本木熊野神社 本木北野神社
○本木熊野神社 足立区本木南町18-8
本木熊野神社は、豊島清光が勧請した社です。境内は駐車場となっています。小祠には、向かって左に熊野神社、右に三峰神社(三峯山の石祠)が合祀されています。





○本木北野神社 足立区本木南町17-1
豊島清光が北野天満宮から分祀したと伝えられています。豊島一族は熊野神社を崇敬していたことで知られており、熊野以外を勧請した珍しい例とのこと。
本木北野神社の別当寺は善覚寺で、神社の東にありましたが江戸時代に廃寺となり西福寺に移っています。善覺寺には、廃寺となるまで六阿弥陀の一番が置かれ、本木村の名の由来となっています。 六阿弥陀一番の像は、西福寺に移された説があります。
<社号標>

<いちょう>
石鳥居の左右に、2本とも足立区の保存樹木のいちょうがそびえています。



<手水舎>
天保13(1842)年銘の手水鉢です。


<社殿>



○地蔵堂 足立区本木南町3-21
北野神社と熊野神社の間を通る小路を荒川に向かうと、高速道路手前の左手に地蔵堂があります。


本木熊野神社は、豊島清光が勧請した社です。境内は駐車場となっています。小祠には、向かって左に熊野神社、右に三峰神社(三峯山の石祠)が合祀されています。





○本木北野神社 足立区本木南町17-1
豊島清光が北野天満宮から分祀したと伝えられています。豊島一族は熊野神社を崇敬していたことで知られており、熊野以外を勧請した珍しい例とのこと。
本木北野神社の別当寺は善覚寺で、神社の東にありましたが江戸時代に廃寺となり西福寺に移っています。善覺寺には、廃寺となるまで六阿弥陀の一番が置かれ、本木村の名の由来となっています。 六阿弥陀一番の像は、西福寺に移された説があります。
<社号標>

<いちょう>
石鳥居の左右に、2本とも足立区の保存樹木のいちょうがそびえています。



<手水舎>
天保13(1842)年銘の手水鉢です。


<社殿>



○地蔵堂 足立区本木南町3-21
北野神社と熊野神社の間を通る小路を荒川に向かうと、高速道路手前の左手に地蔵堂があります。



清光寺(豊島清光)
○清光寺 北区豊島7-31-7
隅田川に架かる新田橋の北区側に清光寺(せいこうじ)があります。新田橋が架けられるまで「野新田の渡し」(別名:馬場の渡し)がありました。
清光寺は、源頼朝の鎌倉入りに従った豊島清光(清元)が建立した寺です。また、豊島氏の居館跡といわれています(平塚に平塚城跡があります)。 豊島氏が太田道灌との戦いに敗れてから清光寺は衰退しますが、その後再興されています。なお、豊島という地名が残っています。
「江戸名所図会 紀州明神社 清光寺 若宮八幡宮 豊島川 地藏堂」
紀州明神社、清光寺、若宮八幡宮、地蔵堂、観音堂が描かれてます。いずれも豊島氏縁の伝説を有しています。
挿絵の左上に「清光寺」が描かれています。

清光寺部分の抜粋です。「清光宅地」と記されています。

「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
清光寺は描かれていませんが、「鹿濱新田渡シ 王子へ一リ」とあります。「鹿濱」は「東叡山御領」とあります。鹿浜は寛永寺領でした。上流の渡しは「蟹庭渡シ」とあります。蟹庭(かにわ)は現在の神谷で、「かにわ」と呼びました。

<参道>

<清光寺>
(説明板)
「清光寺 北区豊島七−三−ー七
清光寺は医王山と号し新義真言宗に属する寺院です。
江戸時代の地誌「新篇式武蔵風土記稿」は、この寺は豊島清光(清元)の開基で寺号もその名によること、北条家所領役帳(永禄二年<一五五九>)に島津孫四郎知行十四貫文が豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王を行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安三年(一三○一)、文治二年(一一八六)、(文明元年(一四八九))、永福五年(不明<私年号>)の四基の古碑があることを伝えています。
また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和四年<一六一八)によれば、山号は常康山、保元二年<一一五七>豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽藍が建立されたこと、實正年中(一四六○〜一四六五)、応仁年中(一四六七〜一四六八)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明九年(一四七七)豊島泰経と大田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正十五年(一五四六)府川城主・豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄六年(一五六三)上杉等の残党が府川城を攻めた際、豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。
この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保二年(一七四二)の作で願主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時清光寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光は、その子葛西清重らとともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
なお、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。
平成三十年三月 北区教育委員会」

<延命地蔵尊>


<豊島清光公供養塔>
「当山開基 豊島清光公供養塔」とあります。



<本堂>


<木造豊島清光坐像>
(説明板)
「北区指定有形文化財(歴史資料)
木造豊島清光坐像 北区豊島七−三十一−七 清光寺
清光寺は、平安時代末期から鎌倉時代初期、豊島郡を中心に活躍した豪族豊島康家・清光が開基した寺院と伝えられ、江戸時代に製作された豊島清光の坐像が安置されています。
檜材を使った寄木造りで、目には水晶の玉眼が嵌められ、全体に彩色が施されています。像の姿は、剃髪して衣と袈裟を着けた合掌姿の坐像です。襟の高さが頭頂にまでおよぶ立襟をつけていますが、これは僧綱襟といい、僧侶としての高い地位を示しています。像の胎内には「奉造立御影 寛保二戌龍集十月十六日 願主釈迦堂祐貞 施主新田長谷川彌右衛門」との墨書があり、寛保二年(一七四二)十月十六日 清光寺釈迦堂の祐貞という僧侶が願主となり、檀家で鹿浜新田(足立区新田三丁目)の長谷川弥右衛門が施主となって造立したことがわかります。
豊島清光は、源頼朝が鎌倉幕府を樹立する際、子の葛西清重と共に源頼朝の軍に積極的に参陣し、鎌倉幕府の御家人として重用されるに至りました。没年を含めて詳らでない点が多いのですが、「六阿弥陀縁起」や「豊島七仏」といった豊島清光に関わる伝説が現在も伝わっています。
木像豊島清光座像は、江戸時代に製作されたものではありますが、豊島清光という人物を偲ばせる現在唯一の肖像であり、清光をめぐる伝承や縁起を考えるうえからも貴重な文化財といえます。
平成二十四年三月 東京都北区教育委員会」

隅田川に架かる新田橋の北区側に清光寺(せいこうじ)があります。新田橋が架けられるまで「野新田の渡し」(別名:馬場の渡し)がありました。
清光寺は、源頼朝の鎌倉入りに従った豊島清光(清元)が建立した寺です。また、豊島氏の居館跡といわれています(平塚に平塚城跡があります)。 豊島氏が太田道灌との戦いに敗れてから清光寺は衰退しますが、その後再興されています。なお、豊島という地名が残っています。
「江戸名所図会 紀州明神社 清光寺 若宮八幡宮 豊島川 地藏堂」
紀州明神社、清光寺、若宮八幡宮、地蔵堂、観音堂が描かれてます。いずれも豊島氏縁の伝説を有しています。
挿絵の左上に「清光寺」が描かれています。

清光寺部分の抜粋です。「清光宅地」と記されています。

「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
清光寺は描かれていませんが、「鹿濱新田渡シ 王子へ一リ」とあります。「鹿濱」は「東叡山御領」とあります。鹿浜は寛永寺領でした。上流の渡しは「蟹庭渡シ」とあります。蟹庭(かにわ)は現在の神谷で、「かにわ」と呼びました。

<参道>

<清光寺>
(説明板)
「清光寺 北区豊島七−三−ー七
清光寺は医王山と号し新義真言宗に属する寺院です。
江戸時代の地誌「新篇式武蔵風土記稿」は、この寺は豊島清光(清元)の開基で寺号もその名によること、北条家所領役帳(永禄二年<一五五九>)に島津孫四郎知行十四貫文が豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王を行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安三年(一三○一)、文治二年(一一八六)、(文明元年(一四八九))、永福五年(不明<私年号>)の四基の古碑があることを伝えています。
また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和四年<一六一八)によれば、山号は常康山、保元二年<一一五七>豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽藍が建立されたこと、實正年中(一四六○〜一四六五)、応仁年中(一四六七〜一四六八)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明九年(一四七七)豊島泰経と大田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正十五年(一五四六)府川城主・豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄六年(一五六三)上杉等の残党が府川城を攻めた際、豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。
この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保二年(一七四二)の作で願主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時清光寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光は、その子葛西清重らとともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
なお、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。
平成三十年三月 北区教育委員会」

<延命地蔵尊>


<豊島清光公供養塔>
「当山開基 豊島清光公供養塔」とあります。



<本堂>


<木造豊島清光坐像>
(説明板)
「北区指定有形文化財(歴史資料)
木造豊島清光坐像 北区豊島七−三十一−七 清光寺
清光寺は、平安時代末期から鎌倉時代初期、豊島郡を中心に活躍した豪族豊島康家・清光が開基した寺院と伝えられ、江戸時代に製作された豊島清光の坐像が安置されています。
檜材を使った寄木造りで、目には水晶の玉眼が嵌められ、全体に彩色が施されています。像の姿は、剃髪して衣と袈裟を着けた合掌姿の坐像です。襟の高さが頭頂にまでおよぶ立襟をつけていますが、これは僧綱襟といい、僧侶としての高い地位を示しています。像の胎内には「奉造立御影 寛保二戌龍集十月十六日 願主釈迦堂祐貞 施主新田長谷川彌右衛門」との墨書があり、寛保二年(一七四二)十月十六日 清光寺釈迦堂の祐貞という僧侶が願主となり、檀家で鹿浜新田(足立区新田三丁目)の長谷川弥右衛門が施主となって造立したことがわかります。
豊島清光は、源頼朝が鎌倉幕府を樹立する際、子の葛西清重と共に源頼朝の軍に積極的に参陣し、鎌倉幕府の御家人として重用されるに至りました。没年を含めて詳らでない点が多いのですが、「六阿弥陀縁起」や「豊島七仏」といった豊島清光に関わる伝説が現在も伝わっています。
木像豊島清光座像は、江戸時代に製作されたものではありますが、豊島清光という人物を偲ばせる現在唯一の肖像であり、清光をめぐる伝承や縁起を考えるうえからも貴重な文化財といえます。
平成二十四年三月 東京都北区教育委員会」


西福寺(六阿弥陀第一番)
○西福寺(六阿弥陀第一番) 北区豊島2-14-1
江戸の人々は春秋のお彼岸に六阿弥陀詣を盛んに行いました。西福寺(さいふくじ)は六阿弥陀第一番の寺として知られています。 当初の名称は、長福寺でしたが、享保初めに西福寺と改称しています。
「江戸名所図会 西福寺 六阿弥陀第壹番 梶原塚」
挿絵に「六阿弥陀かけてなくらむほととぎす 其角」とあります。参道に「仁王門」、上には「豊しま川」、下には「しゃくじ川下流」とあります。

「江戸切絵図」
豊嶋村に「六アミタ一番西福寺」があり、「豊島村渡場」が見えます。

<山門/身代地蔵菩薩>



<地蔵>
山門入ってすぐ左手に地蔵と「祈帰り道も交通安全」

<お馬塚>
山門入ってすぐ右手に「お馬塚」があります。「円顕妙楽信女霊位」とあります。


(碑文)
「お馬塚由来記
土佐の高知の播磨屋橋で
坊さんかんざし買うを見た
全国的に知られる民謡よさこい節は、今から百二十年前の安政元年四国八十八ヶ所第三十一番の札所高知所在の五台山竹林寺の僧で三十六才になった純信と近所に住む鋳かけ屋の娘で十六才になったお馬との年齢差を越えた恋愛事件に端を発し、当時の土佐藩の若侍達が岡焼き半分も手伝って色々な詞を作り面白おかしく歌い出したのが流行の始りだと言われている。
その後お馬は明治十八年の夏高知を離れて上京し、当山近くの豊島二五七七番地、現在の北区豊島二丁目十番のあたりに移り住んだが、明治三十六年十二月十五日六十六才の波乱に富んだ生涯を閉じた。
今日までお馬の詳しい消息は不明のままであったが、先年当山墓地内の寺崎家の墓に合祀されていることが当過去帳によって確認され、一躍世の脚光を浴びるに至った。悲恋に泣き苦しみに耐えながら数奇な運命を辿ったお馬さんの菩提を弔うため、新たに一基を建立してお馬塚と銘し、佛縁深い参詣者の便に供するものである。
昭和四十七年十二月十五日
発願主 当山住職 小笠原賢譽 敬白」

<地蔵菩薩>
参道右手の地蔵菩薩です。

<六地蔵>
参道右手、仁王門手前に六地蔵がおられます。


<六士銘記>
六地蔵の隣に彰義隊士6人の供養碑「六士銘記」が建っています。


<石塔>
参道左手、仁王門手前にも石塔が並んでいます。「奉石橋」があります。


<仁王門>
正面に金剛力士像、背面には風神雷神像がおられます。総じて色彩艶やかな仁王門です。







表の柱を巻いた龍は、天井裏を通って、裏の柱の上から玉を咥えて顔を出しています。




<弘法大師修行像>

<彩帆観音(さいぱんかんのん)>


<平秩東作狂歌碑>
平秩東作(へづつとうさく)は、江戸時代後期の戯作者、狂歌師です。
「いかばかり かすみのころも おほきくて ふじの山をも袖にいれけむ」

<客殿>

<中門>
標石「関東六阿弥陀元木第一番霊場」と「延命地蔵座像」 です。
長福寺(西福寺)は冠称として元木あるいは本木を使用しており、こちらの標石にも用いられています。これは木の元、本を意味していました。性翁寺は、余りの木の根を意味して木余りまたは根元を冠称としていました。しかし「足立郡本木」の地名と間違いされることもありました。




<本尊阿弥陀如来露座大仏>
行基作阿弥陀如来は戦災で焼失、昭和58(1983)年、阿弥陀如来露座大仏が再建されています。





<五重石塔/板碑/地蔵菩薩>
「五重石塔」と、その奥に二基の「板碑」があります。地蔵菩薩があります。



<岩清水六阿弥陀>
江戸六阿弥陀の札所の阿弥陀如来が座しています。



壱番目 当本山
(寛文12年銘の逆修供養塔、願主の六百日参成就とあります。)

弐番目 沼田 惠明寺

参番目 西ヶ原 無量寺

四番目 田端 與樂寺

五番目 上野 常楽院

六番目 亀戸 常光寺

<本堂>

<庚申塔>
墓所入口に寛文11(1671)年7月銘の笠付庚申塔があります。正面に青面金剛像、三猿が正面と右左面に一猿ずつ刻まれています。





<納骨塔>
墓地の納骨塔に庚申塔が混じっています。

・青面金剛庚申塔
左側面の庚申塔です。左に「享保五庚子年」とあります。
三猿の下に「武州豊嶋郡 同行九人 豊嶋村」と刻まれています。




・地蔵菩薩庚申塔
右側面の庚申塔です。 地蔵菩薩ですが、右に「奉供養庚申待二世安樂修」とあります。紀年は欠けて読めない部分があり「元□□□□年九月」とあります。

江戸の人々は春秋のお彼岸に六阿弥陀詣を盛んに行いました。西福寺(さいふくじ)は六阿弥陀第一番の寺として知られています。 当初の名称は、長福寺でしたが、享保初めに西福寺と改称しています。
「江戸名所図会 西福寺 六阿弥陀第壹番 梶原塚」
挿絵に「六阿弥陀かけてなくらむほととぎす 其角」とあります。参道に「仁王門」、上には「豊しま川」、下には「しゃくじ川下流」とあります。

「江戸切絵図」
豊嶋村に「六アミタ一番西福寺」があり、「豊島村渡場」が見えます。

<山門/身代地蔵菩薩>



<地蔵>
山門入ってすぐ左手に地蔵と「祈帰り道も交通安全」

<お馬塚>
山門入ってすぐ右手に「お馬塚」があります。「円顕妙楽信女霊位」とあります。


(碑文)
「お馬塚由来記
土佐の高知の播磨屋橋で
坊さんかんざし買うを見た
全国的に知られる民謡よさこい節は、今から百二十年前の安政元年四国八十八ヶ所第三十一番の札所高知所在の五台山竹林寺の僧で三十六才になった純信と近所に住む鋳かけ屋の娘で十六才になったお馬との年齢差を越えた恋愛事件に端を発し、当時の土佐藩の若侍達が岡焼き半分も手伝って色々な詞を作り面白おかしく歌い出したのが流行の始りだと言われている。
その後お馬は明治十八年の夏高知を離れて上京し、当山近くの豊島二五七七番地、現在の北区豊島二丁目十番のあたりに移り住んだが、明治三十六年十二月十五日六十六才の波乱に富んだ生涯を閉じた。
今日までお馬の詳しい消息は不明のままであったが、先年当山墓地内の寺崎家の墓に合祀されていることが当過去帳によって確認され、一躍世の脚光を浴びるに至った。悲恋に泣き苦しみに耐えながら数奇な運命を辿ったお馬さんの菩提を弔うため、新たに一基を建立してお馬塚と銘し、佛縁深い参詣者の便に供するものである。
昭和四十七年十二月十五日
発願主 当山住職 小笠原賢譽 敬白」

<地蔵菩薩>
参道右手の地蔵菩薩です。

<六地蔵>
参道右手、仁王門手前に六地蔵がおられます。


<六士銘記>
六地蔵の隣に彰義隊士6人の供養碑「六士銘記」が建っています。


<石塔>
参道左手、仁王門手前にも石塔が並んでいます。「奉石橋」があります。


<仁王門>
正面に金剛力士像、背面には風神雷神像がおられます。総じて色彩艶やかな仁王門です。







表の柱を巻いた龍は、天井裏を通って、裏の柱の上から玉を咥えて顔を出しています。




<弘法大師修行像>

<彩帆観音(さいぱんかんのん)>


<平秩東作狂歌碑>
平秩東作(へづつとうさく)は、江戸時代後期の戯作者、狂歌師です。
「いかばかり かすみのころも おほきくて ふじの山をも袖にいれけむ」

<客殿>

<中門>
標石「関東六阿弥陀元木第一番霊場」と「延命地蔵座像」 です。
長福寺(西福寺)は冠称として元木あるいは本木を使用しており、こちらの標石にも用いられています。これは木の元、本を意味していました。性翁寺は、余りの木の根を意味して木余りまたは根元を冠称としていました。しかし「足立郡本木」の地名と間違いされることもありました。




<本尊阿弥陀如来露座大仏>
行基作阿弥陀如来は戦災で焼失、昭和58(1983)年、阿弥陀如来露座大仏が再建されています。





<五重石塔/板碑/地蔵菩薩>
「五重石塔」と、その奥に二基の「板碑」があります。地蔵菩薩があります。



<岩清水六阿弥陀>
江戸六阿弥陀の札所の阿弥陀如来が座しています。



壱番目 当本山
(寛文12年銘の逆修供養塔、願主の六百日参成就とあります。)

弐番目 沼田 惠明寺

参番目 西ヶ原 無量寺

四番目 田端 與樂寺

五番目 上野 常楽院

六番目 亀戸 常光寺

<本堂>

<庚申塔>
墓所入口に寛文11(1671)年7月銘の笠付庚申塔があります。正面に青面金剛像、三猿が正面と右左面に一猿ずつ刻まれています。





<納骨塔>
墓地の納骨塔に庚申塔が混じっています。

・青面金剛庚申塔
左側面の庚申塔です。左に「享保五庚子年」とあります。
三猿の下に「武州豊嶋郡 同行九人 豊嶋村」と刻まれています。




・地蔵菩薩庚申塔
右側面の庚申塔です。 地蔵菩薩ですが、右に「奉供養庚申待二世安樂修」とあります。紀年は欠けて読めない部分があり「元□□□□年九月」とあります。


与楽寺(六阿弥陀第四番)
○与楽寺(四番) 北区田端1-25-1
六阿弥陀参詣の第四番札所の与楽寺(よらくじ)です。


<江戸名所図会 田畑八幡宮 与楽寺>
全体図と与楽寺部分の拡大です。 「與楽寺 六阿弥陀 第四番目」とあり、現在と同じ場所に阿弥陀堂と石燈籠が2基描かれています。


(説明板)
「賊除地蔵の伝承地
与楽寺(田端一ー二五ー1)
与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には二○石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第四番札所として、多くの参詣者を得ていました。
さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。
ある夜、盗賊が与楽寺へ押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。
仏教では、釈迦が入滅してから五六億七千万年後に弥勒が現われるまでの間は、人びとを救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人びとの全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・
子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人びとの救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
平成元年三月 東京都北区教育委員会」

【入口脇石塔群】

<一基目>
宝暦7(1757)年銘の寺標で、道標を兼ねています。
(正面)
「伊豫國太山寺移」
「御府内八十八ヶ所第五十六番寳珠山 與樂寺」
(左側面)
「自是右谷中観音寺 八町」
「同左當所東覚寺 一町」
(※当時は東覚寺は与楽寺の末寺でした)



<二基目>
「六阿弥陀第四番與樂寺」

<三基目>
「西國廿一番 丹波國阿のう寺写」

<四基目>(六阿弥陀道標1)
明和4(1767)年銘の秩父坂東西国百箇所巡礼塔で上部に聖観音像が陽刻され、正面「秩父西國坂東、順禮供養佛」 右「天下泰平」 左「日月和順」 と刻まれています。
下部には「右ハ江戸駒込道」「左ハ王子道灌山道」とあり道標を兼ねています。
左側面は六阿弥陀道標となっており、「右ハ六阿弥陀三番目道 左ハ六阿弥陀四番目道」とあります。




<五基目>
安永5(1776)年銘の敷石供養塔です。
(正面)「奉建立敷石□々為二世安樂也」


<六基目>
「皇太子殿下御降誕記念」

<霊堂/関東大震火災遭難死者供養記念塔>



<大師堂>

<客殿>

<奉献石燈籠>
常陸国谷田部藩の第4代藩主細川興栄による常憲院殿尊前霊廟(寛永寺)への奉献石燈籠です。常憲院は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉です。綱吉が亡くなった宝永6(1709)年の奉献です。
「東叡山
常憲院殿尊前
宝永六年己丑正月十日
従五位下 常洲長門守源興栄」




<仏像/賢信大僧正遺徳碑>


<本堂>





<六阿弥陀堂第四番>
本堂の左手に阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂があります。



<燈籠型庚申塔>
阿弥陀堂前の左右に石燈籠があります。左の燈籠下に、正面と左右に三猿が一匹づつ彫られています。燈籠型の庚申塔です。寛文9(1669)年銘で「庚申供養為菩提」とあります。





右の燈籠は「阿弥陀念佛供養證爐」とあります。


<線刻阿弥陀如来>
堂前には、線刻阿弥陀如来。

<三基>

<日露戦役忠魂碑>
明治39(1906)年12月の建碑です。


<五重石塔/巴連納札塚>

<大僧正慶信像>

<宝篋印塔>

<鐘楼/梵鐘>
梵鐘には天女のレリーフが施されています。


【墓地入口】
「六地蔵石幢」と不揃いの「六地蔵」が並んでいます。道標を兼ねているものもあり、ここに集められたものでしょう。


<六地蔵石幢>

<線刻石板>

<六地蔵>
一基目 舟型光背型地蔵
元禄13(1700)年銘の地蔵菩薩です。光背右「六地蔵四番目 武州江戸講中」



二基目 丸彫地蔵(六阿弥陀道標2)
正面には元文4(1739)年銘(裏には寛保元(1741)年銘)の地蔵菩薩像で、道標を兼ねています。
正面左脇「阿弥陀三番目道」
左側面「右ハ六阿弥陀四番目道」
「奉造立地蔵菩薩」
「施主 本所林町四丁目 桔梗屋 清正」




三基目 丸彫地蔵
台座の裏に三猿がいます。背中に文字が刻まれています。





四基目丸彫地蔵
個人の供養塔かと思って撮らず。
五基目、六基目 舟型光背型地蔵
五基目の光背右「奉造立六地蔵」 左「武州江戸本江講中」

【墓地】
板碑型庚申塔がありました(赤○)。

<板碑型庚申塔>
墓地の奥にある無縁仏の前列の右端に、万治元(1658)年9月銘の板碑型の庚申塔があります。前面上部に「庚申」とあります。下部には願主名が列記されています。





<供養塔>
供養塔中央に、享保10(1725)年銘の地蔵菩薩坐像があります。台石には「四番目地蔵」と刻まれています。地蔵に踏まれているのは邪鬼、脇に聞か猿がいるように見えますがどうなんでしょう。
右脇「本郷四町目同丸山眞光寺門前」、左脇「講中」とあります。




○与楽寺坂 北区田端1-25


(説明板)
「与楽寺坂
坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。
平成5年3月 東京都北区教育委員会」

六阿弥陀参詣の第四番札所の与楽寺(よらくじ)です。


<江戸名所図会 田畑八幡宮 与楽寺>
全体図と与楽寺部分の拡大です。 「與楽寺 六阿弥陀 第四番目」とあり、現在と同じ場所に阿弥陀堂と石燈籠が2基描かれています。


(説明板)
「賊除地蔵の伝承地
与楽寺(田端一ー二五ー1)
与楽寺は真言宗の寺院で、江戸時代には二○石の朱印地を領有していました。この境内には、四面に仏を浮彫にした南北朝時代の石の仏塔があります。また、阿弥陀堂には行基作と伝わる阿弥陀如来が安置されています。当時、これは女人成仏の本尊として広く信仰を集めていたことから、ここは江戸の六阿弥陀詣の第四番札所として、多くの参詣者を得ていました。
さて、本尊は弘法大師作と伝わる地蔵菩薩で、これは秘仏とされています。この地蔵菩薩は、次のように伝承されています。
ある夜、盗賊が与楽寺へ押し入ろうとしました。すると、どこからともなく多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂にこれを追い返しました。翌朝見ると、本尊の地蔵菩薩の足に泥がついています。きっと地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い出したのだと信じられるようになり、これより賊除地蔵と称されるようになりました。
仏教では、釈迦が入滅してから五六億七千万年後に弥勒が現われるまでの間は、人びとを救済する仏が存在しない時代とされています。この時代に、地蔵菩薩は、自らの悟りを求め、同時に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道の迷界に苦しむ人を救うと信じられてきました。そして江戸時代になると、人びとの全ての願望をかなえる仏として信仰されるようになり、泥足地蔵・
子育地蔵・田植地蔵・延命地蔵・刺抜地蔵というように各種の地蔵伝説が生み出されました。与楽寺の賊除地蔵も、これらの地蔵伝説の一つとして人びとの救済願望に支えられて生み出されたものといえます。
平成元年三月 東京都北区教育委員会」

【入口脇石塔群】

<一基目>
宝暦7(1757)年銘の寺標で、道標を兼ねています。
(正面)
「伊豫國太山寺移」
「御府内八十八ヶ所第五十六番寳珠山 與樂寺」
(左側面)
「自是右谷中観音寺 八町」
「同左當所東覚寺 一町」
(※当時は東覚寺は与楽寺の末寺でした)



<二基目>
「六阿弥陀第四番與樂寺」

<三基目>
「西國廿一番 丹波國阿のう寺写」

<四基目>(六阿弥陀道標1)
明和4(1767)年銘の秩父坂東西国百箇所巡礼塔で上部に聖観音像が陽刻され、正面「秩父西國坂東、順禮供養佛」 右「天下泰平」 左「日月和順」 と刻まれています。
下部には「右ハ江戸駒込道」「左ハ王子道灌山道」とあり道標を兼ねています。
左側面は六阿弥陀道標となっており、「右ハ六阿弥陀三番目道 左ハ六阿弥陀四番目道」とあります。




<五基目>
安永5(1776)年銘の敷石供養塔です。
(正面)「奉建立敷石□々為二世安樂也」


<六基目>
「皇太子殿下御降誕記念」

<霊堂/関東大震火災遭難死者供養記念塔>



<大師堂>

<客殿>

<奉献石燈籠>
常陸国谷田部藩の第4代藩主細川興栄による常憲院殿尊前霊廟(寛永寺)への奉献石燈籠です。常憲院は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉です。綱吉が亡くなった宝永6(1709)年の奉献です。
「東叡山
常憲院殿尊前
宝永六年己丑正月十日
従五位下 常洲長門守源興栄」




<仏像/賢信大僧正遺徳碑>


<本堂>





<六阿弥陀堂第四番>
本堂の左手に阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂があります。



<燈籠型庚申塔>
阿弥陀堂前の左右に石燈籠があります。左の燈籠下に、正面と左右に三猿が一匹づつ彫られています。燈籠型の庚申塔です。寛文9(1669)年銘で「庚申供養為菩提」とあります。





右の燈籠は「阿弥陀念佛供養證爐」とあります。


<線刻阿弥陀如来>
堂前には、線刻阿弥陀如来。

<三基>

<日露戦役忠魂碑>
明治39(1906)年12月の建碑です。


<五重石塔/巴連納札塚>

<大僧正慶信像>

<宝篋印塔>

<鐘楼/梵鐘>
梵鐘には天女のレリーフが施されています。


【墓地入口】
「六地蔵石幢」と不揃いの「六地蔵」が並んでいます。道標を兼ねているものもあり、ここに集められたものでしょう。


<六地蔵石幢>

<線刻石板>

<六地蔵>
一基目 舟型光背型地蔵
元禄13(1700)年銘の地蔵菩薩です。光背右「六地蔵四番目 武州江戸講中」



二基目 丸彫地蔵(六阿弥陀道標2)
正面には元文4(1739)年銘(裏には寛保元(1741)年銘)の地蔵菩薩像で、道標を兼ねています。
正面左脇「阿弥陀三番目道」
左側面「右ハ六阿弥陀四番目道」
「奉造立地蔵菩薩」
「施主 本所林町四丁目 桔梗屋 清正」




三基目 丸彫地蔵
台座の裏に三猿がいます。背中に文字が刻まれています。





四基目丸彫地蔵
個人の供養塔かと思って撮らず。
五基目、六基目 舟型光背型地蔵
五基目の光背右「奉造立六地蔵」 左「武州江戸本江講中」

【墓地】
板碑型庚申塔がありました(赤○)。

<板碑型庚申塔>
墓地の奥にある無縁仏の前列の右端に、万治元(1658)年9月銘の板碑型の庚申塔があります。前面上部に「庚申」とあります。下部には願主名が列記されています。





<供養塔>
供養塔中央に、享保10(1725)年銘の地蔵菩薩坐像があります。台石には「四番目地蔵」と刻まれています。地蔵に踏まれているのは邪鬼、脇に聞か猿がいるように見えますがどうなんでしょう。
右脇「本郷四町目同丸山眞光寺門前」、左脇「講中」とあります。




○与楽寺坂 北区田端1-25


(説明板)
「与楽寺坂
坂の名は、坂下にある与楽寺に由来しています。『東京府村誌』に「与楽寺の北西にあり、南に下る、長さ二十五間広さ一間三尺」と記されています。この坂の近くに、画家の岩田専太郎、漆芸家の堆朱楊成、鋳金家の香取秀真、文学者の芥川龍之介などが住んでいました。
芥川龍之介は、書簡のなかに「田端はどこへ行っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と書いています。
平成5年3月 東京都北区教育委員会」


常楽院(六阿弥陀第五番)
○常楽院 台東区上野4-8-4(旧所在地)
当初の名称は長福寺でしたが、九代将軍家重の幼名が長福丸であったため、常楽院に改称しています。常楽院は、関東大震災で大きな被害を受け、また戦災で焼失し、調布に移転しました。
戦後に跡地一帯を購入した赤札堂は、赤札堂の敷地内に仮堂を設け本尊の阿弥陀の模刻を安置しました(上野4丁目)。その後、昭和36(1961)年に開業した東天紅の敷地の一角(池之端1丁目)に堂宇(常楽院別院)を設け、ここに模刻の阿弥陀は移されます。株式会社アブアブ赤札堂と株式会社東天紅の持ち株会社が小泉グループで、両社はグループ企業です。ビルの屋上ではなく平地にお祀りした心意気に感心します。
※「「篤信」の「商売人」ー東天紅上野本店裏手の常楽院別院に関する調査報告ー徳田安津樹」を参照しました。
「江戸名所図会 常楽院」
挿絵には「六阿弥陀五番目なり 春秋二度の彼岸中賑わし」とあります。石畳の参道の右手に「六地蔵」や「地蔵」が見えます。阿弥陀堂内右手には閻魔大王が見えます。

「東都歳事記 彼岸六阿弥陀参」
東都歳事記に六阿弥陀参の全体図が描かれており、五番常楽院部分の抜粋です。三橋の脇に「五番」が描かれています。


「武州江戸六阿弥陀巡拝之図」(文政12(1829)年 足立区立郷土博物館所蔵)
文政12(1829)年に六阿弥陀四番与楽寺が作成した「武州江戸六阿弥陀巡拝之図」から、常楽院部分の抜粋です。常楽院から三橋を渡って4番与楽寺へ、あるいは6番常光寺への六阿弥陀巡拝路が描かれています。

「江戸切絵図」
江戸切絵図には、三橋の脇、下谷広小路に面して「常楽院」が描かれています。現在のABABがある場所です(台東区上野4丁目)。

「名所之内上野」(歌川芳盛 東京都立図書館蔵))
「名所之内上野」の全体図と六阿弥陀部分の拡大です。常楽院は三橋の手前に「六アミダ」と表示されています。町屋の間にある冠木門(表門)をくぐった先が境内となっています。


「上野広小路」(日本之名勝 史伝編纂所 明治33年)
三橋の手前右手に常楽院の入口らしきものが見えます。

<几号水準点>
几号水準点の所在地に「上野広小路常楽院地蔵台石」がありますが、消失したようです。
○常楽院別院 台東区池之端1-4-1
門柱には、左に「六阿彌陀」、右に「第五番」とあります。




<誹風柳多留巻頭の地>
境内入口に、平成27(2015)年に柳多留二百五十年実行委員会が建立した「誹風柳多留巻頭の地」碑があります。「五番目は同し作でも江戸産れ」は、『誹風柳多留』の巻頭を飾る句です。
六阿弥陀詣の六ヶ寺のうち、常楽院だけが御府内に位地し大いに賑わい、江戸っ子の自慢であり、川柳の題材ともなりました。
六阿弥陀は同じ人が、同じ木から彫ったものでも、五番目は他とは違って江戸にあるという江戸自慢を詠んだ句です。他に「五番目の弥陀は麦めしきらひ也」という川柳もあります。
(正面)「誹風柳多留巻頭の地」

(右面)「五番目は同じ作でも江戸産れ」

(左面)「平成二十七年四月吉日 柳多留二百五十年実行委員会」

(参考)
上野公園入り口の階段横に、「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地」の記念碑が建っています。平成27(2015)年8月の建立です。 こちらで記載済
東岳寺(足立区伊興本町)に、誹風柳多留の版元、花屋久次郎遺跡の碑が建っています。こちらで記載済
<境内>
境内に、石燈籠、水鉢、石仏、不明の石があります。




<江戸六阿弥陀縁起>
東天紅の壁に「江戸六阿弥陀縁起」の掲示があります。
(説明板)
「江戸六阿弥陀縁起
聖武天皇の項(七二四~七四九)、武蔵国足立郡(今の東京都足立区)に沼田の長者とよばれる庄司(荘園を管理する人)従二位藤原正成という人がいて、多年子宝に恵まれずにいたが、ある時、熊野権現(和歌山県)に詣でて祈願したところご利益を得てようよう一女を授かった。
この息女は足立姫と呼ばれた程にみめ美しく、仏を崇い、天質聡明であったが、隣りの郡に住む領主豊島左ヱ門尉清光に嫁がせると、領主の姑が事々に辛くあたり悲歎の日々を送ることになった。
そしてある時、里帰りの折りに思い余って沼田川(現荒川)に身を投げ、五人の侍女もまた姫の後を追って川に身を投じたのであった。
後日、息女らの供養に諸国巡礼の旅に出た長者が再び熊野権現に詣でたところ夢に権現(衆生を救うために日本の神の姿をとって現れる仏)が立ち一女を授けたのはそなたを仏道に導く方便であった、これより熊野山中にある霊木により六体の阿弥陀仏を彫み広く衆生を済度せよ、と申されたのであった。
長者が熊野山中を探し歩くと果たして光り輝く霊木をみつけ、長者は念を込めてその霊木を海に流したのである。長者が帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いており、間もなくこれも先の夢のお告げの通りに、諸国巡礼の途に沼田の地に立ち寄られた行基菩薩に乞うて六体の阿弥陀仏を彫り、六女ゆかりの地にそれぞれお堂を建ててこれを祀ったのである。
江戸時代に入り、この六阿弥陀を巡拝し、極楽往生を願う信仰が行楽を伴って盛んになり、特に第五番常楽院は上野広小路の繁華街(現ABAB赤札堂地)にあったので両彼岸などは特に大いに賑わい、江戸名所図絵にも描かれている。広小路のお堂は、関東大震災と第二次大戦期の焼失を継て、ご本尊阿弥陀さまは調布市に移ったが、参詣の便を図って縁のある上野池之端、此東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしている。
六阿弥陀第五番 常楽院
調布市西つつじヶ丘四の九の一」

<阿弥陀堂>
祭壇のロウソクは電光式、線香も電光式です。電光式の線香は初めて見ました。



<模刻阿弥陀さま>
模刻ですが、直接拝めるのはここと一番の再建露仏だけなので、貴重かと思います。

当初の名称は長福寺でしたが、九代将軍家重の幼名が長福丸であったため、常楽院に改称しています。常楽院は、関東大震災で大きな被害を受け、また戦災で焼失し、調布に移転しました。
戦後に跡地一帯を購入した赤札堂は、赤札堂の敷地内に仮堂を設け本尊の阿弥陀の模刻を安置しました(上野4丁目)。その後、昭和36(1961)年に開業した東天紅の敷地の一角(池之端1丁目)に堂宇(常楽院別院)を設け、ここに模刻の阿弥陀は移されます。株式会社アブアブ赤札堂と株式会社東天紅の持ち株会社が小泉グループで、両社はグループ企業です。ビルの屋上ではなく平地にお祀りした心意気に感心します。
※「「篤信」の「商売人」ー東天紅上野本店裏手の常楽院別院に関する調査報告ー徳田安津樹」を参照しました。
「江戸名所図会 常楽院」
挿絵には「六阿弥陀五番目なり 春秋二度の彼岸中賑わし」とあります。石畳の参道の右手に「六地蔵」や「地蔵」が見えます。阿弥陀堂内右手には閻魔大王が見えます。

「東都歳事記 彼岸六阿弥陀参」
東都歳事記に六阿弥陀参の全体図が描かれており、五番常楽院部分の抜粋です。三橋の脇に「五番」が描かれています。


「武州江戸六阿弥陀巡拝之図」(文政12(1829)年 足立区立郷土博物館所蔵)
文政12(1829)年に六阿弥陀四番与楽寺が作成した「武州江戸六阿弥陀巡拝之図」から、常楽院部分の抜粋です。常楽院から三橋を渡って4番与楽寺へ、あるいは6番常光寺への六阿弥陀巡拝路が描かれています。

「江戸切絵図」
江戸切絵図には、三橋の脇、下谷広小路に面して「常楽院」が描かれています。現在のABABがある場所です(台東区上野4丁目)。

「名所之内上野」(歌川芳盛 東京都立図書館蔵))
「名所之内上野」の全体図と六阿弥陀部分の拡大です。常楽院は三橋の手前に「六アミダ」と表示されています。町屋の間にある冠木門(表門)をくぐった先が境内となっています。


「上野広小路」(日本之名勝 史伝編纂所 明治33年)
三橋の手前右手に常楽院の入口らしきものが見えます。

<几号水準点>
几号水準点の所在地に「上野広小路常楽院地蔵台石」がありますが、消失したようです。
○常楽院別院 台東区池之端1-4-1
門柱には、左に「六阿彌陀」、右に「第五番」とあります。




<誹風柳多留巻頭の地>
境内入口に、平成27(2015)年に柳多留二百五十年実行委員会が建立した「誹風柳多留巻頭の地」碑があります。「五番目は同し作でも江戸産れ」は、『誹風柳多留』の巻頭を飾る句です。
六阿弥陀詣の六ヶ寺のうち、常楽院だけが御府内に位地し大いに賑わい、江戸っ子の自慢であり、川柳の題材ともなりました。
六阿弥陀は同じ人が、同じ木から彫ったものでも、五番目は他とは違って江戸にあるという江戸自慢を詠んだ句です。他に「五番目の弥陀は麦めしきらひ也」という川柳もあります。
(正面)「誹風柳多留巻頭の地」

(右面)「五番目は同じ作でも江戸産れ」

(左面)「平成二十七年四月吉日 柳多留二百五十年実行委員会」

(参考)
上野公園入り口の階段横に、「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地」の記念碑が建っています。平成27(2015)年8月の建立です。 こちらで記載済
東岳寺(足立区伊興本町)に、誹風柳多留の版元、花屋久次郎遺跡の碑が建っています。こちらで記載済
<境内>
境内に、石燈籠、水鉢、石仏、不明の石があります。




<江戸六阿弥陀縁起>
東天紅の壁に「江戸六阿弥陀縁起」の掲示があります。
(説明板)
「江戸六阿弥陀縁起
聖武天皇の項(七二四~七四九)、武蔵国足立郡(今の東京都足立区)に沼田の長者とよばれる庄司(荘園を管理する人)従二位藤原正成という人がいて、多年子宝に恵まれずにいたが、ある時、熊野権現(和歌山県)に詣でて祈願したところご利益を得てようよう一女を授かった。
この息女は足立姫と呼ばれた程にみめ美しく、仏を崇い、天質聡明であったが、隣りの郡に住む領主豊島左ヱ門尉清光に嫁がせると、領主の姑が事々に辛くあたり悲歎の日々を送ることになった。
そしてある時、里帰りの折りに思い余って沼田川(現荒川)に身を投げ、五人の侍女もまた姫の後を追って川に身を投じたのであった。
後日、息女らの供養に諸国巡礼の旅に出た長者が再び熊野権現に詣でたところ夢に権現(衆生を救うために日本の神の姿をとって現れる仏)が立ち一女を授けたのはそなたを仏道に導く方便であった、これより熊野山中にある霊木により六体の阿弥陀仏を彫み広く衆生を済度せよ、と申されたのであった。
長者が熊野山中を探し歩くと果たして光り輝く霊木をみつけ、長者は念を込めてその霊木を海に流したのである。長者が帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いており、間もなくこれも先の夢のお告げの通りに、諸国巡礼の途に沼田の地に立ち寄られた行基菩薩に乞うて六体の阿弥陀仏を彫り、六女ゆかりの地にそれぞれお堂を建ててこれを祀ったのである。
江戸時代に入り、この六阿弥陀を巡拝し、極楽往生を願う信仰が行楽を伴って盛んになり、特に第五番常楽院は上野広小路の繁華街(現ABAB赤札堂地)にあったので両彼岸などは特に大いに賑わい、江戸名所図絵にも描かれている。広小路のお堂は、関東大震災と第二次大戦期の焼失を継て、ご本尊阿弥陀さまは調布市に移ったが、参詣の便を図って縁のある上野池之端、此東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしている。
六阿弥陀第五番 常楽院
調布市西つつじヶ丘四の九の一」

<阿弥陀堂>
祭壇のロウソクは電光式、線香も電光式です。電光式の線香は初めて見ました。



<模刻阿弥陀さま>
模刻ですが、直接拝めるのはここと一番の再建露仏だけなので、貴重かと思います。


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