小菅神社/蓮昌寺
水戸街道を水戸橋で綾瀬川を渡ると、右手に小菅神社。水戸街道を進むと左手に古隅田川と蓮昌寺があります。
○小菅神社 葛飾区小菅3-1-2
明治2年に小菅県が設置された際、庁内に勧請された小菅神社は、その後小菅村の鎮守であった田中稲荷神社の境内に移され合祀、小菅神社となりました。






<招魂祖霊社>

<田中稲荷神社>

<境内社天満宮>

<境内祓所>

<庚申塔>
田中稲荷神社裏に2祠と、2基の庚申塔があります。
庚申「文化八年一月」(1811)
青面金剛立像「享保十二年」(1727)


<力石>

<整備紀年碑>

<不老門>
詳細不詳。

○蓮昌寺 葛飾区小菅4-20-35
元は道昌寺と称されましたが、三代将軍家光が鷹狩の折、池の蓮を愛で、蓮昌寺となりました。
<山門>

<七面堂>

<本堂>

<三光堂>

<コンクリート製梵鐘>
第二次世界大戦で供出した梵鐘の代わりに、コンクリート製の梵鐘が鐘楼にかけられました。
コンクリートに見えない造りです。

○小菅神社 葛飾区小菅3-1-2
明治2年に小菅県が設置された際、庁内に勧請された小菅神社は、その後小菅村の鎮守であった田中稲荷神社の境内に移され合祀、小菅神社となりました。






<招魂祖霊社>

<田中稲荷神社>

<境内社天満宮>

<境内祓所>

<庚申塔>
田中稲荷神社裏に2祠と、2基の庚申塔があります。
庚申「文化八年一月」(1811)
青面金剛立像「享保十二年」(1727)


<力石>

<整備紀年碑>

<不老門>
詳細不詳。

○蓮昌寺 葛飾区小菅4-20-35
元は道昌寺と称されましたが、三代将軍家光が鷹狩の折、池の蓮を愛で、蓮昌寺となりました。
<山門>

<七面堂>

<本堂>

<三光堂>

<コンクリート製梵鐘>
第二次世界大戦で供出した梵鐘の代わりに、コンクリート製の梵鐘が鐘楼にかけられました。
コンクリートに見えない造りです。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
小菅稲荷神社/小菅銭座跡/水戸橋跡
○小菅稲荷神社 葛飾区小菅1-28-11
東京拘置所の面会所の正面に小菅稲荷神社があります。社殿の後ろに本殿があります。本殿の裏には、小菅御殿から将軍の地下の逃げ道が繋がっているとのこと。本殿には立ち入り出来ないので、確認できず。





(説明板)
「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」
小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り、現在の地に移されたと伝えられています。稲荷神社の「使い」狐がご神体の両脇を固めています。狐が穀物の神様である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名を「御饌津神(みけつ)神」であったことから、ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され、誤って「三狐神」と書かれたためといわれています。そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害獣を食べて子狐を養う。)が古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の神の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる「神のお使い」として人々に定まっていきます。日本の各地に「神の使い」狐の伝説がのこされています。
小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。
本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。
小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったといいます。
この抜け道を明治時代に入り不要なものとしてふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に、一匹の白狐が現れ「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められで大変に難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消え都ました。
そこで速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています。」
平成23年度東京都地域の底力再生事業対象事業 管理者:小菅西自治会広報部

○小菅銭座跡 葛飾区小菅1-25
西小菅小学校校門脇に説明板「小菅銭座跡」があります。小菅御籾蔵の一角に、小菅銭座が設けられていました。


(説明板)
「葛飾区指定史跡
小菅銭座跡
所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号
西小菅小学校
指定年月日 昭和58年2月21日
小菅銭座は寛政6年(1859)8月江戸金座の直轄で、幕末の財政窮乏と銅相場高騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は江戸時代初期には伊奈氏の下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷をたどった一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
万延元年(1840)12月には、前例のない鐚銭といわれる粗悪鐚銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1807)にその役割を終えました。
今その頃の様子を示すものはほとんど残ってはいませんが、昭和25年(1950)5月までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の史跡として今に伝えています。 葛飾区教育委員会」

○水戸橋跡地 葛飾区小菅1-9
旧水戸街道の水戸橋の橋台の石組が遺されています。




(説明板)
「水戸橋跡地
【水戸橋・橋台の石組・綾瀬川】
ここに積まれた石組は、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な機として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛永年間(1624~1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館蔵)に、寛永年間に内匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで堀替えた記録があります。
【橋名:みとはしの由来】
地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光関)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした理でした。子理が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。その事実を知った光園は、後の世まで平穏となる」ようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。
また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります。
【水戸佐倉道】
前方に延びる道は、東海道など五街道に付属する水戸佐倉道です。
この街道は、日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれました。
これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。
享保10年(1725)八代将軍徳川吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉県松戸市)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉道を通行した記録が残されています。
監修 葛飾区小菅西自治会 葛飾区」

○小菅八幡社 葛飾区小菅1-19-11
水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されています。


東京拘置所の面会所の正面に小菅稲荷神社があります。社殿の後ろに本殿があります。本殿の裏には、小菅御殿から将軍の地下の逃げ道が繋がっているとのこと。本殿には立ち入り出来ないので、確認できず。





(説明板)
「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」
小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り、現在の地に移されたと伝えられています。稲荷神社の「使い」狐がご神体の両脇を固めています。狐が穀物の神様である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名を「御饌津神(みけつ)神」であったことから、ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され、誤って「三狐神」と書かれたためといわれています。そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害獣を食べて子狐を養う。)が古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の神の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる「神のお使い」として人々に定まっていきます。日本の各地に「神の使い」狐の伝説がのこされています。
小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。
本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。
小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったといいます。
この抜け道を明治時代に入り不要なものとしてふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に、一匹の白狐が現れ「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められで大変に難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消え都ました。
そこで速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています。」
平成23年度東京都地域の底力再生事業対象事業 管理者:小菅西自治会広報部

○小菅銭座跡 葛飾区小菅1-25
西小菅小学校校門脇に説明板「小菅銭座跡」があります。小菅御籾蔵の一角に、小菅銭座が設けられていました。


(説明板)
「葛飾区指定史跡
小菅銭座跡
所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号
西小菅小学校
指定年月日 昭和58年2月21日
小菅銭座は寛政6年(1859)8月江戸金座の直轄で、幕末の財政窮乏と銅相場高騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は江戸時代初期には伊奈氏の下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷をたどった一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
万延元年(1840)12月には、前例のない鐚銭といわれる粗悪鐚銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1807)にその役割を終えました。
今その頃の様子を示すものはほとんど残ってはいませんが、昭和25年(1950)5月までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の史跡として今に伝えています。 葛飾区教育委員会」

○水戸橋跡地 葛飾区小菅1-9
旧水戸街道の水戸橋の橋台の石組が遺されています。




(説明板)
「水戸橋跡地
【水戸橋・橋台の石組・綾瀬川】
ここに積まれた石組は、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な機として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛永年間(1624~1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館蔵)に、寛永年間に内匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで堀替えた記録があります。
【橋名:みとはしの由来】
地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光関)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした理でした。子理が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。その事実を知った光園は、後の世まで平穏となる」ようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。
また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります。
【水戸佐倉道】
前方に延びる道は、東海道など五街道に付属する水戸佐倉道です。
この街道は、日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれました。
これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。
享保10年(1725)八代将軍徳川吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉県松戸市)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉道を通行した記録が残されています。
監修 葛飾区小菅西自治会 葛飾区」

○小菅八幡社 葛飾区小菅1-19-11
水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されています。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
赤山街道 小菅御殿・御成道・煉瓦製造所
○旧小菅御殿 葛飾区小菅1-35
東京拘置所の場所にかつて小菅御殿(千住御殿)がありました。赤山街道が増田橋で日光街道に合流しての終点が小菅御殿です。
正門の横、電話ボックスの後ろの柵の中に、「千住御殿遺物」標柱と、旧小菅御殿石燈籠があります。








(説明板)
「区登録有形民俗文化財
旧小菅御殿石燈籠 所 在 地 葛飾区小菅一丁目35番
登録年月日 平成元年(1989)3月20日
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後、元文元年(1736)7月、井奈氏屋敷内に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。
寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られていて由緒は明確でありません。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました。
葛飾区教育委員会」


<小菅御殿の変遷>
元文元年(1736)8代将軍徳川吉宗の命により、鷹狩の際の休憩所として小菅御殿が設けられました。家重の養生所としても利用されました(将軍後継をめぐっての幽閉との説もありますが)。江戸城から小菅御殿へ向かう時は「小菅丸」で隅田川から綾瀬川へ上がり、水戸橋で水戸佐倉道に上陸し、松原通りを通って御殿に入るのが通例であったと考えれています。(小菅御殿へは、水路で行くことができるため、途中に多くのトイレを設ける必要がなく、家重にとっては水路は楽な行程だったと思います。)
御殿は寛保2(1742)年に失火で焼失しますが翌年再建されます。その後御膳所に格下げされ、寛政4(1792)年、伊奈氏の改易に伴い、寛政6年(1794)に取り壊されました。
跡地には文化4(1807)年に幕府御籾蔵が、天保3(1832)年に老中松平定信によって江戸町会所の籾蔵が建てられました。
安政6(1859)年には小菅銭座が設置され、慶応3(1867)年まで鉄銭を鋳造していました。
明治2(1869)年に小菅県の県庁が置かれ、明治4(1871)年小菅県が廃止されると、明治5(1872)年、日本で最初の洋式煉瓦製造所「盛煉社」が設立されました。英国人技師ウオートルスの指導により、良質の煉瓦を大量に生産できるようになり、小菅の煉瓦製造所は、銀座煉瓦街で使用される煉瓦の供給元となりました。銀座煉瓦街が明治10(1877)年に完成し煉瓦需要が減少し、「盛煉社」は経営困難となり、政府は明治11(1878)年集治監用地として買い上げました。明治12(1879)年4月、内務省直轄の東京集治監が開設され、収容者が煉瓦製造に当たりました。刻印には桜のマークが使用されていました。その後、小菅監獄、小菅刑務所、東京拘置所と変遷しました。所管も内務省→司法省→法務省と変遷しました。
○「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵」「東京拘置所と煉瓦工場」
江戸期に伊奈氏下屋敷、鷹狩の小菅御殿(千住御殿)、小菅御籾蔵、明治期に小菅県庁、小菅煉瓦製造所、小菅監獄と変遷してきました。
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵」
(説明板)
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四〜一六四三)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川のほとりには鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗公の命により遊猟の御膳所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な跡地の一部に、天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾蔵が建てられました。その目的は、大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い、火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、もちろん官有地であることも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は、三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました。」(誤植は修正しました)



「東京拘置所と煉瓦工場」
(説明板)
「東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾蔵施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国最初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
明治五年二月二十六日和田倉門内の元会津藩邸から出火した火災により、銀座、築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。
明治五年十二月、東京府は川崎八右衛門にその製造をまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し、生産高を増していきます。
明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもありました。
小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ヶ関の女王である煉瓦建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ、近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです。」





○松原通り(御成道)
小菅稲荷神社と松原児童遊園の間の道が、松原通り(御成道)です。松原児童遊園の横に、説明板がありました。
(説明板)
「松原通り(御成道)の由来
関東郡代伊那忠治が小菅村の御用地に構えた屋敷に、度々鷹狩りで立ち寄った二代将軍秀忠は、屋敷の庭から見える富士山に松が似合うと江戸城から一本の若松を持参し、伊奈家の庭に自ら鍬を取って植えました。
しかし、曇り空で富士山が見えません。そこで、植えたばかりの松の枝に手にしていた白扇を広げ、逆さに飾り富士山と見立てました。それ以来、この松を「末広がりの松」と名付け伊奈家の手で大切に育てられました。
この由来と育成を知った八代将軍吉宗から褒美に銀五十枚を賜った伊那忠達は、水戸佐倉道から小菅御殿まで数百本の松を植え、立派な道を造りました。
それから将軍権が御成りになる時は、必ずこの松並木を通り「末広がりの松」を見ながら御殿に入るのが慣わしとなりました。
この松並木は昭和の時代まで残りましたが、戦争になり松根油を飛行機の燃料にするため、殆どが切り倒され、今では「松原通り」の名前だけが残りました。」
平成23年度東京都地域の底力再生事業対象事業 管理者:小菅西自治会広報部




松原通りには、お地蔵さまがおられます。

東京拘置所の場所にかつて小菅御殿(千住御殿)がありました。赤山街道が増田橋で日光街道に合流しての終点が小菅御殿です。
正門の横、電話ボックスの後ろの柵の中に、「千住御殿遺物」標柱と、旧小菅御殿石燈籠があります。








(説明板)
「区登録有形民俗文化財
旧小菅御殿石燈籠 所 在 地 葛飾区小菅一丁目35番
登録年月日 平成元年(1989)3月20日
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後、元文元年(1736)7月、井奈氏屋敷内に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。
寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られていて由緒は明確でありません。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました。
葛飾区教育委員会」


<小菅御殿の変遷>
元文元年(1736)8代将軍徳川吉宗の命により、鷹狩の際の休憩所として小菅御殿が設けられました。家重の養生所としても利用されました(将軍後継をめぐっての幽閉との説もありますが)。江戸城から小菅御殿へ向かう時は「小菅丸」で隅田川から綾瀬川へ上がり、水戸橋で水戸佐倉道に上陸し、松原通りを通って御殿に入るのが通例であったと考えれています。(小菅御殿へは、水路で行くことができるため、途中に多くのトイレを設ける必要がなく、家重にとっては水路は楽な行程だったと思います。)
御殿は寛保2(1742)年に失火で焼失しますが翌年再建されます。その後御膳所に格下げされ、寛政4(1792)年、伊奈氏の改易に伴い、寛政6年(1794)に取り壊されました。
跡地には文化4(1807)年に幕府御籾蔵が、天保3(1832)年に老中松平定信によって江戸町会所の籾蔵が建てられました。
安政6(1859)年には小菅銭座が設置され、慶応3(1867)年まで鉄銭を鋳造していました。
明治2(1869)年に小菅県の県庁が置かれ、明治4(1871)年小菅県が廃止されると、明治5(1872)年、日本で最初の洋式煉瓦製造所「盛煉社」が設立されました。英国人技師ウオートルスの指導により、良質の煉瓦を大量に生産できるようになり、小菅の煉瓦製造所は、銀座煉瓦街で使用される煉瓦の供給元となりました。銀座煉瓦街が明治10(1877)年に完成し煉瓦需要が減少し、「盛煉社」は経営困難となり、政府は明治11(1878)年集治監用地として買い上げました。明治12(1879)年4月、内務省直轄の東京集治監が開設され、収容者が煉瓦製造に当たりました。刻印には桜のマークが使用されていました。その後、小菅監獄、小菅刑務所、東京拘置所と変遷しました。所管も内務省→司法省→法務省と変遷しました。
○「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵」「東京拘置所と煉瓦工場」
江戸期に伊奈氏下屋敷、鷹狩の小菅御殿(千住御殿)、小菅御籾蔵、明治期に小菅県庁、小菅煉瓦製造所、小菅監獄と変遷してきました。
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵」
(説明板)
「小菅御殿と江戸町会所の籾蔵
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四〜一六四三)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川のほとりには鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗公の命により遊猟の御膳所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な跡地の一部に、天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾蔵が建てられました。その目的は、大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い、火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便がよかったこと、もちろん官有地であることも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は、三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました。」(誤植は修正しました)



「東京拘置所と煉瓦工場」
(説明板)
「東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾蔵施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国最初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
明治五年二月二十六日和田倉門内の元会津藩邸から出火した火災により、銀座、築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。
明治五年十二月、東京府は川崎八右衛門にその製造をまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し、生産高を増していきます。
明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもありました。
小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ヶ関の女王である煉瓦建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ、近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです。」





○松原通り(御成道)
小菅稲荷神社と松原児童遊園の間の道が、松原通り(御成道)です。松原児童遊園の横に、説明板がありました。
(説明板)
「松原通り(御成道)の由来
関東郡代伊那忠治が小菅村の御用地に構えた屋敷に、度々鷹狩りで立ち寄った二代将軍秀忠は、屋敷の庭から見える富士山に松が似合うと江戸城から一本の若松を持参し、伊奈家の庭に自ら鍬を取って植えました。
しかし、曇り空で富士山が見えません。そこで、植えたばかりの松の枝に手にしていた白扇を広げ、逆さに飾り富士山と見立てました。それ以来、この松を「末広がりの松」と名付け伊奈家の手で大切に育てられました。
この由来と育成を知った八代将軍吉宗から褒美に銀五十枚を賜った伊那忠達は、水戸佐倉道から小菅御殿まで数百本の松を植え、立派な道を造りました。
それから将軍権が御成りになる時は、必ずこの松並木を通り「末広がりの松」を見ながら御殿に入るのが慣わしとなりました。
この松並木は昭和の時代まで残りましたが、戦争になり松根油を飛行機の燃料にするため、殆どが切り倒され、今では「松原通り」の名前だけが残りました。」
平成23年度東京都地域の底力再生事業対象事業 管理者:小菅西自治会広報部




松原通りには、お地蔵さまがおられます。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
竹の塚彫刻の道
○竹の塚彫刻の道 足立区竹の塚3丁目7番~4丁目9番
増田橋から赤山街道終点から直進し最初の信号を左折すると「竹の塚彫刻の道」が続きます。
かつての農業用水路が彫刻の道となっています。道の下は多目的貯水槽となっています。
平成5(1993)年に国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。




<陶板レリーフ「足立五色桜」>
五色桜の場所からは離れていますが、五色桜の陶板レリーフがあります。



<Chimney(煙突) 島剛>


<石の風 堀内健ニ>



<泉 小泉俊己>



<空を眺めながら 柏木昌>
(道路反対側にあった銭湯「泉湯」は、2015年廃業・解体)




<地殻より 岡本敦生>



<創造の箱 斎藤史門>




<自我ーその確立 桑名良知>




<その他>
彫刻の道からそれた、けやき大通り沿にも彫刻がありました。


増田橋から赤山街道終点から直進し最初の信号を左折すると「竹の塚彫刻の道」が続きます。
かつての農業用水路が彫刻の道となっています。道の下は多目的貯水槽となっています。
平成5(1993)年に国土交通省「手づくり郷土賞」を受賞しています。




<陶板レリーフ「足立五色桜」>
五色桜の場所からは離れていますが、五色桜の陶板レリーフがあります。



<Chimney(煙突) 島剛>


<石の風 堀内健ニ>



<泉 小泉俊己>




<空を眺めながら 柏木昌>
(道路反対側にあった銭湯「泉湯」は、2015年廃業・解体)




<地殻より 岡本敦生>



<創造の箱 斎藤史門>




<自我ーその確立 桑名良知>




<その他>
彫刻の道からそれた、けやき大通り沿にも彫刻がありました。


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
赤山街道 増田橋 蓬莱稲荷と稲荷社
○増田橋跡 北へ旧日光道中/西へ旧赤山道
増田橋は竹の塚の立場として賑わいました。
赤山道に沿って流れてきた竹の塚堀はそのまま東へ。一部は南へ日光街道の東側を流れます。竹の塚堀にかかっていた橋が増田橋です。
千住堀は、日光街道の西側を流れます。
「増田橋の交差点」(昭和40(1965)年5月 足立区立郷土博物館蔵)
竹の塚三丁目5番付近より右斜めの赤山街道方面を望んでいます。左右の道が旧日光街道で左手が千住方面です。

現在

「旧日光街道」(昭和45(1970)年頃の六月2-21-17付近 足立区立郷土博物館蔵)
旧日光街道の両側に堀がありました。左手前に、現在も営業している茶・海苔の「丸新園」の置看板が見えます。その先に郵便ポストが見え、六月町郵便局でしょう。そうすると、六月町から北の増田橋方面を望んだ旧日光街道です。旧日光街道の左が千住堀、右が竹の塚堀です。

現在

丸新園

六月町郵便局

<増田橋モニュメント> 足立区竹の塚2-9-1
「増田橋」と刻まれたモニュメントがあります。 ここは、かつて「正八幡宮道標」が建っていた場所です。

<道標> 足立区竹の塚3-4-14
道標は平成六年と刻まれているので、昔のものではなく足立区が設置した新しいものです。
(正面)「増田橋跡 北へ旧日光道中」

(右面)「西へ旧赤山道」

(左面)「平成六年三月 足立区教育委員会」


<水茶屋「亀屋」>
増田橋は、日光街道の休憩地として賑わい水茶屋「亀屋」が何軒かあり、昔は竹の塚の立場として賑わいました。増田橋交差点にはマンション「トータス竹の塚」が建っています。トータスとは亀ですね。

<増田橋バス停>
旧日光街道、赤山街道それぞれに増田橋バス停があります。
旧日光街道「増田橋」バス停


赤山街道「増田橋」バス停


増田橋交差点

<正八幡宮道標>
増田橋に建てられていた「正八幡宮道標」(文政9(1826)年再建)が足立区立郷土博物館に保存されています。願主には「亀屋」も見えます。数多くの石塔を手掛けた「草加宿六丁目石工 青木宗義」も願主となっています。
(正面)
「開運 谷古田 正八幡宮」(※峯ヶ岡八幡神社(川口市峯1304)です。こちらで記載。)
「是ゟ 一里」



(左面)
「文政九丙戌年再建」
「願主 當所
温飩屋四良左ェ門
花又屋孫助
飴屋源右エ門」


(右面)
「おふミやへ 五り半余
はと可"やへ 壹り半余
と祢りへ 三十丁」


(右面下)
「願主」
「舎人町 和泉屋 長蔵
當所亀屋長蔵」
草加宿六丁目石工 青木宗義」

(説明板)
「正八幡宮道標
かつて赤山街道入口増田橋の北詰(現竹の塚二丁目9-1先)に建てられていた道標。谷古田(現川口市峯)の峯ヶ岡八幡神社への案内を「これより一里」と示している。文政9年(1826)再建とあるから、それ以前にも道しるべが建てられていて八幡宮への参詣が行われていたことがわかる。願主として「当所温飩屋四良左ェ門、花又屋孫助、飴屋源右エ門、舎人町和泉屋長蔵、当所亀屋長蔵、草加宿六丁目石工青木宗義」の名があり、「おふミやへ五り半余、はとがやへ壹り半余、とねりへ三丁(※三十丁の誤り)と隣村への案内も兼ねている。」

「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
村尾嘉陵は文政2(1819)年に谷古田八幡宮を参詣しています。略図には千住→竹の塚→保木間→八束(谷塚)→柳島→谷古田が見えます。

※ 几号水準点
かつて増田橋石崖に几号水準点が刻まれていましたが、現在は失われています。
○蓬莱稲荷大明神 足立区竹の塚2-2-12
増田橋の近くに「蓬莱稲荷大明神」があります。塚の上に稲荷社が建っています。
「正一位 蓬莱稲荷大明神 当稲荷神社は創建約弍百年位有する社です。
大震災や戦争の時や戦後の数多の災害も当地域周辺は平穏無事に守って頂いています。
令和弍年八月 記」














○稲荷神社 足立区竹の塚3-4-9
蓬莱稲荷大明神の横から東へ続く道沿に稲荷神社があり、成田道の道標があります。


<成田道道標>
嘉永3(1850)年銘の成田道道標です。
(台石正面)「成田道」
(台石左面)「新宿 成田 道」
(裏面) 紀年



※ この道路の稲荷神社の東にある銭湯「高砂湯」が2021年12月28日に閉店。更地となり集合住宅が建築されています。

○ひばり 足立区六月1-36-11
旧日光街道沿に、お好み焼き、たこ焼きの「ひばり」。コロナ対策でお好み焼き等の販売は休止中(→再開)。駄菓子の販売も行っています。

増田橋は竹の塚の立場として賑わいました。
赤山道に沿って流れてきた竹の塚堀はそのまま東へ。一部は南へ日光街道の東側を流れます。竹の塚堀にかかっていた橋が増田橋です。
千住堀は、日光街道の西側を流れます。
「増田橋の交差点」(昭和40(1965)年5月 足立区立郷土博物館蔵)
竹の塚三丁目5番付近より右斜めの赤山街道方面を望んでいます。左右の道が旧日光街道で左手が千住方面です。

現在

「旧日光街道」(昭和45(1970)年頃の六月2-21-17付近 足立区立郷土博物館蔵)
旧日光街道の両側に堀がありました。左手前に、現在も営業している茶・海苔の「丸新園」の置看板が見えます。その先に郵便ポストが見え、六月町郵便局でしょう。そうすると、六月町から北の増田橋方面を望んだ旧日光街道です。旧日光街道の左が千住堀、右が竹の塚堀です。

現在

丸新園

六月町郵便局

<増田橋モニュメント> 足立区竹の塚2-9-1
「増田橋」と刻まれたモニュメントがあります。 ここは、かつて「正八幡宮道標」が建っていた場所です。

<道標> 足立区竹の塚3-4-14
道標は平成六年と刻まれているので、昔のものではなく足立区が設置した新しいものです。
(正面)「増田橋跡 北へ旧日光道中」

(右面)「西へ旧赤山道」

(左面)「平成六年三月 足立区教育委員会」


<水茶屋「亀屋」>
増田橋は、日光街道の休憩地として賑わい水茶屋「亀屋」が何軒かあり、昔は竹の塚の立場として賑わいました。増田橋交差点にはマンション「トータス竹の塚」が建っています。トータスとは亀ですね。

<増田橋バス停>
旧日光街道、赤山街道それぞれに増田橋バス停があります。
旧日光街道「増田橋」バス停


赤山街道「増田橋」バス停


増田橋交差点

<正八幡宮道標>
増田橋に建てられていた「正八幡宮道標」(文政9(1826)年再建)が足立区立郷土博物館に保存されています。願主には「亀屋」も見えます。数多くの石塔を手掛けた「草加宿六丁目石工 青木宗義」も願主となっています。
(正面)
「開運 谷古田 正八幡宮」(※峯ヶ岡八幡神社(川口市峯1304)です。こちらで記載。)
「是ゟ 一里」



(左面)
「文政九丙戌年再建」
「願主 當所
温飩屋四良左ェ門
花又屋孫助
飴屋源右エ門」


(右面)
「おふミやへ 五り半余
はと可"やへ 壹り半余
と祢りへ 三十丁」


(右面下)
「願主」
「舎人町 和泉屋 長蔵
當所亀屋長蔵」
草加宿六丁目石工 青木宗義」

(説明板)
「正八幡宮道標
かつて赤山街道入口増田橋の北詰(現竹の塚二丁目9-1先)に建てられていた道標。谷古田(現川口市峯)の峯ヶ岡八幡神社への案内を「これより一里」と示している。文政9年(1826)再建とあるから、それ以前にも道しるべが建てられていて八幡宮への参詣が行われていたことがわかる。願主として「当所温飩屋四良左ェ門、花又屋孫助、飴屋源右エ門、舎人町和泉屋長蔵、当所亀屋長蔵、草加宿六丁目石工青木宗義」の名があり、「おふミやへ五り半余、はとがやへ壹り半余、とねりへ三丁(※三十丁の誤り)と隣村への案内も兼ねている。」

「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
村尾嘉陵は文政2(1819)年に谷古田八幡宮を参詣しています。略図には千住→竹の塚→保木間→八束(谷塚)→柳島→谷古田が見えます。

※ 几号水準点
かつて増田橋石崖に几号水準点が刻まれていましたが、現在は失われています。
○蓬莱稲荷大明神 足立区竹の塚2-2-12
増田橋の近くに「蓬莱稲荷大明神」があります。塚の上に稲荷社が建っています。
「正一位 蓬莱稲荷大明神 当稲荷神社は創建約弍百年位有する社です。
大震災や戦争の時や戦後の数多の災害も当地域周辺は平穏無事に守って頂いています。
令和弍年八月 記」














○稲荷神社 足立区竹の塚3-4-9
蓬莱稲荷大明神の横から東へ続く道沿に稲荷神社があり、成田道の道標があります。


<成田道道標>
嘉永3(1850)年銘の成田道道標です。
(台石正面)「成田道」
(台石左面)「新宿 成田 道」
(裏面) 紀年



※ この道路の稲荷神社の東にある銭湯「高砂湯」が2021年12月28日に閉店。更地となり集合住宅が建築されています。

○ひばり 足立区六月1-36-11
旧日光街道沿に、お好み焼き、たこ焼きの「ひばり」。コロナ対策でお好み焼き等の販売は休止中(→再開)。駄菓子の販売も行っています。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
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