馬喰町
○馬喰町
奥州街道の出発地であり、問屋街に近く、関東郡代の役宅もあったため、旅人宿や公事宿が多く、訴訟・商用・見物の者で賑わいました。
名前の由来は馬市が立ち、牛馬の売買や治療を行う博労が多く住んだため、または、近くにあった初音馬場を博労頭の高木源兵衛や富田半七が管理を任されていたためと言われます。
「江戸名所図会 馬喰町馬場/馬場 追廻し」
江戸名所図会の挿絵「馬喰町馬場」では、子どもたちが遊んでいます。遠景には「浅草御殿」と記されています。

本文に記載の図「馬場 追廻し」です。

「絵本江戸土産 馬喰町初音馬場」(広重)
挿絵には「馬喰町二丁めと三丁目の間の横丁斯の如き火見あり 夫につづきて馬場あり是を初音の馬場といふ 両縁に柳数株を植る 常に馬術の稽古をなせり」とあります。「柳原封疆(どて)」が記されています。
右手に反物が横に干されているのが見えます。

「名所江戸百景 馬喰町初音乃馬場」(広重)
紺屋町の染職人が干した反物が描かれています。

「江戸名所道化盡 初音の馬場」(広景 都立図書館蔵)
干している反物に首を引っ掛けてしまいました。銭がバラバラ落ちています。染職人の羽織には「初音」「初」とあります。

「江戸切絵図」
「紺屋町」と「初音馬場」部分の抜粋です。広重は紺屋町と初音馬場で干している反物を描いています。

「初音馬場」部分の抜粋です。 「浅草御門」「馬場」「郡代屋敷」などが見えます。浅草御門建設にあたり、初音稲荷の境内地の半分ほどが削られています。馬場は、天文20(1551)年に初音稲荷の社前に設けられました。郡代屋敷は、明暦三年の大火後、初音稲荷の別当地がその敷地となりました。

<現在の地図>
初音の馬場跡の現在地は、中央区日本橋馬喰町1-8-10です。跡地に痕跡や説明板の類など、何もありません。

○郡代屋敷跡 中央区日本橋馬喰町2-7-2
浅草橋の南の袂に中央区の説明板「郡代屋敷跡」が建っています。いわゆる関東郡代は、伊奈忠次を代官頭に任じたことを端緒とし、寛永19(1642)年に伊奈忠治が関東諸代官の統括を命じられたことにより事実上始まり、その後10代150年間に渡って伊奈氏が世襲しました。


(説明板)
「郡代屋敷跡 所在地 中央区日本橋馬喰町二丁目地域
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東群代 の役宅があった場所です。
関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康 から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)には関東群代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。
寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東群代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(一八〇六)に関東群代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く群代屋敷 と呼んでいました。
平成二十年三月 中央区教育委員会」

(参考)
杉浦陣屋跡 赤山陣屋敷址 小菅御殿 伊奈家歴代御墓所
○出土した江戸時代の石垣石 中央区日本橋馬喰町2-7-2
東日本橋交番横に「出土した江戸時代の石垣石」と説明板があります。
(説明板)
「出土した江戸時代の石垣石
この石が出土した場所は、ここから西へ約5、60m行ったところになります。そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。神田川は江戸城の防御のための堀の役割を果し、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東にある浅草橋御門と呼ばれる城門があり、この一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。
この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3〜4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。
今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。
開智日本橋学園中学・高等学校」



○馬喰横山駅名由来像 中央区東日本橋3-8 A3出入口改札内
都営新宿線の馬喰横山駅構内に馬のオブジェと「駅名由来」板、タイル画があります。





○初音森神社【儀式殿】 中央区東日本橋2-27-9 HP
中央区東日本橋に儀式殿、墨田区千歳に本社が鎮座しています。創建時は小さな祠だった当社は、文明3(1471)年に太田道灌により社殿が造営されています。天文20(1551)年、社前に馬場が整備され、「初音稲荷」にちなみ「初音の馬場」と称されました。昭和48(1973)年、13階建ての「初音森ビル」が竣工し、二階部分が儀式殿となっています。 江戸七森の一つです。
<ビル2階にある神社>
ビル2階に幟が並んでいます。


<外宮>
儀式殿は2階に置かれていますが、1階にも外宮があります。




<由緒>
(掲示)
「初音森神社由緒
当神社は元弘年間(一三三○年頃)に創祀され、豊受比売命(宇迦之魂神)を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。当時初音之里と呼ばれ奥州街道添い樟木等の生い茂った森、すなわち後の初音の森が現在の馬喰町靖国通り交差点の辺りであった。尚この処を初音の里と稱え日本橋四之部、馬喰町、横山町はその中心に位置し、社殿建立によって付近の産土神として信仰をあつめた。天文二○年(一五五一)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行われ、天正日記に初音の馬場を当時の博労(馬喰)高木源兵衛預りの記録がある。徳川幕府の入府後、この所が見附番所(浅草見附門)建設にあたり境内地の半分程が削られ、更に明暦三年の大火後、その別当地(神社をお守りする寺)も関東郡代屋敷用地となり、現在本社のある墨田区千歳に替え地を拝領し遷宮。今日に及ぶ。昭和二十三年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立し、昭和四十八年一二月新殿及び儀式殿を近代建築とした。」


<名馬 三日月>
平成15(2003)年10月の奉納です。




<井戸由緒>
「家康」「名馬三日月」「三日月の井戸」の挿絵と井戸由緒が掲示されています。
(掲示)
「名井三日月の井戸由緒
慶長五年(一六○○年)関ヶ原の戦起るや徳川家康は下野国の小山にいたが急遽引返し初音の馬場に勢揃いし木村常陸之介を代参として初音森神社に戦勝祈願。神井の水にて一息、乗馬にもその水を呑ませて出発、大勝してかえった。後その縁故を以て神井に三日月と命名したと伝えられている。明暦三年(一六五七年)の大火後、神社寺院の境内が幕府の用地に指定され移転する事となり初音森神社も当時下総国葛飾郡たる現在本社のある墨田区に遷宮した。旧跡は一部郡代屋敷、他は町家となり三日月の井戸も町家の庭内となった。江戸時代飲料水は順次水道になったが勿論充分ではなく、用水として井戸を掘っても飲料には不適であるため良水の井戸は有名となり古老の話には三日月の井戸の水は水売り商人が諸々に運んで売ったものだと云う。
此の井戸のあった家に、浮世絵師喜多川歌麿が紫廼家と名乗り住んでいたが、ある問題で歌麿が罰せられ遂に病死した。その後住んだ染物屋が有名な歌麿の屋号をつけてむらさきやとした。むらさきやは三日月の井戸を使用するにあたり、側に神祠を建て初水を供えて使用したと云う。明治にいたり水道の発達により仝二十年頃井戸は埋められたが井桁に組まれた石の井戸枠は昭和三年の区割整理迄保存され、むらさきやが移転に際し先祖よりの伝承を説明し、神祠の神鏡を当社に納めた。その神鏡は今も初音森神社に祀られている」


<外宮>





<儀式殿>

奥州街道の出発地であり、問屋街に近く、関東郡代の役宅もあったため、旅人宿や公事宿が多く、訴訟・商用・見物の者で賑わいました。
名前の由来は馬市が立ち、牛馬の売買や治療を行う博労が多く住んだため、または、近くにあった初音馬場を博労頭の高木源兵衛や富田半七が管理を任されていたためと言われます。
「江戸名所図会 馬喰町馬場/馬場 追廻し」
江戸名所図会の挿絵「馬喰町馬場」では、子どもたちが遊んでいます。遠景には「浅草御殿」と記されています。

本文に記載の図「馬場 追廻し」です。

「絵本江戸土産 馬喰町初音馬場」(広重)
挿絵には「馬喰町二丁めと三丁目の間の横丁斯の如き火見あり 夫につづきて馬場あり是を初音の馬場といふ 両縁に柳数株を植る 常に馬術の稽古をなせり」とあります。「柳原封疆(どて)」が記されています。
右手に反物が横に干されているのが見えます。

「名所江戸百景 馬喰町初音乃馬場」(広重)
紺屋町の染職人が干した反物が描かれています。

「江戸名所道化盡 初音の馬場」(広景 都立図書館蔵)
干している反物に首を引っ掛けてしまいました。銭がバラバラ落ちています。染職人の羽織には「初音」「初」とあります。

「江戸切絵図」
「紺屋町」と「初音馬場」部分の抜粋です。広重は紺屋町と初音馬場で干している反物を描いています。

「初音馬場」部分の抜粋です。 「浅草御門」「馬場」「郡代屋敷」などが見えます。浅草御門建設にあたり、初音稲荷の境内地の半分ほどが削られています。馬場は、天文20(1551)年に初音稲荷の社前に設けられました。郡代屋敷は、明暦三年の大火後、初音稲荷の別当地がその敷地となりました。

<現在の地図>
初音の馬場跡の現在地は、中央区日本橋馬喰町1-8-10です。跡地に痕跡や説明板の類など、何もありません。

○郡代屋敷跡 中央区日本橋馬喰町2-7-2
浅草橋の南の袂に中央区の説明板「郡代屋敷跡」が建っています。いわゆる関東郡代は、伊奈忠次を代官頭に任じたことを端緒とし、寛永19(1642)年に伊奈忠治が関東諸代官の統括を命じられたことにより事実上始まり、その後10代150年間に渡って伊奈氏が世襲しました。


(説明板)
「郡代屋敷跡 所在地 中央区日本橋馬喰町二丁目地域
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東群代 の役宅があった場所です。
関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康 から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)には関東群代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。
寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東群代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(一八〇六)に関東群代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く群代屋敷 と呼んでいました。
平成二十年三月 中央区教育委員会」

(参考)
杉浦陣屋跡 赤山陣屋敷址 小菅御殿 伊奈家歴代御墓所
○出土した江戸時代の石垣石 中央区日本橋馬喰町2-7-2
東日本橋交番横に「出土した江戸時代の石垣石」と説明板があります。
(説明板)
「出土した江戸時代の石垣石
この石が出土した場所は、ここから西へ約5、60m行ったところになります。そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。神田川は江戸城の防御のための堀の役割を果し、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東にある浅草橋御門と呼ばれる城門があり、この一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。
この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3〜4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。
今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。
開智日本橋学園中学・高等学校」



○馬喰横山駅名由来像 中央区東日本橋3-8 A3出入口改札内
都営新宿線の馬喰横山駅構内に馬のオブジェと「駅名由来」板、タイル画があります。





○初音森神社【儀式殿】 中央区東日本橋2-27-9 HP
中央区東日本橋に儀式殿、墨田区千歳に本社が鎮座しています。創建時は小さな祠だった当社は、文明3(1471)年に太田道灌により社殿が造営されています。天文20(1551)年、社前に馬場が整備され、「初音稲荷」にちなみ「初音の馬場」と称されました。昭和48(1973)年、13階建ての「初音森ビル」が竣工し、二階部分が儀式殿となっています。 江戸七森の一つです。
<ビル2階にある神社>
ビル2階に幟が並んでいます。


<外宮>
儀式殿は2階に置かれていますが、1階にも外宮があります。




<由緒>
(掲示)
「初音森神社由緒
当神社は元弘年間(一三三○年頃)に創祀され、豊受比売命(宇迦之魂神)を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。当時初音之里と呼ばれ奥州街道添い樟木等の生い茂った森、すなわち後の初音の森が現在の馬喰町靖国通り交差点の辺りであった。尚この処を初音の里と稱え日本橋四之部、馬喰町、横山町はその中心に位置し、社殿建立によって付近の産土神として信仰をあつめた。天文二○年(一五五一)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行われ、天正日記に初音の馬場を当時の博労(馬喰)高木源兵衛預りの記録がある。徳川幕府の入府後、この所が見附番所(浅草見附門)建設にあたり境内地の半分程が削られ、更に明暦三年の大火後、その別当地(神社をお守りする寺)も関東郡代屋敷用地となり、現在本社のある墨田区千歳に替え地を拝領し遷宮。今日に及ぶ。昭和二十三年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立し、昭和四十八年一二月新殿及び儀式殿を近代建築とした。」


<名馬 三日月>
平成15(2003)年10月の奉納です。




<井戸由緒>
「家康」「名馬三日月」「三日月の井戸」の挿絵と井戸由緒が掲示されています。
(掲示)
「名井三日月の井戸由緒
慶長五年(一六○○年)関ヶ原の戦起るや徳川家康は下野国の小山にいたが急遽引返し初音の馬場に勢揃いし木村常陸之介を代参として初音森神社に戦勝祈願。神井の水にて一息、乗馬にもその水を呑ませて出発、大勝してかえった。後その縁故を以て神井に三日月と命名したと伝えられている。明暦三年(一六五七年)の大火後、神社寺院の境内が幕府の用地に指定され移転する事となり初音森神社も当時下総国葛飾郡たる現在本社のある墨田区に遷宮した。旧跡は一部郡代屋敷、他は町家となり三日月の井戸も町家の庭内となった。江戸時代飲料水は順次水道になったが勿論充分ではなく、用水として井戸を掘っても飲料には不適であるため良水の井戸は有名となり古老の話には三日月の井戸の水は水売り商人が諸々に運んで売ったものだと云う。
此の井戸のあった家に、浮世絵師喜多川歌麿が紫廼家と名乗り住んでいたが、ある問題で歌麿が罰せられ遂に病死した。その後住んだ染物屋が有名な歌麿の屋号をつけてむらさきやとした。むらさきやは三日月の井戸を使用するにあたり、側に神祠を建て初水を供えて使用したと云う。明治にいたり水道の発達により仝二十年頃井戸は埋められたが井桁に組まれた石の井戸枠は昭和三年の区割整理迄保存され、むらさきやが移転に際し先祖よりの伝承を説明し、神祠の神鏡を当社に納めた。その神鏡は今も初音森神社に祀られている」


<外宮>





<儀式殿>

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
竹森神社
○竹森神社 中央区日本橋小伝馬町19-4
竹森神社は、龍閑児童遊園の横にあります。江戸七森の一つです。




<手水鉢>

<再建記念碑>
「竹森神社再建記念」

「昭和三十年十一月
竹森神社保存会
小伝馬町三丁目町会」

(掲示)
「小伝馬町三丁目の守護神である「竹森神社」は、江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹藪にちなんで竹森神社としたと言われている。
神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の中で由緒深いものとされている。
江戸七森
「椙森」すぎのもり 堀留
「烏森」からすもり 新橋
「初音森」はつねのもり 馬喰町
「柳森」 柳原土手
「あずまの森」 向島
「笹森」ささのもり 谷中
「竹森」 小伝馬町」


<神狐>
金網に囲まれた神狐です。


<社殿>


<例大祭>
例大祭は、5月の第二金土のようです。
竹森神社は、龍閑児童遊園の横にあります。江戸七森の一つです。




<手水鉢>

<再建記念碑>
「竹森神社再建記念」

「昭和三十年十一月
竹森神社保存会
小伝馬町三丁目町会」

(掲示)
「小伝馬町三丁目の守護神である「竹森神社」は、江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹藪にちなんで竹森神社としたと言われている。
神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の中で由緒深いものとされている。
江戸七森
「椙森」すぎのもり 堀留
「烏森」からすもり 新橋
「初音森」はつねのもり 馬喰町
「柳森」 柳原土手
「あずまの森」 向島
「笹森」ささのもり 谷中
「竹森」 小伝馬町」


<神狐>
金網に囲まれた神狐です。


<社殿>


<例大祭>
例大祭は、5月の第二金土のようです。

tag : 江戸七森
企画展「発掘!伝馬町牢屋敷」
○企画展「発掘!伝馬町牢屋敷」(タイムドーム明石)
タイムドーム明石(中央区立郷土天文館 中央区明石町12-1)で、企画展「発掘!伝馬町牢屋敷」が開催されていたので見てきました。
伝馬町牢屋敷跡から発見された石垣や上下水道などの遺構の写真、磁器や漆器などの食器、げた、瓦などが展示されていました。
(参考)企画展おしらせ(2022年2月26日(土)〜3月21日(月祝)
・常設展示室 100円 写真撮影不可
・特別展示室 無料 写真撮影可
<タイムドーム明石>


<特別展>




(上水桝)


(チラシ)



(資料)
伝馬町牢屋敷の図や、牢屋敷奉行石出帯刀の説明、牢屋敷に入牢した人物などが紹介されています。

伝馬町牢屋敷に入牢した人物のうち、鼠小僧次郎吉と橋本左内は伝馬町刑場ではなく小塚原刑場でそれぞれ磔・獄門及び斬首となっています。
タイムドーム明石(中央区立郷土天文館 中央区明石町12-1)で、企画展「発掘!伝馬町牢屋敷」が開催されていたので見てきました。
伝馬町牢屋敷跡から発見された石垣や上下水道などの遺構の写真、磁器や漆器などの食器、げた、瓦などが展示されていました。
(参考)企画展おしらせ(2022年2月26日(土)〜3月21日(月祝)
・常設展示室 100円 写真撮影不可
・特別展示室 無料 写真撮影可
<タイムドーム明石>


<特別展>




(上水桝)


(チラシ)



(資料)
伝馬町牢屋敷の図や、牢屋敷奉行石出帯刀の説明、牢屋敷に入牢した人物などが紹介されています。

伝馬町牢屋敷に入牢した人物のうち、鼠小僧次郎吉と橋本左内は伝馬町刑場ではなく小塚原刑場でそれぞれ磔・獄門及び斬首となっています。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
伝馬町処刑場跡(大安楽寺)と身延別院
○大安楽寺 中央区日本橋小伝馬町3-5
小伝馬町牢屋敷は、現在の大安楽寺や身延別院、十思公園、十思スクエア辺りとされており、大安楽寺は処刑場のあった場所とされています。
大安楽寺は、明治8(1875)年に大倉喜八郎と安田善次郎の所有地に、両氏等の発願により創建されました。




<縁起等>
外壁に「縁起」と「江戸伝馬町処刑場跡」碑があります。
「江戸伝馬町処刑場跡」碑の裏面は「百度石」となっています。



<江戸伝馬町牢石垣之一部 江戸伝馬町牢井戸跡>
江戸伝馬町牢井戸跡の石垣の一部があります。


<延命地蔵尊>
かつての処刑場の場所に延命地蔵尊が祀られています。
台座に「為戦歿殉難諸霊菩提」と刻まれています。
さらに下に「為囚死群霊離苦得脱」(山岡鉄舟筆による陽物額)と刻まれています。
「子育 息災
延命地蔵尊
真言 おん かかかび さんまえい そわか
安政の大獄で名高い吉田松陰を始めとする人々の伝馬町牢、
処刑場跡を供養するために建立された。
製作者 日展審査委員横江嘉純
御縁日は二十四日」



表面「江戸傳馬町牢御椓場跡」
裏面「刑場のあと」


<辯財天使神>


<宝安稲荷大明神>


<江戸八臂辯財天>



○身延別院 中央区日本橋小伝馬町3-2




<御題目供養塔>
日薩上人が吉田松陰・橋本左内等小伝馬牢の獄死者追善のため建立したもの。


裏にあるのは、誰かの供養塔でしょうか。

<本堂>

<油かけ大黒天神>



<光明稲荷>

<鰻塚>
日本橋蒲焼商組合による鰻の供養塔です。昭和58(1983)年4月3日の建立です。



小伝馬町牢屋敷は、現在の大安楽寺や身延別院、十思公園、十思スクエア辺りとされており、大安楽寺は処刑場のあった場所とされています。
大安楽寺は、明治8(1875)年に大倉喜八郎と安田善次郎の所有地に、両氏等の発願により創建されました。




<縁起等>
外壁に「縁起」と「江戸伝馬町処刑場跡」碑があります。
「江戸伝馬町処刑場跡」碑の裏面は「百度石」となっています。



<江戸伝馬町牢石垣之一部 江戸伝馬町牢井戸跡>
江戸伝馬町牢井戸跡の石垣の一部があります。


<延命地蔵尊>
かつての処刑場の場所に延命地蔵尊が祀られています。
台座に「為戦歿殉難諸霊菩提」と刻まれています。
さらに下に「為囚死群霊離苦得脱」(山岡鉄舟筆による陽物額)と刻まれています。
「子育 息災
延命地蔵尊
真言 おん かかかび さんまえい そわか
安政の大獄で名高い吉田松陰を始めとする人々の伝馬町牢、
処刑場跡を供養するために建立された。
製作者 日展審査委員横江嘉純
御縁日は二十四日」



表面「江戸傳馬町牢御椓場跡」
裏面「刑場のあと」


<辯財天使神>


<宝安稲荷大明神>


<江戸八臂辯財天>



○身延別院 中央区日本橋小伝馬町3-2




<御題目供養塔>
日薩上人が吉田松陰・橋本左内等小伝馬牢の獄死者追善のため建立したもの。


裏にあるのは、誰かの供養塔でしょうか。

<本堂>

<油かけ大黒天神>



<光明稲荷>

<鰻塚>
日本橋蒲焼商組合による鰻の供養塔です。昭和58(1983)年4月3日の建立です。




テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
伝馬町牢屋敷跡遺跡
○小伝馬町牢屋敷展示館 中央区日本橋小伝馬町5-19
旧十思小学校の校舎が十思スクエアとなり、小学校の体育館とプールが解体され、十思スクエア別館が建っています。
「十思スクエア別館」の2階は銭湯で、1階のエレベーターホールに「小伝馬町牢屋敷展示館」があります。小伝馬町牢屋敷の模型とパネル数枚、外の地下に牢屋敷の井戸と水道管があり、展示館というより展示スペースといった印象です。





(説明掲示)
「小伝馬町牢屋敷展示館
まちかど展示館は、地域に根づいたまちの歴史や記憶を区民等が自ら掘り起こし、展示や公開をすることで、地域文化の継承や住むまちに誇りや愛着心を育んでいただくため、区が公認し設置しているものです。
小伝馬町牢屋敷模型
牢屋敷は、慶長年間(1596年~1615年)に常盤橋際から移って、現在の日本橋小伝馬町の十思小学校、講演、大安楽寺、見延別院などがある一帯の地域にありました。その面積2,618坪(8,637平方メートル)。周辺に土手を築いて堀をめぐらし、土塀に囲まれた場内に模型の諸施設がありました。
明治8年(1875年)市ヶ谷監獄ができるまでの約270年間に入獄した者は数十万人を数えたといいますが、幕末にいたり、蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英が投獄され、また安政の大獄の際、吉田松陰、橋本左内ら多くの志士たちが斬首の刑に処せられた痛ましい歴史を残しました。なお、磔や火刑に処せられる大罪人は、江戸市中引廻しのうえ、小塚原や鈴ヶ森へ送られました。
中央区まちかど展示館」
(文中の「講演」は「公園」、「見延別院」は、「身延別院」の誤記です。)



「主な施設の説明」

「伝馬町牢屋敷に収監された有名人①」
収監されていた人物の説明。
吉田松陰、高野長英、橋本左内、頼三樹三郎、渡辺崋山


「伝馬町牢屋敷に収監された有名人②」
八百屋お七、鼠小僧次郎吉、平賀源内

<出土した牢屋敷の井戸と水道管>
建物の外には、牢屋敷内のために使われていた上水井戸と上水木桶(水道管)を見ることができます。




(説明板)
「出土した牢屋敷の井戸と水道管
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康公が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1613)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した井戸や水道管をはじめとして、多数の水道施設が発見されました。半ば外部と遮断された牢屋敷内において、水の確保がとても重要であったことを物語っています。この井戸は上水井戸、水道管は上水木樋と呼びます。上水井戸は上水木樋とつながって、水が中に溜まる仕組みになっています。上水木樋は木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある、神田上水から引き込まれたものと思われます。いずれも「舟釘」と呼ばれる大形の釘でしっかりと固定、密閉されており、水が外に漏れ出さない工夫がされています。
このほか、複数の石垣が連なるように見つかりました。牢屋敷の内部も石垣で仕切られていたことがわかった貴重な発見です。
平成26年 中央区教育委員会」


○十思スクエア別館 牢屋敷の石垣


<地下から現れた牢屋敷の石垣>
十思公園に面した十思スクエア別館の壁際に、牢屋敷の石垣の一部が移築復元されています。
(説明板)
「地下より現れた牢屋敷の石垣
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1618)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。牢屋敷は高さ7尺8寸(約2.4m)の高い塀でかこわれていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。これは、角度によって門が見えにくい「埋門」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。
このほか、多数の上水木樋が見つかっています。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。
ここに展示してあるのは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した石を使って積んだものもあります。石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錘に加工されたものです。石には切り出す際についた矢穴という窪みが見られるものもあります。
平成26年 中央区教育委員会」




○十思之疏 十思スクエア別館 中央区日本橋小伝馬町5-19
十思スクエア別館の外壁に掲示されている「十思之疏」。
「旧十思小学校「十思之疏」の由来
旧十思小学校の前身となる「第一大区第一中学区第十六番小学十思小学校」は、明治10年(1877)に大伝馬塩町の地で創立されました。明治初年の行政区画(大区・小区制度)では「第十四小区」の学校として開校し、明治末年に大伝馬上町22番地(旧十思小学校の敷地)へ移転した後は、平成2年(1994)に閉校するまで多くの卒業生を輩出してきました。
なお、現存ずる旧十思小学校校舎(明治4年竣工)は、閉校後の改修を経て十思スクエア(複合施設)として活用されています。
開校以来の校名として用いられてきた「十思」の名は、中国・北宋時代の歴史書「資治通鑑」(1084年完成、司馬光著)に記されている「十思之疏」(天子がわきまえるべき十カ条の戒め<同百九十四巻>)の「十思」と、開校時の所在区画の「十四」が同音好字であることにちなんで名づけられたといわれています。
校訓でもある「十思之疏」の教えは、学び者なき芋もなお、人が生きていく上での大切な教えや智恵の道標として掲げられています。
平成29年3月」
「ー原文ー
見可欲則思知足
将興繕則思知止
処高危則思謙降
臨満盈則思?損
遇逸楽則思?節
在宴安則思後患
防壅敝則思延納
疾讒邪則思正己
行爵賞則思因喜而僣
施刑罰則思因怒而濫」
「ー意約ー
欲しいものがあっても、多くを望まないことを思う。
物事を行う時には、度をこさないようにすることを思う。
立場や地位が高くても、控えめな態度をとることを思う。
十分満足な時には、むしろ減らすようにすることを思う。
楽しみを味わうときには、程よく控えめにすることを思う。
遊び暮らしていると、身を滅ぼしてしまうことを思う。
正確な情報を得るには、周囲の意見を良く聞くことを思う。
悪口を憎むより、自分の言動を正しくすることを思う。
優れた功績をあげても、必要以上に褒めないことを思う。
過ちを罰する時には、感情的にとがめないことを思う。」




○十思スクエア(旧中央区立十思小学校) 中央区日本橋小伝馬町5-1
福祉や医療の在宅支援の複合施設となっています。



テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
- カウンター