セイコーハウス銀座
○セイコーハウス銀座 中央区銀座4-5-11 HP
令和4(2022)年6月10日、銀座四丁目交差点にある和光本館がリニューアルされ、「SEIKO HOUSE GINZA(セイコーハウス銀座)」に名称変更されました。
「和光」は、明治14(1881)年に創業した「服部時計店」(現:セイコーグループ株式会社)から小売り部門を継承し、昭和22(1947)に創立しています。

令和4(2022)年6月10日、銀座四丁目交差点にある和光本館がリニューアルされ、「SEIKO HOUSE GINZA(セイコーハウス銀座)」に名称変更されました。
「和光」は、明治14(1881)年に創業した「服部時計店」(現:セイコーグループ株式会社)から小売り部門を継承し、昭和22(1947)に創立しています。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
歌川広重終焉の地
○歌川広重終焉の地 中央区京橋1-9-7 全国信用組合会館
歌川広重は、嘉永2(1849)年から亡くなるまでのおよそ10年間をここにあった二階建の家屋で過ごしました。
ビル建て替え前は説明板があったようですが、現在は、何もありません。
広重の遺言には「住居を売り払って借金を返済すること」とあり、「死んでゆく 地ごくの沙汰はともかくも あとのしまつが 金しだいなれ」と締めくくっています。活躍していても借金を返せなかった広重でした。



「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」は、広重が住んでいた京橋の家からの眺めだろうと言われています。

<広重の墓所>
広重の墓所は、東岳寺(足立区伊興本町)にあります。こちらで記載。
歌川広重は、嘉永2(1849)年から亡くなるまでのおよそ10年間をここにあった二階建の家屋で過ごしました。
ビル建て替え前は説明板があったようですが、現在は、何もありません。
広重の遺言には「住居を売り払って借金を返済すること」とあり、「死んでゆく 地ごくの沙汰はともかくも あとのしまつが 金しだいなれ」と締めくくっています。活躍していても借金を返せなかった広重でした。



「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」は、広重が住んでいた京橋の家からの眺めだろうと言われています。

<広重の墓所>
広重の墓所は、東岳寺(足立区伊興本町)にあります。こちらで記載。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
文明開化の京橋 京橋竹河岸通り
○京橋
<京橋の由来>
橋名の由来は、日本橋を起点として京へ上る東海道の最初の橋だったため、あるいは京から下ってきた業者が付近で遊女屋を営んでいた、など諸説あります。
橋の北東河岸には竹商人が多く竹河岸といわれ、西河岸には青物市場がたって大根河岸と呼ばれました。
昭和34(1959)年に、京橋川は埋め立てられ橋も撤去されました。
「京橋」(最新東京名所写真帖 小島又市 明治42年)
明治の頃の京橋です。京橋より北を「日本橋通り」、南を「銀座通り」との説明があります。

○京橋親柱 中央区銀座1-2-1
「煉瓦銀座之碑」「ガス燈」「京橋親柱」が保存されています。

<煉瓦銀座之碑>
(碑文)
「経綸
煉瓦銀座之碑
明治五年二月二十六日
(皇紀二五三二年
西暦一八七二年)
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる
東京都府知事 由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日」



<煉瓦とガス燈>
(プレート説明)
「煉瓦とガス燈(1987年記)
明治初期我が文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明が用いられた。床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のまま「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。」


<京橋親柱 橋銘板>
「京橋」「きようはし」の京橋親柱の橋銘板です。


○京橋親柱/京橋の碑 中央区京橋3-5
「京橋は古来よ里其の名著者る
創架乃年ハ慶長年間なる可如し明
暦以降屡々架換へら連大正十一
年末現橋に改築せ良る此の橋柱
は明治八年石造耳架換へられた
る時の擬寶珠欄干の親柱止して
橋名の書ハ明治能詩人佐々木支
陰乃揮毫耳係る毛のなり
昭和十三年五月」


○京橋の親柱 中央区銀座1-2-4
<京橋の親柱>
「京橋の親柱
所在地 中央区銀座一丁目二番先・一一番先
京橋三丁目五番先
京橋は、慶長八年(一六〇三)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。
このうち、二基の石造親柱は、明治八年(一八七五)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰 の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(一九二二)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きやうはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。
明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成二十二年三月 中央区教育委員会」


交番は、京橋の親柱を模したデザインとなっています。


○京橋の欄干柱(日比谷公園)
日比谷公園に京橋の欄干柱が保存されています。こちらで記載。
○「京橋と京橋川」 中央区京橋3-4
<京橋と京橋川>
(説明板)
「京橋と京橋川
京橋
名称の由来について『新撰東京名所図会』では「京橋川に架する橋にして。日本橋、江戸橋に対して名けたるものなり」とあり、また、日本橋から東海道を通って京へと向う最初の橋にあたることから名付けられたともされる。
橋の創架については様々な説があり明らかではないが、『京橋区史』によると「京橋は古来より其の名著はる。創架の年は慶長年間なるが如し」とある。また、『新撰東京名所図会』には「創建は詳かならされとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、この橋は慶長年間(1596〜1615)に初めて架けられたと考えられる。
京橋は、幾度か架け替えが行われ、明治8年(1875)には橋長11間(約19.8m)幅員8間(約14.4m)の石造アーチ橋に架け替えられた。その後、市区改正事業に伴い明治34年(1901)に橋長、幅員共に10間(約18m)の鉄橋となった。この橋は大正11年(1923)の拡幅工事により架け替えられ、昭和4年(1929)にも架け替えが行われたが、昭和38〜40年の京橋川埋め立てに伴い撤去された。
なお、京橋の親柱は明治8年のものが橋北詰め東側と橋南詰め西側に、大正11年のものが橋南詰め東側に保存されている。
京橋川
外堀から北紺屋町(現在の八重洲二丁目)と南紺屋町(現在の銀座一丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で楓川、桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した。延長0.6km。江戸時代には、比丘尻橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。
その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596〜1615)に行われた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされる。比丘尻橋と中之橋間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋間の左岸には白魚河岸があった。
京橋川は昭和38?40年に埋め立てられて、屋上に東京高速道路株式会社の自動車道路がある細長いビルにかわった。現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。中央通りと交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋三丁目4番先)、京橋の親柱(京橋三丁目5番先・銀座一丁目2番先・11番先)と「煉瓦銀座の碑」(銀座一丁目11番地先)が建っている。
大根河岸
大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が火災に遭った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、大根河岸も昭和10年(1935)に移転した。
なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は京橋大根河岸会会員により昭和34年(1959)に建立されたものである。
白魚河岸
京橋川の西沿岸に設けられた河岸で、享保年間(1716〜1736)南方に設けられた白魚屋敷にちなんで白魚河岸と呼ばれていた。
薪河岸
京橋川の北西沿岸の比丘尻橋と中之橋との間にある河岸地で、薪炭を扱う問屋が立ち並んでいたことから呼ばれていた。
竹河岸
竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。
中央区 土木部公園緑地課 2008年」



「京橋大根河岸青物市場蹟」 中央区京橋3-4

「江戸歌舞伎発祥之地」 中央区京橋3-4


○京橋竹河岸通り 中央区京橋3-6〜京橋3-10
江戸近郊から竹材が運び込まれる竹河岸がありました。道路名にその名残をとどめています。






「名所江戸百景 京橋竹がし」(広重)
京橋に住んでいた広重が、満月の夜の京橋と竹河岸を描いています。大山詣りの講中は、大森の名産、麦わら細工の纒(まとい)を担いで帰ってきました。京橋を渡る一行は、大森の纒を担いでいるので大山帰りだとわかります。


「絵本江戸土産 京橋竹川岸」(広重)
竹河岸から富士山を背景に京橋を描いています。

「江戸名所百人美女 京ばし」
こま絵には、京橋と竹河岸が描かれています。
京橋の由来に、京から下ってきた業者が付近で遊女屋を営んでいた説があります。


○文明開化の京橋
「東京開化三十六景 京橋煉化石造」(三代広重)
明治の頃の石橋の京橋が描かれています。洋風建築と、京橋川の大根を積んだ舟が対象的です。

「東京名所三十六戯撰 京ばし」(昇齋一景)
竹河岸が見えます。

「京橋」(井上安治)
夕暮れの光景とすれば、京橋の左手が銀座、右手が京橋です。

「鉄道馬車往復京橋煉瓦造ヨリ竹河岸図」(三代広重 明治15(1882)年)
現在の銀座一丁目の光景で、鉄道馬車が走っています。鉄道馬車は、明治15(1882)年6月に新橋・日本橋間に開通しました。
左の洋風建築は「玉すし」、、右の洋風建築は「松田」と記載があります。それぞれ店の入口に「玉すし」の提灯と、「御料理松田」の看板が見えます。2店の左には「みすや」の看板が見えます。京橋を渡った先、京橋川の下流に竹河岸が描かれています。


「京橋勧業場之景」(井上安次 明治15(1882)年)
京橋勧業場は明治15年3月に京橋区銀座一丁目一番地に開業しています。(ちなみに現在は中央区銀座一丁目の一番地は存在しません。)

「京橋松田の景」(井上安次 明治17(1884)年)
現在の銀座一丁目の光景で、京橋を鉄道馬車が走っています。鉄道馬車は、明治15(1882)年6月に新橋・日本橋間に開通しました。右に大きな洋風建築の牛鍋屋「松田」、その左に「玉寿司」が描かれています。奥に時計台が見えます、旅籠町の時計店でしょうか。

<京橋の由来>
橋名の由来は、日本橋を起点として京へ上る東海道の最初の橋だったため、あるいは京から下ってきた業者が付近で遊女屋を営んでいた、など諸説あります。
橋の北東河岸には竹商人が多く竹河岸といわれ、西河岸には青物市場がたって大根河岸と呼ばれました。
昭和34(1959)年に、京橋川は埋め立てられ橋も撤去されました。
「京橋」(最新東京名所写真帖 小島又市 明治42年)
明治の頃の京橋です。京橋より北を「日本橋通り」、南を「銀座通り」との説明があります。

○京橋親柱 中央区銀座1-2-1
「煉瓦銀座之碑」「ガス燈」「京橋親柱」が保存されています。

<煉瓦銀座之碑>
(碑文)
「経綸
煉瓦銀座之碑
明治五年二月二十六日
(皇紀二五三二年
西暦一八七二年)
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる
東京都府知事 由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日」



<煉瓦とガス燈>
(プレート説明)
「煉瓦とガス燈(1987年記)
明治初期我が文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明が用いられた。床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のまま「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。」


<京橋親柱 橋銘板>
「京橋」「きようはし」の京橋親柱の橋銘板です。


○京橋親柱/京橋の碑 中央区京橋3-5
「京橋は古来よ里其の名著者る
創架乃年ハ慶長年間なる可如し明
暦以降屡々架換へら連大正十一
年末現橋に改築せ良る此の橋柱
は明治八年石造耳架換へられた
る時の擬寶珠欄干の親柱止して
橋名の書ハ明治能詩人佐々木支
陰乃揮毫耳係る毛のなり
昭和十三年五月」


○京橋の親柱 中央区銀座1-2-4
<京橋の親柱>
「京橋の親柱
所在地 中央区銀座一丁目二番先・一一番先
京橋三丁目五番先
京橋は、慶長八年(一六〇三)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。
このうち、二基の石造親柱は、明治八年(一八七五)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰 の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(一九二二)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きやうはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。
明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成二十二年三月 中央区教育委員会」


交番は、京橋の親柱を模したデザインとなっています。


○京橋の欄干柱(日比谷公園)
日比谷公園に京橋の欄干柱が保存されています。こちらで記載。
○「京橋と京橋川」 中央区京橋3-4
<京橋と京橋川>
(説明板)
「京橋と京橋川
京橋
名称の由来について『新撰東京名所図会』では「京橋川に架する橋にして。日本橋、江戸橋に対して名けたるものなり」とあり、また、日本橋から東海道を通って京へと向う最初の橋にあたることから名付けられたともされる。
橋の創架については様々な説があり明らかではないが、『京橋区史』によると「京橋は古来より其の名著はる。創架の年は慶長年間なるが如し」とある。また、『新撰東京名所図会』には「創建は詳かならされとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、この橋は慶長年間(1596〜1615)に初めて架けられたと考えられる。
京橋は、幾度か架け替えが行われ、明治8年(1875)には橋長11間(約19.8m)幅員8間(約14.4m)の石造アーチ橋に架け替えられた。その後、市区改正事業に伴い明治34年(1901)に橋長、幅員共に10間(約18m)の鉄橋となった。この橋は大正11年(1923)の拡幅工事により架け替えられ、昭和4年(1929)にも架け替えが行われたが、昭和38〜40年の京橋川埋め立てに伴い撤去された。
なお、京橋の親柱は明治8年のものが橋北詰め東側と橋南詰め西側に、大正11年のものが橋南詰め東側に保存されている。
京橋川
外堀から北紺屋町(現在の八重洲二丁目)と南紺屋町(現在の銀座一丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で楓川、桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した。延長0.6km。江戸時代には、比丘尻橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。
その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596〜1615)に行われた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされる。比丘尻橋と中之橋間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋間の左岸には白魚河岸があった。
京橋川は昭和38?40年に埋め立てられて、屋上に東京高速道路株式会社の自動車道路がある細長いビルにかわった。現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。中央通りと交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋三丁目4番先)、京橋の親柱(京橋三丁目5番先・銀座一丁目2番先・11番先)と「煉瓦銀座の碑」(銀座一丁目11番地先)が建っている。
大根河岸
大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が火災に遭った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、大根河岸も昭和10年(1935)に移転した。
なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は京橋大根河岸会会員により昭和34年(1959)に建立されたものである。
白魚河岸
京橋川の西沿岸に設けられた河岸で、享保年間(1716〜1736)南方に設けられた白魚屋敷にちなんで白魚河岸と呼ばれていた。
薪河岸
京橋川の北西沿岸の比丘尻橋と中之橋との間にある河岸地で、薪炭を扱う問屋が立ち並んでいたことから呼ばれていた。
竹河岸
竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。
中央区 土木部公園緑地課 2008年」



「京橋大根河岸青物市場蹟」 中央区京橋3-4

「江戸歌舞伎発祥之地」 中央区京橋3-4


○京橋竹河岸通り 中央区京橋3-6〜京橋3-10
江戸近郊から竹材が運び込まれる竹河岸がありました。道路名にその名残をとどめています。






「名所江戸百景 京橋竹がし」(広重)
京橋に住んでいた広重が、満月の夜の京橋と竹河岸を描いています。大山詣りの講中は、大森の名産、麦わら細工の纒(まとい)を担いで帰ってきました。京橋を渡る一行は、大森の纒を担いでいるので大山帰りだとわかります。


「絵本江戸土産 京橋竹川岸」(広重)
竹河岸から富士山を背景に京橋を描いています。

「江戸名所百人美女 京ばし」
こま絵には、京橋と竹河岸が描かれています。
京橋の由来に、京から下ってきた業者が付近で遊女屋を営んでいた説があります。


○文明開化の京橋
「東京開化三十六景 京橋煉化石造」(三代広重)
明治の頃の石橋の京橋が描かれています。洋風建築と、京橋川の大根を積んだ舟が対象的です。

「東京名所三十六戯撰 京ばし」(昇齋一景)
竹河岸が見えます。

「京橋」(井上安治)
夕暮れの光景とすれば、京橋の左手が銀座、右手が京橋です。

「鉄道馬車往復京橋煉瓦造ヨリ竹河岸図」(三代広重 明治15(1882)年)
現在の銀座一丁目の光景で、鉄道馬車が走っています。鉄道馬車は、明治15(1882)年6月に新橋・日本橋間に開通しました。
左の洋風建築は「玉すし」、、右の洋風建築は「松田」と記載があります。それぞれ店の入口に「玉すし」の提灯と、「御料理松田」の看板が見えます。2店の左には「みすや」の看板が見えます。京橋を渡った先、京橋川の下流に竹河岸が描かれています。


「京橋勧業場之景」(井上安次 明治15(1882)年)
京橋勧業場は明治15年3月に京橋区銀座一丁目一番地に開業しています。(ちなみに現在は中央区銀座一丁目の一番地は存在しません。)

「京橋松田の景」(井上安次 明治17(1884)年)
現在の銀座一丁目の光景で、京橋を鉄道馬車が走っています。鉄道馬車は、明治15(1882)年6月に新橋・日本橋間に開通しました。右に大きな洋風建築の牛鍋屋「松田」、その左に「玉寿司」が描かれています。奥に時計台が見えます、旅籠町の時計店でしょうか。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
金春通り 煉瓦遺構の碑 煉瓦銀座之碑
○金春屋敷跡 中央区銀座8丁目6~8番地
中央区教育委員会「金春屋敷跡」説明板があります。能役者・四家のうちの一つである金春が屋敷を構えた場所が銀座八丁目六・七・八番地で、金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。
(説明板)
「金春屋敷跡 所在地 中央区銀座八丁目六~八番地域
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
特に、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召し抱えられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。
元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座八丁目)・観世大夫は弓町(現在の銀座二丁目)・宝生大夫は大鋸町(現在の京橋一丁目)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座六丁目)に屋敷を拝領していたとされています。
金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座八丁目六・七・八番辺りに図示されています。
後にこの屋敷は麹町(現在の千代田区)に移りましたが、跡地には芸者が集り、花街として発展してました。
金春の名は「金春湯」「金春通り」などと、今もこの地に残っています。
平成ニ十一年三月 中央区教育委員会」

○今春通り
路面にはめ込まれたパネルです。

○金春湯 中央区銀座8-7-5金春ビル 03-3571-5469 営業月~金 14:00-22:00
文久3(1863)年創業の銭湯です。ボディーソープ、シャンプーあり。
緊急事態宣言を受けて、平日のみの営業となっています。



〇煉瓦遺構の碑 中央区銀座8-7-11
金春通りの南端に「煉瓦遺構の碑」があります。
小菅でつくられたレンガは、銀座煉瓦街にも使われました。
(碑説明文)
「銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。
設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治五年から十年にかけて当時の国家予算の四%弱を費やし、延べ一万メートル余もあったといわれています。
この煉瓦は銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。
下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅板に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されております。
銅板画制作 第十一代 銅昭」
「煉瓦遺構の碑 平成五年九月吉日
銀座金春通会建之」





○煉瓦銀座之碑とガス灯 中央区銀座1-2-1
「煉瓦銀座之碑」「ガス街路灯」「京橋親柱」が保存されています。
(碑文)
「経綸 煉瓦銀座之碑
明治五年二月二十六日(皇紀二五三二年 西暦一八七二年)
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費
を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日」
上部「経綸」は由利公正の揮毫です。





中央区教育委員会「金春屋敷跡」説明板があります。能役者・四家のうちの一つである金春が屋敷を構えた場所が銀座八丁目六・七・八番地で、金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。
(説明板)
「金春屋敷跡 所在地 中央区銀座八丁目六~八番地域
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
特に、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召し抱えられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。
元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座八丁目)・観世大夫は弓町(現在の銀座二丁目)・宝生大夫は大鋸町(現在の京橋一丁目)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座六丁目)に屋敷を拝領していたとされています。
金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座八丁目六・七・八番辺りに図示されています。
後にこの屋敷は麹町(現在の千代田区)に移りましたが、跡地には芸者が集り、花街として発展してました。
金春の名は「金春湯」「金春通り」などと、今もこの地に残っています。
平成ニ十一年三月 中央区教育委員会」

○今春通り
路面にはめ込まれたパネルです。

○金春湯 中央区銀座8-7-5金春ビル 03-3571-5469 営業月~金 14:00-22:00
文久3(1863)年創業の銭湯です。ボディーソープ、シャンプーあり。
緊急事態宣言を受けて、平日のみの営業となっています。



〇煉瓦遺構の碑 中央区銀座8-7-11
金春通りの南端に「煉瓦遺構の碑」があります。
小菅でつくられたレンガは、銀座煉瓦街にも使われました。
(碑説明文)
「銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。
設計者はトーマス・ジェイムス・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治五年から十年にかけて当時の国家予算の四%弱を費やし、延べ一万メートル余もあったといわれています。
この煉瓦は銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。
下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅板に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されております。
銅板画制作 第十一代 銅昭」
「煉瓦遺構の碑 平成五年九月吉日
銀座金春通会建之」





○煉瓦銀座之碑とガス灯 中央区銀座1-2-1
「煉瓦銀座之碑」「ガス街路灯」「京橋親柱」が保存されています。
(碑文)
「経綸 煉瓦銀座之碑
明治五年二月二十六日(皇紀二五三二年 西暦一八七二年)
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費
を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日」
上部「経綸」は由利公正の揮毫です。





テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
- カウンター