山武と与謝野鉄幹一家
○蓮沼シーサイドイン小川荘 山武市蓮沼ホ601
旧蓮沼村殿下の小川新兵衛は、与謝野鉄幹を歌の師とし、大正2年の頃から夏になると与謝野鉄幹・晶子一家を、書斎として建築した「水荘」に別荘として招いていました。
別荘の近くにある民宿小川荘の駐車場に、鉄幹自筆の歌碑があります。





<与謝野鉄幹歌碑>
(碑文)
「きわやかに 黒きはだかの わだかげを まひるの土にうつす 天っ日 与謝野寛」
(裏面)
「大正二年 鉄幹は夫人晶子並びに五人の子を同行し蓮沼村殿下 網元小川新兵衛氏宅に遊び 九十九里浜の素朴をこよなく愛しこの詩も小川家に残した在りし日の一首である。
昭和五十八年十月四日 小川汀香 建立」



<堀進二作 天地開明 昭和五十八年十月四日 建立>
与謝野鉄幹歌碑と伊藤左千夫歌碑の中央に、堀進二作「天地開明」。


<伊藤左千夫歌碑>
(碑文)
「砂原と空とより合ふ九十九里の磯ゆく人ら蟻のごとしも 伊藤左千夫」
(裏面)
「伊藤左千夫は成東町の出身 明治三十三年正岡子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍 アララギ派興隆の基礎を作る
碑の歌は明治四十二年 九十九里浜に遊んだ際の作で左千夫の絶唱とされている
昭和五十八年十月四日 小川汀香 建立」




○観光案内所 わが街ご案内処 山武市津辺361-13
「観光案内所 わが街ご案内処」が成東駅前にあります。
画像は、「いちごの里成東 千葉県山武市」
旧蓮沼村殿下の小川新兵衛は、与謝野鉄幹を歌の師とし、大正2年の頃から夏になると与謝野鉄幹・晶子一家を、書斎として建築した「水荘」に別荘として招いていました。
別荘の近くにある民宿小川荘の駐車場に、鉄幹自筆の歌碑があります。





<与謝野鉄幹歌碑>
(碑文)
「きわやかに 黒きはだかの わだかげを まひるの土にうつす 天っ日 与謝野寛」
(裏面)
「大正二年 鉄幹は夫人晶子並びに五人の子を同行し蓮沼村殿下 網元小川新兵衛氏宅に遊び 九十九里浜の素朴をこよなく愛しこの詩も小川家に残した在りし日の一首である。
昭和五十八年十月四日 小川汀香 建立」



<堀進二作 天地開明 昭和五十八年十月四日 建立>
与謝野鉄幹歌碑と伊藤左千夫歌碑の中央に、堀進二作「天地開明」。


<伊藤左千夫歌碑>
(碑文)
「砂原と空とより合ふ九十九里の磯ゆく人ら蟻のごとしも 伊藤左千夫」
(裏面)
「伊藤左千夫は成東町の出身 明治三十三年正岡子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍 アララギ派興隆の基礎を作る
碑の歌は明治四十二年 九十九里浜に遊んだ際の作で左千夫の絶唱とされている
昭和五十八年十月四日 小川汀香 建立」




○観光案内所 わが街ご案内処 山武市津辺361-13
「観光案内所 わが街ご案内処」が成東駅前にあります。
画像は、「いちごの里成東 千葉県山武市」

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
旧文化学院
〇旧文化学院 千代田区神田駿河台2-5
文化学院は、与謝野寛、晶子らによって創設され、2018(平成30)年に閉校しました。
アーチの入口部分が保存されています。
与謝野鉄幹の告別式は文化学院において行われました。北原白秋が弔辞を読みました。
与謝野鉄幹・晶子と北原白秋の墓は、多磨霊園内にお互い近くにあります。







<瑠璃光より>「瑠璃光」与謝野晶子著 アルス出版 大正14年
大正12(1923)年9月1日、関東大震災で文化学院は焼失します。
与謝野晶子が文化学院に保管していた『新新訳源氏物語』の原稿も焼失します。
歌集「瑠璃光」に関東大震災について多く歌われていますが、文化学院部分を抜粋します。
「きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰
焼けはてし彼処此処にも立ちまさり心悲しき学院の跡
十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰
わが心旅人よりも哀れなり焼けたるのちの駿河台行き」
文化学院は、与謝野寛、晶子らによって創設され、2018(平成30)年に閉校しました。
アーチの入口部分が保存されています。
与謝野鉄幹の告別式は文化学院において行われました。北原白秋が弔辞を読みました。
与謝野鉄幹・晶子と北原白秋の墓は、多磨霊園内にお互い近くにあります。







<瑠璃光より>「瑠璃光」与謝野晶子著 アルス出版 大正14年
大正12(1923)年9月1日、関東大震災で文化学院は焼失します。
与謝野晶子が文化学院に保管していた『新新訳源氏物語』の原稿も焼失します。
歌集「瑠璃光」に関東大震災について多く歌われていますが、文化学院部分を抜粋します。
「きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰
焼けはてし彼処此処にも立ちまさり心悲しき学院の跡
十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰
わが心旅人よりも哀れなり焼けたるのちの駿河台行き」

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湊公園(与謝野晶子文学碑 夤賓閣址) 海門橋
○湊公園 ひたちなか市湊中央1-1-1
<湊公園について>
(説明板)
「 湊公園について
湊公園は水戸藩第二代藩主徳川光圀(黄門様)が元禄十一年(一六九八)に建てた別邸跡です。光圀はこの別邸を謹んで客人を迎えるという意味から「い賓閣」と名付け、歴代藩主の静養や接待のほか、海防の要衝として使われました。夤賓閣は、湊御殿・御浜御殿とも称されたことから、この海を臨むこの台地は御殿山、あるいは日和山とも呼ばれます。
園内の枝ぶりがみごとな黒松は、光圀が御殿の庭園に植えるために須磨明石(兵庫県)から取り寄せたものと伝えられ、江戸時代の絵図にも描かれていることから、樹齢は三百年を超えると推定されます。
(中略。建物は、元治元(1864年)年の天狗党の乱で焼失、現在は湊公園となっていることなどを記載。)
港の見える松の公園として親しまれ、光圀はこの地から見た中秋の名月を「名に高き月をみなとの浦風に雲もあとなくはるるそら哉」と詠んでいます。東に太平洋の海原、南には那珂川の流れと常陸野に続く筑波山が一望できるほか、秋冬の朝夕にははるかに富士山を望むこともできます。




<みなとの散歩道>
多目的広場の左手奥に日和見山と夤賓閣、右手奥の丘に文学碑があります。


<与謝野晶子・小山いと子文学碑>
与謝野晶子が海門橋を短歌で詠み、小山いと子は小説「海門橋」で海門橋を描いています。
文学碑は海門橋の見える湊公園の高台にあります。
(晶子)
「那珂川の海に入りなるいやはての海門橋の白き夕ぐれ 晶子」
(小山いと子)
「那珂川の水は青く澄み、飛んでゆくかもめの羽影をさへうつしさうに見える。橋は静かな影を水に落としてゐるのだ。東の方は白雲の飛びゆく限りは際涯もない太平洋だ。 小山いと子」





「 碑誌
与謝野晶子は大正八年の秋水戸から湊町に遊び
那珂川の海に入りなるいやはての海門橋の白き夕ぐれ
大海の波もとゞろと来て鳴らす海門橋の橋ばしらかな
の二首を詠まれその雄大な景観を賞された
小山いと子は昭和6年夏以来再三那珂湊を訪れ
特に海門橋に興を覚え昭和八年その処女作「海門橋」を
その後「海は満つることなし」などを発表された
いま東京杉並に住まわれ女流文学者として健筆をふるわれている
書は特に乞うて先生の真筆を煩わした
昭和五十五年三月
建立 那珂湊市長 薄井三郎
撰 柴田 進
書 宮内勝寿
石工 福地徳四郎 」

<「晶子鑑賞」(平野萬里)>
平野萬里は、 「わだつみの波もとどろと来て鳴らす海門橋の橋柱かな」を選定し解説しています。
「大海」は「わだつみ」と読むようです?。
「おなじ折の歌。那珂川の河口にある橋であらう。いかにも波が来て鳴つてゐるやうな調子である。そのよさが分りたいなら野に出て秋風を三誦するに限る。」と解説しています。
<与謝野鉄幹・晶子の大洗訪問>
鉄幹・晶子の書簡によると、大正8(1919)年9月8日上野発、同日大洗で1泊・歌会を予定しています。晶子は海門橋で2句、大洗海岸で5句詠んでいます。
<海門橋>
場所が限られますが、海門橋が見えます。



<湊八景 日和山秋月>
徳川光圀公はこの地から見た中秋の名月を、
「名に高き月をみなとの浦風に雲もあとなくはるるそら哉」と詠んでいます。



<夤賓閣>
(説明板)
「 ひたちなか市指定史跡 夤賓閣跡
夤賓閣は、元禄11年(1698)に徳川光圀(水戸藩第2代藩主)が建てた別荘で、湊御殿、湊別館、お浜御殿とも呼ばれていた。
夤賓とは、堯典(中国の書)の「夤賓日出‥‥」(夤しんで日出づるを導く)ことからとり、夤賓閣とは客待所という意味をもっている。
建坪は、約300坪(1,000㎡)を有する広大なもので、建物は一部分が2階建ての豪壮な造りであったと推定されており、歴代の藩主らによって酒宴や詩歌の会が催された。
また、この高台の後方には、海防見張番(異国船番所)も置かれ、お水主士の人びとが海防にあたっていた。
その後、夤賓閣は、元治甲子の乱(1864)で焼失したが、明治30年に湊公園として整備された。
指定日 昭和43年1月16日
設置者 ひたちなか教育委員会 」



<夤賓閣址 源圀順>
水戸家13代当主徳川圀順の書です。昭和13年建立。



<湊御殿の松> 天然記念物
徳川光圀公が須磨明石(兵庫県明石市)から取り寄せ、夤賓閣の庭に植えた黒松です。現在12株が残っています。



<宮原庄助翁像>




○那珂湊天満宮 ひたちなか市湊中央1-2-1
湊公園に向かう途中右手にあります。大きな鳥居で思わず写真を撮りました。
2年に一度開催される湊那珂天満宮の祭礼である「みなと八朔まつり」は、市指定無形民族文化財です。


○海門橋 ひたちなか市海門町⇔大洗町磯浜町
海門橋は那珂川の最下流に架かり、那珂湊と大洗を結ぶ赤い橋です。
与謝野晶子の歌にも詠まれています。
橋の真中にキラキラドリームベルという鐘があります。







<巌船一里塚ロードパーク> 大洗町磯浜町8037
海門橋の大洗側にあります。
<開門橋諸元標>

<茨城船甚句之碑>

<ながれ/茨城県硫黄島戦没者之碑>

<湊公園について>
(説明板)
「 湊公園について
湊公園は水戸藩第二代藩主徳川光圀(黄門様)が元禄十一年(一六九八)に建てた別邸跡です。光圀はこの別邸を謹んで客人を迎えるという意味から「い賓閣」と名付け、歴代藩主の静養や接待のほか、海防の要衝として使われました。夤賓閣は、湊御殿・御浜御殿とも称されたことから、この海を臨むこの台地は御殿山、あるいは日和山とも呼ばれます。
園内の枝ぶりがみごとな黒松は、光圀が御殿の庭園に植えるために須磨明石(兵庫県)から取り寄せたものと伝えられ、江戸時代の絵図にも描かれていることから、樹齢は三百年を超えると推定されます。
(中略。建物は、元治元(1864年)年の天狗党の乱で焼失、現在は湊公園となっていることなどを記載。)
港の見える松の公園として親しまれ、光圀はこの地から見た中秋の名月を「名に高き月をみなとの浦風に雲もあとなくはるるそら哉」と詠んでいます。東に太平洋の海原、南には那珂川の流れと常陸野に続く筑波山が一望できるほか、秋冬の朝夕にははるかに富士山を望むこともできます。




<みなとの散歩道>
多目的広場の左手奥に日和見山と夤賓閣、右手奥の丘に文学碑があります。


<与謝野晶子・小山いと子文学碑>
与謝野晶子が海門橋を短歌で詠み、小山いと子は小説「海門橋」で海門橋を描いています。
文学碑は海門橋の見える湊公園の高台にあります。
(晶子)
「那珂川の海に入りなるいやはての海門橋の白き夕ぐれ 晶子」
(小山いと子)
「那珂川の水は青く澄み、飛んでゆくかもめの羽影をさへうつしさうに見える。橋は静かな影を水に落としてゐるのだ。東の方は白雲の飛びゆく限りは際涯もない太平洋だ。 小山いと子」





「 碑誌
与謝野晶子は大正八年の秋水戸から湊町に遊び
那珂川の海に入りなるいやはての海門橋の白き夕ぐれ
大海の波もとゞろと来て鳴らす海門橋の橋ばしらかな
の二首を詠まれその雄大な景観を賞された
小山いと子は昭和6年夏以来再三那珂湊を訪れ
特に海門橋に興を覚え昭和八年その処女作「海門橋」を
その後「海は満つることなし」などを発表された
いま東京杉並に住まわれ女流文学者として健筆をふるわれている
書は特に乞うて先生の真筆を煩わした
昭和五十五年三月
建立 那珂湊市長 薄井三郎
撰 柴田 進
書 宮内勝寿
石工 福地徳四郎 」

<「晶子鑑賞」(平野萬里)>
平野萬里は、 「わだつみの波もとどろと来て鳴らす海門橋の橋柱かな」を選定し解説しています。
「大海」は「わだつみ」と読むようです?。
「おなじ折の歌。那珂川の河口にある橋であらう。いかにも波が来て鳴つてゐるやうな調子である。そのよさが分りたいなら野に出て秋風を三誦するに限る。」と解説しています。
<与謝野鉄幹・晶子の大洗訪問>
鉄幹・晶子の書簡によると、大正8(1919)年9月8日上野発、同日大洗で1泊・歌会を予定しています。晶子は海門橋で2句、大洗海岸で5句詠んでいます。
<海門橋>
場所が限られますが、海門橋が見えます。



<湊八景 日和山秋月>
徳川光圀公はこの地から見た中秋の名月を、
「名に高き月をみなとの浦風に雲もあとなくはるるそら哉」と詠んでいます。



<夤賓閣>
(説明板)
「 ひたちなか市指定史跡 夤賓閣跡
夤賓閣は、元禄11年(1698)に徳川光圀(水戸藩第2代藩主)が建てた別荘で、湊御殿、湊別館、お浜御殿とも呼ばれていた。
夤賓とは、堯典(中国の書)の「夤賓日出‥‥」(夤しんで日出づるを導く)ことからとり、夤賓閣とは客待所という意味をもっている。
建坪は、約300坪(1,000㎡)を有する広大なもので、建物は一部分が2階建ての豪壮な造りであったと推定されており、歴代の藩主らによって酒宴や詩歌の会が催された。
また、この高台の後方には、海防見張番(異国船番所)も置かれ、お水主士の人びとが海防にあたっていた。
その後、夤賓閣は、元治甲子の乱(1864)で焼失したが、明治30年に湊公園として整備された。
指定日 昭和43年1月16日
設置者 ひたちなか教育委員会 」



<夤賓閣址 源圀順>
水戸家13代当主徳川圀順の書です。昭和13年建立。



<湊御殿の松> 天然記念物
徳川光圀公が須磨明石(兵庫県明石市)から取り寄せ、夤賓閣の庭に植えた黒松です。現在12株が残っています。



<宮原庄助翁像>




○那珂湊天満宮 ひたちなか市湊中央1-2-1
湊公園に向かう途中右手にあります。大きな鳥居で思わず写真を撮りました。
2年に一度開催される湊那珂天満宮の祭礼である「みなと八朔まつり」は、市指定無形民族文化財です。


○海門橋 ひたちなか市海門町⇔大洗町磯浜町
海門橋は那珂川の最下流に架かり、那珂湊と大洗を結ぶ赤い橋です。
与謝野晶子の歌にも詠まれています。
橋の真中にキラキラドリームベルという鐘があります。







<巌船一里塚ロードパーク> 大洗町磯浜町8037
海門橋の大洗側にあります。
<開門橋諸元標>

<茨城船甚句之碑>

<ながれ/茨城県硫黄島戦没者之碑>

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与謝野寛・晶子墓 北原白秋墓 田山花袋墓
○与謝野寛・晶子墓 多磨霊園11区1種10側14番
与謝野晶子の短歌は、その土地の温泉文化遺産を踏まえた短歌で教えられること多々でした。ヘビースモーカーぶりもうかがえました。寛の短歌は晶子ほどには温泉を楽しんでなく晶子を心配する歌が印象に残ります。
左側が寛(鉄幹)の墓。右側が晶子の墓です。
与謝野寛の告別式では、北原白秋が弔辞を読んでいます。
北原白秋の墓も近くにあります。





<歌碑2基>
墓所入口の左右に歌碑があります。
「知りがたき こともおほかた知りつくし 今なにを見る 大空を見る 寛」
「皐月よし 野山のわか葉 光満ち 末も終りも なき世の如く 晶子」


<台座歌>
大理石の台座の上に晶子の筆でお互いの歌が刻まれ献じられています。
・寛の墓前に晶子の歌
「なには津に 咲く木の花の 道なれど むぐらしげりて 君が行くまで」


・晶子の墓前に寛の歌
「今日もまた すぎし昔と なりたらば 並びて寝ねん 西のむさし野」


○北原白秋墓 多摩霊園10区1種2側6番
北原白秋のかんぴょうの歌が衝撃的でした。
「北原白秋墓」と左隣りに「北原家墓」が並んで建っています。





○田山花袋之墓 多摩霊園12区2種31側24番
田山花袋の温泉本にはお世話になりました。
栃木県邑楽郡館林町(群馬県館林市)出身。栃木出身なのか群馬出身なのか微妙と感じます。
薄ピンクの墓石に、島崎藤村筆「田山花袋墓」と刻まれています。
裏面は田山花袋の戒名が刻まれているようですが読みとれません。
墓所左側に「田山家之墓」が建っています。









与謝野晶子の短歌は、その土地の温泉文化遺産を踏まえた短歌で教えられること多々でした。ヘビースモーカーぶりもうかがえました。寛の短歌は晶子ほどには温泉を楽しんでなく晶子を心配する歌が印象に残ります。
左側が寛(鉄幹)の墓。右側が晶子の墓です。
与謝野寛の告別式では、北原白秋が弔辞を読んでいます。
北原白秋の墓も近くにあります。





<歌碑2基>
墓所入口の左右に歌碑があります。
「知りがたき こともおほかた知りつくし 今なにを見る 大空を見る 寛」
「皐月よし 野山のわか葉 光満ち 末も終りも なき世の如く 晶子」


<台座歌>
大理石の台座の上に晶子の筆でお互いの歌が刻まれ献じられています。
・寛の墓前に晶子の歌
「なには津に 咲く木の花の 道なれど むぐらしげりて 君が行くまで」


・晶子の墓前に寛の歌
「今日もまた すぎし昔と なりたらば 並びて寝ねん 西のむさし野」


○北原白秋墓 多摩霊園10区1種2側6番
北原白秋のかんぴょうの歌が衝撃的でした。
「北原白秋墓」と左隣りに「北原家墓」が並んで建っています。





○田山花袋之墓 多摩霊園12区2種31側24番
田山花袋の温泉本にはお世話になりました。
栃木県邑楽郡館林町(群馬県館林市)出身。栃木出身なのか群馬出身なのか微妙と感じます。
薄ピンクの墓石に、島崎藤村筆「田山花袋墓」と刻まれています。
裏面は田山花袋の戒名が刻まれているようですが読みとれません。
墓所左側に「田山家之墓」が建っています。









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与謝野晶子「松戸の丘」
○千葉大園芸学部 与謝野晶子歌碑 松戸市松戸657A棟
戸定が丘歴史公園の隣りにある千葉大学園芸学部キャンパスには、フランス式庭園や、イタリア式、イギリス式などの庭園があります。






<松戸訪問>
与謝野晶子は大正13(1924)年6月に千葉県立高等園芸学校(現千葉大園芸学部)を訪れ短歌60首を詠み、『明星』(大正13年7月)に「松戸の丘」50首が、『週刊朝日』(大正13年7月6日号)に「或る日」10首が発表されました。
画家、板倉鼎・須美子夫妻の媒酌人を、与謝野寛・晶子夫妻が務めていて(大正14(1925)年11月)板倉鼎が松戸町一丁目に住んでいたことからの結婚式の打ち合わせなどで与謝野夫妻が来たのではないかといわれています。
<「晶子鑑賞」平野萬里>
「時は午路の上には日影散り畑の土には雛罌粟の散る」
これは近代感覚を欠く人には一寸分るまい。ワン・ゴオクの向日葵に見るやうな強烈な白いほどの日光と真赤なひなげしの葩の交錯する画面で、色彩二重奏といふほどのもの。さうしてそれ以外の何物でもないから、古い歌の概念で臨んだのでは分りつこはない。
「花園は女の遊ぶ所とて我をまねばぬ一草もなし」
これは松戸の園芸学校の花畑を歌つたものである。季節は虞美人草の咲く初夏のことであつた。百花繚爛目の覚める様な花畑の中に立つた作者が自分の女であることを喜びながら一々の花に会釈し廻る趣きである。
ひなげしの小径から



<「註釈與謝野寛全集」與謝野晶子>
「いろいろの波斯のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑」
松戸の高等園芸学校の花畑であらう。色彩の多い、そして直線が主になつて出来た模様のペルシヤの更紗の其れをまた種類も幾つも混ぜて、四角に、長方形に岡へ切りはめたやうに畑の見えたのも、時季が多様な花に満ちた初夏だからであつたであらう。
ひなげしの小径から



<与謝野晶子歌碑>
フランス式庭園に面するA棟脇のヒマラヤ杉の中に与謝野晶子の歌碑が建っています。
「丘の上雲母の色の江戸川の 見ゆるあたりの一むらの罌粟」
「うすものの女の友を待ちえたる 松戸の丘のひなげしの花 晶子」
(雲母=きらら 罌粟=けし)
(説明板)
「 与謝野晶子歌碑
大正13年初夏、近代日本を代表する女流歌人・与謝野晶子が松戸の園芸学校に遊び、短歌60首を詠みました。
与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会では、園芸学部創立100周年を祝し、平成20年以来、晶子の歌碑を建立する市民運動を展開し、平成21年11月1日にこの歌碑を建立いたしました。
なお、この歌碑は、晶子来校時に現在のA棟の位置にあった講堂の礎石を使用しています。
この緑あふれる松戸の丘から、文化の華が拡がり咲き乱れることを祈念いたします。
与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会 」




<赤星先生像>
高村光太郎が千恵子の看病で大変な時期に作成された像です。戦時供出のため現存していません。
「1909年に開校した千葉県立園芸専門学校(1914年に千葉県立高等園芸学校に改称)の2代目校長、1929年に文部省に移管され官立千葉高等園芸学校に改組されてからは初代校長として、19年6ヵ月にわたり学校運営に尽力した赤星朝暉氏の功績を称え1936年に建立されました。胸像の制作は彫刻家 高村光太郎氏、台座は相川要一氏の設計によります。以前は銅像でしたが戦時中の物資不足の際に軍用資材として差し出したため、現在の胸像は1951年に再建したものです。」(千葉大学HPより引用)



○維新の志士 従五位竹内啓先生の墓
千葉大学園芸学部旧正門の横に、説明板「維新の志士 従五位竹内啓先生の墓」があります。


近くに観音堂の小さな祠があります。

<竹之内啓之奥城>
旧正門から戸定邸の脇を通って一般道に出る小路を進むと、「竹之内啓之奥城」があります。
2基並んでいる石碑の左です。


<弘法大師像>
弘法大師像(秀海講)があります。
秀海講の第二十一番礼所のようです。


<弘法大師線画>
弘法大師の線画が描かれており、秀海講とあります。
明治44年3月の建立です。当時は秀海講が設けた弘法大師礼所めぐりが盛んだったようです。



戸定が丘歴史公園の隣りにある千葉大学園芸学部キャンパスには、フランス式庭園や、イタリア式、イギリス式などの庭園があります。






<松戸訪問>
与謝野晶子は大正13(1924)年6月に千葉県立高等園芸学校(現千葉大園芸学部)を訪れ短歌60首を詠み、『明星』(大正13年7月)に「松戸の丘」50首が、『週刊朝日』(大正13年7月6日号)に「或る日」10首が発表されました。
画家、板倉鼎・須美子夫妻の媒酌人を、与謝野寛・晶子夫妻が務めていて(大正14(1925)年11月)板倉鼎が松戸町一丁目に住んでいたことからの結婚式の打ち合わせなどで与謝野夫妻が来たのではないかといわれています。
<「晶子鑑賞」平野萬里>
「時は午路の上には日影散り畑の土には雛罌粟の散る」
これは近代感覚を欠く人には一寸分るまい。ワン・ゴオクの向日葵に見るやうな強烈な白いほどの日光と真赤なひなげしの葩の交錯する画面で、色彩二重奏といふほどのもの。さうしてそれ以外の何物でもないから、古い歌の概念で臨んだのでは分りつこはない。
「花園は女の遊ぶ所とて我をまねばぬ一草もなし」
これは松戸の園芸学校の花畑を歌つたものである。季節は虞美人草の咲く初夏のことであつた。百花繚爛目の覚める様な花畑の中に立つた作者が自分の女であることを喜びながら一々の花に会釈し廻る趣きである。
ひなげしの小径から



<「註釈與謝野寛全集」與謝野晶子>
「いろいろの波斯のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑」
松戸の高等園芸学校の花畑であらう。色彩の多い、そして直線が主になつて出来た模様のペルシヤの更紗の其れをまた種類も幾つも混ぜて、四角に、長方形に岡へ切りはめたやうに畑の見えたのも、時季が多様な花に満ちた初夏だからであつたであらう。
ひなげしの小径から



<与謝野晶子歌碑>
フランス式庭園に面するA棟脇のヒマラヤ杉の中に与謝野晶子の歌碑が建っています。
「丘の上雲母の色の江戸川の 見ゆるあたりの一むらの罌粟」
「うすものの女の友を待ちえたる 松戸の丘のひなげしの花 晶子」
(雲母=きらら 罌粟=けし)
(説明板)
「 与謝野晶子歌碑
大正13年初夏、近代日本を代表する女流歌人・与謝野晶子が松戸の園芸学校に遊び、短歌60首を詠みました。
与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会では、園芸学部創立100周年を祝し、平成20年以来、晶子の歌碑を建立する市民運動を展開し、平成21年11月1日にこの歌碑を建立いたしました。
なお、この歌碑は、晶子来校時に現在のA棟の位置にあった講堂の礎石を使用しています。
この緑あふれる松戸の丘から、文化の華が拡がり咲き乱れることを祈念いたします。
与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会 」




<赤星先生像>
高村光太郎が千恵子の看病で大変な時期に作成された像です。戦時供出のため現存していません。
「1909年に開校した千葉県立園芸専門学校(1914年に千葉県立高等園芸学校に改称)の2代目校長、1929年に文部省に移管され官立千葉高等園芸学校に改組されてからは初代校長として、19年6ヵ月にわたり学校運営に尽力した赤星朝暉氏の功績を称え1936年に建立されました。胸像の制作は彫刻家 高村光太郎氏、台座は相川要一氏の設計によります。以前は銅像でしたが戦時中の物資不足の際に軍用資材として差し出したため、現在の胸像は1951年に再建したものです。」(千葉大学HPより引用)



○維新の志士 従五位竹内啓先生の墓
千葉大学園芸学部旧正門の横に、説明板「維新の志士 従五位竹内啓先生の墓」があります。


近くに観音堂の小さな祠があります。

<竹之内啓之奥城>
旧正門から戸定邸の脇を通って一般道に出る小路を進むと、「竹之内啓之奥城」があります。
2基並んでいる石碑の左です。


<弘法大師像>
弘法大師像(秀海講)があります。
秀海講の第二十一番礼所のようです。


<弘法大師線画>
弘法大師の線画が描かれており、秀海講とあります。
明治44年3月の建立です。当時は秀海講が設けた弘法大師礼所めぐりが盛んだったようです。



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