伊藤左千夫牧舎兼住居跡と歌碑

○伊藤左千夫牧舎兼住居跡と歌碑 墨田区江東橋3-14-6

 錦糸町駅南口のロータリーに、説明板「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」と「伊藤左千夫歌碑」があります。

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(説明板)
「伊藤左千夫牧舎兼住居跡  所在地 墨田区江東橋3-13
 この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
 左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(一八六四)八月十八日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
 左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治四十一年には後継誌『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
 この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。
 隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
  平成二十四年三月  墨田区教育委員会」

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「左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)」

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「本所茅場町の牛舎」

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<伊藤左千夫歌碑>

 「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも 左千夫」

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tag : 伊藤左千夫

伊藤左千夫宅跡(終焉の地) 史跡

○伊藤左千夫宅跡(終焉の地)江東区史跡 江東区大島6-1

 UR大島6丁目団地は、伊藤左千夫終焉の地です。中央広場の時計塔の下部に伊藤左千夫の歌碑がはめられています。伊藤左千夫終焉の地を記念して左千夫記念会が、昭和55(1980)年7月に建てました。左千夫の門人の土屋文明の揮毫です。

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<歌碑>

 「 左千夫
  朝起きてまだ飯前のしばらくを
  小庭に出でて春の土踏む
   大正二年七月三十日
   伊藤左千夫この地に没す
        左千夫記念會」

 『アララギ』(大正2年3月1日)に掲載された歌です。

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○伊藤左千夫歌碑 江東区大島3-22-1

 都立城東高等学校の北の歩道に面して伊藤左千夫の歌碑(昭和54(1979)年建立)があります。竪川人道橋南詰のすぐ近くです。

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<歌碑>

(碑表)
 「竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり
  左千夫作 門人文明しるす」

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(碑陰)
「伊藤左千夫先生
 先生は元治元年千葉県成東町の生まれ、本名幸次郎、明治二十二年より、本所茅場町(現錦糸町駅前)にて牛乳搾取業を営む。明治三十三年子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍、その歌柄は大きく独自の万葉調を樹立、赤彦・茂吉・千樫・文明らを育て、アララギ派興隆の基礎を作る。万葉集研究・歌論のほか小説の筆をとり、『野菊の墓』ほかの作品がある。
 大正元年五月、府下大島町字亀戸九○二(現大島六丁目一番)に牛舎を移し、翌二年三月には住居も移したが、同年七月三十日に急逝した。享年五十歳。
 碑の歌は明治四十年発表の「勾王日記、四月十七日」の中にあり、牝牛の誕生を「家こそりてほき悦ふ」という文に続いている。
 先生終焉の地の近くに城東高校が創設され、これを機に歌碑建立の話が進み、全国にわたる多くの方々の協力、土屋文明先生の御支援を得て完成した。

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※伊東左千夫の墓は普門院(亀戸)にあり、こちらで記載

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五之橋(竪川)

○五之橋(江東区史跡) 江東区亀戸1・6丁目〜大島2・3丁目

 暗渠となっている竪川に架かる明治通りの「五之橋」です。

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<五の橋親柱>

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<五之橋> 江東区亀戸6-1

 五之橋北詰に五之橋の説明プレート(逆三角形)があります。

(プレート文)
「五之橋
 五之橋の下を流れる堅川は、万治2年(1659年)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。
 堅川の開削に合わせ西の方から、一之橋を始めとして五つの橋が架けられた。当時この付近は、畑地が多く人の往来も少なかった。
 御府内備考によれば、「御人用無益之場所」として、貞享元年(1684年)本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。
 元禄8年(1695年)五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。
 その後、明治12年(1879年)に本橋が架けられたが大正12年の大震災により落橋した。
 震災復興により昭和3年本橋は鋼橋に架け替えられた。
 戦災にも耐えた本橋は老朽化により、昭和50年再度架け替えられた。
 親柱は震災復興記念として現在も残されている。
 亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年東京都著名橋に指定された。
  平成4年3月」

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<石のベンチにプレート> 江東区亀戸6-1

 石のベンチに3つのプレートがあります。

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<本所猿江亀戸村辺繪図>

 嘉永4(1851)年の地図が掲示されています。〇の所が現在の五之橋です。「五ツ目渡シ場」とあります。右手に「五百羅漢寺」があります。小名木川河口に「中川御番所」とあります。

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<江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂>

「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」の抜粋を掲示しています。

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「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」から、プレート掲示部分の抜粋です。

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「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」(3枚連結の全体)

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<伊藤左千夫歌碑> 江東区亀戸6-1

 伊藤左千夫の短歌のプレートがあります。
 「竪川の野菊の宿は初芽すぎ二の芽摘むべく群れ生ひにけり 伊藤左千夫」
 伊藤左千夫は、乳業店で働いた後、明治22(1889)年独立して、錦糸町に牛舎を建て牛乳の製造販売を始めています。

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<旧千葉街道道標> 江東区亀戸6-1

 「五之橋」北詰に「旧千葉街道」道標があります。

(石碑文)

「旧千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより現在の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった。
  昭和三十三年十月一日 江東区第十七号」

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<亀戸大根銘鈑> 江東区亀戸6-1

 「亀」の形をした「亀の字」と「大根」の形をした「戸の字」を組み合わせた亀戸大根の銘鈑が、街路灯の柱にあります。

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<寛永通宝のベンチ> 江東区亀戸1-27

 石のベンチの背もたれに「寛永通宝」のオブジェが埋め込まれています。ベンチの反対側には、「寛永通宝」の裏面が埋め込まれています。
 江戸時代、今の亀戸3丁目にあった「銭座」では「寛永通宝」が鋳造されていました。これにちなんで寛永通宝をかたどったベンチでしょう。ちなみに五渡亭園の噴水も寛永通宝をかたどっています。

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<大田区の電柱> 江東区亀戸1-27

 「車は急に止まれない 交通安全宣言 大田区」
 なぜか電柱に大田区の掲示です。

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<五之橋南詰公衆トイレ> 江東区大島2-31-1

 トイレの壁には「亀戸藤乃景」(香蝶楼豊国)

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「亀戸藤乃景」(香蝶楼豊国 国立国会図書館蔵)

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<三代・歌川豊国(五渡亭国貞)生誕の地・浮世絵ギャラリー>

 五の橋を歩いて見るギャラリーです。五渡亭国貞の役者絵と美人画が14枚掲示されています。

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tag : 竪川亀戸江戸名所図会伊藤左千夫史跡

三代豊国五渡亭園

○竪川河川敷公園 江東区大島〜亀戸 HP

 竪川河川敷公園は、首都高速道路7号線の高架下にある延長2.4kmの江東区立の公園です。竪川河川敷公園の中に、「三代豊国 五渡亭園」があります。

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<東屋と人力車>

 東屋の脇に「人力車」が展示されています。

(説明板)
 「人力車
  五の橋豊国通り商店会が、地域振興のために、平成24年に職人に製作を依頼したものです。」

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○三代豊国五渡亭園 江東区亀戸6 五ノ橋豊国通り商店会 HP

 三代歌川豊国が五ノ橋際に住んでいたことにちなんで作られた庭園です。浮世絵ギャラリーや「朱塗りの太鼓橋」、「かわらぬ恋の池」などがあります。

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<三代目歌川豊国の生地>

(説明板)
「三代目 歌川豊国の生地
 三代目歌川豊国は江戸時代後期の浮世絵師。初代豊国の高弟ではじめは国貞と名乗り、のちに豊国を襲名する。本名を角田庄五郎と称し、天明六年(一七八六)に本所五ッ目(亀戸五・六丁目付近)で生まれる。五渡亭、一雄斉、香蝶楼など多くの画号があり、とくに五渡亭を一番長く愛用した。その名の由来は、本所五ッ目に居を構え、竪川にかかる五ッ目の渡し船の株をもっていたことに因んで、天明期を代表する狂歌師大田南畝(蜀山人)から贈られたという。のち亀戸町に転居し、生涯を亀戸周辺で過ごした。
 豊国は文化・文政期(一八〇四〜一八三〇)を代表する浮世絵師として、美人画・役者絵など多彩なジャンルで活躍した。なかでも柳亭種彦の合本『偐紫田舍源氏』では、挿絵を担当し大人気を得る。この作品をきっかけに源氏物語の世界観を描く「源氏絵」のジャンルを確立し、当時の歌舞伎にも影響を与えた。
 その活躍期間は長く、江戸時代の浮世絵師のなかでも最多の作品数をほこる。元治元年(一八六四)に七九歳で死去。墓所は亀戸光明寺(亀戸三‐四ニ‐一)にある。
(歌川豊国「江戸名所 百人美女 五百羅かん」を掲示)  江東区」
(※墓所のある光明寺について、こちらで記載

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「江戸名所 百人美女 五百羅かん」(歌川豊国 国立国会図書館蔵)

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 ※「歌川豊国翁之碑」(江東区文化財)が亀戸天神にあります。こちらで記載


<朱塗りの太鼓橋>

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<かわらぬ恋の池(鯉の池)>

 江戸時代、亀戸あたりでは江戸城の瓦を造っていました。と鯉をかけて「かわらぬ恋の池」と名付けられています。

(説明板)
 「「竪川と瓦」
  この竪川沿いでは良い粘土が採れたことから、瓦職人が多く住み、江戸城の瓦も焼かれました。
 その名残として亀戸の一部地区では「上瓦」と染めた祭り半纏を着用しています。
 地元の方々は、池に棲む鯉とかけて「かわらぬ恋の池」と呼んでいます。」

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<寛永通宝噴水>

 寛永通宝をかたどった噴水があります。

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○五之橋下浮世絵ギャラりー(三代豊国ギャラリー)

 橋げたの下に、三代豊国(五渡亭国貞)の役者絵と美人画が掲示されています。常時22枚の浮世絵が展示され、随時、浮世絵が変更されるようです。

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tag : 竪川亀戸江戸名所百人美女大田南畝

堅川人道橋~城東電気軌道

○堅川人道橋 江東区亀戸6丁目〜大島3丁目

 かつての都電の軌道敷が、亀戸緑道と大島緑道に整備され、その間、首都高速下に、竪川人道橋があります。
 亀戸側には線路と車輪のモニュメント、説明板「竪川専用橋と竪川人道橋の歴史」があります。大島側には、説明板「橋の記憶」があります。

<竪川人道橋>

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「昭和42年当時の風景」

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<竪川河川敷公園案内図>

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<竪川専用橋と竪川人道橋の歴史> 江東区亀戸6-33-1

(説明板)
「竪川専用橋と竪川人道橋の歴史
 かつてこの場所には、路面電車が走るための『竪川専用橋』が水神森〜大島間の開通に合わせ、大正十年一月より架設されていた。
 当初の運営は大正二年十月に設立された城東電気軌道(株)で、昭和十七年ニ月に東京市営、同十八年七月に都営となった。ところが、昭和ニ十年の大空襲により甚大な被害を受けた。しかし復興に努め、昭和ニ十四年には区内全域が開通した。
 『チンチン電車』と呼ばれて親しまれ、便利だった都電も昭和三十年代の高度経済成長政策の頃から、自動車交通の急激な発達により道路が渋滞し、輸送力低下による赤字決算の連続となった。その結果、昭和四十七年、区内全線が廃止された。
 そして、昭和五十年、この橋は歩行者専用橋として改修され『竪川人道橋』と呼ばれるようになり、同五十四年、橋の南北の軌道敷は緑道公園に生まれ変わった。
 以来、この橋は平成7年の景観整備工事にて都電をモチーフに修景され、地域の歴史を伝えるモニュメンタルな橋として地域に親しまれてきたが、老朽化が進んできたこともあり、竪川河川敷公園の大規模改修に合わせ一体整備されることとなり、平成23年に橋は撤去され、現在の姿となっている。
 なお、モニュメントのレールの一部は『25系統』の亀戸九丁目で使われていたものを再使用しており、車輪は当時の写真等を参考にオブジェとしてデザインされたものである。
  令和2年 江東区土木部」

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<モニュメント> 江東区亀戸6-33-1

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<橋の記憶> 江東区大島3-23

 大島側に説明田「橋の記憶」があります。

(説明板)
「橋の記憶
 ここには、かって川があり、橋がありました。
 橋には都電が走っていました。
 時の流れとともに、都電は廃止され、高速道路が建設されました。
 やがて、川は理め立てられ公園となり、役目を終えた橋が撤去されました。
 長年、みなさんに親しまれた橋の思い出を次の世代に伝えていくため、
 ここに「橋の記憶」を設置します。

 竪川人道橋の概要
  橋長 23. Om
  幅員 6.5m
  形式 3径間単純鋼桁橋

 経緯 
  大正10年 1月 路面電車の専用橋として架設
  昭和46年 3月 高速道路の開通
  昭和47年11月 都電の廃止
  昭和50年 2月 歩行者・自転車專用橋として再整備
  昭和59年 4月 竪川河川敷公園の開園
  平成23年 9月 橋の撒去」

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「昭和30年頃 竪川人道橋を走る都電」

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「平成23年 竪川人道橋撤去前」

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「昭和30年頃 橋周辺の地図」

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「昭和37年7月 江東区都電路線図」

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