赤煉瓦酒造工場 滝野川反射炉跡
○赤煉瓦酒造工場 北区滝野川2-6-30
東京文化財ウィークの特別公開で見学してきました。






(説明板)
「重要文化財 旧醸造試験所第一工場
旧醸造試験所第一工場は、「赤煉瓦酒造工場」とも呼ばれる煉瓦でできた建造物です。1904年大蔵省(現在の財務省)に創設された醸造試験場の酒類試験工場として、日本酒等の醸造技術の近代化と発展に多大な貢献をしてきました。明治期の貴重な赤煉瓦建築物として2014年12月に国の重要文化財に指定され、壁や天井には実用的で美しいアーチが数多くあります。設計は妻木頼黄(つまきよりなか)です。
文化庁 管理団体 公益財団法人 日本醸造協会」


<矢部博士寿像>




(説明板)
「矢部規矩治博士
Dr. Kikuji Yabe
1865-1936
矢部規矩治博士は、明治27年(1894年)東京帝国大学農科大学を卒業、明治28年(1895年)世界で初めて清酒酵母を分離した。明治29年(1896年)大蔵省に入省、明治37年(1904年)の醸造試験所設立に尽力し、醸造技術の発達、また、わが国の関税制度の確立に多大な功績を残した。昭和6年(1931年)退官までの34年間、税務並びに醸造界のために尽力し、門下より数多くの学者技術者を輩出した。
設計・塑像 大野明山」

【工場見学】
<ボイラー室>
ボイラー室で、パワーポイント資料の説明を受けます。

ボイラー室には、刻印のある煉瓦の展示等もありました。


「青天を衝け」でも登場していたのですね。

<原料処理室>
説明が終わり、案内見学です。鉄扉から、原料処理室に入ります。


<旧麹室前廊下・天井>
旧麹室前廊下とその先の廊下の天井です。


旧糀室前の廊下には、説明パネルが5つ置かれています(一部撮影)。




<見学順路>


<旧麹室>

<麹室>

<二階へ>
業務用エレベーターがあります。

狭い階段で2階へ上がります。

<発酵室>



<貯蔵室>
地下の貯蔵室も見学します。

○滝野川反射炉からの変遷
<滝野川反射炉>
元治元(1864)年、幕府は大砲を製造するために、王子村名主より滝野川の地を買い上げ、反射炉と錐台(砲身の穴あけ機)を設置しました。その動力用の水車の水を得るために千川用水を巣鴨から分水しました。反射炉は幕府倒壊により使用されなかったようです。
反射炉の遺構の一部が残っています。
(説明板)
「錐台銘
元治元年(一八六四年)江戸幕府はこの地を王子村名主より買い上げ、大砲鋳造の用地とし反射炉と錐台(砲身の穴あけ)を置いた。
明治時代に入りこの用地は大蔵省印刷局王子抄紙部付属工場にあてられたが、明治三十五年(一九○二年)十月大蔵省醸造試験所設立に際し移譲され、現在は錐台の一部だけが残っている。
昭和四十八年一月
平成七年七月東広島市への移転に伴い、ここに移設した。
平成七年七月」



<製革、製靴、伝習所及御用製造所>
明治3(1870)年9月、弾直樹は滝野川反射炉跡の地所、建物全部を「製革、製靴、伝習所及御用製造所」と認められ、明治4(1871)年2月、アメリカの皮革技師・チャールス・ヘニンガーを招きます。豊富な水を使って靴用の鞣し革が生まれ、チャーリーの名にちなんで茶利革と呼ばれます。 明治5(1872)年1月には、橋場銭座跡に移転します。
<鹿島紡績所>
鹿島万平は、この地と水に着目し、民間で最初の紡績工場(鹿島紡績所)を設置します。明治5(1872)年から操業を開始し、東京紡績に吸収合併される明治21(1888)年まで操業しました。
金剛寺(紅葉寺)に「鹿島万平翁之碑」(明治38(1905)年建立)があります。(こちらで記載)


<醸造試験所から現在>
大蔵省は、大蔵省印刷局王子抄紙部付属工場にあてられていたこの地に、明治37(1904)年、醸造試験所を設置しました。
平成7(1995)年に東広島市に移転し醸造研究所と名称変更、さらに平成13(2001)年に独立行政法人酒類総合研究所となりました。
工場跡の赤煉瓦建物は、明治期の貴重な建築物として平成26(2014)年12月に国の重要文化財に指定されました。
東京文化財ウィークの特別公開で見学してきました。






(説明板)
「重要文化財 旧醸造試験所第一工場
旧醸造試験所第一工場は、「赤煉瓦酒造工場」とも呼ばれる煉瓦でできた建造物です。1904年大蔵省(現在の財務省)に創設された醸造試験場の酒類試験工場として、日本酒等の醸造技術の近代化と発展に多大な貢献をしてきました。明治期の貴重な赤煉瓦建築物として2014年12月に国の重要文化財に指定され、壁や天井には実用的で美しいアーチが数多くあります。設計は妻木頼黄(つまきよりなか)です。
文化庁 管理団体 公益財団法人 日本醸造協会」


<矢部博士寿像>




(説明板)
「矢部規矩治博士
Dr. Kikuji Yabe
1865-1936
矢部規矩治博士は、明治27年(1894年)東京帝国大学農科大学を卒業、明治28年(1895年)世界で初めて清酒酵母を分離した。明治29年(1896年)大蔵省に入省、明治37年(1904年)の醸造試験所設立に尽力し、醸造技術の発達、また、わが国の関税制度の確立に多大な功績を残した。昭和6年(1931年)退官までの34年間、税務並びに醸造界のために尽力し、門下より数多くの学者技術者を輩出した。
設計・塑像 大野明山」

【工場見学】
<ボイラー室>
ボイラー室で、パワーポイント資料の説明を受けます。

ボイラー室には、刻印のある煉瓦の展示等もありました。


「青天を衝け」でも登場していたのですね。

<原料処理室>
説明が終わり、案内見学です。鉄扉から、原料処理室に入ります。


<旧麹室前廊下・天井>
旧麹室前廊下とその先の廊下の天井です。


旧糀室前の廊下には、説明パネルが5つ置かれています(一部撮影)。




<見学順路>


<旧麹室>

<麹室>

<二階へ>
業務用エレベーターがあります。

狭い階段で2階へ上がります。

<発酵室>



<貯蔵室>
地下の貯蔵室も見学します。

○滝野川反射炉からの変遷
<滝野川反射炉>
元治元(1864)年、幕府は大砲を製造するために、王子村名主より滝野川の地を買い上げ、反射炉と錐台(砲身の穴あけ機)を設置しました。その動力用の水車の水を得るために千川用水を巣鴨から分水しました。反射炉は幕府倒壊により使用されなかったようです。
反射炉の遺構の一部が残っています。
(説明板)
「錐台銘
元治元年(一八六四年)江戸幕府はこの地を王子村名主より買い上げ、大砲鋳造の用地とし反射炉と錐台(砲身の穴あけ)を置いた。
明治時代に入りこの用地は大蔵省印刷局王子抄紙部付属工場にあてられたが、明治三十五年(一九○二年)十月大蔵省醸造試験所設立に際し移譲され、現在は錐台の一部だけが残っている。
昭和四十八年一月
平成七年七月東広島市への移転に伴い、ここに移設した。
平成七年七月」



<製革、製靴、伝習所及御用製造所>
明治3(1870)年9月、弾直樹は滝野川反射炉跡の地所、建物全部を「製革、製靴、伝習所及御用製造所」と認められ、明治4(1871)年2月、アメリカの皮革技師・チャールス・ヘニンガーを招きます。豊富な水を使って靴用の鞣し革が生まれ、チャーリーの名にちなんで茶利革と呼ばれます。 明治5(1872)年1月には、橋場銭座跡に移転します。
<鹿島紡績所>
鹿島万平は、この地と水に着目し、民間で最初の紡績工場(鹿島紡績所)を設置します。明治5(1872)年から操業を開始し、東京紡績に吸収合併される明治21(1888)年まで操業しました。
金剛寺(紅葉寺)に「鹿島万平翁之碑」(明治38(1905)年建立)があります。(こちらで記載)


<醸造試験所から現在>
大蔵省は、大蔵省印刷局王子抄紙部付属工場にあてられていたこの地に、明治37(1904)年、醸造試験所を設置しました。
平成7(1995)年に東広島市に移転し醸造研究所と名称変更、さらに平成13(2001)年に独立行政法人酒類総合研究所となりました。
工場跡の赤煉瓦建物は、明治期の貴重な建築物として平成26(2014)年12月に国の重要文化財に指定されました。
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
馬さん煉化工場(旧宮城村)
○馬さん煉化工場ノ跡 足立区宮城2-7-2
明治のはじめ頃(明治4年、あるいは明治8年とはっきりしない)、宮城村に下川煉化工場が創設されました。工場主は、下川馬次郎氏で、地元では「馬さん煉化」「馬さん工場」などと呼ばれました。 馬さんのお孫さんが建てた、石碑「馬さん煉化工場ノ跡」が、ご自宅玄関にあります。
(表面)「馬さん煉化工場ノ跡 煉化発祥ノ地」



(裏面)「明治十年内國勧業博覧会 褒状煉化石貳種
東京府管下宮城村 下川馬次郎
昭和六十一年三月吉日 下川清建之」



<煉瓦敷路地>
裏のアパートの路地は、煉瓦敷です。古い煉瓦も脇に用いられています。




<煉瓦造りの祠>
下川馬次郎氏が元宿堰の工事を請け負った際、夢枕に現れた狐のお告げにより、堰に使っている煉瓦と同じ煉瓦を使って小さな御堂を造り、土中から見つかった田中稲荷の石を祀ったのが、現在の元宿堰稲荷神です(こちらで記載)。
これに関連していると思われますし、この煉瓦造りの祠は神狐がおわしますし、稲荷社でしょう。





<水神>
隣の祠には「水神」が祀られています。


○阿出川家煉瓦造り蔵 足立区宮城1-36
大正10(1921)年建築の煉瓦造りの蔵です。木々が生い茂って、どこから見てもよく見えません。



正門、西門ともに煉瓦敷です。



<阿出川氏>
阿出川氏一族は小田原北条氏の家臣でしたが、主家の滅亡により帰農し、宮城村を開発しました。宮城氏がいなくなり荒廃していた性翁寺を元和2(1616)年に阿出川対馬守貞次が再興しています。性翁寺は阿出川氏一族の菩提寺となっています。(性翁寺はこちらで記載)
○南宮城公園と煉瓦舗道 足立区宮城1-27-5
宮城村は明治22(1889)年に9つの村が合併して江北村となり大字宮城となります。荒川放水路の開削で南北に2分された大字宮城は、昭和7(1932)年に北宮城町と南宮城町になりました。
南宮城公園は、現在の宮城の南に位置しているわけでもなく、南宮城町の時代に設けられた公園でしょう。煉瓦をモチーフとした公園です。





<ワシントンからの「里帰り桜」>
ワシントンからの「里帰り桜」が1本と、説明板があります。
(説明板)
「ワシントンからの「里帰り桜」
現在の足立区江北の一帯は、昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。様々な品種の桜が植えられていて、花の時期には、白や黄色、淡紅や濃紅色などに彩られ、 五色の霞がたなびくように見えたところから、この名が付いたと言われています。
明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄は日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木十二品種三千本を、アメリカの首都ワシントンに贈りました。 現在、市内のポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。
しかし、本家の「荒川の五色桜」は堤防の工事や戦争、公害等の影響で、残念ながら衰退してしまいました。
足立区では「五色桜」を復活させるために、昭和五十六年二月、区制五十周年記念事業として、ポトマック公園の桜の枝三十五品種三千本の里帰りを実現しました。この枝から苗木を増やし、あわせて「荒川の五色桜」に由来する品種を集め、区内の公園や学校などに植えました。新しい桜の名所として「都市農業公園」や「荒川桜づつみ」などがうまれています。
ここに植えられている桜は、これらの桜の一種です。貴重な、歴史的財産でもある「里帰り桜」を、将来にわたって大切に大きく守り育てていきましょう。
足立区」


<煉瓦舗道>
煉瓦舗道があります。


○宮城ファミリー公園 足立区宮城2-1-14
宮城ファミリー公園は「みやぎ水再生センター」の処理施設の屋上に作られています。かつて煉瓦工場があった場所です。公園入口は煉瓦と点字ブロックの赤黄色。公園は屋上にあるので階段で上がります。

公園を通り抜けて、隅田川左岸の隅田川テラスに降りますが、柵があって「浅間の渕」手前で行き止まりです。


<隅田川テラス> 北区豊島4丁目
対岸に行って、豊島橋から続く、隅田川右岸のテラスに降りました。こちらも豊島四丁目リバーサイド公園先で行き止まりです。
隅田川右岸のテラスから、向岸の「みやぎ水処理センター」を見たところです。

浅間の渕方向を見たところです。

豊島橋を振り返ったところです。

明治のはじめ頃(明治4年、あるいは明治8年とはっきりしない)、宮城村に下川煉化工場が創設されました。工場主は、下川馬次郎氏で、地元では「馬さん煉化」「馬さん工場」などと呼ばれました。 馬さんのお孫さんが建てた、石碑「馬さん煉化工場ノ跡」が、ご自宅玄関にあります。
(表面)「馬さん煉化工場ノ跡 煉化発祥ノ地」



(裏面)「明治十年内國勧業博覧会 褒状煉化石貳種
東京府管下宮城村 下川馬次郎
昭和六十一年三月吉日 下川清建之」



<煉瓦敷路地>
裏のアパートの路地は、煉瓦敷です。古い煉瓦も脇に用いられています。




<煉瓦造りの祠>
下川馬次郎氏が元宿堰の工事を請け負った際、夢枕に現れた狐のお告げにより、堰に使っている煉瓦と同じ煉瓦を使って小さな御堂を造り、土中から見つかった田中稲荷の石を祀ったのが、現在の元宿堰稲荷神です(こちらで記載)。
これに関連していると思われますし、この煉瓦造りの祠は神狐がおわしますし、稲荷社でしょう。





<水神>
隣の祠には「水神」が祀られています。


○阿出川家煉瓦造り蔵 足立区宮城1-36
大正10(1921)年建築の煉瓦造りの蔵です。木々が生い茂って、どこから見てもよく見えません。



正門、西門ともに煉瓦敷です。



<阿出川氏>
阿出川氏一族は小田原北条氏の家臣でしたが、主家の滅亡により帰農し、宮城村を開発しました。宮城氏がいなくなり荒廃していた性翁寺を元和2(1616)年に阿出川対馬守貞次が再興しています。性翁寺は阿出川氏一族の菩提寺となっています。(性翁寺はこちらで記載)
○南宮城公園と煉瓦舗道 足立区宮城1-27-5
宮城村は明治22(1889)年に9つの村が合併して江北村となり大字宮城となります。荒川放水路の開削で南北に2分された大字宮城は、昭和7(1932)年に北宮城町と南宮城町になりました。
南宮城公園は、現在の宮城の南に位置しているわけでもなく、南宮城町の時代に設けられた公園でしょう。煉瓦をモチーフとした公園です。





<ワシントンからの「里帰り桜」>
ワシントンからの「里帰り桜」が1本と、説明板があります。
(説明板)
「ワシントンからの「里帰り桜」
現在の足立区江北の一帯は、昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれた桜の名所でした。様々な品種の桜が植えられていて、花の時期には、白や黄色、淡紅や濃紅色などに彩られ、 五色の霞がたなびくように見えたところから、この名が付いたと言われています。
明治四十五年、当時の東京市長、尾崎行雄は日米友好の証として「荒川の五色桜」の苗木十二品種三千本を、アメリカの首都ワシントンに贈りました。 現在、市内のポトマック公園は、世界的な桜の名所となっています。
しかし、本家の「荒川の五色桜」は堤防の工事や戦争、公害等の影響で、残念ながら衰退してしまいました。
足立区では「五色桜」を復活させるために、昭和五十六年二月、区制五十周年記念事業として、ポトマック公園の桜の枝三十五品種三千本の里帰りを実現しました。この枝から苗木を増やし、あわせて「荒川の五色桜」に由来する品種を集め、区内の公園や学校などに植えました。新しい桜の名所として「都市農業公園」や「荒川桜づつみ」などがうまれています。
ここに植えられている桜は、これらの桜の一種です。貴重な、歴史的財産でもある「里帰り桜」を、将来にわたって大切に大きく守り育てていきましょう。
足立区」


<煉瓦舗道>
煉瓦舗道があります。


○宮城ファミリー公園 足立区宮城2-1-14
宮城ファミリー公園は「みやぎ水再生センター」の処理施設の屋上に作られています。かつて煉瓦工場があった場所です。公園入口は煉瓦と点字ブロックの赤黄色。公園は屋上にあるので階段で上がります。

公園を通り抜けて、隅田川左岸の隅田川テラスに降りますが、柵があって「浅間の渕」手前で行き止まりです。


<隅田川テラス> 北区豊島4丁目
対岸に行って、豊島橋から続く、隅田川右岸のテラスに降りました。こちらも豊島四丁目リバーサイド公園先で行き止まりです。
隅田川右岸のテラスから、向岸の「みやぎ水処理センター」を見たところです。

浅間の渕方向を見たところです。

豊島橋を振り返ったところです。

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荒木田の原/荒木田土
○荒木田の原/荒木田土
<荒木田土>
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いには、煉瓦の製造に適した土が入手しやすかったため、いくつもの煉瓦工場がありました。その煉瓦の製造に適していた土が、「荒木田土」です。
荒木田土は、荒川(現在の隅田川)が氾濫し流域に堆積した土で、その土質は粘り強く丸く角がない土です。壁土や今戸焼などの焼物の土として重宝されていました。
荒木田の原(現:東京都荒川区町屋)で採れる土が良質であったため、ブランド名となり荒木田土の名称で呼ばれます。現在は、園芸用の土として多く利用され、国技館の土俵や野球場のピッチャーマウンドにも用いられています。荒川区荒木田では荒木田土は採取できなくなり、名前だけが残っています。
(「荒川がもたらした恵み「荒木田土」」(国土交通省 関東地方整備局)を参照しました。)
<荒木田大根>
荒木田は汐入とともに、大根の産地でもありました。隅田川上流の荒木田地域で作られた二年子大根(晩秋に種子をまき、翌年の春に収穫)は「荒木田大根」と呼ばれ、下流の汐入地域で作られた大根は「汐入大根」と呼ばれました。(汐入大根はこちらで記載)
<説明板「荒木田の原」> 荒川区町屋8-17
都営町屋八丁目アパート前に説明板「荒木田の原」があります。


(説明板)
「荒木田の原
町屋八丁目・同一丁目のあたりは、字荒木田の名でよばれたところである。この地一帯は荒木田の原といわれ、春ともなればスミレやレンゲなどが咲き乱れて、江戸後期の文化・文政のころは市民遊楽の地であった。とくにスミレは有名で『江戸名所花暦』(文政十年刊)にも紹介されている。
またこのあたりの畑土は「荒木田土」とよばれ、壁土や焼物用として珍重された。
荒川区教育委員会」

<荒木田交差点> 荒川区町屋
交差点にも「荒木田」の名前が残っています。交番も「荒木田交番」です。


「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「荒木田原」が記載されています。「土ヲ荒木田ト云」と説明されています。
<荒木田土>
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いには、煉瓦の製造に適した土が入手しやすかったため、いくつもの煉瓦工場がありました。その煉瓦の製造に適していた土が、「荒木田土」です。
荒木田土は、荒川(現在の隅田川)が氾濫し流域に堆積した土で、その土質は粘り強く丸く角がない土です。壁土や今戸焼などの焼物の土として重宝されていました。
荒木田の原(現:東京都荒川区町屋)で採れる土が良質であったため、ブランド名となり荒木田土の名称で呼ばれます。現在は、園芸用の土として多く利用され、国技館の土俵や野球場のピッチャーマウンドにも用いられています。荒川区荒木田では荒木田土は採取できなくなり、名前だけが残っています。
(「荒川がもたらした恵み「荒木田土」」(国土交通省 関東地方整備局)を参照しました。)
<荒木田大根>
荒木田は汐入とともに、大根の産地でもありました。隅田川上流の荒木田地域で作られた二年子大根(晩秋に種子をまき、翌年の春に収穫)は「荒木田大根」と呼ばれ、下流の汐入地域で作られた大根は「汐入大根」と呼ばれました。(汐入大根はこちらで記載)
<説明板「荒木田の原」> 荒川区町屋8-17
都営町屋八丁目アパート前に説明板「荒木田の原」があります。


(説明板)
「荒木田の原
町屋八丁目・同一丁目のあたりは、字荒木田の名でよばれたところである。この地一帯は荒木田の原といわれ、春ともなればスミレやレンゲなどが咲き乱れて、江戸後期の文化・文政のころは市民遊楽の地であった。とくにスミレは有名で『江戸名所花暦』(文政十年刊)にも紹介されている。
またこのあたりの畑土は「荒木田土」とよばれ、壁土や焼物用として珍重された。
荒川区教育委員会」

<荒木田交差点> 荒川区町屋
交差点にも「荒木田」の名前が残っています。交番も「荒木田交番」です。


「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「荒木田原」が記載されています。「土ヲ荒木田ト云」と説明されています。

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tag : 煉瓦
煉瓦工場と荒川遊園
○煉瓦工場と荒川遊園 荒川区西尾久6-35
あらかわ遊園の入口、荒川遊園煉瓦塀の南西端に、説明板「煉瓦工場と荒川遊園」があります。
<煉瓦工場と荒川遊園>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財 煉瓦工場と荒川遊園
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦工場があった。土が煉瓦の製造に適していたことと、船運が期待されてのことである。
旭電化跡地(東尾久七丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦工場、華蔵院(東尾久八丁目)付近にあった鈴木煉瓦工場などである。なかでも古いのが、明治五年に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。
その跡地にできた「あらかわ遊園」は、大正十一年に開園した都内でも古い民営遊園地で、大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。太平洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和二十五年、区立荒川遊園として生まれ変わった。
荒川区教育委員会」



○荒川遊園煉瓦塀 (荒川区西尾久6-20、21、34付近) 荒川区文化財
荒川遊園の外側、小台橋保育園の脇(西尾久六丁目20)に続いている「荒川遊園煉瓦塀」の東南に説明板が設置されています。説明板の脇には。門柱の片方が残っています。
(説明板)
「荒川区登録有形文化財(建造物)
荒川遊園煉瓦塀
この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正十一年(一九二二)、荒川遊園地が開園した時に木の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、舟運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正十一年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された民営遊園地です。
その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和二十四年(一九四九)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。
令和二年(二○二○)三月 荒川区教育委員会」








<荒川遊園煉瓦塀>










<現在の煉瓦塀>
現在のあらかわ遊園を囲う煉瓦塀は、新しいものです。

○尾久図書館 荒川区東尾久8-45-4
尾久図書館の前に、「荒川遊園煉瓦塀」の一部が移設され、説明板が設置されています。
図書館の隣は宮前公園の南端ですが、送電塔が延々と続き、送電塔の周りは高層建物がないので、とても開放感のある光景がグッドです。
(説明板)
「荒川遊園煉瓦塀
この煉瓦塀は、西尾久6丁目に現存する「荒川遊園煉瓦塀」(区登録有形文化財)の一部を移設したものです。積み方は、煉瓦の短い目んを見せる“小口積み”と、長い面を見せる“長手積み”を、一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」という方法を用いています。
煉瓦製造は、尾久の近代を象徴する産業です。かつて尾久の隅田川沿いには、材料の土が入手しやすく、舟運の便がよかったことから、多くの煉瓦工場が設けられました。 その一つ、広岡煉瓦工場(のち王子煉瓦工場に改名)の跡地に、大正11年(1922)、荒川遊園が開園します。この時、木の塀から煉瓦塀に改修されたといわれ、今でも荒川遊園の周辺には煉瓦塀が残っています。
荒川区教育委員会」




○佐藤病院(旧小台通り) 荒川区西尾久5-7-1
旧小台通りにある佐藤病院に、煉瓦塀があります。山本煉瓦工場の刻印が見られます。長方形に山本と、山に本の2種類の「山本」の刻印があります。












○煉瓦造神輿庫 北区堀船4-13-28 船方神社
船方神社境内の左手に煉瓦造の神輿庫があります。「奉納 廣岡幾次郎」とあります。あらかわ遊園に、かつて広岡煉瓦工場がありました。 煉瓦は広岡煉瓦工場製のものと考えるのが自然でしょう。


あらかわ遊園の入口、荒川遊園煉瓦塀の南西端に、説明板「煉瓦工場と荒川遊園」があります。
<煉瓦工場と荒川遊園>
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財 煉瓦工場と荒川遊園
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦工場があった。土が煉瓦の製造に適していたことと、船運が期待されてのことである。
旭電化跡地(東尾久七丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦工場、華蔵院(東尾久八丁目)付近にあった鈴木煉瓦工場などである。なかでも古いのが、明治五年に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。
その跡地にできた「あらかわ遊園」は、大正十一年に開園した都内でも古い民営遊園地で、大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。太平洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和二十五年、区立荒川遊園として生まれ変わった。
荒川区教育委員会」



○荒川遊園煉瓦塀 (荒川区西尾久6-20、21、34付近) 荒川区文化財
荒川遊園の外側、小台橋保育園の脇(西尾久六丁目20)に続いている「荒川遊園煉瓦塀」の東南に説明板が設置されています。説明板の脇には。門柱の片方が残っています。
(説明板)
「荒川区登録有形文化財(建造物)
荒川遊園煉瓦塀
この煉瓦塀は、荒川遊園を取り囲んでいた塀の一部です。南端には一対あった門柱の片方が残っています。煉瓦の積み方は、煉瓦の小口を見せる小口積みと、長手を見せる長手積みとを一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」です。古老の手記によると、大正十一年(一九二二)、荒川遊園地が開園した時に木の塀から煉瓦塀に改修されたといいます。
かつて尾久地区の隅田川沿いには、材料の土が入手し易く、舟運の便が良かったため、いくつもの煉瓦工場が設けられました。その一つ、広岡(後、王子に改名)煉瓦工場の跡地に、大正十一年、荒川遊園が開園しました。広岡幾次郎をはじめとする地元有志により、市民の精神の慰安と身体の健康増進のために設置された民営遊園地です。
その後、王子電車への乗客誘致を目的として、王子電気軌道株式会社が荒川遊園の経営に参入しました。戦時中は、閉園を余儀なくされましたが、昭和二十四年(一九四九)、荒川区立の遊園地として再スタートしました。
敷地の一部は戦後間もなく宅地化され、以来、煉瓦塀は宅地の境界や盛土のための土留めとして利用され今日に至ります。
荒川遊園煉瓦塀は、近代的な景観をとどめる遺構として歴史的価値が高い貴重な文化財です。また、連続する煉瓦塀が作りだす景観はこの地域独自の風景として長年親しまれており、貴重な風景遺産でもあります。
令和二年(二○二○)三月 荒川区教育委員会」








<荒川遊園煉瓦塀>










<現在の煉瓦塀>
現在のあらかわ遊園を囲う煉瓦塀は、新しいものです。

○尾久図書館 荒川区東尾久8-45-4
尾久図書館の前に、「荒川遊園煉瓦塀」の一部が移設され、説明板が設置されています。
図書館の隣は宮前公園の南端ですが、送電塔が延々と続き、送電塔の周りは高層建物がないので、とても開放感のある光景がグッドです。
(説明板)
「荒川遊園煉瓦塀
この煉瓦塀は、西尾久6丁目に現存する「荒川遊園煉瓦塀」(区登録有形文化財)の一部を移設したものです。積み方は、煉瓦の短い目んを見せる“小口積み”と、長い面を見せる“長手積み”を、一段おきに繰り返し積む「イギリス積み」という方法を用いています。
煉瓦製造は、尾久の近代を象徴する産業です。かつて尾久の隅田川沿いには、材料の土が入手しやすく、舟運の便がよかったことから、多くの煉瓦工場が設けられました。 その一つ、広岡煉瓦工場(のち王子煉瓦工場に改名)の跡地に、大正11年(1922)、荒川遊園が開園します。この時、木の塀から煉瓦塀に改修されたといわれ、今でも荒川遊園の周辺には煉瓦塀が残っています。
荒川区教育委員会」




○佐藤病院(旧小台通り) 荒川区西尾久5-7-1
旧小台通りにある佐藤病院に、煉瓦塀があります。山本煉瓦工場の刻印が見られます。長方形に山本と、山に本の2種類の「山本」の刻印があります。












○煉瓦造神輿庫 北区堀船4-13-28 船方神社
船方神社境内の左手に煉瓦造の神輿庫があります。「奉納 廣岡幾次郎」とあります。あらかわ遊園に、かつて広岡煉瓦工場がありました。 煉瓦は広岡煉瓦工場製のものと考えるのが自然でしょう。



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tag : 煉瓦
旧万世橋駅 万世橋 萬代橋
○旧万世橋駅 千代田区神田須田町1-25-4(マーチエキュート神田万世橋内) HP
交通博物館が2006年5月14日に閉館。旧万世橋駅の遺構は、プラットホームが展望デッキ「2013プラットホーム」として開放され、ホームに上がるふたつの階段も、公開されています。
<2013プラットホーム>
万世橋駅の開業時(明治45年)に作られたホームです。両脇を中央線が行き交います。駅ではないので、通過していく列車は迫力あります。


<旧万世橋駅ホーム上屋基礎>
(説明板)
「旧万世橋駅 プラットホーム上屋基礎
2013プラットホームの工事の際、旧万世橋駅ホーム土中から、古レールを転用して作られたプラットホーム上屋基礎が発見されました。
その一部を保存し、ここに展示しています。 旧万世橋駅」



<1912階段>
万世橋駅開業当時に作られた階段です。

(説明板)
「旧万世橋駅 1912階段
1912(明治45)年4月、万世橋駅開業時に作られた階段で、鉄道博物館(後の交通博物館)開館から1943(昭和18)年の駅休止までは、ホームから直接入館できる特別来館口でした。
階段は花崗岩や稲田石を削りだした重厚なものですが、踊り場は当時の新素材であるコンクリートが使われ、壁面のタイルも、覆輪目地(ふくりんめじ)という高級な施工がされているのも特徴
です。 旧万世橋駅」

<1935階段>
鉄道博物館の建設に伴い1935(昭和10)年に増設された階段です。





○万世橋 千代田区外神田〜千代田区神田須田町
<現在の万世橋>
最初は明治17(1884)年に架けられた木橋で「昌平橋」と呼ばれ、その後、「新万世橋」→「万世橋」と名称を変えました。
明治36(1903)年に鉄橋に改架、関東大震災で被害を受け、昭和5(1930)年に帝都復興事業で架け替えられました。



橋名板「萬世橋」「昭和五年三月完成」


汽車と燈籠


神田川下流

神田川上流


(説明板)
「万世橋
現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門がありました。1872年(明治5年)に門が撤去されその石材を用いて架けられたのが萬代橋(萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。
1903年(明治36年)、現在の位地に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は1906年に撤去されました。現在の橋は関東大震災後の1930年(昭和5年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が1912年(明治45年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝としてたいへんな賑わいを見せました。」




<震災復興と万世橋>
(説明板)
「震災復興と万世橋
明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。この橋は、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
明治36年(1903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、後に撤去された。この新しい万世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。
現在神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架けられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川にある震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見出すことができる。」

○萬代橋(萬世橋、よろずよばし)
明治5(1872)年、筋違橋門が取り壊され、桝形石垣を利用して、
明治6(1873)年、門の跡に東京最初の石橋(石造二連アーチ)の萬代橋(よろずよばし→万世橋→元万世橋と変遷)が架橋されました。
明治36(1903)年、新万世橋が鉄橋に改架され、
明治39(1906)年、元万世橋は撤去されました。
<橋名を刻んだ親柱>
親柱が神田神社の境内に保存されています。


「東京神田萬世橋賑之圖」(昇齋一景 明治7(1874)年)
新しくできた石橋は賑わったようです。

「東京名所図会 筋違万代橋」(三代広重)
新しくできた石橋は名所となったようです。

「東京開化三十六景 旧聖堂より萬世橋を見る」(三代広重)
新しくできた石橋は東京開化三十六景として描かれています。

「萬代橋朝日出」(小林清親 明治13(1880)年)
神田川の西から、萬代橋と税務局が描かれています。
日の出の空は、奥の赤味から明るくなってきています。雲が黄色く輝いています。

「萬代橋雨ノ景」(井上安治)

「東京名所帖 萬世橋」(井上探景(安治))
石橋の上を路面電車が走っています。

交通博物館が2006年5月14日に閉館。旧万世橋駅の遺構は、プラットホームが展望デッキ「2013プラットホーム」として開放され、ホームに上がるふたつの階段も、公開されています。
<2013プラットホーム>
万世橋駅の開業時(明治45年)に作られたホームです。両脇を中央線が行き交います。駅ではないので、通過していく列車は迫力あります。


<旧万世橋駅ホーム上屋基礎>
(説明板)
「旧万世橋駅 プラットホーム上屋基礎
2013プラットホームの工事の際、旧万世橋駅ホーム土中から、古レールを転用して作られたプラットホーム上屋基礎が発見されました。
その一部を保存し、ここに展示しています。 旧万世橋駅」



<1912階段>
万世橋駅開業当時に作られた階段です。

(説明板)
「旧万世橋駅 1912階段
1912(明治45)年4月、万世橋駅開業時に作られた階段で、鉄道博物館(後の交通博物館)開館から1943(昭和18)年の駅休止までは、ホームから直接入館できる特別来館口でした。
階段は花崗岩や稲田石を削りだした重厚なものですが、踊り場は当時の新素材であるコンクリートが使われ、壁面のタイルも、覆輪目地(ふくりんめじ)という高級な施工がされているのも特徴
です。 旧万世橋駅」

<1935階段>
鉄道博物館の建設に伴い1935(昭和10)年に増設された階段です。





○万世橋 千代田区外神田〜千代田区神田須田町
<現在の万世橋>
最初は明治17(1884)年に架けられた木橋で「昌平橋」と呼ばれ、その後、「新万世橋」→「万世橋」と名称を変えました。
明治36(1903)年に鉄橋に改架、関東大震災で被害を受け、昭和5(1930)年に帝都復興事業で架け替えられました。



橋名板「萬世橋」「昭和五年三月完成」


汽車と燈籠


神田川下流

神田川上流


(説明板)
「万世橋
現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門がありました。1872年(明治5年)に門が撤去されその石材を用いて架けられたのが萬代橋(萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。
1903年(明治36年)、現在の位地に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は1906年に撤去されました。現在の橋は関東大震災後の1930年(昭和5年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が1912年(明治45年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝としてたいへんな賑わいを見せました。」




<震災復興と万世橋>
(説明板)
「震災復興と万世橋
明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。この橋は、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
明治36年(1903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、後に撤去された。この新しい万世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。
現在神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架けられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川にある震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見出すことができる。」

○萬代橋(萬世橋、よろずよばし)
明治5(1872)年、筋違橋門が取り壊され、桝形石垣を利用して、
明治6(1873)年、門の跡に東京最初の石橋(石造二連アーチ)の萬代橋(よろずよばし→万世橋→元万世橋と変遷)が架橋されました。
明治36(1903)年、新万世橋が鉄橋に改架され、
明治39(1906)年、元万世橋は撤去されました。
<橋名を刻んだ親柱>
親柱が神田神社の境内に保存されています。


「東京神田萬世橋賑之圖」(昇齋一景 明治7(1874)年)
新しくできた石橋は賑わったようです。

「東京名所図会 筋違万代橋」(三代広重)
新しくできた石橋は名所となったようです。

「東京開化三十六景 旧聖堂より萬世橋を見る」(三代広重)
新しくできた石橋は東京開化三十六景として描かれています。

「萬代橋朝日出」(小林清親 明治13(1880)年)
神田川の西から、萬代橋と税務局が描かれています。
日の出の空は、奥の赤味から明るくなってきています。雲が黄色く輝いています。

「萬代橋雨ノ景」(井上安治)

「東京名所帖 萬世橋」(井上探景(安治))
石橋の上を路面電車が走っています。

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