熊野神社(流山市)
○熊野神社 流山市思井305
思井の台地の南の端の森の中に熊野神社があります。
<参道>
「この先大型車両通り抜けできません」の掲示があります。徒歩、自転車、バイクは通り抜け可能です。自転車がちらほら通り抜けていました。




<説明板>
「87 熊野神社
中世、八木郷の地名発祥伝説がある神社。祭神は櫛御気野命(くしみけのみこと)。天和元年(1681)再建。境内には、伝説のシイの木のほか、板碑型の阿弥陀如来(あみだにょらい)や十九夜塔(じゅうきゅうやとう)などの石造物がある。」

<鳥居/社号標>
鳥居は寛政元(1789)年銘です。



<手水舎>
参道左手に手水舎です。手水鉢は安永6(1777)年銘です。



<庚申塔/馬頭観音>
手水舎の後に庚申塔と馬頭観音があります。
弘化5(1848)年銘の庚申塔です。



文化15(1818)年銘の馬頭観音です。


<社殿・本殿>





【境内右手】
<天神宮・春日宮・稲荷宮>
延享3(1746)年銘の石祠「天神宮・春日宮・稲荷宮」です。



<廿三夜塔>
文政10(1827)年銘の二十三夜塔です。


<大山阿夫利神社>
明治42(1909)年銘の「大山阿夫利神社」です。


<山神宮>
天明3(1783)年銘の石祠「山神宮」です。




【境内左手】
出羽三山供養塔が三基あります。


<庚申塔>
天保4(1833)年銘の庚申塔です。右の猿は左手で目を塞ぎながら右手に花を持っています。



<出羽三山供養塔> 一基目
寛政5(1793)年銘の出羽三山供養塔です。
(正面)「月山湯殿山羽黒山 西國秩父坂東」「為現當両益也」
「天下和順 日月清明」
(左面)「施主思井村(個人名)」






<聖徳皇太子>
安永9(1780)年銘の「聖徳皇太子」です。


<金毘羅大権現>
慶應元(1865)年銘の「金毘羅大権現」です。


<出羽三山供養塔> 二基目
文政4(1821)年銘の出羽三山供養塔です。
「月山湯殿山羽黒山 西國秩父坂東 供養塔」




<光明真言供養塔>
文政6年銘。1821(文政4(1821)年銘の「光明真言一百萬遍供養塔」です。

<出羽三山供養塔> 三基目
寛政12(1800)年銘の出羽三山供養塔です。ロープで固定されています。
「羽黒山湯殿山月山 西國秩父坂東」「為現當両益也」






【境内裏】
<三峯神社>

<天照皇大神宮>

【境外】
庚申塔を中心として石塔が並んでいます。

<板碑三基>
左の板碑三基です。

延宝3(1675)年銘の阿弥陀如来板碑です。


延宝3(1675)年銘の十九夜塔板碑です。


延宝5(1677)年銘の十九夜塔板碑です。


<不詳>
文政11(1828)年銘の石塔です。


<青面金剛文字塔>
文化2(1805)年銘の庚申塔です。下に三猿。「思井村講中」


<庚申文字塔二基>
文政8(1825)年銘の庚申塔です。


文化11(1814)年銘の庚申塔です。


<庚申文字塔三基>
安永2(1773)年銘、寛政12(1800)年銘、寛政12(1800)年銘の庚申塔が続きます。




【青面金剛像四基】
<青面金剛像>
宝永8(1711)年銘の庚申塔です。



<青面金剛像>
正徳4(1714)年銘の庚申塔です。



<青面金剛像>
享保3(1718)年銘の庚申塔です。



<青面金剛像>
元文3(1738)年銘の庚申塔です。



思井の台地の南の端の森の中に熊野神社があります。
<参道>
「この先大型車両通り抜けできません」の掲示があります。徒歩、自転車、バイクは通り抜け可能です。自転車がちらほら通り抜けていました。




<説明板>
「87 熊野神社
中世、八木郷の地名発祥伝説がある神社。祭神は櫛御気野命(くしみけのみこと)。天和元年(1681)再建。境内には、伝説のシイの木のほか、板碑型の阿弥陀如来(あみだにょらい)や十九夜塔(じゅうきゅうやとう)などの石造物がある。」

<鳥居/社号標>
鳥居は寛政元(1789)年銘です。



<手水舎>
参道左手に手水舎です。手水鉢は安永6(1777)年銘です。



<庚申塔/馬頭観音>
手水舎の後に庚申塔と馬頭観音があります。
弘化5(1848)年銘の庚申塔です。



文化15(1818)年銘の馬頭観音です。


<社殿・本殿>





【境内右手】
<天神宮・春日宮・稲荷宮>
延享3(1746)年銘の石祠「天神宮・春日宮・稲荷宮」です。



<廿三夜塔>
文政10(1827)年銘の二十三夜塔です。


<大山阿夫利神社>
明治42(1909)年銘の「大山阿夫利神社」です。


<山神宮>
天明3(1783)年銘の石祠「山神宮」です。




【境内左手】
出羽三山供養塔が三基あります。


<庚申塔>
天保4(1833)年銘の庚申塔です。右の猿は左手で目を塞ぎながら右手に花を持っています。



<出羽三山供養塔> 一基目
寛政5(1793)年銘の出羽三山供養塔です。
(正面)「月山湯殿山羽黒山 西國秩父坂東」「為現當両益也」
「天下和順 日月清明」
(左面)「施主思井村(個人名)」






<聖徳皇太子>
安永9(1780)年銘の「聖徳皇太子」です。


<金毘羅大権現>
慶應元(1865)年銘の「金毘羅大権現」です。


<出羽三山供養塔> 二基目
文政4(1821)年銘の出羽三山供養塔です。
「月山湯殿山羽黒山 西國秩父坂東 供養塔」




<光明真言供養塔>
文政6年銘。1821(文政4(1821)年銘の「光明真言一百萬遍供養塔」です。

<出羽三山供養塔> 三基目
寛政12(1800)年銘の出羽三山供養塔です。ロープで固定されています。
「羽黒山湯殿山月山 西國秩父坂東」「為現當両益也」






【境内裏】
<三峯神社>

<天照皇大神宮>

【境外】
庚申塔を中心として石塔が並んでいます。

<板碑三基>
左の板碑三基です。

延宝3(1675)年銘の阿弥陀如来板碑です。


延宝3(1675)年銘の十九夜塔板碑です。


延宝5(1677)年銘の十九夜塔板碑です。


<不詳>
文政11(1828)年銘の石塔です。


<青面金剛文字塔>
文化2(1805)年銘の庚申塔です。下に三猿。「思井村講中」


<庚申文字塔二基>
文政8(1825)年銘の庚申塔です。


文化11(1814)年銘の庚申塔です。


<庚申文字塔三基>
安永2(1773)年銘、寛政12(1800)年銘、寛政12(1800)年銘の庚申塔が続きます。




【青面金剛像四基】
<青面金剛像>
宝永8(1711)年銘の庚申塔です。



<青面金剛像>
正徳4(1714)年銘の庚申塔です。



<青面金剛像>
享保3(1718)年銘の庚申塔です。



<青面金剛像>
元文3(1738)年銘の庚申塔です。



tag : 出羽三山
八坂神社(鎌ヶ谷市)
○八坂神社 鎌ヶ谷市粟野208
元禄12(1699)年から現在も続く庚申講は、庚申塔群とともに、鎌ケ谷市文化財に指定されています。







<石造物>
(鎌ケ谷市HPより引用)
「【石造物】 粟野の石塔群 粟野208 (八坂神社境内)他
元は粟野の市道をはさんで並んでいた石塔のうち、字西側にあった出羽三山講碑8基と歯吹如来像・待道権現碑・聖徳太子講碑は、道路の拡幅にともない、八坂神社へ移設された。字東側には地蔵をはさんで、14基の馬頭観音が今も見られる。その中の安永8年(1779)のものは市内最古である。
出羽三山講碑は山形県の月山、湯殿山、羽黒山の三山の登拝を記念したもので、出羽三山講は遠隔地の有名社寺や霊山を集落の代表者が参拝することを目的として結成される代参講の一つのである。
歯吹如来は歯痛を治す信仰があるという。ここの石造物は粟野村の人たちが天保10年(1839)に千田村(現長南町千田)称念寺の歯吹如来像参拝記念に建てたものと思われる。「歯吹」は本来、「把富貴」と書かれるという。
侍道権現を祀る待道講は子供を産む年齢の女性たちに信仰された安産祈願の女人講である。
聖徳太子講は大工、左官など主に建築に関る職人たちの結ぶ講で、賃金の協定や職務上の申し合わせなどを行ったものである。」
<出羽三山講碑>
出羽三山講碑が8基と、拝殿左手に2基の計10基もあります。庚申塔群の横に並ぶ出羽三山講碑群です。

「羽黒山 月山 湯殿山 参拝記念」
昭和三十八(1963)年七月

「羽黒山 月山 湯殿山 参拝記念」
大正時代の造立。

「羽黒山 月山 湯殿山 参拝紀念碑」

「羽黒山 月山 湯殿山 参拝紀念碑」

「羽黒山 月山 湯殿山 三神社参拝」

「月山 湯殿山 羽黒山 西國三拾三ヶ所 秩父三拾四ヶ所 奉納供養」
明治三(1870)年の造立。針金で補強されています。


「月山 湯殿山 羽黒山 西國三十三所 秩父三十四所 坂東三十三所 奉納供養」
天保二(1831)年の造立。針金で補強されています。


「月山 湯殿山 羽黒山 西國三拾三所 秩父三拾四所 坂東三拾三所 奉納供養」
寛政八(1796)年の造立。


<歯吹如来像>
「天保十年十一月」「上総國千田村」
粟野村の人たちが天保10(1839)年に千田村(現長南町千田)称念寺の歯吹如来像参拝記念に建てたもの。



<聖徳太子講碑>
「安政四(1857)年十一月」 折れた補修跡があります。


<十九夜塔>
元禄十六(1702)年十月。

<粟野庚申講・粟野庚申塔群>




(説明板)
「鎌ケ谷市指定文化財第29号 粟野庚申講 無形民俗文化財
鎌ケ谷市指定文化財第30号 粟野庚申塔群 有形民俗文化財
・指定年月日 平成25年5月1日 所在地 鎌ケ谷粟野208
粟野は、祭礼やオコモリなど昔から続く民俗的行事が多く残っていて、地域の結びつきの強い地区です。その中でも、庚申講は、形を変えながらも江戸時代から現在まで継承されています。そして、庚申講により、江戸時代前期の元禄12年(1699)から314年間途切れることなく庚申塔が建てられ、しかも、文化12年(1815)から現在までの間(1845年と1850年をのぞく)は、5年おきに1基という規則性を守って建てられています。このことは、全国的にみても珍しい事例です。
粟野の庚申塔は、現在、八坂神社境内に44基と粟野保育園の北西角の路傍に1基、合計45基建っています。そのうち文化12年以前に建てられた塔は、当時の流行を反映していて、一か所で様々な形態を観察できる資料としても非常に貴重です。
平成25年7月 鎌ケ谷市教育委員会」

「庚申塔」
後列右から。宝暦二(1752)年。

「庚申板碑」
元禄十二(1699)年十月。下に三猿が刻まれています。

「庚申塔」

「庚申塔」
享保五(1720)年十月。三面の像です。

「庚申塔」
享保二十(1735)年十一月。

「庚申板碑」
右の板碑は、明和元(1754)年十一月。左の庚申塔は、寛政十一(1799)年。

「庚申塔」







「庚申塔」
後列左。


「庚申塔」
前列の新しいの庚申塔です。



「庚申塔」
一番左は、「令和二年十月吉日」。令和2年の最新の庚申塔です。
右隣は、平成27(2015)年10月造立の庚申塔です。


<参道小社>
参道左手と右手の小社です。



<狛犬>
「いにしえも 今も変らぬ わがさとの かを里も深き 八坂大神」


<拝殿>



<本殿>
本殿にも狛犬。




<駒形明神宮>
「文政庚辰霜月」「平成五年一月復元」
文政3(1820)年の造立で、平成5(1993)年の復元です。



<石祠>
「明和五歳(1768)十二月」


【拝殿左手】
<力石>
本殿の横に力石が二つあります。一つには重量と粟野村と刻まれています。



<出羽三山講碑>
「参拝昭和十二年五月二日、参拝昭和二十一年八月四日」
昭和39(1964)年の建立で、昭和12(197)年と昭和21(1946)年の参拝が刻まれています。




<出羽三山講碑>
昭和47(1972)年3月建立。

<天満宮/大杉神社>
2祠が並んでいます。平成17(2005)年6月再建。


<浅間神社>
少々小高くなった場所があり、石碑「浅間神社」があります。



<石尊社>
大山詣も行われていたようです。
「明治二十六(1893)年九月」の造立。


<不明/三峯神社/古峯神社>


元禄12(1699)年から現在も続く庚申講は、庚申塔群とともに、鎌ケ谷市文化財に指定されています。







<石造物>
(鎌ケ谷市HPより引用)
「【石造物】 粟野の石塔群 粟野208 (八坂神社境内)他
元は粟野の市道をはさんで並んでいた石塔のうち、字西側にあった出羽三山講碑8基と歯吹如来像・待道権現碑・聖徳太子講碑は、道路の拡幅にともない、八坂神社へ移設された。字東側には地蔵をはさんで、14基の馬頭観音が今も見られる。その中の安永8年(1779)のものは市内最古である。
出羽三山講碑は山形県の月山、湯殿山、羽黒山の三山の登拝を記念したもので、出羽三山講は遠隔地の有名社寺や霊山を集落の代表者が参拝することを目的として結成される代参講の一つのである。
歯吹如来は歯痛を治す信仰があるという。ここの石造物は粟野村の人たちが天保10年(1839)に千田村(現長南町千田)称念寺の歯吹如来像参拝記念に建てたものと思われる。「歯吹」は本来、「把富貴」と書かれるという。
侍道権現を祀る待道講は子供を産む年齢の女性たちに信仰された安産祈願の女人講である。
聖徳太子講は大工、左官など主に建築に関る職人たちの結ぶ講で、賃金の協定や職務上の申し合わせなどを行ったものである。」
<出羽三山講碑>
出羽三山講碑が8基と、拝殿左手に2基の計10基もあります。庚申塔群の横に並ぶ出羽三山講碑群です。

「羽黒山 月山 湯殿山 参拝記念」
昭和三十八(1963)年七月

「羽黒山 月山 湯殿山 参拝記念」
大正時代の造立。

「羽黒山 月山 湯殿山 参拝紀念碑」

「羽黒山 月山 湯殿山 参拝紀念碑」

「羽黒山 月山 湯殿山 三神社参拝」

「月山 湯殿山 羽黒山 西國三拾三ヶ所 秩父三拾四ヶ所 奉納供養」
明治三(1870)年の造立。針金で補強されています。


「月山 湯殿山 羽黒山 西國三十三所 秩父三十四所 坂東三十三所 奉納供養」
天保二(1831)年の造立。針金で補強されています。


「月山 湯殿山 羽黒山 西國三拾三所 秩父三拾四所 坂東三拾三所 奉納供養」
寛政八(1796)年の造立。


<歯吹如来像>
「天保十年十一月」「上総國千田村」
粟野村の人たちが天保10(1839)年に千田村(現長南町千田)称念寺の歯吹如来像参拝記念に建てたもの。



<聖徳太子講碑>
「安政四(1857)年十一月」 折れた補修跡があります。


<十九夜塔>
元禄十六(1702)年十月。

<粟野庚申講・粟野庚申塔群>




(説明板)
「鎌ケ谷市指定文化財第29号 粟野庚申講 無形民俗文化財
鎌ケ谷市指定文化財第30号 粟野庚申塔群 有形民俗文化財
・指定年月日 平成25年5月1日 所在地 鎌ケ谷粟野208
粟野は、祭礼やオコモリなど昔から続く民俗的行事が多く残っていて、地域の結びつきの強い地区です。その中でも、庚申講は、形を変えながらも江戸時代から現在まで継承されています。そして、庚申講により、江戸時代前期の元禄12年(1699)から314年間途切れることなく庚申塔が建てられ、しかも、文化12年(1815)から現在までの間(1845年と1850年をのぞく)は、5年おきに1基という規則性を守って建てられています。このことは、全国的にみても珍しい事例です。
粟野の庚申塔は、現在、八坂神社境内に44基と粟野保育園の北西角の路傍に1基、合計45基建っています。そのうち文化12年以前に建てられた塔は、当時の流行を反映していて、一か所で様々な形態を観察できる資料としても非常に貴重です。
平成25年7月 鎌ケ谷市教育委員会」

「庚申塔」
後列右から。宝暦二(1752)年。

「庚申板碑」
元禄十二(1699)年十月。下に三猿が刻まれています。

「庚申塔」

「庚申塔」
享保五(1720)年十月。三面の像です。

「庚申塔」
享保二十(1735)年十一月。

「庚申板碑」
右の板碑は、明和元(1754)年十一月。左の庚申塔は、寛政十一(1799)年。

「庚申塔」







「庚申塔」
後列左。


「庚申塔」
前列の新しいの庚申塔です。



「庚申塔」
一番左は、「令和二年十月吉日」。令和2年の最新の庚申塔です。
右隣は、平成27(2015)年10月造立の庚申塔です。


<参道小社>
参道左手と右手の小社です。



<狛犬>
「いにしえも 今も変らぬ わがさとの かを里も深き 八坂大神」


<拝殿>



<本殿>
本殿にも狛犬。




<駒形明神宮>
「文政庚辰霜月」「平成五年一月復元」
文政3(1820)年の造立で、平成5(1993)年の復元です。



<石祠>
「明和五歳(1768)十二月」


【拝殿左手】
<力石>
本殿の横に力石が二つあります。一つには重量と粟野村と刻まれています。



<出羽三山講碑>
「参拝昭和十二年五月二日、参拝昭和二十一年八月四日」
昭和39(1964)年の建立で、昭和12(197)年と昭和21(1946)年の参拝が刻まれています。




<出羽三山講碑>
昭和47(1972)年3月建立。

<天満宮/大杉神社>
2祠が並んでいます。平成17(2005)年6月再建。


<浅間神社>
少々小高くなった場所があり、石碑「浅間神社」があります。



<石尊社>
大山詣も行われていたようです。
「明治二十六(1893)年九月」の造立。


<不明/三峯神社/古峯神社>



蘇羽鷹神社(松戸市二ツ木)
○蘇羽鷹神社 松戸市二ツ木1732
蘇羽鷹(そばたか)神社は千葉氏の守護神として創建されました。国道6号線沿にあります。
<外観/手水舎/狛犬/拝殿・本殿>








<出羽三山供養塔>
「月山湯殿山羽黒山 坂東西國秩父 百番供養塔」
天保十一(1840)年四月、岡椿舎一友によって建立。右側面に造立趣旨が刻まれています。







<松尾芭蕉>
左側面に、芭蕉の句が刻まれています。
「松杉をほめてや風のかをる音 はせを」「岡椿舎一友建之」


<一友の句碑>
出羽三山供養塔を建てた、岡椿舎一友の句碑があります。
「棟上や餅も鏡もけふの月 岡椿舎一友」


【参道右】
石祠が並んでいます。

<姫宮>
千葉氏の小松姫祀る姫宮です。2つの松の根のコブが祀られています。

<忠魂碑>
大東亜戦争の忠魂碑で、昭和32年9月の建立。隣は日露戦争の個人の墓。


<小祠>


<庚申塔>

<大山阿夫利大神/富士嶽神社>



<大椙大神>

<庚申板碑>
元禄11(1698)年の板碑型庚申塔があります。

<成田山道標/成田山>
「成田山 十三里」文久三(1863)年。道標です。右隣に成田山石塔。


【参道左】
<力石>


<庚申堂>


<疱瘡神>

<庚申塔群>
庚申堂の後方にも、多くの庚申塔が祀られています。









【参道奥】
参道奥には、新築記念の碑、稲荷神社、公園(旧社殿跡・縄文時代前期遺跡「二ツ木向台遺跡」)があります。
<蘇羽鷹神社新築記念>
(碑文)
「蘇羽鷹神社新築記念
蘇羽鷹御神霊新社殿竣工を祝して
当社蘇羽鷹大明神は、中世の豪族千葉氏一族の守護神である 鎌倉大草紙 には千葉頼胤が小金に在った頃 萬満寺の前身大日寺を馬橋に開基したとある 以上の事柄から当地二ツ木台には千葉頼胤の居館があったと謂われる。当社が下総国の中世史を播く上で極めて重要な史跡と謂われる所以もそうした所にある
尤も当社の創立を明活十二年神名帳に見ると古老談として天正四年九月十九日とある 此れは今日残る万治元年宝暦七年及び焼失した文政十一年各棟札に鑑み該年が社伝再建の時期ともなる所からそれが創建伝承となったものであろう。
近世以降氏子一般の当社に対する崇敬は先の棟札境内石造物群等に知れる所であるが隣接三日月馬橋にも熱心な氏子の有った事を記しておきたい
特に昭和五十一年四月三十日夜当社は不審火により祝融の災いを受けた 然し此れを契機として氏子一般の蘇羽鷹神社への尊崇の念は従来に増して強くなり今日の立派な成果として具現した また旧社殿跡の縄文時代早期遺跡は関係者の努力で公園化に成功し保存の処置が講ぜられた
尽きない喜びの中で迎えた我等が鎮守の新社殿竣功に際し氏子一同此れも又御神威のなせる技と信じ只管御祝詞申上げ蘇羽鷹御心霊の安らかく栄えあらんことを併せて末永く不変の御神徳を遍く垂れさせ給えと心から祈るものである(以下略)」

<三峯・阿夫利・稲荷>
稲荷がメインのようです。

蘇羽鷹(そばたか)神社は千葉氏の守護神として創建されました。国道6号線沿にあります。
<外観/手水舎/狛犬/拝殿・本殿>








<出羽三山供養塔>
「月山湯殿山羽黒山 坂東西國秩父 百番供養塔」
天保十一(1840)年四月、岡椿舎一友によって建立。右側面に造立趣旨が刻まれています。







<松尾芭蕉>
左側面に、芭蕉の句が刻まれています。
「松杉をほめてや風のかをる音 はせを」「岡椿舎一友建之」


<一友の句碑>
出羽三山供養塔を建てた、岡椿舎一友の句碑があります。
「棟上や餅も鏡もけふの月 岡椿舎一友」


【参道右】
石祠が並んでいます。

<姫宮>
千葉氏の小松姫祀る姫宮です。2つの松の根のコブが祀られています。

<忠魂碑>
大東亜戦争の忠魂碑で、昭和32年9月の建立。隣は日露戦争の個人の墓。


<小祠>


<庚申塔>

<大山阿夫利大神/富士嶽神社>



<大椙大神>

<庚申板碑>
元禄11(1698)年の板碑型庚申塔があります。

<成田山道標/成田山>
「成田山 十三里」文久三(1863)年。道標です。右隣に成田山石塔。


【参道左】
<力石>


<庚申堂>


<疱瘡神>

<庚申塔群>
庚申堂の後方にも、多くの庚申塔が祀られています。









【参道奥】
参道奥には、新築記念の碑、稲荷神社、公園(旧社殿跡・縄文時代前期遺跡「二ツ木向台遺跡」)があります。
<蘇羽鷹神社新築記念>
(碑文)
「蘇羽鷹神社新築記念
蘇羽鷹御神霊新社殿竣工を祝して
当社蘇羽鷹大明神は、中世の豪族千葉氏一族の守護神である 鎌倉大草紙 には千葉頼胤が小金に在った頃 萬満寺の前身大日寺を馬橋に開基したとある 以上の事柄から当地二ツ木台には千葉頼胤の居館があったと謂われる。当社が下総国の中世史を播く上で極めて重要な史跡と謂われる所以もそうした所にある
尤も当社の創立を明活十二年神名帳に見ると古老談として天正四年九月十九日とある 此れは今日残る万治元年宝暦七年及び焼失した文政十一年各棟札に鑑み該年が社伝再建の時期ともなる所からそれが創建伝承となったものであろう。
近世以降氏子一般の当社に対する崇敬は先の棟札境内石造物群等に知れる所であるが隣接三日月馬橋にも熱心な氏子の有った事を記しておきたい
特に昭和五十一年四月三十日夜当社は不審火により祝融の災いを受けた 然し此れを契機として氏子一般の蘇羽鷹神社への尊崇の念は従来に増して強くなり今日の立派な成果として具現した また旧社殿跡の縄文時代早期遺跡は関係者の努力で公園化に成功し保存の処置が講ぜられた
尽きない喜びの中で迎えた我等が鎮守の新社殿竣功に際し氏子一同此れも又御神威のなせる技と信じ只管御祝詞申上げ蘇羽鷹御心霊の安らかく栄えあらんことを併せて末永く不変の御神徳を遍く垂れさせ給えと心から祈るものである(以下略)」

<三峯・阿夫利・稲荷>
稲荷がメインのようです。


出羽三山供養塔道標 花蔵院 (松戸市)
○出羽三山供養塔道標 松戸市岩瀬135-1
花蔵院前の路傍に、出羽三山供養塔など三基の石碑があります。



<出羽三山供養塔>
文化3(1806)年造立の道標を兼ねた出羽三山供養塔です。
正面「月山 湯殿山 羽黒山 大権現」
右面「左 金ヶ作 木下 成田 道」
根元で折れた補修跡があります。






<地蔵菩薩像>
元文3(1738)年造立の地蔵菩薩像です。

<大乗妙典経六十六部日本開国塔>
寛政3(1791)年造立の大乗妙典経六十六部日本開国塔です。

○光明山花蔵院 松戸市岩瀬134
出羽三山供養塔を見たついでに、花蔵院(けぞういん)に寄りました。
<山門>
山門右手に、役行者の石造物があります。



<鐘楼>

<蓮田稲荷大明神>
鐘楼の裏に「蓮田稲荷大明神」

<歓喜天堂>
第二十八番とあるので、何かの札所なのでしょう。



<無縁墓>
無縁墓前に、馬頭観音と庚申塔道標があります。

馬頭観音 天保3(1832)年。

庚申塔道標 寛政2(1790)年。


<六地蔵>

<大師像など>




<本堂>

花蔵院前の路傍に、出羽三山供養塔など三基の石碑があります。



<出羽三山供養塔>
文化3(1806)年造立の道標を兼ねた出羽三山供養塔です。
正面「月山 湯殿山 羽黒山 大権現」
右面「左 金ヶ作 木下 成田 道」
根元で折れた補修跡があります。






<地蔵菩薩像>
元文3(1738)年造立の地蔵菩薩像です。

<大乗妙典経六十六部日本開国塔>
寛政3(1791)年造立の大乗妙典経六十六部日本開国塔です。

○光明山花蔵院 松戸市岩瀬134
出羽三山供養塔を見たついでに、花蔵院(けぞういん)に寄りました。
<山門>
山門右手に、役行者の石造物があります。



<鐘楼>

<蓮田稲荷大明神>
鐘楼の裏に「蓮田稲荷大明神」

<歓喜天堂>
第二十八番とあるので、何かの札所なのでしょう。



<無縁墓>
無縁墓前に、馬頭観音と庚申塔道標があります。

馬頭観音 天保3(1832)年。

庚申塔道標 寛政2(1790)年。


<六地蔵>

<大師像など>




<本堂>

tag : 出羽三山
二十世紀が丘萩町(松戸) 出羽三山供養塔
○いちご公園 松戸市二十世紀が丘萩町38
松戸市二十世紀が丘萩町「いちご公園」に、出羽三山等供養等と庚申塔2基の、計3基の石造物があります。
大橋村の玄関口の四ツ辻(現:二十世紀が丘萩町10番地)にあった、庚申塔、供養塔を、昭和45年の二十世紀が丘土地区画整理事業により、「いちご公園」に移設したものです。(手賀沼と松ケ崎城の歴史を考える会会報を参照しました。)




<一本松の由来>
松戸市説明板「一本松の由来」(昭和46年)があります。記載内容に齟齬があるようなので、転記せず。

<出羽三山等供養塔>
「月山湯殿山羽黒山 秩父西國坂東 拝禮供養塔」
嘉永7(1854)年の造立です。
台石には「西 まつど/東 大はし/南 いち可わ/北 可祢かさく」と刻まれ、道標を兼ねているようですが、確認不能です。






<庚申塔(青面金剛)道標>
青面金剛立像、三猿の庚申塔です。明和6(1769)年の造立です。






道標を兼ねています。
(左面)「東 大はし/南 市可わ/北 金ヶさく/西 まつど 道」

<庚申塔(猿田彦大神)道標>
猿田彦大神を主尊とする庚申塔で、台石には三猿が刻まれています。天保3(1832)年の造立です。
(正面)「猿田彦大神」



道標を兼ねています。
(右面)「西 ま津と/東 大はし/南 いち可わ/北 可祢かさく 道」
松戸市二十世紀が丘萩町「いちご公園」に、出羽三山等供養等と庚申塔2基の、計3基の石造物があります。
大橋村の玄関口の四ツ辻(現:二十世紀が丘萩町10番地)にあった、庚申塔、供養塔を、昭和45年の二十世紀が丘土地区画整理事業により、「いちご公園」に移設したものです。(手賀沼と松ケ崎城の歴史を考える会会報を参照しました。)




<一本松の由来>
松戸市説明板「一本松の由来」(昭和46年)があります。記載内容に齟齬があるようなので、転記せず。

<出羽三山等供養塔>
「月山湯殿山羽黒山 秩父西國坂東 拝禮供養塔」
嘉永7(1854)年の造立です。
台石には「西 まつど/東 大はし/南 いち可わ/北 可祢かさく」と刻まれ、道標を兼ねているようですが、確認不能です。






<庚申塔(青面金剛)道標>
青面金剛立像、三猿の庚申塔です。明和6(1769)年の造立です。






道標を兼ねています。
(左面)「東 大はし/南 市可わ/北 金ヶさく/西 まつど 道」

<庚申塔(猿田彦大神)道標>
猿田彦大神を主尊とする庚申塔で、台石には三猿が刻まれています。天保3(1832)年の造立です。
(正面)「猿田彦大神」



道標を兼ねています。
(右面)「西 ま津と/東 大はし/南 いち可わ/北 可祢かさく 道」

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