。魚栄梓は版元魚栄のPRでしょう。
 金杉橋を渡る一行は、うちわ太鼓が二つ見え、江戸に向かっています(諸説あります)。風が南から北へ吹いています。行き先は池上本門寺、芝浦の正伝寺(金杉毘沙門)、深川の浄心寺と諸説あります。
 各地の講中の一行が東海道各地で身延山の出開帳仏を迎えて一緒に出開帳の場である深川の浄心寺に向かっているとみるのが自然かと思います。江戸での出開帳は、山城国清涼寺、信濃国善光寺、下総国成田山新勝寺、甲斐国身延山久遠寺が特に有名で、江戸出開帳「四天王」と呼ばれました。清涼寺と善光寺の出開帳は深川の回向院で、新勝寺は深川の永代寺、久遠寺は深川の浄心寺で行われました。
 「名所江戸百景 金杉橋海」が出された安政4(1857)年には、身延山久遠寺の出開帳が安政4(1857)年7月19日から、浄心寺で行われおり、身延山久遠寺の出開帳のPRを兼ねた作品と捉えるのが自然かと思いました(諸説あります)。

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「芝浦製作所」(日本の名勝 史伝編纂所 明治33(1900)年)

 写真のタイトルは三井製作所ですが、目次及び本文は芝浦製作所です。田中製造所が明治26(1893)年に三井財閥の傘下に入り「芝浦製作所」(現在の東芝)に改称。芝浦製作所の西(写真左手)に鉄道が通っています。

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「ロセッタホテル」(東京風景 小川一真出版部 明治44(1911)年)

 ロセッタは、東洋汽船の定期船から日露戦争では輸送船として使用され、東洋汽船から尾城汽船に売却後、朝日新聞社のクルーズ船として使用される等の後、芝浦埠頭に係留され、園遊会場及びホテルとして使用されました。

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「大東京寫眞帖 東京港の一部芝浦」

 昭和5(1930)年に開通した汐留と芝浦を結ぶ貨物線の跳橋「古川可動橋」です。昭和61(1986)年に貨物線が廃止され、「古川可動橋」も撤去されました。 現在は「ゆりかめも」が走っています。

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○金杉橋 港区芝大門二丁目・浜松町二丁目〜港区芝二丁目・芝一丁目

 金杉川(現在は古川と呼称)に架かる金杉橋は、東海道を日本橋から出発し、ちょうど一里の距離にあります。江戸時代は、橋の東側はすぐに江戸湊への河口でした。 明治7(1874)年に、京橋と金杉橋の間にガス灯が設置され、東京で初めてガス灯がともった場所としても知られています。現在の金杉橋は、頭上に首都高速が走り、東はJRの鉄橋(金杉橋)が架かっています。

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<旧町名由来板>
 浜松町四丁目児童遊園(旧浜松町4丁目時の名称が現在に至る)に旧町名由来板があります。

(説明板)
「芝地区旧町名由来板
 旧町名由来板めぐり20‐14
 芝金杉橋 新撰東京名所図会 明治35年(1902)
湊町
 寛文七年(1667)、金杉橋の北側に多門を建設するため公用地となり土手を築きましたが、元禄九年(1696)、多門建設計画の中止と共にこれを取り払い、その跡地は幕府御坊主の拝領屋敷に下され、一時は同朋町と呼ばれました(当時、幕府御坊主を同朋と称した)。宝永年間(1704~1711)以降、隣町の金杉同朋町をはじめ各地に同朋町があったので、海浜に接することから芝湊町と改称しました。俗に金杉川汐入の口にあるので潮尻とも称されました。
土手跡町
 将監橋と金杉橋との間、金杉川の北側に沿ったごく小域の町です。寛文七年(1667)、金杉橋の北側に多門が建てられることになり、同年、芝浜松町四丁目、芝中門前三丁目、芝片門前二丁目の南の地先に土手ができました。その後、多門建設中止に伴い、貞享二年(1685)、土手は取り払いとなって、その跡地に町屋を開設し、土手跡町と称えるに至ったと伝えられています。
新網町
 むかしは芝浦と唱えた土地の一部で、漁業の盛んな地域でした。寛永三年(1626)より、ここから幕府に白魚を献上したので、その褒美として、同七年(1630)、名主惣 十郎の先祖伝右衛門を召し出し、海岸の百間四方の地を網干場に与えられました。同十一年(1634)、町奉行に漁夫の住居にすることを願い出て市街地となり、網干塲に与えられた地所なので新網町と称するようになりました。
  芝地区総合支所
  ここは 港区浜松町2-13-3 浜松町四丁目児童遊園です。」

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tag : 東海道歌川広重

雑魚場跡(本芝公園) 

○雑魚場跡(本芝公園) 港区芝4-15-1、4-16

 本芝公園は、日本橋の魚河岸に対して「雑魚場」と呼ばれた魚市場跡です。港区旧跡に指定されています。

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<公園付近沿革案内>

(説明板)
「公園附近沿革案内
 この附近は、芝の中でも、古川川口の三角州に、江戸時代よりも昔から開けたところで本来の芝という意味で、本芝と呼ばれた。
 公園の位置は、東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりの海に面した砂浜で、江戸時代には、魚が水揚げされたため雑魚場と呼ばれた。人情話「芝浜の革財布」はこの土地が舞台である。
 明治5年に開通した鉄道は、軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが、芝浦が明治の末からしだいに埋立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので、昭和43年に埋立てて、港区立、本芝公園として開園した。
  芝地区総合支所協働推進課」

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<標柱「雑魚場跡」>

(正面)「港区の文化財 雑魚場跡」
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(右側面)
「このあたりは、東京湾から小さな入り江となり、昭和三十七年末まで漁業基地として使用されていた。雑魚場(ざこば)の名は、江戸時代前期より、本芝・金杉の漁民が、東海道往還に出て、鮮魚を扱うようになり、雑魚を中心とした魚市が立ったことから呼ばれるようになった。江戸時代、本芝・金杉の両浦は、将軍家食膳に供される「御菜」上納の元締めの地位を占め、江戸湾内四十四
浦の羨望の的であった。」
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(左側面)
「芝の漁業の主流となるのは、延網漁・網漁・鰻漁・海苔養殖である。中でも芝の名を冠した「シバエビ」漁は代表的なものであった。
  平成五年三月二十三日 港区文化財総合目録登録
  (平成二十六年十二月建替) 港区教育委員会」」
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<芝浜の記憶‐舟>

(説明文)
「芝浜の記憶‐舟
 今は昔、この一帯は芝浜と呼ばれていた。特にこの本芝公園の地は、「雑魚場」と呼ばれ湾内の魚が水揚げされた所であった。
 この芝浜の記憶を後世に残すため、昔のかい、ウナギかま、モリ先などの漁撈具を彫りこんだ舟の彫刻をつくり設置したものである。
  平成4年(1992年)10月  港区」

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<海のタマゴ>

 「海のタマゴ」のオブジェが2個あります。

(説明文)
「海のタマゴ
 人は海より生まれ、今都会に住む、ときおり人は母なる海に帰りたいと思う 「海のタマゴ」はそんな人間のたえることなき海への憧憬の念を形に表したしたものである
  平成4年(1992年)10月  港区」

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○芝地区旧町名由来板

 本芝公園内に「芝地区旧町名由来板」があります。

(説明板)
「芝地区旧町名由来板 旧町名由来板めぐり20‐19
本芝
 中古の時代は豊島郡柴村とよばれ、海辺に漁家が点々とした土地でした。柴村を芝村と書くようになった時期はは定かではありませんが、天正十五年(1587)の文書には芝村と記されています。
 半農半漁の民がここを開拓し、やがて家康入国(天正十八年、1590)の後、しだいに発達し、商屋もでき代官支配の町場となっていきました。寛文二年(1662)に町奉行支配となって名実ともに市街地となり、往時の芝村であるというので本芝と呼ばれるようになりました。

本芝材木町
 昔は豊島郡柴村に属し、町の北側には昭和に入るまで入間川の入堀があり、江戸時代末期までは海から舟が通う河岸地となっていました。昔から材木商売のものが多く住んでおり、町内地先の河岸地などに材木を積んでおいたことから町名となったと伝えられています。江戸時代には材木商が軒をつらね、木挽小屋からは鋸の音が絶え間なく聞こえてくるほどに栄えたようです。

本芝下町
 昔は豊島郡柴村に属し、町屋となった後も代官支配地でしたが、寛文二年(1662)に町奉行支配となりました。下等の魚を商う魚商が多く住んでおり、下等の魚を俗に「下もの」というところから下町と称するようになったと伝えられています。
 はじめは、下町を読み誤らないように本芝下タ町と書きましたが、明治四十四年(1911)に本芝下町と改められました。

本芝入横町
 昔は豊島郡柴村に属していました。町屋が建てられた後も代官支配でしたが、寛文二年(1662)、町奉行支配となりました。本芝通りより右に入る横町であるということから入横町と名づけられたのが町名の由来です。馬喰が多く俗に馬町とも呼ばれました。街道に近く、その運輸に従う馬の供給業者がいたためかと思われます。

本芝公園
 この付近一帯はかつて海岸で、雑魚場と呼ばれていました。昭和45年に運河を埋め立ててつくられました。
  芝地区総合支所

 ここは、港区芝4-15-1 本芝公園です。」

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○雑魚場架道橋 港区芝4-15-1〜港区芝浦3-1-2

 本芝公園は、1968(昭和43)年に埋め立てられるまで船溜まりでした。その船溜まりから、水路だった雑魚場架道橋をくぐって、船は東京湾と行き来していました。現在の雑魚場架道橋通路は、歩行者、自転車(押し歩き)のみの通路です。

 「橋りょう名 雑魚場架道橋」

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tag : 東海道鉄道遺構

高輪海岸の石垣石/高輪築堤

○高輪海岸の石垣石 港区高輪2-13-8

高輪ゲートウェイ駅の南西、桂坂下の第一京浜沿に「高輪海岸の石垣石」があります。

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(説明板)
「高輪海岸の石垣石
 ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。
 平成7年(1995)、高輪二丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。
 石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。
 発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。
 ー詳しいことは、港区立港郷土資料館でお尋ねくださいー
 「東海道高輪風景 橋本貞秀画 文久2年(1862) 港区立みなと図書館所蔵」
  平成13年(2001)5月  港区教育委員会」

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<所在地>

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○高輪築堤 品川区高輪2-21

 高輪ゲートウェイ駅と品川開発で、「高輪築堤」が出土しました。工事現場の隙間から垣間見ましたが、「高輪築堤」にはブルーシートが被せられ見ることはできませんでした。港区教育委員会作成「高輪築堤出土」に写真と説明が掲載されていて詳しいです。
 なお、佐賀県立博物館の屋外に、高輪築堤の一部を令和4(2022)年4月15日から再現展示しています。

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「東京蒸気車鉄道一覧之図」(孟斎芳虎 明治4(1871)年)

 高輪海岸の先の海の上に石垣を築いて鉄道が走っていました(錦絵の右下)。 海上には台場が描かれています。第二台場には、明治3(1870)年フランス人の設計で完成した品川燈台が見えます。

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(右下拡大)
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「東京名勝高縄鉄道之図」(三代広重)

 海上には台場が描かれています。第二台場には、明治3(1870)年フランス人の設計で完成した品川燈台が見えます。

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「東京名所図会 高輪の海岸」(三代広重)

 石垣の間に、船を通すトンネルが見えます。海上には台場が見えます。

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「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(三代広重 明治4(1871)年頃 都立図書館蔵)

 左端に明治5(1872)年の大火で焼失した築地ホテル館が見えます。海上に連なる台場には、明治3(1870)年に点灯を開始した品川燈台が見えます。八ツ山下の高輪築堤を走るマッチ箱のような蒸気車は、明治5(1872)年開業前に創造で描いているのでしょう。

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(左端拡大)
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(品川燈台拡大)
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「東京明細圖會 品川鐵道」(三代広重)

 これから品川へ向けて、海上の築堤に向かう品川鉄道です。海上には品川台場が見えます。

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「高輪牛町朧月景」(小林清親)

 高輪牛町を走る陸蒸気が描かれています。

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「高縄鉄道」(井上安治)

 小林清親の弟子の井上安治の作品です。

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tag : 東海道鉄道遺構小林清親井上安治

願生寺と牛供養塔


○願生寺 港区高輪2-16-22 HP

 「高輪大木戸跡」から旧東海道(国道15号)を南に行くと、右側に願生寺があります。願生寺は、かつての高輪牛町(芝車町)にあり、門前には牛屋が建ち並んでいました。牛屋七家によって建立された牛供養塔があります。
 寺HPは、ポイントを得た丁寧なつくりで感心します。

<江戸切絵図>

 江戸切絵図に高輪大木戸の南に車町と願生寺がみえます。

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<山門>

 鉄門に葵紋が見えます。「山門が閉まっていても脇の扉から入ってご見学いただけます。」と寺HPに案内があり、脇扉から境内に入ります。

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<供養塔二基>

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<牛供養塔> 港区文化財

 牛供養塔は、車町の牛屋七家によって、牛供養のため元文3(1738)年に建立されたのを初めとします。

 (正面) 「南無阿弥陀仏」(祐天上人の書を写し刻む)

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(左側面)
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(右側面)
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<二千七百六十人之霊供養塔> 港区文化財

 2,760人の無縁の霊の供養のために、文政13(1830)年に建立された供養塔です。碑正面には祐天上人の筆跡を写した「南無阿弥陀仏」の文字が彫られています。

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<三界萬霊塔>

 六地蔵が陽刻されています。

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<無縁塔>

 供養塔の後方の無縁塔です。

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<説明板>

 門前に説明板「牛供養塔及び二千七百六十人之霊供養塔」があります。

(説明板)
「港区指定有形文化財 歴史資料
 牛供養塔及び二千七百六十人之霊供養塔
 牛供養塔は、願生寺門前の車町の牛屋七家によって、牛供養のため元文三年(一七三八)に建立されたのをはじめとします。車町は属に牛町ともいい、江戸幕府が江戸城増築などの際に重量物の運搬をするために招いた京都牛町の牛屋をこのあたりに常住させていました。現在の塔正面に刻まれた「南無阿弥陀仏」の題字は江戸時代中期の高僧祐天上人(一六三七ー一七八)の書を写し刻んだもので、文政十一年(一八二八)に建立されたものです。祐天は、将軍から庶民にいたるまで生き仏として尊敬された人物で、その功徳を願って筆跡を写し、建てられたものと思われます。
 二千七百六十人之霊供養塔は、元禄二年(一六八九)から文政十三年三月十五日日までに無縁となった人々の霊の供養のために文政十三年に建立された供養塔です。碑正面には牛供養塔と同様に祐天上人の筆跡を写した「南無阿弥陀仏」の文字が彫られています。
 江戸で唯一の牛町の存在を伝える歴史資料として、また庶民の信仰を示す資料としても貴重といえます。
  平成二十年九月九日指定  港区教育委員会」

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<地蔵堂/朝日地蔵>

 狛犬ではなく石羊がいます。これは、満州方面の工芸品を檀家が寄進したもの(寺HPに記載)。地蔵堂には延命地蔵尊が祀られています。かつては朝日地蔵と呼ばれ、北東向きに建てられた地蔵堂の東に円形の窓があり、差し込む朝日の中に浮かぶように見えたことに由来したそうです。「江戸南方四十八所地蔵尊参」の二十一番に数えられました。

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<鐘楼>

 戦時供出から戻ってきた宝永7(1710)年鋳造の梵鐘です(寺HPによる)。

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<水盤>

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<本堂/扁額>

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