龍光寺(亀戸) 六阿弥陀道標
○龍光寺 江東区亀戸3-56-14
亀戸香取神社の北側、北十間川沿に龍光寺があります。荒川辺八十八ヶ所霊場第74番札所です。




<石造物と遍照金剛祠>
山門入ってすぐ右手に、石造物と遍照金剛祠があります。

<厄除弘法大師標柱> 江東区文化財
明和7(1770)年銘の厄除弘法大師標柱です。六番目への道標を兼ねています。道標は、ここから四丁だと六阿弥陀六番の常光寺でしょうか?現在は壁際に置かれ裏面は見えにくいのですが、かつては六阿弥陀詣で賑わう路傍の見やすい場所にあったのでしょう。
(正面)「厄除弘法大師」
(裏面)「南無遍照金剛」
(裏面左)「右尓向ひ 是与里左り 六番目迄 四丁」




<聖観音菩薩像>
「生滅滅己、寂滅為楽」と刻まれた聖観音菩薩像です。

<他>

<祠>
内部に二基の「遍照金剛」像があります。「南葛八十八ヶ所 第四十六番 第六十六番」と記された板が掲げられています。龍光寺は「南葛霊場八十八ヶ所」の第四十六番札所で、なぜか第六十六番常光寺の遍照金剛像も並んであります。



亀戸香取神社の北側、北十間川沿に龍光寺があります。荒川辺八十八ヶ所霊場第74番札所です。




<石造物と遍照金剛祠>
山門入ってすぐ右手に、石造物と遍照金剛祠があります。

<厄除弘法大師標柱> 江東区文化財
明和7(1770)年銘の厄除弘法大師標柱です。六番目への道標を兼ねています。道標は、ここから四丁だと六阿弥陀六番の常光寺でしょうか?現在は壁際に置かれ裏面は見えにくいのですが、かつては六阿弥陀詣で賑わう路傍の見やすい場所にあったのでしょう。
(正面)「厄除弘法大師」
(裏面)「南無遍照金剛」
(裏面左)「右尓向ひ 是与里左り 六番目迄 四丁」




<聖観音菩薩像>
「生滅滅己、寂滅為楽」と刻まれた聖観音菩薩像です。

<他>

<祠>
内部に二基の「遍照金剛」像があります。「南葛八十八ヶ所 第四十六番 第六十六番」と記された板が掲げられています。龍光寺は「南葛霊場八十八ヶ所」の第四十六番札所で、なぜか第六十六番常光寺の遍照金剛像も並んであります。




龍眼寺(萩寺)
○龍眼寺(萩寺) 江東区亀戸3-34-2 HP
江戸名所図会などにも描かれた江戸の萩の名所です。


「江戸切絵図」
「龍眼寺 萩寺ト云」と記されています。

「江戸名所図会 龍眼寺」

「絵本江戸土産 押上萩寺」(広重)

<龍眼寺(布袋尊)>
(説明板)
「江東みちしるべ
龍眼寺(布袋尊)
由来
龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられます。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌『江戸名所図絵』には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
また、境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」

<石標柱「萩寺史跡」>



<龍眼寺山門>
山門左には、榎本其角、大納言家長郷の句が刻まれています。
「つき見とも見えずや露あり庭の萩 其角」
「ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は 家長郷」



山門右には、松尾芭蕉の句が彫られています。
「濡れてゆく人もおかしや雨の萩 芭蕉」


【歴史と文化を考えよう】


<木像聖観音菩薩立像>
(説明板)
「江東区指定有形文化財(彫刻)
木造聖観音菩薩立像 一躯
亀戸三ー三四‐二 龍眼寺
平成一二年三月二七日指定
聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は一○四cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。
本像は頭部に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。
本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。
平成一四年三月 江東区教育委員会」
<庚申塔>
(説明板)
「江東区指定有形文化財
庚申塔 万治二年在銘
江東区亀戸三ー三四‐二 龍眼寺
平成一九年三月二六日指定
庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、六十日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。
本庚申塔は万治二年(一六五九)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ十組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。
龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑いました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治二年は、柳島村の成立した初期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。
平成二十年佐三月 江東区教育委員会」

<芭蕉句碑>
「ぬれて行人もおかしや雨の萩 芭蕉」


<境内>


<地蔵堂>


<布袋堂>


<不動堂>

<供養碑(句碑)>
「ゆきし子は永劫老いず楠若葉 一亭
昭和四十八年六月四日 大沢欽治 建立」

<森総彦句碑>
「総彦 青梅や 小さき息を 大切に」


<落合直文の歌碑>
「萩寺の萩 面白し つゆの身の おくつきところ こことさだめむ 直文」

<石田波郷・石塚友二句碑>
「槇の空 秋押し移り ゐたりけり 波郷
たかむなの 疾迅わが背 越す日かな 友二」

<千載庵仲成歌碑>
「聞しより 来て見や □野の染付は いふもさらなり 萩のにしき手 千載庵仲成」

<冬嶺・市町句碑>
「ひと色を千々の錦や萩見寺 冬嶺
露の世にこぼさぬ露や萩の上 市町」


<百寿句碑>
「百寿 春盛る梅はうしろよ萩の花」

<羅舎一堂句碑>
「羅舎一堂 月や秋あきや夜にして十五日」

<夢佛庵くに□句碑>
「夏痩を驚く秋の寝覚哉 夢佛庵くに□」

<池月一陽子 句碑>
「遍照や萩三百の刈株も 一陽子」

<龍眼寺の柳>
説明板は、柳については言及していません。江戸名所絵図は、江戸名所図会の誤植です。
(説明板)
「龍眼寺の柳
應永二年(一、三九六)開基良博大和尚が、此処亀戸柳島村に村人の依頼により「柳源寺」を建立、後に「龍眼寺」(時代不明)と改められた。又元珍大和尚・元禄六年(一、六九三)萩を好み、全国より集め、「萩寺」と呼ばれ、文人墨客が集まり江戸の多く人々に親しまれ、江戸名所絵図、江戸砂子等にも描かれている。」


<客殿>

<八聖堂(本堂)>
本堂は八角堂となっています。
(説明板)
「本堂
天台宗 慈雲山無量院龍眼寺
本 尊 聖観世音菩薩
江東区有形文化財・現在の区内最古の仏像
應永二年(一、三九六)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え、帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。
その後現在の「龍眼寺」(時代不明)に改められた。
御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖(正)堂という。八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。
一、正見 正しい見解
二、正思 正しい思い
三、正語 正しいことぼ
四、正業 正しい行為
五、正命 正しい生活
六、正精進 正しい努力・勤め
七、正念 正しい信念・気づかい
八、正定 正しい精神統一」

江戸名所図会などにも描かれた江戸の萩の名所です。


「江戸切絵図」
「龍眼寺 萩寺ト云」と記されています。

「江戸名所図会 龍眼寺」

「絵本江戸土産 押上萩寺」(広重)

<龍眼寺(布袋尊)>
(説明板)
「江東みちしるべ
龍眼寺(布袋尊)
由来
龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられます。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌『江戸名所図絵』には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
また、境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。」

<石標柱「萩寺史跡」>



<龍眼寺山門>
山門左には、榎本其角、大納言家長郷の句が刻まれています。
「つき見とも見えずや露あり庭の萩 其角」
「ききしより見る目ぞまさるこの寺の庭に散りしく萩の錦は 家長郷」



山門右には、松尾芭蕉の句が彫られています。
「濡れてゆく人もおかしや雨の萩 芭蕉」


【歴史と文化を考えよう】


<木像聖観音菩薩立像>
(説明板)
「江東区指定有形文化財(彫刻)
木造聖観音菩薩立像 一躯
亀戸三ー三四‐二 龍眼寺
平成一二年三月二七日指定
聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は一○四cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。
本像は頭部に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。
本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。
平成一四年三月 江東区教育委員会」
<庚申塔>
(説明板)
「江東区指定有形文化財
庚申塔 万治二年在銘
江東区亀戸三ー三四‐二 龍眼寺
平成一九年三月二六日指定
庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、六十日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。
本庚申塔は万治二年(一六五九)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ十組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。
龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑いました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治二年は、柳島村の成立した初期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。
平成二十年佐三月 江東区教育委員会」

<芭蕉句碑>
「ぬれて行人もおかしや雨の萩 芭蕉」


<境内>


<地蔵堂>


<布袋堂>


<不動堂>

<供養碑(句碑)>
「ゆきし子は永劫老いず楠若葉 一亭
昭和四十八年六月四日 大沢欽治 建立」

<森総彦句碑>
「総彦 青梅や 小さき息を 大切に」


<落合直文の歌碑>
「萩寺の萩 面白し つゆの身の おくつきところ こことさだめむ 直文」

<石田波郷・石塚友二句碑>
「槇の空 秋押し移り ゐたりけり 波郷
たかむなの 疾迅わが背 越す日かな 友二」

<千載庵仲成歌碑>
「聞しより 来て見や □野の染付は いふもさらなり 萩のにしき手 千載庵仲成」

<冬嶺・市町句碑>
「ひと色を千々の錦や萩見寺 冬嶺
露の世にこぼさぬ露や萩の上 市町」


<百寿句碑>
「百寿 春盛る梅はうしろよ萩の花」

<羅舎一堂句碑>
「羅舎一堂 月や秋あきや夜にして十五日」

<夢佛庵くに□句碑>
「夏痩を驚く秋の寝覚哉 夢佛庵くに□」

<池月一陽子 句碑>
「遍照や萩三百の刈株も 一陽子」

<龍眼寺の柳>
説明板は、柳については言及していません。江戸名所絵図は、江戸名所図会の誤植です。
(説明板)
「龍眼寺の柳
應永二年(一、三九六)開基良博大和尚が、此処亀戸柳島村に村人の依頼により「柳源寺」を建立、後に「龍眼寺」(時代不明)と改められた。又元珍大和尚・元禄六年(一、六九三)萩を好み、全国より集め、「萩寺」と呼ばれ、文人墨客が集まり江戸の多く人々に親しまれ、江戸名所絵図、江戸砂子等にも描かれている。」


<客殿>

<八聖堂(本堂)>
本堂は八角堂となっています。
(説明板)
「本堂
天台宗 慈雲山無量院龍眼寺
本 尊 聖観世音菩薩
江東区有形文化財・現在の区内最古の仏像
應永二年(一、三九六)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え、帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。
その後現在の「龍眼寺」(時代不明)に改められた。
御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖(正)堂という。八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。
一、正見 正しい見解
二、正思 正しい思い
三、正語 正しいことぼ
四、正業 正しい行為
五、正命 正しい生活
六、正精進 正しい努力・勤め
七、正念 正しい信念・気づかい
八、正定 正しい精神統一」


江東天祖神社(旧砂原神明宮)
○江東天祖神社(旧砂原神明宮) 江東区亀戸3-38-35
「江東みちしるべ
天祖神社(福禄寿)
由来
天祖神社は、社伝によれば推古天皇の治世(593〜628)の創建で、その後、衰退していたのを応永10年(1403)に復興したと伝えられています。
天正年間(1573〜91)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病は治まったと言われています。今日では子供の健やかな成長を祈って、毎年9月16日に子供歩射が行われています。
亀戸七福神のひとつ(福禄寿)として親しまれています。」




「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
「安政改正御江戸大絵図」の砂原神明宮が描かれている部分の抜粋です。「シンメイ」とあります。

<玉垣>
「城東三業組合」の玉垣が1本、 「亀戸遊園地 総代 吉田金兵衛」の玉垣が1本、「亀戸 遊園地」の玉垣が2本あります。



<鳥居/社号標/国威輝八絋>
社号標は江東区文化財です。




<参道/御水舎>


<童子像・道祖神像・木化石>
境内の至るところに童子や道祖神の石像が置かれています。社務所前には木化石が置かれています。




<招魂碑/復興記念之碑>
鳥居(明治45年銘)は江東区文化財です。




<福禄寿>


<太郎稲荷神社>
柳川藩立花家上屋敷にあったのが、西町太郎稲荷神社(台東区東上野1-23-2)、下屋敷にあったのが太郎稲荷神社(台東区入谷2-19)です。両社とも現存しており、下屋敷にあった浅草田圃の太郎稲荷神社は、樋口一葉「たけくらべ」に登場します。
こちらは立花家の守護神(上屋敷の現在の西町太郎稲荷)を江戸末期に分祀し境内社とし現在に至っているようです。「境内社太郎稲荷神社社号標石」(昭和18(1943)年建立)は江東区文化財です。
(参考)
大島稲荷神社は旧下屋敷の太郎稲荷を合祀しています(大島稲荷はこちらで記載)。
上屋敷の太郎稲荷神社はこちらで記載。下屋敷の太田稲荷神社(浅草田圃)はこちらで記載。




<鳥居> 江東区文化財
2つ目の大正11(1922)年銘の鳥居は、江東区文化財です。鳥居の裏には「遊園地有志」「大正十一年三月建立」とあります。関東大震災前に遊園地による奉納です。




<力石> 江東区文化財
太郎稲荷神社参道に力石があります。「三拾六貫目」

<二之鳥居/狛犬/拝殿・本殿>





「江東みちしるべ
天祖神社(福禄寿)
由来
天祖神社は、社伝によれば推古天皇の治世(593〜628)の創建で、その後、衰退していたのを応永10年(1403)に復興したと伝えられています。
天正年間(1573〜91)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病は治まったと言われています。今日では子供の健やかな成長を祈って、毎年9月16日に子供歩射が行われています。
亀戸七福神のひとつ(福禄寿)として親しまれています。」




「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
「安政改正御江戸大絵図」の砂原神明宮が描かれている部分の抜粋です。「シンメイ」とあります。

<玉垣>
「城東三業組合」の玉垣が1本、 「亀戸遊園地 総代 吉田金兵衛」の玉垣が1本、「亀戸 遊園地」の玉垣が2本あります。



<鳥居/社号標/国威輝八絋>
社号標は江東区文化財です。




<参道/御水舎>


<童子像・道祖神像・木化石>
境内の至るところに童子や道祖神の石像が置かれています。社務所前には木化石が置かれています。




<招魂碑/復興記念之碑>
鳥居(明治45年銘)は江東区文化財です。




<福禄寿>


<太郎稲荷神社>
柳川藩立花家上屋敷にあったのが、西町太郎稲荷神社(台東区東上野1-23-2)、下屋敷にあったのが太郎稲荷神社(台東区入谷2-19)です。両社とも現存しており、下屋敷にあった浅草田圃の太郎稲荷神社は、樋口一葉「たけくらべ」に登場します。
こちらは立花家の守護神(上屋敷の現在の西町太郎稲荷)を江戸末期に分祀し境内社とし現在に至っているようです。「境内社太郎稲荷神社社号標石」(昭和18(1943)年建立)は江東区文化財です。
(参考)
大島稲荷神社は旧下屋敷の太郎稲荷を合祀しています(大島稲荷はこちらで記載)。
上屋敷の太郎稲荷神社はこちらで記載。下屋敷の太田稲荷神社(浅草田圃)はこちらで記載。




<鳥居> 江東区文化財
2つ目の大正11(1922)年銘の鳥居は、江東区文化財です。鳥居の裏には「遊園地有志」「大正十一年三月建立」とあります。関東大震災前に遊園地による奉納です。




<力石> 江東区文化財
太郎稲荷神社参道に力石があります。「三拾六貫目」

<二之鳥居/狛犬/拝殿・本殿>






東覚寺(亀戸不動)
○東覚寺(亀戸不動) 江東区亀戸4-24-1
江戸時代は、大山寺本尊と同木同作といわれる不動尊を不動堂に祀り、亀戸不動として信仰をあつめました。明治に覚王寺と合併し、現在の主尊は大日如来となっています。 荒川辺八十八ヶ所霊場第75番札所です。

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
「トウカクジ」の文字が見えます。

(説明板)
「東覚寺(弁財天)
東覚寺は享禄4年(1531)玄覚法印の創建と伝えられています。明治34(1901)年覚王寺を合併しました。覚王寺は江東区猿江2-15付近にあり、府内88ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されています。
当時の不動明王は、東大寺別当良弁(689〜773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。
亀戸七福神のひとつ(弁財天)として親しまれています。」

<不動明王標柱>
門前に天保11(1840)年銘の破損が激しい「不動明王標柱」が建っています。道標を兼ねています。西へ一丁の場所からの移設でしょう。
(正面上部)「不動明王」
(正面右端)「大山同木同作 右へ一丁」
(正面下部)「右 …分/右 …/左 く…」




<弁天堂>
境内の右側に「弁天堂」があります。


<是心軒一露居士碑> 江東区文化財
明治32年銘の「是心軒一露居士碑」です。隣に「是心軒一門之碑」が建っています。



<宝篋印塔> 江東区文化財
本堂前の「宝篋印塔」です。


<奉献石燈籠> 江東区文化財
客殿前に延宝9(1681)年銘の厳有院殿尊前奉献石燈籠(寛永寺)があります。厳有院は第四代将軍家綱です。
「奉拝進 石燈籠」
「嚴有院殿 尊前」
「延寶九辛酉歳五月八日 飛騨國主金森万助源頼時」



<本堂>



<覚王寺札所碑> 江東区文化財
墓地に江東区文化財の「覚王寺札所碑」があります。破損激しい石碑で「□□三番」「讃岐国出釈迦寺移」などの文字があります。合併した覚王寺の猿江に置かれていた御府内八十八箇所七十三番札所碑だと判断しました。読み取れませんでしたが、道標を兼ねているようです。


<三猿の庚申塔> 江東区文化財
墓地通路正面にある基壇上の銅製宝塔の右手前に三猿の庚申塔があります。三猿がピラミッド型に配されています。



江戸時代は、大山寺本尊と同木同作といわれる不動尊を不動堂に祀り、亀戸不動として信仰をあつめました。明治に覚王寺と合併し、現在の主尊は大日如来となっています。 荒川辺八十八ヶ所霊場第75番札所です。

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
「トウカクジ」の文字が見えます。

(説明板)
「東覚寺(弁財天)
東覚寺は享禄4年(1531)玄覚法印の創建と伝えられています。明治34(1901)年覚王寺を合併しました。覚王寺は江東区猿江2-15付近にあり、府内88ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されています。
当時の不動明王は、東大寺別当良弁(689〜773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。
亀戸七福神のひとつ(弁財天)として親しまれています。」

<不動明王標柱>
門前に天保11(1840)年銘の破損が激しい「不動明王標柱」が建っています。道標を兼ねています。西へ一丁の場所からの移設でしょう。
(正面上部)「不動明王」
(正面右端)「大山同木同作 右へ一丁」
(正面下部)「右 …分/右 …/左 く…」




<弁天堂>
境内の右側に「弁天堂」があります。


<是心軒一露居士碑> 江東区文化財
明治32年銘の「是心軒一露居士碑」です。隣に「是心軒一門之碑」が建っています。



<宝篋印塔> 江東区文化財
本堂前の「宝篋印塔」です。


<奉献石燈籠> 江東区文化財
客殿前に延宝9(1681)年銘の厳有院殿尊前奉献石燈籠(寛永寺)があります。厳有院は第四代将軍家綱です。
「奉拝進 石燈籠」
「嚴有院殿 尊前」
「延寶九辛酉歳五月八日 飛騨國主金森万助源頼時」



<本堂>



<覚王寺札所碑> 江東区文化財
墓地に江東区文化財の「覚王寺札所碑」があります。破損激しい石碑で「□□三番」「讃岐国出釈迦寺移」などの文字があります。合併した覚王寺の猿江に置かれていた御府内八十八箇所七十三番札所碑だと判断しました。読み取れませんでしたが、道標を兼ねているようです。


<三猿の庚申塔> 江東区文化財
墓地通路正面にある基壇上の銅製宝塔の右手前に三猿の庚申塔があります。三猿がピラミッド型に配されています。



北十間川と旧中川
○源森川・北十間川 (江東区史跡)
江戸時代は大横川の分流点より西を源森川、東を北十間川といいました。
万治2(1659)年から本所の開発が始められ、竪川、源森川(別名:源兵衛堀)などの掘割が開削されました。1662(寛文2)年には関東郡代であった伊奈半十郎により、源森川隅田川口に源森橋(源兵衛橋)が架けられました。
北十間川は主に農業用水のため1663(寛文3)年に開削されました。
当初両川は繋がっていましたが、隅田川増水時の洪水被害のため、1672(寛文12)年に洪水を大横川に流す堤が築かれ、両川は分断されました。
1885(明治18)年に、源森川と北十間川は再び接続されています。
「江戸切絵図」
本所絵図と隅田川向嶋絵図から、源森川・北十間川部分の抜粋です。
本所絵図

隅田川向嶋絵図(北を上に回転しています)

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
「安政改正御江戸大絵図」の源森川・北十間川が描かれている部分の抜粋です。

○北十間川と旧中川
北十間川の旧中川への合流地点です。北十間川は荒川水系なので、ここが整理上は上流となります。旧中川には新江東橋が架かっています。
この辺りは地盤沈下が激しかった地域で、現在は川の水位を下げて管理しています。雨が降ると排水機場からポンプで中川へ排水します。
以前の堤防のかさ上げの歴史を伝える堤防が残されています。東京湾満潮時より3.1m低く管理されおり、小名木川では東西で最大3mの水位差が発生しています。





○旧中川のかさ上げ護岸(旧堤防) 江戸川区平井6-1-30
保存されている護岸と、掲示されている写真から、以前はもっと川の水位が高く、川幅も今よりはるかに広かったことがわかります。
<旧中川「かさ上げ護岸」の歴史>
(説明板)
「旧中川「かさ上げ護岸」の歴史
旧中川が流れるこの地域は、乱流する荒川(現隅田川)や中川、利根川(現江戸川)の河口部に堆積した三角州を埋め立て、江戸の市街地として発達してきたことからもともと低地であり、過去幾度となく高潮や洪水の被害を受けてきました。更に明治末期からの工業地帯としての発展に伴う地下水の過剰なくみ上げにより地盤沈下が進行し、現在の荒川と隅田川に囲まれた江東三角地帯
は、東京湾の満潮水位以下となってしまいゼロメートル地帯とも呼ばれております。地盤沈下を防止・軽減するため、地下水揚水規制や水溶性天然ガスの採取停止などを実施した結果、昭和四十八年頃から沈下は急速に減少し、現在ほぼ停止しております。
地盤沈下が続いた町を水害から守るため、旧中川を始めとする江東内部河川(江東三角地帯を流れる河川の総称)の護岸は、かさ上げを余儀なくなれました。しかし護岸は、応急対策としての度重なるかさ上げにより、まちと川が分断されるとともに構造的に脆弱化し、大地震が発生した際の護岸崩壊による水害の危険性が心配されてきました。
東京都はこの地震水害から地域を守るため、昭和四十六年より江東内部河川整備事業に着手し、北十間川樋門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については荒川など周辺河川から締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を平成五年三月に完了させました。
その後、旧中川は水位低下に伴い不要となった「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、広い高水敷と緩傾斜堤防を整備し、安全で潤いのある親水空間を創出してまいりました。
ここに残された旧中川のかさ上げ護岸は、緩傾斜堤防の整備が完了したことを記念し、これまで水害から地域を守ってきた「かさ上げ護岸」の歴史を後世に伝えるとともに、低地帯に住む都民の皆様に水害に対する防災意識を継続していただくため、その一部を保存するものであります。
平成二十三年三月 東京都江東治水事務所」
「旧中川 江東新橋下より 1974年」
「旧中川 平井橋付近 1974年」





江戸時代は大横川の分流点より西を源森川、東を北十間川といいました。
万治2(1659)年から本所の開発が始められ、竪川、源森川(別名:源兵衛堀)などの掘割が開削されました。1662(寛文2)年には関東郡代であった伊奈半十郎により、源森川隅田川口に源森橋(源兵衛橋)が架けられました。
北十間川は主に農業用水のため1663(寛文3)年に開削されました。
当初両川は繋がっていましたが、隅田川増水時の洪水被害のため、1672(寛文12)年に洪水を大横川に流す堤が築かれ、両川は分断されました。
1885(明治18)年に、源森川と北十間川は再び接続されています。
「江戸切絵図」
本所絵図と隅田川向嶋絵図から、源森川・北十間川部分の抜粋です。
本所絵図

隅田川向嶋絵図(北を上に回転しています)

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
「安政改正御江戸大絵図」の源森川・北十間川が描かれている部分の抜粋です。

○北十間川と旧中川
北十間川の旧中川への合流地点です。北十間川は荒川水系なので、ここが整理上は上流となります。旧中川には新江東橋が架かっています。
この辺りは地盤沈下が激しかった地域で、現在は川の水位を下げて管理しています。雨が降ると排水機場からポンプで中川へ排水します。
以前の堤防のかさ上げの歴史を伝える堤防が残されています。東京湾満潮時より3.1m低く管理されおり、小名木川では東西で最大3mの水位差が発生しています。





○旧中川のかさ上げ護岸(旧堤防) 江戸川区平井6-1-30
保存されている護岸と、掲示されている写真から、以前はもっと川の水位が高く、川幅も今よりはるかに広かったことがわかります。
<旧中川「かさ上げ護岸」の歴史>
(説明板)
「旧中川「かさ上げ護岸」の歴史
旧中川が流れるこの地域は、乱流する荒川(現隅田川)や中川、利根川(現江戸川)の河口部に堆積した三角州を埋め立て、江戸の市街地として発達してきたことからもともと低地であり、過去幾度となく高潮や洪水の被害を受けてきました。更に明治末期からの工業地帯としての発展に伴う地下水の過剰なくみ上げにより地盤沈下が進行し、現在の荒川と隅田川に囲まれた江東三角地帯
は、東京湾の満潮水位以下となってしまいゼロメートル地帯とも呼ばれております。地盤沈下を防止・軽減するため、地下水揚水規制や水溶性天然ガスの採取停止などを実施した結果、昭和四十八年頃から沈下は急速に減少し、現在ほぼ停止しております。
地盤沈下が続いた町を水害から守るため、旧中川を始めとする江東内部河川(江東三角地帯を流れる河川の総称)の護岸は、かさ上げを余儀なくなれました。しかし護岸は、応急対策としての度重なるかさ上げにより、まちと川が分断されるとともに構造的に脆弱化し、大地震が発生した際の護岸崩壊による水害の危険性が心配されてきました。
東京都はこの地震水害から地域を守るため、昭和四十六年より江東内部河川整備事業に着手し、北十間川樋門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については荒川など周辺河川から締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を平成五年三月に完了させました。
その後、旧中川は水位低下に伴い不要となった「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、広い高水敷と緩傾斜堤防を整備し、安全で潤いのある親水空間を創出してまいりました。
ここに残された旧中川のかさ上げ護岸は、緩傾斜堤防の整備が完了したことを記念し、これまで水害から地域を守ってきた「かさ上げ護岸」の歴史を後世に伝えるとともに、低地帯に住む都民の皆様に水害に対する防災意識を継続していただくため、その一部を保存するものであります。
平成二十三年三月 東京都江東治水事務所」
「旧中川 江東新橋下より 1974年」
「旧中川 平井橋付近 1974年」






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