泉岳寺

○泉岳寺 港区高輪2-11-1 HP

 慶長17(1612)年、徳川家康の命により創建。総泉寺、青松寺と並び「曹洞宗江戸三ヶ寺」と称されました。
 寛永18(1641)年の大火で焼失したため、現在地に替地を与えられ、外桜田から移転しました。
 藩主浅野長矩及び四十七士の墓があることで有名となりました。川柳「それまでは ただの寺なり 泉岳寺」

「江戸名所図会 泉岳寺」

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 東海道に面して、現在はない「総口」が見えます。
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 境内左手に「四十七士墓」とあり、墓への登り口右手に井戸も見えます。
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「江戸切絵図」
 泉岳寺には「四十七人ハカアリ」と記され、名所となったことがうかがえます。

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「泉岳寺開帳詣」(豊国)

 泉岳寺の開帳では、浪士の遺品も開帳していました。
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 左手の開帳立札の後ろには石垣が見えるので、高輪大木戸でしょう。
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「東都高輪泉岳寺開帳参里の図」(豊国)

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「東都高輪風景」(五雲亭貞秀)

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 「泉岳寺」「義士の墓」が見えます。
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<中門> 港区文化財

 天保7(1836)年に再建の「中門」です。扁額「萬松山」 。

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<石仏>

 石仏が三基並んでいます。

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<石橋>

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<参拝案内>

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<大石内蔵助良雄銅像>

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(説明板)
「大石内蔵助良雄銅像
 この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正十年十二月十四日に除幕したものです。
 内蔵助が、当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。」

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<山門> 港区文化財

 天保3(1832)年に再建の「山門」です。

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 「港区の文化財 泉岳寺山門」

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 山門裏

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<萬松山泉岳寺の縁起>

「萬松山泉岳寺の縁起
 当萬松山泉岳寺は、慶長十七年(一六一二年)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(一五四六〜一六二一)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第四代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。
 将軍によって建立された当寺も、寛永十八年(一六四一)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光(一六○四〜一六五一)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間〈一六四四〜一六四八〉とも)。この移転に際しては、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力して完成し、その因縁により以後この五大名が共に檀越となり外護の任に当った。
 江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三刹(埼玉県龍穏寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下で触頭として曹洞宗の行政面の一翼を担った。
 また、吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の養成に大いに寄与した。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時二百名程の学僧が修学していたという。
 また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄十五年の義挙(一七○二年十二月十四日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約五十年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになった。
 現存する山門は天保年間に当寺三十四世大道貞均和尚によって建立され、二階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、一階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠が嵌め込まれている。
 明治初期には廃仏毀釈の余波を受けて、やや荒廃を余儀なくされたが、当寺四○世圓頓霊巌和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂、庫院を恢興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、既存の石巒師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて寺運の再興を果し、次代の四十一世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建し、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれた。
 然るに先の第二次世界大戦の戦渦に遭遇し、山門・義士館(旧義士館=現講堂)以外の諸堂が焼失し、歴代の功業は大いに削がれてしまった。しかし次の四十二世祖天凖爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、遂に昭和二十八年(一九五三)に本堂の再建を果し、以後これが継承されて現在に至る伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられている。先年義士討入り三百年を記念し、浄財を募って浅野家の塋域(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館(平成十三年開館)を建設して、寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示して、赤穂義士の已むに已まれぬ心情を伝承することに資している。
 平成十六年、江戸期の学寮の伝統と戦前に宗門の宗義自覚の発露であった道元禅師鑚仰会の活動等を再興すべく、泉岳寺学寮講座を開設し、漢学・仏教学・宗学の各講座を毎週開講し、また参禅会を公開して道俗の好学の士の渇望に応えている。」

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(説明板)
「萬松山 泉岳寺
 泉岳寺は曹洞宗の寺院です。
曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう1つは横浜鶴見の総持寺です。
 道元禅師の主著は仏教の神髄を表した「正法眼蔵」という九十五巻に渡る書物です。
 さて、泉岳寺は慶長十七年(一六一二年)に「門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です(現在のホテルオークラの近く)。
 しかしながら寛永十八年(一六四一年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。 浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
 一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
 その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。」

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<横山君墓碣銘>

 明治十八年十月(1885)の建碑。

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<殉難戦死之碑>

 西南戦争戦死者の追悼碑です。明治11(1878)年に建立された原碑が倒壊したため大正12(192)年に再建されています。

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<鐘楼>

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<澤木興道老師像>

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<本堂>

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【赤穂義士墓所】

<史蹟 赤穂義士墓所入口>

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<主税の梅>

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(説明板)
「主税の梅
 大石主税が切腹した松平壱岐守三田屋敷に植えられていた梅とつたえられています。」

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<水琴窟>

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<瑶池梅>

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(説明板)
「瑶池梅
 義士の墓守りをしていた堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられています。」

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<血染めの梅/血染めの石>

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(説明板)
「血染めの梅
 血染めの石
 浅野内匠頭が、田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。」

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<首洗い井戸>

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(説明板)
「首洗い井戸
 義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。」

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 「川上音二郎之碑」
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 「新劇場設立紀念之碑」(明治29年銘)
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<義商 天野屋利兵衛浮図>

 天野屋利兵衛は大阪の商人で、「忠臣蔵』」では討ち入りのための武器調達を行った支援者として描かれています。

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<筆供養之碑>

 林龍峡の揮毫による昭和57(1982)年の建碑です。後方に「大般若経供養塔」があります。

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<高島嘉右衛門の墓碑>

  高島易断創始者「高島嘉右衛門」の石碑です。

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<義士墓入口の門> 港区文化財

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(標柱)
「港区登録有形文化財(建造物)
 浅野長矩及び赤穂義士墓所門
 切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。
 平成十一年二月十一日 港区文化財総合目録登録  港区教育委員会」

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<史蹟 浅野長矩墓及赤穂義士墓> 国史跡

(正面)
 「史蹟 浅野長矩墓及赤穂義士墓」
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(右側面)
 「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ
  大正十一年十一月 内務大臣指定」
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「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖」(東京市公園課 大正11年)
 赤穗義士墓
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<赤穂義士記念館>
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<義士木像館>
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薩摩屋敷跡

○薩摩屋敷跡 港区芝5-7-1

 NEC本社ビルの植え込みに石碑「薩摩屋敷跡」があります。
 薩摩藩の江戸屋敷は、ここが上屋敷で、他に中屋敷(幸橋門内)、下屋敷(高輪)、西郷・勝の会談が行われた蔵屋敷(田町)がありました。

(碑文)
 「薩摩屋敷跡 
  平成三年一月
  西郷市之助書」

 碑文は西郷隆盛の孫である西郷市之助の書です。

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<江戸切絵図>

 江戸切絵図に「薩摩宰相殿」とあるのが、薩摩藩上屋敷です。薩摩屋敷は、碑が建つNEC本社ビルの敷地の10倍はあったといいます。

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<西郷隆盛の反対で薩摩屋敷を迂回>

 新橋〜横浜間の鉄道建設予定地には軍用地や薩摩藩の藩邸があり、激しい反発がありました。そこで井上勝らは海上に堤を築き、その上に線路を通しました。鉄道開業時の式典列車には、天皇皇后への説明係として井上勝が同乗、政府首脳も同乗し、鉄道建設に反対した西郷隆盛も乗車しています。
(参考)高輪築堤についてはこちらで記載、旧新橋停車場跡についてはこちらで記載

「東京蒸気車鉄道一覧之図」(孟斎芳虎 明治4(1871)年)より抜粋
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「大日本鐡道發車之圖」(井上探景(井上安治)明治22年)
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(参考)
西郷・勝の会見地(芝)

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御穂鹿嶋神社/幸久稲荷神社

○御穂鹿嶋神社 港区芝4-15-1

 御穂鹿嶋神社は、本芝両社と称されていた御穂神社と鹿嶋神社を平成17(2005)年合祀、翌平成18(2006)年に新社殿が完成しました。

「江戸切絵図」

 「鹿島明神」と「御穂明神」がそれぞれ見えます。また、海岸に「沙濱」(芝浜)が見えます。

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「江戸名所図会 御穂神社 鹿嶋神社」

 手前に「鹿嶋社」、その後方に「三穂社」が描かれています。

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<几号水準点>

 本殿向かって右の狛犬台座に几号水準点が刻まれています。

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 左の狛犬

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<獅子山>

 社殿の裏手ですが、江戸名所図会を見ると、社殿の前は海なので、ここが表参道に当ります。かつては獅子山が置かれおり、その狛犬を模して平成18(2006)年に新たに奉納されたものです。

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<鳥居>

 神社は南を向いており、神社の前には本芝公園がありますが、ここはかつて海でした。

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<大乗妙法蓮華経全部一石一字六万九千三百八十四字謹寫>

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<希望の塔>

 昭和10(1935)年に建てられた国旗掲揚塔で、昭和41(1966)年に希望の塔として再建。

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<芝浜囃子の碑>

 昭和52(1977)年の建碑です。「芝濱囃子の碑 橘右近」

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<顕彰碑>

 漢文で刻まれており、わかりません。

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<境内社>

 天満宮・稲荷社・住吉社の3社が祀られています。江戸名所図会では、「天満」「いなり」「住吉」とそれぞれ描かれています。

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<手水舎>

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<力石>

 力石が整然と並べられています。

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<石柱「芝浦舩」>

 「芝浦舩」「明治三十五壬寅年六月吉日」 と刻まれている、明治35(1902)年銘の石柱「芝浦舩」です。
 江戸名所図会を見ると、神社の横のこの場所も海となっています。船からのお参りの入口だったのかもしれません。

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<天水桶>

 嘉永5(1852)年銘の川口で造られた天水桶です。

 「川口住 鋳工 永瀬源内 藤原富廣
  嘉永五年 壬子 三月吉日」

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<拝殿/本殿>

 扁額は「御穂神社」と「鹿嶋神社」の2つが掲げられています。

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○幸久稲荷神社 港区芝4-6-20

 幸久(さきく)稲荷神社は、鹿島神社へ合祀され御穂鹿島神社となった御穂神社の元宮(旧社地)です。

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<手水鉢/天水桶>

 祠の奥には、嘉永2(1849)年銘の天水桶があります。 

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芝浦

○芝浦

 芝浦は、芝口(現在の新橋)から、本芝(現在の田町)周辺までの呼称です。芝浦(別称:竹芝浦・袖ヶ浦)は昔からある漁場で、冬春は、貝類、ウナギ、夏秋は、芝海老、こち、黒鯛、ざこなどが獲れ、芝肴のうちでも「芝海老」は特に名産でした。将軍家に鮮魚などを献上する「御菜肴八ヶ浦」の中でも、早くから、この役を担っていました。
 また、東海道の起点が、慶長8(1603)年に日本橋となるまでの三年間は、本芝が起点となっていました。


「江戸八景 芝浦の帰帆」(英泉)

 帆掛け船が夕暮れに遠方より戻ってくる風景が描かれています。海岸沿いには諸藩の蔵屋敷が並び、各藩の荷物が船で運び入れられていました。

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「江戸近郊八景之内 芝浦晴嵐」(広重)

 嵐のあとの芝浦を海上から描いています。

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「名所江戸百景 芝うらの風景」(広重)

 浅瀬を示す木の杭(澪標)の奥の海上に台場が見えます。浜御殿から高輪にかけての海岸沿いには大名屋敷が立ち並んでいます。「浜御庭、江川太郎左エ門、酒井左エ門尉、紀伊殿、丹羽左京、松平肥後陣屋、真田信濃陣屋、松平薩摩」と海岸線を屋敷がジグザグに並び、その先高輪海岸で湾曲して凹みます(諸説あります)。

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 「品川台場」(東京市 昭和2(1927)年 国立国会図書館蔵)
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「絵本江戸土産 芝浦 御浜沖」(広重)

 「名所江戸百景 芝うらの風景」と同じ構図の挿絵が「絵本江戸土産」にあります。挿絵には「這は 舩より詠むるの躰なり 実にや岸辺に生たる松の自らに屈伸して 龍虎の名空しからず見ゆ」とあります。岸辺の屈伸した松はそれなりに知られていたようです。

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「絵本江戸土産 芝浦」(広重)

 挿絵には、「田町辺の惣名なり この所より見わたせば 海水渺々として安房上総を望み 右に羽田の森幽にて 遠く見ゆる白帆のさま 常に月雪にます絶景なり」とあります。

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「絵本江戸土産 其二」(広重)

 挿絵には、「沖より陸地を観たるさまなり 夏の末より秋にいたり 釣する小舟 日毎に絶えず 諸国の入船 出る船 実に繁昌を顕はせり」とあります。「増上寺」と「神明宮」が記されています。遠景に富士山が見えます。

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「名所江戸百景 金杉橋海」(広重)

 金杉橋から、北東を俯瞰しており、水平線に大きな屋根が見えます。築地門跡(築地本願寺)とも深川の浄心寺とも諸説あります。「井桁に橘」の紋や「身延山」「一天四海皆帰妙法」「南無妙法蓮華経」の文字が見え、日蓮宗の祖師参りの行列だとわかります。魚栄梓は版元魚栄のPRでしょう。
 金杉橋を渡る一行は、うちわ太鼓が二つ見え、江戸に向かっています(諸説あります)。風が南から北へ吹いています。行き先は池上本門寺、芝浦の正伝寺(金杉毘沙門)、深川の浄心寺と諸説あります。
 各地の講中の一行が東海道各地で身延山の出開帳仏を迎えて一緒に出開帳の場である深川の浄心寺に向かっているとみるのが自然かと思います。江戸での出開帳は、山城国清涼寺、信濃国善光寺、下総国成田山新勝寺、甲斐国身延山久遠寺が特に有名で、江戸出開帳「四天王」と呼ばれました。清涼寺と善光寺の出開帳は深川の回向院で、新勝寺は深川の永代寺、久遠寺は深川の浄心寺で行われました。
 「名所江戸百景 金杉橋海」が出された安政4(1857)年には、身延山久遠寺の出開帳が安政4(1857)年7月19日から、浄心寺で行われおり、身延山久遠寺の出開帳のPRを兼ねた作品と捉えるのが自然かと思いました(諸説あります)。

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「芝浦製作所」(日本の名勝 史伝編纂所 明治33(1900)年)

 写真のタイトルは三井製作所ですが、目次及び本文は芝浦製作所です。田中製造所が明治26(1893)年に三井財閥の傘下に入り「芝浦製作所」(現在の東芝)に改称。芝浦製作所の西(写真左手)に鉄道が通っています。

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「ロセッタホテル」(東京風景 小川一真出版部 明治44(1911)年)

 ロセッタは、東洋汽船の定期船から日露戦争では輸送船として使用され、東洋汽船から尾城汽船に売却後、朝日新聞社のクルーズ船として使用される等の後、芝浦埠頭に係留され、園遊会場及びホテルとして使用されました。

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「大東京寫眞帖 東京港の一部芝浦」

 昭和5(1930)年に開通した汐留と芝浦を結ぶ貨物線の跳橋「古川可動橋」です。昭和61(1986)年に貨物線が廃止され、「古川可動橋」も撤去されました。 現在は「ゆりかめも」が走っています。

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○金杉橋 港区芝大門二丁目・浜松町二丁目〜港区芝二丁目・芝一丁目

 金杉川(現在は古川と呼称)に架かる金杉橋は、東海道を日本橋から出発し、ちょうど一里の距離にあります。江戸時代は、橋の東側はすぐに江戸湊への河口でした。 明治7(1874)年に、京橋と金杉橋の間にガス灯が設置され、東京で初めてガス灯がともった場所としても知られています。現在の金杉橋は、頭上に首都高速が走り、東はJRの鉄橋(金杉橋)が架かっています。

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<旧町名由来板>
 浜松町四丁目児童遊園(旧浜松町4丁目時の名称が現在に至る)に旧町名由来板があります。

(説明板)
「芝地区旧町名由来板
 旧町名由来板めぐり20‐14
 芝金杉橋 新撰東京名所図会 明治35年(1902)
湊町
 寛文七年(1667)、金杉橋の北側に多門を建設するため公用地となり土手を築きましたが、元禄九年(1696)、多門建設計画の中止と共にこれを取り払い、その跡地は幕府御坊主の拝領屋敷に下され、一時は同朋町と呼ばれました(当時、幕府御坊主を同朋と称した)。宝永年間(1704~1711)以降、隣町の金杉同朋町をはじめ各地に同朋町があったので、海浜に接することから芝湊町と改称しました。俗に金杉川汐入の口にあるので潮尻とも称されました。
土手跡町
 将監橋と金杉橋との間、金杉川の北側に沿ったごく小域の町です。寛文七年(1667)、金杉橋の北側に多門が建てられることになり、同年、芝浜松町四丁目、芝中門前三丁目、芝片門前二丁目の南の地先に土手ができました。その後、多門建設中止に伴い、貞享二年(1685)、土手は取り払いとなって、その跡地に町屋を開設し、土手跡町と称えるに至ったと伝えられています。
新網町
 むかしは芝浦と唱えた土地の一部で、漁業の盛んな地域でした。寛永三年(1626)より、ここから幕府に白魚を献上したので、その褒美として、同七年(1630)、名主惣 十郎の先祖伝右衛門を召し出し、海岸の百間四方の地を網干場に与えられました。同十一年(1634)、町奉行に漁夫の住居にすることを願い出て市街地となり、網干塲に与えられた地所なので新網町と称するようになりました。
  芝地区総合支所
  ここは 港区浜松町2-13-3 浜松町四丁目児童遊園です。」

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雑魚場跡(本芝公園) 

○雑魚場跡(本芝公園) 港区芝4-15-1、4-16

 本芝公園は、日本橋の魚河岸に対して「雑魚場」と呼ばれた魚市場跡です。港区旧跡に指定されています。

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<公園付近沿革案内>

(説明板)
「公園附近沿革案内
 この附近は、芝の中でも、古川川口の三角州に、江戸時代よりも昔から開けたところで本来の芝という意味で、本芝と呼ばれた。
 公園の位置は、東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりの海に面した砂浜で、江戸時代には、魚が水揚げされたため雑魚場と呼ばれた。人情話「芝浜の革財布」はこの土地が舞台である。
 明治5年に開通した鉄道は、軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが、芝浦が明治の末からしだいに埋立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので、昭和43年に埋立てて、港区立、本芝公園として開園した。
  芝地区総合支所協働推進課」

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<標柱「雑魚場跡」>

(正面)「港区の文化財 雑魚場跡」
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(右側面)
「このあたりは、東京湾から小さな入り江となり、昭和三十七年末まで漁業基地として使用されていた。雑魚場(ざこば)の名は、江戸時代前期より、本芝・金杉の漁民が、東海道往還に出て、鮮魚を扱うようになり、雑魚を中心とした魚市が立ったことから呼ばれるようになった。江戸時代、本芝・金杉の両浦は、将軍家食膳に供される「御菜」上納の元締めの地位を占め、江戸湾内四十四
浦の羨望の的であった。」
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(左側面)
「芝の漁業の主流となるのは、延網漁・網漁・鰻漁・海苔養殖である。中でも芝の名を冠した「シバエビ」漁は代表的なものであった。
  平成五年三月二十三日 港区文化財総合目録登録
  (平成二十六年十二月建替) 港区教育委員会」」
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<芝浜の記憶‐舟>

(説明文)
「芝浜の記憶‐舟
 今は昔、この一帯は芝浜と呼ばれていた。特にこの本芝公園の地は、「雑魚場」と呼ばれ湾内の魚が水揚げされた所であった。
 この芝浜の記憶を後世に残すため、昔のかい、ウナギかま、モリ先などの漁撈具を彫りこんだ舟の彫刻をつくり設置したものである。
  平成4年(1992年)10月  港区」

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<海のタマゴ>

 「海のタマゴ」のオブジェが2個あります。

(説明文)
「海のタマゴ
 人は海より生まれ、今都会に住む、ときおり人は母なる海に帰りたいと思う 「海のタマゴ」はそんな人間のたえることなき海への憧憬の念を形に表したしたものである
  平成4年(1992年)10月  港区」

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○芝地区旧町名由来板

 本芝公園内に「芝地区旧町名由来板」があります。

(説明板)
「芝地区旧町名由来板 旧町名由来板めぐり20‐19
本芝
 中古の時代は豊島郡柴村とよばれ、海辺に漁家が点々とした土地でした。柴村を芝村と書くようになった時期はは定かではありませんが、天正十五年(1587)の文書には芝村と記されています。
 半農半漁の民がここを開拓し、やがて家康入国(天正十八年、1590)の後、しだいに発達し、商屋もでき代官支配の町場となっていきました。寛文二年(1662)に町奉行支配となって名実ともに市街地となり、往時の芝村であるというので本芝と呼ばれるようになりました。

本芝材木町
 昔は豊島郡柴村に属し、町の北側には昭和に入るまで入間川の入堀があり、江戸時代末期までは海から舟が通う河岸地となっていました。昔から材木商売のものが多く住んでおり、町内地先の河岸地などに材木を積んでおいたことから町名となったと伝えられています。江戸時代には材木商が軒をつらね、木挽小屋からは鋸の音が絶え間なく聞こえてくるほどに栄えたようです。

本芝下町
 昔は豊島郡柴村に属し、町屋となった後も代官支配地でしたが、寛文二年(1662)に町奉行支配となりました。下等の魚を商う魚商が多く住んでおり、下等の魚を俗に「下もの」というところから下町と称するようになったと伝えられています。
 はじめは、下町を読み誤らないように本芝下タ町と書きましたが、明治四十四年(1911)に本芝下町と改められました。

本芝入横町
 昔は豊島郡柴村に属していました。町屋が建てられた後も代官支配でしたが、寛文二年(1662)、町奉行支配となりました。本芝通りより右に入る横町であるということから入横町と名づけられたのが町名の由来です。馬喰が多く俗に馬町とも呼ばれました。街道に近く、その運輸に従う馬の供給業者がいたためかと思われます。

本芝公園
 この付近一帯はかつて海岸で、雑魚場と呼ばれていました。昭和45年に運河を埋め立ててつくられました。
  芝地区総合支所

 ここは、港区芝4-15-1 本芝公園です。」

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○雑魚場架道橋 港区芝4-15-1〜港区芝浦3-1-2

 本芝公園は、1968(昭和43)年に埋め立てられるまで船溜まりでした。その船溜まりから、水路だった雑魚場架道橋をくぐって、船は東京湾と行き来していました。現在の雑魚場架道橋通路は、歩行者、自転車(押し歩き)のみの通路です。

 「橋りょう名 雑魚場架道橋」

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