杉浦陣屋跡
○史跡 杉浦陣屋跡 松伏町大字大川戸3133
赤山街道越谷道の終端に杉浦陣屋跡があります。現在はカインズ松伏店が建っています。


(説明板)
「史跡 杉浦陣屋跡
杉浦家の祖である杉浦定政は、織田家の旧臣であった美濃の国竹ヶ鼻城主杉浦定元の長男でした。定元は徳川家と豊臣家の争いを見越し、定政を徳川方の伊奈氏に従わせました。慶長5(一六○○)年の関ヶ原の合戦で徳川方が勝利した後、定政は下総船橋村の代官となりましたが、船橋大神宮再建に際して屋敷を失い、この地にあった大川戸陣屋御殿を拝領しました。この陣屋は、慶長5年に上杉氏討伐のため小山まで出陣していた徳川家康が、石田三成挙兵の報を受けて江戸に引き返す途中でこの地に寄り、この場所に築くように指示したものです。家康直筆の「坪割書」(指示書)は、陣屋と共に杉浦家に与えられました。杉浦家は一時無役となりましたが、寛政4年(一七九二)年の伊奈氏改易(所領などを没収されること)まで、家臣として伊奈氏に仕えて活躍しました。「坪割書」や「伊達政宗書状」といった貴重な資料を含む杉浦家文書は町指定文化財となっています。また、家康が座ったという「家康腰掛け石」も近くに残されています。」

○家康腰掛け石 松伏町大字大川戸
杉浦陣屋敷跡の説明板に記載されている「家康腰掛け石」です。



「家康腰掛け石」




「祠内」

「御嶽大神」(明治7年10月)


「明治7年10月改 浅間大神」(文政6年9月)

富士山の線刻



「猿田彦大神」(文化9年12月)


(参考)
記憶に残っている腰掛け石は、「頼朝・政子腰掛け石」(熱海:伊豆山神社)
こちらで記録しています。



(参考)
石ではありませんが、栃木県那須町に「那須与一の腰掛松」があります。バス停の名前ともなっています。昔撮った画像なので、現在はまともな説明板が建っています。


(参考)
「弁慶下駄掛石」というのもあります。
(参考)
パソコンサイトに、「栃木の石めぐり」をまとめてみた。
○妙楽寺 松伏町大字大川戸3178





<多行松>
多行松は根元から幹が数本に分かれています。
2本の多行松が並んでいます。蓮池がいい雰囲気。

<延宝の庚申塔>(松伏町指定有形民俗文化財)
案内板によると、この庚申塔は町内最古のものとありますが、大川戸神明社の庚申塔が再調査の結果庚申塔と判明、慶安2(1649)年の造立で、これまで町最古とされていた妙楽寺「延宝の庚申塔」延宝5(1677)年を遡いでいます。松伏町内で2番目に古い庚申塔です。一番左の庚申塔です。


(説明板)
「「延宝の庚申塔」
昭和50年6月1日指定
松伏町指定有形民俗文化財
庚申塔は、庚申の信仰に基づいて主に江戸時代に建てられたものです。60日毎にめぐってくる庚申の日には、人の体内にいる三尸の虫が天に昇って神にその人の罪を告げに行くと考えられていました。そこで庚申の日は夜通し起きて、三尸の虫が体からでていかないようにします。これを庚申待といい、庚申待をするために、庚申講という組織ができました。庚申塔は講の人々の長生や幸福を願って建てられたものです。
この庚申塔は延宝5年(1677年)に建てられた、松伏町内で最古の庚申塔です。板碑型(頂部が山形で厚みが少ない)塔身で「奉寄進庚申供養塔」と刻まれ、その下に三猿が浮き彫りにされています。時代が新しくなると刻まれるようになる「日月」がなく、大変シンプルな庚申塔です。このような形の塔は同じころの墓石にそっくりで、「庚申」の文字と三猿がなければ殆ど見分けることができません。江戸時代初期の様式をよく残した例です。」

その他の庚申塔




赤山街道越谷道の終端に杉浦陣屋跡があります。現在はカインズ松伏店が建っています。


(説明板)
「史跡 杉浦陣屋跡
杉浦家の祖である杉浦定政は、織田家の旧臣であった美濃の国竹ヶ鼻城主杉浦定元の長男でした。定元は徳川家と豊臣家の争いを見越し、定政を徳川方の伊奈氏に従わせました。慶長5(一六○○)年の関ヶ原の合戦で徳川方が勝利した後、定政は下総船橋村の代官となりましたが、船橋大神宮再建に際して屋敷を失い、この地にあった大川戸陣屋御殿を拝領しました。この陣屋は、慶長5年に上杉氏討伐のため小山まで出陣していた徳川家康が、石田三成挙兵の報を受けて江戸に引き返す途中でこの地に寄り、この場所に築くように指示したものです。家康直筆の「坪割書」(指示書)は、陣屋と共に杉浦家に与えられました。杉浦家は一時無役となりましたが、寛政4年(一七九二)年の伊奈氏改易(所領などを没収されること)まで、家臣として伊奈氏に仕えて活躍しました。「坪割書」や「伊達政宗書状」といった貴重な資料を含む杉浦家文書は町指定文化財となっています。また、家康が座ったという「家康腰掛け石」も近くに残されています。」

○家康腰掛け石 松伏町大字大川戸
杉浦陣屋敷跡の説明板に記載されている「家康腰掛け石」です。



「家康腰掛け石」




「祠内」

「御嶽大神」(明治7年10月)


「明治7年10月改 浅間大神」(文政6年9月)

富士山の線刻



「猿田彦大神」(文化9年12月)


(参考)
記憶に残っている腰掛け石は、「頼朝・政子腰掛け石」(熱海:伊豆山神社)
こちらで記録しています。



(参考)
石ではありませんが、栃木県那須町に「那須与一の腰掛松」があります。バス停の名前ともなっています。昔撮った画像なので、現在はまともな説明板が建っています。


(参考)
「弁慶下駄掛石」というのもあります。
(参考)
パソコンサイトに、「栃木の石めぐり」をまとめてみた。
○妙楽寺 松伏町大字大川戸3178





<多行松>
多行松は根元から幹が数本に分かれています。
2本の多行松が並んでいます。蓮池がいい雰囲気。

<延宝の庚申塔>(松伏町指定有形民俗文化財)
案内板によると、この庚申塔は町内最古のものとありますが、大川戸神明社の庚申塔が再調査の結果庚申塔と判明、慶安2(1649)年の造立で、これまで町最古とされていた妙楽寺「延宝の庚申塔」延宝5(1677)年を遡いでいます。松伏町内で2番目に古い庚申塔です。一番左の庚申塔です。


(説明板)
「「延宝の庚申塔」
昭和50年6月1日指定
松伏町指定有形民俗文化財
庚申塔は、庚申の信仰に基づいて主に江戸時代に建てられたものです。60日毎にめぐってくる庚申の日には、人の体内にいる三尸の虫が天に昇って神にその人の罪を告げに行くと考えられていました。そこで庚申の日は夜通し起きて、三尸の虫が体からでていかないようにします。これを庚申待といい、庚申待をするために、庚申講という組織ができました。庚申塔は講の人々の長生や幸福を願って建てられたものです。
この庚申塔は延宝5年(1677年)に建てられた、松伏町内で最古の庚申塔です。板碑型(頂部が山形で厚みが少ない)塔身で「奉寄進庚申供養塔」と刻まれ、その下に三猿が浮き彫りにされています。時代が新しくなると刻まれるようになる「日月」がなく、大変シンプルな庚申塔です。このような形の塔は同じころの墓石にそっくりで、「庚申」の文字と三猿がなければ殆ど見分けることができません。江戸時代初期の様式をよく残した例です。」

その他の庚申塔





テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
赤山陣屋敷址/源長寺
〇赤山城址/赤山陣屋敷址
赤山城は、寛永6(1629)年に関東郡代伊奈忠治が赤山領の拠点として築城しました。
赤山城から3方向に赤山街道が整備され、越谷方面に向かう越谷道、与野方面に向かう大宮道、小菅方面に向かう千住道があります。
<赤山城址入口>
「赤山城址入口」の石碑があり、入ってすぐ右手に日枝神社。
左手に「赤山城跡見学者専用駐車場」があります。



<赤山陣屋敷址>
一番新しい説明板です。
(説明板)
「赤山陣屋敷址 平成31年3月31日川口市教育委員会」


<赤山日枝神社> 川口市大字赤山218


<「赤山日枝神社 御由緒」と説明板>


<八幡宮石祠>
説明板によると、この八幡宮石祠(伊奈忠順の碑文)は、宝永4年(1707)11月に、関東代官伊奈半左衛門忠順が父母の報恩と伊奈家の繁栄を願い、八幡社の宮域を整備し、山王社の傍らに建碑したものです。


<石碑>
元禄13(1700)年の庚申塔、光明真言塔、普門品供養塔、聖徳太子供養塔があります。


<三猿の手水鉢>
延宝8(1680)年の手水鉢には、三猿が刻まれています。

<拝殿/本殿>
拝殿があり、裏手の一段高いところに本殿があります。
(拝殿)

(本殿側面)

(本殿正面)

<天神社/八幡社>
本殿脇に天神社と八幡社があります。

○赤山城址 川口市大字赤山766-2他

<赤山城跡>
(説明板)
「赤山城跡 所在地 川口市大字赤山
伊奈氏は、家康の関東入国とともに鴻巣・小室領一万石を給され、熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(一六二九)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来十代一六三年間伊奈氏が居城したものであるが、現在では、東側に掘と土塁を一部残すのみである。
城郭の南方に隣接する源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、四代忠克以後の代々の墓があり、五代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。
昭和五十八年三月 埼玉県」


<伊奈氏と赤山陣屋>



<東堀と南堀、自然低地方面への道>



<説明板>
要所要所に説明板が多く設置されていて、色々と知ることができ親切です。







<NPO法人赤山陣屋の会>

〇周光山勝林院 源長寺 川口市大字赤山1285





(説明板)
「関東郡代・伊奈氏と源長寺
源長寺は、関東郡代伊奈忠治によって、元和4年(1618)に、伊奈家の菩提寺として再興された。当時の赤山陣屋を描いた『赤山麁絵図』にも源長寺の名が読みとれる。また、寺領47石を有し、寺の総建坪が108坪に及んでいた当時の様子は、『源長寺間取絵図』からもうかがえる。
寛政4年(1792)、12代伊奈忠尊が関東郡代を罷免され、伊奈家は改易、赤山陣屋は取り壊しとなった。これに伴って、源長寺は伊奈家という最大の檀家を失うことになり、寺領も47石から11石あまりにまで減らされ、急速に衰退していった。
まさに伊奈家と運命をともにしたといえる源長寺が、現在の姿に復興するまでには、その後約200年を要したことになる。」


<涅槃像>


<板碑>
参道左手に、鎌倉期からの板碑が並びます。



<庚申塔>
左の庚申塔は、正徳6(1716)年の造立。


<お砂踏み>



<関東郡代 伊奈家歴代 御墓所>
一番大きな2基の五輪塔の法名の記銘だけ確認。
長光院殿 3代伊奈忠治です。
寛柔院殿 9代伊奈忠辰です。
治興院殿 8代伊奈忠達です。
勝林院殿 初代伊奈忠次です。







<頌徳碑>
(説明板)
「川口市指定有形文化財 歴史資料
伊奈家頌徳碑 昭和48年5月24日指定
「頌」とは、褒め称える、人の功績を称えるという意味があります。
この石碑は、寛文十三年(1673)に伊奈家五代半十郎忠常が初代半左衛門忠次から四代半左衛門忠克に至る伊奈家四代の功績を称え、その数々の事跡を後世に伝えるとともに、その徳を称えるために、菩提寺である周光山源長寺の境内に建立したものです。
碑には根府川石が用いられ、碑台の正面には亀跌が彫られています。跌とは「足の甲」の意味で台石を表し、宋代には亀は「贔屓」であるとの伝説があります。贔屓は龍の九つの子のひとつです。中国ではこの時代、皇帝は親としての龍であり、高位高官の者を子として贔屓に見立てたといいます。この頌徳碑が亀跌碑であるということは、江戸幕府にあっていかに伊奈氏代々が重用されていたかを物語っています。
碑文は、弘文学士院林之道甫(林羅山の子鷲峯のこと)の撰により、漢文1,928文字が刻まれています。その内容は、初代忠次が東照神君(徳川家康のこと)に従って数々の勲功や開墾に努め民政上の功績、二代忠政が大坂の役における功績、三代忠治が武州七千石を領しての功績、四代忠克が治水事業といったように、伊奈家代々の事跡が克明に記されており、関東郡代伊奈氏を知る上で貴重な資料となっています。
その後、伊奈家は、寛政四年(1792)十二代忠尊が改易に処されるまで、代々関東郡代職を歴任し、幕政に寄与しました。
川口市教育委員会」


赤山城は、寛永6(1629)年に関東郡代伊奈忠治が赤山領の拠点として築城しました。
赤山城から3方向に赤山街道が整備され、越谷方面に向かう越谷道、与野方面に向かう大宮道、小菅方面に向かう千住道があります。
<赤山城址入口>
「赤山城址入口」の石碑があり、入ってすぐ右手に日枝神社。
左手に「赤山城跡見学者専用駐車場」があります。



<赤山陣屋敷址>
一番新しい説明板です。
(説明板)
「赤山陣屋敷址 平成31年3月31日川口市教育委員会」


<赤山日枝神社> 川口市大字赤山218


<「赤山日枝神社 御由緒」と説明板>


<八幡宮石祠>
説明板によると、この八幡宮石祠(伊奈忠順の碑文)は、宝永4年(1707)11月に、関東代官伊奈半左衛門忠順が父母の報恩と伊奈家の繁栄を願い、八幡社の宮域を整備し、山王社の傍らに建碑したものです。


<石碑>
元禄13(1700)年の庚申塔、光明真言塔、普門品供養塔、聖徳太子供養塔があります。


<三猿の手水鉢>
延宝8(1680)年の手水鉢には、三猿が刻まれています。

<拝殿/本殿>
拝殿があり、裏手の一段高いところに本殿があります。
(拝殿)

(本殿側面)

(本殿正面)

<天神社/八幡社>
本殿脇に天神社と八幡社があります。

○赤山城址 川口市大字赤山766-2他

<赤山城跡>
(説明板)
「赤山城跡 所在地 川口市大字赤山
伊奈氏は、家康の関東入国とともに鴻巣・小室領一万石を給され、熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(一六二九)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来十代一六三年間伊奈氏が居城したものであるが、現在では、東側に掘と土塁を一部残すのみである。
城郭の南方に隣接する源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、四代忠克以後の代々の墓があり、五代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。
昭和五十八年三月 埼玉県」


<伊奈氏と赤山陣屋>



<東堀と南堀、自然低地方面への道>



<説明板>
要所要所に説明板が多く設置されていて、色々と知ることができ親切です。







<NPO法人赤山陣屋の会>

〇周光山勝林院 源長寺 川口市大字赤山1285





(説明板)
「関東郡代・伊奈氏と源長寺
源長寺は、関東郡代伊奈忠治によって、元和4年(1618)に、伊奈家の菩提寺として再興された。当時の赤山陣屋を描いた『赤山麁絵図』にも源長寺の名が読みとれる。また、寺領47石を有し、寺の総建坪が108坪に及んでいた当時の様子は、『源長寺間取絵図』からもうかがえる。
寛政4年(1792)、12代伊奈忠尊が関東郡代を罷免され、伊奈家は改易、赤山陣屋は取り壊しとなった。これに伴って、源長寺は伊奈家という最大の檀家を失うことになり、寺領も47石から11石あまりにまで減らされ、急速に衰退していった。
まさに伊奈家と運命をともにしたといえる源長寺が、現在の姿に復興するまでには、その後約200年を要したことになる。」


<涅槃像>


<板碑>
参道左手に、鎌倉期からの板碑が並びます。



<庚申塔>
左の庚申塔は、正徳6(1716)年の造立。


<お砂踏み>



<関東郡代 伊奈家歴代 御墓所>
一番大きな2基の五輪塔の法名の記銘だけ確認。
長光院殿 3代伊奈忠治です。
寛柔院殿 9代伊奈忠辰です。
治興院殿 8代伊奈忠達です。
勝林院殿 初代伊奈忠次です。







<頌徳碑>
(説明板)
「川口市指定有形文化財 歴史資料
伊奈家頌徳碑 昭和48年5月24日指定
「頌」とは、褒め称える、人の功績を称えるという意味があります。
この石碑は、寛文十三年(1673)に伊奈家五代半十郎忠常が初代半左衛門忠次から四代半左衛門忠克に至る伊奈家四代の功績を称え、その数々の事跡を後世に伝えるとともに、その徳を称えるために、菩提寺である周光山源長寺の境内に建立したものです。
碑には根府川石が用いられ、碑台の正面には亀跌が彫られています。跌とは「足の甲」の意味で台石を表し、宋代には亀は「贔屓」であるとの伝説があります。贔屓は龍の九つの子のひとつです。中国ではこの時代、皇帝は親としての龍であり、高位高官の者を子として贔屓に見立てたといいます。この頌徳碑が亀跌碑であるということは、江戸幕府にあっていかに伊奈氏代々が重用されていたかを物語っています。
碑文は、弘文学士院林之道甫(林羅山の子鷲峯のこと)の撰により、漢文1,928文字が刻まれています。その内容は、初代忠次が東照神君(徳川家康のこと)に従って数々の勲功や開墾に努め民政上の功績、二代忠政が大坂の役における功績、三代忠治が武州七千石を領しての功績、四代忠克が治水事業といったように、伊奈家代々の事跡が克明に記されており、関東郡代伊奈氏を知る上で貴重な資料となっています。
その後、伊奈家は、寛政四年(1792)十二代忠尊が改易に処されるまで、代々関東郡代職を歴任し、幕政に寄与しました。
川口市教育委員会」


久伊豆神社@御霊水
<久伊豆神社の御霊水>
<冷鉱泉かな~>
「御霊水(ごれいすい)
手水舎の先、右手にあります。もとは境内の湧水でしたが、関東大震災の後地下の水位が下がり、自噴しなくなったため、現在は地下約250~300メートルの深層から汲み上げています。持ち帰り出来ますが、早めに召し上がりください。 」
(神社HPより引用)
非常時用の自家発電も備えています。
・2017年5月 大量の砂が混じるようになり利用休止。
・2017年8月 修繕の結果、砂混じりは改善。
水質検査の結果、色度が基準を上回る。
・2017年10月 水質検査の結果、飲用適合の判定。利用再開。




水質検査結果書が掲示されています。
「施設名 久伊豆神社 2号井戸」
砂が混じるようになり、新しく2本目の井戸を掘削したようです。



鉄臭に、鉄味です。硫黄の湯花の白い痕跡は見られませんが、若干の硫黄臭もあります。
ペットボトルに汲んで、すぐ飲んでシマッタ。放置実験しそこないました。
また汲みに行きましょう。


水汲みの蛇口は閉ざされ、そこからは汲めません。


サンドセパレーターの装置がありました。

<冷鉱泉かな~>
「御霊水(ごれいすい)
手水舎の先、右手にあります。もとは境内の湧水でしたが、関東大震災の後地下の水位が下がり、自噴しなくなったため、現在は地下約250~300メートルの深層から汲み上げています。持ち帰り出来ますが、早めに召し上がりください。 」
(神社HPより引用)
非常時用の自家発電も備えています。
・2017年5月 大量の砂が混じるようになり利用休止。
・2017年8月 修繕の結果、砂混じりは改善。
水質検査の結果、色度が基準を上回る。
・2017年10月 水質検査の結果、飲用適合の判定。利用再開。




水質検査結果書が掲示されています。
「施設名 久伊豆神社 2号井戸」
砂が混じるようになり、新しく2本目の井戸を掘削したようです。



鉄臭に、鉄味です。硫黄の湯花の白い痕跡は見られませんが、若干の硫黄臭もあります。
ペットボトルに汲んで、すぐ飲んでシマッタ。放置実験しそこないました。
また汲みに行きましょう。


水汲みの蛇口は閉ざされ、そこからは汲めません。


サンドセパレーターの装置がありました。


久伊豆神社@越谷
○久伊豆神社
越谷市越ヶ谷1700 048-962-7136
「久伊豆」が「クイズ」と読めることから、「クイズ神社」としても知られています。
神紋は「立葵」。徳川家の紋です。
徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝えられています。
神社のHPには、神紋「立葵」が、ちりばめられています。




<久伊豆神社の神池と藤棚>
神池の翠、神橋の赤、藤の紫、美しい。








<手水舎>
「登竜門」の彫刻が施されています。



<狛犬>
拝殿の左右の狛犬は、両前脚が縄で縛られています。
「足止めの狛犬(あしどめのこまいぬ)
家出や悪所通い多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、狛犬の足に麻を結びます。古くから「足止めの麻」といわれています。」(神社HPより引用)



越谷市越ヶ谷1700 048-962-7136
「久伊豆」が「クイズ」と読めることから、「クイズ神社」としても知られています。
神紋は「立葵」。徳川家の紋です。
徳川将軍家も篤く崇敬し、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝えられています。
神社のHPには、神紋「立葵」が、ちりばめられています。




<久伊豆神社の神池と藤棚>
神池の翠、神橋の赤、藤の紫、美しい。








<手水舎>
「登竜門」の彫刻が施されています。



<狛犬>
拝殿の左右の狛犬は、両前脚が縄で縛られています。
「足止めの狛犬(あしどめのこまいぬ)
家出や悪所通い多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、狛犬の足に麻を結びます。古くから「足止めの麻」といわれています。」(神社HPより引用)




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