木曾呂富士塚 (国重文)

○木曽呂の富士塚 国重要有形民俗文化財 川口市大字東内野594

 寛政12年(1800)に富士講の一派である丸参講の信者である蓮見知重の発願により築造されました。塚全体は盛土で築かれており、お中道・胎内めぐりの穴などが設置され、富士講築造の富士塚としては埼玉県内最古のものです。
 全国に五基ある国指定重要有形民俗文化財の富士塚のうち、いつでも登れるのはここだけです。

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(説明板)
「国指定重要有形民俗文化財 木曽呂の富士塚
   昭和五十五年四月二十四日指定
 富士塚は、富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく、富士山に登山できるようにと、安永九年(一七八○)、高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まりである。
 木曽呂の富士塚は、地元で“ふじやま”または“木曽呂浅間”と呼ばれ、寛政十二年(一八○○)に、富士講の一派である丸参講(まるさんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、高さ五・四m 直径二○m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、お鉢めぐりができるように火口が掘ってあり、又、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
 富士塚の麓には、文化二年(一八○五)造立の蓮行知道居士(蓮見知重)の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。この他、塚ならびに周囲には、享和四年(一八○四)の石燈籠、天保四年(一八三三)の石鳥居等、丸参講によって造立された石造物が多く残されている。 富士塚の中でも古い築造で、特に富士講が築造した埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。
 木曾呂富士塚造営物
1 燈籠         10 富士登山三十三度修業(高津条之助)碑
2  〃         11 伊勢太々碑
3 鳥居         12 鹿島大々碑
4 御手洗石       13 登山隔年修行碑
5  〃         14 登山三十三度(真行明山)碑
6  〃         15 経碑
7 墓誌(築造富士由来) 16 石官
8 石仏         17 シモガミ
9 地蔵尊像
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  川口市教育委員会」

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<石燈籠>

 享和4(1804)年造の石燈籠です。

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<鳥居>

 天保4(1833)年に造立の石鳥居です。

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<手水鉢>

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<熊野神社>

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「富士登山三十三度修業碑」
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「伊勢太々講碑」
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「鹿島大々講碑」
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「登山隔年修行碑」「登山三十三度(真行明山)碑」
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「蓮行知道居士(蓮見知重)の碑」

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<皇太子殿下行啓記念樹>

 今上陛下が皇太子殿下の際、平成18年2月14日にこの地を行啓されたことを記念する記念樹です。

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<社殿/お中道>

 社殿左から「お中道」を廻ります。

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<冨士嶽神社>

 お中道の途中に石祠「富士嶽神社」があります。
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 石祠に「冨士嶽神社」と刻まれています。明治5(1872)年の再建。
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<山頂>

 奥宮はありません。
 南方向
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 北方向
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 西方向 
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<御胎内入口>

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伊奈氏ゆかりの地

伊奈氏ゆかりの地

 伊奈半十郎忠治 文禄元(1592)年〜承応2(1653)年
 江戸時代前期の幕府の代官。
 寛永6年(1629年)、武蔵国北足立郡赤山に陣屋を築き、ここを拠点として、見沼溜井の造成や利根川と荒川の河川改修事業を実施し、水害を防止するとともに、新田の開発に力を注ぎました。
 治水・利水事業により、武蔵国東部低地帯の開発が可能となり、荒野から穀倉地帯へと姿を変え、関東発展の礎となりました。

「郷土の偉人伊奈忠治」(歴史自然資料館)
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「伊奈半十郎忠治公像」(イイナパーク川口)
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「布衣」(武家装束着用之図 国立国会図書館蔵)
 寛永20(1642)年に伊奈忠治は「布衣」(ほい)という着物を着ることを許され(従六位に相当)、他の代官とは別格の地位を有していました。

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○伊奈氏ゆかりの地

【川口市赤山】
 ・赤山陣屋敷址(伊奈忠治の創建)
 ・赤山日枝神社(赤山陣屋敷守護社)
 ・伊奈半十郎忠治公像(イイナパーク川口)
 ・歴史自然資料館(イイナパーク川口)
 ・源長寺(伊奈忠治の再興)
 ・伊奈忠治の墓(源長寺)
【松伏町】
 ・杉浦陣屋跡(伊奈氏家臣)
【足立区】
 ・源長寺(伊奈忠次の開基)
 ・葛西用水(伊奈忠克開発)
 ・新田開発(伊奈忠治)
 ・佐野家(伊奈氏家臣)
 ・西綾瀬稲荷神社(伊奈忠治下屋敷稲荷)
【葛飾区】
 ・小菅御殿(伊奈忠治下屋敷)
 ・松原通り(伊奈忠逵造成)
 ・葛西ばやし(伊奈忠辰奨励)
【中央区】
 ・郡代屋敷跡(柳原土手)
【墨田区】
 ・源森橋(伊奈忠克架橋)
 ・秋葉神社(伊奈忠宥石燈籠奉献)
【千葉県】
 ・稲荷木一本松(伊奈忠次上総道改修)
【その他】
 ・赤山街道(赤山陣屋への道)

○伊奈氏系図(歴史自然資料館掲示より抜粋加工)

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  1 伊奈忠次(1590年〜1610年)
  2 伊奈忠政(1610年〜1618年)
  3 伊奈忠治(1618年〜1653年)
  4 伊奈忠克(1653年〜1665年)
  5 伊奈忠常(1666年〜1680年)
  6 伊奈忠篤(1680年〜1697年)
  7 伊奈忠順(1697年〜1712年)
  8 伊奈忠逵(1712年〜1750年)
  9 伊奈忠辰(1750年〜1754年)
 10 伊奈忠宥(1754年〜1769年)
 11 伊奈忠敬(1769年〜1778年)
 12 伊奈忠尊(1778年〜1792年)

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イイナパーク川口(赤山歴史自然公園)

○イイナパーク川口(赤山歴史自然公園) 川口市赤山501-1

<正門>

 イイナパーク川口の正門にある一般道からの駐車場にある案内板です。

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(説明板)
「公園名の由来
「イイナパーク川口 IINA PARK KAWAGUCHI」という名前の由来は、本公園の近くに、寛永6年(1629)に関東郡代伊奈半十郎忠治が築造し、以降163年間にわたり在地支配の拠点として機能してきた赤山城跡(赤山陣屋敷址)があるなど、地域特有の歴史的事実に基づく「赤山の伊奈氏」(イナ)が連想できること。さらに、公園に訪れた方々が川口の歴史を知る機会となるとともに、「良いもの、良いこと」などが連想できるフレーズ(イイナ)はポジティブな印象を与え、子どもから大人まで親しみやすく、覚えやすいことなどから命名しました。」

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 パーク内を進みます。三差路に方向標識の掲示。直進すると地域物産館があります。
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 右に進むと、橋に出ます。左手が「とんぼ池」、右手が「水鳥の池です。」
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 橋の手前に「水辺で見られるいきもの」の掲示があります。
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 橋を渡ると、その先に「フワフワドーム」があります。子ども向け大型遊具で、3歳児〜小学生限定です。子どもたちに人気の遊具です。
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 さらに進むと右手は巨大な芝生広場です。
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 さらに進むと左手に公園管理事務所があり、伊奈半次郎忠治像が建っています。
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 管理事務所の脇は駐車場のない自転車置き場のある北門です。
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<パンフレット>

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○伊奈半十郎忠治公像 川口市赤山501-1 イイナパーク川口

 イイナパーク川口の北門・公園管理事務所前に「伊奈半十郎忠治公像」が建っています。

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(プレート文)
「伊奈半十郎忠治公
 文禄元年(1592年)〜承応2年(1653年)
 江戸時代前期の幕府の代官。
 寛永6年(1629年)、武蔵国北足立郡赤山に陣屋を築き、ここを拠点として、見沼溜井の造成や利根川と荒川の河川改修事業を実施し、水害を防止するとともに、新田の開発に力を注ぎました。
 江戸時代を代表する治水・利水事業により、武蔵国東部低地帯の開発が可能となり、広大な荒野は、実り豊かな穀倉地帯へと姿を変え、現代に続く関東発展の礎となりました。」

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○歴史自然資料館(川口市立文化財センター分館) 川口市赤山501-1

(パンフレットより引用)
 「本市の新たな水と緑のオアシス空間、イイナパーク川口」内に、赤山・安行周辺、郷土川口の歴史、文化、自然を紹介・体感し、現地へと誘う施設が会館しました。
 なお、「レンガの家」「土の家」「木の家」の三棟の建物をホワイエで結んだ当館の設計は、日本を代表する建築家:伊東豊雄氏の設計です。
 皆さまのご来館を心よりお待ちしていおります。」

<入口>

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<屋外のオブジェ>

 「天と地の形Ⅰ 1993年作 富田眞平 Shinpei Tomita」

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<展示>

 入口に撮影可の掲示があったものの、メインの土の家(展示室)の伊奈忠治展示には撮影禁止の掲示がありました。 レンガの家(映像ギャラリー)も撮影禁止の掲示がありました。撮影禁止の掲示がなかったのは、木の家(管理室・トイレ)と通路、通路の壁だけです。
 撮影可能な通路と通路の壁に掲示の展示です。

 「郷土の偉人 伊奈忠治 」
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 「伊奈氏ものがたり」
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 伊奈氏系図を抜粋
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 「赤山陣屋ものがたり」
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(参考)
  1 伊奈忠次(1590年〜1610年)
  2 伊奈忠政(1610年〜1618年)
  3 伊奈忠治(1618年〜1653年)
  4 伊奈忠克(1653年〜1665年)
  5 伊奈忠常(1666年〜1680年)
  6 伊奈忠篤(1680年〜1697年)
  7 伊奈忠順(1697年〜1712年)
  8 伊奈忠逵(1712年〜1750年)
  9 伊奈忠辰(1750年〜1754年)
 10 伊奈忠宥(1754年〜1769年)
 11 伊奈忠敬(1769年〜1778年)
 12 伊奈忠尊(1778年〜1792年)

 「赤山陣屋ジオラマ」
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 「赤山陣屋敷絵図面」
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 「赤山絵図」
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<パンフレット>

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○川口ハイウェイオアシス 川口市赤山501-1 HP

 令和5(2022)年4月25日、川口PAは「イイナパーク川口」と連結し、水辺と緑に囲まれた自然豊かな首都高初のハイウェイオアシスが誕生しました。商業棟、有料の屋内あそび場(親子1組1500円)があります。

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<商業棟> 川口市赤山465-7

 商業棟で野菜を売っており東北の商品が中心で地元産ではありませんが、山形県産のなめこ\100を買いました。野菜は全般的に割安と思います。
 栃木と東北との土産品も豊富に置いています。東北道に直結する首都高の特色が出ています。

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(参考)
 「赤山陣屋敷址/日枝神社/源長寺」(こちらで記載

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杉浦陣屋跡/家康腰掛け石/妙楽寺

○史跡 杉浦陣屋跡  松伏町大字大川戸3133

 赤山街道越谷道の終端に杉浦陣屋跡があります。現在はカインズ松伏店が建っています。

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(説明板)
「史跡 杉浦陣屋跡
杉浦家の祖である杉浦定政は、織田家の旧臣であった美濃の国竹ヶ鼻城主杉浦定元の長男でした。定元は徳川家と豊臣家の争いを見越し、定政を徳川方の伊奈氏に従わせました。慶長5(一六○○)年の関ヶ原の合戦で徳川方が勝利した後、定政は下総船橋村の代官となりましたが、船橋大神宮再建に際して屋敷を失い、この地にあった大川戸陣屋御殿を拝領しました。この陣屋は、慶長5年に上杉氏討伐のため小山まで出陣していた徳川家康が、石田三成挙兵の報を受けて江戸に引き返す途中でこの地に寄り、この場所に築くように指示したものです。家康直筆の「坪割書」(指示書)は、陣屋と共に杉浦家に与えられました。杉浦家は一時無役となりましたが、寛政4年(一七九二)年の伊奈氏改易(所領などを没収されること)まで、家臣として伊奈氏に仕えて活躍しました。「坪割書」や「伊達政宗書状」といった貴重な資料を含む杉浦家文書は町指定文化財となっています。また、家康が座ったという「家康腰掛け石」も近くに残されています。」

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○家康腰掛け石  松伏町大字大川戸

 杉浦陣屋敷跡の説明板に記載されている「家康腰掛け石」です。

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「家康腰掛け石」

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「祠内」

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「御嶽大神」(明治7年10月)

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「明治7年10月改 浅間大神」(文政6年9月)

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 富士山の線刻

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「猿田彦大神」(文化9年12月)

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(参考)
 記憶に残っている腰掛け石は、「頼朝・政子腰掛け石」(熱海:伊豆山神社)
 こちらで記録しています。

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(参考)
 石ではありませんが、栃木県那須町に「那須与一の腰掛松」があります。バス停の名前ともなっています。昔撮った画像なので、現在はまともな説明板が建っています。

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(参考)
 「弁慶下駄掛石」というのもあります。
(参考)
 パソコンサイトに、「栃木の石めぐり」をまとめてみた。


○妙楽寺  松伏町大字大川戸3178
    
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<多行松>

 多行松は根元から幹が数本に分かれています。
 2本の多行松が並んでいます。蓮池がいい雰囲気。

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<延宝の庚申塔>(松伏町指定有形民俗文化財)

 案内板によると、この庚申塔は町内最古のものとありますが、大川戸神明社の庚申塔が再調査の結果庚申塔と判明、慶安2(1649)年の造立で、これまで町最古とされていた妙楽寺「延宝の庚申塔」延宝5(1677)年を遡いでいます。松伏町内で2番目に古い庚申塔です。一番左の庚申塔です。

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(説明板)
「「延宝の庚申塔」
  昭和50年6月1日指定
  松伏町指定有形民俗文化財
 庚申塔は、庚申の信仰に基づいて主に江戸時代に建てられたものです。60日毎にめぐってくる庚申の日には、人の体内にいる三尸の虫が天に昇って神にその人の罪を告げに行くと考えられていました。そこで庚申の日は夜通し起きて、三尸の虫が体からでていかないようにします。これを庚申待といい、庚申待をするために、庚申講という組織ができました。庚申塔は講の人々の長生や幸福を願って建てられたものです。
 この庚申塔は延宝5年(1677年)に建てられた、松伏町内で最古の庚申塔です。板碑型(頂部が山形で厚みが少ない)塔身で「奉寄進庚申供養塔」と刻まれ、その下に三猿が浮き彫りにされています。時代が新しくなると刻まれるようになる「日月」がなく、大変シンプルな庚申塔です。このような形の塔は同じころの墓石にそっくりで、「庚申」の文字と三猿がなければ殆ど見分けることができません。江戸時代初期の様式をよく残した例です。」

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その他の庚申塔

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赤山陣屋敷址/日枝神社/源長寺

〇赤山城址/赤山陣屋敷址

 赤山城は、寛永6(1629)年に関東郡代伊奈忠治が赤山領の拠点として築城しました。
 赤山城から3方向に赤山街道が整備され、越谷方面に向かう越谷道、与野方面に向かう大宮道、小菅方面に向かう千住道があります。


<赤山城址入口>

 「赤山城址入口」の石碑があり、入ってすぐ右手に日枝神社。
 左手に「赤山城跡見学者専用駐車場」があります。

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<赤山陣屋敷址>

 新しい説明板です。

(説明板)
「赤山陣屋敷址  昭和36年9月1日県指定
 赤山陣屋は、代官(通称 関東郡代)伊奈氏が江戸幕府の直轄地を治めるためその任地に設けた役所の一つで、元和4年(1618)頃伊奈家3代忠治によって創建されたといわれています。
 陣屋の構造は右図の通りで、約2万4千坪の広さがありました。陣屋の中枢部には、表御門・裏御門・御家形・御役家・御的場といった施設があり、北側と西側は2重の堀でかこまれていました。外堀には水があり、内堀は空堀で、この内側には土塁が築かれていました。また東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷がありました。この屋敷は、堀の内に17、外に1あり、その他に門番屋敷などもありました。屋敷の規模で一番多かったのは一町前後のものです。
 陣屋の内外の道路はT字路で直角に曲がっているものが多く、その両側には家臣団の屋敷や社寺が配置され、赤山陣屋はあたかも小さな城下町のようでした。社寺には、山王三社といわれる山王社・八幡社・天神社と、伊奈家の菩提寺であった源長寺がありました。
 なお、伊奈家は、寛政4年(1792)12代忠尊の時、幕府政治の変化と老中の騒動が原因で改易され、赤山陣屋も廃止されました。このため陣屋の建物や家臣団屋敷は取り壊されて畑地となり、今は空堀と社寺を残すのみとなっています。
  平成31年3月31日  川口市教育委員会」

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<赤山日枝神社>  川口市大字赤山218

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<「赤山日枝神社 御由緒」と説明板>

(説明板)
「赤山日枝神社 御由緒  川口市赤山二一八
□御縁起(歴史)
 寛永年間(一六二四ー四四)に関東郡代の三代伊奈忠治が構えた赤山陣屋は、寛政四年(一七九二)十二代伊奈忠尊が失脚するまで、関八州の貢祖の徴収並びに司法、利根川・荒川の改修、新田開発など土木治水を行う中心的な役所であった。この陣屋は延べ面積二十三万四千坪にもおよぶ広大なもので、この中に当社をはじめ天神社・八幡社・御陣山稲荷社などが祀られていた。当社は、陣屋の東側空堀外の山王町廓の地内にある山王池に面した築山に鎮座する。この築山は陣屋空堀削時の廃土で築いたと伝える。
 創建は伊奈氏によるものと考えられ、恐らく江戸城鎮護の日枝神社から分社し、陣屋の守護として祀られたものであろう。『風土記稿』には陣屋廃止後の当社について、「二百年来草創せし地と見ゆ、神体昔は七体ありしが、伊奈氏断絶の時失たりと云、其頃は大橋多門或は川鍋左門など云し神主ありしが、今は領家村神明院の持となれり」とある。ちなみに、神明院は宝林院配下の本山派修験である。
 なお、陣屋内にあった八幡社や天神社は現在合祀されて当社境内にある。殊に八幡社は、七代伊奈忠順が建立した宝永四年(一七〇七)十一月の石祠銘文によると、五代伊奈忠常が寛文十三年(一六七三)七月に子孫繁栄のため創建した旨が記されている。
□御祭神 ・大山咋神
□御神徳
 ・産業発展・成長発展・商売繁昌・家内安全
 ・厄除 ・安産 ・縁結び
□御祭礼日
 ・歳旦祭(一月一日) ・夏祈祷(五月十五日)
 ・秋季例祭(お日待ち・十月十四日)」

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<八幡宮石祠>

 説明板によると、この八幡宮石祠(伊奈忠順の碑文)は、宝永4年(1707)11月に、関東代官伊奈半左衛門忠順が父母の報恩と伊奈家の繁栄を願い、八幡社の宮域を整備し、山王社の傍らに建碑したものです。

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<石碑>

 元禄13(1700)年の庚申塔、光明真言塔、普門品供養塔、聖徳太子供養塔があります。

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<三猿の手水鉢>

 延宝8(1680)年の手水鉢には、三猿が刻まれています。

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<拝殿/本殿>

 拝殿があり、裏手の一段高いところに本殿があります。

(拝殿)
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(本殿側面)
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(本殿正面)
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<天神社/八幡社>

 本殿脇に天神社と八幡社があります。

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○赤山城址 川口市大字赤山766-2他

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<赤山城跡>

(説明板)
「赤山城跡    所在地 川口市大字赤山
 伊奈氏は、家康の関東入国とともに鴻巣・小室領一万石を給され、熊蔵忠次以後十二代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から七千石を賜り、寛永六年(一六二九)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来十代一六三年間伊奈氏が居城したものであるが、現在では、東側に掘と土塁を一部残すのみである。
 城郭の南方に隣接する源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、四代忠克以後の代々の墓があり、五代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。
  昭和五十八年三月  埼玉県」

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<伊奈氏と赤山陣屋>

(説明板)
「伊奈氏と赤山陣屋
 赤山陣屋は、赤山の地に新たに7千石を与えられ代官(通称:関東郡代)の職についた伊奈半十郎忠治が、元和4(1618)年頃に在地支配開発事業の拠点とするために築いたと言われています。以来、10代忠尊が改易された寛政4(1792)年までこの地に存続しました。
 この陣屋は、本丸御屋形(おやかた)と二の丸部分だけで約110,000㎡、周囲に広がる家臣持分の土地や菩提寺である源長寺・山王神社などの付帯施設も含めると、実に770,000㎡にも及ぶ広大なものです。
 伊奈氏は、用水の開削や新田開発など、治水・利水事業に数多くの業績を残したことで、歴史上に特にその名が知られております。
 このことから、水辺の文化をはぐくんできた川口のあゆみをひもとくとき、赤山陣屋址は先人の偉業を偲ぶことのできる、最も重要な遺跡の一つであるといえましょう。そしてこの遺跡の中には、水害と戦った伊奈氏にふさわしく、水神やその化身としての大蛇にかかわる伝説や民話がたくさん伝えられているほか、創建当初からの道も、生活道路として現在も利用されており、赤山道という名も今に残されています。もちろん、陣屋のたたずまいを示す空堀や土塁も残っています。
 左の図は、赤山陣屋敷絵図面(市指定文化財)をもとに、現在の地形図の上に陣屋の配置を描いたものです。陣屋全体が自然の低湿地によって囲まれ、主要な入口には門番が配置され、「四ツ門」と呼ばれていました。また、本丸と二の丸は人口の空堀によって囲まれています。これら陣屋の構造から、伊奈氏の卓越した土木技術をうかがい知ることができます。つまり赤山陣屋址は、近世初期に発達した、伊奈流(備前流)と称される土木技術の粋を集めた、代表的な遺跡であると言えましょう。」

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<東堀と南堀、自然低地方面への道>

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<説明板>

 要所要所に説明板が多く設置されていて、色々と知ることができ親切です。

(説明板)
「赤山ー伊奈氏と赤山陣屋
赤山陣屋を築いた伊奈氏は、そのすぐれた土木技術によって江戸時代の治水・新田開発に大きく貢献し、関東郡代を世襲した家柄である。赤山陣屋は、寛永6年(1629)、3代伊奈忠治によって、ここ赤山の地に築かれた。以後163年間にわたって、在地支配と新田開発の拠点として機能し続けたが、寛政4年(1792)、伊奈家改易に伴って赤山陣屋も廃止された。陣屋の建物や家臣の屋敷はことごとく取り壊され、土地は払い下げられて、以後は田畑や山林として利用された。」

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(説明板)
「伊奈氏の治水と利水―水利事業
 近世の土木史上に「伊奈流」の名を残す伊奈氏の事跡は、その支配地であった関東(旧武蔵国、現在の東京・埼玉・神奈川)のあちこちに残されている。
 「伊奈流」の技術が十分に発揮されたのは、特に新田開発とそのための河川改修工事においてである。関東地方の現在河川体系の基礎は、数代にわたる伊奈氏の大規模な河川整備によって築かれた。これによって関東地方東部低地帯地は水害から解放され、広大な穀倉地帯に変貌していった。また、江戸とこの一帯とを結ぶ船運も活発化し、新田開発による石高の増加とともに、江戸の繁栄を促すこととなった。」

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(説明板)
「伊奈氏による河川改修
 伊奈氏による関東諸河川の改修工事の代表的なものは、利根川の東遷および荒川の西遷である。これは、利根川と荒川の水系をそれぞれ切り離し、利根川を銚子沖に流入させ(利根川の東遷)、荒川を入間川に付け替える(荒川の西遷)という、きわめて大規模なものだった。」

「伊奈流」土木技術(洪水対策)
 自然の地形を最大限に利用し、労力を最小限に抑える「伊奈流」の土木技術は、改修河川の洪水対策にも見ることができる。
 自然堤防を利用するとともに、ところどころに低い堤防を作り、その付近に遊水地を設ける。大規模な増水の祭には水をあふれさせ、遊水地に導いて水の勢いを弱めてしまう。またこの遊水池は、平常時に溜井となり、用水源として利用することができた。事例として見沼溜井と八丁堤がある。」

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 その他種々
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<NPO法人赤山陣屋の会>

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〇周光山勝林院 源長寺 川口市大字赤山1285
    
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(説明板)
「関東郡代・伊奈氏と源長寺
 源長寺は、関東郡代伊奈忠治によって、元和4年(1618)に、伊奈家の菩提寺として再興された。当時の赤山陣屋を描いた『赤山麁絵図』にも源長寺の名が読みとれる。また、寺領47石を有し、寺の総建坪が108坪に及んでいた当時の様子は、『源長寺間取絵図』からもうかがえる。
 寛政4年(1792)、12代伊奈忠尊が関東郡代を罷免され、伊奈家は改易、赤山陣屋は取り壊しとなった。これに伴って、源長寺は伊奈家という最大の檀家を失うことになり、寺領も47石から11石あまりにまで減らされ、急速に衰退していった。
 まさに伊奈家と運命をともにしたといえる源長寺が、現在の姿に復興するまでには、その後約200年を要したことになる。」

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(説明板)
「川口市指定有形文化財 彫刻
 源長寺の阿弥陀如来座像  昭和53年4月5日指定
 阿弥陀如来とは、無量光如来(無限の光をもつもの)、無量寿如来(無限の寿命をもつもの)とも言われています。また、阿弥陀如来は一切の衆生救済のために王位を捨てて出家し、人々を救い浄土に往生させたいと48の誓願をたて、長い間修行の後、西方極楽浄土の教主となった報身仏と説かれています。
 当寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、温顔で体躯は丸みを帯び、江戸時代初期の作品と考えられます。様式的には、藤原期に盛行した定朝様式が忠実に表現されています。木造寄木造で、法量は像高88.5cm、肘張り 54.6cm、膝張り72.0cm、光背高 142.0cmを測ります。
 像の背面には「聖蓮社囧誉廬含和尚」の朱字銘が記されています。囧誉蘆含は源長寺六世天囧の弟子で、寛文13年(1673) 5月5日に僅か21歳の若さで入寂しています。また、この銘には、彼の菩提を弔うために30両が寄進され、これを基にして本尊と光背が再興されたことが記されています。廬含に関する詳しいことは不明ですが、源長寺を再興した関東郡代伊奈氏の一族であろうと推測されています。
  川口市教育委員会」

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<涅槃像>

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<板碑>

 参道左手に、鎌倉期からの板碑が並びます。最も古い板碑は、元徳2(1330)年銘です。

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(説明板)
「板碑について
 板碑 とは板石塔婆のことで、板佛・青石塔婆と呼ばれる。北海道から九州にかけて全国的に広く分布し、特に関東地方に最も多いが、形・材質には地方差がある。
 おこりは、鎌倉時代から室町時代にかけて故人の追善供養であったが、のちになると逆修供養として生前に死後の極楽往生を願って農民の間に広まる。上部を三角形にし、表面に梵字・名号・仏像などを彫り、下方に戒名・年号・建立者名などを刻む。特に光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨の文字が目立つ。
 本県の秩父・長瀞付近の青石(緑泥片岩)が利用されていることから青石塔婆の名がある。
 ここの板碑は寺の境内や隣接の畑地から出土したもので之を調べることで、当時の人々の生活の様子や考え方を知ることができる。
 此の中で最も古いものは、元徳二年の刻がある。
  平成四年三月 彼岸  二十四世 廣 譽」

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<庚申塔>

 左の庚申塔は、正徳6(1716)年の造立。 

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<お砂踏み>

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<関東郡代 伊奈家歴代 御墓所>

 一番大きな2基の五輪塔の法名の記銘だけ確認。

  長光院殿 3代伊奈忠治です。
  寛柔院殿 9代伊奈忠辰です。
 
  治興院殿 8代伊奈忠達です。
  勝林院殿 初代伊奈忠次です。

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<頌徳碑>

(説明板)
「川口市指定有形文化財 歴史資料
 伊奈家頌徳碑     昭和48年5月24日指定
 「頌」とは、褒め称える、人の功績を称えるという意味があります。
 この石碑は、寛文十三年(1673)に伊奈家五代半十郎忠常が初代半左衛門忠次から四代半左衛門忠克に至る伊奈家四代の功績を称え、その数々の事跡を後世に伝えるとともに、その徳を称えるために、菩提寺である周光山源長寺の境内に建立したものです。
 碑には根府川石が用いられ、碑台の正面には亀跌が彫られています。跌とは「足の甲」の意味で台石を表し、宋代には亀は「贔屓」であるとの伝説があります。贔屓は龍の九つの子のひとつです。中国ではこの時代、皇帝は親としての龍であり、高位高官の者を子として贔屓に見立てたといいます。この頌徳碑が亀跌碑であるということは、江戸幕府にあっていかに伊奈氏代々が重用されていたかを物語っています。
 碑文は、弘文学士院林之道甫(林羅山の子鷲峯のこと)の撰により、漢文1,928文字が刻まれています。その内容は、初代忠次が東照神君(徳川家康のこと)に従って数々の勲功や開墾に努め民政上の功績、二代忠政が大坂の役における功績、三代忠治が武州七千石を領しての功績、四代忠克が治水事業といったように、伊奈家代々の事跡が克明に記されており、関東郡代伊奈氏を知る上で貴重な資料となっています。
 その後、伊奈家は、寛政四年(1792)十二代忠尊が改易に処されるまで、代々関東郡代職を歴任し、幕政に寄与しました。
   川口市教育委員会」

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テーマ : 城址巡り - ジャンル : 旅行

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